先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 後編・みんなの力を合わせるには」 常にリーダーとしてスタッフに問いかけ続けたこと…


出典:『先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 後編・みんなの力を合わせるには」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 後編・みんなの力を合わせるには」[解][字]


国内外に300を超える作品・建造物を手がけた、建築家・丹下健三。終生プロジェクト実現に向けまい進する中、常にリーダーとしてスタッフに問いかけ続けたことがあった。


詳細情報

番組内容

国内外に300を超える作品・建造物を手がけた建築家・丹下健三。終生プロジェクト実現に向けまい進する中、常にスタッフに問いかけ続けた事がある。後編は1970年の大阪万博のマスタープランを手がけた際の芸術家・岡本太郎とのエピソードを紹介。太郎の無理難題に対しスタッフ全員の力を集結し成功へ導いた。リーダーとしてブレない丹下の矜持(きょうじ)はその後新宿の都庁舎建設へと向かっていく。そこに秘めた思いとは?

出演者

【ゲスト】PR/クリエイティブディレクター…三浦崇宏,渡辺満里奈,千葉大学准教授…豊川斎赫,【司会】新井秀和




『先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 後編・みんなの力を合わせるには」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 後編・みんなの力を合わせるには」
  1. 丹下
  2. スタッフ
  3. 仕事
  4. アイデア
  5. 丹下健三
  6. 自分
  7. チーム
  8. 知恵
  9. 日本
  10. リーダー
  11. 建築
  12. 設計
  13. 大屋根
  14. 当時
  15. フロア
  16. 屋根
  17. 広場
  18. ナポリ市
  19. 海外
  20. 完成


『先人たちの底力 知恵泉「丹下健三 後編・みんなの力を合わせるには」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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♬~

