歴史秘話ヒストリア「東京オリンピックに懸けた男たち」 嘉納治五郎・金栗四三・田畑政治、3人のキーパーソンに…



出典:『歴史秘話ヒストリア「東京オリンピックに懸けた男たち」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「東京オリンピックに懸けた男たち」[解][字]


2020年も間近、ますます注目の東京オリンピック。半世紀前の1964年東京大会実現にも日本人の苦闘があった。3人のキーパーソンに焦点を合わせたオリンピック秘話。


詳細情報

番組内容

2020年間近、ますます注目の「東京オリンピック」。半世紀前の1964年東京五輪では、その実現のため3人の男たちが闘った。国際オリンピック委員会、IOC委員に日本から初めて就任した「柔道の父」嘉納治五郎。日本人で最初にオリンピックに出場した天才ランナー・金栗四三。敗戦から立ちあがり、悲願の東京開催を結実させた水泳界の重鎮・田畑政治。日本の不屈のリレーが「東京オリンピック」を成功へ導く熱きドラマ。

出演者

【キャスター】井上あさひ




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歴史秘話ヒストリア「東京オリンピックに懸けた男たち」
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『歴史秘話ヒストリア「東京オリンピックに懸けた男たち」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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(花火の音と歓声)

スポーツの祭典…

(実況)王者の着地!
止めた!

これぞ内村!

トップアスリートたちが見せる
究極の技や名勝負に

世界中が 心を熱くします。

(歓声と拍手)

日本が 初めてオリンピックに参加したのは…

以来 日本とオリンピックの歴史には
知られざるドラマがありました。

初参加を実現したのが…

オリンピック直前 嘉納は
一人の選手を見いだします。

(嘉納)誰かが やらねば
日本が欧米に並ぶことはない。

力の限り 走ります!

世界記録続出の秘密兵器は…

1930年代 日本は水泳で一時代を築きます。

その立て役者こそ…

育てた選手が 次々と金メダル。

日本は
世界のスポーツ大国に仲間入りします。

そこで浮上したのが
1940年の東京オリンピック開催。

しかし それは幻に…。

一体 なぜ?

そして戦後…。

ついに 悲願がかなった
東京オリンピック 1964。

前代未聞 アジア各国…

そして…

画期的な大会への道のりには
涙の秘話がありました。

今年は
大河ドラマもオリンピック。

(吉岡信敬)嘉納治五郎じゃん。
(嘉納治五郎)じゃん?

日本人と オリンピックの物語に

注目が集まっています。

さまざまな困難を乗り越え

オリンピックに懸けた人々の
熱き思いに迫ります。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。
本年も どうぞ おつきあい下さい。

今回の主人公は
こちらの3人。

日本とオリンピックの
懸け橋として

大きな役割を
果たした人たちです。

日本人初のオリンピック選手
金栗四三。

同じく 日本人初の
国際オリンピック委員会

IOCの委員 嘉納治五郎。

水泳の指導者で

1964年
東京オリンピック招致の中心人物 田畑政治。

こちらは その東京オリンピックに至る
年表です。

1912年の初参加から 戦争を経て

1964年の東京大会まで
およそ半世紀。

そこには
協力して世界の壁を打ち破った

嘉納たち3人の存在がありました。

まずは 日本の初参加となった
オリンピック

ストックホルム大会をめぐる
挑戦のドラマを ご覧頂きましょう。

110年前
東京・大塚に

東京高等師範学校が
ありました。

校長は 嘉納治五郎。

柔道の創始者として
世界に知られていた人物です。

スポーツの普及に熱心だった嘉納は

外国人留学生との交流試合など

スポーツによる国際親善にも
取り組んでいました。

そんな嘉納に
ある日 フランスから 手紙が届きます。

近代オリンピックの父と呼ばれた
人物からでした。

(クーベルタン)
「我々は 日本のオリンピック参加を
強く望んでおります」。

[ 心の声 ] 世界と競うオリンピック…。

これならば 「スポーツ」とは縁遠い
日本人も きっと…。

(スターターピストルの音)

クーベルタンの提唱で 初めて
近代オリンピックが開かれたのは

1896年のこと。

きっかけは ヨーロッパで
多数の死傷者を出した戦争。

スポーツで 互いを理解すれば
争いなどなくなる。

それが オリンピックの理念でした。

嘉納は 近々 行われる
第5回ストックホルム大会に参加すべく

全国の教育関係者などに呼びかけました。

「大日本体育協会を
組織し

国際オリンピック大会に
出場させる選手を選ぶ」。

東京で開かれた予選会に
運動に自信のある若者が大集合。

その一つ マラソンの選考会でのこと。

参加者の足元を見てみると…

みんな 足袋。

40キロもの「かけっこ」など

それまでの日本では
考えもしないものでした。

[ 心の声 ] 外国の選手と渡り合える
ツワモノがおるかどうか…。

(スターターピストルの音)

マラソンに出場したのは 19人。

その中で 驚異的なスピードを見せ
嘉納を驚かせた若者がいました。

断トツの1位でゴールした金栗。

記録は…?

