ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「柔道家 嘉納治五郎 五輪を呼んだ男」 玉木正之、為末大、村田直樹、朝比奈彩…


出典:『ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「柔道家 嘉納治五郎 五輪を呼んだ男」』の番組情報(EPGから引用)


ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「柔道家 嘉納治五郎 五輪を呼んだ男」[字]


大河ドラマにも登場する嘉納治五郎の真実に迫る。柔道の創始者が世界に目を向け、オリンピック誘致に命をかけた理由は?柔道の実技も体験!MCの岡田准一がプロファイル!


詳細情報

番組内容

戦前、東京オリンピック誘致に命をかけた男がいた。柔道の創始者、嘉納治五郎だ。大河ドラマにも登場する嘉納治五郎を、MCの岡田准一がプロファイル!▽今や世界中で愛される柔道は、明治時代にどうして生まれ、なぜ世界中に広まったのか?▽スタジオでは柔道の実技を体験!▽日本が戦争に突き進む時代に、嘉納がオリンピックに情熱を注いだ理由とは?▽自身も武道を習い鍛錬する岡田准一が、嘉納治五郎の思いに迫る60分!

出演者

【司会】岡田准一,【ゲスト】玉木正之,為末大,村田直樹,朝比奈彩




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ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「柔道家 嘉納治五郎 五輪を呼んだ男」
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日本発の文化で
世界で 最も広まったものは何か?

アニメ? ラーメン?

実は 柔道だといわれています。

今や 200に上る国と地域で行われ
競技人口は 350万以上。

今回の主人公は
その柔道をつくった男…

いよいよ来年に迫った 東京オリンピック。

選手への熱い声援で
日本中が盛り上がる!

なかでも
「日本のお家芸」といわれるのが…

山下泰裕 谷 亮子などの名選手を
数多く 輩出し

金メダルへの期待は 膨らむばかりだ。

だが 明治時代 柔道が生まれた当初は
今では考えられない マイナーな存在だった。

創始者の嘉納治五郎は
苦難の末に柔道を広める。

幼い頃から勉学は優秀。

だが 体が細く ひ弱な治五郎は
いつも いじめに遭っていた。

そこで治五郎は 強くなるため

日本古来の「柔術」を研究し
柔道をつくりだした。

最初の入門者は 僅か。

しかし 50年ほどで
世界中に広まるようになる。

一体 どうしてなのか?

そして 日本が戦争へと突き進む時代。

治五郎は 平和の祭典 オリンピック開催に
情熱を傾けていく。

日本が国際的に孤立していく中

治五郎は…

柔道の父にして
日本のオリンピックの父。

「柔よく剛を制する」
嘉納治五郎の生涯を プロファイル!

♬~

継ぎはぎだらけで
ボロボロになった稽古着

これは 嘉納治五郎が
学生時代に着ていたものだ。

柔道の創始者といえば
屈強な男を想像するが…

実は 現在の東京大学に通う
インテリ青年だった。

幕末 嘉納治五郎は

現在の兵庫県神戸市にある
御影村で生まれた。

酒屋などを営む裕福な家に育ち

勉強熱心で早熟な子供だった。

7歳の頃には
家族に こんなことを言っている。

そんな治五郎をしつけ
後々まで影響を与えたのが…

治五郎は よく家で
近所の友達と遊んでいた。

そんな時には 母がお菓子をくれる。

母は お菓子を まず友達から与え
治五郎は 決まって最後だ。

時には
治五郎の分が残っていないこともあった。

母は 文句を言う治五郎を こう諭した。

人としての生き方を示してくれた
最愛の母だったが

治五郎が9歳の時に 亡くなってしまう。

翌 明治3年 治五郎は…

東京には 文明開化の空気が充満していた。

治五郎は
外国人が教師を務める学校に入学。

英語や数学 政治学などで
優秀な成績を収めた。

だが そんな治五郎にも
一つだけ悩みが…。

小柄で ひ弱だったため
成績を妬む生徒から

暴力のいじめに遭っていたのだ。

そんな時 治五郎を支えた言葉がある。

幼いときからの口癖で
ケンカに負けたとき

母を亡くしたとき つらいときには

この言葉を胸に ふんばっていた。

[ 心の声 ] (治五郎)なにくそ!
強くなってやる!

