ファミリーヒストリー「宮藤官九郎~人の中で人は育つ 亡き父の教え~」 東北の地で懸命に生きた、心温まる家族の物語…



出典:『ファミリーヒストリー「宮藤官九郎~人の中で人は育つ 亡き父の教え~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「宮藤官九郎~人の中で人は育つ 亡き父の教え~」[解][字]


大河ドラマ「いだてん」脚本担当の宮藤官九郎。戦国時代まで遡る宮藤姓の起源。一家の運命を変えた幕末に起きた事件。母の出生に関わる秘密。激動の歳月が浮かびあがる。


詳細情報

番組内容

大河ドラマ「いだてん」の脚本を担当する宮藤官九郎さん。宮城県で暮らす宮藤家の、戦国時代まで遡るルーツに迫る。また、幕末に起きた家族の運命を変えた事件や、母の出生に関わる秘密が浮かび上がる。そして、20年前に亡くなった教師だった父。教え子たちへの取材から、家族に見せなかった素顔が明らかになる。父が貫いた生きざまは、官九郎さんの作品に引き継がれているという。東北の地で懸命に生きた、心温まる家族の物語。

出演者

【ゲスト】宮藤官九郎,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子




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ファミリーヒストリー「宮藤官九郎~人の中で人は育つ 亡き父の教え~」
  1. 紹平
  2. 泰子
  3. 宮藤家
  4. 鈴木家
  5. 取材者
  6. 俊一郎
  7. 昭和
  8. 官九郎
  9. 平野神社
  10. 宮藤


『ファミリーヒストリー「宮藤官九郎~人の中で人は育つ 亡き父の教え~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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今年の大河ドラマ
「いだてん」。

日本人とオリンピックの
ドラマを

泣き笑いの記憶をたどって
描く 痛快作です!

泣くに 泣けないぞ!

脚本を担当するのは…

宮藤さんは これまで 数々の
斬新な作品を手がけてきました。

♬~(「あまちゃん」テーマ音楽)

ご存じ 「あまちゃん」。

宮藤さんの作品には 時代や地域の中で
懸命に生きる人々の姿があります。

宮藤さんは 父親を早くに亡くし

自身の
ルーツについて ほとんど知りません。

今日のゲストは 宮藤官九郎さんです。

どうぞ。
お願いします。

あ おはようございます。
よろしくお願いします。

すいません。
よろしくお願いします。

そうなんですよ 不思議と。

へ~。
はい。

♬~

脚本家・宮藤官九郎の出身地
宮城県栗原市若柳。

江戸の寛永年間から
開発が進み

迫川を中心に
町が栄えていきました。

宮藤という名字は母方。
この地域では 1軒しかないといいます。

まずは 宮藤家の歴史からたどります。

(取材者)こんにちは~。
いらっしゃい。

官九郎の母・泰子さん。

そして 元教師で宮藤家を継いでいる
姉の由美さんです。

文具店を 2人で営んでいます。

大概にしろ…。
(取材者)大概にしろって?

(由美)そうです。 大概にしろってね。

母・泰子さんは 宮藤家のルーツについて

不思議に思っていることがあります。

2年前 こんなことがありました。

宮藤家の菩提寺 柳徳寺。

(住職)こちらになります。

震災後 墓石を建て直しましたが…
墓誌は昔のままです。

「神官 宮藤斎逸霊位」
とあります。

官九郎の四代前の
高祖父・宮藤斎逸は

神社に仕える 神官
だったというのです。

神官とは かつて
公的に任命された 神職のこと。

大きな神社の
神職に使われる役職でした。

神官だったことと
宮藤という姓は関係があるのか。

日本の名字を研究する

森岡さんに 意見を聞きました。

それでは 高祖父・宮藤斎逸は
どこの神官だったのか。

宮藤家がある地域は 迫川の北側。

ここに古くからあるのは
平野神社でした。

室町時代に建立され
若柳地区では 一番大きい神社です。

(取材者)こんにちは。
(平澤)は~い。

平野神社の宮司 平澤睦穂さん。

先代の宮司で 父の秋穂さんが
ある古文書を保管していました。

(取材者)あ そうなんですか。

戦国時代から江戸時代に書かれたものを
明治初期に書き写した文書です。

戦国大名・葛西晴信が 戦勝祈願のため

神社に寄付をしたことが書かれています。

ほんとだ。
宮藤って書いてある。

(取材者)宮藤って
書いてありますね。

そこには
「社司 神主 宮藤安芸守近栄」と

書かれていました。

神道学の第一人者 三橋 健さんです。

何か すいません
ほんと。

へえ。 へ~!