チームをまとめることに
悩んでいる あなた。

この方の知恵が お薦めです。

その作品は 日本だけにとどまらず
世界各地にあり

「世界のタンゲ」と評されるほど。

20世紀を代表する建築家です。

日本には 近代オリンピック競技場の
最高傑作の一つと言われる…

世界中から 6, 421万人が来場した

大阪万博の…

海外でも…

イタリア ナポリ市が開発する
新都心を設計するなど。

その仕事は どれもが

国家的規模の
巨大プロジェクトばかりなんです。

当然 これだけの大仕事を

丹下一人で
成し遂げたわけではありません。

その陰には
優秀で献身的なスタッフが存在し

丹下は リーダーとして
彼らをまとめ 育てることで

次々と 大きな仕事を
成功させることができたのです。

巣立っていった建築家には…。

ニューヨークの
新しい「ワールド・トレード・センター」や

「幕張メッセ」を設計した
槇 文彦。

「ロサンゼルス現代美術館」

「なら100年会館」をつくった
磯崎 新。

フランス建築アカデミーの
ゴールドメダルを受賞した

黒川紀章など

その後 世界で活躍する建築家が
数多く います。

一体 丹下健三は
どうやって 個性豊かなスタッフを束ね

巨大なプロジェクトを
成功へと導いたのでしょうか。

この知恵を読み解くのは…

10年間の大手広告代理店 勤務時代に

世界三大広告賞の一つと言われる

フランスのカンヌライオンズの
ゴールド賞をはじめ

国内外で 多くの賞を受賞。

33歳の時に
ベンチャー企業の立ち上げや

大企業の新規事業をサポートする会社を設立。

常識にとらわれず
新たなビジネスに挑戦しようとする

ユニークなプロフェッショナルたちを
まとめ上げ 成功に導いています。

若い時から リーダーとして
プロジェクトを成功に導いてきた

三浦崇宏さん。

みんなの力を合わせる
丹下健三の仕事の極意を

どう 読み解くのでしょうか。

♬~

ということでね まあ 丹下健三。

誰もが知る建物 建築物を 次々と
設計したわけなんですけれども

まあ その思いを
受け継いでといいますか

先生 その お弟子さんのような方たちも
たくさん いらっしゃいましたね。

たくさん こう
お弟子さんを抱えてらして

代官山ヒルサイドテラスって

満里奈さんも
よく行かれると思いますけど

ああいうところの
設計者の槇 文彦さんが

全部 設計されてたりとか
お一人で。

例えば あるいは 西臨海公園の
水族館というのも

谷口吉生さんというのも

丹下さんの
お弟子さんだったりとか。

あっ あれもお弟子さん
あれもお弟子さんという形で

知らないとこで
多分 いっぱい関わられてると思います。

でも 何か芸術家の人って やっぱり
自分の世界観が すごくあって

これを つくりたいんだっていう
自分の考えを

まずは 通そうっていう人が
多い気がするんですけども。

それは いわゆる
「巨匠モデル」と言われていて

その巨匠が こうサラサラサラッと
例えば お品書きの辺りに書いて

お弟子さんに
「これ やっといて」って言うと…。

「やっとけ」みたいな?
朝 起きると 模型と図面が出来てます。

小人のような。
そうそう。 先生のおっしゃることは

神様のお言葉です というようなのが
巨匠スタイルなんですけど

丹下さんは よく スタッフに
自分は チームの一員だと。

で アイデアを
どんどん 出してほしいと。

で 年長者だろうが 若かろうが
とにかく面白ければ採用するから。

だって 最後 選ぶのは自分だから
その選ぶのは任せてくれと。

そのかわり
もう どんどん言いたいことを言って

盛り上げて
みんなで つくってるっていうことを

実現しよう みたいな… いうことを
ふだんから言っていたので

だから 他の さっきの巨匠スタイルとは
真逆というか。

僕らも よく 一番えらいのは
アイデアだって言うんですよ。

クリエイティブディレクターって
僕の仕事って

チームに コピーライターがいたりとか
デザイナーがいたりとか

あるいは デジタルのプランナーがいたりとか
いろんな人がいるんですけど

一番 えらいのは俺じゃなくて
真ん中にいる アイデアだから

これに みんな 奉仕するんだよって
言い方を よく するんですよね。

でも まあね クリエイティブな
仕事をしてる方って

やっぱ 個性的で
それを まとめ上げるのって

結構 摩擦があったりとか リーダーって
大変なんじゃないですか?

だから その 建築の場合だと
例えば お施主さんもいるし

施工をしてくれるような
ゼネコンの人もいたりとか

職人さんもいて
あるいは スタッフもいて

いろんな人が よかれと思って
いろんなことも言うわけですよね。

でも  それを フラットに
ちゃんと受け止める能力がないと

どうしても うまくいかないのがあると
思いますけど

丹下さんの場合には よく
だから 相手の話を聞く能力が…。

渡辺さんも それこそ
おニャン子クラブだった時とか

それぞれね 自我のある女性の集まりで
大変だったんじゃないんですか?

でも 結構
タテ社会だったりとかするので。

タテ社会!

体育会系じゃないですか。
やっぱり 先輩後輩とかがあったりとか。

もう 部活みたいなものだから そんなに
いろんな意見が出るというよりは…。

それを まあ 大人が

うまく まとめ上げてくれてたのかも
しれないですけど。

それを まとめる秋元 康さんは
大変そうだなとか思わなかったですか?

秋元さんは
それこそ やっといてっていう…。

巨匠スタイルですね。 大丈夫か?
思ってない。

いや そんなことないかな。
今 明かされる みたいな。

さあ 丹下健三もね
そうやって みんなの知恵を集めて

大きな仕事を
成し遂げたということで。

いよっ!
こちらです。

どうですか?
いやいや まあまあね。

ドヤ顔されてもねって
ところですよねえ。

これって 店長
いっつも 一人で考えてるんですか?

ええ うち
一人で切り盛りしているので…。

他のスタッフ雇う
お金が なくてですね。

あっ だから駄目なんじゃないですか?
やっぱり みんなで…。

スタッフがいなきゃ駄目ですよ。
集まって 知恵を出し合わないと。

そっか…。

山梨県甲府市に

丹下自らが 「代表作」と言う
作品があります。

この建物の竣工は 昭和41年。

東京オリンピックから
2年後のこと。

当時の外観は
今とは ちょっと違ったものでした。

こちらが
新築の時の写真です。

むき出しのコンクリートの
巨大な柱が

不ぞろいのまま
立ち並び

壁も フロアもないところが あちこちに。

「これで完成なの?」と
思わず 口にしてしまいそう。

どうして 未完成とも思える この建物を
あえて つくったのでしょうか。

そこには 設計をめぐる 丹下と
スタッフたちのドラマがありました。

きっかけは 昭和35年

山梨文化会館の設計を頼まれた 丹下が

施主に初めて

デザインを見せたことから始まります。

普通ですね。 丹下さんらしくないなあ。

屈辱とも言える言葉に対し
丹下がとった行動。

それが今日 一つ目の知恵です。

急速に経済成長が進む
1960年代の日本。

このままでは 将来
オフィス不足になるのでは… という

心配の声も聞こえ始めた頃。

新たに建てる 山梨の文化施設の
設計案を見た施主から

「普通だ 丹下さんらしくない」と
ダメ出しされ 落胆。

アイデアに詰まり 立ち行かなくなる中
スタッフに相談します。

ジョイントコアは どうですか?