治五郎は
柔術を習っていたという知り合いに

何とか教えてくれと頼んだ。

敵の急所を狙い 息の根を止める術として
戦場で用いられたものだった。

だが…。

明治9年には 「廃刀令」も出され
武士の伝統は 時代遅れとなっていった。

嘉納治五郎の研究家…

治五郎が柔術を学んだ理由を
こう考えている。

やっとのことで
柔術の師匠を見つけた治五郎。

と思ったが…。

来る日も来る日も ただ…

師匠に技のかけ方を尋ねても
こう言うだけだった。

この時 治五郎の脳裏に
再び あの言葉が浮かんだという。

[ 心の声 ] (治五郎)なにくそ!

教えてもらえなくても
研究すればいいんだ!

これは 治五郎が考案した
その名も 「柔道人形」。

人間と同じように関節が曲がる
特製の人形だ。

治五郎は こうした道具を使って

重心の位置や足 腕などの使い方を…

更に 他の武術や相撲の技なども
取り入れた。

そして 柔術を習い始めて およそ1年後。

相手が つかみかかってくる刹那
低く かがみこむ治五郎!

次の瞬間 肩の上に担ぎ上げ
上から投げ飛ばした!

後に 「肩車」と命名される

突進してくる相手の力を利用した大技だ。

ひ弱だった治五郎が

強い相手を倒すために編み出した理論が
実を結んだ瞬間だった。

そして治五郎は 稽古を積む中で
思わぬ発見をしていた。

1881年 治五郎は20歳で
現在の東京大学を卒業。

同級生の多くが官僚など
エリートコースに進む中

治五郎は…

翌年には 教師を続けながら
東京・上野に道場を開く。

この時 治五郎は
それまで学んできた

「柔術」という名を改め
新しい名前を付けた。

人殺しの術ではなく
稽古を通じて お互いを高めあう

「1つの道」という意味だ。

今や世界中で愛好される柔道が
誕生した瞬間だった。

さあ ということで。
すごいですね やっぱ こう

これだけ世界に広まっている
日本の文化といっても

間違いじゃないものになってると
思いますけど。

どうですか? 為末さんは。
嘉納治五郎に どんな印象が。

陸上で一番になるってのは
僕ら 今からでも まあ…

今から無理ですけど
「選手」は頑張ったら できるんですけど

陸上をつくるってことは
できないんですよね。

そういう意味で スポーツの
ある一つの競技をつくる人って

世界に まあ 何人かしかいないので

そのうちの しかも
オリンピックに入ってる競技の一つを

日本人がつくったっていう意味で
ほんとに すごいなあという。

朝比奈さんは 嘉納治五郎。
私 今回 初めて聞きましたね。

あっ 知らなかったですか?
知らなくて。

その柔道をつくった人っていうことを
聞いたので

それこそ もっとガタイが大きくて

強いような人なのかなって
思ってたんですけど

何か か弱い方なので 結構 衝撃でしたね。

玉木さん どうですか?

僕は 彼の書いた英語を
読んだこと あるんですよ。

もう ほんと
ネイティブのような英語ですよ。

それから 頭のいい人だったから

柔術を柔道という新しいスポーツに
つくり上げることができたと。

岡田さんは その格闘技とかも
よく されてるじゃないですか。

だから もう嘉納先生って
ほんと柔道の父になってるから

いわゆる神格化もされていて
ちょっと でも…

そうですね。
今日は ちょっと思いながら。

ここからですね 嘉納治五郎を
プロファイルしていきたいと思います。

最初のテーマは
「なぜ 柔道をつくったのか?」

こちらにテーマを
ひもとくリストがありますが

為末さん どれが気になりますか?