なんと
当時の世界記録を

27分 上回る快挙。

初めてのマラソンで

金メダルレベルの実力を
見せたのです。

(嘉納)金栗君! 大丈夫か?

ハァ… ハァ… 嘉納先生…。
よく やってくれた! アハハッ!

なぜ 金栗は
これほど速かったのでしょう。

金栗の故郷…

ここに その手がかりとなる
エピソードが伝えられています。

5 6 7 8。

金栗少年の通学路

地元スポーツクラブの皆さんに
走ってもらいました。

ほとんどが アップダウンの激しい山道。

走っての上り下りを 30分。

ようやく 学校に到着です。

往復1時間の駆け足通学が

マラソン世界記録の
下地になったとは

驚きです。

才能を見込まれ…

しかし 不安でいっぱいでした。

マラソンは あの予選会の一度だけ。

私には 荷が重いかと…。

何事も 「初め」というのは つらい。

君の言うように
自信もないだろう。

しかし 誰かがやらねば
日本が欧米に並ぶことはない。

今を逃せば 次は4年も先だ。

今しかないんだ。 金栗君!

嘉納の熱意が かたくなになっていた
金栗を動かします。

…行きます 先生。

ストックホルムで 力の限り走ります!

なんとか 金栗を説得した嘉納治五郎。

ところが 新たな問題が起こります。

当時 オリンピックの参加費用は
自己負担。

船賃や滞在費など

今のお金で 1人500万円もかかりました。

難問を解決した日本チーム。

選手は 金栗と もう一人。

船と鉄道で スウェーデン
ストックホルムまで 17日間。

ようやく たどりつくと…。

現地では 予想外の大歓迎が
待っていました。

世界記録を出した金栗は

ヨーロッパでも
話題だったのです。

中でも 人々の興味を引いたのは
不思議な履物 「足袋」。

この おかしなシューズを履けば
世界記録が出せるのか!?

…というところは あったかな
というふうに思います。

金栗が もっと参ったのが
初めての海外暮らし。

食事は 連日の洋食。

更に 北欧特有の
白夜と

慣れないベッドで
眠れず

コンディション調整に
失敗しました。

しかも レース当日には
駄目押しとなる事態が…。

なんと 気温30度を超える
暑さとなったのです。

[ 心の声 ] なんて暑さだ。

これじゃ
競技は中止なんじゃないのか?

(スターターピストルの音)

レースは 予定どおり始まりました。

暑さにもかかわらず

他の選手は かなりのハイペース。

金栗は あっという間に
置いていかれます。

[ 心の声 ]
えっ 何で のっけから そんなに…。

しかし 持ち前の根性で
次々と追い抜く金栗。

参加64人中 17位まで浮上します。

[ 心の声 ] 距離も半分過ぎた…。

勝負は これからだ!

