アナザーストーリーズ選「天皇いのちの旅(2)象徴への模索」 象徴とはどうあるべきか、模索された姿を元宮内庁職員が証言…



出典:『アナザーストーリーズ選「天皇いのちの旅(2)象徴への模索」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ選「天皇いのちの旅(2)象徴への模索」[字]


天皇陛下の歩みを「旅」をキーワードに見つめる2回シリーズ。第2夜は「象徴」を模索された姿。全国各地で励ましを受けた人々が明かす知られざるエピソード!


詳細情報

番組内容

2週連続で放送する「天皇いのちの旅」。伝統を重んじつつ、“平成流”のあり方を模索されてきた天皇陛下の歩みを関係者の証言でたどる。第2夜は「象徴への模索」。雲仙普賢岳噴火、阪神淡路大震災、東日本大震災と大きな自然災害が続いた平成の時代。その中で、象徴とはどうあるべきか、模索された姿を元宮内庁職員が証言。さらに両陛下が全国各地を訪問された中で、励ましを受けた人々が明かす知られざるエピソード!

出演者

【司会】沢尻エリカ,【出演】山下晋司,鐘ヶ江管一,緒方正実,石牟礼道子,平沢保治,千代川茂,【語り】濱田岳





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アナザーストーリーズ選「天皇いのちの旅(2)象徴への模索」
  1. 両陛下
  2. 天皇陛下
  3. 皇后
  4. 思い
  5. 水俣病
  6. ホテル
  7. 平成
  8. 時代
  9. 緒方
  10. 訪問


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(サイレンの音)

災害に見舞われた町や 小さな村。

そこに暮らす人たちを
丹念に訪ねてこられた

天皇皇后両陛下。

その歩みの奥にあった

自らへの 深い問いかけとは。

♬~

日本国憲法 第一条には
こうあります。

去年の あのビデオメッセージでは
こう述べられています。

そして こうも…。

行き先は 遠隔の地から

小さな島々まで。

歴代天皇として初めて

全都道府県への訪問を果たされた。

(拍手)

足を運ばれた市区町村は

じつに 500以上に及ぶ。

即位以来
「象徴」とは

一体 何をすべき
存在なのか

ずっと
模索してきたと

明かされた
言葉の裏には

一体 どんな思いが
あったのか?

国民と共にあり 国民を思い

国民のために祈るという事。

それが 平成の時代
大きな意味を帯びた事は

皆さんも
ご存じでしょう。

日本を幾度も襲った

大きな自然災害です。

そして その時の
ありようにこそ

「天皇とは何か」という お考えが
強く あらわれています。

第1の視点は…

昭和から平成へと
時代が変わる中で働いた

元宮内庁職員です。

伝統を守りつつも

変革を恐れない天皇陛下の
様子について 証言しました。

「アナザーストーリーズ 天皇 いのちの旅」。

第2夜は 「象徴への模索」の日々を
見つめます。

平成になって よく見られる
こんなシーン。

≪じゃんけんぽい!

≪あっ 勝っちゃった!
(笑い声)

(拍手)

(笑い声)

訪れる先での
交流を

両陛下は 大切にされてきた。

♬~

国民との距離は かつてに比べ
はるかに縮まっている。

皇室を
もっと親しみやすいものに…。

戦後 その方針を掲げたのは
昭和天皇だった。

例えば…。

(歓声)

毎年正月の一般参賀。

皇族が そろって
姿を見せるスタイルは

昭和天皇の意向で始まったと
言われる。

その意志を受け継ぐ天皇陛下は

更に 身近な ふれあいを
大切にされてきた。

昭和時代から働く 宮内庁職員は

その姿に当初 驚いたという。

「時代と共に
象徴の在り方も変わる」

と述べられている 天皇陛下。

その思いを 旅の足跡から たどる。

はい 号外です。 号外です。

1989年
昭和天皇 崩御。

「平成」という
新しい時代が

始まった。

日本国及び

日本国民統合の象徴としての
つとめを果たすことを誓い…。

平成に入り 宮内庁職員が
最も驚いたのが

天皇の公務が格段に
増えた事だったという。

昭和天皇が行っていた
公務に加え

皇太子時代からの
行事にも

引き続き出席。

更に 福祉施設などへの訪問も
始められたためだ。

そして 即位3年目
あの災害が起きた。

平成3年
長崎の雲仙普賢岳が噴火。

死者 行方不明者は 43人に上った。

噴火が まだ
断続的に続く中

新聞に
こんな記事が載った。

両陛下が
被災地を直接 見舞われる。

7月10日。

まだ小規模な火砕流が
続く中…。

(拍手)