更に 平野神社の系譜には…。

宮藤安芸守近栄と
平澤家が

姻戚関係であったことが
記されていました。

江戸時代初期
宮藤家から出た浄山が分家し

平澤家を興したということが
分かりました。

宮藤家と平澤家は親戚同士
互いに助け合いながら

平野神社を守ってきました。

それが 幕末の慶応2年 平野神社を
舞台にして ある事件が起こります。

事件?
よっぽど大河ですね。

官九郎の4代前の高祖父
宮藤斎逸の代でした。

天候不順での不作と
年貢の重圧に対する不満が募り

農民たちが起こした一揆。

農民たちは 平野神社に集結しました。

その後 周辺地域にも拡大。

農民たちは 総勢4, 000人にまで
膨れ上がります。

その中心的な役割を果たしたのが
平野神社でした。

しかし 一揆は失敗に終わり

平野神社を守ってきた
宮藤家と平澤家は 責任を取らされます。

平澤家に
そのことが言い伝えられていました。

この後 理由は定かではありませんが

宮藤家は
神官の職を離れることになったのです。

高祖父ですから
ひいおじいちゃんの上ですよね。

あ~。

あっ え~!

(池田)ないですか?

まあ そう
そうですね。

先導者ですね。
そう考えたら ねえ。

幕末に 神官の職を離れた

官九郎の4代前の高祖父・宮藤斎逸。

その後 農地を小作に
貸す 地主などをして

生計を立てました。

しかし
一人息子の賢之進が

二十歳で亡くなります。

宮藤家には 跡取りが
いなくなりました。

そこで 養子として迎えたのが
当時23歳だった 吉三郎でした。

宮藤家には 家系に関する
驚くべき事実があります。

西風って
ああいう字書くんだ。

確かに 曽祖父・吉三郎。 祖父・朝治。
母・泰子。

3代にわたって
養子として宮藤家に来ていました。

しかも 同じ鈴木家から。

西風という屋号で呼ばれる
鈴木家は 若柳から車で20分。

岩手県一関市花泉町にあります。

泰子さんの生家である鈴木家は

宮藤家と どのような関係があったのか
訪ねました。

(取材者)よろしくお願いいたします。

こちらこそ よろしくお願いします。

(取材者)代々 こちらから
宮藤家に行くっていうのは

何か特別な つながりみたいのは
あったみたいなことは

お父様から
お聞きになったりしてますか?

花泉の蝦島地区には
14軒もの鈴木家があります。

一族の長老に
鈴木家の歴史を聞くことができました。

義経の時代の伝説が残る 鈴木一族。

分家した一つが 西風の鈴木家でした。

鈴木ばっかなんですよ 確かに。
は~。

西風という屋号は 家に西風が強く当たる
ことから 付けられたといいます。

明治期に編さんされた
貴重な村史があります。

そこには 西風の鈴木家の
系譜が書かれていました。

官九郎の曽祖父・吉三郎の名と
祖父・朝治の名が 記されています。

残念ながら 鈴木家と宮藤家の関係に
ついては 何も書かれていませんでした。

地域の歴史に詳しい 山川純一さんが
両家の関係を推測します。

昇さん はい。

ええっ?

