歴史秘話ヒストリア「山城、戦国を動かす」 戦国時代の山城がアツい!全国で4~5万ともいわれる山城の遺跡…



出典:『歴史秘話ヒストリア「山城、戦国を動かす」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「山城、戦国を動かす」[解][字]


戦国時代の「山城」探訪が登山ブームもあって大人気!さらに、近年の全国調査で山城こそ戦国を知る何よりの手がかりとわかってきた。山城に秘められた戦国の真実に迫る。


詳細情報

番組内容

戦国時代の山城がアツい!全国で4~5万ともいわれる山城の遺跡は、現在の登山ブームもあって大手旅行代理店も大注目の観光スポットだ。観光だけではない。30年あまり続く全国調査で「山城」こそ戦国を知る何よりの手がかりとわかってきた。研究者注目の山城、織田信長の山城革命、戦国の世を動かした山城の戦い…最新研究にもとづくCG、NHK一山城好きアナウンサーのリポートもまじえ「戦国の山城」の魅力、真実に迫る!

出演者

【出演】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,【キャスター】井上あさひ,【リポーター】早坂隆信




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歴史秘話ヒストリア「山城、戦国を動かす」 戦国時代の山城がアツい!
  1. 信長
  2. 山城
  3. 家臣
  4. 場所
  5. 大名
  6. 畠山氏
  7. 織田信長
  8. 長政
  9. 屋形
  10. 戦国大名
  11. 当時
  12. 北近江
  13. 堀切
  14. 本丸
  15. 求心的
  16. 京極氏
  17. 曲輪
  18. 山頂
  19. 七尾城
  20. 実像


『歴史秘話ヒストリア「山城、戦国を動かす」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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彼が究極の難しさを、どういうふ
うに調整をしてくるのか。

日本各地の山々に残る…

ほとんどが
戦国時代のものです。

多くの人々が 秘められた歴史と
りりしい姿に魅せられています。

戦国時代。

あまたの攻防の舞台となった山城。

その数 全国で なんと5万近く。

近年 この山城から 新たな歴史事実を
解き明かす研究が行われています。

見えてきたのは 乱世の主役
戦国大名たちの…

横ならびの関係ですね。

大名と家臣たちが横ならび?

一体 どういうことでしょう?

更に 発掘調査で明らかになった
新しいタイプの山城。

築いたのは…

戦国のスーパースター 織田信長。

この山城を 足がかりに

天下取りを
進めたことが

浮かび上がります。

山城の最新研究から
戦国乱世の知られざる実像に迫ります。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今回のテーマは…

その中でも
戦国時代の山城について

ご紹介します。

これまで 戦国の山城は
戦いの砦と見られていました。

しかし近年 暮らしや政治の場といった

別の一面が明らかに。

更に 家臣に守られているとされてきた
「大名」にも

意外な実像がありました。

山城が 私たちに教えてくれる…

一体 どのようなものなのでしょうか?

石川県七尾市。

ここに 今 注目の
山城があります。

そこで…。

「ヒストリア」をご覧の皆さん
はじめまして!

アナウンサーの早坂隆信と申します。

早坂アナは NHKイチの
城好きアナウンサー。

訪ねた山城は数知れず!

そして もうお一人は…。

いや~ 早坂さん すばらしいです!
(拍手)

戦国の城といえば
千田嘉博さん。

一緒に 山城の実像を
探って頂きます。

駿河の丸子城という所に行きまして。

あの武田氏がつくったお城で。

虎口に入ったりすると
もう 「あ~!」みたいな。

あと 丸馬出しが
外から ガッてね 張り出していて。

そう! 丸馬出しをか…。

戦国大名が暮らした
山城の中でも

築城の時期が最も古い
お城の一つです。

標高 およそ310m。

七つの尾根を 全て城にしたことから
「七尾」と名付けられました。

着きました!
おお 着きました~。

本丸!

ねえ 一番高いとこまで
やって来ました。

いや~ そして この眺めが…。

これ すばらしいですねえ。
すごいですねえ!

もう 海一望ですね。

二人も すっかり ご機嫌な景色。

実は 戦国当時から
絶景として知られていました。

そんな場所に城を築いたのは
畠山義総。

能登を治めた大名です。

城内では 貴重な天目茶碗など

日々の暮らしを しのばせる品が
見つかっています。

ここで 2年前 最新の
空からのレーザー測量が行われました。

すると 「曲輪」と呼ばれる平らな敷地が
これまで知られていた以上に

たくさん
広範囲にわたって 見つかりました。

畠山義総と家臣たちが
屋敷を構えた場所です。

そして 曲輪と曲輪の
間にあるものこそ

七尾城が注目される
理由となったもの。

その一つが
本丸跡の すぐそばに残っています。

おおっ。 おお!

