ファミリーヒストリー「堺正章~父は伝説の喜劇役者 引き継がれる覚悟~」 父は喜劇役者・堺駿二。250本の映画に出演した…


出典:『ファミリーヒストリー「堺正章~父は伝説の喜劇役者 引き継がれる覚悟~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「堺正章~父は伝説の喜劇役者 引き継がれる覚悟~」[解][字]


父は喜劇役者・堺駿二。戦後、多くの映画に出演した名脇役だった。今回、唯一、主演した作品が72年ぶりによみがえる。映し出された父の姿に正章さんは驚きを隠せなかった


詳細情報

番組内容

父は喜劇役者・堺駿二。250本の映画に出演した名脇役だった。正章さんが22歳の時に亡くなり、ルーツや父の人生について聞くことができなかった。それが今回、新たな事実が浮かび上がる。旅回りをしていた子役の頃や師匠・早川雪舟との出会いなど、苦労を乗り越え、役者として成長していく姿がそこにあった。さらに終戦後、父が唯一、主演した作品が72年ぶりによみがえる。映し出された父の姿に正章さんは驚きを隠せなかった

出演者

【ゲスト】堺正章,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子

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♬「バンバン ババババ ババババン」

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1960年代 若者たちを熱狂させた
伝説のグループ…

♬「あの娘の唇が」

その メインボーカルを務めたのが…

♬「僕を呼んでいる」

多くのドラマで主役を務め
次々に ヒットを飛ばしました。

参ったか! 黒風大王!

今年で 芸能生活57年。
今も第一線で活躍しています。

そんな正章さんの父・堺 駿二さんは

戦後250本以上の映画に
出演した

人気の喜劇役者でした。

正章さんが 22歳の時に亡くなったため

家族の歴史について 父から聞いたことが
ほとんど ありませんでした。

今日のゲストは 堺 正章さんです。
よろしくお願いします!

どうぞ。

あっ どうも こんにちは。
(拍手)

どうも。

どうぞ こちらの方へ。
はい 失礼をいたしま~す。

いや~ さあ…

そう そのとおりです。

♬~

浅草寺の境内に建てられた
一つの碑があります。

森繁久彌。

寅さんで おなじみの
渥美 清など共に

その名が刻まれている人物こそ

昭和を代表する
喜劇役者 堺 駿二。

正章さんの父です。

堺 駿二。 本名は 栗原正至。

大正2年12月10日
現在の東京都墨田区に生まれました。

栗原家の戸籍です。

正至は
父・重吉 母・たけの三男。

8人きょうだいの
末っ子でした。

栗原家が暮らしたのは
主に 墨田区の南側。

明治25年 たけが重吉と
入籍したと記されています。

しかし それより前の記録はありません。

そこで 手がかりを求め向かったのは…

(拍手)

ボンボンブラザースの
鏡味繁二郎さん 75歳。

本名 栗原重夫。
正章さんの いとこです。

正章さんの父・正至の兄の
次男にあたります。

15歳の時から この道に入った
芸歴60年のベテランです。

(拍手と歓声)

(取材者)どうも よろしくお願いします。

鏡味さんは 栗原家の写真を
数多く持っていました。

正至の父・重吉
母・たけの写真がありました。

正至が育った栗原家は
どんな暮らしだったのか?

鏡味さんが見せてくれた 一枚の家族写真。

母・たけ そして幼少の頃の

正章さんの父・正至が 写っています。

こんな写真があるんだねえ。

正至の兄・栗原留吉。

浪曲師をしていました。

明治28年生まれで

末っ子の正至とは
18歳も年が離れていました。

鏡味さんが保管していた栗原家の写真には
長男・留吉が 数多く写っています。

(鏡味)はい。
(取材者)これは…。

栗原家に 今も伝わる伝説の男。

大正期から
昭和初期にかけて 人気を博した…

浅草のレコード店に
昭和初期に吹き込まれた

小柳丸のSPレコードが
今も置かれていました。

これですね 「亀甲組」ですね。

こんなのがあるの。

♬~

この港家小柳丸から
栗原家を調べてみることにします。

昭和4年の新聞に
小柳丸の記事を見つけました。

「生まれは 本所緑町
純粋の江戸ッ子。

小柳丸の天才的な芸能は
メキメキ腕が上がって

十三歳の時には 立派な
真打ちとなっていました」。

(拍子木)

