先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「転換期のリーダー 徳川慶喜(後編)」 実業家・高田明、堀田茜、家近良樹、新井秀和…



出典:『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「転換期のリーダー 徳川慶喜(後編)」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「転換期のリーダー 徳川慶喜(後編)」[解][字]


今年は明治維新150年。その年の最後の月に江戸から明治の転換期の江戸幕府15代将軍・徳川慶喜を取り上げる。後編は将軍就任、大政奉還そして朝敵となった晩年を追う。


詳細情報

番組内容

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜。人々の期待を背負い将軍に就任したものの、大政奉還により一年でその座を去る。その後、朝敵として実に45年にも及ぶ「余生」を過ごした。その間、慶喜はひたすら沈黙を守り、趣味の世界に没頭したという。後編は地方の小さなカメラ店からテレビショッピングで全国規模の事業に拡大、その後あっさりと家業から引退した高田明が、栄光と転落の人生ともいえる慶喜の晩年を読み解く。他のゲスト堀田茜

出演者

【出演】実業家…高田明,堀田茜,大阪経済大学特別招請教授…家近良樹,【司会】新井秀和




『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「転換期のリーダー 徳川慶喜(後編)」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「転換期のリーダー 徳川慶喜(後編)」
  1. 慶喜
  2. 自分
  3. 大事
  4. 思います
  5. リーダー
  6. 思いますね
  7. 周り
  8. 将軍
  9. 人生
  10. 堀田


『先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)「転換期のリーダー 徳川慶喜(後編)」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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♬~

部下があってこそのトップですから
お忘れなく。

黒船の出現により
日本は200年の眠りから覚め

近代への道を走り出しました。

この一大転換期 「幕末」に
さっそうと登場したのが

幕府最後の切り札 徳川慶喜でした。

「家康の再来」とまで言われたほど
名君という触れ込みでしたが

どうも調べていくと

かなり悪口を
言われていたことが分かってきました。

剛情公とは文字どおり
とにかく剛情な性格で

1度言い出すと聞かなかったそうです。

フタゴコロの殿様とは
これまた随分な言われようですが…。

幕府のほとんどの人が 慶喜のことを…。

…と 疑いを持って見ていました。

慶喜をよく知る 会津藩の松平容保が
兄に宛てた手紙に

次のような一節があります。

ころころ変わる方針に振り回されるのは
もう うんざり。

万事こんな感じのリーダーなので 次第に
周りから人が離れていってしまいます。

ついには 将軍に就任して僅か1年で
徳川260年の歴史に幕を下ろすという

不名誉な結果を招いてしまいました。

「朝敵」として処刑されることは
免れたものの

31歳にして天下人から
一市民になってしまった慶喜。

そこから長い隠居生活が
始まります。

慶喜は ひたすら趣味の世界に没頭して
過ごします。

栄光と転落の人生。

そこから どんな知恵を
学ぶことができるでしょうか。

今夜 先人の知恵を読み解くのは…

長崎・佐世保の町のカメラ店から出発し

48歳で通信販売の世界へと打って出ると

18年かけて 年商1, 700億円を越える
企業へと育て上げました。

2015年 順調な業績の中
66歳で社長を退任する決断をします。

会長には就かず 経営は新社長に任せて
完全にノータッチ。

現在 取り組んでいるのは

経営不振に陥っていた 地元長崎の
サッカーチームの立て直しです。

高田さんから ふるさとへの
ささやかな恩返し。

こんな高田さんの目に
味方に信頼されなかったリーダー慶喜

その晩年の過ごし方は
どう映るのでしょうか。

♬~

15代将軍 徳川慶喜ということでしたけど
随分ひどいこと 言われてましたよね。

剛情で二枚舌。
すごい言われようでしたね。

どうですか? 堀田さん
剛情で二枚舌な男。

いや 絶対嫌ですよね。 やっぱ
頑固な人って難しいなと思います。

でもリーダーとしては
大事な要素ではありますよね。

ちなみに周りに
そういう方っていますか?
いますね。

名前 言って下さい。
名前は言えないですけど。

でも自分を貫くっていう意味では
剛情っていうのは すごいなとは思います。

高田さんは 社内で周りから あだ名の
ようなもので呼ばれたりはするんですか?

