ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」 残された手紙やノートを読み解き、新たな宮沢賢治像を…


出典:『ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」』の番組情報(EPGから引用)


ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」[字]


宮沢賢治には、生涯をかけて愛した男性がいた。「銀河鉄道の夜」などの作品に思わぬ背景があった。残された手紙やノートを読み解き、新たな宮沢賢治像を浮き彫りにする。


詳細情報

番組内容

宮沢賢治には、生涯をかけて愛した同い年の男性がいた。「風の又三郎」「銀河鉄道の夜」などの代表作誕生の背景に、一人の男性との深い交流が明らかになる。残された賢治の手紙、ノート、資料などを改めて読み解くと、新たな賢治像が、驚きとともに浮き彫りになってくる。岩手の四季折々の景色や、ドラマを織り交ぜながら、賢治の心の風景にも迫る。賢治の作品を、これまでと違った視点で読みたくなること間違いない。

出演者

【出演】中川光男,鹿野宗健,岩崎鬼剣舞保存会,【朗読】松下由樹,【語り】斉藤茂一




『ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」
  1. 賢治
  2. 嘉内
  3. 百姓
  4. カムパネルラ
  5. 人間
  6. 大正
  7. 二人
  8. 土星
  9. 銀河鉄道
  10. ケンタウル祭
  11. 手紙
  12. ジョバンニ
  13. 銀河
  14. ケンタウルス
  15. トルストイ
  16. 子供
  17. 自分
  18. 夜明
  19. イメージ
  20. 外山高原


『ETV特集「宮沢賢治 銀河への旅~慟哭(どうこく)の愛と祈り~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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♬~

夜の空に 白く川のように流れているのは
天の川である。

17世紀に望遠鏡が発明されてから
天の川は 実は無数の星の集まりであり

渦巻きの形をしていることが
分かってきた。

このような星の集まりを
銀河という。

この渦巻き銀河を横から見ると
凸レンズの形をしていると

分かったのは
20世紀に入ってからのことである。

驚くべきことに
その学説が日本に紹介されて間もなく

レンズ状の銀河の中を行く列車の
イメージを着想した日本人がいた。

岩手県花巻市生まれの詩人
そして童話作家の宮沢賢治である。

宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」は
このイメージを基にして作られた。

イタリアとおぼしき町に住む
少年ジョバンニと

親友カムパネルラが
天の川沿いに走る銀河鉄道に乗って

さまざまな人に出会う中で

人間の本当の幸せとは何かを考える
という物語です。

賢治が銀河への旅に託したメッセージとは
何だったのか。

それには 賢治が生涯を懸けて愛した

一人の男性が深く関わっていたのである。

(2人)百姓しろ 百姓は自然だ!