以前のコンペで考えていた
アイデアなんですが…。

ジョイントコアか… それを発展させると
面白いかもしれませんね。

ジョイントコアを使えば
増築も改築も 簡単にできますから。

「ジョイントコア」とは

丹下のスタッフたちが
一時 熱心に研究をしていた工法です。

通常のビルは
まず フロアをつくりながら

エレベーターや 上下水道などの
インフラを 一緒に組み込んでいきます。

一方 ジョイントコア工法は

まず 「コア」と呼ばれる巨大な柱だけを
独立部分として 最初に建設。

エレベーターや水道などのインフラを
後から設置していきます。

最後に 柱と柱の間を
フロアでつないで完成。

利用実態に応じて
フロアの拡張が可能な

画期的な工法でした。

こちらは 山梨文化会館の4階にある
空洞部分です。

この柱にある 四角い突起物
何だと思います?

実はこれ 全ての柱に付けられていて

ここに 床となるフロアを設置し
壁を取り付ければ 簡単に部屋に変身。

オフィスとして 使用可能になるんです。

このジョイントコア工法で
つくられたのが こちらの棟。

竣工当時 この棟には
7階部分しかフロアがなく

あとは空洞。

その後 利用者や 働く人の数が増え
増築されました。

斬新な工法と 未来を先取りした
ユニークな外観は 高い評価を受け

丹下のもとに 建築の専門誌から
原稿依頼が舞い込みます。

この時 丹下は

ジョイントコア工法を推し進めた
若手スタッフに 執筆を任せました。

次の世代に
チャンスを与えたのです。

手柄を独り占めにせず
部下にも敬意を忘れない リーダーに

スタッフは傾倒。

丹下のチームは
更に 大きな仕事に向かうことになります。

それが 1970年に
大阪で開催が決まった 万国博覧会です。

「人類の進歩と調和」をテーマに

日本の高い技術力を
世界にアピールしようと

国を挙げて挑む 一大イベント。

丹下健三は その会場の
マスタープランを任されました。

博覧会のようなものっていうのは

いろんな 100か国近くの人たちが

それぞれの国を表現する
特殊な建築を建てるわけであります。

下手をいたしますと おもちゃ箱を
ひっくり返したようになってしまう。

やはり それに対しても

何がしかの構造を 与えてあげなければ
いけないと考えたわけでありまして…。

そこで考えたのが たくさんの
パビリオンが立ち並ぶ会場の真ん中に

大きな広場をつくること。 更に…。

会場の中央につくる この広場。

この全体をですね 大屋根で
覆ってしまおうと思っています。

おい 広場の大きさは?

確か 東西に108メートル

南北に291メートルだったと思います。

おい… かなりの数の柱が必要だな。

はい…。

屋根を支える柱は 6本。
これでいきたいと思っています。

無理だろ…。

推定重量 5, 000トンを超える大屋根を
たった6本の柱で支えられれば

日本の技術力の高さを
世界にアピールすることができます。

実現に向け 連日 スタッフは
構造計算に四苦八苦します。

ようやく めどが立った頃
事件が起こります。

大変です。 奴さん
とんでもないこと言いだしましたよ!

その人物こそ
万博のテーマ館を任された…

芸術は爆発だ!

常人では思いつかない 奇想天外な発想を
次々する 天才芸術家が

なんと 大屋根に穴を開け

土偶のような奇妙な塔を建てると
言いだしたのです。

大屋根に穴を開けると バランスが崩れ
壊れる可能性もあることから

スタッフは 太郎に抗議しますが

太郎は 「それは君たちの仕事だ」と
どこ吹く風。

丹下も いいかげんにしろと
怒っているかと思えば

太郎の案を尊重し そのアイデアを
受け入れてしまいます。

こうなると スタッフも いつまでも
文句を言っているわけにはいきません。

ゼロから 構造計算をやり直し

穴を開けても 屋根が
壊れないようにするための方法を

模索し始めます。

そして ついに たどりついたのが

何本ものパイプを 立体的に
組み合わせることで 重さを分散する

「スペースフレーム工法」でした。

もともと 代々木体育館の

構造デザインの担当者が研究していた
工法で

それを 丹下とスタッフが
大屋根に応用しました。

こうして 丹下とスタッフたちが
スクラムを組み

難問を解決に導き
広場の大屋根は完成します。

♬~

丹下健三が 未来都市をイメージして
つくった広場の大屋根と

岡本太郎が 古代の土偶をモチーフにした
太陽の塔との組み合わせは

万博のテーマ「人類の進歩と調和」を
具現化していると大好評。

この成功には どんな時も
相手に対して 深い敬意を払う丹下の

仕事の進め方があったのです。

うれしそうですね。
うれしそうだった。

ねえ 最後のね
表情が印象的でしたねえ。

お二人が 丹下さんと岡本さん

僕 けんかしてると思ってたんです
これ。

けんかして けんかして
まあ でも しかたない もうやろう!