あだ名は なかったですね。
あっ そうですか。

呼んでくれませんでした。
寂しいもんですか? それはそれで。

でも厳しい社長だね とは言われましたね。

社員とは すごくファミリーみたいに
ずっとやってきましたから。

でも この前ですね
30年ぐらい勤めてる子が…

…って言われて ビクッてしましたけどね。

でも社長に
そうやって言えるっていうことが

その人は もしかしたら
感謝してるかもしれないですよね。

本当に憎かったら そんなこと
言わないかもしれないですよね。

すてきな関係性ですよね。
うらやましいですよね。

さあ 今日のメニューご用意したのは
こちらなんです。 ドン。

実はですね 慶喜は
この「豚一」という あだ名を付けられて

陰口をたたかれていた
ということなんですよ。

要するに 一橋にかけてるわけですよ。
豚の好きな一橋。

慶喜の出身の家の一橋家の「一」に
「豚」ということなんですよね。

当時 豚肉って…。
肉を食べない

そういう食べる文化 日本にはもう
あまりなかったじゃないですか。

慶喜という人は
ほんとこれ 面白いんですよ。

けがれという観念が あまりないんですよ。

いわゆる獣を食べると けがれるという
のは一般的に考えがちなんですけど

慶喜は うまいものはうまいじゃないか
という考え方ですよね。

好きなものをね
好きなだけ食べていたという。

慶喜 何が好きだったのか。
それをまとめたのが

今日の この
「店主の特製 豚一丼!」なんですよ。

こちらなんです。
どうぞ どうぞ どうぞ。

好物だったというものが
3つのってるんですね。

豚肉 その隣 かつお節
そして べったら漬けと。

どうぞ 召し上がって下さい。
(堀田)いただきま~す。

う~ん おいしい。

皆さん やっぱり
あした健康に暮らしたいですよね。

健康志向だったってことですか?
豚一さんは。

これにはビタミンB1が
豊富に含まれてますしね

かつお節や べったら漬けも
体にいいなんて言われますから

これを食べれば 慶喜のように
長生きできるかもしれない。

そんな期待されて期待されて
ついに将軍になった慶喜なんですが

なぜか 人々の期待を裏切ることに
なってしまったそうなんですね。

食べながら見ていきましょうか。

幕末の日本。

外圧 内乱 暗殺と
混乱の極みにありました。

そんな中 登場した
15代将軍 徳川慶喜は

徳川家の救世主として
期待を一身にまとってデビュー。

ところが どうしたことでしょう。

周りから どんどん仲間が
逃げるように去って行ってしまいます。

例えば 島津久光。

一時は慶喜を「将軍後見職」に推薦するほど
ほれ込んでいたのですが。

なんと! すっかり愛想を尽かし
鹿児島へと帰ってしまいます。

原因は
会議で意見が対立した際

慶喜が ひどくののしり
久光を怒らせてしまったから。

「剛情公・慶喜」の面目躍如と
言っていいのかどうか…。

久光は 1年後にもまだ…

…と悩むほど
そのショックは大きかった様子。

その後 薩摩藩は
一気に「倒幕」に傾くことになりました。

孤立していく慶喜。
それが たたって

260年続いた 徳川の天下を
守ることはできず

最後の将軍になってしまったのです。

期待を大いに裏切る結果となった
慶喜の治世。

彼の失敗から
今日 最初の知恵を見てみましょう。

