ファミリーヒストリー「中村勘九郎~中村屋 挑戦の原点~」 厳しい境遇を乗り越えた祖父。挑戦を続けた父… 今田耕司、池田伸子



出典:『ファミリーヒストリー「中村勘九郎~中村屋 挑戦の原点~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「中村勘九郎~中村屋 挑戦の原点~」[解][字]


歌舞伎俳優・六代目中村勘九郎。屋号は中村屋。その歴史をひもとくと激動の歳月が浮かび上がる。厳しい境遇を乗り越えた祖父。挑戦を続けた父。伝統を守る家族の覚悟に迫る


詳細情報

番組内容

歌舞伎俳優、六代目中村勘九郎。祖父は、人間国宝だった十七代目中村勘三郎。父はご存知、十八代目中村勘三郎。華々しい歌舞伎俳優の家・中村屋の歴史をひもとくと、激動の日々が浮かび上がる。祖父は、幼くてして父親を亡くした。後ろ盾を失う中で、耐え抜いた日々が明らかになる。また、母・好江さんが語るのは亡き夫、十八代目勘三郎の素顔。さらに、幼き頃の勘九郎と祖父との秘話。歌舞伎の伝統を守る、家族の覚悟に迫った。

出演者

【ゲスト】中村勘九郎,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子




『ファミリーヒストリー「中村勘九郎~中村屋 挑戦の原点~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ファミリーヒストリー「中村勘九郎~中村屋 挑戦の原点~」
  1. 聖司
  2. 哲明
  3. 時蔵
  4. 勘九郎
  5. 当時
  6. 歌六
  7. 昭和
  8. 中村勘三郎
  9. 好江
  10. 俳優
  11. 拍手
  12. 舞台
  13. 六代目
  14. 芝居小屋
  15. 自分
  16. 中村勘九郎
  17. 歌舞伎
  18. 歌舞伎俳優
  19. 襲名
  20. 浅草


『ファミリーヒストリー「中村勘九郎~中村屋 挑戦の原点~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。

↓NHK関連商品

彼こそが韋駄天だ!

歌舞伎俳優…

1月から放送を開始した
大河ドラマ「いだてん」の主人公

金栗四三を演じています。

大河ドラマは
祖父 父 3代にわたっての出演です。

人間国宝だった…

父上!
おお わしの子よ。

一同 かちどき!

(一同)お~!

父は ご存じ
十八代目 中村勘三郎。

20年前 同じく 大河ドラマ「元禄繚乱」の
主役を務めました。

失礼します。
よろしくお願いいたします。

父と同じように
大河の主役に挑む 勘九郎さん。

(笑い声)

そうですね。

今日のゲストは 中村勘九郎さんです。
どうぞ!

失礼します。 よろしくお願いいたします。

(拍手)

(池田)駆け足で。
いや もう 走らなくて…

はい 走ってます。
さあ…

まさに。               はい そうですね。
いかがですか?        ええ。

走ってますね~。

これから 今回 「ファミリーヒストリー」
ご覧頂きます。                   はい。

♬~

歌舞伎俳優

六代目
中村勘九郎さん。

本名は
波野雅行です。

勘九郎さんは 波野家のルーツについて
ほとんど聞かされていません。

波野家の戸籍から分かる
最も古い先祖が

4代前の高祖父
歌六に関してです。

江戸時代 「初代 中村歌六」
という名前で活躍した

上方の歌舞伎俳優でした。

女形として人気を集めます。

今から およそ200年前の記録が
保管されています。

うわ~ 面白い!

