昭和偉人伝 #122「川上哲治(王貞治・長嶋茂雄)」 …読売巨人軍を9年連続日本一に導いた軌跡とその裏側に迫る!



出典:『昭和偉人伝 #122「川上哲治(王貞治・長嶋茂雄)」』の番組情報(EPGから引用)


[字]昭和偉人伝 #122「川上哲治(王貞治・長嶋茂雄)」


卓越した打撃力で戦前から活躍し、プロ野球界の礎を築いた川上哲治。多くの人々に夢を与えた川上の野球人生と、読売巨人軍を9年連続日本一に導いた軌跡とその裏側に迫る!


詳細情報

番組内容

卓越した打撃力で戦前から活躍し、プロ野球界の礎を築いた川上哲治。監督としても読売巨人軍を9年連続日本一に導き、不滅の金字塔はいまだ破られずさんぜんと輝いている。王貞治、長嶋茂雄の“ON砲”を軸にした波乱のV9の軌跡、その裏側にはどんなドラマがあったのか?貧困や戦争を乗り越えて、長きにわたり球界をけん引し、多くの人々に夢を与えた川上の野球人生とは…。

出演者

【語り】國村隼

初回放送日

2019/2/6

番組概要

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

番組ホームページ

<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/

制作

BS朝日、JCTV




『昭和偉人伝 #122「川上哲治(王貞治・長嶋茂雄)」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

昭和偉人伝 #122「川上哲治(王貞治・長嶋茂雄)」
  1. 川上
  2. 長嶋
  3. 昭和
  4. 野球
  5. 監督
  6. 巨人
  7. 巨人軍
  8. 川上哲治
  9. 王貞治
  10. 川上巨人
  11. 江夏
  12. 投手
  13. チーム
  14. 獲得
  15. 活躍
  16. 長嶋茂雄
  17. 当時
  18. シーズン
  19. 家族
  20. 自分


『昭和偉人伝 #122「川上哲治(王貞治・長嶋茂雄)」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。

↓テレビ朝日関連商品

それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて…。

♬~

お元気ですか?