ようこそ おいで下さいました。
四代目 港家小柳丸でございます。

≪小柳丸!
ありがとうございます。

小柳丸の名跡を継いだ
四代目 港家小柳丸。

♬~

初代 小柳丸について伝え聞いています。

人気を集めた浪曲師 小柳丸が
大正11年に 父・重吉のために

盛大な葬儀を出したと伝える
新聞記事が見つかりました。

「孝行者で 桶屋をしていた
父が亡くなった時などは

自分の住みかも
長屋も売り払って

盛大に父の葬儀をした
というほどである」。

小柳丸の父・重吉は
桶屋を生業としていました。

風呂桶や 小さな桶を作る職人でした。

栗原家が 桶屋を営んでいたことから
作られた浪曲があるといいます。

初代 小柳丸の弟子・小柳が

師匠への思いを込めて作った浪曲です。

大正11年 桶屋を営んでいた
父・重吉が亡くなった時

正章さんの父・正至は
9歳でした。

栗原家の墓所で
撮られたと思われる写真です。

栗原家の戸籍にあった
住所付近の寺を調べてみると

台東区橋場にある古寺
保元寺であることが分かりました。

95歳になる保元寺の住職が
音声で 取材に応じてくれました。

しかし 大正12年の関東大震災が起きると
下町一帯が消失します。

その後 区画整備が進められ
保元寺は 土地の⅔を失います。

多くの檀家が 墓の移転を迫られました。

栗原家も 大正15年に
移さざるをえなくなります。

保元寺から
墓を移転したことを示す書類が

東京都公文書館に
残されていました。

正至の兄・小柳丸の本名

栗原留吉の名が
記されています。

ところが 墓を移転してから
何十年たったあとも

先祖を供養するために この寺を
訪れていた人物がいたといいます。

正章さんの父・堺 駿二こと 正至です。

浪曲師として活躍する
兄の影響もあったのか

正至も また
芸能の道に進むことになります。

父・重吉の死から 2年後の大正13年。
まだ11歳の時でした。

戦後 時代劇を中心に
名脇役として

数多くの映画に
出演した…

大正13年 正至は 僅か11歳で
役者の道へと進みました。

正至の少年時代のことが知りたいと
訪ねたのは

正章さんの姉・藤倉由紀子さんです。

どうも いらっしゃいませ。
(取材者)今日は お世話になります。

遠いところを
ご苦労さまです どうも。

正至は 尋常小学校を卒業しないまま
役者の道に入ります。

当時のことを 後に インタビューで
語っている記事を見つけました。

「母が大変な芝居好きで

よく お伴をさせられて
見物に行ったものだ。

しかし 役者になろうなどとは
夢にも思わなかった。

私が この道に入ったのは
全く母の勧めによるものだ。

母は 公園劇場を中心に活躍している
伊村義雄さんに頼み

その子供部に入れてくれた」。

伊村義雄とは 新派劇出身の俳優。

大正時代 20代半ばで
一座を立ち上げました。

大衆演劇について研究している…

当時の雑誌に載った
伊村義雄の人物評があります。

「大の癇癪持ちで 幹部であろうが
太夫元であろうと関わらずに

叱咤するほどの変人である」。

正至は 伊村義雄一座に加わった

11歳の頃を振り返って こう語っています。

うわ~ これ すごい。

それでも 正至は
決して 弱音を吐きませんでした。

正至は 整った顔だちで
女形も演じています。

小村正雄という名が 最初の芸名でした。

ここに 正至が役者になってすぐの
大正13年から 昭和2年までの

伊村義雄一座の公演パンフレットが
保存されていました。

すごいな~。 はぁ~。

配役表を見てみると
大正13年9月の公演で

小村正雄は 忰・市松役。

昭和2年の公演では

長女・おきぬ役を
演じていました。

正至は 伊村について
一年中 旅をしながら舞台に立ちました。

一座に入って8年目の 昭和6年
正至が 18歳の時でした。

アメリカから帰国した
一人の俳優の舞台を見て

正至は魅了されます。

その俳優の名は 早川雪洲。

アメリカ映画界で
東洋の貴公子として 一世を風靡し

その帰国は 注目を集めました。

雪洲は 劇団を作り
日本各地を公演して回ります。

居ても立ってもいられなくなった 正至。
伊村義雄一座から 逃げ出します。

そして 兄・小柳丸の親友で

雪洲の同級生でもあった

浪曲師 東家楽燕にすがりつき

雪洲の弟子になろうと画策します。

早川雪洲の評伝を記した…

本を執筆するにあたって 雪洲に関する
数多くの資料を収集しました。

昭和7年
弟子は取らないという雪洲のところに

100日間 通い詰め
ようやく一座に加わることが許されます。

そして 雪洲から