…っていう 半ば勢いでやったのかなと
思ってたんですけど。

僕の知っている方々
いろんな複数の証言を聞くと

どうも 丹下さんは 最初 びっくりして
「これ まずいな」ということもありつつ

やっぱり よく考えたら
さっきのアイデアが中心って話で

これは いいんじゃないかと。
さすがに 丹下さんも

屋根 頭が出るとは
想像してなかったみたいで

それは ほんとに
びっくりしたと書いてます 本には。

そういう意味では その
相手に対する 聞く耳を持つというか

ゼネコンとか スタッフとか
お施主さん いたりしますけども

ほんとに 異なるジャンルの
キャラの強い人たちとも

こう いろいろ議論ができる。

そういう意味では
才能がある人だったんだなと思いますね。

議論をしても やっぱり まとめるのって
大変じゃないですか それを。

やっぱり
ある程度の方向が見えていないと

まとまらなかったりとか。

ただ 聞いてるだけでは
まとまんないですよね。

それが できるってのは
やっぱり才能なんですかね。

やっぱり 若いやつとか
例えば 僕は10年やってるけど

若いやつは 2年のやつもいるとか
いろいろ ありますけど

その… 若いとか
年 取ってる方が偉いっていうのは

一切 もう 僕らの中になくて

違う時代を生きてきたやつって
ことなんですね。

最初から 大きい会社に入って

体育会系の組織で生きてきた
考え方の人。

で 生まれた時から
もう最初に 手元にスマホがあって

みんなで こう フラットに
話し合いながら生きてきた人。

それぞれ 違う経験を持ってきた
2人が話し合った時に

どっちが いいアイデアが
出るんだろうみたいな

話し方をしてますね。

あと もう一つ
丹下さんが大事にしてたのは

フラットな関係を 具体的に…

これ 言うのは簡単なんですけど
「フラットに話し合う」。

だけど 当時 竣工して完成して
雑誌を開くと

そこに
クレジットを入れるんですけれども

比較的 その建築の雑誌って

設計者の名前が
大きめに出るんですけど

その時に 必ず 丹下健三の
同じフォントの 同じ大きさの字で

スタッフの名前も 並列していくんですよ。

例えば その人が 丹下研究室を離れて

アメリカとかに行くんですよね。

日本の雑誌を パッと見せて

で すばらしい建築の写真が
載ってると。

でも ここに 丹下と
君の名前が同じ大きさで出てる。

君は こんなに すばらしいものができる
すごい建築家なんだな。

その雑誌一つが その世界に向けての
パスポートというか。

すごい大事だと思います。

ほんとに リーダーの総取りに
なりがちなことって

やっぱ 多いんですよね。

プロジェクトやっても
このプロジェクトやったのは

クリエイティブディレクターの三浦ですって言って
終わっちゃうことが

結構 あるんですけど
そこに対して 例えば

アイデアを出したのが
うちの新人だったら

例えば メディアが取材が来て
「この広告 どうやって作ったんですか?

三浦さんに 話 聞きたいです」
というのを

僕は 必ず やっぱ
その若いやつに回して

お前が どう考えたか
お前なりに 話してごらん

というふうに やるんですけど

やっぱり そこはね
気持ちが動きますよね。

グッと きますよね。

さっきのね
三浦さんのお話で 何か こう今ね

部下を持つ人たちの すごく
ヒントになるかなあと思ったのが

まあ いろんな時代を
生きてきた人たちが

今 組織の中にいて

まあ いわゆる ゆとり世代の部下と
うまく いかないとかって

悩んでいる人とかも
いると思うんですけれども

それぞれの時代を生きてきた
考えなんだって思うと

リスペクトできるっていうか ねえ?