(為末)じゃあ この いじめられっ子。
いじめられっ子。

(為末)ずっと強い人がつくっていたら
自分が勝つことで

一生懸命だったんじゃないかって
気がするんですけど。

僕が子供の時
結構 足が速かったんですけど

あんまり陸上 広めようって感じよりは

お前… 俺が先だ。
「俺が一番だ」っていう。

まあ そういう意味で
何か早い段階から

教育とか普及に意識がいったのは

何か そういう
勝ち負けだけじゃない何かを

柔道から体験したっていうの
おっきいんじゃないかっていう気が

何となくするんですよね。

朝比奈さんは 嘉納治五郎は
なぜ柔道をつくったんだと思いますか?

(朝比奈)母 定子さん。

やっぱり お母さんの影響って
すごいあると思うんですよね。

普通だと柔術を学んで 強くなったら
目標達成することじゃないですか。

だけど やっぱり
お母様の思いも受け継いで

誰かの道を こう差し伸ばせるような
みんなが幸せになってほしいとか

それで 柔道っていうのを
つくったんじゃないかなあって思います。

確かに ここ大きいですよね。

それと あの酒屋問屋 商売人の小せがれ
あえて 小せがれと言いますが

で 生まれた 育ったっていう
その環境はね

僕は 大きいと思うんですよ。

それで いくら お金を持っていたとしても
地位的には高くないんですよね。

例えば 勉強いくらできてもね

それこそ お役所入って
総理大臣になるんだぞと

そういうふうな道筋への
ベクトルっていうのは

あんまり向かないんですよね。

そこで 自分が
どうして歩んでいくかっていう時に

柔術を通ってやったと。

これは 彼にとってのね すごく 何か
オルタナティブな道筋をね

こう見つけたっていうようなところ
あると思いますね。

研究のために
柔道人形を作っていましたが。

当時の男が 人形を持って
こうやって研究してたら

「あいつ 人形で遊んでるけど」
というふうに。

(玉木)ちょっと おたくっぽいよね。
(朝比奈)そうですよね。

(玉木)自分でやって 自分の体が こうなる
ああなるとかっていうのっていうのは

自分の中の経験で
考えるもんじゃないですか。

それを人形に置き換えて
それを上から見て

体が こうなるんだっていうのは…

何何道って 多分 この辺から
付き始めたんですよね。

これ 柔道が最初ですね。
(為末)最初ですかね。

ってことは ちょっと最近ので
これで正しいか 分からないですけど

何とか2.0って よく言うじゃないですか。
だから あんな感じで

ある言葉を こう
言葉のフレームワークを作り出して

それ以降は 何か
何何道っていうのを付けてくのが

普通になっていく
一番最初だった気もするんで

そういう意味では 何か
こういうのは マーケティングとか

コピーライターっていうのか
分からないですけど。

100年たって… だって残ってるって
結構すごい言葉 残した人だなっていう。

やっぱり 何か
母の言葉が おっきいんだろうなって。

他人のために尽くせっていうところから

人を いわゆる
壊すっつったら変ですけど

柔術で倒すっていうものから
自分が変わってきた体験をもとに

人が育っていくんだっていう。

大発見が すごくあったんだと
思うんですよ。

柔道の競技人口は 男女合わせて…

国際柔道連盟に加盟している国と地域は
今や 200を超える。

しかし 嘉納治五郎が
21歳で道場を始めた時…

なぜ治五郎は 性別や地域を問わず

誰もができるものにしようと思ったのか?

