ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」 中尾彬、知花くらら、松尾貴史、岡田准一



出典:『ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」』の番組情報(EPGから引用)


ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」[字]


「料理は芸術」という名言を残し陶芸や書などマルチに活躍した北大路魯山人。厳しい生い立ちから美と食に人生をかけ、日本一の料亭を作り上げた魯山人の人生をプロファイル


詳細情報

番組内容

人生を「美と食」にかけた北大路魯山人の人生を岡田准一がプロファイル!名言「料理は芸術」を残し、陶芸や書などマルチに活躍した魯山人は、幼少期、親の愛を知らずに育った。やがて頭角を現し、昭和初期には日本一の料亭と言われる星岡茶寮を作り上げる。しかし、高い理想を追うあまり、高価な古美術を買いあさり、気に入らない従業員を辞めさせることも。そして突然、自分の城である料亭を解雇される。魯山人の数奇な人生とは?

出演者

【司会】岡田准一,【ゲスト】中尾彬,知花くらら,松尾貴史






『ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数BEST10)

ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」
  1. 魯山人
  2. 房次郎
  3. 自分
  4. 中尾
  5. 料理
  6. 知花
  7. 星岡茶寮
  8. 竹四郎
  9. 東京
  10. 松尾


『ザ・プロファイラー~夢と野望の人生~「北大路魯山人 美を追い求めた男の孤独」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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(岡田)今では当たり前のようですが

この言葉が生まれたのは
なんと 80年以上も前。

北大路魯山人。

書 陶芸 そして料理で才能を発揮した

芸術家の言葉です。

しかし 魯山人は その才能ゆえ
波乱の生涯を送りました。

陶芸に書 そして
料理に非凡な才能を見せ

昭和の美術界に
新風を吹き込んだ…

傲慢 不遜と
言われようとも

自分のやり方を
押し通した。

魯山人は 都心の一等地に…

自ら料理長となり
理想の料理を目指して…

その味に魅せられ 歴代の首相をはじめ

一流の財界人や名高い芸術家が集まった。

しかし 魯山人に認められた者だけが

美食の門をくぐることを許された。

高い評価の反面 徹底的に美を追求し

完璧を求める姿勢は
周りとの軋轢を生んだ。

気に入らない…

「高い理想を掲げる人物は
必ず非難されるものだ」。

魯山人は どんな批判にも動じなかった。

…魯山人。

しかし
思いもよらない落とし穴が待っていた。

自ら立ち上げた料亭を
追放されたのだ。

一体 なぜ?

今夜は 孤高の芸術家 北大路魯山人。

全てを犠牲にして 「美しさ」を追い求めた
激しくも切ない生涯を

プロファイル!