慶応2年 第二次長州戦争が勃発。

幕府に対して反抗的な長州藩に
キツ~イお灸を据えて

幕府の権威を世に示すのが
目的でした。

この戦争が 長州への恨みからではなく

勅諚 天皇のお墨付きをもらえるよう
公家たちに手を回します。

ところが僅か4日後。

「戦況不利」との知らせに接した慶喜は
いきなり出陣中止を宣言。

幕臣 勝 海舟を長州に行かせて
休戦交渉をさせるという

情けない終結のしかた。

敵前逃亡ともいえる この慶喜の心変わり。

勅諚を強引に手配した公家たちが

責任を問われて失脚。

慶喜の「二心」のせいで 朝廷は
これ以後 離れていってしまいます。

…と考えたのかどうか。

でも 説明がないので
ほら みんな怒ってますよ。

決定的だったのが 「大政奉還」。

身内である幕臣や旗本たちも
離れていってしまいました。

この提案を持ち込んだのは 土佐藩でした。

早い話が 将軍を辞職し幕府を解散。

徳川家は 他の大名と横並びになれという
失礼な話です。

将軍様…

ところが慶喜 誰にも相談せずに
わずか2日考えただけで

「受諾」の意思を表明します。

…などと お考えだったのかも
しれませんが

事前に幕府の関係者に その真意を説明し
理解を求めることもできたのに…。

更に。 慶喜は庶民からも
そっぽを向かれてしまいます。

開国以来 人々の間では 幕府への
恨みつらみが たまっていたのです。

例えば コレラが入ってきて

江戸では 数万人の感染者が出る
大惨事となりましたが

慶喜は 何ら救済策を打ちませんでした。

開国以来 米や衣類といった生活物資を
外国が買い占め 物価も上がりっぱなし。

暮らし向きは苦しくなる一方。

そんなことは どこ吹く風とばかりに
慶喜は長州戦争を仕掛け

事態を更に悪化させてしまいます。

大名たちが 兵糧にする米を
買い占めたため

米価は5倍にも跳ね上がり
餓死者が出る始末。

それでも慶喜からは
何の救済措置も行われませんでした。

怒った民衆が各地で暴動を起こし
世相は不安定になる一方。

かつて慶喜を将軍にするために
建白書まで書いた松平春嶽は

こんな言葉を残しています。

自信過剰で
他人のことはお構いなし?

「家康の再来」とまで言われた
期待のホープは その性格が災いし

結局 徳川最後の将軍として
人々の記憶に残ることになったのです。

他人の心が読めていないという
感じですかね。 どうですか?

…じゃなきゃいけないとは
思いますけど

大政奉還みたいな時に 思い切った決断も
大事だとは思いますけど

それで部下が離れちゃうと
勢いもなくなっちゃいますし

難しいところだけど もっと他に
できたんじゃないかなとは思いますね。

幕府内でも
孤立気味だったということですね。

そうかといって 一橋家出身の慶喜では
有力な人材も周りにいないし

一方 有力な藩の支持を
失っていくという

非常に孤立状況になっていった
ということですね。

民衆の気持ちが分からなかったっていう。

だって 情けないこととか つらいこととか
みじめなこと 同じことですけどね

そういうものを知って
初めて分かるんじゃないですか

人の心の痛みとか。
全くないんですもん そんなもん。

みんなが頑張って お米作ってるとか
商売して 税金を納めてるとか

そういう意識は なかったんですか?