両陛下は 多くの
犠牲者が出た

島原地区へ。

♬~

案内役だった
島原市長 鐘ヶ江管一は

まず 天皇陛下の服装に驚いた。

そして 避難所で
更に鐘ヶ江を驚かせる事が。

両陛下が ひざまずかれたのだ。

用意された スリッパも
履かず

床に膝を ついて
話しかけられた。

そして4年後…

(動画音声)
「画面中央部から

大変 大きな火災が
起きております」。

住宅 10万棟以上が全壊。

被災者たちは 寒空の下で
避難生活を送る事になった。

この時も宮内庁では すぐに
お見舞いに向けた準備が始まった。

救援活動の邪魔にならないよう

細心の注意を払うようにとの
指示が下ったという。

当時 兵庫県庁の秘書課長を
務めていた 齋藤富雄。

宮内庁から こう言われた事を
覚えている。

もとより被災地は
復旧工事と救援物資の輸送で

使える道路は大渋滞。

その通行の邪魔にならないように。

食事の負担などを減らすため

宮内庁から随行したのは
ふだんの半分。

僅か6人にまで減らされた。

その時 齋藤は恐る恐る
こんな提案をしてみた。

バスで現地入りされた 両陛下。

真冬にも 天皇陛下は
薄手のジャンパー姿だった。

そして 避難所となっていた
小学校へ。

案内役を務めた…

帰り際。

皇后さまが
見せられた

この ポーズ。

そんな両陛下の姿を見た山下は
こう考えるようになっていた。

後に天皇陛下は
こう述べられている。

この思いは
何十年にもわたる活動が

つくり上げてきたものだ。

天皇陛下が初めて
自然災害の現場に

足を運ばれたのは
皇太子時代の…

25歳の時の事だ。

自ら 被災した人々に
直接 会いたいと

強く希望された。

だが お見舞いの様子は

今とは随分
異なっていたという。

当時 お見舞いを受けた人は…。

しかし 移動の道中
こんな事があった。

偶然 通りがかった家の前で
車を降りられた。

天皇陛下が 声を掛けられたのは

壊れた自宅の がれきを
片づけていた少女。

9歳の その子は
家が倒壊した様子を語り

けなげに笑顔を見せた。

お見舞いのあと 記者会見で
こう述べられている。

昭和の時代 皇太子が行う事が
多かった お見舞いを

今も 自ら続けられる。

そこに
「象徴」というものへの考えが

色濃く あらわれている。

東日本大震災。

両陛下の お見舞いを糧に
生きる人がいる。

理容店を営む 松田節子。

自宅兼店舗を 津波で失った。

両陛下が 釜石を見舞われたのは

震災の2か月後。

お大事にね。

松田には
忘れられない瞬間がある。

皇后さまと対面していた時
突然 余震に襲われた。

この出会いに励まされ
1か月後 息子とともに店を再開。

80歳の今も現役だ。

被災地を巡る 両陛下の旅は

人々の心に

明かりを ともし続けている。

♬~

続いて注目するのは こちら。

平成15年11月14日が
一体 何の日であるか

知る人は少ないでしょう。

じつは この日
歴代天皇として初めて

全都道府県への訪問を
達成されたのです。

この長い旅の中で もう一つ

寄り添ってこられたのが

言われなき差別や偏見に
苦しめられている人々です。

第2の視点は