歌六が ある芝居に出演した時にもらった
給金 出演料でした。

(阪口)この給金は 「百四十両」と
書いておりますね。 ええ。

こちらの方は 二十五両でしょうか。

そんな歌六の出生について
書かれた資料が見つかりました。

息子である時蔵が語ったものです。

高麗橋… この辺り? あっ。

「コ ウ ラ イ バ シ」。

大阪 高麗橋の近くにあった
三井呉服店。

後の三越につながる商店です。

歌六は そこの番頭の子供だと
書かれています。

養子に入り 6歳で俳優になった
歌六は その後 人気俳優になります。

そして 81歳まで舞台に立ちました。

副館長で 日本の古典演劇を研究する
児玉竜一さんです。

幕末に書かれた 歌六に関する記述を
見せてくれました。

(児玉)この人は まるで人魚でも
食べたんじゃなかろうか

とかいうようなことが
書いてあるんですけども

人魚っていうのは この当時は…

そんな感じですよね。

歌六の俳優としての評価は
高いランクを意味する「真上上吉」でした。

ぐらいの
まあ 大きい 大きいといいますか…

そんな
歌六の子として

江戸時代末期の
嘉永2年

1849年に
生まれたのが
時蔵でした。

勘九郎の曽祖父に
あたります。

時蔵の代に

波野という姓を
名乗り出します。

実は その後 いつの間にか
「波野」になったのです。

時蔵が 「波野姓の由来」について
語った記述があります。

波野という
名字を

付けたのは

時蔵の
父方の
屋号が「丹波屋」。

母方の屋号が
「平野屋」。

そこから
一文字ずつを
取り

昔を
忘れない
ようにと

「波野」姓に
なった

というのです。

時蔵は 父・歌六と同様に
俳優の道に進みます。

首振りという芝居が得意で

みるみるうちに頭角を現し
人気を得ていきます。

そして明治6年。 時蔵 23歳の時
東京の芝居小屋から誘いがかかります。

時蔵は 自分の実力を試したいと
東京行きを決めます。

そして出発前に
成功を祈願したのが 長田神社でした。

時蔵が向かったのは 浅草。

いくつもの芝居小屋が建ち並び
にぎわいを見せていました。

時蔵は 「市村座」と呼ばれる
芝居小屋に出演しました。

中村座 河原崎座と並び

江戸時代から続く
江戸三座の一つです。

(ノック)
すいませ~ん。

地元では
当時の にぎわいが 語り継がれています。

これは まあ ここに
浮世絵があるんですが…。

時蔵が共演したのは 当時 大人気だった…

時蔵は 重要な役に 抜てきされます。

ところが…。

上方では
派手な衣装が好まれていたため

時蔵は 納得できませんでした。

時蔵は その後
役を求めて 芝居小屋を転々とします。

時蔵の芸風は 「シリアスな役でも
どこか面白く演じる」というもの。

東京の客たちには
なかなか受け入れられませんでした。

そんな ある日
時蔵は 奴の役で舞台に立ちます。

小屋の中で ぼや騒ぎが起こります。

なんと 時蔵は 自分で火を消し
セリフのように言いました。

(拍手)

絶妙なアドリブに
観客は 大いに沸いたといいます。

次第に 時蔵の芸は
客たちに受け入れられていきます。

東京で成功した
時蔵。

58歳になった時
父の名跡…

そして このころ
歌六は 一人の女性と親しくなります。

当時 歌六には 妻がいたので
いわゆる 妾と呼ばれた女性でした。

名前は 山本ろく。

勘九郎の曽祖母に
あたる人物です。

へ~! いや…

予想してらしたのが。
そうですね。

でも あれですね。

この2つがルーツだっていうことで。

そうですね。

そうですよね。

そうですね なんか。

血が入ってたのかなって思いますね。

三代目 中村歌六と知り合った 山本ろく。

戸籍によると 本籍地は 「浅草区千束」。

その場所は
浅草寺の すぐ裏手にありました。

えっ? 観音裏の
ここら辺なの!? えぇ!?