明治23年 23歳で宮藤家の養子となった
吉三郎に 悲劇が襲います。

結婚4年後に生まれた長男が
1歳で亡くなり

次男を跡取りにしたので
三男を養子に出しました。

しかし 家を継ぐはずだった次男が

22歳の時に亡くなってしまいます。

吉三郎は 慌てて自分の甥に当たる

鈴木家の朝治を養子として迎えます。

朝治は 27歳という年齢で
宮藤家に入りました。

そして 翌年
18歳の ますよと結婚。

しかし ますよは体が弱く
子どもができませんでした。

泰子さんの実の弟・孝司さんと
妻・洋子さん。

当時のいきさつを
姉の圭子から聞いていました。

今度生まれたらば… 実家から。

(孝司)そういうことなんだな。

昭和9年 鈴木家に生まれた泰子。
後の官九郎の母です。

生後10か月で
宮藤家の養女になりました。

泰子の実の姉・圭子の
回顧録には

こう記されています。

「泰子は 『もらいっ子』ということは
秘して育てられた」。

泰子は 両親から大切に育てられます。

服は全て 母の手作りでした。

幼い頃から 踊りが好きだった泰子。

その姿を 母・ますよは
いつも喜んで見ていました。

そして 泰子が中学2年生のある日。

思わぬ形で
自分が養女であることを知ります。

ええっ。

あれっ。
あらま。

似てるからね。

しかし 泰子は帰宅しても
養女になったいきさつを

両親に確かめることは
できませんでした。

(取材者)そうですよね。
うん。

昭和24年
自宅を改装して文具店を始めます。

泰子の高校
大学の学費の足しにしようとしたのです。

そして 無事に短大を卒業すると

泰子に 婿をもらう話が舞い込みます。

その相手が
教師をしていた大場紹平でした。

紹平は お見合いの前に
ひそかに泰子を見ようと

宮藤文具店を わざわざ訪ねます。

客として 万年筆を買いながら
泰子を さりげなく見る計画でした。

(泰子)よろしかったら
書いてみてけさい。

はい。

泰子から 試し書きを勧められます。

すると紹平は 出された紙ではなく

テーブルのガラスに 書いてしまいます。

緊張してたんやろうな でも。

その後 2人は
正式にお見合いをしました。

泰子さんが 大切にしまっているものを
見せてくれました。

これです。 これ あの~
恥ずかしいんですけど…。

あの~ 結婚するまで…

出すんだ それ。

すごいな 出すんだ。

お見合いから結婚までの7か月間
紹平から泰子に送った17通の手紙でした。

あの万年筆のことも 書かれています。

「本当に書きよいペンです。 ありがとう。
絶対なくしません」。

え~。
恥ずかしいな これ。

紹平は 泰子への気持ちを書き連ねます。

「もう あなた以外に考えられない位に
自分は考えていたからかも知れません」。

恥ずかしい。
親の。

親の これは
恥ずかしい。

「苦しい事もわけあい
楽しいことも喜びあっていきたい」。

そういうタイプじゃ
なかったですけどね。

いや 見せない
面があるんですよ。

そうですか。
子どもには。

紹平の気持ちを受け止めた泰子。

今まで誰にも語らなかった 自分の
生い立ちを 紹平に打ち明けました。

そして 昭和30年11月7日
紹平と泰子は結婚。

紹平26歳
泰子21歳でした。

いや~…

(池田)そうですか?

でも いかがでした?

なかったですね。

昭和30年 26歳で宮藤家の婿養子となった
大場紹平。

紹平の実家 大場家は
宮城県大崎市の鬼首にありました。

鬼首は 荒雄岳を中心にした
カルデラ地形。

地名の由来は 坂上田村麻呂が
鬼と呼ばれた悪党の首を切り

その首が この地に飛んで
鬼首という名になったといわれています。

紹平の実家・大場家は
鬼首で歴史ある家として知られています。

すごい いいとこなんですよね。
温泉があって。

本家を継いでいるのは

紹平の おいっ子である
雅之さん。

大場家は 雅之さんで16代目。
300年以上続いています。

東北は やっぱ すごいな。

江戸時代のころ 集落のまとめ役
肝入りという役職に就いていました。

そのため 雅之さんは
集落を守る覚悟を

親から何度も聞かされてきました。

地元の歴史に詳しい大山厚昭さんに

大場家の役割を聞きました。

昭和3年 紹平は そんな大場家の
七人兄弟の末っ子として生まれます。

幼い頃から教師になりたかった紹平は
仙台の師範学校に入学。

昭和25年 中学の英語教師から
スタートしました。

そして 昭和30年
紹平は宮藤家に婿入りし

地元の若柳小学校に赴任します。

初めて卒業させた
6年3組の教え子たちが

作ったクラス会 「六三会」は
今年で56年続いています。

教え子たちには
忘れられない思い出がありました。

昭和36年 紹平は子供たちを連れ
汽車と車を乗り継いで

自分のふるさとである 鬼首に行きました。

紹平が考えた課外授業。

泊まりがけのクラス旅行は
当時 画期的なものでした。

すごいな。 個人でやってたんだ。
そうですね。

手作りの道具を使って魚を釣り…。

(子供たち)おいしそう。

芋煮をみんなで作る。
全てが初めての体験でした。

紹平の口癖は…

紹平は卒業しても
教え子たちとの交流を続け

何度も仲人を務めました。

軽い返事で…

家庭では
3人の子供に恵まれます。

結婚の翌年には
長女の浩子。

5年後には
次女・由美。

そして 昭和45年に生まれた
初めての男の子が 俊一郎でした。

それが 宮藤官九郎です。

俊一郎の命名には
長女の浩子が関わっています。

よう聞き入れてくれた。

よう尊重したな。

でも いい名前もらった。

姉・浩子の思いつきが きっかけの名前に
俊一郎は…。

これは 恥ずかしいぞ。

宮藤家には 父・紹平が参加を義務づけた

年末の行事があります。

そんな前からやってんだ。

俺が生まれた時から
やってんだ。

アイデアマンなんだな 先生。

家でも 面白い。

その年の当番を決め
その人目線で

家族のニュースを
10個考えます。

「おねえちゃん家庭92点」。

何のニュースが選ばれたかは
発表までは秘密。

その内容に 家族は喜んだり
合いの手を入れたりして盛り上がります。

(拍手)

あ~ 覚えてない。

あ 担当があるんだ。
ええ 覚えてないです。

(取材者)ちょっと見せてもらって
いいですか?

