先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 前編・巨大プロジェクトを成功させるには」 三浦崇宏、渡辺満里奈、豊川斎赫、新井秀和



出典:『先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 前編・巨大プロジェクトを成功させるには」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 前編・巨大プロジェクトを成功させるには」[解][字]


広島平和記念公園や1964年東京五輪の国立代々木競技場など、時代を象徴する建築を手掛けた丹下健三。なぜ彼は巨大プロジェクトを次々と成功させることができたのか。


詳細情報

番組内容

1964年・東京五輪の国立代々木競技場や1970年・大阪・万国博覧会など、時代を象徴する建造物を手掛(が)けた丹下健三。なぜ彼は巨大プロジェクトを次々と成功させることができたのか。前編では、丹下健三の最初の作品となる「広島・平和記念公園」と「国立代々木競技場」建設の秘められたエピソードをひもときながら、設計・建築に際し、丹下が何を大切にしていたのかを解き明かす。

出演者

【ゲスト】PR/クリエイティブディレクター…三浦崇宏,渡辺満里奈,千葉大学准教授…豊川斎赫,【司会】新井秀和




『先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 前編・巨大プロジェクトを成功させるには」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 前編・巨大プロジェクトを成功させるには」
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どうしよう。

先生 ちょっと もう一度 催促した方が
いいんじゃないですか?

絶対 お酒 選んでないですよ。

そうですよね。 でも 僕も
今日 初めて この店に来たので

なかなか催促しづらいので

渡辺さんから
ちょっと お願いできませんか?

えっ! じゃあ…

店長! 店長!
はい はい。

ちょっと さっきから 先生
お酒 待ってるんですけど。

すいません。 ちょっと考え事してて。

考え事?
はい。

いや 客をほったらかしてまでしてる
考え事って何ですか?

いや 春になったらですね
町内会で お客さんに来てもらうために

大きなイベントを
やることになったんですよ。

いいじゃないですか。
いや それは いいんですけどね

私 そのイベントのリーダー
やってくれって言われちゃったんですよ。

リーダーねぇ。
ええ。

大変ですよねぇ。
そうなんですよ。

でもねぇ 男を上げる
いいチャンスですよね。

そうですか?
(笑い)

あ その気になった!
いや でもね

それは 成功すればの話なんですよ。

何かね 私 ここ一番の大仕事って
やったことないんですけど

先生 参考になるような人って
誰か いないですかね?

こう 大きな仕事の達人のような。
一人います。

次々に 大きなプロジェクトを
成功させた人がいます。

誰ですか?
丹下健三です。

おっ 確かに
いろんな知恵がありそうですね。

世界中の人たちが 心躍らせ
一つになる一大イベント。

更に 去年12月 55年ぶりに
大阪での開催が決定した…

大阪! 大阪! 大阪!

今から遡ること およそ半世紀。

この2つの国家的プロジェクトが
日本で開催。

その両方に関わり
成功へと導いた人物がいます。

1964年の東京オリンピックでは
国立代々木競技場第一体育館を設計。

これまでの円形ドームとは違う
斬新なフォルム。

日本ならではの伝統的寺院を
モチーフにした美しい大屋根。

歴代のオリンピック競技会場の中でも

その優美さは 多くの人たちの心に
深い印象を刻みました。

1970年の大阪万博では 77か国が参加した
会場のマスタープランを担います。

会場の中央にある お祭り広場には
大屋根を建設。

その広さ 実に…

日本の技術力の高さを
世界に知らしめました。

リーダーの丹下健三は この時57歳。

どのようにして
ここ一番といわれる大仕事を

成功へと導くことができたのでしょうか?

今回 丹下健三の知恵を読み解くのは…

大学卒業後 大手広告代理店に就職した
三浦さんは

商品販売のマーケティング戦略を考え

広告から販売方法までを取りしきる
仕事をしてきました。

30歳の時には
世界三大広告賞の一つといわれる

フランスのカンヌライオンズの
PR部門でブロンズ賞を受賞。

33歳で独立すると テレビ局や
大手通信会社から

次々と仕事の依頼が舞い込む
売れっ子ぶり。

若くして ここ一番という大きな仕事を
成功させてきた三浦崇宏さん。

ビッグプロジェクトを成功に導いた

丹下健三の知恵を
どう読み解くのでしょうか?