「何で そういう考えになっちゃうんだ!」
じゃなくて… うん。

そういう時代を生きてきた人は
そういう考えなんだねって

尊重できるっていうか。

あとは じゃあ…

「このプロジェクトで
一番 リスクを負ってるのは俺だから

この会社で
一番 リスクを負ってるのは俺だから

お前の考え方も
すごく 分かるんだけど

今回は 俺の考え方を尊重してもらえる?」
っていう言い方だと思うんですよね。

そして 柱6本で支えるって
言ってた あの大屋根ですけれども

スペースフレーム工法。

簡単に言うと
種類が少ないんですよね パーツの。

例えば こういう箸がありますけど

同じ箸の これを 例えば3, 000本とか
5, 000本 こう 用意しておいて

で おだんごを準備して
それに こう 組み合わせて。

で だから
種類が数種類しかないパーツで

こう どんどん どんどん組み上げていく
ユニットなので

すごく その… 型が決まれば

どんどん どんどん つくれちゃうよ
というような そういう建て方。

で これ 何に使ったかっていうと
例えば 羽田とか成田とかで

ジャンボジェットとかを
メンテナンスするために

飛行機を整備する格納庫というか

その屋根は 全部 これなんですよ。

で あっという間に こう屋根が出来て
スカッと こう上がると。

だから ものすごい広くて
柱があったら困るんですよね。

これを広場に使ったら

何万人もの… さっき6, 000万人でしたっけ
入場者数。

ああいう人々が たくさん来ても

快適にいられるような
広場をつくろうということで

スペースフレームをつくったと。
なるほど。

でね 最初の知恵が

「どんな相手にも 敬意を払え」
ということでしたけれども。

僕らの世界って やっぱり どんどん
テクノロジーが進歩してるので

逆に こう 諸先輩方を ちょっと軽んじる
みたいなところも ある人も

まあ 中には いるんですけど
それも違うと思ってて。

俺は たくさんCMを作ってきた。

僕は もう今まで
ず~っと WEBばっか見ていました。

俺は スマホゲーム
すごい やってます。

僕は 小説を
たくさん読んできましたって。

それぞれの 違う興味や関心を持ってる
その全員が

あっ ここに 何か
可能性があるなっていう

これかもしれないな みたいな。

グッとくるものが見つかる時って
あるんですよね。

でも それって 限りなく
アイデアが出てきたりすると

すごく 時間が かかってきたりするかなと
思うんですけど…。

もう 時間が…。

「締め切り」って
よく みんな 敵みたいに言うわけですよ。

「締め切りが迫ってきた!」って。

でも 締め切りこそが
僕らの身を守ってると思ってて。

締め切りが来なかったら もうちょっと
良く できるんじゃないかとか

もうちょっと… もう一回 考えようって
なっちゃうんですよ。

だから 締め切りまでに

どれだけ 最高のものをつくれるか
ということだけが

僕らのルールなのかなと思ってますね。

どうですか? お二人は。
「どんな相手にも敬意を払え」というのは。

例えば子どもに対して どうしても やはり
こうしなさい ああしなさいって

言ってしまうこととかも
あるんですけど

でも ちゃんと… ねえ
小学生ぐらいだったら

自分の意見を持ってたり
それなりに つたなかったりするけど

その 彼らの経験なりの
知恵だったりとか 知識だったりとかで

話してきたりするので…

先生なんかも
大学生 相手にしてると。

僕も今 胸が痛いって…。

丹下さんは 結局
全部 自分の研究室の教え子なんですよ。

つまり 大学の時に
自分の授業を受けさせて

その子たちが 要するに
普通であれば 就職するじゃないですか。

就職しないで
自分のところに残るんですよね。

だから これは 槇 文彦さんが
おっしゃってるんですけど

普通の設計事務所は
大体 プロ集団 プロ野球みたいに

大学 卒業したら プロに入ると。

ところが いつまでも丹下研だけは
高校野球というか

先輩後輩もあるんだけど
チームワークというか

同じ釜の飯を何とかってやつで。
しかも…

今 僕のとこの研究室に
20人ぐらい いるんですけど

じゃあ 20通り
ちゃんと 意見を聞けてあげて

それだけに ベストな こう 何ですかね
応答ができてるかっていうと

非常に… つらい。
ただ まあ 丹下さんのことを思うと

若いけど 非常にいいものを持ってる
人々との出会いが

自分にとっても そうだし

その子たちにとっても
多分 掛けがえがないものだと思うと

もう 何か 身が引き締まるというか。

人を大切にするというかね
チームワーク。

まあ それで 大阪万博を 大成功に
導いたという感じもしますけれども