21歳の時に 治五郎が上野に開いた道場。

「道を教える」という意味を込め
「講道館」と名付けた。

3年後 講道館の柔道を
広く認めさせる機会が訪れた。

警視庁が主催した武術大会で
柔術家との試合が組まれたのだ。

警視庁側は
屈強な現役警官の柔術使いたち。

対する講道館は ひ弱なインテリ上がりという
治五郎の弟子たち。

戦前の予想は 警視庁の圧勝だった。

ところが…

講道館の精鋭たちは 柔術使いを圧倒。

9勝1分けという完勝を収めた。

なかでも 名を上げたのが…

西郷は 「山嵐」という
柔道独自の技で

柔術家を完膚なきまでに
たたきのめした。

西郷は 後に
小説 「姿三四郎」のモデルとなり

柔道と共に 広く知られることとなる。

この結果 警視庁では 柔術に代わり
柔道を採用することになった。

講道館の入門者も一気に増えた。

5年後には 3000人を超えるまでになる。

治五郎は
更に 女性にも柔道を広めていく。

武術は 主に
男性のやるものとされていた。

しかし 女性からも
柔道を習いたいと申し込まれた。

治五郎は 入門を許した。

治五郎は 30歳で結婚。

妻・須磨子にも柔道を習わせて
自ら練習相手も務めていた。

柔道を教える中で
治五郎が大事にしていた言葉がある。

この姿勢が
柔道の根底の精神だというのだ。

治五郎が
「精力善用」の効果について語った

貴重な肉声が残っている。

道を学ぼうとする者は…

この治五郎の考えのもと
柔道は 海を越えて広まることになる。

1889年 治五郎は 勤め先の学校から
海外視察に派遣された。

中国からヨーロッパまで
船で世界を巡る旅だ。

その途中で 偶然
柔道を披露する機会が訪れた。

同じ船に乗っていたロシアの海軍士官と
試合をすることになったのだ。

大きなロシアの兵士と 小柄な治五郎。

誰もが ロシア側の勝利だと思った。

ところが…

治五郎は ロシア人を
あっという間に投げ飛ばした。

しかも 相手のケガを防ぐため

とっさに手を差し伸べて…

柔道は その場の人々をたちまち魅了した。

その後 治五郎は 繰り返し海外へ渡航し

技の実演や講義を通して
柔道の普及を図った。

アメリカでは 第26代 大統領
セオドア・ルーズベルトも柔道を学んでいる。

治五郎は 世界に柔道を広めた理由を
こう書いている。

こうして 柔道は アメリカのみならず
ヨーロッパや世界中に広まっていった。

続いての
治五郎をプロファイルするテーマは…

柔術を どう改良して柔道にしたのか

具体的に 講道館の村田さんと共に
見ていきたいと思います。

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

治五郎は まず どこを変えたんですか?

(村田)この そのものズバリですから
危険性 これを排除すると。

例えば 腕を取ったと。

これを こう…。

今は 手が決まったまま。
(村田)手が 上へ向いてますね。

これは もう投げないですけれども
空中に浮いてくと

自分の体重でもって 空中に浮いてる間に
ベキベキベキッていってしまう。

折れてしまう。
そういうことです。

これで相手を傷つけて もう殺傷に至る
そういう技も 全部除きました。

それから 安全の方では受け身ですね。
投げられても痛くない

安全に また 次の稽古が
できるっていうのがあります。

これは 横にとる受け身ですね。

これも体が落ちる前に 手が…
ハイスピードで見ると分かるんですけど

先に 畳を打って 衝撃を…。

きれいだ。

(村田)投げる方は 投げる技術。
投げられる方は 受け身の技術。

こうやって…

これがですね 嘉納師範の
精神の「自他共栄」という

相手と共に高めあう。

これは柔道に限らず 人間生活一般に
応用できるであろうというわけで

もう 人の道という意味において 柔道
というふうにも変わってくるわけですね。

嘉納は 更に技を体系化した。

細かく分類することで 門下生が
技を習得しやすくしたのだ。

分けることっていうのは 分かることに
やっぱり つながるんですね。

分けていくと
すごく理解ができるという。

こういう形態を こう分けていったのは

嘉納治五郎先生が教師をしてたから
というのもあるんですか?

あると思いますね。
ご本人も 小さい頃から

人に物事を教えるのが好きであったと
書いておられます。

教育的センスっていうのは やっぱり
たっぷりあった人だと思いますね。

日本的には 何ていうんでしょうね
あんまり明文化しない。

背中を見て学べっていうのが
教え方 多い気がする。

当時 そうですよね。

教師だったってことと
外国人との触れ合いがあって

彼らに伝えるには
こういうものが残ってないと 多分…

(村田)まさに そうだと思いますね。

治五郎は 女性が柔道をすることを
勧めたわけですけども

どんな思いで柔道を
女性に広めたと思いますか?