当時の資料に ろくの名前を見つけました。

経営していたのは 待合。

待合とは 芸者を呼び
飲食するための座敷を貸す店のこと。

当時 浅草には 250以上の店が
軒を連ねていました。

浅草で生まれ 14歳で芸者になり
今も長唄を教えています。

戸田さんが幼い頃は まだ
待合の風情が残っていたと言います。

当時 ろくは
待合を経営するかたわら

義太夫を教えていました。

弟子の中には
歌舞伎俳優も含まれていました。

そんな縁で 人気を博していた
三代目 中村歌六とも親しくなります。

そして 明治42年 ろくは
歌六との間に 男の子をもうけます。

聖司。
後の十七代目 中村勘三郎。

勘九郎の祖父です。

父・歌六は 聖司を歌舞伎俳優にするため

自分の籍に入れます。

このころ ろくの父・山本竹治郎が
聖司に聞かせた話があります。

竹治郎は 江戸時代に活躍した
中村勘三郎という俳優を

特に好んでいました。

えぇ~!
そういうことだったんだ。

竹治郎と同じ 三河国出身。

江戸に 初めて
常設の歌舞伎小屋を作った

「江戸歌舞伎の開祖」と呼ばれる
人物でした。

当時のことを
伝え聞いているのが

聖司の娘であり
勘九郎の伯母にあたる

俳優の
波乃久里子さんです。

大正5年。
聖司が7歳になると

中村米吉を名乗り
初舞台を踏みます。

しかし それから間もなく

歌六こと 父・時蔵が 喉頭がんのため

70歳で 亡くなってしまいます。

この時 聖司は まだ9歳。

途方に暮れる ろく。

聖司を 本家の兄のもとに行かせ
修業を積ませた方がいいのか。

近くの河原を歩きながら
ろくは 聖司に言いました。

ろくもまた 幼い聖司を
手放すことが できませんでした。

そして 一緒に暮らすことを選びます。

ろくは誓いました。

「私が聖司を いい役者にしてみせる」。

そこで ある決断をします。

一人の資産家の男性から
支援を受けることにしたのです。

ろくと聖司は 東京を離れ
千葉・市川に引っ越しました。

聖司は ここから東京の劇場に通い
子役として舞台にあがりました。

ろくは 男性から
一軒の料理屋を任されます。

地元のそば屋に 昭和初期の
市川の地図が残されていました。

これだと思います。
(取材者)ああ。 これかなぁ?

ろくが任された料理屋の名は 「松桃園」。

当時の新聞に 店の広告を見つけました。

えっ すごい!

「百畳の
大広間。

眺めのよい
粋な小座敷。

割烹旅館
松桃園」。

砂風呂もある!
え~?

どういうこと…。

ろくのことを
伝え聞いている人がいます。

松桃園というですね
料亭は ご存じですか?

はい はい。
あっ ご存じですか。

もうちょっと早いと いろんなね
知ってる方 いたんですけど。

(取材者)そうですか。
ほんとに私ぐらいしか知らないかな~。

この家の金庫に
思わぬ記録が 保管されていました。

(中山)たまたま開けたら
ここに 「松桃園」って出てたんで…。

大きな割烹旅館を任されていた ろくが
なぜ 多額の借金をしていたのか。

歌舞伎役者にするには
相当 お金 必要だったって聞いてますよ。

ましてや お妾さんの子だから
その なんか 手を打つのに。

そういうふうには 聞いてますけど。
かなり お金かかるって。

父・時蔵が亡くなったため
直接 芸を教わることができない聖司に

ろくは さまざまな習い事をさせました。

一流の師匠のもとで 日本舞踊
長唄などの稽古に通わせると

ろくの手持ちの金は 底をつき
借金を せざるをえなくなったのです。

そんなある日のことでした。

聖司が ろくのもとに
一人の お婆さんを連れてきました。

「この困っている お婆さんを
引き取りたい」。

うん?

実は このことが
当時の新聞に取り上げられました。

へえ~。

「少年俳優の米吉君が拾った
赤い飴売婆さん」。

ハハハハハ!
え~?