その点でね やっぱり
押さえておかないといけないのは…

ところが…

実際に土地は 一部持ってますけど
ほとんど持ってないんですね。

そうしたら民衆の労働とか
見てないわけですよ。

そこで農民 民衆の民 百姓のことに
理解を示せるような人間が

生まれるというのは ものすごく
難しいですね。 それは そう思いますね。

僕 今
サッカーに関わっているんですけど

やっぱりファン サポーターとか
選手を応援してくれる人 その気持ちを

我々 選手 監督 スタッフ それに関わる人は
それを一番に考えていかないと

勝ち負けだったら
ファンは離れていくんですよ。

勝ち負けも大事だけど
本当は 感動とか喜びとか涙とか

そういうものを試合の中で 一生懸命
表していくっていう事が一番大事だから

何の世界でも それは対極を大事にする
っていうことは大事だと思います。

めちゃめちゃ大事だと思いますね。

お話は違いますけど ファンの方がいて
この仕事ができてるわけですし

見てくれてる人がいないと 何のために
やってるか分からなくなっちゃうので

やっぱそういう人 ファンの方たちの
ことを考えて 日々やらないと

どこかで つまずいてしまうというか
よくないと思います。

慶喜はね 初代将軍の家康の再来と
言われて恐れられたわけですよ。

ただ家康と決定的に違うのはね
家康は創業者なんですよ。

で ものすごい苦労して
はい上がってきたわけですよ。

対民衆政策とか 朝廷との関係とか
ものすごくリアルに認識してきたんですよ。

慶喜はね
だから 民衆のことというのは

彼が創業者であったか否か
みたいなところが

大きく関係してると思いますね。

残念ですけど それはしかたないですよ。
やっぱ 坊ちゃんで来たらね。

だから会社も 創業期と
創業する人と 成長する人

安定期に入るっていうので 全然
経営者の姿は変わってくるんですよ。

創業した人が 安定期に
成功するかといったら しないんです。

世の中が どんどん変わっていけば
リーダーの役割が変わるということで

リーダーは その企業でいけば
どのステージにあるかで

リーダーの役割は 全部変わってきます。

私の時には どちらかっていったら
「この指とまって」っていうんで

みんな背中 いつの間にか見て
一緒に走ろうねってやって来たのが

僕の時代なんですけど。

でも どうなんですか? 経営者というのは
覚悟が必要といいますか

その時々で 他の人の判断を
聞いてる場合じゃないという時も

あると思うんですけれども。

例えば僕は
テレビショッピングっていいますけど

スタジオを作ったことが
今の会社があると思ってるんですよ。

今例えば このお酒を商談しました。
今日の朝 バイヤーが商談して

スタジオがあったら
今日の夕方 放送できる。

これ スタジオなかったら 制作どこに
しましょうか 編集どうしますって

1か月かかった時には
もう商品の価値が落ちてるという。

じゃあスピードを高めるには 早めるには
どうしたらいいかっていったら

自分でスタジオを持とうと思って。

でも仮に スタジオを作りたいって
周りに相談したら

どんな反応が予想されました?
みんな反対でした。

できるわけないですね。 だって
カメラマン1人 いないんですから。

最初は全然 建物は作っても
人はどうするんだって

そりゃそうですよね。

でも それも覚悟がいるんです。

あんまり先ばかり考えても ちょっと
駄目なんじゃないかと思いますね。

明確なビジョンを持って そこに向かって
日々頑張っていくということなんですね。

はい。 だから慶喜の判断は つどつどの
状況が もうこんなに変わってる中での

つどつどの中で ここだっていう瞬間を
覚悟を決めて判断したと。

それでその時には 先のことも
こうなるかなと予測しながら

ならなかったら また次の日に別の判断を
する可能性もあったかもしれないと思う。

じゃあ慶喜は みんなに分かりやすく
説明したらよかったんですかね。

自分の思いを。
報連相が大事ですよね。

一緒になってやってるわけじゃないですか
みんなで。

だから こういう考えで
こういうふうに思ったから

こういうことをやるんだけど
どう思うっていう

一連の報連相があっての決断だったら
すごく一体感があって

もっといい方向になったんじゃないかな。
報連相で 意見が真っ二つに分かれたら

どう繰り返しても 解決できなかったら
どうします?