女性の方が やっぱり 男性の
その 治五郎さんよりも か弱いですし

強く生きて やっぱり幸せになって
もらいたいっていうことを考えると

男性女性 関係なく
広めていきたいっていう一心だけで

そういうふうに どんどん どんどん広く

されていったんじゃないかなと
思いますね。

女性を代表して 朝比奈さん
ちょっと やってみませんか?

はい いいんですか?

まずは お手本。 これは…

相手の動く力を利用して
タイミングが合えば

力の弱い女性でも投げることができる。

(朝比奈)せ~の 1 2。
あっ いけますね じゃあ。

投げるコツはですね
払う時 袖は下に引く。

襟は ハンドルを回すように こうやると。

そうすると 体全体が
こう使えるわけですよね。 (朝比奈)はい。

朝比奈さんに
男性を投げてもらいましょう。 どうぞ。

(朝比奈)1 2。
お!

(為末)今のきれいに足が。
どうでしたか? 投げてみて。

えっ 何か 結構 全然…

こんなに 何か 人の体って
簡単に動いちゃうんだな

というのは すごい実感しましたね。

タイミングが合うと 気持ち良く。
(朝比奈)すごい気持ち良かったですね。

おっしゃるとおりですね。    技っていう。
そうです そうです。

ではですね
なぜ 誰もができる柔道というものを

目指したんだと思いますか?

とにかくオープンな人だったんじゃないか
という気が

偏見がなくて 学びたい人に対してには
オープンにしてって。

そういう意味で世界中の人が
もし 乗れるスポーツ

いや 武道になるとしたら
どういうルール

どういう基準でないと
いけないかっていう

そういうふうに考えたような節があるなあ
というような気がしますね。

西洋から いろんな文化をもらって
日本が債務ばっかりで

債権がないっていうふうなこと
書いたりしてるわけじゃないですか。

その債権としての日本文化としての柔道。

これ 世界に広めるためには 誰もが
やれないと駄目だっていうふうな。

日本の文化を取り戻したり
日本の それこそ魂を取り戻すためには

そういう柔術からの流れで
新たな道っていうのを

つくりたかったんだろうなっていう
気はしますけどね。 はい。

明治時代の半ば以降

日清戦争 日露戦争を通じて 日本は…

国際的に摩擦を引き起こしていく。

こうした時代に
治五郎は 新しい取り組みを始めた。

発足 間もない オリンピックへの参加だ。

当時…

やがて治五郎は
東京オリンピックの開催を目指すようになる。

学生の頃 治五郎は
将来について こう考えていた。

教職に就いた治五郎は すぐに頭角を現す。

1893年には 32歳の若さで 教員を養成する
高等師範学校の校長に就任。

以後 26年にわたって
優秀な教師を育てることに心血を注いだ。

一方 明治日本は
西洋列強に肩を並べるべく軍備を増強。

1895年には 日清戦争で勝利。
大陸進出の足がかりを作る。

1905年には 日露戦争で
大国ロシアをも打ち破り

欧米諸国を驚かせた。

領土への野望を隠さない日本は

同時に他の国々から
警戒されることにもなった。

治五郎は そんな日本の姿を
どう捉えていたのか?