♬~

賢治は 花巻川口町の中心地
豊沢町にあった

質屋・古着商の長男として生まれた。

誕生日は明治29年8月27日。

明治42年 賢治は
盛岡市の盛岡中学校に進学した。

中学時代 岩手山をはじめとする山々を
歩き回った。

しばしば 山中で野宿した。

一人 山の中で星空を眺めながら
賢治は自然と一体となり

安らぎを感じる少年だった。

生涯の道しるべとなる
妙法蓮華経に出会ったのは

中学卒業後のことである。

妙法蓮華経とは
インドの釈迦の言葉を集めた書である。

妙法とは真理を意味する。

例えば 私たちの宇宙は
広さも時間も無限なのだと釈迦は言う。

賢治は 釈迦の言葉に惹かれていく。

大正4年4月 賢治は盛岡高等農林学校
農学科に 優秀な成績で合格した。

そして 校内にある自啓寮に入寮した。

1年後 賢治は部屋の室長となって
5人の新入生を迎えた。

寝そべっているのが 保阪嘉内という

山梨から来た生徒だった。

室長の賢治に初めて対面した時 彼は
臆することなく こう述べたという。

私は ロシアの文豪トルストイの
小説を読み その生涯を知って

トルストイのような生き方をしたいと
思って 盛岡に来ました。

トルストイの生家は地主です。

彼は最晩年に 土地を全部 百姓に与えて

自分は家を出 旅先で死にました。

トルストイは 百姓こそ人間のあるべき
本当の姿だと言っています。

トルストイは僕も読んだが…。

トルストイに触発されて
農学校に来る人もいるんだね。

文学には 意外な力があるんだ。

物語として読んでいてはダメなんだね。

嘉内は 自己犠牲を理想としていた。

この若者は さらに賢治を驚かせた。

自啓寮では 入寮懇親会で各部屋ごとに
演し物をやることになっていた。

嘉内は 賢治を含めた6人全員で
芝居をやろうと提案した。

そして 数日で
一気に脚本を書き上げたという。

「人間のもだえ」と題された
原稿が残されている。

3人の神様が 人間たちに向かって
百姓となれ と説く劇だった。

嘉内は 自分を全能の神に

そして 賢治を全智の神に振り当てた。

賢治の全智の神の扮装を
嘉内は こう書いている。

(嘉内)
「全智の神 ダークネス 地頭 顔真黒

体全部黒 目のまわり銀隈 肌黒色」。

(笑い声)

(嘉内)「全能の神 アグニ 頭赤毛旋回す。

赤色ギリシア服 赤色シャツ。

口に墨にて大きく隈取る 赤顔」。

「人間のもだえ」は 5月20日
自啓寮懇親会で上演された。

「よく聴け ああ人間よ
土に生まれ土に帰る。

お前たちは土の化け物だ
土の化け物は 土だ 自然だ。

光だ 熱だ お前たちよ 土に心を入れよ。

人間はみな百姓だ 百姓は人間だ。

百姓しろ 百姓は自然だ!」。

賢治は後に
このセリフどおりの道を歩もうとした。

それほどに この時の賢治の演劇体験は
強烈なものだった。

保阪嘉内とは何者なのか。

私たち取材班は 嘉内の生家がある
山梨県韮崎市に向かった。

韮崎市は 南東に富士山
正面に茅ヶ岳 北西に八ヶ岳の

田園風景の中にあった。

これが嘉内の生家である。

家は代々 大きな地主の庄屋だった。

嘉内は 賢治と同年の明治29年
保阪家の長男として生まれた。

嘉内の小学校時代 この辺り一帯は
度重なる水害に見舞われ

田畑は荒廃し 多くの死者が出た。

遺体は河原に埋められたが
時がたつにつれ 人骨が露出し

日にさらされるようになった。

嘉内は 子供心に 人間は
死んだら こんなふうに自然に帰り

土と化してしまうのだと思ったという。

私たちは アザリア記念会を訪れた。

ここには 賢治と嘉内の関係を示す
多くの資料が保管されている。

嘉内は 甲府中学5年生の18歳の時に
弁論部に入部した。

当時の弁論原稿が残っていた。

(向山)甲府中学校の時に弁論部で

自分の考えをね まとめて
発表するんですけども。

花園農村とは 「美しく豊かな理想の農村」
という意味である。

(嘉内)「諸君 諸君は
百姓について どう考えますか?

春霞たなびく山々の
あわ紫に けぶる光景

黄なる菜の花に蝶の止まる風情

私はただ 諸君 百姓たれと言って
この壇を降ります」。

そして 賢治との初対面の席で語った

ロシアの文学者 トルストイについての
弁論原稿もあった。

諸君 あらゆる利己の心を犠牲にして
十字架にかかった

主 イエス・クリストのごとく

ふるさと ヤスナヤ・ポリュナを出た
レオ・トルストイのごとく

自己をいけにえとして
ささげねばなりません。

諸君 人民にゆけ 百姓をせよ。

そして 我々のハッピィ・キングダム
幸せの王国を パラダイスを

すなわち 極楽浄土をつくれ!