♬~

こんばんは。 お邪魔します。
お 三浦さんだ! こんばんは。

うわさをしていたら。

三浦さん どうぞ どうぞ。
いらっしゃいませ!

うわさをしていたところです。
お待ちしておりました。

ああ どうも ありがとうございます。
いらっしゃいませ。

何か すごい大層に紹介頂いて。
(笑い)

ほんと 別の日なのに
同じ格好してきちゃったとか。    (笑い)

そもそも 学生時代から

いろんなイベントを
主催されてこられたと。

そうですね。 大学の時から
結構 まあ普通のクラブとかを使った

今のパリピみたいな
イベントとかもやってましたし

何か 就職の採用のイベントを
僕がプロデュースするみたいなので

就職 1回もやったこと ないんですけど
あれ? 大丈夫かなあ みたいな。

どのように丹下健三のことは
思ってらっしゃるんですか?

でも ほんとに その日本の象徴的な
建造物をつくったってことは

もちろんなんですけど
その建造物があることが

後の歴史とか社会に
影響を与えたっていう意味で すごく…

…だと思って見てましたけどね。 はい。

時代も求めてたんですかね。
そうですね はい。

でもねえ 大きな仕事は
誰でも やってみたいですよね。

大きな仕事ばっかり。
いやあ それは できるもんならねぇ

やってみたいですけれども。
やったもん勝ちですけどね。

(笑い)
そうですか。

とりあえず やってみるみたいなとこ
ないですか?    やったもん勝ちですよ。

あ そうですか。
じゃあ ちょっと このメニューを出すの

ちょっと勇気出てきたなあ。
やったもん勝ち。

今日はですね
こんなメニューを用意したんです。

こちらです。 ドン!

もう 言ったもん勝ち。

やっちゃいましたね。 やっちゃいました。
でも 勇気を感じますね。 勇気を感じる。

いやいや 勇気感じます じゃないですよ。
何ですか?

「たんげの黒豆」 丹波の黒豆に
かけてるんですよね?

そう そう。
優しいですね やっぱ渡辺さん。

でも 丹波にかけてるのに
どうして広島風なんですか?

実は この広島っていうのがですね
丹下健三と関係があるんですよね 先生。

非常に 丹下と広島には
深い関係があると思います。

へえ~。
ほら ほら。 そうなんですよ。

核兵器の恐ろしさを後世に伝える
世界遺産・原爆ドーム。

(鐘をつく音)