ある公害に苦しめられ
闘わねばならなかった人々。

彼らの痛切な訴えに 天皇陛下は
ある言葉を返されました。

そこには どんな思いが
込められていたのでしょうか。

熊本県南部の町 水俣。

2013年 両陛下は
ここで慰霊を行われた。

手向けられた
その花は

理不尽な公害で

命を奪われた人たちへのものだ。

工業廃水が流れ込んだ事で
海が汚染。

そこで取れた魚介類を
食べた人たちが

体の震えや
激しい痛みに襲われた。

国や企業による対策は遅れ
被害が拡大した。

両陛下が続けられてきた

全国各地への訪問。

その旅に込められた
もう一つの思い。

その男は 水俣で
建具店を営んでいる。

天気悪いですもんね 今日。

よいしょ。

家族は水俣病を発症。

自身も 手足の しびれなどに
今も苦しんでいる。

水俣病で亡くなった人は
認定されただけで 1, 900人以上。

仕事の合間に 祈りを込めた
こけしを彫り続けてきた。

両陛下への講話を
頼まれた日の事は

今も鮮明に覚えている。

緒方は 子供の頃に水俣病を発症。

だが その事を ずっと隠してきた。

差別が怖かったからだ。

当初は遺伝といわれ
「公害」と認定されたあとですら

発症した家に向けられる
まなざしは冷たかった。

そんな緒方が
水俣病である事を公表したのは

発症から 30年以上たった頃。

時代が変わり
公害が忘れられていく事に

危惧を感じたからだ。

今も後遺症に苦しむ人々の痛みを
風化させていいのか。

そんな思いを抱えて
10年が たった頃

天皇陛下が
こう述べられた。

全国を回られてきた
両陛下の旅には

公式行事への出席以外に
もう一つの側面がある。

社会的に弱い立場に
置かれた人々が暮らす

施設への訪問だ。

例えば ハンセン病の元患者。

国による
誤った隔離政策のために

人里離れた療養所での暮らしを
余儀なくされてきた。

両陛下は
これまで50年を かけて

全国 全ての療養所の人たちと
交流されてきた。

感染力が
極めて弱いにも かかわらず

誤解が根強かった病気。

両陛下は手を握り
励まされてきた。

ありがとうございます。

療養所で訪問を受けた…

会話を交わした時
両陛下の心の内を感じたという。

長年 両陛下を取材してきた
ジャーナリスト 近重幸哉は

お二人が続けられる旅の意味を
こう語る。

2013年。

ある公務のため 両陛下が
水俣に来られる事になった。

その時 どうか水俣病患者の話も
聞いてほしいと

動き始めたのは 緒方。

そして同じ頃 水俣病に長年
関わってきた 一人の女性も

皇后さまに手紙を書いた。

水俣病患者に
常に寄り添いながら

半世紀近くに わたって
活動してきた作家だ。

代表作 「苦海浄土
わが水俣病」では

患者の尊厳を 身を
削るようにして訴え

世界的な評価を
受けている。

皇后さまと面識があった
石牟礼は

水俣病患者の中でも
特に会ってほしい人がいると

手紙に記した。

母親が食べた魚介類が原因で

生まれながらに病気を発症した…

そう 伝えた。

石牟礼は今 パーキンソン病を患い
施設に暮らしている。

皇后さまの事を
伝えたいと

今回 取材に応じた。

♬~(太鼓)