そしたら リーダーが
そこは いろんな意見を聞いて

正しいと思ったことを決めれば。

最終的にはリーダーに託すという
決めること それの過程ですね。

はい そうです。

日本の言葉で
「和をもって貴しとなす」と言うけど

本当は 和をもって貴しとなされない
時代ってあるんですよ 判断がですね。

全てが それでやってたら
トップの役割は果たせないっていう。

だから…

そこの部分を 慶喜は考えながら
判断したんじゃないかなと思う。

それでも 江戸城無血開城しましても

そのあと戊辰戦争で 東北北陸の31藩が
戦争して 五稜郭でやられるまで

そうとう犠牲者を出しましたよね。

ああいうところ
止められなかったっていうところに

無念さが
すごくあったのかもしれませんし。

私ね もっと過激なんですけどね
会津藩なんかを救えたのはね

慶喜がね 自分が全ての責任を負って
自決する。

こういう選択肢がね
侍の時代においてはね

私は よかったんじゃないかなと
思いますね。

やっぱり命を惜しんだということが

二次被害 三次被害をもたらしたかな
っていう面もあると思いますよね。

だって 大久保利通とか西郷が
一番求めたのが慶喜の命なんですよ。

ま それは「自分は朝敵じゃない」という
気持ちあるからね。

しかも彼 若いですから
それを拒否していったんでしょうけどね。

そういう選択肢もあったと思います。
そこまで体を張ると。

体を張るどころの
騒ぎじゃないですけどね。
でも 坊ちゃんには無理です。

そうだったのかもしれません。

将軍の座を自ら降りた慶喜。

その後 鳥羽伏見の戦いが勃発します。

(発砲音)

戦火を逃れ 船で敵前逃亡したことで

慶喜の評価は
一気に下がってしまいました。

会津藩などが 武士の誇りと名誉を懸けて
戦い続ける中

慶喜は さっさと新政府軍に
江戸を明け渡し

ひたすら恭順の姿勢を貫きます。

それでも容赦なく 慶喜を「朝敵」として
追い詰める新政府軍。

勝 海舟 山岡鉄舟ら 旧幕臣による
懸命な助命嘆願により

なんとか死刑は免れましたが

明治維新後 慶喜の身柄は静岡に移され

徳川宗家 監視の下で
隠居暮らしを強いられました。

「徳川を潰した男」などと 心ない言葉を
浴びせられることもあったといいます。

深い失意の中で なりを潜めて

幕府時代の日記や記録は全て焼き払い
沈黙を貫く慶喜。

幕府時代の知り合いが訪ねてきても
会うこともなく

唯一 腹心の部下だった
渋沢栄一だけは出入りしていましたが

話題が昨今の世の中のことに及ぶと
慶喜は口をつぐむのでした。

そこで 屈辱ともいえる日々を過ごした
慶喜に学ぶ 今夜二つ目の知恵。

では慶喜は 長い1日を
どのように過ごしていたのでしょう?

例えば 狩猟。

あるいは 持ち前の
運動神経を生かして 大弓。

まだ国内に珍しかった
自転車も乗り回しました。

そう。 慶喜は ひたすら趣味の
世界に没頭していったのです。

新しいものが大好きだった慶喜は

写真撮影や油絵
それに 刺しゅうにも熱を上げます。

生まれつき器用だったためか
腕も上がって

玄人はだしのレベルに
達したものもありました。

なぜ慶喜は 徹底的に趣味の世界に
のめり込んでいったのか。

(発砲音)