そのそばにあり 毎年 死没者の慰霊と
平和を祈願する式典が行われる…

平和都市 広島のシンボルになっている
この一帯の設計は

丹下健三が 建築家として
初めて手がけた作品です。

その始まりは 昭和24年。

広島市は 爆心地に近い太田川の中州に
再び戦争を繰り返さないと誓う

公園と平和施設の建設を決め
その設計を 広くコンペで求めました。

このコンペに
強い意欲を見せた人物がいました。

それが 丹下健三です。

この時 東京帝国大学建築科の
助教授だった丹下は

建設予定地の対岸にポツンと残る
荒れ果てた建物に注目しました。

昭和21年 焼け野原となった
全国の都市復興に着手した政府は

建築家に協力を要請。
賛同した人たちが各地へ赴く中

誰もが行くのをためらったのが
原爆の傷痕が深く残る広島でした。

その広島行きを志願したのが
丹下健三でした。 当時33歳。

東京帝国大学建築科の
助教授をしていました。

実は 丹下健三 広島で
青春時代を過ごしていたのです。

中学を卒業すると 四国の親元を離れ
17歳で広島の高校へ進学。

寮生活を始めます。
昭和5年のことでした。

自伝には こう書かれています。

「先輩と二人で住むことになったが

その晩から
先輩が 入れ代わり立ち代わり

嵐のように訪れてきては
さあ 飲め飲めと言って

コップを突きつける。

最初は困ったものの
さほど日のたたぬうちに酒の味も覚え

たばこも一人前にふかすようになった。

酒を飲みながらの議論は 哲学と文学と
芸術と女性のことに決まっていた」。

ある日 丹下は図書館に行った時
運命を変える一枚の写真を目にします。

それが こちら。

現代建築の巨匠といわれる
ル・コルビュジエが

ソビエトパレスのコンペのために
描いた作品です。

その美しいフォルムに感銘を受け
建築家になることを決めた丹下健三は

昭和10年 東京帝国大学建築科に入学。
次第に頭角を現します。

決定づけた作品が残っています。

戦意高揚のため 昭和17年に

政府が主催したコンペに
参加した時の図案です。

建設する場所もその規模も 一切
建築家に委ねるという募集要項に対し

丹下は コンクリートで出来た
伊勢神宮風の主殿と

それを取り巻く多くの柱が並ぶ回廊を描き
応募しました。

神殿の真ん中を走る一直線の道を進むと
見えてくるのが はるかそびえる富士山。

このコンペで 丹下は1等を受賞。

しかし 日本の戦局が
次第に厳しくなる中

この案が
実現することは ありませんでした。

(玉音放送)

昭和21年 各都市の復興に乗り出した
政府の要請に応えた丹下健三は

他の建築家が尻込みする広島行きに
手を挙げます。

その時の気持ちを こう書いています。

広島県庁跡のバラックに
事務所を置いた丹下は

道路や公共施設などの
基本的な都市計画に着手。

草案が出来ると あとの具体的設計は
広島市が進めることになり

丹下は心を残しながら
被爆地を後にします。

そして 3年後の昭和24年。

広島市が平和記念公園の建設を決め

丹下は そのコンペがあることを知ります。

建設予定地は 爆心地に近い太田川の中州。
対岸には産業奨励館がありました。

「壊れたまま 建物を放置するのは危険」。

「あの日のことを思い出してしまう」。

当時 取り壊しを求める
市民の声も数多くありました。

こうした声を反映したのでしょうか。

平和記念公園の設計案の中には

資料館をドームの前に置くことで
隠そうとしたり

こちらの案では 平和記念公園を
北東を軸にした線上に配し

ドームとは一線を画しています。

被爆したドームと平和記念施設とは
別物というプランでした。

ところが 丹下健三は
全く違った考えを持っていました。

悲劇から目をそらすのではなく
目を向ける勇気を持つことこそ

平和の実現につながると考えたのです。

丹下のプランです。
平和記念公園の中心軸上にドームを置き

公園と一体となった
設計案となっています。

この案に コンペの審査員たちは
心を動かされます。

そして 1等を獲得しました。

審査員が書いたコンペの批評には
「2等や3等の案が 公園の中だけを考え

元産業奨励館の建つ飛び地が

つけたりに扱われているのに対し

1等の丹下案の優れた点として

この飛び地が あたかも公園の敷地内に
あるかのように計算されている。

それが 1等案のすぐれた点を
よけい印象づけている」と結んでいます。

着工から5年後の 昭和30年8月。

丹下健三の最初の作品となる
平和記念公園が完成します。

水をたたえる水路を通し

中心には 多くの犠牲者の鎮魂を祈る
慰霊碑を置きました。

その形は 原爆死没者の霊を
雨露から守りたいという願いが込められ

埴輪の家の屋根を
モチーフにしたといいます。

慰霊碑の先に見えるのが
あの日の象徴である原爆ドーム。

戦争の痛ましい記憶と犠牲者への鎮魂とが
一つの線で結ばれた 広島の平和記念公園。

悲劇から目を背けず
つくり上げた この公園は

今も 争いのない世界を願う人たちの
強い思いが集まる場所となっています。

う~ん。 ということなんですね。
なるほど。

渡辺さん どうですか?
他の建築家は

目を背けたわけじゃないですか。

でも それと つらいことと向き合った
あえて向き合ったっていうのは

丹下健三の 何かこう 思いとか
理由とかってあるんですか?