新たな芸名をもらいました。

昭和9年4月の 公演パンフレット。

そこに 堺 駿二の名がありました。

雪洲から もらった この名を
生涯 芸名として名乗り続けました。

それが 正章さんの芸名 堺 正章へと
受け継がれていったのです。

このころから 駿二の役者としての
持ち味も確立していきます。

雪洲は 駿二に こう言いました。

「君は まともな役より ちょっと足らない
役どころの方がいいねぇ」。

駿二は 雪洲の付き人もしていました。

ある日
映画の撮影現場に同行した時のことです。

こんなインビュー記事がありました。

「例の『新しき土』で 早川雪洲先生と
いっしょに ちょい役で出ました」。

昭和12年に公開された
日独合作映画「新しき土」。

雪洲と 当時16歳だった
原 節子の主演です。

現在 市販されているのは ドイツ版。

しかし そこには 駿二が出演する部分は
ありませんでした。

そこで 改めて「新しき土」について
調べてみたところ

ドイツ版の他に 伊丹万作監督の
日英版が残っていることが分かりました。

そのフイルムは 映画の収集・保存・研究
公開の活動を行っている

国立映画アーカイブに所蔵されています。

それが この映像。

行進しながら ラッパを吹く男。

更に 車を降りる男も 駿二でした。

クレジットもない
エキストラではありましたが

若き日の夢膨らます姿が
そこにありました。

みましたね。

切り開いた!
すごいですよね。

雪洲一座に加わって まもなく
駿二は 一人の女性と暮らし始めます。

幹 千代子。 後の正章さんの母です。

続いては 千代子の若き日を追います。

大正5年 千代子は
東京市深川区八名川町

現在の江東区新大橋に生まれました。

父親は 幹 賢三郎 母は コウ。

幹家は その後の昭和9年4月に
日本橋小網町に転籍しています。

正章さんの姉・藤倉由紀子さんは

昭和20年3月の東京大空襲の日に
日本橋小網町の 母の実家にいました。

当時 幹家は 紙問屋を
営んでいたのではないかといいます。

日本橋地域の連合町会長でもある
中野耕佑さんの家の住所付近が

幹家があった場所だと考えられます。

…だろうな という。

当時 辺りは
日本橋川や 箱崎川に面した一角。

昭和12年の地図です。

船着き場が近くにあり

酒 米 しょうゆや ろうそく
紙などを扱う問屋が軒を並べていました。

由紀子さんは 母・千代子の
若かりし日のことを伝え聞いています。

学校を卒業すると
千代子は 芸能の道に進みます。

戦前の浅草レビューなど
芸能史を研究する 小針侑起さんです。

昭和8年に発行された雑誌
「映画と演芸」。

芸名が…

新入団員の紹介欄にあった 千代子の名前。
芸名は 三浦たま子。

大正5年1月生まれ 東京・深川出身。
住まいは 東京・日本橋。

昭和7年 千代子が入ったのは
松竹少女歌劇団でした。

当時の松竹歌劇団のスターは

「男装の麗人」と謳われた ターキーこと…

その名が付いた ファン向けの雑誌が
作られるほどの大人気でした。

昭和7年9月発行の
松竹歌劇団の機関誌「楽劇」。

入団 間もない 当時16歳の千代子が書いた
文章が掲載されていました。

タイトルは 「初舞台の感想」。

「私たちの初舞台の日が
日一日と近づいてきました。

この日の来るまでの上級の方や
先生方の稽古ぶりは大変なものです」。

東京・東銀座にある 松竹大谷図書館。

昭和8年6月公演の
「真夏の夜の夢」のパンフレット。

三浦たま子こと 幹 千代子は
「踊り子E」として出演しています。

更に 「グランドレビュー アベック・モア」では
巡査役としても出演していました。

千代子は セリフのない
大勢の踊り子の一人だったようです。

しかし その後
三浦たま子の名は なくなります。

昭和8年6月に起こった
ある事件が関係していました。

それは 桃色争議とも
ターキー争議とも言われました。

松竹と歌劇団との間に起こった労働争議。

スターであった 水の江瀧子が先頭に立ち
歌劇団の待遇改善を求めたものです。

争議の影響もあったのか
千代子は このころ歌劇団を離れました。

僅か2年ほどの在籍期間でした。

堺 駿二が
千代子と出会ったのは このころです。

当時のことを
駿二は 後に こう語っています。

「彼女と結婚致しましたのが
有名なターキー争議の頃でして

同情変じて恋となり」。

まもなく2人は
一緒に暮らすようになりました。

千代子は その後 舞台に立つことはなく

役者としての夫を
支えていくことになったのです。

いや~ いかがでしたでしょうか?