♬~

さまざまな分野で
優れた作品を残した魯山人。

しかし 魯山人は
美術学校に通ったことも

陶芸の先生に
ついたこともなかった。

ほとんどが
幼い頃からの独学だ。

父は上賀茂神社の神職の家柄だったが
魯山人が生まれる前に亡くなった。

母 登女は…

女手ひとつで
息子を育てられるほど

家計に余裕がなかったのだ。

房次郎を待っていたのは
養父母の冷たい仕打ち。

棒で殴られるなどの暴力も
しょっちゅうだった。

養子先を転々としていた頃の…

3歳の時 里親の娘に背負われ
房次郎は上賀茂神社の裏山を登った。

そこには 5月の陽光の中で
まっ赤な山ツツジが咲いていた。

4度目といわれる養子先は
貧しい木版職人の家。

6歳の房次郎は ここで
やっと落ち着くことができた。

房次郎は 養父母に気に入られようと…

米は 水切り時間や火加減によって
全く違う味に炊き上がる。

房次郎は研究を重ね 安い三等米でも
一等米のようにおいしくする

「米炊き名人」となって 親に褒められた。

房次郎は 他にも
さまざまな料理を作って 気に入られる。

人生で初めて
自分が人に認められたと感じた。

このころ まだ見ぬ母の面影を求めて
ひそかに何度も訪れた場所があった。

それは 京都市内の二条城。

そんな房次郎の孤独を慰めてくれたのが
絵だった。

将来 絵描きになれたら…。

房次郎は養父に
絵の学校に行きたいと頼むが

そんな余裕はないと断られた。

何とか 金を稼ぐ方法はないものか…。

12歳の時 房次郎は養父に こう頼んだ。

養父は 仕事を手伝うのならと

房次郎が自分で小遣いを稼ぎ
絵筆を買うことを許した。

房次郎は 仕事を手伝う中で
彫刻や絵画に親しみ

その基礎を身につけていった。

小遣い稼ぎのために目をつけたのは
賞金の出る「一字書きコンクール」だった。

何千という応募作の中から
房次郎の書は 最高位の…

初めて自分の手で
金を稼ぐことができたのだ。

自信をつけた房次郎は
その後も次々と賞金を獲得した。

房次郎の書は どんどん上達し

養父が 「うちのせがれは すごい」と
周囲に自慢するほどだった。

他のことよりも…

ですから 後になって…

里親を転々とし 常に人の顔色を
うかがいながら生きてきた 房次郎。

書で生計が立てられれば
そうした日々から解放される。

「東京へ行って 書の修業をしよう」。

そんなことを考えていたある日

実の母が東京にいることが分かった。

房次郎は すぐに
母を訪ねて東京へ向かった。

母は ある男爵の屋敷で働いていた。

生まれて20年間 会えなかった母。

どんな人だろうか? 初めて会う自分に
どんな言葉をかけてくれるのだろうか?

ところが…。

母は黙って外に出ていき
着物と下着を買ってきてくれた。

突然訪ねてきた息子へ せめてもの親心だ。

だが うれしさが込み上げたのも
つかの間だった。

すごい幼少期というか 愛を探している
魯山人の姿が見えましたけども

陶芸や絵もお好きで 個展も開かれている
中尾 彬さんですけども

魯山人は どういうイメージですか?
ただ威張ってた おやじだね。

書でも よく書いてるけど…

…という そのものがピッタリの人ですね。

他を認めないっていうかな。

だからこそ ものが創れる。

私たちも そうでしょ?

そんなことないですよね?
(松尾)皆さん すばらしいと思ってますよ。

俺は認めてないよ 絶対に。

知花さん… くららさんは
書道をやられてるということで。

そうなんです。 やっぱり あの 魯山人も
書から始まった方ということで

何だろうな すごく こう
古いものに美しさを感じて

それを追求された方なんだろうなって
思いました。

見て どうですか? いや やっぱり なんか
すごく個性的ですよね。

この釉薬の使い方とか。

形も独特ですし。

魯山人と同じ 関西出身の松尾さん。

また 大きく くくって頂きまして
ありがとうございます。

すごくストイックに何かを追求なさってた
っていうイメージの裏腹に

やっぱり 食を追求するっていうのは

ある意味 一番大きな欲望を追求する
っていうことでもあり

ある種の対極にあるのを両方に持って
活動をしていた人なんだろうなという。

つまり 欲を追求するけど
ストイックであるっていうね。

それでは 最初のプロファイルテーマに
いきたいと思います。

「なぜ芸術の道を目指したのか?」。

知花さん プロファイリングリストの中で
気になるもの ありますか?

やっぱり 「6歳で米炊き名人」ですかね。

だって 6歳って 小学校入るか

入らないかっていう
年ですよね。

なんか その年で

自分は認められたい
ここに居場所を作るために

自分から その世界に飛び込むって…。
すごいですよね。

承認欲求っていうんですかね
そういうものの活路が

飯を炊くっていうところに
見いだされたっていうことで

だから その後もきっと 認めてくれた人が
いるっていうジャンルで

ガッと頑張る気持ちを持てたっていう。

(中尾)入り口でしょうね。
(松尾)「書で賞金を稼ぐ」っていうのもね。

これは やっぱり 自分から何か
投資するわけにはいかないから

元手の要らないもので
何か儲けようっていうと

やっぱり その クリエイティブな発想とか
技術っていうもので

生活の糧とするっていう それ見つけたら
やっぱり手放したくないですよね。

ほんとに居場所がなかったんだなって
思いますよね。

なんか自分でほんとに稼ぐ
お金を稼ぐとか

どうやって生きていくんだっていうことを
すごく考えてる。

中尾さん リストの中で
気になるものっていうと 何ですか?