まず 一つは 広島というのが

彼の高校の
青春の舞台だったというのが一つ。

あと もう一つ大事なのは お母様も
戦争で 空爆で亡くされてるんですよね。

なので おそらく戦争に対しては
かなり いろんな思いを思いながら

しかしながら やはりポジティブに
平和というキーワードを通して…

いや こんなに すばらしい
もう歴史に残る仕事をされて

ほんとに感動したなあ!
俺 今 ちょっと すごい悔しいし

感動したし もう ちょっと 何か…
グッときちゃったな。

いろんな思いが。
グッときましたね でもね。

絵としても きれいですよね。
ものすごい きれいですね。

取材したくなるし 感動的でもあるし。
ちょっと あのPRのことを考えると

もう その時 丹下さんが考えてたか
分かんないですけど すごい…

…とかも思っちゃいます。
あ~ なるほどね。

まさに 雑誌に載る時のことを
ちゃんと計算するというのは

もちろん 丹下さんの さっき
一番感動したという

コルビュジエという建築家が
出てきましたよね。

彼が ある意味
その雑誌というものを使って

世界中に自分のコンセプトを
伝えていくことが非常にたけた人で

それに すごく強い影響を受けたので
まず それができたこと。

で あと 原爆ドームは
川の向こうにあるんですよね。

要するに その平和記念公園を
つくってくれと言われてる敷地は

その川のこちら側にあって
で 向こう側に ある種 あの世というか

亡くなった人々を思い起こさせるような
何かがあると。

で それに絶えず向き合うような
そういう配置を ですから敷地の外側まで。

普通は 建築家は
敷地の内側を考えるものだ。

与えられたところでベストを尽くせと
言われるんですけど

その外側も捉えるっていう意味では
ある種プロデューサー視点というか。

そこに美しい建物があるよ じゃなくて
そこに来た人が

どういう気持ちになって
どういう光景を見て

そして 自分の人生や 自分の暮らしに

どういう考え方を取り入れるかっていう
ところまでを想像されて つくってる。

まあ 今って よく そのプロダクト
ものをつくる時に

いかに それをサービス化するかって
いうことが

よく マーケティングの世界で
言われるんですけど

ある意味…

すごく今の時代にも通じる
設計のしかただなと思って。   なるほど。

その時 丹下さんが 設計をするチームの
メンバーに言っていたのが

「ここは 要するに…」

うわあ~ もう めちゃくちゃ
かっこいいなぁ! つらい!

その時代の
非常にキャッチーなキーワードで

単に つらいとか悲しいだけじゃ
駄目なんだと。

とにかく自分たちで平和に対して 何か
アクションを起こさなきゃいけないと。

生きてる人が しかも それは
あの世の属するような

原爆ドームと向き合った時に
本来 じゃあ 自分たちは

何で生き残ったのかっていうことを
思い出しながら

じゃあ ここで その平和を
生産しなきゃいけない。

公園じゃないと。
これは 平和を生産する工場なんだって

もう めちゃめちゃ いいっすね!
やっぱ その一個…

グッときますね。

ちょっとメモっていいですか。
(笑い)

