天皇 運命の物語 第2話「いつもふたりで」 日本中が沸いた「世紀のご成婚」。その裏には、みずから人生を切り開こうと…


出典:『天皇 運命の物語 第2話「いつもふたりで」』の番組情報(EPGから引用)


天皇 運命の物語 第2話「いつもふたりで」[字]


日本中が沸いた「世紀のご成婚」。その裏には、みずから人生を切り開こうとする皇太子の強い決意があった。貴重な映像と証言でたどる、学生時代から即位までの物語。


詳細情報

番組内容

日本中が沸いた「世紀のご成婚」。その裏には、みずから人生を切り開こうとする皇太子の強い決意があった。3000本以上の皇室映像に記録された肉声から浮かびあがる皇太子夫妻の素顔とは。貴重な証言や資料からひも解く一代記。

出演者

【語り】山根基世,【朗読】原康義,坂口芳貞



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天皇 運命の物語 第2話「いつもふたりで」
  1. 皇太子
  2. 美智子
  3. 訪問
  4. 沖縄
  5. 結婚
  6. 皇太子夫妻
  7. 昭和
  8. 当時
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  10. 皇太子殿下


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「まことに お幸せそう
まことに ご幸福そう。

本当に 晴れ晴れとしたお顔の
お二方でございます」。

今から59年前
日本中が沸いた世紀のご成婚。

その裏には 皇太子自ら
人生を切り開こうとする

強い決意があった。

今回 NHKは
初代宮内庁長官の日記を入手。

8年以上にわたった お妃探しの

詳細な舞台裏が明らかになった。

更に
3, 000本以上の皇室映像に記録された

肉声から浮かび上がる皇太子夫妻の素顔。

「天皇 運命の物語」。

学生時代から即位までのおよそ30年。

その激動の道のりとは。

♬~

物語の始まりは昭和32年。

皇太子は 23歳になっていた。

サークル仲間とテニスをするのが
皇太子の楽しみの一つだった。

「チャブ」は皇太子のニックネーム。

日焼けした肌が
蚊取り線香を入れる

豚の置物の色に似ているとして
付けられたという。

(取材者)こんにちは。
ひとつ よろしくお願いします。

テニス仲間だった
2つ年下の織田和雄さん。

中学からのつきあいだ。

テニス仲間は同級生ら独身男性16人。

大企業の社長や著名人の息子も
そのメンバーだ。

ちなみに織田さんの父親は
三段跳びの陸上選手。

日本人初の
オリンピック金メダリストだ。

明仁親王殿下。

皇太子を筆頭とした この会。

サークル名は ラテン語で
オオカミという意味のルプス会だった。

♬「わたしのママが言いました」

♬「男は みんな狼よ」

そのオオカミをラテン語にしようと

提案したのが
皇太子だった。

このころ テレビ 洗濯機 冷蔵庫が
三種の神器と呼ばれ

大ブームになっていた。

日本は まさに
高度経済成長期に入っていた。

そして世間では
ある話題に関心が集まっていた。

「皇太子殿下は 12月23日
満21歳の誕生日をお迎えになりました」。

年頃になった皇太子が
いつ 誰と結婚するのか

注目されていたのだ。

「健やかに成長された皇太子殿下を
巡って

来年は ご婚約の問題に
明るい話題が集まることでしょう」。

当時 学習院大学に通っていた皇太子。

卒業式に出席した際
父母総代から

「早く立派な妃殿下を」と
激励される一幕もあった。

皇太子の結婚を巡る報道も
加熱していった。

数々の雑誌が創刊され

誰が候補なのか
予想する特集が組まれた。

新聞社も取材に熱が入っていた。

当時 毎日新聞の若手記者だった

関 千枝子さん。

スクープを取ろうと
取材班が立ち上げられた。

取材班は まず
旧華族から調べ始めたという。

候補者は数百人に上ると見ていた。

今回 私たちは 宮内庁が進めた
お妃選びの過程が

詳しく記された日記を入手した。

書いたのは田島道治。

4年半 宮内庁長官を務め