(中尾)「赤」ですな。
「まっ赤な山ツツジ」。

(中尾)やっぱり 色ですよ。
各自みんな
色を持ってると思うの。

その色っていうのは
私 今でも

自分の絵の中には
絶対 その色が出てきちゃうんだよね。

中尾さんにとっての その色は何ですか?

それは小学生の時にね
私の目の前が海だった。

砂浜に 漁師さんが使ってた船
腐った船が 骨格だけ残って。

それがね すごく美しかったのね。

それ描いて 「廃船」というタイトルで。

それが たまたま…

一緒ですね まさに。
俺は絵がうまいんだと思い込んだもん。

そして 気になるのが
まだ見ぬ母親を捜して

東京まで会いに来た時に 冷たく
あしらわれてしまうっていうこと…。

(知花)なんか少しこう
お母様に抱いてるものって

恋心に近いような
そういうものも

あったんじゃないかなと
思いました。

本能的なところを
満たされなかったがゆえに

それを渇望にして
芸術の道を突き進んでいったっていう…。

お母さんが
手を差し伸ばしてくれなかったしさ

「だったら いいよ 俺一人で生きていくよ」
というのは

そこから芽生えてる部分はあると思う。

なんか
言葉が合うか分からないですけど

パッて浮かんだのは
「失望」っていう言葉が
出てくるんですけど。

なんか 子供の時に
失望するって

すごいことじゃないですか。

でも どこでも
邪魔者扱いされてしまって

母を感じて 背中で抱っこしてた時に
なんか 「これ美しい!」

「ここだけが美しいんだ」って思えた。

ちょっと満たしてくれる何か
みたいなのが

なんか
芸術に向かうきっかけだったのかなって。

魯山人が作り
「天下の料亭」とうたわれた 星岡茶寮。

魯山人は 料理や器はもちろんのこと

料理人の服装や仲居の接客

室内の装飾品に至るまで
全てに 徹底的にこだわった。

魯山人は そこに
理想の世界を実現しようとしたのだ。

東京で
書をなりわいに暮らしたい房次郎だが

当初は 生活のため
別の仕事もしなければならなかった。

そのころから
美しいものへのこだわりは桁違い。

貧乏暮らしの中でも
金に糸目はつけなかった。

ある会社に勤め
昼食に豆腐を食べていた房次郎は

課長に こんなことを言われた。

房次郎が使っていたのは

ギヤマンと呼ばれる
紅ガラスに切り子細工を施した骨とう品。

実は…

安い豆腐でも 器ひとつで
おいしくも まずくも見える。

後に 「器は料理の着物」と表現した考えは
このころから芽生えていた。

若き房次郎にとって
美術品は「先生」だった。

いにしえの書を見る 骨とうの器を使う

全ては 自分の…

そのためには…

24歳で結婚し
2人の子を授かっていた。

ところが 房次郎は
みごもった妻と長男を東京に残し

美術の研究のため
朝鮮半島へ渡ってしまった。

2年後 日本に戻った房次郎に
大きな転機が訪れる。

京都の実業家 内貴清兵衛の
食客になったのである。

裕福な風流人だった清兵衛は
房次郎を気に入り

屋敷に ただで住まわせた。

房次郎は たまに雑用をする以外は

清兵衛の集めた飛び切りの古美術品を
手に取り 美しさの秘密を研究した。

食い道楽の房次郎は 市場に足を運び

自分と清兵衛のために
料理を作るようになった。

房次郎の出す料理は
ごちそうを食べ慣れている清兵衛でさえ

うまいと褒めた。

この時 清兵衛が発した言葉は
房次郎が生涯忘れない教えとなった。

再び 東京に戻った房次郎。

この時
共同経営者となったのが中村竹四郎。

竹四郎は
写真雑誌のカメラマンをしていて

美術の知識も豊富だった。

2人は すぐに意気投合。

銀座や京橋で飲み歩き
深夜まで芸術の話に花を咲かせた。

そして
深い信頼関係を
築いていく。

房次郎にとって 初めて…

ところが 店を開業した直後
株式市場が暴落。