ここに 自らを犠牲にして
農民のために尽くすという

嘉内の考えが示されている。

「百姓は人間だ!」。

この弁論があって 「百姓になれ」という
あの「人間のもだえ」があったのである。

これ 嘉内のスケッチ帳ですけれども。

嘉内が 甲府中学時代に描いた
スケッチブックである。

まず 目についたのが
一見 何を描いたのか分からない

このスケッチである。

向山さんによると 八ヶ岳山麓の
風の神様を祀った 石の祠の絵だという。

冬 吹きおりる八ヶ岳おろしを
山麓の人たちは

風の三郎と呼んで石の祠に祀っていた。

今あるのは 八ヶ岳権現の祠で

その横に 同じような形の
風の三郎社があったという。

嘉内が ここを訪れた時
石の祠は壊れていた。

あえて それを描いた。

風の神に強い関心を持っていたのだ。

スケッチは
賢治の代表作「風の又三郎」を連想させる。

♬「どっどど どどうど どどうど どどう」

「風の又三郎」は 東北地方に伝わる

「風の三郎さん」のわらべうたを取り入れて
作られたといわれている。

しかし 山梨にも風の三郎がいたのだ。

ある風の強い秋の朝
種山ヶ原の谷あいの川岸にある

小学校の教室に
見知らぬ子供が一人 座っているのを

村の子供たちが見つけます。

しんとした朝の教室の中に
どこから来たのか

まるで顔も知らない おかしな子供が
ひとり 一番前の机に

ちゃんと座っていたのです。

村の子供たちは 風と共に現れた
高田三郎を

風の又三郎だと思うのです。

子供たちは三郎と野原や川で遊びます。

ところが 10日ばかり経った風の強い日に
突然 三郎はいなくなります。

村の子供たちは やっぱりあいつは
風の又三郎だという。

実は 風の又三郎の容貌を
賢治は 繰り返し こう書いている。

「おかしな赤い髪の子供」
「顔ときたら まるで熟したりんごのよう」。

なぜ 賢治は 風の又三郎を
このように赤くしたのだろうか。

思い当たるのは 「人間のもだえ」の
真っ赤な嘉内だ。

「風の又三郎」は 八ヶ岳おろしの
風の三郎に乗ってやってきた

嘉内がモデルだったのではないか。

もう一枚のスケッチが私たちを驚かせた。

これは ハレー彗星を
嘉内がスケッチしたものである。

1910年 明治43年5月20日
夜8時と記されている。

この年 ハレー彗星が地球に近づいた。

日本では天候に恵まれず
山梨付近で奇跡的に観測できた。

嘉内は この絵に こう記している。

(嘉内)「銀漢を行く彗星は

夜行列車の様に似て

遙か虚空に消えにけり」。

「銀漢」とは銀河のこと。

嘉内は スケッチ帳を盛岡に持って行った。

賢治の銀河鉄道のイメージの始まりは
この絵だったのかもしれない。

賢治と嘉内の話に戻る。

出会いから1年後の大正6年。

賢治と嘉内ら 4人が中心となって
文芸同人誌「アザリア」を創刊した。

二人の仲は さらに深まった。

その夏 賢治と嘉内は
2人だけで岩手山に登ることにした。

山頂で日の出を迎えようと
夜中に松明を手に麓を出発した。

柳沢の放牧場のあたり
柏原にさしかかった時

嘉内が夜空を振り仰いだ。

柏原まで来た時 ふいに松明が消えた。

(せき込む声)