すげえ いいなあ。
でも さっき三浦さんが おっしゃってた

体験もプロデュースしてるっていうのと
その思いっていうのは通じますよね。

それで みんなに平和をちゃんと
認識して

勝ち取らないといけないっていう
思いというか

そういうところが あったのかも。
そうですよね。

もう ほんと 都合悪いことに
目そらしちゃ いけないんですよ。

やっぱ みんな
こう 他の2位とか3位の方も

すばらしい方々だったと思うんですけど
こう つらいことから目を背けて

うまくやろうとされた部分が
あると思うんですけど

いや そこは 平和って
つかみ取るものだから

そこから逃げちゃ駄目だよって。

世の中って 嫌なこと
たくさんあるじゃないですか。

企業でいうと 人口減少社会で
お年寄りの方が増えていくとか

5年後とか10年後に こう ちょっと…

確実に。 でも それを まあ ちょっと
気にしないで逃げようって思うか

今からもう それに…

だから やっぱり結構 他の方々が
ちょっとこう都合悪いこと

嫌な思い出から目をそらす中で
もう 誰よりも早く

当時 若かった丹下さんが
もう 向き合って

新しい平和をつくるための動きを
ここから始めよう! って

言われたところは
もう ほんとに すばらしいですね。 うん。

私なんかもう あ まあ しかたないしねぇ
とかっていう ひと言で

こう 何か 済ませちゃいたくなっちゃう
タイプなんですけど

そうしなくて その先に 三浦さんのような
あるいは丹下さんのような

発想になるには 何が必要なんですかね?

でも それこそ やったもん勝ちで
多分 最初に手がけた人って

失敗しても そこの勇気が
ちゃんと認められて

「あ やっぱ やったな あいつ!」
みたいなこともあるし

あと これ よく僕も
部下とかに言うんですけど…

…っていうのは 本気で失敗したら

あ これは駄目だったんだってことが
分かるじゃないですか。

中途半端にやると 他の人が

「あれ これ俺だったら あのやり方で
うまくいったかもしれない」って

学びにならないんですよね。
しかも 本気で…

ちょっと
出しづらくなっちゃったんですけど

あの 広島風のメニューに続いてですね
今日 もう一個メニューがありまして

こちらなんですよ。 ドン!

分かりづれえ~!
分かりづらいし

それ ちょっと変わってないし
「ぞうすい」を 「ぞう煮」にして

しかも 「じゃけん」って言ってるのに

東京風っていうのは
どういうことなんですか?

まあ 「じゃけん」は
やっぱ そうしないと丹下健三って

できなかったって
いうところなんですけど。

まあ 実はね
次は この東京っていうところが

ポイントになるわけなんですよ。
はい。

オリンピック決定 万歳!
(一同)万歳! 万歳! 万歳!