知らなかった。
そうですか。

昭和11年 妻・千代子との新生活が
始まって まもなく

駿二は 思わぬ岐路に立たされます。

師匠 早川雪洲が 日本を離れ

映画の撮影のため
パリに向かうことになったのです。

師匠 雪洲と別れることになった堺 駿二は
ヤパンモカル劇団に入ります。

「やっぱり儲かる」を もじった

このおかしな名の劇団で中心だった役者が
通称・シミキンこと 清水金一です。

浅草の舞台で隆盛を極めた
エノケン ロッパが

日比谷の大劇場に拠点を移したあと
浅草の人気者になりました。

得意は アドリブによるドタバタ。

駿二は シミキンとの共演によって
喜劇役者としての才能に磨きをかけます。

シミキンと 堺 駿二のコンビを見ていた
作家の滝 大作さんです。

小学生の時 近くの女学校で行われた

慰安会での
2人の喜劇が 忘れられないといいます。

シミキンと駿二のコンビは

浅草ツッコミコントの
原点だと言われています。

芝居のストーリーとは関係のない
ギャグの連打のようなコントでした。

駿二は ボケというより
困った状態をリアルに表現し

観客の笑いを誘いました。

家庭では 昭和13年に
千代子との間に 長女・由紀子が

翌14年には 長男・正雄が生まれます。

仕事でも家庭でも
充実した日々を送っていました。

しかし 昭和15年

シミキンが 突然 映画に出るため
舞台を離れると言いだしたのです。

シミキンの行動に 駿二は戸惑います。

駿二は この時
一種の自己嫌悪に陥っていました。

舞台に立てなくなると
その日暮らしの役者稼業にはこたえます。

当時の駿二の様子が
ある小説に書かれていました。

直木賞作家 色川武大が書いたものです。

正章さんの姉・由紀子さんのアルバムに
こんな写真が残されています。

ある旅館の名前が記されていました。

旅館を調べたところ 場所は 熱海ではなく
伊東であることが分かりました。

明治22年創業の老舗です。

おはようございます。

82歳になる 社長の北岡貴人さんです。

北岡さんは
戦前 堺 駿二が働いていたことを

先代である父から聞いていました。

しかし 長続きしません。

まもなく 駿二は 旅館を辞め

富士吉田市に暮らす親戚を頼り
小さな店を開きました。

富士吉田市の商店街。

田中利明さんの住まいの隣が

かつて 駿二が店を出していた場所だと
分かり 案内してもらいました。

ただいま。

昭和31年 結婚して この土地に来た
田中さんの母・なつゑさんです。

駿二一家のことを伝え聞いていました。

しかし 駿二は
なかなか 商売に身が入りませんでした。

昭和17年 駿二は いま一度
役者として生きていくことを決意します。

映画会社との契約が切れたシミキンが

浅草で 舞台を再び始めるにあたり
駿二に声をかけてきたのです。

一度 シミキンに裏切られた駿二でしたが
迷いはありませんでした。

後に 駿二は
役者の生き方について語っています。

「役者とて 人間なのだから
好き嫌いはある。

こんな相手とは やりたくないとも思う。

しかし 一たび舞台に立ったら
好き勝手なことは言えないはずだ。

お客のために ベストをつくすこと
それが役者の本筋ではないだろうか」。

シミキンが付けた新たな一座の名は
「新生喜劇座」。

「リンゴの唄」でも知られる
詩人のサトウハチローも

作家の一人として参加しています。

しかし 前年に始まった太平洋戦争が
舞台に影を落とします。

脚本の事前検閲で 公演の10日前までに

所轄の警察に
提出しなければなりませんでした。

劇場には