2013年10月27日。

両陛下が水俣に来られた この日

ついに願いは実現した。

両陛下への講話を頼まれた緒方は
緊張していた。

これが その時の映像。

(緒方)私たちの願いは

二度と 水俣病のような
悲惨な出来事が

世界で起きないために

世界の人たちに 水俣病から
いろんな事を学んでほしいのです。

そして 緒方は

自身が水俣病だと公表した
本当の理由を告白した。

差別を恐れ 病を隠し

一時期とはいえ 偽りの人生を
送ってしまったという 後悔をだ。

その話を静かに聞いた天皇陛下は
こう述べられた。

そして 両陛下は

ここに暮らす
人たちのもとにも。

石牟礼の手紙にあった

生まれながらに
水俣病を発症した

2人の患者たちと面会されたのだ。

ね。 いなかったね。
もう5人です だから。

金子は 皇后さまに
あるものを渡した。

彼らの仕事は 名刺作り。

押し花を貼った名刺を
ご覧になった 皇后さまは…。

(加藤)優しい方だなと思った。

両陛下が訪問された
水俣病資料館の一角に

緒方が祈りを込めて彫り続ける
こけしが飾ってある。

あの講話のあと 両陛下は

その こけしを
持ち帰られたという。

♬~

真実に生きる。

そんな お二人が
愛されるものがあります。

そんな お二人が
さまざまな思いを託し

愛された季節の花々。

じつは その花を通して

届けられた メッセージもあります。

花が紡いだ 勇気と希望の物語。

両陛下が暮らされる皇居には
四季折々の花が咲く。

お二人は さまざまな思いを

花に託してこられた。

阪神・淡路大震災では

皇后さまが 皇居に咲いた
ある花を手向けられた。

古来 「希望」を意味する 水仙。

それは
多くの人たちを励まし続けた。

神戸で被災した この女性は
あの水仙を見て

全壊した花屋を再建した。

♬~

国民と 花で つながる。

東日本大震災では…。

逆に皇后さまに 水仙が渡された。

差し出したのは
津波で家を流された…

自宅の跡に
津波に負けずに咲いた花。

自分も立ち上がるという
決意を込めた。

そのニュースを テレビで見た この女性は
すぐに被災地に向かい

水仙を渡した佐藤を
たずねあてた。

被災地に咲いた水仙を譲り受け
向かった先は 広島。

じつは 広島にも
原爆投下直後に咲いた花があり

その花を植える活動を
続けてきた。

水仙は今 新たな希望の花として

その花と共に植えられている。

番組の最後に お届けするのは
ある男性の物語。

両陛下から

花を通した
メッセージを受け取った。

海風に耐えて咲く
我慢強い花は

どんな メッセージを
伝えたのか?

その海辺に 東日本大震災を
乗り越えて再建された

ちょっと変わった ホテルがある。

花に埋もれた シャンデリア。

壁は もちろん…。

フロントまで 花が あふれる。

このホテルを経営する…

震災後 再建したホテルを
「はまぎく」と名付けたのは

大切な思い出に ちなんでいる。

この花は
両陛下と深く関わっている。

今から20年前 公務で
町を訪ねられた両陛下が

このホテルに宿泊。

その時 天皇陛下が
海辺の ハマギクに目を留められた。

花の事は まるで知らなかったが
気に入られたのならと

両陛下に ハマギクのタネを贈った。

それから14年後の あの日。

ホテルは 津波の直撃を受け

社長だった兄と 女将だった妹

そして2人の従業員が亡くなった。

「ホテルは諦めよう」。

そう考えていた半年後

千代川は ニュースで
1枚の写真を見た。

皇后さまの誕生日に
宮内庁が発表したもの。

皇居で撮られた
その写真で

両陛下が
めでられているのは ハマギク。

あの時 渡したタネが
大切に育てられていた。

思わず花言葉を調べると
こうあった。

それは千代川に
メッセージのように響いた。

再建資金を借りようと
銀行回りを始めたが

本当に たて直せるかは
分からない。

そんな時。

ニュースが飛び込んだ。

天皇陛下が 心臓の手術を
受けられる。

自分にできる事は
回復を祈る事だけ。

せめて気持ちを届けたいと
皇居に足を運び

名前を記帳した。

その1か月後
千代川を驚かせる連絡が入る。

7万5, 000もの名前から
千代川の名前を見つけ

両陛下は 海辺にあったホテルの
様子を心配されていた。

2014年 ホテルは 再オープン。

そして。

去年 再び 両陛下を迎えた。

その横には
千代川たちが育てた ハマギクが

花を咲かせていた。

その顔が 忘れられないという。

花を通して 伝わるメッセージ。

そんな励ましは 人知れず
他にも あるのかもしれない。

「平成」の時代が
終わりに近づいている。

歴史上 初めて
「象徴」として即位し

その在り方を

自ら模索してこられた 天皇陛下。

その旅は 今なお続いている。

(子供たち)天皇陛下!

♬~


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