その後も お妃選びの中心にいた人物だ。

読み解いてもらったのは

宮中の歴史に詳しい茶谷誠一准教授。

日記に お妃選びの記述が出てくるのは
昭和25年9月。

以降 皇太子教育を任されていた
小泉信三をはじめ

宮内庁幹部や側近らによって

秘密裏に検討が続けられてきた。

以前 小泉は 皇太子本人から

理想の結婚相手について こう聞いていた。

「旧皇室典範」。

戦前 皇太子の結婚相手は
皇族と一部の華族に限るとされていた。

皇族の結婚に詳しい森 暢平教授。

お妃選びは 当初
戦前のやり方で進められたと考えている。

田島の日記からも 旧華族から

お妃候補を検討し始めた事実が
浮かび上がってきた。

昭和30年10月16日。

旧華族の ある令嬢を
お妃候補として調査を進める。

しかし その令嬢は
ほかの男性と婚約してしまう。

続く昭和32年4月4日。

昭和天皇が了承した
別の候補者 Oをあたった。

しかし 後日 断られる。

「離れるのはいや。 全員反対」。

その後も
別の候補者を立てるが

いずれもうまくいかず
お妃選びは難航した。

皇太子が大学教育を終えて
1年余りがたった このころ。

軽井沢で運命の出会いをすることになる。

それは
テニストーナメントでのことだった。

(取材者)よろしくお願いいたします。

皇太子とペアを組んだ男性に
会うことができた。

石塚研二さん。
当時 早稲田大学3年生だった。

発表されたトーナメント表。

そこでペアを組む相手を初めて知った。

皇太子・石塚ペアは順調に勝ち上がり
4回戦を迎える。

対戦相手は ある女性と
12歳のアメリカ人少年だった。

女性は
軽井沢では よく知られた存在だった。

基本 皇室関係のは…

この写真は
彼女が10代の時に

撮影されたものだ。

女性の名は 正田美智子さん。

皇太子とは これが初対面だった。

美智子さんは社長令嬢。

聖心女子大学を卒業したばかりの
22歳だった。

皇太子ペア 対 美智子さんペア。

注目の試合が始まった。

第1セット
まずは 皇太子ペアが6-4で先取。

しかし 第2セットは
5-7で競り負けてしまう。

石塚さんは 美智子さんが

少年を励ましながら戦っていた姿が
印象に残っている。

最終セットは
美智子さんペアの勢いに負けて

ミスを連発。

1-6で まさかの敗退。

この時は まだ
民間出身の美智子さんが

お妃候補になるとは
思ってもいなかった。

ところが その後 皇太子は側近に

「正田さんも調べてみたら」と
言ったと報じられている。

お妃選びの中心人物 小泉は
こう振り返っている。

テニスコートの出会いから8か月。

元宮内庁長官の田島の日記にも
正田の名前が登場。

美智子さんの存在が 宮内庁の中でも

クローズアップされていった。

旧華族から 民間へ。

お妃候補が移ったことを
新聞記者たちは 敏感に察知した。

関さんたちは すぐに会議を開いた。

本当のことが。

すると ある興信所が

一度に 多くの女性を
調べていることが分かった。

こちらが 興信所が調べた報告書の写し。

10人の女性たちの中に

皇太子が テニストーナメントで負けた

正田美智子さんの名前があった。

依頼主が宮内庁という
確証はなかったが

関さんたちは この情報を手がかりに
取材を進めていった。

そのころ 既に 正田家に
直接 接触している記者がいた。

朝日新聞の佐伯 晋さん。

美智子さんの父
英三郎さんが経営する

会社を訪ねた。

帰ろうとした その時だった。

このあと 佐伯さんは

正田家の苦悩を目撃することになる。

出会ってから 1年。

2人は 頻繁に
テニスをするようになっていた。

新聞記者の関さんは
ここで ある発見をする。

取材中 先輩記者が つぶやいた。

「皇太子は
美智子さんのことが好きだな」。

先輩記者の言葉を受けて

皇太子と美智子さんの写真を
撮影することにした。

宮内庁は「美智子さんと

結婚したい」という

皇太子の意思を確認。

そして ついに 正田家に

内々に申し入れを行う。

しかし 正田家は
これを固辞する。

その直後。

突然 美智子さんは

54日間に及ぶ 欧米の旅に出てしまう。