大不況となってしまう。

店には閑古鳥が鳴くばかり。

何とかお客を集めなければと
房次郎は苦肉の策をひねり出した。

それは 売り物の皿や鉢に
料理を盛ってお客に食べてもらい

気に入れば器を買ってもらうという
型破りなアイデアだった。

貴重な美術品の器で
うまい料理が食べられると

口コミでうわさが広まり
店には客が殺到した。

2人は この商売を
「美食倶楽部」と命名した。

このころから 房次郎は
新たな雅号を名乗るようになる。

後に 昭和の美術界にその人あり
と言われる

北大路魯山人の誕生だった。

美食倶楽部をやり始めて4年目
関東大震災が発生。

大雅堂も焼け落ちてしまう。

ところが 常連客から
美食倶楽部を再開してほしいという声が

次々に寄せられる。

この時 魯山人の脳裏には
あの言葉がよみがえっていたという。

魯山人は 竹四郎と
全く新しい「食の殿堂」を築こうとした。

出資者を募り
国会議事堂を望む東京のど真ん中に

会員制の高級料亭 「星岡茶寮」を開業。

大料亭だ。

経営の一切は 親友の竹四郎に任せた。

魯山人の肩書は顧問。

自由な立場で
現場の陣頭指揮を執るためだった。

魯山人が目指したのは
料亭に入ってから帰るまで 客が…

そのため 星岡茶寮には

数々の常識を打ち破るアイデアが
込められていた。

まず こだわったのが 料理の根本 食材だ。

京都市の北西の山あいを流れる…

魯山人は自ら川を訪ね
ここの鮎を星岡で出したいと考えた。

しかし 鮎は傷みやすく

京都から東京へ運ぶと
3~4日は かかるため…

そこで考えたのが はらわたを残すため
鮎を生きたまま運ぶこと。

鮎を死なせないよう 48時間つきっきりで
水をかき混ぜ 酸素を送り続けた。

流通網が発達していない昭和初期

魯山人は途方もない手間と大金をかけて
最高の食材を全国から取り寄せた。

魯山人は 料理の出し方にも
独創的な工夫を盛り込んだ。

それまでの正式な日本料理では

お膳に いくつも料理をのせて
一緒に出したため

おわんの汁が冷めてしまうことも
しばしばだった。

しかし 魯山人は
作りたてのおいしさにこだわり

一品ずつ料理を出し
濃い味の料理は続けて出さなかった。

現在の日本料理では珍しくない
この出し方は

魯山人のアイデアだった。

更に 客の好き嫌いを記録して
決して嫌いなものを出させなかった。

魯山人は 従業員の立ち居振る舞いも

料理の味に影響する
重要な要素だと考えた。

そのため 仲居には生け花や茶道を習わせ
洗練された所作を身につけさせた。

全ては お客様に喜んでもらいたいという
魯山人一流のもてなしだった。

一番のこだわりは
魯山人が「料理の着物」と言った 器。

料亭の規模から考えれば
5, 000点の食器が必要だった。

他の職人が作る器では満足できない
魯山人は

膨大な数の器を自ら作るようになる。

箸置きのような小さなものにも
気を配った。

更に 火鉢や床の間の掛け軸
風呂 便器まで自ら作り…

魯山人の中に…

…っていうのが
あったと思うんですね。

会員には 政治家 作家 実業家など

各界の名士が集まり

星岡茶寮は 今を時めく高級料亭として

名をはせた。

しかし 魯山人が認めない人物は
会員になれなかった。

その人が どれだけどうであろうと
何をしてようが…

星岡茶寮は 魯山人にとって…

すごいですね 厳しい理想郷というか。

今で言うと 「こだわり」っていう言葉で
片づけられちゃうんでしょうけどね。

「なぜ食の理想郷を築こうとしたのか?」
知花さん 気になったリストを…。

(知花)そうですね… 「うまい料理を
美術品の器で食べさせる」。

でも どんなに古い古美術品も
作られた当時は

もしかして 普通に
使われていたかもしれないですし

器なら やっぱり 使ってみて その魅力が