♬~

昭和40年から48年にかけて

日本プロ野球史上に燦然と輝く
9年連続日本一

いわゆるV9を達成した巨人軍。

その常勝巨人を率いた名将

川上哲治監督が今宵の偉人。

あのV9っていうのはね

川上さんじゃなきゃ
絶対できないと思いますよ。

川上さんから教わったのは
やっぱり執念…。

勝負に対する執念ですね。

V9を達成した川上巨人は
なぜ あれほど強かったのか…。

長嶋茂雄 王貞治ら
名選手を率いて

歴史に残る最強チームを
築き上げた 川上哲治。

日本一の名監督
その栄光の足跡をたどる。

昭和35年 川上が
監督に就任した当初

巨人は世代交代の真っただ中。

チーム力が落ちている状況で
勝つためにはどうしたらいいか…。

川上は
アメリカ メジャーリーグの名門

ロサンゼルス・ドジャースの
戦術を手本にした。

打つとか守る
だけではなくて

全てに
サインが多いです。

非常に 野球を探求する
っていうんですかね。

そういう雰囲気が
ありました。

川上は 今では当たり前となった
抑え専門投手の起用や

バント
ヒットエンドランを絡めた

チームプレーを重視する野球を
積極的に導入した。

で 牧野さんに なんで
親父さんは あんなに

丁寧に拾うんですかね
って言ったら…。

V9時代の中心選手

王貞治と長嶋茂雄のON砲は

打撃部門の主要タイトルを
2人で独占。

ような そういう
チームでしたしね。

後楽園球場で
対戦する時は

勝つ要素っていうのが
あんまりなかった感じしますね。

川上は 長嶋と王の
個性を見極めながら

チーム内で競わせ
球界を代表する打者に成長させた。

さらに 他球団のライバルたちが
ONへの闘志をかき立てた。

長嶋と阪神の村山実が対決した
伝説の天覧試合。

(実況)
「長嶋は同点で迎えた9回裏」

「今度は
タイガースのもう一人のエース

村山実から
劇的なサヨナラホームラン」

そして
王貞治の前に立ちはだかった

江夏豊。

何度も名勝負を生んだ 王と江夏。

さらに…。

巨人の王から世界の王へ。

川上のヒーロー育成術とは…。

野球の盛んな九州で生まれた
川上は

少年時代から才能が開花。

甲子園大会での活躍を経て
巨人軍入りを果たす。

戦争で野球ができない
苦難の時代を乗り越え

川上は打撃の神様と呼ばれた。

その名言…。

名選手から名監督へ…。

巨人軍を率いて
空前絶後のV9を達成。

その陰には 勝負師を支える
家族の存在があった。

ところが V10を目指した
川上巨人にも陰りが…。

さらに…。

(長嶋)
「我が巨人軍は永久に不滅です!」

長嶋の現役引退を見届け

川上は 36年に及ぶ
ユニホーム姿に別れを告げた。

やっぱり
川上さんとの出会いがね

私の野球人生に
ものすごく大きな影響を

与えてくれてるんで…。
いい影響ですよね。

日本が右肩上がりの成長を続け

今日より明るい明日を
信じた時代

野球は多くの人々に夢を与えた。

その中心で どっしり構えて
常勝巨人を作り上げ

日本中の野球ファンを
大いに燃え上がらせた

元巨人軍監督 川上哲治。

学ぶべき世界が ここにある。

昭和36年
日本経済は高度成長を続け

岩戸景気と呼ばれる
好景気の中にあった。

また 大相撲では
ライバル同士だった大鵬と柏戸が

横綱同時昇進を果たし
国民を大いに沸かせた。

そんな中 プロ野球の人気球団
巨人軍の若き監督が

就任1年目の
シーズン開幕を迎えた。

川上哲治 背番号16。

選手時代の川上は

巨人軍4番打者の重責を担い

と呼ばれた伝説の打者。

昭和33年 川上は現役を引退。

名将 水原茂監督のもとで
2年間コーチ修業に励んだあと

監督に昇格。

この時 川上は
チームの現状を こう捉えていた。

昭和30年代前半。

巨人は
セントラル・リーグを4連覇し

黄金時代を築いていた。

しかし 川上が引退したあと
世代交代が進まず

投手力 打撃力とも
低迷していたのである。

この低迷期を
どう乗り越えるのか…。

川上新監督は 猛練習による
チーム強化を柱にしつつ

様々な手段を講じた。

まず アメリカ 大リーグの名門

ロサンゼルス・ドジャースの
戦術を手本に

豪快に打ち合う野球から

チームプレーを重視する
近代野球を取り入れた。

川上監督のもとで
外野手として活躍した

野球解説者 柴田勲に
当時の事を尋ねた。

そういうものを キャンプで
結構 長い事 練習をしたのは

ジャイアンツで
最初じゃないですかね。

先輩方に聞くと
そんな事やった事ねえと…。

グラウンドに行って ちょこっと
ランニングして 打って

帰ってきて麻雀だとかって…。

そういうようなキャンプが
多かったらしいですけど…。

また 巨人軍のエースナンバー
18番を背負った堀内恒夫は…。

巨人は送ってた。
どっち方向に投げるぞって。

そうしたら…
振れるじゃないですか。

そういうのが もう

サインミスしたら怒られるよ。
罰金取られるし。

痛いから そりゃ覚えますよ
必死で。

俺たち 書いたもん 帳面に。

その他 投手の役割分担を図り

今では当たり前となった
先発 中継ぎ 抑えの体制を確立。

抑え専門の投手 宮田征典は