朝日新聞の佐伯さん。

当時 軽井沢の別荘にいた
美智子さんの両親に密着していた。

すると 美智子さんの両親から
悩みを打ち明けられた。

それはね すぐ 僕も…

美智子さんは
渡航先から両親に宛てた手紙の中で

「自分は殿下に召される資格を欠く」と

結婚の申し入れを断ったといわれている。

手紙は 両親から
皇太子の側近の小泉に渡された。

皇太子は諦めなかった。

ルプス会の織田さんに

「美智子さんに電話をしてほしい」と
依頼する。

織田さんの日記には

連日の電話作戦が記録されていた。

この日は
美智子さんが疲れていて

電話に出られなかった。

皇太子は
がっかりしていたという。

この良縁を大切にしたいと考えた小泉。

宮内庁の正式発表までは

報道しないよう
マスコミ各社に
頼んでいた。

しかし…。

皇太子の電話作戦が進行していた11月
思わぬ事態が起きた。

週刊誌が お妃候補を特定して

スクープしようとしているという情報が
寄せられたのだ。

小泉が 社長との面会を求め
記事掲載の中止を申し入れた。

皇太子も 決意を固めていた。

織田さんを 住まいに呼び

すぐ隣で 美智子さんに
電話するよう頼んだ。

8年以上にわたった お妃探し。

美智子さんの両親は 初めて

民間から皇室に入ることに
不安を抱いていた。

自分には その資格がないと
繰り返し断ったという美智子さん。

それにもかかわらず なぜ
皇太子と結婚することを決断したのか。

織田さんは その後 美智子さんから
打ち明けられた真相を書き留めていた。

「公的立場があり
守りきれないかもしれないという

皇太子の正直な言葉に心を動かされ

自分が行かねばならないと
思うようになった」。

そして…。

後に皇太子が詠んだ歌がある。

皇太子明仁親王殿下は

正田英三郎氏長女 美智子嬢と
婚約されることに決定いたしました。

そして 婚約内定会見。

国民に初めて
美智子さんの声が届けられた。

(アナウンサー)
「午前11時半 ラジオやテレビから

ご婚約者発表の臨時ニュースが
流れますと

新聞社から
号外売りが一斉に街に飛び出しました。

皇太子殿下に
ご婚約者が決まったというので

まるで奪い合いです」。

朝日新聞の号外に使われた写真は

佐伯さんが 婚約3日前に
正田家で撮影したものだった。

こちらは 毎日新聞の特別夕刊。

軽井沢で撮影した写真が一面を飾った。

関さんは皇室がぐんと身近になったという
街の声を伝えた。

「美智子さんは 午前6時半
東京・五反田の正田邸を ご出発。

見送るご両親に
別れの挨拶をされる美智子さんは

一瞬 瞳を潤ませて
ため塗りの車に お乗りになりました」。

「晴れの結婚の儀に参列した人は
およそ900人。

義宮さま 清宮さまをはじめ

各皇族 正田家の人々 岸総理大臣などが

威儀をただして
賢所 前庭に集まります」。

「午前10時 結婚の儀です」。

「めでたく結婚の儀を終えられ
いよいよ このひととき。

この時をお待ちした人々の目の前を
お通りになろうとしております。

皇太子殿下は 黒の燕尾服

美智子妃殿下は ローブデコルテ。

頭に ティアラを
おかぶりになっていらっしゃいます」。

はい もう朝から。

前半は 我が家のテレビの前で。

そして 今ここに。
もう 胸がドキドキして困ります。

「美智子さんが皇居に着ていった
アフターヌーンドレスを

早速 美智子ラインと名付けて
売り出すという商魂のたくましさ」。

「白い羽根の帽子も人気を集めています」。

社会現象にもなった ご成婚。

しかし その後の道のりは
決して平たんなものではなかった。

お二人の新しい試み。
それは 結婚直後から始まった。

「皇太子妃 美智子殿下は
23日 午後4時15分

無事 男のお子様を
お産みになりました」。

結婚の翌年 長男 浩宮が誕生した。

2人は
自分たちのもとで
育てる決断をし

皇室の慣習だった
乳母制度を廃止した。

皇太子は 昭和天皇の長男。

かつて 神の子とされた。

3歳で親元から離され

側近らに育てられた。

「どこへ行っても周りは大人ばかり。

恵まれ過ぎた生活ながらも