実はですね そのあと
日本の経済成長は 陰りを見せ始めて

建築業界も 不況に入ってしまう
ということなんですね。

そんな危機を乗り越えたのも
チームの力だったということで

次の知恵です はい。

万博も 無事終わり
経済成長が続く 1973年。

第4次中東戦争が勃発し
石油価格が高騰。

オイルショックが起きます。

日本では 店先から
トイレットペーパーが消え 物価も上昇。

公共事業も凍結されだし
建築市場は 急速に冷え込みます。

こうした中 丹下は
活動の場を海外に移し

ヨルダンのヤルムーク大学の建設や

サウジアラビア王国 皇太子宮殿の建設に
取り組みます。

海外からの仕事の中で
当時 丹下が 特に強い興味を示したのが

都市全体のマスタープランを
新たに作るというものでした。

丹下のプランに基づき つくられたのが
イタリア ナポリ市の新都心です。

町の中心に公園を置き

そこを核に 外に向かって官庁
オフィスビル 住宅地と整然と配置。

人と車の流れを分離するため

車道は 公園の下を走るように設計。

美しさと機能性を備えた
都市計画を打ち出しました。

しかし その設計は 山あり谷あり。

当時 スタッフとして参加した…

ナポリ市に提出する模型の締め切りを
翌日に控えた夜のエピソードを

教えて頂きました。

(松岡)どうしたのかなと思って。

こう 割と真剣にね
皆さんに聞くわけですよ スタッフに。

「ここに住みたいと思う人 いないの?」
っていうような聞き方してね

もう みんな シーンとしてるわけ。
これは まずいなって感じ。

そしたら いきなり
私が 仮に置いてた模型を

全部 手で取っ払っちゃって
壊しちゃったんですね バーッて。

で ひと言 先生は
「ここに住みたいとも思ってない

きれいだと思ってないのに

何で こんなもん
つくってるんだ」っつって

もう いきなり 手を震わせながら。

なぜ 丹下健三は怒ったのか。
それが 今日 2つ目の知恵です。

1970年代後半 ナポリ市の旧市街地は
人口と車の増加で 渋滞が当たり前。

都市として 機能不全が起きていました。

市は これを解消すべく
新都心の建設を計画。

丹下に
マスタープランを依頼したのです。

丹下は こう言っています。

もう 粘りは すごいですよ。

まあ それはもう かなり我々も

教えられたことの一つだと
思うんですよね。 諦めるなっていうか。

生み出していくものが
ずっと残っていくわけですから

その辺の 何ていうかな
緊張感もあったでしょうし

責任感っていうかな

それは かなり
彼自身は持ってたと思いますね。

松岡さんたちスタッフが
新たに作り直した

ナポリの新都心計画の
模型です。

丹下健三は
ナポリ市に連絡し

3日 締め切りを延ばしてもらい
不眠不休で完成させました。

みんなが諦めず 心血を注いだ
この都市計画を ナポリ市は気に入り

1982年から 建設が始まり

現在も 丹下の構想をベースに
町づくりが進められています。

一方 丹下健三が
活躍の場を海外に移している間

日本の建築業界には
新しい動きが起きていました。

磯崎 新や 黒川紀章など

丹下の教え子たちの作品が

話題を呼ぶように
なっていたのです。

そうした風潮に 評論家の中には

「今や 丹下の時代ではない」と
言う人までも現れました。

1985年 そんな人々を見返すチャンスが
巡ってきます。

それは 丸の内から新宿副都心に
移転が決まった新都庁舎のコンペ。

東京都が参加を認めた
9つの事務所の一つに

丹下も選ばれたのです。

海外を飛び回る中で 丹下健三が
強く思うようになったことがあります。

それは 「パリと言えばエッフェル塔」
というように

都市には シンボルになる建造物がある
ということ。

未来の東京にも 新たなシンボルになる
建物があってもいいのではないか。

新宿の副都心に
建設が決まった都庁を

東京のシンボルにしたいと
考えるようになります。

この思いを実現するため
締め切りまでの およそ3か月半

事務所スタッフの総力を挙げ
コンペに挑みます。

新都庁舎の建設条件は

4万3, 000平方メートルの敷地に

合わせて 36万平方メートルの
フロアを持つ

ビルをつくる というものでした。

都の条例に沿って 考えられる
建築構造のパターンは2つ。

一つは 超高層ビルによる
一棟案と

二棟以上に分ける
分散案です。

丹下は 2つの案の
一長一短を

スタッフに
とことん検討するよう指示。

自らも 何枚も
デッサンを描きました。

その当時のスタッフ
建築家の堀越英嗣さん。

大切に保管している
丹下直筆のデッサンを

見せて頂きました。

置いとくんですよ
描いてきて。

(取材者)置いとく?
直接は
こうこうとは言わなくて