はじめて出るのかなとも思いますし。

すごく こう 理想形というか 食と器の
共演の理想形だったのかなって。

美しさが日常の中にあるっていう
感じなんですかね。

なんか 美しいって 飾っときたいとか
そういうのもあるかもしれないですけど。

僕の友達の目利きは

例えば 室町時代かなんかの
800万円ぐらいする酒器を

通常 使って それで
出してくれたりするんですよね。

でも こっちは貧乏性なんで
「いくらぐらいするもん?」って言ったら…

「飲めないよ!」って。

…っていうふうに言われるんですよね。

気になるリスト ありますか?
僕は 「料理も芸術やで」という。

僕 この茶寮をね 作って
政財界や文化人たちを集めて

交流の場にしたっていうのも
ひょっとしたら

パリの芸術家が集まる
サロンみたいなところがあって

そういうところを自分の価値基準の中で

同じ世界観を持ってる人たちに
集まって交流してほしいっていう

そういう場が ひょっとしたら
魯山人が 自分がキーになって

つくりたかったんじゃないのかなっていう
気がするんですよね。

芸術と おもてなしっていうのは
なかなか…。

もてなすっていうことは
相手に合わせることで

芸術の表現衝動っていうのは
自分に忠実にやろうっていう。

(中尾)逆だもんね。

それがピッタリ合うお客さんなんて
なかなかいないと思うんですよね。

だから なかなか難しい線を
両立させようとしたのかなぁ。

なんか 生きることへの執着っていうか
…は ちょっと感じるというか。

食べることって やっぱり
生きることじゃないですか。

それをこう 美しく 全てしたいって

なんか 幼少期のこう…

生きることへの渇望みたいな
第一の欲だし

毎日することで 美しくありたいっていう
こだわりみたいなのが

ちょっと やっぱり
原始的にあるんじゃないのかなって…。

だけど やっぱり
天下をとりたかったんだろうね。

お客さんが来て 「あそこは
魯山人 作ってるんだよ」なんて

口コミで どんどん どんどん
広がっていくじゃないですか。

有名になりたかったんだよ。

悪いことじゃないよ 決してね。
そうですね。

そこで 実際に…

それでは お願いします。
(中尾)いい番組だね。

(知花)いいですね~。
(松尾)こんなすてきな展開になろうとは。

中尾さんにはですね…

(中尾)「しの」ですか。
(松尾)ああ なるほど!

知花さんには…

(知花)まあ!

松尾さんには 信楽の丸皿に
鰊と子芋の炊き合わせ。

そして 僕の方には…

(中尾)小さい器はいいね 魯山人の。

これ 意外と私 想像してたよりも

姿が 丸みがあって
優しい感じだなと思いました。

なんかこう 石わんに温かみ
ピッタリだなっていう感じがします。

ちょっと 思ってたより
五感があるっていうか

匂いもそうだし。
持った時の多分 温かさとか。

なんか ぬくもりも ちょっと感じますね
だから想像するじゃない。

小さい時にさ。
変わらないんですかね? この時も

米を吹いてる時の感じと
変わらない何かが…。

それではですね 魯山人の器を
十分鑑賞できましたので VTRに…。

(ゲスト一同)えっ?

いや 食べるところは撮らないんですか?

食べましょうか。
(知花)やった~!

ああ びっくりした。
食べたいですね。

ここまで されて。
頂きましょう。 どうぞ。

(中尾)自然のものっていいね。
食材のうまみがすごい出てくる…。

(中尾)それは なあに?
これは鱧皮ご飯ですね。

頂きます。
(中尾)珍しいな。

これは関西の料理だね。

香ばしいです!

星岡茶寮は大成功し
魯山人は時の人となった。

…と言われたほどだ。

ところが 11年後 魯山人は

心血を注いだ星岡茶寮から追放される。

一体 何があったのか?