昭和34年5月26日
日本は 大きな喜びに包まれます。

東京が 第18回オリンピックの開催地に
決定したのです。

敗戦から復興した日本を
世界にアピールする絶好のチャンス。

国民が その成功に
意気込む中

新しく建設が決定した
競泳会場の設計者に

丹下健三が選ばれました。

場所は 渋谷駅と原宿駅に
挟まれた

ワシントンハイツと呼ばれる
米軍施設の跡地。

ここに 競泳会場となる
第一体育館と

バスケットボール用の第二体育館を
建設することとなります。

特に第一体育館は
1万4, 000人が入る

日本武道館に次ぐ 大規模な
施設となるよう求められました。

このプロジェクトを成功に導くため
丹下が大切にしたものがありました。

「誰のために建てるのか」。

それを一番に考える丹下が

東京オリンピック開催決定の前年
昭和33年に つくったものがあります。

鉄筋コンクリートに 和風建築の意匠を
取り入れた「香川県庁舎」です。

柱と梁が生む 日本の木造建築ならではの
「美」を取り入れつつ

近代的なデザインを誇る庁舎。

モチーフは 京都の清水の舞台といわれ
丹下健三の代表作の一つとされています。

この設計にあたり 丹下は当時の県知事に
ある提案をしました。

それは 庁舎の中に広場をつくること。

それまでの県や市の庁舎は 威風堂々。

広場はなく 玄関に車寄せや階段を持つ
重厚な建物が主流でした。

市民にとっては
ちょっと近寄り難い建物。

そうした中 丹下は

「これからの民主主義の時代にふさわしい
庁舎は市民を主役にしたものだ」と考え

市民が 気軽に
休憩や遊びに立ち寄れる広場を

あえて 庁舎の中に据えることにしました。

しかし 建設予定地には大きな広場を
とるだけの敷地がなかったことから

道路に面した建物の1階部分を
柱だけにする

ピロティ形式を採用。

そして生まれた空間と
その先にある中庭とをつなげ

狭い敷地の中に広場をつくったのです。

このねらいは見事に当たり

広場には 学生や買い物帰りの女性たちが
憩いの場として集うようになりました。

お堅い役所のイメージは払拭。

戦後民主主義の風を感じる
開かれた庁舎となったのです。

「誰のために建築するのか」。

この丹下の考えの集大成の一つに

1964年竣工の
国立代々木競技場 第一体育館があります。

美しい勾配の屋根を持ち
遠くからでも 一目で入り口が分かる外観。

中に入ると 視界を遮る柱がなく
広々とした空間となっています。

この設計にあたり
丹下健三は スタッフを集め

外観に関し ある注文をつけます。

よくある お椀を伏せたような形
あれは駄目です。 実に つまらない。

私は 来た人たちが一目で 「あそこが
入り口だ」と分かる会場にしたいんです。

というのも 会場に隣接する最寄り駅は
渋谷と原宿の2つ。

ここに従来よくあったドーム型の
体育館をつくるだけだと

遠くからやって来た来場者は入り口に迷い
ウロウロしてしまいます。

それだけで 応援したいという
客のテンションはガタ落ち。

丹下は スタッフに
一人一案を出すように言い

全員が模索を始めます。

これらは スタッフが出してきた案です。

確かに お椀を伏せたような形では
ありませんが

一目見ただけでは 入り口は分かりません。

当時 丹下が使っていた手帳です。

いろいろな図案が描かれ 丹下自身も
悩んでいた様子が うかがえます。

そうした中で
一つの模型に可能性を見いだします。

それが こちら。

このままでは どこが入り口なのか
分かりませんが…

上下をスライドさせると 空間が出来ます。

ここに出入り口を置けば 一目瞭然。

この案を ブラッシュアップし
決定したのが

この 二つ巴という
デザインでした。

どこからでも
一目で入り口が分かる体育館。

それでも 丹下は満足しません。

柱を使わずに 天井を支えたい。

ええっ!?

柱が邪魔をして プールが見えない席に
座らざるをえない観客を

1人も出したくないと言うのです。

1万人以上の客席を持つ体育館の屋根を
柱なしで支えられるのか。

スタッフは 連日連夜 頭を悩ませます。

つり屋根構造は どうだろう。

つり屋根構造?

