ファミリーヒストリー「陣内孝則~血の涙を流しても 家具の町・大川で生きる~」 …母・良子さん。驚きの過去を告白する。



出典:『ファミリーヒストリー「陣内孝則~血の涙を流しても 家具の町・大川で生きる~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「陣内孝則~血の涙を流しても 家具の町・大川で生きる~」[解][字]


実家は福岡大川で、20年前まで木工所を営んでいた。名産の婚礼家具を中心に製造してきた。そんな陣内家に、62年前に嫁いだのが母・良子さん。驚きの過去を告白する。


詳細情報

番組内容

実家は福岡県大川市で、20年前まで木工所を営んでいた。名産の婚礼家具を中心に製造してきた。そんな陣内家に62年前、嫁いだのが母・良子さん。楽しいおしゃべりが魅力の良子さんだが、これまで、誰にも語らなかったつらい過去を告白する。苦難を乗り越え強くなった歳月が明らかになる。そして、陣内家のルーツ。戦国武将に仕えた豪族だった可能性が浮かび上がる。孝則さんは、初めて知る事実に驚いてばかりだった。

出演者

【ゲスト】陣内孝則,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子




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ファミリーヒストリー「陣内孝則~血の涙を流しても 家具の町・大川で生きる~」
  1. 孝則
  2. 良子
  3. 邦雄
  4. 取材者
  5. 与吉
  6. 陣内家
  7. 陣内木工
  8. 家具
  9. 八次郎
  10. 昭和
  11. 大川
  12. 木工所
  13. 古賀家
  14. 婚礼家具
  15. 職人
  16. 製造
  17. 祖父
  18. 年前
  19. タンス
  20. 故郷


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もう ぼちぼち 行った方がいいんだね。

今年 芸能生活40年目を
迎える

陣内孝則さん 60歳。

ミュージシャン 俳優として
幅広く活躍しています。

♬~

(取材者)そうですよね 元祖ですよね。
はい。

そうですよ。 みんな…

陣内さんは 昭和55年 ロックバンド
「ザ・ロッカーズ」としてデビュー。

24歳から俳優の道へ。

お前を抱く気も起きぬ

このわしがじゃ。
(笑い声)

表現者ですから やっぱ こう…

(笑い)
わ~ かっこいい!

(笑い)

陣内さんの実家は…

しかし これまで 家族の歴史に

目を向けることは ありませんでした。

今回のゲストは 陣内孝則さんです。
どうぞ!       よろしくお願いします!

(拍手)

どうも。                   どうぞ!
どうも。

いや~。
いや~。

化粧して歌ってましたから。
いや~ 全然 知らなかったです。

いや なんか もう…。

ドキドキですか。

♬~

俳優 陣内孝則の故郷
福岡県大川市。

有明海に注ぐ 筑後川沿いの大川は
古くから木工業が栄え

かつては 日本随一の
家具の産地として知られていました。

この大川で 117年前に創業し
家具を製造してきた 陣内木工。

ここが 孝則の実家です。

20年前 木工所を閉じましたが
事務所は 当時のままに残しています。

まずは この人を訪ねました。

6年前に亡くなった
父 邦雄さんは 木工所の三代目でした。

良子さんも 家具の仕上げから配達など

家業を
支えてきました。

(笑い声)

陣内家当主 三代の写真が飾られています。

(良子)あ この人が 八次郎さん。

明治35年

八次郎が 後に陣内木工となる
建具屋を始めました。

おふろうさんと呼ばれる神社 風浪宮。

八次郎の名で寄進したという
こま犬の前に

孝則の祖父 定次と 父 邦雄らが

写っています。

地元で
運を切り開く神社として知られる…

陳内八次郎さん 陳内シモさん

陳内定次さん。

建立されたのは 昭和17年。

その額は 当時
小さな家が

一軒 買えるほどだったといいます。

もう一枚
ここで写された写真がありました。

え? ほんとかよ?
橋も!