親兄弟の愛を じかに受けることのない
味気なさ」。

愛情を注ぎながら 子育てをする2人。

キューピッド役を務めた織田和雄さん。

この親子の同居に込められた
もう一つの思いを

直接 美智子さまから聞いていた。

浩宮が生まれて 7か月後。

皇太子は 昭和天皇の代わりに
大きな仕事を任されることになる。

「東宮御所では
浩宮さまも お見送りです」。

それは アメリカ訪問。

16日間で 8都市を回ることになった。

「アイゼンハワー大統領の招きで

アメリカを訪問されている皇太子ご夫妻は
日本時間で 9月25日

ホノルルからサンフランシスコに
お着きになりました」。

結婚したばかりの皇太子夫妻は

新しい日本のシンボルとして

アメリカ国民に歓迎された。

「ホワイトハウスで
アイゼンハワー大統領と会見。

アイゼンハワー大統領に
天皇陛下のお言葉を伝えられたあと

会見室で大統領夫妻と
そろって記念撮影です」。

順調と思われた海外デビュー。

しかし…。

ホワイトハウスでの晩餐会後

美智子さまは体調を崩してしまう。

当時の新聞は 慣れない環境での心労で

11キロ痩せたと報道した。

週刊誌には
バッシング記事も載るようになった。

こうした中 美智子さまを不幸が襲う。

皇太子妃殿下には 4時30分より

手術を開始。

4時52分に終了いたしました。

手術後の一般のご状態は良好であります。

流産だった。

当時の宮内庁長官が

「精神的なご心労が影響したのではないか」
と発言する事態となった。

美智子さまは
葉山の御用邸で静養に入った。

当時を詠んだと見られる
美智子さまの歌がある。

皇太子は 浩宮を連れて

美智子さまのもとへ通った。

美智子さまが
多くの人々の前に姿を見せたのは

5か月後だった。

♬~

翌年の東京パラリンピック。

美智子さまは
名誉総裁の皇太子を そばで支えた。

2人は 全国各地に足を運び

国民と接していくようになる。

昭和47年5月15日 沖縄が本土に復帰。

日本国 万歳~!
(一同)万歳!

万歳~! 万歳~!
万歳~! 万歳~!

3年後 皇太子夫妻は

沖縄を初めて訪ねることになった。

皇室に複雑な感情を抱いていた地元では

訪問に反対する激しいデモが起きた。

そして 誰もが予想しなかった大事件が
起こることになる。

初めての被災地訪問。

その時の映像が残っていた。

そこには 被災者との接し方を探る

皇太子の姿が記録されていた。

「昭和34年9月26日。 戦後最大の台風が
伊勢湾を突っ切って上陸した」。

未曽有の大災害 伊勢湾台風。

死者は 5, 000人以上に上った。

台風の直撃から8日後の10月4日。

皇太子は 妊娠中の美智子さまを置いて

一人で現地を訪問した。

側近トップ 鈴木菊男。

今回 NHKは
訪問の内幕が詳細に書かれた

鈴木の日記を独自に入手した。

専門家に解読を依頼。

すると ある新事実が浮かび上がった。

実際に訪問したのは8日後。

しかし 当初は
もっと早く訪問する案が検討されていた。

最初は 上空からの視察だけで

被災者を直接見舞う予定はなかった。

しかし 皇太子の強い希望で
その場が急きょ 設けられた。

午後6時。

訪れたのは 小中学生ら
およそ140人が避難している

名古屋市内の小学校だった。

今日は どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。

当時 中学3年生だった酒井俊幸さん。

周りに 総理大臣をはじめ
多くの関係者が並ぶ中

皇太子は 立ったまま
子どもたちに言葉をかけた。

ありがとうございます。

ありがとうございました。

直後に取材を受けた酒井さん。

記者からの言葉に驚いた。

当時 地元紙の社会部長は
被災者の気持ちを こう代弁した。

被災者との接し方は
今とは全く違っていた。

それから27年後の三原山噴火では

そのスタイルが大きく変わっていく。

この時 皇太子夫妻は

初めて2人で被災者を見舞った。

その後 皇太子も。

(拍手)

平成に入って 繰り返し

各地の被災地を
訪ねられてきた

お二人。

(拍手)