うわっ! すごい斜面ですね これ。

これ すごいでしょ~?
ええ。

これ 何だと思います?

えっ これ…

すばらしいです。 正解です。

これ 堀切であります。

「堀切」とは 山城でよく見られる
防御施設のこと。

尾根を攻め上る敵を
食い止めるために
掘られました。

しかし なぜ この堀切が
七尾城注目の理由なのでしょうか。

再び 地形データを確認してみましょう。

よく見ると 大名や家臣たちの曲輪は
間に堀切があるため

互いの行き来が難しくなっています。

…とすると 早速 問題がありますよね。

で この谷筋を 敵が こう登ってくる。

このルートを使って 登ってくる。
で 本丸を攻めると。

こんなふうにして
敵が攻めてくるっていうのが

例えば 考えられます。

それぞれ
守りはしてるんですけども。

間にですね

それぞれ 守るためにつくった
巨大な堀がありますので…

ほう。

そうなんです。

家臣の上にいて守られていると
思われがちな 戦国大名・畠山氏は

実は 家臣と「横ならびで並立的」。

つまり 対等だったのです。

家臣と対等になった理由を
探るため

畠山氏が
山城に移り住む前の時代に

目を向けてみましょう。

ああ… はい。

手がかりは この「地籍図」。

明治時代初めごろの

土地の利用状況が
描かれています。

日本は近代以降
開発で 土地の様子が一変しました。

そのため…

それでは
七尾城の麓の地域の地籍図から

畠山氏が もともと住んでいた
屋形の跡を探してみましょう。

ここ見て頂くと ここのところ ほら
ちょっと黒っぽくなってるでしょう?

これは 元の地籍図でも
畑っていうことですから

ここは 周り…
この黄色っぽい色が水田ですから

ここは 一段 高くなってたっていうの
分かりますよね。

普通 畑は 水田より高い場所にあります。

すると この畑が集まる四角い場所

屋形の跡地に
見えてきませんか?

見えてきたでしょ? ねえ? ねえ?
なんか見えてきました 確かに。

すばらしいです はい。
言われると。

その場所は今 県立高校になっています。

行ってみましょう!

ここがですね 畠山氏が
屋形を築いた場所だったんです。

へえ 学校のグラウンド?

ここに築かれたとされるのは

室町幕府将軍の
京にある屋敷に そっくりな屋形。

ご覧下さい。 立派です。

畠山氏が
足利将軍の建物をまねたのは

幕府の権威を借りるためでした。

当時 幕府から
能登国の支配を任される…

ところが この屋形に暮らすこと
およそ40年。

(鳴き声)

畠山氏が 幕府に送った手紙です。

「能登の国中が乱れて

守護大名の面目を
失いました」。

一体 何があったのでしょうか?

実は この当時 応仁の乱によって
幕府の権威は失墜していました。

その結果 畠山氏の能登支配も
大きく揺らいでしまったのです。

義総は 時代の変化を悟ります。

わしは決めた。
もはや 幕府に頼るのは やめじゃ!

そして 平地から
山の上に拠点を移しました。

実は 家臣と対等になったのは
この時です。

家臣の一人・温井氏についての記録。

この記述から 畠山氏は…

そう 考えられています。

こうして
「守護大名」から「戦国大名」へと

変貌を遂げた 畠山義総。

しかし そのためには 家臣たちの力が
どうしても必要だったのです。

大名と家臣は対等だった。

戦国時代の意外な実像が
山城・七尾城から見えてきました。

主君と家臣の住まいが
対等な形で並ぶ山城は

畠山氏の七尾城だけではありません。

戦国時代を通じて 同じような山城が
全国各地に つくられました。

徳川家康の浜松城や

毛利元就の吉田郡山城も

築いた当時は 「並立的」。

その他 伊達氏の桑折西山城や

島津氏の飫肥城など

名だたる名将ゆかりの城が ズラリ。

いかに有力な大名でも

家臣たちとの関係には

深く心を配っていたことが うかがえます。

しかし 七尾城築城から およそ50年後

全く異なる発想の山城が
出現します。

その城のあるじこそ
戦国を揺るがした革命児

あの織田信長でした。

我らなれば
必ずや勝機は来る。 いざ!