消えた松明の おきを 嘉内と二人で
代わる代わる息を吹きかけたと

賢治は短歌にも残している。

天の川がよく見える夜だった。

途中 賢治と嘉内は岩場に腰を下ろし

銀河を眺めながら自分たちの将来について
熱く語り合った。

トルストイや釈迦のように
世の中の人を救う道を 二人で歩もう。

この夜の 銀河の下での誓いが
賢治にとってどれほどの喜びであったか。

自らを犠牲にしてでも
世の人のために尽くす。

嘉内と二人で どこまでも その道を進む。

岩手山の山頂で迎えた日の出。

賢治にとって 人生の中で
最も輝かしい夜明けであった。

同じ年の7月の夏休み 賢治は

旅先の種山ヶ原で見た電信柱を
短歌に詠んだ。

賢治は なぜ電信柱などを
短歌に詠んだのだろうか。

これは 嘉内が甲府中学時代に描いた
電信柱である。

電信柱を絵の題材に選ぶというのは
極めて珍しい。

嘉内の この絵に刺激されて
賢治は電信柱の絵を描いた。

そして この短歌に詠んだと思える。

寄り添って立つ2本の電信柱は
賢治と嘉内である。

そんな二人の別れは 突然やってきた。

大正7年2月に出した「アザリア」5号。

そこに載った嘉内の短文が
思わぬ事態を引き起こした。

嘉内は 危険な虚無思想の持ち主で
皇室に異を唱えていると

学校側に判断され 2年生の3学期に
退学処分となったのである。

嘉内は山梨に戻り 以後 3年4か月の間
二人は会うことがなかった。

嘉内とは 手紙だけのつきあいとなった。

嘉内宛の賢治の手紙が
山梨県立文学館に保管されている。

大正5年から
大正14年までの期間の手紙…。

賢治が嘉内に送った手紙は 73通に上る。

学芸員 中野和子さんによると
73通のうち

56通が 嘉内が退学してからの
3年4か月に集中している。

「共にしっかりやりましょう」と 賢治が
20回も同じ言葉を繰り返している手紙。

表と裏いっぱいに繰り返されている
南無妙法蓮華経の文字。

共に この道を歩いていこうという
賢治の熱い願いなのであろう。

特に目立つのは
嘉内と二人で岩手山に登った

あの夜のことを
繰り返し書いた手紙である。

「あの銀河が
しらしらと南から北にかかり

静かな裾野の薄明かりの中に
消えた松明を吹いていたこと。

あの柏原の夜の中で松明が消えてしまい

あなたと かわるがわる
一生懸命 そのおきを吹いた。

おきは小さな赤児の てのひらか
夜の赤い華のように光り…。

かつて盛岡で我々がめいめいの中に立てた
あの大きな願いは

あなたを去らないことを
少しも疑いません」。

そして 賢治の振り絞るような
悲痛な言葉が残されている。

「私が友 保阪嘉内 私が友 保阪嘉内
我を棄てるな」。

大正9年の手紙である。

嘉内が去って3年が過ぎた。

大正10年 賢治は日蓮宗系の宗教団体で
奉仕活動をするために

東京に下宿していた。

そこへ 嘉内から葉書が届いた。

軍隊に志願して1年
現役除隊となったが

今度は 見習士官として応召して
7月1日から東京の兵舎に入営した

という知らせであった。

「お葉書 拝見いたしました。

私もお目にかかりたいのですが
お訪ねできますか」。

二人は7月18日 上野帝国図書館で
再会することになった。

再会の場所は その3階の閲覧室であった。

賢治は 先に来て待っていた嘉内を
ダルゲという名前にして

再会の様子を
詩やエッセイに書き残している。

このあと
賢治は嘉内の姿を描写するのだが

それが なんとも不可解なのである。

蓑は藁で出来た雨具であり
当時は百姓たちが使っていた。

さらに不可解なのは
腰蓑がガラスで出来ていることである。

つまり 見えない腰蓑をつけて ダルゲは
すなわち嘉内は立っていたのである。

賢治は 嘉内を見た瞬間に直感したのだ。

もう 嘉内は あの誓いから
遠く離れたところに行ってしまった。

彼は百姓になりたいのだ。

一人 その道を進むつもりなのだと。