それは つり橋に使われる工法を応用し

屋根を ケーブルで引っ張り
支えるというものでした。

確かに この方法だと

2本の支柱だけで 天井を
支えることができます。

それでも この工法を 1万人以上
収容する建物に応用したことは

当時 ありませんでした。

それだけでも大変なのに
丹下は その屋根に

日本の古い寺院が持つ
美しい勾配をつけることを求めます。

どうしたら
丹下の望む屋根が つくれるのか。

100分の1の模型が作られ
実験が始まります。

最初に考えられた方法は

2本の支柱の間に張られた
メインケーブルに

縦横にサブケーブルをネット状に張って

屋根の曲面をつくるというものでした。

代々木競技場の構造設計を担当した…

工事は 難題の連続だったといいます。

川口さんは 連日 泊まり込み
実験を繰り返しますが

どうしても うまくいきません。

そして 着工から半年たった昭和38年秋

ついに 川口さんに
あるアイデアが浮かびます。

で どうしようかという時に鉄骨。

それを そのまま つり材として使うと

鉄骨の硬さで 形を保ってくれる。

早速 強度計算を行ったところ
鉄骨でいけることが判明。

メインケーブルから 縦に鉄骨を渡し

そこに天井を張るという工法が
採用されました。

オリンピック開会まで 残り40日となった
昭和39年8月31日。

ついに 国立代々木競技場は完成します。

つり屋根構造で両端を高くし
美しく描かれた曲線は

奈良の唐招提寺の大屋根を
イメージさせるようだと

絶賛されます。

美しく うねった屋根沿いを進むと
大きな入り口。

遠くからでも一目で分かり
観客は迷わず中へ。

広がるのは 何一つ
目の前を妨げるものがない巨大な空間。

かつて 50mプールがあった
アリーナです。

大屋根の下 視界を遮る柱がない会場では
観客席とアリーナとが一つとなり

ワクワクした気持ちにさせてくれます。

オリンピック本番。

選手と観客が一体となった会場では

男子の400m自由形をはじめ
6つの世界新記録が誕生。

閉会後 国際オリンピック委員会は
丹下健三に功労賞を授与します。

その式典で 当時のブランデージ会長は

「この競技場は 大会に参加できた人々
観戦することのできた人々の記憶の中に

はっきりと刻み込まれるであろう」と
たたえ ねぎらいました。

「観客 そして選手のため」。

そのことを ひたすら追い求め
問いかけ続けたリーダーを

世界が認めた瞬間でした。

う~ん… ということなんですね。
すごい。

何か 見えてる景色が
違うような感じがしますね。
そうですね。

この体育館で 私 実は

かつて コンサートをやったことが
あるんですけど。

はいはい。 おニャン子クラブの時に。
出たことがある!

出たことがあって
立ったことがあるという。
すばらしい。

ほんと 30年以上前なんですけど
どこまでも やっぱり遠い 広い。

広いんですよ。 その時はね
何とはなしに やってましたけれども

なるほど 柱がないんだ。

見てる人にとっては
最高の空間じゃないですか。

あ そういうところだったんだって
今 改めて ちょっと思いました。

丹下はね その観客席から見た方を
考えてましたけれども どうですか?

実際 立った方から見ると お客さんとの
一体感というのはありました?

一体感は すごくありますねぇ。
そのアリーナも席を作って

この横の観客席って
ここに ステージを作るんですけど

その やっぱり一体感って こう
声が うわ~っと届くんですよね。

いや すご~い。
そんな会場でやってたんですね 私。

(笑い)
私たち。

でも やっぱり やる気出ました?
すっごいテンションが上がります。

やっぱ そういうものなんですねぇ。
はい。 歓声 すごいです。

そういう その後のね 使われ方とかも
そういうのも含めて

設計してたというところも
あったりするんですかね?