八次郎は この橋も寄進していました。

いや 信心深い人ではあったって
聞きましたけどね。

この地域の陣内姓の発祥とされる地が
分かりました。

大川から
北東に およそ40キロ

うきは市に 古くから
陣内という村がありました。

村があったんだ…。

名字研究家の
高信幸男さんと

地元の歴史資料館を
訪ねました。

あ ここだ。

江戸時代 元禄のころの地図に
陣内村が記載されていました。

ずっと繰り返してるからですね。

戦国時代 九州は 大友 島津など

武将たちが
勢力争いを繰り返していました。

出城が頂上にあった鷹取山
その麓に陣内村がありました。

陣内氏が仕えていたのが

九州で
大きな勢力を誇っていた大友氏でした。

陣内氏は 高一揆衆と
記されています。

一揆衆は 同志の意味

陣内氏は
家臣団の頭の役割でした。

その後 各地に散らばっていった陣内氏。

孝則の先祖は
この地で農民になったと思われます。

そして 江戸時代後期
孝則の陣内家は 大川に移ります。

その理由を知る手がかりが
親戚の家にありました。

曽祖父 八次郎のいとこ 陣内亀吉です。

孝則の五代前の先祖 太蔵の代には
既に 大川で暮らしていました。

亀吉の経歴に
陣内家の歴史が書かれていました。

陣内家は 代々 米穀業を営み

主に 長崎や大阪方面へ出荷していました。

大川 若津港は 江戸時代後期
九州随一の港でした。

若津港の歴史に詳しい 郷土史家の
本間雄治さんは こう推察します。

大川は 海運が栄えたことから
腕のいい船大工が育ち

木工業が盛んになります。

船の中で使われた 指物と呼ばれる
衣装入れなどが

後に 大川の家具へと
つながっていきました。

大川で 米穀業を営んでいた陣内家。

そこから分家し 建具屋を始めたのが
孝則の陣内家でした。

そして 明治元年に生まれたのが
八次郎 孝則の曽祖父です。

家業を手伝っていた八次郎は
四男だったため

ゆくゆくは 自分の店を持つことが
願いでした。

明治35年 八次郎は
34歳の時 独立します。

孝則の父 邦雄の弟 邦茂さんです。

八次郎のことを
伝え聞いていました。

昔は…

(取材者)やり手でした?
うん。 やっぱり その…

八次郎は 質のよい雨戸を作り
大きな利益を得ていきます。

気合い入ってるな 顔が…。

当時の陣内家の羽振りのよさを

八次郎の孫たちが
伝え聞いていました。

(取材者)あ そうなんですか。
えっ どうしてですか?

(取材者)毎日?
毎日。

昭和11年 八次郎が亡くなり

孝則の祖父 定次が 二代目となりました。

昭和5年には
長男 邦雄が生まれます。

後の孝則の父です。

あの時代にしては ちょっと
金持ちそうな格好してますよね。

定次は
建具組合の理事も

務めるように
なりました。

昭和16年 太平洋戦争が始まります。

職人たちは 次々と召集されました。

金属は不足し 曲がった釘をのばして
しのぐ日々でした。

木材統制が敷かれると 木工業者は
自由に商売ができなくなります。

作らされたのは 木製の飛行機でした。

敵が空から見た時に たくさんの
戦闘機があると 見せかけるためでした。

終戦を迎えると 木材統制は解除されます。

戦後復興のもと 大川では
家具の生産が 急速に伸びていきます。

市内の木工所は 1, 300に上りました。

そんな中 祖父 定次も
家具作りに乗り出し

陣内木工として 再スタートを切ります。

服つりって…。
あ 服つりって…。

洋服用のタンス 「服つり」を
陣内木工の目玉にすることにしました。

そうか この時代やと…。

中学を卒業した邦雄は
後継者として修業を始めます。

そして邦雄が 24歳になると
陣内木工を継ぎ 三代目となりました。

そんな邦雄に 見合い話が持ち上がります。

相手は 古賀良子。

後の孝則の母となる女性でした。

いろいろ もう…。
いや~。

橋 初めて聞いた?

孝則の もう一つの大切なルーツ
母方 良子さんの古賀家。

良子さんが 生まれ故郷
朝倉市 比良松へ案内してくれました。

良子さんには 心に残る
父 与吉の言葉があります。

この人は このフレーズ よく使う
血の涙…。

良子さんの故郷 朝倉は

平成29年7月の九州北部豪雨によって
水害に見舞われました。

結婚前 良子さんが
両親たちと暮らしていた家です。

大きな被害に遭い
今も 朝倉に暮らす良子さんの弟は

仮設住宅で生活しています。

弟の正員さんが 古賀家について
伝え聞いていることがありました。

庄屋だった先祖は 荒れ地を開墾し

その実が ろうそくの原料となる
ハゼの木を植えたといいます。

そして
孝則の四代前の高祖父

幕末を生きた
與平次が始めたのは

天然のろう 生ろうの製造でした。

生ろうは ろうそくや
びんつけ油の材料になりました。

そんな古賀家で 明治37年に
生まれたのが 次男の与吉。

後の 孝則の
祖父です。

しかし 古賀家は ろう作りのかたわら
米相場に手を出します。

瞬く間に財産を失い
一家は 窮地に追い込まれました。

(笑い声)