そんな中 新たな希望を感じさせる話が
舞い込んだ。

48歳になった治五郎のもとに
フランス大使が訪ねてきた。

大使は ある人物からの伝言を
預かってきたという。

それは フランスの
クーベルタン男爵からだった。

柔道の普及で 欧米でも
その名がとどろいていた治五郎に

力になって欲しいのだという。

クーベルタンは
古代オリンピア競技を手本に…

彼の唱える…

初めて聞く オリンピック精神。
だが 治五郎は

これこそ 自らの主義
「精力善用」の西洋版だと直感した。

クーベルタンの考えに共鳴した
治五郎は…

そして 3年後

治五郎は 第5回ストックホルム大会で
オリンピックに初参加。

開会式では 選手と共に団長として行進。

選手は たった2人。
それでも治五郎は 胸を張った。

選手たちには こんな言葉をかけた。

成績は 惨憺たるものだった。

だが 治五郎は
笑顔で選手を迎えたという。

援助も ほとんどなく
資金繰りに苦労しながらも

治五郎は オリンピック参加を続けていく。

そして 第9回アムステルダム大会。

日本の選手は 陸上競技で初優勝。

水泳でも 金メダルを獲得する。

初参加から16年
ようやく つかんだ快挙だった。

日本選手の活躍とともに
オリンピックへの関心は高まり

国民が一丸となって応援し始めた。

スポーツという文化が
日本に定着しつつある。

いつしか治五郎は 夢を抱いていた。

だが そのころ 日本社会は
混乱が続いていた。

1923年に関東大震災が発生
東京は 壊滅的な打撃を受けた。

やっと復興の道筋が見え始めた6年後…

今度は…

日本経済は冷えきり
町には失業者があふれた。

そうした中 東京市長 永田は
思い切った構想を打ち出した。

「オリンピックだ。

東京で開催すれば 市民に活気を
取り戻すことができるのではないか?」

と 永田は考えた。

議会は…

…と決議した。

諸外国との競争である オリンピック誘致。

そのキーマンは 人望 実績からいって
嘉納治五郎をおいて他にない。

市民の希望は 治五郎に託された。

治五郎は 東京オリンピックの招致活動に
没頭していく。

71歳の時だった。

また 嘉納治五郎の新たなステージで
戦ってる感じがしますけども。

嘉納治五郎をプロファイルする
続いてのテーマは…

こちらに テーマをひもとく
リストがありますが

どれが気になりますか? 朝比奈さん。

東京市長の永田さん。

その当時は 日本が暗く どうしても
なっちゃってたわけじゃないですか。

東京市長さんから お話を頂いた時に
治五郎さんは やっぱり

その何事にも諦めないっていう精神を
やっぱり お持ちだと思うので

やっぱり 一回 頼まれると
自分が諦めずに 力になれることは

100% 120%で返してあげたいっていう
思いがあって。

当時でいうと
無謀なことかもしれないですけど。

何か いろんな人を こう受け入れて

全ての人に柔道をって言っていく
性格から考えたら

ちょっと それは無理なんじゃないかとか
というのを

あんまり言えない人っていうか
言わない人だったんじゃないかと。

奥さんだったら どうですか?
こういう旦那。

私が 奥さんだった場合は

ちょっと 一回 待った方が
いいんじゃないかって思いますね。

やっぱり 事が大きすぎるので
やっぱり 一人の力じゃ… ねっ

なかなか難しいことを やり遂げようと
してるわけじゃないですか。

これ でも
ずっと やりたかったんですよね。

東京に来てほしいっていう…。
(玉木)いや どうでしょう。

東京は アジアの極東の地になると

これ 大変なことぐらいは
まず 分かってたと思うんですね。

でも あの クーベルタンも教育者でね
クーベルタンと文通なんかする中で

クーベルタンが その オリンピック始めたのは
平和運動だったんですよね。

それに ものすごく共感したと思いますよ。
なるほど。

だから これは少々 遠くって
うまくできなくても

やらなければいけないもんだっていう
ぐらいの

そのパワーが
湧いてきたんじゃないかなっていう

そんな気がしますけどね。

教育者としての共感もあるんでしょうね
多分ね。

(玉木)絶対ありますよね それは。

為末さん リストの中で
気になるものはありますか?

やっぱり この
「オリンピックに初参加」ですかね。

実際 立った時は
やっぱり違う感じがしましたか?

その オリンピックっていうものは。
うまく言えないんですけど

何か どの選手も
4年 長かったよなっていう感じの。

「今から戦うんだけど まあ でも この4年
いろいろあったけど よかったよね

俺たち ここまで来れて」
みたいな感じの同志感があって。

それ でも 何か
柔道の精神につながってくるというか

それを 何か感じたんですかね 現場で
嘉納治五郎さんは。

やっぱ
本当の仲間になれるみたいな感覚。

何ていうんですか
他では話せないけど

プレッシャーのことは お互い話せるみたいな
感じのものができるっていうのは

確かだと思うので。
そういうのを もしかしたら

感じたのかなっていう気がしますね。

自然と友達になれる
つながり合えるものって

平和につながっていく
国境を越えるものみたいなのとか

その物事を頑張った人たちが
味わえる何かってあるじゃないですか。

それを 何か きっと
成長や平和につながるっていうものを

感じたんじゃないでしょうかね。

嘉納治五郎の意外な一面を紹介。

急に クイズが始まりました。
(笑い声)

じゃあ いきたいと思います。
クイズ こちらです。

講道館を開いて 間もない時にですね
治五郎は 父と食事に出かけました。

父を喜ばせようと
うなぎ屋さんに向かうが

その時 治五郎は どうしたか?