米吉こと聖司は 町で赤い服を着た

身寄りのない飴売りのお婆さんと
出会います。

面白いわ~。

聖司は お婆さんの境遇に同情して
一緒に暮らすことを申し出ます。

はあ!
すごいなぁ。

それを聞いた ろく。

苦しい生活ながらも 聖司の
優しい気持ちを そのまま育てたいと

自宅に引き取ることを許したのです。

え~!
すごいなぁ。

長女の久里子さんは こういった
聖司の性格は その後も変わらず

後に こんなことも
あったと言います。

懸命に 稽古を続ける聖司。

いやいや 駄目だって。
ハハハハハッ。

しかし 父を亡くしたことからなのか
あまり いい役は もらえませんでした。

そして 聖司が 14歳になった頃
ろくは 決断します。

「このままだと いい役につけない。

やっぱり 本家の兄さんのところに
行ったら どうだい?」。

聖司は 母のもとを離れ
本家の兄たちと暮らすようになります。

迎えたのは 長男・辰次郎。
初代 中村吉右衛門です。

当時の人気俳優で
聖司との年の差は 23ありました。

聖司を 我が子のように かわいがります。

吉右衛門の後押しもあり

聖司は 二十歳で 「中村もしほ」を襲名。

いい役にも つけるようになりました。

兄のもとで 10年ほど暮らします。

そして 昭和10年
聖司は あることを決断します。

松竹から
新興の東宝劇団に

移籍することに
したのです。

それには
理由がありました。

「ただ一人の母と
一緒に暮らしたい。

会いにもいけず
余り楽でない母のために

私の身を決したわけです」。

再び 母と一緒に暮らしだした 聖司。

東宝劇団に移籍後は 現代劇も含め
さまざまな役に挑戦しました。

ところが 昭和14年
東宝劇団の経営が傾きます。

そこで 聖司は 兄・吉右衛門の許しを得て
再び 松竹に戻ることになりました。

翌年 聖司に
縁談が持ち上がります。

相手の名は 寺島久枝。

当時の歌舞伎界の大スター

六代目 尾上菊五郎の長女でした。

ふ~ん。
いかがでしたでしょうか?

そうですねぇ。 やっぱり…

そうですね。 ねぇ。 いや~…

アハハハ!

「今日から いい?」って。
アハハハハハ!

いや そうですよ。
ほんとですよね。

えっ! なんと。

え~… えっ!?