東京から電車でおよそ1時間。

緑豊かな北鎌倉の一角に
魯山人が作った施設がある。

陶芸の窯…

星岡茶寮で使う器を
作るため

九谷や瀬戸などから
腕利きの職人を集めた。

中には 後に人間国宝となる

荒川豊蔵もいた。

星岡窯には
古今の名品をおさめた建物もあった。

魯山人が金に糸目をつけずに
買いあさった古美術品が…

魯山人は これを
「坐辺師友」の精神と言った。

身辺にあるものこそが
師であり友であるという意味だ。

古美術を研究するには
それを身近に置いて

じかに触れるのが
一番の方法だと考えたのだ。

古美術の傑作に触れ 目の肥えた魯山人。

自分の思いどおりにならない時には

職人たちを罵倒し
次々と辞めさせていった。

一年半で
33人もの従業員が去っていったという。

星岡茶寮の料理人にも厳しくあたり…

ある時 若い料理人がほんの少し
上着の袖口を汚していた。

注意して見なければ分からないほどの
小さな斑点だ。

しかし…。

魯山人と共同経営者の竹四郎。

いつしか 従業員の間で
2人に陰の呼び名が付けられた。

竹四郎の呼び名は…

温厚で人望が厚く

魯山人に怒られた従業員を
辞めないようにと慰めた。

それに対し 魯山人は…

しょっちゅう どなっているからだ。

星岡茶寮の名声は高まり…

経営も順調のように見えた。

しかし 魯山人と竹四郎の間には
少しずつ亀裂が入っていた。

実は 魯山人が買い集める
古美術品の支払いが

天井知らずに膨らんでいたのである。

最初は竹四郎も目をつぶっていたが
出費が経営を圧迫するほど大きくなり

ついに魯山人に こう切り出した。

魯山人は 意に介さなかった。

しかし…。

一通の封筒が 魯山人のもとに届いた。

内容証明で そこに書かれていたのは…。

通知を読んだ魯山人は
顔面そう白となって ブルブル震えだし

口をパクパクさせて
ぼう然自失になったという。

それまでの自信満々な魯山人からは
想像もできない うろたえ方だった。

誰も信じない魯山人が
唯一 心を許していた竹四郎。

魯山人は 友から 捨てられた。

一方 星岡茶寮の従業員たちは

怒り狂った魯山人が
すぐにでも どなり込んでくるのではと

戦々恐々だった。

しかし 何日たっても姿を現さない。

そして ある日。

ついに魯山人が 星岡茶寮に現れた。

従業員たちが玄関に出ると…。

息苦しそうに それだけ言い 出ていった。

これが 魯山人が星岡茶寮に
足を踏み入れた 最後だった。

切ない。
さあ ということで

切ない… 切ないですよね。

「なぜ理想郷を追放されたのか?」
ということで いかがですか 松尾さん?

(松尾)いや でもほんとに その

よく怒る人って 実は優しくて 人に…。

職人を次々に
解雇しちゃうっていうのも

裏切られたって
気持ちの方が強くて

必ず正しいことをしてると
自分では思ってるんですよね。

いや 周りは大変だっただろうなって。

こう よく見る形だと思うんですね。

経営者がいて その下に
クリエイティブディレクターがいて

そのクリエイティブディレクターが
奔放すぎて

こう周りが まあ
ケアに大変っていうのは。

でも周りが こう
それまでは一生懸命ついてって…

ついてきたもの…
魯山人の期待に応えてきた。

だから魯山人も もっともっと

この子たちなら この人たちなら
応えてくれるんじゃないかっていう

その 信頼の上に成り立ってたものも

きっと魯山人の中ではあったのかな。

どこを美しいと
思ってたのかなっていうのが

ちょっと引っ掛かってるというか。

仕事場行って こう ちょっとこう

ピシッとした空気が流れてる
みたいなのが

魯山人は 美しいと思ってたのか。

だから ちょっと演じて

それに足りなかったら怒るみたいなのも

「怒らないかんのや」
みたいな 感じもあったのか。

(知花)あの 焼き物してる写真
スーツ着てましたもんね。

やっぱりこう 自分はこうありたい

この星岡茶寮
こうあるべきっていうのを

自分でもって
体現しようとしてたのかなと思います。

星岡茶寮 わしのおかげでもってるんや
っていう…。

それとやっぱり
料理屋のキッチンじゃないよね。

なんか 研究所みたいな。

ラボ的な…。
うん なんか。

だから やっぱり
きちんとしたかったんだろうね。

少しぐらい汚れたって いいじゃない。

(笑い声)
(中尾)いいじゃん もう。

働き手にも美しさを求めたっていう…。
(中尾)…なんだと思いますよ。

「俺みたいになれ」ってやつだったんだよ。

知花さん
リストの中で気になるものは?