二人が何を話し合ったのかは
分かっていない。

その日の嘉内の日記である。

大きく斜線が引かれている。

このあと 二人は会うことはなかった。

この時期に作られたと思われる
賢治の詩の断片がある。

題名はつけられていない。

ひたすらに思いをかけているのだけれど
この恋しさを どうしたらいいのだろう。

あってはならないことなので

みぞれの夜を
ただ泣いて歩くしかできない。

賢治は 自分の心に
湧き上がっている感情を

あってはならないこと すなわち
道に外れたことと思っていた。

大正10年12月 賢治は
花巻の稗貫農学校の教師に職を得た。

化学や農業実習の担当だった。

大正11年4月
賢治は花巻から汽車で盛岡に出

そこから夜通し歩いて外山高原に着いた。

賢治は詩人として
新しい人生を始めようとしていた。

初めての詩の題名は 「春と修羅」だった。

その詩作の現場に選んだのが
外山高原だった。

なぜ 外山高原だったのか。

賢治は 上野帝国図書館で
嘉内と別れた すぐあとで

「純黒と蒼冷」という
二人の若者の対話劇を書き

嘉内と思われる若者に

「外山高原へ行って開拓をする」という
セリフを言わせている。

どこで百姓をやろうというんだ。
山梨県か?

いいや 岩手県だ。

外山という高原だ。 北上山地のうちだ。

俺は ただ一人でそこに畑を拓こうと思う。

もちろん 実際に
嘉内は外山高原に来ることはなかった。

あの劇は 賢治の描いた幻なのだ。

幻の嘉内に会うために
賢治は ここ 外山高原に来たのである。

外山高原に
岩手山が見えるところがあった。

岩手山は まだ雪をかぶっている。

「春と修羅」の現場は ここのようだ。

詩 「春と修羅」は こう始まっている。

「諂曲模様」とは どういう意味か。

賢治が熟読していた妙法蓮華経には

「諂曲」に「ヨコシマ」 すなわち
邪道を意味するルビがふってある。

こんな晴れやかな春の風景が
賢治には 信じられないような

異様な邪な世界に見えていたのである。

賢治は どんなふうに
修羅をイメージしていたのか。

日蓮のある本に 「貪るは餓鬼
癡かなるは畜生」と並んで

「邪なるは修羅」とある。

賢治は 自らを「道を外れた邪な人間だ」と
言っているのである。

♬~

修羅の賢治は みじんとなって空に消えた。

釈迦は言う。

無限に広がる この三千大世界
すなわち宇宙は

みじんによって作られているのだと。

この宇宙の あらゆるものは
みじんからなり

みじんに帰る。

その意味で
この世に存在する全てのものは

たとえ それが
同性を恋うるようなものであっても

それは宇宙の一部なのであり
自然の一部なのだ。

すなわち 全ては私の子なのだ。

その1か月あと 賢治は盛岡から
西へ12キロの小岩井駅に降り立って

小岩井農場へ向かった。

大正11年5月21日。

この時 書かれた詩が「小岩井農場」である。

小岩井駅から小岩井農場へと
描写は続くが

賢治が目指したのは
20キロ先の鞍掛山の麓である。

賢治は その場所で
ある言葉を吐露しようと決意していた。

それは 恋愛とは何かという問いへの

自分なりの答えであった。

難解な原文をかみ砕いて言えば

こうである。

全ての人の幸いを願って結ばれる恋愛は
宗教的情操で 最良の恋愛だ。

他の人のことは考えず ただ
二人だけの道をいくのが 普通の恋愛だ。

最低の恋愛は 性欲だけで結ばれる関係だ。

ただし 人間というのは性欲から始まって
宗教的情操の高みへも行けるのだ。

賢治は 新たな人生を始めようとしていた。

大正11年11月 日本女子大学を出て
花巻女学校の教師をしていた

妹 とし子が 24歳の若さで病死した。

妹のために何もしてやれなかった賢治は

とし子の魂と交信したいという
思いに駆られ

樺太への旅に出た。

この時に作られたのが
「青森挽歌」という詩である。

(汽笛)