臨検席という警察官の席があり

脚本以外のことを言っていないか
逐一 チェックしていたのです。

日本の近現代演劇を研究する
早稲田大学 演劇博物館…

舞台が終わったあと
シミキンは 警察官にやりこめられます。

駿二や 一座の役者たちも
一緒に呼び出しを受けました。

どんな厳しい状況になっても

駿二は 二度と役者を辞めようとは
思いませんでした。

昭和18年に入ると 駿二は

松竹少女歌劇団の大スターだった
水の江瀧子が結成した

「劇団たんぽぽ」に加わりました。

そんな ある日 駿二に赤紙が届きます。
昭和19年4月のことです。

出征直前に撮った
家族写真。

横須賀海兵団に配属されることになった
駿二は どこか浮かぬ顔。

駿二は 千代子と3人の子供たちのことが
心配だったのです。

そんな時 助けてくれたのが
水の江瀧子でした。

「家族のことは心配しないで」。

水の江は 駿二の家族に

劇団員としての給料を
支払い続けると申し出たのです。

駿二が 横須賀海兵団で担当したのは
炊事係でした。

昭和20年8月 戦地に行くことなく
横須賀で終戦を迎えます。

駿二は 復員後すぐ
劇団たんぽぽの舞台に立っています。

作家の色川武大は
この時の様子を書いています。

(観客)堺! 堺! 堺!

堺 駿二 31歳の時でした。

そうですね でも…。
うん。 芸の道は イバラだ。

なるほど。

そうですねぇ。
うん。

昭和21年。
栗原家に次男が誕生します。

それが 後の堺 正章さんです。

ちっちゃい時 お父様に似てる。
あっ そうですかね。

栗原家は 4人の子供に恵まれ
6人家族となりました。

この年 駿二は 浅草の舞台から
映画界に進出することを決断します。

戦後になり 娯楽の中心は
舞台から映画へと移っていました。

俺だって真剣だよ。

自分ばっかり いい子になって

俺 俺 俺… どうでもいい…。

おじさん 泣くの よしなよ
大人のくせに。

子供のくせに
大人を慰めんなよ。

美空ひばり 大友柳太朗など
映画スターを支える脇役として

軽妙な演技を披露します。

昭和28年に出演した映画 20本。

昭和29年には 18本。

そして 昭和30年には
25本もの映画に出演しました。

当時 毎週のように 駿二が出演する
映画が封切られていました。

鎌倉に大きな家を建てたのも
このころです。

11歳で役者生活を始めてから 30年。

堺 駿二は 超売れっ子の俳優となります。

駿二の付き人を務めていた人物が
新潟県糸魚川市にいると知り 訪ねました。

池田正夫さん 79歳。

昭和33年から 5年間
駿二の仕事を そばで支えました。

駿二の言葉です。

これは正しい。

駿二は 付き人の池田さんに対しても
常に温かく接していました。

時代劇に よく出演していた駿二。

東映 京都撮影所の仕事が
特に多かったといいます。

おはようございます。

殺陣師ですよ。

お久しぶり!

池田さんとは 55年ぶりの再会です。

すごいな~!

菅原さんは 昭和35年
もともと 東映に俳優として入社。

当時 活躍していた堺 駿二を
憧れの先輩として眺めていました。

11ステージ。
ここで数多くの時代劇が撮影されました。

撮影のため
京都で ほとんどを過ごした駿二。

自宅のある鎌倉に帰るのは
年に数回のことでした。

僅かな休みを過ごすと
駿二は すぐに京都に戻っていきます。

家族は 父に会えない代わりに
出演する映画を見にいきました。

そんな中 まだ幼かった正章さんは

父の映画を見る度に
ある不満を抱くようになります。

旦那! 旦那!