明治維新で生まれた新しい日本は
まだまだ政情不安定。

不満を抱く士族が
各地で反乱を起こしていました。

江藤新平や 西郷隆盛など

維新の英雄が 逆賊の汚名をまとって

生涯を終えていきます。

慶喜は 自分は絶対にそうはなるまいと
考えていたのではないか。

研究者の永井 博さんは指摘します。

そういった中で…

一つには…

…ということが まず第一であったことと
それから やはり…

本当に文字どおり距離をおいた中で…

…というふうに思います。

自分の うかつなひと言が原因となって
旧幕臣たちが蜂起し

東京が火の海になるようなことが
あってはならない。

慶喜は 常に心を戒めていたというのです。

こうした暮らしが30年も続いた明治31年。

徳川を潰した男に
汚名返上の日がやって来ました。

慶喜の母方の親戚である
有栖川宮威仁親王の仲介により

明治天皇に拝謁する機会を得たのです。

場所は 旧江戸城。 昭憲皇后自ら
慶喜にワインをすすめ

和やかに懇談したといいます。

ひたすら沈黙を守り続けた末 ここに
慶喜の名誉は完全に回復されたのでした。

東京の中心 日本橋です。

人々の行き交う 五街道の出発点。

欄干の文字は 慶喜によるもの。

明治44年
当時の東京市長が依頼しました。

その理由を こう語っています。

その2年後の大正2年 徳川慶喜 死去。

葬儀には 6, 000人以上が参列。

最後の将軍は 江戸っ子に見送られ
76歳の生涯を終えました。

う~ん。 ということでね

毎日趣味に没頭していた元将軍
ですけれども どうですか? 堀田さん。

すごく潔いですし 何か見てて
気持ちいいなっていう感じはしましたね。

今までの生活と もう180度
日々が変わるわけじゃないですか。

パッとやめて

自分の人生を
最後まで大切にしている感じが

すごくいいなと思いましたね。 はい。
う~ん。

写真はね 好きなんですよ。

多分ね 慶喜の趣味の中でね
最も長続きしたね 趣味だと思います。

で おかしいんですけどね
カメラアングルって やっぱりあるんですよね。

そうするとね この角度がいいと思ったら
田畑の中に入っていくんですよ。

普通はね 植えてるじゃないですか。
稲作もやってるでしょ。

で それをね 見とった農民がね
文句言うんですよね。

そりゃそうでしょ?
そしたら分からないんですよ。

「なぜ あの者たちは
何を騒いでいるのか?」。

(笑い声)

非常識な部分が。
そうですね。

坊ちゃん。
育ちのいい坊ちゃんなんですよね。

僕も もう会社から完全に引きまして
もう4年近くなるんです。

籍がもう置いてないんですからね 全く。
そうですか。

4年近くで 会議も1回も出てませんし
まあ あとはもう見守っていく。

まあ それだけ
事業を全部譲渡したんだから

僕が 例えば そこに残れば
やっぱり周りの人は社長を据えても

どっちを見てくるかってなれば
社長の判断とかを やっぱ させることに

迷いが出るから
全く いなくなった方がいいし

やっぱり 今の時代に沿った
若い人の経営手腕というのを。

まあ…

でも しっかり見てて…

でも そこまで割り切れるのは
どうしてなんですか?

何か心配な部分もあると思うんですけど。

いや でも人生って
そこだけじゃないじゃないですか。

辞めた4年間も いつの間にかサッカーに
関わるなんて 誰も思ってないですよ。

そうですよね。
だから結構 一生懸命生きていたら

やることは いっぱい
次から次へと くるんですよ。

で 今年の方が 僕70年で一番忙しいです。
あ そうですか。

だから 生きてたら
もう あれもやりたい

これもやらなきゃいけないっていうことが
どんどん出てくるから

だから人生面白いんですよ。
本当にそう思います はい。

何でも 関心を持ったら
人生 面白いですよね。

学ぼうという気持ちはね
意外に衰えませんね。

衰えないですね 本当に。

むしろ若い時の方がね
時間を無駄にしてましたね。

やっぱり 残された時間が

すごく少なくなったっていう
自覚もあるんですね。

それから慶喜のことで言いますとね
敗北したじゃないですか。

だから私ね やっぱ慶喜がね

助命嘆願になって
助かったじゃないですか。

恐らく彼ね 人生であんなに
うれしかった時なかったと思いますよ。

「助かった」という。

それはね 追い詰められ方が
ひどかったでしょう。

あの時の慶喜がね
「すっごく助かった~」という。

だから これに勝る喜びはないから
このあとはね もういいという。

だから中途半端な敗北は だめですね。

負けるんだったら とことん負ける。
中途半端な負け方は言い訳するんですよ。

でも ご本人は あまり自分自身のことは
語られなかったんですよね?