銀河を走る夜行列車のイメージが
描かれていた。

賢治は そのイメージをもとに

少年ジョバンニが 親友カムパネルラと
旅をする物語を着想した。

それは ケンタウル祭という
星祭りの日の夕方でした。

少年ジョバンニが
町の近くの丘に登っていると

どこからともなく
「銀河ステーション」という声が聞こえ

気がつくと 銀河鉄道に乗っていました。

目の前の席には
親友のカムパネルラが乗っていました。

客車には 地球から
さまざまな乗客が乗っていた。

サザンクロス駅に着いた時
ほとんどの乗客が降りていった。

ジョバンニがカムパネルラに
「僕たち どこまでも一緒に行こうね」

と言って振り返ってみると
カムパネルラの姿は消えていました。

ジョバンニは泣き叫びました。

これが 「銀河鉄道の夜」のあらすじだった。

大正14年が明けて早々の 1月5日。

賢治は突然 旅に出る。

いくつかの約束をキャンセルしての
急な旅立ちだった。

賢治は花巻駅から東北本線で北上し

岩手県から青森県に入り

現在の八戸駅で 八戸線に乗り換えた。

終点は 種市駅だった。

夕方 種市駅で降りた賢治は
30キロ先の久慈の町に向かって

冬の浜街道を歩き始めた。

冷たい風と雪道を 半月の明かりを頼りに
夜通し歩き続けた。

夜明けを迎えた時 賢治は

太平洋に面する侍浜の海岸に立って
詩を作っている。

「サファイア風の惑星」とは
土星のことである。

賢治は 土星を溶かしてしまう
明け方の空に嫉妬している。

賢治は この土星について
こう書いている。

賢治は土星に恋しているというのだ。

その後 賢治は詩らしい詩を作らず
1月9日に花巻に戻った。

一体 賢治の陸中海岸への旅の理由は
何だったのだろう。

土星を見るための旅だったのだろうか。

大正14年 1月6日の夜明け前の
陸中海岸の空の様子を

調べてみることにした。

午前2時すぎに
東南東の水平線上に姿を現した土星は

南の方へ移動しながら
上空へと上っていく。

夜明け前の4時すぎには
土星は この位置まで来た。

その時 南の水平線上に
星座ケンタウルスが

その上半身を
見せていることに気がついた。

夜明け前 ケンタウルス座が見えていた。

土星と向かい合っているようだ。

これは 驚くべき発見だった。

なぜなら 「銀河鉄道の夜」は ケンタウル祭
という星祭りの日の出来事だからだ。

ケンタウルスの語源は
ギリシャ神話に登場する

このケンタウロスである。

上半身が人間 下半身が馬
半人半馬の怪物なのだ。

日本では
夏の夕方に見える星座とされてきた。

賢治は 「銀河鉄道の夜」の中で
ケンタウル祭とは何かについて

一切説明していない。

しかし
賢治が使っていた星座早見盤でも

ケンタウルスが
冬の夜明けに見えることが確認できる。

賢治は 冬でも夜明けにケンタウルスが
見えることを知っていたのだ。

あの旅の目的は
ケンタウルスと土星が出会うのを

確かめるためだったのではないか。

私たちは 改めて
賢治とケンタウルスの関係を

最初から洗い直してみることにした。

ケンタウル祭を どのようなものと
考えていたかを示す手がかりが

「銀河鉄道の夜」の下書き稿にあった。

最初に書いた「ケンタウル祭」の文字を
一旦消して

「星曜祭」としようとしたことが分かる。

星曜祭とは星祭り
すなわち七夕のことである。

七夕とは 7月7日 ひこ星と織姫が
天の川を渡って出会う夜である。

賢治は ケンタウル祭に
七夕のイメージを重ねていたのだ。

ちなみに 1月6日の半年前は
7月7日 七夕である。

賢治が1月6日に
こだわって旅をしたのは

その日が冬の七夕だったからなのかと
気づかされる。

そして 1月6日の明け方の様子を詠んだ
賢治の文語詩が

ケンタウル祭とは何かを解き明かす
決め手となった。

「敗れし少年の歌へる」である。

君だと思って見ていた あの惑星が

今 夜明けの光に融けていくのが悲しい。

まるで 君が
私に声をかけようと訪れてきて

炎のように輝いていたのに。

土星が嘉内であるならば