古賀家は 夜逃げを余儀なくされます。

険しい冷水峠を越え
一家が目指したのは 筑豊の炭鉱町 飯塚。

炭鉱で働くため
各地から多くの人が集まっていました。

古賀家が 家族で始めたことがあります。

当時のことを
親戚が伝え聞いていました。

納屋を探すと
こんなものが見つかりました。

(取材者)たちまわりの刀?
うん これ。

これ あれ あの…。

これ 竹光じゃないのかな?

(取材者)これって本物じゃないですよね?
違う 違う!

竹じゃないかな…。

あ 竹…!

一家は 家族総出で芝居に出演し
収入を得ていきます。

♬~

ちゃ~ん!

飯塚で 蓄えができると
再び 故郷 朝倉に戻ることができました。

古賀家は 再び ろう作りを始めます。

孝則の祖父 与吉は
17歳になると ある決心をします。

ろう作りの知識を生かし 一旗揚げようと
東京に出ることにしたのです。

上京後 上野のある店で働き始めました。

(取材者)え 何屋さん? しょ…。

与吉が働いていた店を探すと…

大正時代の
新聞の広告欄に正直屋の名がありました。

現在の
上野の中央通り付近で

西洋雑貨や びんつけ油を
扱っていた店でした。

与吉が東京に出て
2年が過ぎたころのことでした。

使いに出ていた与吉は
ふと トイレに寄ろうと

通りすがりの建物に入ります。

トイレに入った瞬間…

激しい揺れに襲われます。

震度6を超える大地震でした。

与吉が働いていた正直屋も全壊します。

(取材者)あ そうなんですか。
うん。

(取材者)そうなんですね。
うん。

関東大震災で仕事を失ったため

与吉は
やむなく故郷の朝倉に戻りました。

実家の ろう作りを
再び手伝うことになります。

間もなく結婚し 5人の子をもうけました。

昭和10年
次女として生まれたのが良子でした。

後の孝則の母です。

戦争中の ある日のこと。

与吉に 一つのアイデアが浮かびます。

思いついたのは 固形燃料の製造でした。

おがくずを ろうに溶かし
試行錯誤を重ねます。

できたばい。

完成した固形燃料は
はんごうを温めるのに最適と

軍から大量に注文が入ります。

(取材者)弁当箱に金?
うん。

あら そうね。

(取材者)もうかってってことですか?
もうかってたの。

近所に暮らしていた 井上正彦さんには
与吉との こんな思い出がありました。

(取材者)あ そうですか。

しかし 終戦とともに 状況は一変します。

固形燃料の製造は 中止を余儀なくされ

蓄えた金は
あっという間に なくなりました。

それでも与吉は すぐに気を取り直し

新たに
菜種油や 椿油の製造に乗り出します。

そんな与吉にとって 気がかりだったのは
次女 良子の嫁ぎ先でした。

何度か見合いを繰り返しますが
なかなか まとまりませんでした。

ある時 与吉が 良子に こう言います。

(笑い声)

(池田)おかあさん…。
もう おふくろはね…。

そうですね…。

(池田の笑い声)

いや でも あの…

あ~!