まあ これをもとに ちょっと考えて下さい
っていうぐらいで

非常に謙虚ですよね。

で これを またスタッフが もう一回
ちゃんと それなりに計算をしながら

図面化していくわけです。

で 図面化したり
模型を作ったりして

初めて もう一回 見て
やっぱり 駄目かなあとか

そのフィードバックが
常に ありますから。

やっぱり 建築をつくるということは

これから 100年後も
ずっと残ることになるかもしれないし

多くの人に 影響を与えるものですから
それだけの責任があると思いますね。

ライバルの建築事務所が提出した
新都庁舎のプランの内訳は

ツインタワーが3つ。

複数の棟に分散した案が3つ。

更に 1棟型が2つ。

これに対し 丹下の案は

2棟に分割し なおかつ

大きい第一庁舎の上部を

フランスのノートルダム大聖堂風にする
という独創的なものでした。

(堀越)その 最終的なコンペが
出そろった時には

あっ これは勝てるなって思いましたね。

我々の気付かないような
「こんな案があったか」っていうのは

なかったですね 正直言って。

締め切りから およそひとつき後の
4月7日。

結果が発表されます。

そして 5年後の平成3年
東京都庁舎は完成し

今では
東京のランドマークとなっています。

「建築家は 全ての建築に対し
未来への責任がある」。

その覚悟を 自らに課し
スタッフにも求めた 丹下健三。

91年の生涯で 仲間と共に力を合わせ
つくり上げた作品は

海外を含め 300を超えています。

…ということなんですね。

都庁の あの形
ノートルダム大聖堂なんですね。

全然 知らなかったなあ。

そのノートルダム大聖堂
まあ ツインタワーですよね。

で ツインになってるのは…

普通だと
あの案の途中で出てきましたけど

こう 山のような 1つの形にしちゃうと
それがシンボルになってしまって

何ていうんですかね そこだけに
視点が行っちゃうんですけど

その建物を 2つに こう割ったりとか
スプリットして

視線が抜けていくみたいなことに
当時 丹下さんは

すごく こういうデザインが
いいんじゃないかっていうんで

ブラジリアとか ニューヨークでも

ツインタワーのものって
結構 あるんですけど

それに対して
あっ どうなってんのかなということで

かなり研究はした
というふうには伺ってます。

圧迫感があったりってことなんですかね。
あっ そうですね。

ですから
香川県庁舎の時には

市民に開かれた市庁舎をと
言ってたのに

急に 何か こう
威厳のというか 偉そうなというか

圧迫感のあるものを建てた
っていうことで

当時は すごく
批判されたんですけど

ただ あれから
実は もう 30年たつんですよね

あの新宿の都庁が建って。
それを振り返って

今 渋谷でも
いっぱい超高層が建ち始めて

新宿でも建ってて 丸の内でも
いっぱい建ってることを踏まえると

多分 丹下さんは 次の未来 来る未来を

だから 今 我々が
今 この生きてる瞬間を

何となく イメージができてて…。

ああ じゃあ 別に
ワイワイ ワイワイ言われても

うんうんって。
そう。 君たちは
いずれ これを経験するんだよと。

まあまあ 20年ぐらいしたら
分かるんじゃない? みたいな。

長い目で見たら

ちゃんと そこに暮らす人のためのものに
なってるっていうこと。

要するに 時代に ぴったり
合ってるじゃないかと言われて

ですから 僕からすると
もちろん 威圧的だと思うんですよ。

だけれども そこに込められた
次の社会に対するメッセージは

やっぱり ちゃんとあるし

新宿の中の
たくさん 超高層がある中で

やっぱり 「どれがシンボル?」と
言われると やっぱり都庁と。

まあ そうですね。
やっぱり インスタ映えするのは。

私も ちょっと撮ったことあります。

というのは
そういうことだと思うんですよ。

まあ でも そのアイデアを
自分で設計図を描いたあとに

机の上に
スッと こう 置いておくっていうのが

何か こうね お弟子さんたちにとったら
「おっと… 来た~」みたいな。

プレッシャーですよね。

これ どのくらい 本気なんだろう?
みたいな。

ですから そのアイデアを
こう 自分もチームの一員だから置くし

君たちも これを超えるだけの…

まあ ちょっとした
あおりだったような気もしますけど。

だから そういう意味では
すごく だから本気だったし

要するに 適当にやっとけよ
なんていう態度では まるでなくて

自分もやるし
君たちも かかってこい みたいな。

まあ でも そうすると
あのナポリの市街地の模型を

バーッと壊すっていうのは
よっぽどのことだったんじゃないですか?

三浦さん
そういうご経験はありましたか?