そうです そうですね。
それは どうしてですか?

それはね 多分ね いろんなことで
迷惑がかかるということですよね。

いろんなね 言いたいことは
いっぱいあると思いますよ。

だけど明治の政府は 薩長を中心に
しながら 権力を握ってるじゃないですか。

そういうところに あるいは天皇に対して
迷惑が及ぶというね。

ずっと引きずってますから 周りがね全部。

そこまで考えて
やっぱり発言を控えていたという。

それと 権力を失った今の自分の立場を
考えているんでしょうね。

一方ではね やっぱり彼はね
ああいう形で新政府から…

…と思いますよ。
というのは何か言いましたら

ヨーロッパ諸国とね
外交をやる時はね

トップに立ってね
対応できる人間がいないといけないです。

その点では慶喜はね
外国公使も認めてるように

やっぱり 堂々たる外交交渉が
できたと思いますね。

その点ではね 新しくできた政府の
外交担当なんかしたら

すばらしかったとは思いますけどね。

だから 慶喜というのはね
いろんな評価を下せると思うんですよ。

そこが 慶喜の面白いところでしょうね。

人によって それぞれの評価が違ってくる。
こんな人いませんよ そんなに。

う~ん 余生っていうことで言うとね
堀田さんの年齢から見ても

そう先の話じゃないわけですよね。
慶喜は31でもうね 隠居生活。

5年後。 は~。

どうなんですか? 堀田さんは
今後の人生プランっていうか。

でも やっぱり
バリバリまだ仕事はしたくて

30前半に こう結婚ができればいいなって
思ってるんですけど

子供産んで で 子供が大きくなったら
ちょっと仕事復活してっていうのが

すごいもう 自分の
ライフプランの中であるんですけど

う~ん
うまくいくか分かんないんですけどね

とりあえず ざっくりこう紙に書いて
書き出すようにしてます。

全部描いてらっしゃる。
モデルさんって 今 26歳ですか。

そこで輝いてる年齢ってあるんだけど
人の顔っていうのは

もう年いけば
自分で作っていくものですよね。

だから 50歳でも70歳でも

ものすごく魅力的な女優さんが
いらっしゃるとかっていうのは

やっぱり生きてきた年輪とか
努力の積み重ねが

その人の顔とか言葉を作っていくから

今は 多分100まで生きますよ。
あ~ 生きたい。

十分生きますよ 26の人は頑張ったら。
ほんとですか?

頑張りましょう。
頑張ります。 100歳まで。

僕 もっと生きるようにしてますよ。
うわ すごい。

117歳までと思ってます。
究極の前向きの考え方ですね。

男性平均寿命が81ですよ。 81です。
女性が87ぐらいなんですよ。

あと11年だったら さみしいでしょう?
さみしいです。

そしたら もう…

もっといい人生。
だって あと47年生きるっていったら。

もしかしたら5年ぐらいかもしれないって
言う人もいるんだけど

それは それでいいです。 分かんないから。
だから 一生懸命生きてることの中で

自分が117だと思っていたら
100まで生かされる自分がいるかなって

そう思って生きることが大事だと思う。
気持ちは大事ですよね。

絶対に。
うん。

だから 彼はね
長生きできたのは 一つはね

好奇心が ものすごい旺盛なんですよ。

だから 親族からね
ソフトクリームを作る機械を

輸入品を もらってるんですよ。
もう それで すぐ食べてるんですよ。

自動車が入ってきた時も

日本で最も早い段階で
それに乗ったりしてるんですよ。

もちろん 自転車もそうですしね。
だから その好奇心旺盛。 それから…

今の新しい時代。
文明のね 恩恵を受けてる。

慶喜は その後ですね
世の中と距離をおいて

暮らしているわけですけれども
引退後 世の中は

慶喜の思いどおりになっていったと
いうふうに考えられるんですかね?