そのあと ホームレスも ありましたよ。
そうなんですよ。

そうなんですよ。
びっくりした 今。

後に 勘九郎の祖母となる
寺島久枝。

久枝の父は
昭和を代表する名優

六代目 尾上菊五郎こと
寺島幸三です。

幸三も いわゆる 妾の子でした。

更に 後ろ盾になる父も
早くに亡くしました。

似てる 境遇が。

それが原因で 肩身の狭い思いをします。

悔しさをバネに
人の何倍も稽古を積みました。

そして 17歳で 六代目 尾上菊五郎を襲名。

「六代目といえば 菊五郎」と
いわれるまでになります。

菊五郎が 30歳を過ぎた ある日
一人の子役に声をかけます。

当時 中村米吉を名乗っていた
波野聖司でした。

自分と同じような境遇だった聖司に
菊五郎は言いました。

以来 聖司のことを 事あるごとに
気にかけるようになります。

六代目 菊五郎は…

そして 持ち上がった 聖司と久枝の縁談。

聖司の母・ろくは 大いに喜びます。

そして 昭和18年
2人は 結納を交わしました。

しかし 時代は 戦争のただ中。

昭和19年2月
「高級享楽の停止」が命じられ

歌舞伎座や帝劇などの
大劇場が閉鎖されました。

「戦いにもまた 山あり谷あり。

勝利の頂を極むるものは
ただ 不撓不屈の努力のみ」。

若い歌舞伎俳優たちも
次々と戦地に向かいました。

そして 聖司のもとにも
召集令状が届きます。

久枝との結婚式は 中止。

聖司は 歩兵第49連隊への配属を
命じられます。

ところが…。

戦時中 聖司のような例は
少なくなかったと言います。

やっぱ そうか
歩兵部隊やと…。

聖司が入隊するはずだった
歩兵第49連隊は

その後 フィリピンのレイテ島で
アメリカ軍と激戦。

日本兵の9割が亡くなりました。

昭和19年12月

聖司は 久枝と
結婚式を挙げました。

翌年 2人は 鎌倉に疎開し
そのまま 終戦を迎えます。

間もなく 女の子が生まれました。

それが 久里子。

後に俳優となる
勘九郎の伯母です。

同じ頃 歌舞伎が再開されます。

聖司は 再び 舞台に立ちました。

精力的に
さまざまな役をこなしていきます。

昭和24年 春のことでした。

聖司は 当時の松竹社長
大谷竹次郎から呼び出され

こう言われます。

「私が名跡を預かっている
中村勘三郎を

世の中に出したいと思うが
君 どうだ?」。

80年近く 継ぐ人がいなかった名跡。

世間では 全く知られていませんでした。

しかし 聖司に
幼い頃の記憶が よみがえります。

母・ろくの父である 祖父・竹治郎から
よく語り聞かされていたのが

「中村勘三郎」の名前でした。

聖司は 思いました。

「むしろ ゼロから
新しい勘三郎をつくることができる」。

その翌年 聖司は 「中村もしほ」改め…

この時 「中村屋」という屋号を名乗ります。

襲名後 聖司は
それまで以上に 芝居に向き合いました。

すると その演技で注目が集まります。

♬~

それは 大変な偉業だとは思いますね。

襲名から5年後の昭和30年。
待望の長男が誕生します。

哲明 後の十八代目 中村勘三郎

勘九郎の父です。

長男も生まれ 張り切っていた聖司。
当時 一目置いていた俳優がいました。

久里子さんは
この時の「高杯」という舞踊は

チャップリンに影響を受けていたと
言います。

♬~

チャップリン本人が
舞台を見にきたこともありました。

へえ~。

十七代目 中村勘三郎こと聖司を
長年 撮影してきた…

聖司が 勘三郎を
襲名してから

8年後の
昭和33年11月。

母・山本ろくが
亡くなります。

息子の活躍を
見届け

73年の生涯を
閉じました。

その5か月後。

哲明が初舞台を踏み
五代目 中村勘九郎を襲名。

哲明は テレビ CM 映画などに
次々に出演し

その堂々たる演技で
お茶の間の人気者になります。

いいよ いいよ 自分でつぐから。

おっとっとっとっとっと!
あ~。

あ~ うまい。

これが せめて 毎日 飲めたらなあ。

哲明は 父・勘三郎から
歌舞伎の基本を厳しく教え込まれます。

それを嫌がることは ありませんでした。

哲明は 成長するにつれ
その演技に磨きがかかります。

歌舞伎界を代表する
俳優の一人になっていきます。

そして 哲明が25歳になったころ
「心に決めた人」が出来ました。

その人の名は…

後に 勘九郎の母となる女性でした。

う~ん…。

そうですね。
そうですね そうですね。

そうなんです。

継ぐべくして
継いだじゃないですけど。

なるほど。
うん。

そうですね。
そう だから…

あっ 後に さんまさん
おっしゃってたんですか?