いつも試合の終盤に現れ…。

と呼ばれた。

従来の日本になかった新しい野球。

それを実現させる上で
重要な参謀役を

川上は
あえて巨人のOB以外に求めた。

その参謀が牧野茂である。

牧野は ライバル球団
中日ドラゴンズのOBで

ドジャース戦法の理解も深い
理論派の野球人だった。

のちに川上巨人と死闘を演じた

元広島東洋カープの主砲
山本浩二は

川上の狙いについて…。

監督は全責任を 当然…。

そのために何をするか…。

やはり 信頼するコーチ陣に
任せるっていうか…。

牧野さんですよね。 信頼されて

それで もう
どっかりと その… 座って

それから采配するっていう…
そういう感じですね。

そして
川上野球の鍵を握る選手が

ON砲と呼ばれた
王貞治と長嶋茂雄である。

ここで 長嶋が巨人軍に加わった

昭和33年まで
時計の針を戻してみよう。

開幕スタメンに名を連ねた
23歳の新人 長嶋は

当時 国鉄スワローズの
大エースだった

金田正一に
4打席4三振…。

ほろ苦いデビューとなった。

しかし 長嶋は それに奮起し
シーズンを終えてみると

本塁打と打点の二冠王に輝く
大活躍。

その才能は抜きん出ていた。

そんな長嶋を
当時の4番打者 川上は

弟のように かわいがり
巨人軍4番の心得を説いた。

この年 38歳を迎え

体力 気力の衰えを感じていた
川上は

長嶋の活躍を見届け
現役引退を決めたのである。

長嶋は
川上から4番の座を受け継いだ。

翌 昭和34年は
18歳の新人 王貞治の1年目。

開幕戦 王は
7番ファーストで先発出場した。

対する投手は あの金田…。

王は 金田の速球の前に
2打数2三振。

長嶋同様
厳しいプロの洗礼を浴びた。

現在 福岡ソフトバンクホークスの
会長を務める

王貞治に当時の様子を聞いた。

やっぱりね… まだ

それが
完全にできた大人の人の…

ましてや その…
色んな所をくぐり抜けて

はい上がってきた人たちと
戦うのは

本当 そんな並大抵の事じゃ
なかったですよね。

川上は ずばぬけた体力と
打撃センスを持つ

王貞治の成長に期待した。

そこで 王を鍛えるため

他球団のOBだった荒川博を
コーチとして招いたのである。

荒川は 王のスイングを見て
こう言った。

私はね どうしてもね

いわゆる
「つまりや」だったんですね。

バックスイングの始動に入るのが
遅くて…。

始動を早くするためには
どうしたっていうから

じゃあ もう いっその事

自分が踏み出しにいく時に

ちょうどボールが来るような
タイミングで。

自分のバッティングを
作っていくという事で…。

川上さんと荒川さんとで話して
僕に思い切って…。

そんな
誰もやってなかったんだけど

やらせてくれたんですよね。

理想的な
バットの軌道をつかむには

素振りしかない。

荒川は
王に徹底した素振りを命じた。

例えば ウェートとかね なんかで
何かしてっていうように

体全体の筋力を
上げるんじゃなくて。

スパッとバットをね
スパッと。

っていう形の練習を もう本当
朝から晩までやりました。

試合前 それから試合後
それから寝る前。

もう こういう感じで
毎日 毎日やりました。

この時 王が体得したのが

トレードマークの

昭和37年7月1日

王は 一本足打法で
初めて本塁打を放ち

この年 38本で本塁打王を獲得。

長嶋と王は みんなの憧れ。

巨人 大鵬 卵焼きは

子供たちが大好きなものの
代名詞に使われた。

ON砲の完成で舞台は整った。

ここから 川上率いる
巨人軍の快進撃が始まる。

川上哲治が
巨人の監督に就任して

3シーズン目の昭和40年

長嶋と王にプロの洗礼を浴びせた
あの大投手

金田正一が巨人に入団し
投手陣の大きな柱となった。

この頃 1番打者に定着したのが
柴田勲である。

柴田は 法政二高が

甲子園大会で
夏 春と連覇した時

投手として活躍。

だが 川上は 柴田に
打撃センスの良さを感じていた。

入団した柴田は

開幕2戦目で
勝ち投手となったものの

その後 勝ち星に見放される。

まあ そういう筋書き
だったらしいんだけど。

案の定 打たれた…
ノックアウトされて。

そしたら すぐ ロッカーに
呼ばれましてね 川上さんから。

え~っ!? って。

左右どちらの打席でも打てる
日本初のスイッチヒッター。

その転身を 柴田に勧めたのも
川上だった。

スイッチヒッターで
バット 短く持って

ピッチャーの所に
強いゴロを打って

それで 塁に出て
それで 盗塁をとる。

もう ホントに あの当時
川上さん 恨みましたけども

今は 非常に感謝しておりますよ。

よくぞ 転向させて…
早く 転向させた。

川上は 昭和40年のシーズンから
背番号16を 77に変更。

ラッキーセブンが並ぶ
縁起のいい番号を選んだ。

このシーズンは
切り込み隊長 柴田が活躍し

主軸の王は
本塁打と打点の二冠を獲得。

巨人は 2年ぶりに

リーグ優勝を果たす。

さらに

川上巨人のVロードは
ここから始まった。

翌 昭和41年
新人投手 堀内恒夫が戦列に加入。

4月の16日ですかね…
14かな?