平成28年に起きた 熊本地震の被災地を
訪問したあと

美智子さまは 歌を詠まれた。

「被災地に向かう度
このような状況下にある人々を

自分が見舞うことができるのか
ためらう。

それでも 人々の傍らにという

陛下のひたむきなお気持ちに添ってゆく」。

♬「戦争が終って」

昭和40年代後半。

国民の半数近くが戦後生まれとなった。

昭和47年 沖縄が本土に復帰。

終戦から27年がたっていた。

住民を巻き込んで
激しい地上戦が行われた沖縄。

20万人以上が犠牲になった。

天皇の名の下で行われた戦争。

沖縄県民は 四半世紀が経過しても

皇室に複雑な感情を抱き続けていた。

本土復帰から3年後の昭和50年。

復帰記念行事 国際海洋博覧会に

皇太子夫妻が出席することになった。

沖縄では 皇太子の訪問に反対する

激しいデモが続いた。

慰霊碑に落書きも。

沖縄訪問の日程調整が進む中

皇太子は
激戦の地となった 南部戦跡の訪問を

最優先したいと関係者に伝えた。

訪問までの3か月

皇太子が会った人たちのリストが
宮内庁に残っていた。

歴史学者や地元の知事など
延べ62人を招き

沖縄の社会や経済について学んだ。

そして 訪問前日。

皇太子は
現地で発表するメッセージを練っていた。

意見を求められたのは

親交があった沖縄学の権威 外間守善さん。

帰り際 南部戦跡を訪問する皇太子に
こう告げたという。

この日 沖縄では

交番に火炎瓶が投げられる事件が
起きていた。

しかし 皇太子の覚悟は揺るがなかった。

最初の訪問先
ひめゆりの塔では

朝からマスコミが集まっていた。

こんにちは。 今日は どうぞ
よろしくお願いします。

こちらこそ よろしくお願いします。

沖縄出身で
当時 読売新聞のカメラマンだった

山城博明さん。

カメラを構えたのは
ひめゆりの塔の後ろだった。

後に歴史に残る写真を
撮ることになるとは

まだ 山城さん自身も
想像していなかった。

昼ごろ。

皇太子夫妻を乗せた特別機が
那覇空港に到着。

訪問歓迎と反対が二分する
異様な雰囲気だった。

車は ひめゆりの塔へ向かった。

午後1時過ぎ。

「今 お列がですね ちょうど
糸満市の入り口に さしかかった時に

白銀病院とありますが
そこの2階3階からですね

ビール瓶や角材 その他が
投げ込まれました」。

訪問に反対する青年が ガラス瓶を

皇太子夫妻の車列へ投げる事件が起きた。

車には当たらず

2人は そのまま目的地へ。

そして 午後1時20分ごろ。

皇太子夫妻が ひめゆりの塔に到着。

「先導役は ひめゆり同窓会会長の

源ゆき子さんでございます。

感無量 そんなご様子が

その表情から
うかがい知ることができます。

今 皇太子殿下が碑に向かって
一礼をなさいました。

深々と
こうべをお下げになっております。

皇太子殿下
それから 美智子妃殿下でございます。

昭和20年当時 30年前のご様子を

今 お聞きになっていらっしゃる
ところです。

源ゆき子さんのご説明に

いちいち うなずかれます 両殿下です。

不動の姿勢で 源ゆき子さんのご説明を
受けておられます」。

山城さんは
カメラのシャッターを切り続けていた。

まさに その時だった。

「献花台の前が燃えております。
火の手があがりました。

今 皇太子殿下ご夫妻を
警備員が囲むようにいたしまして

今 正門 前の方に
お連れしたところでございます。

火炎瓶でございましょうか?
そういったものが投げ込まれまして

今 火の後ろに 前の方に
壕の中に隠れておりました

赤ヘルメットの男が
警察官に取り押さえられております。

白い… 赤の覆面をしております。
今 白い一人の男が逮捕されました。

警察官に 左右から
挟まれるようにいたしまして

この男を取り押さえております」。

現場は大混乱だった。

事件の瞬間を捉えた 山城さんの写真。

現像して あることに気が付いた。

次の訪問先では
事件の波紋が広がっていた。

戦争で 家族4人を亡くした
遺族の新垣雄久さん。

到着を待っていた。

沖縄の怒りに直面した皇太子夫妻。

それでも 予定を変えることなく
訪問先に向かった。

この日 最後に訪れたのは
沖縄県遺族会館。

そこには 200人を超える
沖縄戦の遺族らが集まっていた。

同行した沖縄県知事 屋良朝苗は

こう書き残している。

「冷房もなく蒸し風呂みたいな所である」。

遺族の新垣さんは
皇太子夫妻の姿を鮮明に覚えている。

宿泊先のホテルに入った皇太子。

事前に推敲してきたメッセージを
発表した。

皇太子は 沖縄独特の歌 琉歌でも

思いを詠んでいる。

「名も知られずに
戦に散った人々の魂に

花をささげます

戦争のない世となることを
心から願って」。

どうぞ よろしくお願いします。

最初の訪問以来
沖縄の歴史を伝えてきた高良倉吉さん。

琉歌を詠んだ皇太子に

沖縄と向き合う覚悟を感じた。

目の前には
いくつもの試練が待ち受けていた。

それでも近づき

一人一人と 目線を合わせる。

それを ただ

積み重ねていく。

55歳での即位。

「ここに 即位礼正殿の儀を行い

即位を内外に宣明いたします」。

♬~

即位後も 訪問を重ねられた沖縄。

その数は 11回に上る。

♬~

戦争という重い過去と向き合われ

平和を祈る旅路は
海外にも広がっていく。

♬~

各地で相次ぐ災害。

♬~

過酷な生活を
強いられた被災者に

天皇皇后両陛下が
送られた

メッセージとは。

♬~


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