昭和37年 16歳になった正章は
高校在学中に

ジャズ喫茶や米軍キャンプで演奏していた
ザ・スパイダースに加入します。

1年かけて 父・駿二を説得しての
芸能界入りでした。

ザ・スパイダースは 田辺昭知をリーダーに

堺 正章 かまやつひろし

そして 井上 順などのメンバーが躍動。

♬~

昭和41年から ヒット曲を連発。

次々と主演映画も作られていくほどの
大人気グループとなっていきます。

♬~

(歓声)

堺 正章さんの1歳下で おなじみ…

楽しいステージを作ることに手を抜かない
正章さんの姿を 鮮明に覚えています。

当時の大ヒット番組
「てなもんや三度笠」の

ディレクターを務めた…

駿二を 第1回目のゲストとして
迎えました。

駿二が 息子・正章のことを
うれしそうに語る姿を覚えています。

大人気となった息子・正章。

父・駿二は 自宅に押し寄せるファンにも
嫌な顔をせず 接していたといいます。

そんな日々の中で 当時54歳の駿二の
役者人生は 突然 終わりを告げます。

昭和43年8月10日。

新宿コマの喜劇に出演中
突然 倒れたのです。

脳いっ血でした。

共演していた…

出演者たちは 駿二が倒れたことを
客に気付かれぬように最後まで演じ切り

幕を閉めたといいます。

正章さんは 静岡でスパイダースの公演中。

東京に駆けつけた時には
駿二は 既に亡くなっていました。

昭和45年に
ザ・スパイダースが 解散したあとも

正章さんは
歌手として ヒット曲を出します。

♬「幸せすぎたのに」

ドラマでは
父が果たせなかった主役を演じ

芸能界の先頭を走り続けていきます。

正章さんは このころ ようやく

役者としての父の生き方を
理解できるようになったといいます。

その後も 正章さんは
活躍の幅を ますます広げます。

歌やドラマだけでなく
司会やバラエティーで

欠かすことのできない存在と
なっていったのです。

いつも こう思うんですよ。
はい。

名脇役として活躍した
堺 駿二でしたが

実は 1本だけ
主演を務めている映画がありました。

軍隊から帰り 役者に復帰した
昭和21年に公開された

「破られた手風琴」。

アコーディオンを奏でる青年と
若い女性歌手とのラブコメディーです。

正章さんは この映画を
一度も見たことがありません。

映画を製作した松竹に
調べてもらったところ

フィルムが残っていることが
分かりました。

20分ほどの短編です。

この番組のために
初めて ビデオ化してもらいました。

うわ~! すごい これ。

そこには 戦後 新たな時代となり
喜劇役者として成功を夢みる

若き日の堺 駿二の姿があります。

♬~

♬~

はあ~… こんなんだ。

♬~

この映画は 短編ということもあり

ひっそり公開されたまま
忘れられていました。

東京・有楽町にある
映画演劇文化協会の書庫。

堺 駿二さんの 最後となった舞台の
パンフレットが保管されています。

その中に 出演者たちに
こんな質問が投げかけられていました。

「もし 俳優になっていなかったら
何になっていたと思いますか」。

「汽船の無線士」

「銀行の支店長」と
他の俳優たちが答える中

駿二さんは こう回答していました。

偉い。

役者として生き抜いた人生が
そこにありました。

♬~

この地に 昭和を代表する詩人
サトウハチロー記念館があります。

「リンゴの唄」「ちいさい秋みつけた」などの
詩を書いたハチローは

昭和29年
「堺 駿二」と題した詩を書いていました。

ほお~…。

ハチローの次男で 館長の…

(佐藤)「堺 駿二
頭でッかち 金ツぼまなこ

どうひいきめにみたとても
役者のやの字の資格もない」。

あと何年 この芸事ができるか
分かりませんが

何か 再スタート切れるような

いいものを
見せて頂いた感じがします。


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