えー…
初勝利したんですよ。

初勝利をして

で 2勝目をするのは
5月の30日なんですよ。

だから この間
2軍に行かされてるんですね。

川上さんが…。

堀内は プロ1年目で16勝を挙げ
新人王を獲得した。

また 野手では
土井正三が 二塁に定着。

長嶋は 首位打者を獲得して

2年連続のリーグ優勝と
日本一V2に貢献。

その後も ショート 黒江透修

レフト 高田繁
ライト 末次民夫らが

レギュラーに定着した。

チーム内はね 常に
ピリピリしてましたね。

やっぱり 選手同士が
皆さん ライバル。

そして ミスをすると
みんなで ミスを叱責しながら

直していくっていう雰囲気の
チームだったんですね。

非常に 野球を探究する
っていうんですかね。

そういう雰囲気がありました。

川上さんは違います。

昭和40年に始まった
川上巨人のVロード。

リーグ優勝と日本シリーズ制覇は
その後も続いた。

年々 勢いを増す常勝巨人。

その中核を担ったのは
長嶋茂雄と王貞治の打撃だった。

全盛期の巨人の強さを 肌で知る

元広島東洋カープの
山本浩二は…。

そういう その チームでしたしね。

あの当時 テレビ中継も
ほぼ ジャイアンツ戦ですから

そういう意味では

よし 頑張るぞというのが
強かったですね

対ジャイアンツは。

川上は 長嶋と王ですら
特別扱いしなかった。

反対に チームメートの前で
長嶋を よく叱ったという。

堀内が明かす
対阪神戦での一コマ。

相手の先発投手は 江夏豊。

江夏に もう コテンパンに
やられてるんですよ。

全然 打てなくて。

長嶋さんが
2打席目か何かに

「ああ 今日の江夏は
打てませんよ」っつって

ベンチに
帰ってきたんですよ。

そしたら 川上さんが…。

「お前は 日本一の給料をやって

日本一の待遇をやってる選手が
打てないって言われたら

みんな打てなくなるじゃないか」
って言って

「自分の立場を考えろ」っつって
怒ったんですよ。

だから その時は
みんな ビリッとしましたよ。

日本を代表する打者2人が
チーム内で切磋琢磨する。

さらに 長嶋と王には

敵のチームにも
互いを高め合うライバルがいた。

今も語り継がれる試合がある。

昭和34年6月25日
伝統の巨人・阪神戦は

昭和天皇をお迎えした
天覧試合となった。

その頃 長嶋は
スランプのどん底にいて

なかなか寝付けない。

長嶋は 自分を 自己暗示にかけた。

スポーツ新聞に 「長嶋 天覧試合で
サヨナラ本塁打!」と

大きく載った記事を
イメージしながら

メンタルトレーニングに
努めたという。

試合は デッドヒートで
9回表が終了して 4対4の同点。

その裏 巨人の攻撃
先頭打者は 長嶋。

マウンドには
長嶋の終生のライバルとなる

村山実が立っていた。

(実況)
「長嶋は同点で迎えた9回裏

今度は タイガースの
もう1人のエース 村山実から

劇的なサヨナラホームラン…」

ファンの脳裏に焼き付く
ドラマチックな天覧試合。

ああいった場面で
サヨナラホームランを打てるのが

やっぱり ミスターなんですよね。

一方 王貞治と因縁の深い投手は
阪神の江夏豊。

江夏は
1年目で 2桁勝利を挙げると

昭和43年には 1シーズンの
最多奪三振記録を樹立。

その時
新記録の三振を奪った相手が

王だった。

他にも 王には
忘れられない江夏との勝負がある。

王に 一本足打法を授けた名コーチ
荒川博が

巨人を退団し 迎えた昭和46年。

王は 「荒川がいないから打てない」
と言われぬよう

それまで以上に
練習に打ち込んだ。

その気負いが 逆に あだとなり
極度のスランプに陥ったのである。

特に 江夏には分が悪く

ストレートに 力負けする打席が
続いた。

とにかくね 力がありましたよ。