と思った その時…。

知らず知らず
無理していたのか

気を失ってしまったのです。

金栗は レースの数時間後
地元の農家にいました。

自分の ふがいなさに落ち込む金栗に
嘉納治五郎は…。

金栗君。 落胆することはない。

君は 外国の技術を知り
刺激を得た。

大成功じゃないか。

君には将来がある。
また しっかりやればいい。

嘉納先生…。

惨敗となった オリンピック初挑戦。

しかし 彼らの経験が
近代スポーツの歴史に

確かな足跡を記したことは
間違いありません。

金栗四三にとっても 日本にとっても

初めてのオリンピックは
悔しい結果に終わりました。

しかし 金栗は その後
オリンピックに2回も出場。

世界記録も 2度更新するなど
日本のマラソンの名を大いに高めます。

そして 現役引退後は
後進の育成に取り組みました。

お正月の風物詩…

実は 金栗四三が
選手育成のために考えたもの。

大学対抗で競わせ 陸上競技のレベルの
底上げを図りました。

こちらの写真は
女学生たちを指導する金栗。

女性の運動は 眉をひそめられた時代。

金栗は 女子スポーツの意義を
根気強く説き

何人もの 優れたアスリートを育てました。

嘉納治五郎・金栗四三が道を開き

本格的に
オリンピックに関わり始めた日本。

その日本で
途方もない計画が持ち上がります。

日本のオリンピック初参加から
19年後の1931年。

長年 オリンピック普及に尽力していた
嘉納治五郎のもとに

東京市から
驚くべき計画が持ち込まれました。

これはですね…

戦前に浮上した
オリンピック 東京開催計画。

世界最大のスタジアムから
大がかりな聖火台まで。

一大プロジェクトだったことが
うかがえます。

嘉納は この歴史的なイベントに向けて
動きだします。

各国を回り 東京開催を
支持してくれるよう訴えました。

しかし 世界の他の都市も
立候補する中

東京は
前例のないアジアの地。

極めて 不利でした。

東京でやろうと 世界に思わせるには

日本が スポーツの一等国だと
示さねばならん。

この時 嘉納は
一人の指導者に注目します。

水泳競技で
大きな成果を出していた…

アムステルダム大会で
金メダル選手を輩出。

世界と勝負できる人物でした。

田畑の活動拠点だった浜名湖では
今も その人柄が語り継がれています。

時には 流れが とても速い場所で
選手たちを鍛えたとも言われる田畑。

一方 組織づくりでは
先進的な考えで 効果をあげていました。

日本全国 バラバラだった水泳団体を
一本化したのです。

コーチ育成から 各地のプール設置まで

一つの組織で効率的に進めたことで
世界レベルの選手が育ちました。

世界に
東京開催を納得させられるのは

自分が手がける水泳しかない。

田畑は
次の大会に意欲を燃やします。

今度の ロサンゼルスオリンピックで
我々は勝負に出る!

日本の水泳を世界一にするぞ。

エイエイオー!

どうした? ほら!

(3人)エイエイオー!
エイエイオー! エイエイオー!

1932年7月
ロサンゼルスオリンピック開幕。

日本は 前回の3倍
131人の大選手団を送り込みました。

競技が始まると
田畑監督率いる水泳陣は

すばらしい活躍を見せます。

男子100m背泳ぎでは
なんと 表彰台を独占。

最終的に 18個のメダルを獲得する
快挙を成し遂げた日本。

中でも 水泳のメダルは
12個に上りました。

ロサンゼルス大会での奮闘から4年後の…

ついに…

[ 心の声 ]
東京に… 日本に オリンピックが来る。

(砲声)

翌年7月。

日本は 盧溝橋事件をきっかけに

中国との全面戦争に突入。

すると 欧米のIOC委員が揺れ始めます。

日本は どういうつもりだ。

オリンピックは 「平和の祭典」だ。

戦闘をやめないなら
開催は返上すべきだ!

日本への非難の声は
日増しに強くなっていきました。

争いが起こった今こそ 日本での
オリンピックが必要だと考えていました。

当時 嘉納は
ラジオで こう語りかけました。

当時 77歳だった嘉納は
高齢を押して

エジプト カイロでの
IOC総会に乗り込み

各国の委員を説得。

思いは届きました。

見事 大役を果たし 帰路についた嘉納。

しかし 船の中で体調を崩します。

そのまま 息を引き取りました。

そして
この衝撃的な出来事は

東京オリンピックの開催に
暗い影を落とすことになります。

嘉納治五郎が亡くなる前年に勃発した
日中戦争が

泥沼となりつつあった
当時の日本。

オリンピックに対する
国内の風当たりも強くなり

嘉納が 命まで賭した東京大会は
ついに 開催権の返上が決定されます。

国内では
各スポーツ団体が解散させられ

学校での体育の授業は
戦うためのものに変えられます。

やがて 世界も 第二次世界大戦に突入。

ようやく オリンピックが再開されたのは
戦後 1948年のことでした。

再び 日本人が意識するようになった
東京でのオリンピック開催。

それを実現できるのは
彼しか いませんでした。

300万人以上の犠牲者を出し
終戦を迎えた日本。

水泳の指導者…

[ 心の声 ] 日本人は戦争に負け
誇りも何も 全てなくした。

だから オリンピックが
今の日本には必要なんだ。

田畑は
日本水泳連盟を再建。

嘉納亡きあと 日本のオリンピック事業を
引っ張る リーダー的な存在となります。

そして 戦後初のオリンピックが
1948年に ロンドンで開かれると聞くと

参加を打診。 ところが…。

「あの憎むべき戦争を
引き起こした

日本の参加など

ドイツと共に
断じて認められない」。

依然
日本に対する国際社会の目は厳しく

オリンピックも
参加すら許されませんでした。

よし… こうなったら
オリンピック選手より 速く泳ぐまでだ。

なんと ロンドンオリンピックの

水泳競技決勝と同日・同時刻に

日本選手権をぶつけ

記録で
存在感をアピールしようとします。

(スターターピストルの音)

選手たちも奮起します。

古橋廣之進選手や
橋爪四郎選手が競い合い

最高の泳ぎを見せました。

(実況)あと5m あと4m 2m 1m…!