それ あの…

ねえ なんか…
しゃれじゃないんですけど…

昭和32年 22歳の良子の縁談がまとまり
結婚式の日を迎えました。

その相手こそ
陣内木工 三代目の
邦雄でした。

しかし 陣内家に到着しても
夫となる人が なかなか姿を見せません。

そうして始まった結婚生活は
想像以上に過酷でした。

陣内家は 両親と 邦雄のきょうだい
6人

そして 住み込みの職人が 25人

総勢35人の大所帯。

良子は 毎朝4時に起き
五升五合の米を炊き

35食近くを作らなければなりません。
それも 日に3食。

長年 陣内木工にいた職人たちが
集まってくれました。

職人たちの多くは
中学卒業後 住み込みで働き始めました。

良子は いつもギリギリの状態で
家事をこなす日々。

話しやすい親戚のもとを訪ねては
つらい思いを打ち明けていました。

小さい時に。
(取材者)ほんとですか?  うん。 やっぱ…

そんな良子が大切にしていたのが
トイレ掃除です。

関東大震災で
父 与吉の命を救ったトイレは

古賀家にとって 神聖な場所。

磨き上げれば いいことがあると
教えられてきました。

ピッカピカたい
こって よか子が生まれるたい。

ほんとかな? これ…。

そして 昭和33年

陣内家 待望の長男
孝則が生まれます。

しかし 孝則が生まれて
一年も たたぬころ

良子は 体調がすぐれず病院へ行くと
医師の言葉に がく然とします。

うん。 もう それはそれは…

良子は 孝則を置いて
実家のある朝倉に戻り

結核の療養所に入ります。

いつも頭から離れないのは 孝則のこと。
(赤ん坊の声)

ふと 赤ん坊の声が聞こえてくると
胸が締めつけられました。

療養生活は 2年近くとなり
良子の病状は ようやく回復してきました。

この間 病気が うつってはいけないと

孝則とは 一度も会うことが
できませんでした。

2年もの間 家を不在にした良子は
思い詰めていました。

私に もう戻る場所はない。
離婚されても やむをえない。

そんなやさき 八次郎の妻 シモ
孝則の曽祖母の訃報が届きます。

良子は ためらいながらも 葬儀に出るため
久々に陣内家を訪れました。

それは 突然のことでした。

2歳の孝則が 良子のもとに駆け寄り
抱きついてきたのです。

(取材者)分かったんですね。

(取材者)そうなんですね。

再び 陣内家へ戻ることになった良子。
父 与吉が言いました。

もう弱音なんて吐いていられない。

良子は 一から やり直すことを
心に誓いました。

う~ん いかがでしたか?

いや… あのね…

う~ん 不思議ですね~。

誰にも言ってないって
おっしゃってました。

結核というのは…。

いや
ほんとに こういうことやったんですね。

高度成長期を迎えた 昭和30年代。

大川は 年間65億の生産額をあげるほどの
家具の一大産地になっていました。

30歳を過ぎ 邦雄が始めたのは
婚礼家具の製造でした。

正確な裁断で 機密性を高め
衣類を湿気から守る タンス。

その出来栄えは 空気が逃げ場を失う
この動きに あらわれました。

邦雄は 洋服ダンス 和ダンス 鏡台などを
「婚礼セット」として売り出します。

同業者の梅崎さんは 陣内木工の家具の
質の高さに 驚かされたといいます。

昭和50年ころまで この地域では

婚礼家具を届ける時に
長持唄が歌われていました。

♬~

当時 業界紙に邦雄が
意気込みを語っていました。

「婚礼家具づくりにあたっては

色に特に細心の注意をはらい

木目を生かした塗装をしている。

時代に応じた売れる商品開発と

今まで以上に良い商品を作ることを
目指している」。

邦雄が 家具の個性を出すため
特にこだわったのが 塗装です。

その日の気温や湿度によって
調合した塗料を 木目に塗り付け

出来た凹凸に ヤスリで
根気よく磨きをかけました。

この工程によって 艶が生まれ
傷も つきにくくなりました。

ピッカピカたい!

磨き込まれた タンスは飛ぶように売れ

出来上がりを待つトラックが
工場の前に 連なるほどでした。

邦雄と共に家具を作ってきた
弟の邦茂さんです。

(取材者)
採算が合わなくなっちゃいませんか?

(取材者)考えないんですか?
うん。

かっけえ。

邦雄は 新たに工場も建設し
陣内木工は 順調そのものでした。

すごい
でも三代目で まだ。

良子は 客の応対など
木工所の仕事をこなしながら

3人の子の
子育てに明け暮れました。

陣内家に来て 10年ほどがたち
良子は たくましくなっていました。

家事と木工所の仕事に追われ
ギックリ腰になっても…。

タンス抱えてたんですよ
うちの おふくろ。

(取材者)本当ですか!?

絶対マネしちゃダメですよ。

いやいやいや! 絶対に
マネしないで下さい 皆さん。

夫 邦雄は 職人かたぎで気の短い性格。

陣内家では お決まりの光景がありました。

せからしかったい!

お前ん顔ば もう見たくなかったい!
出てかんか~!

こっちこそたい!
なんてや!    なんねや!