だから 要するに

ホントの芯で打たないと

少々 先っぽとか 根っこだと

やっぱり 飛ばせない球でしたね。

やっぱり 彼は

今まで当たった
ピッチャーの中で

昭和46年9月15日
甲子園球場の対阪神戦。

9回表 2対0で
阪神リードの場面。

打席には 王。

この日の王は 3打席3三振。

江夏は
真っすぐの球で攻め続けた。

キャッチャーのカーブのサインに
江夏は首を振る。

力と力のぶつかり合い。

すると 王の打球は

ライトスタンドに突き刺さる
逆転3ラン。

長いスランプを乗り越えた
起死回生の一発だった。

やはり
バッティングっていうのは

基本は 真っすぐを打つ事だ
っていう事を

再認識したっていうかね。

だから やっぱり
人間って そういう…。

いったんは 泥沼に
落ち込んでみる必要があって

それが また
次のステップに行くというね。

で 今度 三冠王とか そういうのに
つながってくるわけですね。

圧倒的な練習量と緻密な作戦

ライバルとの
しのぎ合いを重ねて

川上は 無敵の集団を作り上げた。

川上巨人は さらに進化し

空前絶後の
日本シリーズ9連覇…

いわゆる V9に向けて
ひた走るのだった。

では 名将 川上哲治は
どんな野球人生を送ってきたのか。

そこには 貧しい暮らしの中でも
懸命にボールを追い続ける

野球一筋の少年がいた。

♬~「舟の飛沫にヨー」

熊本県の山あいを流れる球磨川。

そのほとりに開けた人吉市が
川上哲治のふるさと。

のちに 名誉市民となった
川上の業績をたたえ

平成11年
川上哲治記念球場が建てられた。

自然豊かな この土地で

川上は
野球人生の第一歩を踏み出した。

川上哲治が生まれたのは
大正9年。

生家は
代々受け継がれた水運業を営み

人吉で採れる山の幸を

球磨川を下る船に乗せて
運んでいた。

母 ツマは 川上を筆頭に
7人のきょうだいを産み育てた。

川上に 野球を教えたのは
父 伊兵次。

布を丸めて縫い合わせたボールを

うちわで作った的を目がけ
当たるまで投げさせた。

野球の面白さに目覚めた川上が
外へ遊びに出ようとすると

母は 川上の背中に
まだ幼い弟たちをくくりつけた。

川上は 弟たちを
道ばたの木につなぎ

野球に熱中したという。

実は 川上は 元々 右利きだった。

幼い頃 右手の傷に
ばい菌が入って化膿し

4カ月以上
右手が使えなかった事がある。

治るまでの間 川上は
左手で ボール投げをした。

そうして
左手の動作を繰り返すうち

左利きのように 野球が
できるようになったのである。

その後 時代が下り
陸上交通が発達すると

球磨川の水運業は
次第に廃れていった。

家業が傾き とうとう
自宅を手放す羽目に陥る。

家を明け渡す時
川上は泣きながら 母に訴えた。

川上が通った小学校は

野球の盛んな九州の中でも 特に
野球部に力を入れる学校だった。

その巡り合わせのおかげで
経済的な苦労はあったものの

川上は
野球に打ち込む事ができた。

恵まれた体力と野球センスで
頭角を現した川上は

主力投手に成長。

チームは
全九州大会で優勝を飾る。

元NHKアナウンサー
羽佐間正雄が

川上から聞いた
当時のエピソード。

優勝したんですね。

それで 終わって

持ってきた弁当を
土手の所で食べながらね

ひょっと 監督の先生が見たら

で その中に イモが…

サツマイモが 中に
2本ぐらい入っていたのをね

先生が見て

で 思わず 自分の弁当をね
そっと こう出してね

食べさせたっていう話が
ありましてね。

その子供の時の事を
語ってるんですね。

野球部で主将を務め
成績も優秀な川上だったが

家庭の事情から
旧制中学への進学は難しかった。

しかし その才能を惜しんだ
周囲の力添えで

野球の名門 熊本工業に