それはね 非常に面白いなと思うのは
盤石だと思われていた幕府の支配ね

徳川家の支配が滅んだのを
実際に自分で体験しているわけでしょ。

そうするとね…

非常に数少ない日本人。

それが慶喜じゃなかったかなと思います。

今日はね いろんな呼び名をね
見てきましたけれども…

…とありましたけれども
何か もう一つあるんですって?

(新井 堀田)独木公?

やっぱり孤独ということでしょう。

孤独は孤独だったと思いますね。

それはね 非常に孤独だということと
変わり身が早いという。

「二心殿」でも そうなんですけどね

批判的な言葉に
なるかもしれませんけどね

それは 裏返せばね…

…の反映でもあるし
もう一つはね やっぱり…

…の持ち主でもあったと
いうことじゃないですかね。

やっぱり 1人で決断するというのはね

当然いろんな意味で
批判も受けるんですけどね

やっぱり その強さがないと。
流される人間では絶対できないですよ。

だから慶喜というのは やっぱり
流されない人間だったんでしょうね。

慶喜が流されなかった。 それが我々の
今の現代にも つながってるんでしょう。

つまり 大政奉還した。
その結果 内乱の危険性を免れた。

下手したら 欧米諸国の介入をね
招いたかも分からないですよ。

しかし 同時に会津藩なんかの方にね
犠牲なんかを強いたみたいな。

いろんなことが 我々にもたらされてきた。

だから…

…だと断言しても
間違いないと思いますよ。  う~ん。

どうですか? 堀田さん
地位や権力に しがみつかないで

悠然と趣味を生きる男性って?

最後まで 自分の人生と向き合って
大事にするって

やっぱ一人の人として
すごく尊敬できるし

本当に たくさん慶喜から
いろんなことを学べました。 はい。

徳川慶喜 見てまいりましたけれども
高田さん 今の こういう生き方って

例えば 奥様は
どうやって ご覧になってるんですか?

「でも よう動くなあ」って。
(笑い声)

「ちょっと止まったら?」とか
言われますけど まあ性分ですよね。

関西行ったりね 中部に行ったり。

で サッカーでは よその試合を
全部見に行くという。

まあ あんまり行かないとか
動かなかったら

結構 今動いてる分の半分ぐらいは
楽もできるかもしれませんけど

やってたら あそこも ちょっと行きたい
ここも行きたい みんなと話したい

こんなことやりたいって思うでしょ。
だから性分です。

うん。 でも それが習慣化してくれば
そんなに きついと思わないっていう。

だから 例えばお店を 「すいません
こちらのお店が暇です」と言う。

そしたら 「暇だもんね~」って
言っている時は

やっぱり 動いてないのかなと。

暇だから どうしたらいいかって考えたら
アイデアがいっぱい出てきて

あれも これもっつったら
外に出て行き出したらですね

もう黙っても暇がないんですよ。

もうちょっと料理を作ろうと思ったら
作る人が要るじゃないですか。

ちょっとお酒の種類も増やそうと思ったら
仕入れの話しなきゃいけないでしょ。

で そういう中で
お客さんが どんどん増えてくるでしょ。

まあ それがいいかどうか分かりません。
今の時代は働き方うんぬんって言って

そう言ってたら もう今はだめだよって
言うところもあるんですけど

もちろんメリハリをつけてね
やっぱり遊ぶ時は遊ぶ。

余暇を楽しむ時は楽しむという。
頑張る時には頑張るっていう。

そっか いろんなヒントを頂きますね
今日はね。

堀田さん自身は 老後はどうしますか?

ちょっと先の話かな?
そうですね。

でも すてきな旦那さんと
南の島で のんびり暮らしたいですね。

もしよかったら このお店に
また入って頂いてもいいんですけど。

時間があれば そこにまた立って
お手伝いさせて頂くので。

無理しない方がいいですよ。
(笑い声)


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