あ もう 僕 若い頃は
その 大きい会社にいた時は

もう 壊されたこともありますし。

もう深夜 それこそ
もう明日 プレゼンだよといったら

リーダーが…
当時の上司の方がいらっしゃって…

「三浦君 何がしたいの?」って言われて
「えっ?」って。

「これ いいと思うんですけど」っつって。

「全然 良さが分からない」って言われて。

断腸の思いで 1回切って
で 翌日 電話して

「もうちょっと待って下さい」って…
ことありますし

僕は 今でも逆に
若いやつのアイデアに対して

「これ もう一回やろうよ」って
言うことは もう ありますね。

ちょっと言うと 僕らの…

無理を言い続ける仕事って
僕は よく言ってるんですよ。

チームを信じてるっていうのが
大前提なんですよ。

もう ぶっ壊してるのも
チームに怒ってるんじゃなくて

期待があるんですよ。
俺が これ ぶっ壊しても

もう一回 お前らは
多分 いいのを出すよなっていう

そういうメンバーだと思ってるから
やってるんだろうなあっていう。

壊す方も
ドキドキしてると思いますよ 正直。

大変だな。
(笑い声)

だって 出てこなかったらって

やっぱり あの… ね 一瞬
考えちゃいますよね 躊躇しますよね。

でも そこを やっぱり
チームを信じてるっていうのは

多分ね 丹下さんとかも

そうだったのかなあって… ねえ?
思いますけど。

でも リーダーに信じてもらえてるって
思うと

やっぱり 自分たちも 責任を
持たなければいけないって思うから

やっぱり
さっきの知恵じゃないですけれども

「責任感」っていうのは
あると思うんですよ。

でも それで言うと
広告業界で よく言うのが

「アレオレ詐欺」って言い方が…。

建築…。
あります あります。

何か みんなで いいCMを作ったら

クリエイティブディレクターが
まあ 褒められることは

「アレは 私が作リました」ってことが
多いんですけど

まあ 中には このチームの端っこの方で
ちょっと いただけのやつも

キャバクラとか行って
「アレはね 僕が作ったんだよ」って

まあ みんな いろいろ言うんですよ。

で これは 世の中的には
かっこ悪いことだと

良くないというふうに
言われるんですけど

僕 でも 何か一周 回って…

そうね 言いたくなる。
言いたくなる そうそう。

終わったあと みんなで
「アレ オレやったんだよ」とか。

うちの仕事とかを ほんとに
ちょっと関わってくれたやつも

もう ほんと 飲み屋で

「アレ オレがやったんすよ」って
言ってくれたら

「うん OK!」って思っちゃうっていうか。

やっぱり その仕事を
リーダーが作るっていうのが

何か すごく大事なのかなあって ねえ。

僕が思うに 丹下健三が取り組んだ
仕事っていうのは

大体 4つぐらいの
多分 種類に分けられて

で 1つは まず
戦争で焼け野原になった町を

どうやって復興させるか
っていうのが まず1つ目。

で もう一つは
戦後民主主義という
システムに対して

どういう 新しい空間

それは  新しい市庁舎とか
県庁というものをつくるか。

で 3つ目は
万博とか
オリンピックとか

ああいった
大きなイベントの時に

大きな屋根が
必要とされて

その屋根を どうやって
斬新なものをつくるか。

で 最後の4つ目が
高度経済成長で

ものすごく成長する
プロセスの中で

その未来を
先取りするような

非常に こう
かっこいい町を

プロデュースするというか
つくり上げるっていうのが

この4つが
大事な仕事だったんですね。

なので 例えば 誰かのために
例えば 渡辺さんのために

渡辺さんの好きな色の
好きな形の おうちを

つくって差し上げる
っていう仕事じゃなくて

もっと 1, 000人とか 1万人とか
10万人とかっていう

ものすごく 大きな人に向けて
メッセージを いつも持っていた。

で そういう つくり方だったんですね。

さあ 丹下健三からね

みんなの力を合わせる知恵を
味わってまいりましたけれども

どうでしょう。 三浦さんが考える
みんなの力を合わせる極意って。

チームを信じて 無理を言い続ける
っていうことだと思いますね。

もう 俺が無理を言うのは
お前らを信じてるからだから

ちょっと ムカつくかもしんないし
もう限界だよと思うけど

俺は お前らより
お前らのこと 信じてるからね!

…っていうつもりで言い続けますね。

無理を言い続ける。
ねえ。

あれ これ大丈夫かな。
うちの社員 怒んないかな。

(笑い声)

厳しいなあって
思ってるかもしれないですけど。

今日は 何か ちょっと皆さんから
いいアイデアを頂きました。

ということで ちょっとね
あの ダメ店主と言われる私の代わりに

ちょっと 次回のテーマとメニューをね

皆さんに どうせだったら
考えて頂こうかなあと思って

これ  真っ白なんですけど…。
いいっすけど…。

ちょっと あの 丹下さんがね
デッサン 置いたように

そっと置きますんで…。
書いてねえじゃねえか!

ちょっと置くんで ちょっと あの…。

店長 そういうとこ
ちょっと ちゃっかりさんですよね。


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