そうなんですよ。
すご~い。

中村勘九郎の
もう一つの大切なルーツ

母・好江の家族の歴史に迫ります。

好江の父は 七代目 中村芝翫
本名は 中村榮次郎。

後の勘九郎の
祖父です。

榮次郎は まだ5歳の時に

父である 五代目 中村福助を
病気で失います。

あ~ そっか…。

後ろ盾を失った 榮次郎を気にかけ
声をかけた人がいました。

それは またしても…

すぐ現れてくれるなあ…。

「いいか。 人に教えを乞わず
自分で見て覚えるんだ」。

早くに父を失い 苦労した菊五郎は

困っている子役を見ると
放っておくことができませんでした。

菊五郎の言葉を支えに
榮次郎は 芸に励みます。

やがて 女形として 人気を得ていきます。

榮次郎のもとに
女の子が生まれます。

次女の好江。
後の勘九郎の母です。

好江さんを訪ねました。
えっ… え~。

あら お母様。

自分が生まれた時のことを
何度も聞いてきました。

私…。 ほんと。

はあ~。
とんでもないですよね。

その後 待望の男の子が生まれます。

残念…。

好江さんの弟は 九代目 中村福助
そして 八代目 中村芝翫です。

あ~ そうか そうか…。

当時 父・榮次郎が
繰り返し語っていたことがありました。

それは 恩人でもあった
六代目 尾上菊五郎のことでした。

そして 好江が二十歳になった頃
親しくなったのが

波野哲明。
当時の 五代目 中村勘九郎です。

やっぱ 天パなんだ。
ハハ。

一緒でした?
そうなんです。 一緒。

ある日 哲明の家に招かれた好江。
飾ってあった写真を見て驚きます。

そこには 六代目 尾上菊五郎が
写っていました。

父は ほんと崇拝してた。
へえ~。

哲明も また 父から
祖父である 六代目 尾上菊五郎の話を

何度も 聞かされてきました。

昭和55年11月 2人は結婚します。

結婚後 すぐに
好江は あることに驚きます。

それは 夫と義理の父の
会話のしかたでした。

2人の間での やり取りは
いつも敬語でした。

♬~

(聖司)もっとチョンチョン
もっとピッチリ開いて 目を開いて下さい。

結婚の翌年。 長男の雅行が生まれます。

後の 六代目 中村勘九郎です。

その2年後には
次男の隆行

後の二代目 中村七之助が誕生。

(好江)男子しか
産むつもりじゃなかったんで 「よし!」。

このころ 十七代目 中村勘三郎こと
聖司は

70歳を越え 俳優として
円熟期を迎えていました。

人情味のある役に 磨きがかかります。

(拍手)

旦那さん お泊まりまで参りましょうかい。

さっ 参りましょうかい。
(笑い)

いやっと! やっと! やっと任せの
どっこい どっこい どっこい。

これは 何だ 何か ムシムシする。
(笑い)

勘三郎は 自分の息子役に
孫の雅行を指名しました。

ただいま ごかって。

覚えてます これ。

そして 2年後の 昭和63年4月

十七代目 中村勘三郎こと
波野聖司は 亡くなります。

78年の生涯でした。

(取材者)今日?

(鈴の音)

文化勲章を授与され
人間国宝にもなった聖司。

生涯に演じた役の数は 「803」。

それは 俳優人生を貫き通した
証しでもありました。

覚えてるって おっしゃってましたけど…

ありますね~ やっぱり。

昭和63年 父を失った哲明。
中村屋を背負うことになります。

このころ 歌舞伎は
低迷期を迎えていました。

そこで始めたのが 若者の街 渋谷で
歌舞伎を行うことでした。

♬~

(歓声)