(家臣たち)おう!

織田信長 27歳。

桶狭間の戦いで 今川義元を破り

戦国乱世に 鮮烈なデビューを飾りました。

その3年後 信長は

ここ小牧山に
人生初の山城を築きます。

そして 近年の発掘調査から
なんと信長は この山城の力を借りて

大きく飛躍したことが
明らかになりました。

10で 28。

はいはい。
これ ここ。

あ~ 発掘してますね。
こんにちは!

小野さん よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

15年前から 小牧山の
発掘調査を担当しています。

今年度は 山頂から
南に50m離れた場所を調査。

すると 信長が関わったと見られる
新たな一画が出てきました。

そうなんです。 こちらもですね…

あっ これが
城の一部になってるんですか?

そうなんです。

早坂さん この岩の壁

上半分と下半分で
何か違い お気付きになられますか?

え~…。

この辺を境に
ちょっと 上の方がゴツゴツしてて

この辺 ちょっと
なめらかになってますよね。

(小野)そうなんです。

自然の岩肌が残る 上半分に対し

下半分は 少し様子が異なります。

実は…。

なるほど!

信長は
岩盤の下半分を削って

崖のようにし
城の守りを固めました。

この時 削られた部分の岩は
どうしたと思いますか?

削った岩で…

こうした 岩壁と石垣を
城に幾重にも施した信長。

ただ 山頂に近い最上段だけは
巨大な石を用いて 石垣を作りました。

石1つが なんと2トン以上。

実は この巨大な石の石垣こそ

「信長式山城」の象徴とも
言えるものです。

その理由は
麓から中腹に延びる

大手道の発掘成果から
分かります。

道のそばで見つかったのは
人工の土手。

大手道と 家臣の屋敷との境に
作られたものです。

つまり 麓から中腹は…
「土づくりゾーン」。

住むのは信長の家臣たち。

一方 中腹から山頂は 「石垣ゾーン」。

住むのは 信長自身。

信長は…

…ということが
よく表れてると思います。

では なぜ 信長は

そんなに 上下関係を
形にしたがったのでしょうか?