「1 肉が食べたくなって 父ともめた」。

「2 お金がなく 父に支払ってもらった」。

「3 店が見つからず そのまま帰った」。

さあ 考えられる… おっ。
はい いいですか?

(玉木)おっ 面白くないですね。

みんな2! なぜ 2だと思うんですか?

いや 柔道に熱中しすぎて
お金がなかったっていう。

あるようには思えないよね。
(為末)ええ。

正解は 3番です。
(朝比奈)3番!?

(朝比奈)そうなんですね。
意外と計画性がなかったりして。

何か こういう穴があるっていうの
見つけたっていう。

完璧すぎて いろいろ探した結果
これが出てきた…。

(笑い声)
(玉木)すばらしい。

アジア初の東京オリンピック。

東京市は 震災や不況にあえぐ社会を
明るくする起爆剤として期待した。

しかし 日本政府にとっては
「国威発揚」の格好の機会だった。

世の中は ますます
戦争の色が濃くなってゆく。

さまざまな思惑が交錯する中 治五郎は
オリンピック東京開催に奔走する。

戦争へと向かう時代の波は
国民全体を巻き込んでいく。

それは 治五郎も例外ではなかった。

1932年 五・一五事件が発生。

首相の殺害という 過激な手段で
国家改造を図ったのは

海軍の青年将校たちだった。

事件に共鳴した
講道館の若い柔道家たちは

治五郎を批判し…

しかし 治五郎は 毅然として
彼らを こう諭したという。

だが 日本は ますます軍国化していった。

1933年 満州を巡り
諸外国と対立した日本は…

東京へのオリンピック招致は
困難な状況に陥った。

1936年7月 ベルリンで

次のオリンピック開催地を決める
総会が開かれた。

東京誘致の演説をするのは

もちろん…

この時 最終候補に残っていたのは
東京と フィンランドのヘルシンキ。

しかし 東京は 圧倒的に不利だった。

実は 当時 オリンピックは
欧米以外では開催されていなかった。

東洋の開催は 長距離移動という
大きな壁があったからだ。

加えて 日本は世界から孤立し
何もかも不利だった。

だが 治五郎は…。

何度も逆境をはね返した あの精神…。

(拍手)

果たして 結果は…。

万歳!

36対27。

東京市が オリンピック招致に成功した。

しかし 治五郎が愉快だったのは
ほんの つかの間だった。

翌年…

何を行うにも
軍が優先される時代に突入する。

オリンピックの委員会には
東京市長や オリンピック委員・治五郎の他

政府 軍部の幹部が ずらっと並んだ。

それぞれが権利を主張し
開催まで3年を切っても準備は進まない。

メインスタジアムの場所さえ
決まっていない ありさまだった。

東京開催を不安視した
国際オリンピック委員会は

日本に 最後通告を出した。

翌年 治五郎は 再び船上の人となり
カイロを目指した。

77歳の治五郎には きつい長旅だ。

だが それ以上に気が重いのは
総会のことだった。

案の定 総会では…

…と激しく批判された。

そんな空気が充満する中
治五郎は 立ち上がる。

委員たちは 大きくうなずいた。

(拍手)