♬~

なんと 舞台に巨大な水槽を設置。

挑戦を続ける哲明。 しかし 妻・好江は

周囲には決して見せない
夫の姿を見ていました。

そして 平成12年。
哲明が 更なる挑戦を始めます。

松竹の副社長で
当時 歌舞伎製作を指揮していた…

ある日 哲明が相談にやって来て
熱く語りだしました。

哲明が考えたのは 江戸時代
浅草にあった芝居小屋の復活でした。

舞台と客席の距離を近づけ
「一体感を生み出したい」というのです。

場所は浅草 隅田川沿い。

仮設テントで
芝居小屋を建てようと考えました。

しかし 耐震設備などで コストが
かかりすぎるという問題が発生します。

それでも哲明は 諦めませんでした。

哲明は 浅草中を回り 協力を求めました。

「芝居小屋があった
かつての浅草を復活させたいんです」。

すると 哲明の熱意に 浅草の人たちが
スタッフとして参加することを買って出ます。

そうなんです。
うん。                     うん。

芝居小屋が完成間近の
ある夜のことでした。

警備員だった大久保 洋さんが
午前2時ごろに見回っていると

そこに 哲明が現れます。

完成が気になって
しかたがないという哲明。

大久保さんは 突然のことで驚きました。

(取材者)暗いから?
そうですね。

平成12年11月 芝居小屋が完成します。

江戸三座の一つ 「中村座」にちなみ
「平成中村座」と命名しました。

初日から 大入り満員の大盛況となります。

(拍手)

舞台と客席が一体となり 江戸時代の
歌舞伎の熱気が よみがえりました。

(歓声と拍手)

中村座が軌道に乗ってきた…

哲明は 亡き父の名跡
十八代目 中村勘三郎を襲名します。

ますます芸に磨きをかける哲明。

そして 息子たちにも
徹底的に芸を教え込みます。

中でも 長男・雅行には

特に厳しく接したといいます。

俊寛殿 康頼殿。
俊寛殿。

俊寛殿 康頼殿

我を捨て置き… 船に乗られよ。

俊寛殿 康頼殿
我を捨て置き… 船に乗られよ。

(取材者)う~ん。
七之助さんよりも?

そして 平成21年。
雅行は 俳優の前田 愛と結婚します。

その2年後には 初孫 七緒八が誕生。

哲明は
孫の初舞台を心待ちにしていました。

平成24年 雅行は 父が名乗っていた

中村勘九郎の名跡を

襲名することになります。

勘九郎の襲名披露。

この時 哲明の体を 病魔が
むしばんでいました。

食道がんでした。

間もなく哲明は 闘病生活に入ります。

舞台に復帰することだけを
願っていました。

しかし 平成24年12月5日。

哲明は 57歳で亡くなります。

その日 雅行は 京都での公演中。

(拍手)

悲しみをこらえながら 舞台に立ちました。

(拍手)

そうなんっすよ。
う~ん。

か~! へ~。

いや ほんとですね。

そうですね。
はい。

(池田)えっ そうですか…。

うん そうですね。

十八代目 中村勘三郎の追善公演が
平成中村座で行われました。

父が残した 平成中村座。

≪中村屋!

(拍手)

勘九郎さんは 会場を満席にし
見事 成功を収めます。

その2年後。 勘九郎さんの
2人の息子たちが 初舞台を迎えます。

演目は 「門出二人桃太郎」。

♬~

♬~

(拍手)

それでは 2人とも ご挨拶を。

中村勘太郎でございます。
どうぞ よろしくお願いいたします。

中村長三郎でございます。
どうぞ よろしくお願い…。

(拍手)

この時 2人が着たのは

勘九郎さん 七之助さん兄弟が
30年前に使った衣装でした。

勘九郎さんたちも 同じ「桃太郎」で
初舞台を踏みました。

♬~

はははっ!

(池田)目が厳しい。

そして 60年前。

父の初舞台も 「桃太郎」でした。

♬~

世代を超えて
その芸は 受け継がれていきます。

そして今 勘九郎さんは

大河ドラマ「いだてん」の主役
金栗四三を演じています。

祖父と父も出演した
大河ドラマ。

父は
同じく主役を務めました。

一同 かちどき!

そう
とにかく かぶっとたい!

勘九郎さんの
熱演が続きます。

父の勘三郎さんと
長年 交流がありました。

2人で 歌舞伎を手がけました。

そして 平成29年。

今度は 息子・勘九郎さんとも
歌舞伎を作ります。

歌舞伎俳優 中村勘九郎の
「ファミリーヒストリー」。

そこには 挑戦し続ける
家族の歳月がありました。

すごく なんか
何だろう 家族が

背中 押してくれてる感じがします
今。


関連記事