書いたんだ でも。 あ~。

(泰子)汚い字なんですけど。

「おかあさん めんきょしょう なくす」。
(笑い声)

俊一郎が 5年生の時に書いた
10大ニュース。 トップニュースは…。

字 汚ね。

姉・由美さんのニュースもランクイン。

9歳上の姉に
なぜか 上から目線の俊一郎です。

家族が家族のことを考え
大みそかを笑顔で過ごすイベントでした。

そして 俊一郎は 中学時代から
ラジオの深夜放送

「ビートたけしのオールナイトニッポン」に
夢中でした。

♬~

ネタを書いては投稿する
「ハガキ職人」になり

週に5~6通を投稿。

しかし なかなか採用されませんでした。

そうです そうです。
そりゃそうです。

高校生になった ある日
ついに その日が来ました。

俊一郎のハガキが 読まれたのです!

やった~!

うれしくて
寝ている母に報告しに行きます。

俊一郎が出したハガキが
ラジオで読まれたことは

その年の10大ニュース
2位にランクインしました。

いつも明るく過ごす宮藤家の中で

紹平には ある気がかりがありました。

それは 妻・泰子が
生家である鈴木家の兄弟たちと

遠慮して交流できないことでした。

そこで 紹平は立ち上がります。

鈴木家の兄弟会を作り
泰子を参加させたのです。

参加した鈴木家の兄弟たちも
紹平の申し出に喜びました。

(取材者)へえ~。

(孝司)すぐ これ これがね。

写真 残ってんだ。

紹平の十八番は 裸に座布団を巻いて行う
相撲甚句。

鶴亀会の欠かせない出し物になりました。

(孝司)人柄ね。

紹平は 親戚だけでなく
地域でも さまざまな会を作りました。

そうです そうです。
(取材者)大変ですね?

(笑い声)

(取材者)何て言われてたんですか?

紹平が 生涯貫いた生き方でした。

すごいな いっぱい残ってんだな これ。

いや~ 何か…

ああ~。
思春期は もう特に。

抜けて。

そう考えると。

昭和63年 日大芸術学部で学ぶため
俊一郎は18歳で上京。

大学2年生の時

芝居の魅力に はまり

劇団「大人計画」に

演出助手として入ります。

ところが 劇団の仕事に夢中になり

ついには
大学を中退することを決意しました。

母・泰子さんが
大切にしているものがあります。

ものすごい いろんなもの
大切にしてるなあ。

取ってるんだよなあ でも 母親って。

う~ん。

これを読んだ父・紹平さんの反応は…。

だから笑ってたんだな。

息子・俊一郎の一大決心。

泰子さんは
27年間 大切に取ってありました。

ほんとだ。
すごい。

平成9年 宮藤官九郎として
出演した舞台を

父・紹平さんは初めて見に行きます。

これです これです。
はあ~。

舞台を見てから 半年もたたない
平成10年5月。

紹平さんは突然 病に倒れます。

夫の看病を続ける泰子さん。

ある日 一つの短歌を
地元の新聞に投稿しました。

紹平さんが丹精込めて作っていた野菜を
題材にしました。

しかし この短歌が
紙面に載った その日。

平成10年7月19日
紹平さんが69歳で この世を去ります。

くしくも
官九郎さん 28歳の誕生日でした。

誕生日なんですよ。
(池田)へえ~。

紹平さんの13回忌を終えると

泰子さんは 教え子たちの集まり
「六三会」に参加するようになります。

紹平さんを長期出張と考え
泰子さんを副担任に任命したのです。

名取でもある泰子さんは
得意の踊りを披露。

紹平さんに代わって
教え子たちとの交流を続けています。

(拍手)

宮藤官九郎さんは 舞台 ドラマ 映画と
活躍の場を ますます広げています。

そして 大河ドラマ「いだてん」で
脚本も担当。

父が目にすることがなかった 息子の活躍。

家族は 官九郎さんの作品を見て
感じることがあるといいます。

(笑い声)


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