30年近く国際オリンピック委員を続け
最長老だった治五郎。

その言葉は 委員たちにとって
何より重かった。

会議が終わって 握手攻めにあう治五郎。

その目には
うっすらと涙が にじんでいたという。

帰国の途につく治五郎の貴重な映像。

幾多の困難を乗り越え
壮大な夢をかなえた男の姿。

だが これが生前の最後の姿となった。

帰りの航海で 治五郎は
突然 高熱を発し 肺炎を併発。

そのまま帰らぬ人となった。

77年の人生だった。

治五郎の死から 僅か2か月。

日中戦争が激化し
日本は オリンピック開催の返上を表明。

治五郎の墓前にも
東京オリンピック中止が報告された。

♬~

(実況)心も浮き立つような
古関裕而作曲の

「オリンピック・マーチ」が鳴り響きます。

(拍手)

オリンピックに
こんなに力を こう かけて

貢献された方だったっていうのを
ここまで知らなかったので

すごく びっくりしましたね。

これ 最後はねえ 何か

自分の理想をぶつけたというような
もう気がしてならないですね。

理想を。
(玉木)う~ん。

東京オリンピックまで2年という時にね
国立競技場も決まってない。

で 軍部の圧力は どんどん増してくる。

一方で ヨーロッパの情勢も
おかしくなってね。

ナチスが どんどん台頭してきたと。
さあ ここで オリンピックやめれば

戦争にというか 政治に
負けることになるんじゃないかと。

ここは やっぱり やろうよということの
演説だったなあと

今 見ていて思ったんですけどね。

政治の影響を受けちゃいけないっていう。

そう言い続けないと
すごく便利なものなんですね やっぱり

オリンピックとか スポーツってのは。

まさに ナチスドイツが
オリンピックを使ったみたいに

これだけ人の心を動かすってことは
良い方に使えば 良い効果があるし

悪い方に使えば いくらでもできてしまう。
それはスポーツ自体がそうなんですけど。

何か この芸術とかスポーツの
最後の糸みたいなものを

切らないようにっていう
平和への思いっていうのも

あったんじゃないかなっていうのは
思いますね。

嘉納治五郎さんにとっては
平和運動だったってことですかね。

まあ 人を殺す技術を
もともと変えて…。
うん。

そう 平和的なスポーツに
武道にしたわけですからね。

私 何か このタイミングでも お母さんが
出てきたのかなと思ったんですけど。

何か 母親が やっぱり人のために
生きなさいっていうことを

自分の中でも ずっと強く思っていて

今の日本に 自分が
何ができるって考えた時に

活気のある日本に戻すためには

オリンピックを
持ってきたりだとかっていうことが

一番力になるっていうことを
考えたのかなって思いましたけどね。

オリンピックをするということが
今できる

最善の教育だったんだろうなって
思いますけど。

戦争に突き進む時代の中で
国の方針には 表立って反対はせず

柔道の精神を守ろうとした
治五郎ですけれども。

コミュニケーションも柔道的っていうか。

殴りにいったりしないって感じ
ですよね。

こう きても そうでなくて…。
うまく…。

まいて。 だけど まあ 何か
中庸っていうんですかね。

重心をどこに置くべきかっていうのを

すごく よく思想の上でも
分かってた人なんじゃないかなっていう。

(玉木)軍部がね こう台頭して来た時に

講道館は中正道でないといけないって
言ったわけじゃないですか。

これ 何か やっぱり
講道館を守ると同時に

日本全国に こう メッセージ発してると
思うんですよね。

ちょっと みんな頭冷やせよ
みたいな感じでね。

だから 最後の演説がね
今 改めて聞いたらね

ほんとに こう…

今 もう一度 それを
そういう声を大にして

オリンピックを迎えたいような
気がしますよね。

どうですか? 今日。 生涯を見てきました。

真面目に生きようって。
(笑い声)

すごい 感動しました。

でも やっぱり たくさん
心痛めることあっただろうし

何だろう… 心の豊かさを広めたいのに
そうはなっていかない時代の流れとか。

それこそ むなしさも
感じていたかもしれないけど。

そういうのは 何か すごく感じながら

有意義だったろうけど
どうだったんですかね

しんどいことも たくさん
あったんじゃないかなっていう。

だからこそ 創始者として 柔道家として
名前を残してるというよりも

単なる こう 柔道が
強いだけでは なりえなかった

父として名を残してる方だとは
思いますけどね。


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