二人の記録は オリンピックをはるかにしのぎ

世界を驚かせました。

しかし 田畑は
これだけでは満足しません。

直接 勝負するチャンスをくれないか?

アメリカチームにも
いい勉強になると思う。

翌年 今度は
オリンピックの覇者 アメリカに

直接対決を申し入れ

ロサンゼルスへ乗り込みます。

現地は 反日感情が根強く

日本選手団は
激しいブーイングを浴びました。

しかし 競技が始まると…。

(実況)古橋 いよいよ
1, 400のターンを終わって

ラストスパート。
他を引き離して 断然トップであります。

古橋 あと10mであります。

あと7m あと古橋5m
3m あと2m…

古橋 ゴールイン。
タイムは 18分19秒フラット。

(歓声と拍手)

圧倒的な泳ぎに 全米が熱狂。

4種目で世界新記録を出した古橋は
「フジヤマのトビウオ」と呼ばれ

一躍 ヒーローとなりました。

(実況)日本代表団の入場であります。

田畑団長を先頭に
入場行進が開始されました。

16年ぶりの参加となった
日本の選手団を率いる田畑。

更なる夢を抱いていました。

かつて かなわなかった
東京オリンピックの開催です。

しかし いまだ日本人の生活も苦しい時代。

オリンピックにかかる ばく大な費用が
批判されます。

これに対し 田畑は…

200億円の予算に対し

観光などで
400億円近くの収入が見込めるとしました。

政府を説得し 支持を取り付けます。

(鐘の音)

そして 1959年。

オリンピック開催地を決める
IOC総会が開幕。

この時 決め手になったのが
立候補各国のプレゼンテーションでした。

田畑が 最終プレゼンターを頼んだのが…

日本のオリンピックの父・嘉納治五郎が
亡くなった時

偶然 船に乗り合わせて
最期をみとった人物です。

平沢は 各国の委員に
東京開催の意義を訴えました。

(拍手)

東洋と西洋の融合を掲げた
平沢の名演説に

万雷の拍手が起こりました。

投票の結果は 2位に3倍以上の差で圧勝。

日本中が歓喜に沸く中

オリンピック運営の総責任者となった
田畑は 一人 思いを巡らしていました。

[ 心の声 ] この東京オリンピックで

平和とスポーツのすばらしさを
世界中の人々に届けよう。

まず 田畑が実現させたのが…

アテネを
スタートして

先の戦争の戦場となった
アジアの国々を走る。

前代未聞の
大イベントです。

延べ46日間。

10万人にリレーされた聖火は
一路 国立競技場へ。

(実況)そして いよいよ開催国
日本選手団の入場であります。

田畑たちが聖火を託した
最終ランナーは…。

(実況)栄光の最終走者は
昭和20年8月6日生まれ

無限の未来と可能性を持った
19歳の若者

坂井義則君です。

二度と あのような悲劇を
起こしてはならない。

そんな 平和へのメッセージが
込められていました。

♬~

競技が始まると…。

「東洋の魔女」と呼ばれた
女子バレーボールチームの圧勝など

日本人選手が大活躍。

一方で…。

(実況)アベベ 今ゴールイン!
見事 優勝を果たしました!

…など 国の違いを超えて

惜しみない拍手が送られました。

そして 世界に鮮烈な印象を与えたのが
閉会式です。

選手たちは 国ごとでなく
自由に手を取り合って 行進しました。

このスタイルのフィナーレは

後に 「平和の祭典」のシンボルとして

受け継がれていきます。

♬~

去年10月 田畑政治の故郷
静岡県浜松市で

一枚の写真が公開されました。

日本初のオリンピック選手・金栗四三と

東京大会の立て役者・田畑政治。

二人の穏やかな笑顔です。

東京オリンピックの後 田畑は
長年にわたって 水泳指導に貢献。

子供向けプールなど

水泳ニッポンの
明日を支える布石を 数多く残しました。

晩年 自らの著書で オリンピックについて
こう記しています。

一方の金栗四三。

地元熊本で 生涯教育者として

マラソンの普及に努めました。

1967年 75歳となった金栗のもとに

スウェーデンの
オリンピック委員会から

手紙が届きます。

かつて 競技中に倒れ…

ストックホルムでは
サプライズが待っていました。

ゴールの瞬間 温かい拍手とともに
場内放送が流れました。

「これで
ストックホルムオリンピックは…」。

来年 半世紀を経て
再び オリンピックがやって来ます。

日本と世界
心揺さぶられる熱いドラマが

きっと 待っているはずです。

♬~


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