特待生扱いで通える事に。

最初は反対していた両親も
快く送り出してくれた。

川上は 校門の脇にある
門番の部屋に寝泊まりして

懸命に練習した。

川上が2年生の時

熊本工業は
夏の甲子園大会で準優勝。

最上級生の5年生の時には
投手陣の中でエースを務め

秋の神宮大会で ついに
全国優勝を果たしたのである。

その成績が認められ
昭和13年 川上は巨人軍に入団。

受け取った支度金は
今の価値で およそ46万円。

川上は もらった支度金を
そのまま 両親に渡した。

子供の頃

「手放した家を 必ず買い戻す」
と言った言葉を

覚えていた母は
涙を流して喜んだという。

川上のプロ野球人生は
投手でスタート。

背番号は 16。

だが 熊本工業時代に

ひじを痛めた川上は
投手で結果が出せなかった。

プロ入り2年目
川上は内野手に転向。

試合に出られれば
ポジションは どこでもいい。

田舎の両親に
早く活躍する姿を見せたい。

夢中でバットを振るうちに
結果がついてきた。

その年 川上は 年間通算の
首位打者を獲得したのである。

ところが

川上にも召集令状が届き
内地の航空隊に配属された。

戦況の悪化で

米軍機による空襲が
激しさを増す中

川上は 何度も
命の危機をくぐり抜け

どうにか生き延びて

終戦を迎える事ができた。

終戦後 家族を食べさせるため

故郷 熊本で
田畑を耕していた川上に

昭和21年
プロ野球再開の知らせが届く。

だが 数年の間

野球から離れていたブランクは
大きい。

ある時 川上は
以前の勘を取り戻すため

多摩川の練習場で
一人 打ち込みを行った。

1時間以上ぶっ続けで
300球を超える球を打ち返し

川上は 打撃に開眼した。

ボールが止まってね 見えたと。

一瞬ね…。

誰も みんなね…。

という事なんだけど 本人は…。

あの人の 強打者としての眼力が
あったんじゃないか…。

と言わざるを得ない。

昭和26年

川上は 10年ぶりに
首位打者を獲得すると

昭和31年には プロ野球史上初の
通算2000本安打を達成。

だが スポーツ選手が
輝きを放つ時間は短い。

川上は
体力の衰えを実感し始めた。

昭和33年

立教大学出身のルーキー
長嶋茂雄に4番の座を明け渡すと

川上は 38歳で現役を引退。

その後 ヘッドコーチを経て

昭和36年のシーズンから
巨人軍の監督を務めた。

長嶋や王たち
才能ある選手を育てながら

常勝巨人の礎を築いた。

誰よりも勝つ事にこだわった
川上哲治。

その執念が実を結び

昭和48年 9年連続日本一

前人未到のV9を達成した。

しかし 盤石に見えた常勝巨人に

見えない敵が忍び寄っていた…。

森進一が 『襟裳岬』をヒットさせた
昭和49年。

川上巨人は
V10に向けてスタートを切った。

しかし 常勝軍団にも
世代交代の波が押し寄せていた。

そのV9っていうの 大体
同じメンバーでやってるんです。

年齢的なものもあるし
勤続疲労もあるだろうし…。

まあ V10の時は
勝てる感じはしなかったですね。

この年
38歳を迎えた長嶋茂雄は

数年前から 打率が3割に届かない
不本意なシーズンを送っていた。

一番 チームを支えてた
やっぱり その…。

相手チームが
ちょっと強くなってきて

っていうのも
あるのかもわかんないし…。

いわゆる
巨人コンプレックスっていうのが

少しずつ
なくなってきたのかなと。

長嶋に多少の衰えはあっても

充実した王の打撃力で
カバーできる。

周囲は
川上巨人のV10を疑わなかった。

ところが…。

そして
ペナントレースを制したのは…。

上昇気流に乗った
中日ドラゴンズが

20年ぶりのリーグ優勝で

巨人のV10を阻んだ。

そして…。

(長嶋)
我が巨人軍は永久に不滅です!