(知花)やっぱりね… 切なかった

竹四郎からの解雇通知。

私ね 小さい時に
お母様と過ごせなくって

会いに行ったじゃないですか。

あの時に お母様に拒絶された瞬間が
もしかして

フラッシュバックしちゃったのかなと。
(中尾)多分そうだと思う。

元来 気が弱い人かもしれない。

普通 お母さんに会いに行ったら
懐 飛び込むだろう。

それも できなかった。

なんかね 見放されると
ふっと弱くなる人だね。

うん。 だからすごくショックで こう
怒りでもって迎えるっていうよりは

なんかこう
自分から距離をとってしまった。

なんかその 小心者の魯山人が… の背中が
見えたような気がして。

でもね 私は
玄関開けるまで怒ってたと思う。

怒りにやっぱり…。
うん 行ったと思う。

行ったけど…
そこで なんか 母親のこととか…。

(中尾)うん いろんなことが
フラッシュバックしたんでしょう。

みんなの顔を見た時に
母親のこと思い出したりとか。

拒絶された時の顔を…。
(中尾)そうだと思いますけどね。

はぁ 切ない…。

こっちからは拒絶してもいいけど
相手からは拒絶されたくないっていうか。

いやぁ なんかこう
弱い方だったんですねぇ。

もう でも必然だったというか

でも もう11年もやって
次の道にいこうやっていう

竹四郎からのメッセージだと
思いたいですけどね。

「自分がいないと
もう終わりますよね」っていうことは

なんか 強気で言ってるようで
本質だった気がするんですよね。

それを竹四郎だったから言えたのか

魯山人いないで できるとは
思ってない気がするんですよね。

(知花)どう思ってたんでしょうね。
そんだけ こう…

竹四郎側からしても
こんだけ 優秀な人なのであれば。

頂点があって お別れの時があるって…
ストーリーですね ほんとに。

(松尾)いや~
あとで分かり合えててほしいけどね。

(知花)え~ そう願います ほんとに。

星岡を追放された魯山人に残されたのは
北鎌倉の星岡窯。

客の注文を取り 焼き物を売って
生活するしかなくなった。

しかし そのことが かえって魯山人を
再び輝かせることになる。

なぜなら 傑作とされる作品を
次々に生み出していくのは

50歳を過ぎた
この時期以降なのである。

(梶川)たくさんの体験をしてきて…

(梶川)それまで
料理屋もやってただろうし

何かいろんな要素のことが
たくさんあったと思うんですね。

でも これからは
自分が何を生み出していくのか

生み落としていくのか
ということに尽きると思うんですね。

陶芸にのめり込んだ魯山人が
何よりも追い求めた

ある「色」があった。

それは 幼い頃 養子先の姉に
おぶわれて見た 山ツツジの色。

鮮やかな赤に衝撃を受けた。

その記憶を志野焼の器に
焼き付けようとした。

太平洋戦争の終戦から2年後
魯山人 64歳。

東京・銀座に 魯山人の作品を専門に扱う
店がオープンした。

店の名は 「火土火土美房」。

看板には 英語でこう書かれていた。

美を追求し
創作に一心に打ち込んだ結果

魯山人は 再び自信満々の
「ドラ猫」になっていた!