ケンタウルスは賢治である。

その土星が消えた。 つまり嘉内が消えた。

「敗れし少年」というのは 明らかに
恋に敗れし少年である。

これは失恋の歌なのだ。

ケンタウル祭とは何かという謎が
解けてきたようである。

ケンタウル祭 それは
ケンタウルスと土星が出会う夜なのだ。

賢治は 邪な修羅である自分を

半人半馬の怪物 ケンタウルスに
重ね合わせていた。

そして嘉内を サファイア色に光り輝く
土星に例えていたのである。

童話「銀河鉄道の夜」は
保阪嘉内にささげられた物語である

という視点から
改めて 物語を見直してみよう。

ケンタウル祭の日
ジョバンニとカムパネルラは

銀河鉄道の旅をしました。

やがて 3人の乗客が乗り込んできました。

家庭教師の青年と 姉と弟の3人は

イギリスから
大きな客船に乗ったのでした。

(青年)その船が氷山にぶつかって
いっぺんに傾き もう沈みかけました。

ボートには とても
みんなは乗り切らないのです。

ボートまでのところには
まだまだ小さな子供たちや

親たちがいて…
とても押しのける勇気がなかったのです。

みんなの生命を救うために
船と共に沈んでいく人々。

みんなの倖せとは何か
ほんとうの倖せとは何か

賢治は問うている。

やがて 銀河鉄道は
サザンクロス駅に近づきます。

そこは 天国の入り口でした。

青年と姉と弟は 他の乗客と一緒に
汽車を降りていきます。

皆 他人の命を助けて
自らの命を失った人たちなのでしょう。

実は カムパネルラも
この人たちのような死者なのだが

なぜか カムパネルラは降りない。

カムパネルラが死者であることを知らない
ジョバンニは

カムパネルラに話しかける。

(ジョバンニ)カムパネルラ また僕たち
二人きりになったねえ。

どこまでも どこまでも一緒に行こう。

やがて きれいな野原が見えてきました。

すると カムパネルラが突然 叫ぶのです。

(カムパネルラ)ああ あすこの野原は
なんてきれいだろう。

あすこが本当の天上なんだ。

ぼんやり そっちを見ていましたら…

(ジョバンニ)カムパネルラ
僕たち 一緒に行こうね。

ジョバンニが こう言いながら
振り返ってみましたら

カムパネルラの形は見えず
ジョバンニは…

鉄砲玉のように立ち上がりました。

そして 窓の外へ体を乗り出して
力いっぱい 泣きだしました。

もう そこらが いっぺんに
真っ暗になったように思いました。

ふと気がつくと ジョバンニは
元の丘に戻っていました。

町へ行ってみると カムパネルラが
川で溺れた同級生を助けて

水死したことを知らされたのでした。

カムパネルラは
サザンクロス駅で降りなかった。

赤い腕木の2本の電信柱が立っている
きれいな野原で

「あれが本当の天上だ」と言って降りた。

カムパネルラは 嘉内だ。

賢治は あの野原を
二人だけの天国にしたかったのである。

みんなの幸せとは何かという
大きなテーマとともに

賢治は 好きな人と一緒に暮らしたい
という 自分の幸せについても

ひそかに 恥ずかしそうに
語っていたのである。

賢治は 嘉内に手紙を出した。

「来春は 私も教師をやめて
本統の百姓になって働きます」。

これが 嘉内への最後の手紙となった。

嘉内は 大正14年に結婚し
翌年 青年訓練所の要職に就き

以来 一貫して若者の農業指導に携わり

昭和12年2月
41歳でガンのために亡くなった。

2男1女の父だった。

亡くなった時
賢治からの全ての手紙のファイルを

枕元に置いていたという。

賢治は 北上川の河岸で
1人暮らしをしながら

畑を耕して本気で百姓になろうとした。

しかし そのころから
結核性の病気で体調を崩し

昭和8年9月 37歳の生涯を閉じた。

手帳に残された 「雨ニモマケズ」には

病のために 嘉内と誓い合った
あの大きな志を果たせなかった

無念の思いが
込められているように思われる。

♬~

間もなく 目的地付近… のはず。


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