あの建物は 最初 つくられた時には
スケートリンクも一緒に使えるように。

つまり その水泳場で
つくったんですけども

冬場は スケートで遊べるように
というようなのが

最初の目的だったんですけども
その途中から

音楽の祭典とかにも使われるように

いろんな使われ方をするようなものに
なったというのが一つ。

しかも 敷地が すごくいいので

東京都内で 1万何千人が入る

スケールの ちょうどいいサイズの
一番 テンションが上がる。
そうですね。

演者さんも観客もハイテンションになれる
場所というのは

やはり代々木というのは すごい…。
駅から近いし。

みんな こう吸い込まれるように
確かに こう入っていきますもんね。

入り口が分かりやすいからだったんですね
あれは。

あと もう一つ 実は その入り口が
分かりやすいという意味は

実は 出口が分かりやすい
という意味でもあって

入った瞬間に 自分の席まで見える
というのと同じように

いざ 逃げようとする時に
出口が パッと分かるというのも…。

は~ 面白い。
同時に それは だから とけている。

さあ 「誰のために」とね 常に問いかけろ
という知恵でしたけれども。

僕 この間 「キングダム」という

歴史ものの漫画の広告を
作ったことがあるんですけど

それも
すごく有名な漫画なので

面白い漫画ですよというのは
いいんですけど

いろいろ調べたら 経営者とか
起業家とかが すごく読んでる

ビジネスマンが大好きな
漫画なんですよね。        へ~。

で 僕自身も まあ すごく
ビジネスマンとして すごく好きで

めちゃめちゃね 役に立つことが
たくさん描いてあるんですよ。

仕事でも 男の生きざまとか
部下のマネジメントとか

主人公が出世するにあたって。

で その時はね その「キングダム」という
漫画の表紙を

全部 ビジネス本風に変えて
売るというのをやって。

これが すごくうまくいって
ビジネスマンが もう

TwitterとかFacebookで
「やった うれしい!」みたいな。

もう
「もともと買ってたんだけど

もう1冊 買っちゃいました!」
みたいなのを書いてくれて。

だから あるコンテンツとか
あるものがあった時に それを…

そして その人が喜んでもらうためには

どんな工夫をする必要があるんだろうって
考えることが すごく大事で。

「キングダム」も漫画なので
20代の若い人 漫画好きな人に対して

盛り上げて下さいと
言われるかもしれないんだけど

「ちょっと待て 本当に喜ぶのって
誰なんだっけ?」って考えるのが

すごく プロジェクトを
うまくいかせるうえで

すごい大事だなと思っていて。
丹下さんの その まずは市民 まずは観客。

そして それが結果として 街全体を
良くすることにつながったりとか

選手や アーティストさんの
パワーに変わるというのは

やっぱり 一番最初のスタートになる熱を
最初につくる人を誰に設定するかが

すごく大事なんじゃないかなと
思いますね。

まあ そうやってね 観客のため
そして 市民のためという

従来のターゲットとは違う思想を持って
設計を始めるという。

どうなんですか 先生。

その丹下の そういう考えというのは
その後も受け継がれているんですか?

そうですね 今回も ですから
2020年のオリンピックで

今度 あそこは
ハンドボールの会場としても

また使われるというのが 一つと
そのために 今 工事をすごくやっていて。

東京で 本当に大きな直下地震が起きても
大丈夫なような工事を

今 まさにやっているので

そういう意味でいえば どんどん寿命が
多分 延びていきますし

いずれは あの建物を世界遺産にまで
したいという動きもあるので

そういう意味で その丹下さんが
もちろん つくったものも

すばらしいですけど その背後にあった
考えとか そういうことも

きっちりと まとめていかなきゃ
いけないなという気はしてます。

原爆ドームなんかもね 象徴的ですよね。
そうですね。 まさにそうです。

取り壊さなかったというのが。
でも そうですよね。

原爆ドームは その過去のことと戦おう
という意志の象徴だし

この代々木の体育館にしてみたら 本当に
開かれた空間をつくっていこうという

思想の象徴になってる
ということですよね。

だから あれを残すということは

そういう思想を残すことでも
あるんですよね。

さあ 今日は丹下健三から
ここ一番の大仕事を成功させる極意

味わってまいりましたけれども

最後に 三浦さんが考える ここ一番の
大仕事を成功させる極意って…。

ええ~!?
ちょっと聞いておいて下さいよ。

まずは ダジャレに逃げない
ということだと思うんですけど…。

(笑い)

あとは 真面目に言うと

なるべく大きい問いかけをつくる
ということだと思ってますね。

問いかけが ちっちゃいと
答えも ちっちゃくなっちゃうんですよ。

だから丹下健三が もう単なる

ちょっと かっこいい体育館を
つくろうと言ったら

あれは もう
それで終わっちゃうんだけど

本当に 観客もプレーヤーも
全員が感動を体験できる

開かれた空間をつくりたいという

えっ どっから手をつければいいのという
大きい問題があったからこそ

じゃあ 鉄骨で屋根張ろうよとか
つり屋根式にしようよとか

いろんなアイデアが集まってくるのに
とにかく 一番最初の問題の設定を

とにかく大きく考えるということが
大事なんじゃないかなと

思ってるんですよね。
おお~。

店長 これで 春のイベントも
バッチリじゃないですか。

大成功ですよ。
そうですよねぇ。

でもね 極意は分かったんですけどね
何をやろうかというのが

いまいち 浮かばないんですよね~。
三浦さん 何かないですかね?

まあ お客さんを呼ぶんじゃなくて
お客さん全員が作る側に回れるような

イベントとか考えたら
面白いんじゃないかなぁ。

さすが。
ちょっと いいですね。

商店街に来て おいしい たこ焼き作って
食べましょうって

みんな やってるじゃないですか。

この商店街に来て 最高のたこ焼き
みんなオリジナルで作ろうよと言ったら

作ってみたくなるんじゃないかなとか。
はいはい はいはい…。

ちょっと今 忘れないうちに
ちょっとメモしたいんで

もう ちょっといいですか 店 閉めて。
えっ 閉めるんですか?

はい。 ご来店ありがとうございました。
いやいや まだ始めたばっかりですよ。


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