その一挙手一投足が絵になる
スーパースター 長嶋茂雄が

選手生活に別れを告げた。

そして V10を逃した川上も

長く務めた監督の座を
降りる決心をした。

選手を引退したあの時に続き
監督を託したのは長嶋。

二人は まさに
夕陽と朝日の関係だった。

あのV9っていうのはね

川上さんじゃなきゃ
絶対できないと思いますよ。

例えば 私がやってもね
4回 5回は

勝つ事ができたでしょう
戦力的に。

だけど やっぱり9年も連続して
勝ったっていうのは

僕は 川上さんの
勝負師としてのね

やっぱり その決断とか

それから やっぱり
勝利に対する執念とかね。

それから 日頃の我々に対する
指導のたまものだと思います。

打撃の神様から
歴史に残る名監督へ。

30年余り 巨人軍一筋で過ごした
川上哲治。

誰よりも強く

勝利への執念を燃やした男は

V10を逃した悔しさを飲み込み
ユニホームを脱いだ。

球場を離れると 家庭での川上は
優しい 一人の父親だった。

そして いつも安らげる環境を
整えてくれる

妻 董子に心から感謝していた。

人気球団の宿命として
巨人軍は 勝利を義務づけられ

全国のファンから
常に注目を浴びていた。

監督時代の川上が受けた
プレッシャーは 計り知れない。

監督に就任して数年経った頃

試合の采配や選手の起用法を巡り

川上は マスコミに
一斉にたたかれた。

それに 便乗した

家族への嫌がらせや
いたずら電話がやまず

妻が倒れて入院するほどの
事態となった。

川上は 憔悴した妻の様子を見て

ある決断を家族に伝えた。

すると 妻は…。

その時
川上は 改めて気づかされた。

野球とは 選手の家族を含めた

チームプレーのスポーツだと。

監督時代
川上はキャンプが始まると

選手一人一人の妻や家族に宛てて
手紙を書いた。

女房に手紙をくれました。

…なんてね 女房にね
手紙 書いてくれた気がします。

そういうのは なかなか

普通の監督さんでは
なんか やらないです。

巨人軍の監督を辞めたあと

川上は 他の球団のユニホームを
着る事はなかった。

テレビの解説者のほか
少年野球の指導にも力を注いだ。

プロの厳しさ
それがあってこその強い誇り。

川上哲治 平成25年逝去 享年93。

険しい野球道を歩んできた男は

天国への階段を
一歩ずつ踏みしめながら

昇っていったに違いない。

親父であり…

怖い監督であり…

色んな事を教えてくれた
先輩でもあります。

子供の頃の憧れでもあるし…。

どんな人だろうなあ…

特別な人かな。

自分の思ってる事
それを貫こうとする事が

全然ブレなかったです。

それについていった私どもは
幸せじゃないかなと思います。

で 今思うと 現役時代は雲の人。

で 終わって…

全て 監督も終わって
お会いしたら…。

ゴルフも 何度か

川上さんと
行かせてもらいましたけどね。

ほんで 一打でも負けると
機嫌が悪くなったりね。

そういう意味では 現役時代

若い頃からの
そういった気持ちですよね。

誰だって
負けず嫌いなんですけどね。

人一倍でしたね はい。

歩んできた道筋は
違うけども

何事も徹底する
という事でね

私にね

大いなる教育をしてくれたなあと。

やっぱり
川上さんとの出会いがね

私の野球人生に
ものすごく大きな影響を

与えてくれてるんで
いい影響ですよね。

だから まあ
川上さんの方へは ちょっと

足を向けて寝れないんですよね。

平成30年
投打の二刀流を引っ提げて

アメリカ
メジャーリーグに挑戦した

エンゼルスの大谷翔平選手は

現地メディアやファンを
驚かせる活躍で

新人王を獲得した。

かつて メジャーリーグは
遠い雲の上の存在だった。

今では アメリカから
スカウトたちが海を越え

日本の才能ある若者に
目を向けている。

あの時 川上巨人が
近代野球を取り入れたからこそ

日本のプロ野球は

メジャーと肩を並べるレベルに
達した。

遠い空の向こう

あの男は
愉快に笑っているだろうか。

いや わしも負けておられんと

バットを握り
素振りを始めているかもしれない。


関連記事