もともと 信長の生まれた織田家は

尾張を治める守護大名の家臣の
そのまた家臣。

そのため 信長が
尾張のあるじとして振る舞っても

家臣たちの中には
もとは同じ立場の信長に

心からは従わない者がいました。

信長の命令を無視して
戦に来なかったり…。

信長が留守の間に
屋形を乗っ取ってしまったり…。

しまいには 謀反まで。

重臣の柴田勝家も

信長の弟を担いで
兵を挙げたほどでした。

[ 心の声 ] 何か手を打って

織田家のあるじは
わしだと分からせねばならん。

当時 信長のいた清須は
一面 平らな土地。

ここで 家臣たちと肩を並べるように
屋敷を構えていました。

しかし 信長に従って
小牧山へ引っ越したのは

一部の家臣だけでした。

記録には 「御内衆」とあります。

側近の家臣たちです。

つまり それ以外の家臣は
強固な上下関係が出来るのを嫌がり

従わなかったのです。

でも 信長は諦めません。

僅か4年後に
隣の美濃を攻略。

自らの実力を
知らしめることで

ついに 家臣全員を
岐阜へ移らせることに

成功しました。

当時 岐阜を訪れた宣教師の記録には

「かつて謀反を起こした
柴田勝家が

信長に
完全に服従している」と

記されています。

このように 家臣との上下関係を徹底した
信長タイプの山城を

千田さんは 「求心的な城」と呼んでいます。

山城を求心的な構造にした 織田信長。

そのことで家を強くし
飛躍していったのです。

去年の秋 織田信長の山城
小牧山城の発掘調査で

驚きの発見がありました。

びっしりと敷き詰められた…

形と大きさが
ほぼ同じことから

厳選されたものであることが
うかがえます。

更に 同じ場所から

柱を立てた礎石も出土しました。

石垣が巡り 玉石に飾られた
いわば御殿。

その姿は 求心的な山城の中心に
ふさわしいものです。

やがて 全国へ進撃を開始した信長。

その攻勢に さらされることになった
従来の山城と そこの大名たち。

新旧山城の対決とも言える
戦いは

天下統一に向かう
歴史の流れを

浮き彫りにするものと
なります。

滋賀県北部。

かつて
「北近江」と呼ばれた

この地を治めていたのは…

ほほほっ 茶々~。

織田信長の妹・お市と結婚した
戦国大名です。

この長政の城が 「新旧山城の対決」の
舞台となりました。

私は今 浅井長政のお城
小谷城に来ています。

もう 40分も
登ってきたんですけれども

まだ 本丸には着きません。

標高 およそ500m
山々の頂に築かれた 名城・小谷城。

戦国の当時から

「高い山頂にあり難攻不落」と
語られた

大規模な山城でした。

特に注目すべきは 南の尾根。

中腹に 長政の本丸。

そして すぐそばには
七尾城にもあった 「大堀切」。

小谷城は 堀切で城内を分けた
まさに 「並立」の山城でした。

では 堀切の向こう側にあったのは…。

実は もともと北近江のあるじは

守護大名の京極氏。

長政の先祖は 京極氏に仕える

地元の武士の一人でした。

やがて 頭角を現した浅井氏は

京極氏に代わって

政治の実権を握ります。

しかし 信長も苦労したように

低い家柄出身では
他の武士たちに認められず

なかなか 国を治められません。

そこで 浅井氏は
京極氏を自らの城に招き

あくまで 守護大名の代わりに

北近江を治めるという
立場をとりました。

北近江の武士たちとの横のつながりで
乱世を生き残る。

これが 浅井氏の選択でした。

しかし…。

代々の こうしたやり方を貫いてきた
長政に

大きな壁が立ちはだかります。

妻・お市の兄 織田信長です。

天下統一を目指す信長は

織田家の外にも 上下関係を
求めるようになっていました。

浅井家や その家臣たちも
城の修理や 合戦への出陣を命じられます。

まるで 信長の家来同然。

この 信長の求心的な姿勢は

長政にとって
到底 受け入れられないものでした。

[ 心の声 ] 信長の振る舞いを許しては

北近江の平穏は失われよう。

…戦うしかあるまい。

長政は
信長に抵抗する道を選びます。

その疑問というのは…

…というふうに
理解したんだと思います。

(ほら貝)

(兵たちのおたけび)

こうして 「新旧山城の対決」というべき
小谷城の戦いが始まりました。

押し出せ~!

(家臣たち)おう!

麓と本丸を結ぶ 大手道。

長政は 織田軍が
この道を攻めてくると考えていました。

しかし 信長の作戦は違いました。

記録には
「麓の町を壊しながら

『水ノ手』まで進んだ」とあります。

♬~

水ノ手口。 ここの谷筋が?

(脇坂)はい。

水ノ手口からの道は
大手道より ずっと急勾配で

攻めるには
まず選ばないルートでした。

なぜ 信長は この道を選んだのか。

その ねらいを探るため
実際に登らせて頂きました。

(脇坂)これにね 兜をつけて 鎧つけて

槍を持って 刀差して。

おっ… よいしょ。

(脇坂)大丈夫ですか?
はい。 おおっ。

登り始めて 1時間。

京極丸?
(脇坂)はい。

そうなんです。

信長のねらいは 京極丸。

長政自身を攻めるのではなく

北近江の名目上のあるじ
京極氏のいる場所を落とす。

これが 小谷城陥落の糸口となりました。

京極丸が落とされると
浅井軍から 降伏する者が相次ぎます。

浅井長政 自刃。

その場所は
本丸を
出たところでした。

6年後。

信長は 自身の山城の
「集大成」を築きます。

山全体を覆う石垣。

山頂にそびえる天主。

高さ およそ30m。

信長が 天下に示した
権威のシンボルです。

天主に暮らした信長は

この時 日本で最も
求心的な存在となったのです。

♬~

太平の世となった江戸時代。

大名の居城は 暮らしにくい山城から
再び 平地に戻ります。

この時 戦国大名が…

徳川幕府が開かれた 江戸。

将軍が暮らす 江戸城本丸を中心に

曲輪や城下町が
同心円状に広がっています。

更に 同じような町づくりは
全国各地で行われました。

城下町そのものが

大名を頂点とした空間に
整えられました。

そして 現在の町並みのもとと
なっています。

そういうことが見えてきた。

…ということだと思います。

400年前 戦国乱世の実像を
今に伝える山城。

先人たちの生きた証しは
確かに息づいています。

♬~


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