「火土火土美房」に置かれた作品は
東洋の土産物を求める…

その評判は海を渡り
アメリカ本土にまで広がった。

ついには アメリカ屈指の大富豪
ロックフェラー3世から…

しかも ロックフェラーは
費用の一切を出してくれるという。

ところが…。

そうは言ったものの
旅費の当てがあるわけではなかった。

結局 魯山人は 500万円
現在の価値で1億円近い大金を

借金などで用意した。

昭和29年 魯山人は機上の人となり

アメリカから
ヨーロッパ各地を回る旅に出た。

魯山人は どこに行っても
誰と会っても 魯山人だった。

フランスでは 既に世界的な名声を
得ていたピカソと面会。

反対に シャガールのアトリエを
訪ねた時は お互いに話が弾んだ。

昭和30年 そんな魯山人の功績を
高く評価する動きがあった。

文部省から 重要無形文化財保持者

いわゆる人間国宝の指定を
打診されたのだ。

星岡窯の職人たちは 魯山人が
この申し出を受けることを強く望んだ。

実は 魯山人は
欧米旅行の大借金のため

職人たちに
ろくに給料を払っていなかった。

建物の雨漏りも直せない ありさま。

魯山人が人間国宝になれば 
作品の値段は倍以上に跳ね上がり

星岡窯の経営は 楽になるはず。

しかし 魯山人は申し出を断った。

昭和34年 76歳の魯山人は
体調を崩して入院。

入院からおよそ50日
魯山人は この世を去る。

これは 魯山人が亡くなる
数か月前に書いた書。

雪の降る音のように
聞こえない音を聴く という意味だ。

(梶川)長い間 傲慢だ 不遜だ
かなり悪口を言われ

たたかれてもきたわけですね。

でも 聞こえる声ではなくて
聞こえない声っていいますか

なにか それを聴くっていうような
心境になってたんではないでしょうか。

ある種の達観の要素
なんじゃないでしょうか。

さあ ということで
晩年の 陶芸に打ち込む姿を見て

皆さん いかがでしたか?

…っていうことだけを
優先してますよっていう

多分 意思表示だったんでしょうね。

だから その 権威主義にもならないし

官におもねることも
こびることもしないっていうのは

一つのメッセージでも
あったんでしょうね。

だけど きっと星岡を追われたから
こうなったって

いいことだったんだね。

逆に ず~っと残って 料理屋のおやじ
じゃないんだな やっぱり。

名作を残してるのは ほんとに

星岡を追われてからの方が
すばらしい作品を残してるという。

だから その 雪を聴く?
はい 「聴雪」ですね。

最終的に全部こう いい味の上澄みの…

同い年なんですよね 76歳で。
あっ…。

(松尾)今 もう その域に
達してらっしゃる?   まだまだ もう…。

(笑い声)

(知花)常に やっぱり
原点を忘れない方だったんですね。

あの ツツジもそうですし。

なんかこう 失って それを表現して
失って それを表現して。

なんか ずっと幸せになれないというか

だからこそ芸術家でありえたっていう。

なんか さみしいなぁ。
難しいですよね。

今日は 魯山人を…。

(中尾)え もうおしまい?
おしまいです。

(知花)フフフフフ…。
生涯 見てきましたけど…。

ちょっと寂しそうですね。
(中尾)いやいやいや。

どうですか 中尾さん?

うん…。 そうですね…

(笑い声)

そうやって生きていこうと。
いいですね。

うん。 なんか やってること
割と似てるからさ。

もうライバルなんだ。 今日からね。

(笑い声)     何 言ってる…! 今日から。

どうですか?

いやぁ~。

魯山人に向かって いとしいっていうのも
不思議な感じがしますけれど

でも すごく不器用な方
だったんだろうなって。

自分が得られなかった お母様の愛を
ずっとずっと追い求め続けて

で 自分を表現することに
すごく不器用で

でも パッションがあって
美しいものが大好きで

なんかもう その 存在自体が
すごく いとおしい感じがします。

でもなんか 美しい… 美しさを
追い求められるって 幸せですよね。

なんか でも今の時代に
こういう こだわるって

なかなか難しい時代に
なってきているじゃないですか。

こういう時代になってるからこそ
この強烈な個性というか

今の時代で言うと わがままと
とられるような 思いみたいなのって

強さみたいなのを

一種のちょっと
狂気のような強さっていうか

そこがものを生み出すんだろうな
っていうのを

感じさしてくれる方だな
っていうのは思いますけどね。

皆さん ありがとうございました。
(ゲスト一同)ありがとうございました。

♬~


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