そんな両親の様子を
子どもの頃から見てきた…

陳内家の近所で 同じ木工所を
営んでいた 境さん夫婦です。

あっ 池松の おじいちゃんかな。
池松壮亮の。

ちなみに お孫さんは
俳優の池松壮亮さんです。

木工所の嫁同士 キヨ子さんは
長年 良子と親しくしてきました。

(取材者)「引っかかる」って
どういう意味ですか?

約束手形か…。

「引っかかり」っていうんだ。

かつて 家具の配達に使っていた
トラックです。

おふくろと
配達に行ったことありますよ。

(取材者)
これ どういう時 運転するんですか?

(取材者)ガソリン入れ?
ハッハッハッハ。

(取材者)これ?
これ。

お母さん…。

ハッハッハッハッハ!
(池田)いや 笑ってますけど…。

ある日 邦雄を乗せ 家具の配達に
向かっていた時のことでした。

車が転倒する事故に見舞われます。

血まみれになりながらも
必死に探したのが

売り上げの入った集金かばんでした。

さすがです。

(取材者)ウフフッ。 ご主人より先に?
そう。

(笑い声)

すごい。
支えてたんやな~。

邦雄と良子

2人が仕事以外でも
力を入れていたことがありました。

それは 仲人でした。

(取材者)本当ですか!
うん。

これもう 漫才の あれだよね。

アッハッハッハッハッハ!

そんな邦雄と良子が 2人そろって

子どもたちに 繰り返し
語っていたことがありました。

…ところが あるんじゃないですか。

ハッハッハ!

けんかも絶えなかった邦雄と良子ですが
近所でも評判の おしどり夫婦でした。

う~ん いかがでしたか?
いやあ… いや…

子ども心に
おやじと おふくろの けんかなんて…

危ない 危ない。

それが基準なんだ…。

おふくろは 意外と 背 高くて
ガッチリしてたんで。

ね!
すごいですね。 止まらない。

いや 本当 だって もう あの…

(笑い声)

いや なんかもう 本当に…

昭和49年 邦雄が
陣内木工の三代目となって 20年。

婚礼家具の売れ行きも順調でした。

このころ 邦雄が頭を悩ませていたのは

長男 孝則のことでした。
ハハ!

中学に入ってから孝則は
ロックにはまり 勉強にも身が入りません。

(取材者)これに座って
勉強してるの覚えてます?

ハハハハハハ!

勉強好かず。

ギターに熱中する孝則。

将来 木工所を継ぐ気など
みじんも感じられませんでした。

みじんもなかった時代だね。

ついに 堪忍袋の緒が切れた邦雄は
孝則のギターを燃やしてしまいます。

ねえ。

それでも 孝則の音楽熱は
おさまりませんでした。

二十歳の時 バンドコンテストで
グランプリに輝き

ついに 上京を決意します。

長男が あとを継ぐものと思っていた
祖父 定次は

孝則の芸能活動に猛反対します。

「兵糧攻め」って分かる?

(取材者)バレないように。

父 邦雄は 孝則が
東京に行ってしまったことに

気落ちしていました。

孝則は 24歳の時 役者の道へ。

軽妙な演技で注目を集めます。

奥さんも外人だぞ!

ものすげえ お前 美人のグラマーの
ファランダって お前…。

そして 昭和62年
映画「ちょうちん」で主役を演じ

各映画賞を総なめにします。

ああっ あっ あ~! みたいな。

「芸は身を滅ぼす」と
大反対していた邦雄でしたが

孝則のことを自慢するようになります。

邦雄の妹 千津子さんは
そんな兄にあきれます。

それで 笑いながらね…

言ったんですよ。

何 言ってるんですか。

そして孝則は 29歳の時
モデルの恵理子さんと結婚。

きれいや…。

盛大な結婚式。

すごいっすね。 時代だなあ。

邦雄のスピーチは
当然 良子が考えたものでした。

すごい。

仕事も軌道に乗り 伴侶も得た息子に
ようやく安心した邦雄と良子でした。

お母さん 幸せそう。

しかし 間もなく バブル崩壊を迎えます。

大川の木工業は
厳しい状況に追い込まれていきます。

家具屋や木工所の倒産が 相次ぎました。

海外からの安い輸入家具に押され

倉庫には 売れない商品が
たまっていきました。

陣内木工の経営も傾いていきます。

(取材者)家具… 木工の方?
うん。

邦雄は 胸の内を
友人の古賀さんに語っていました。

窮する邦雄の様子に
職人たちも決断しました。

そして ついに 平成11年

邦雄は 三代続いた陣内木工を
閉じることを決めました。

その後の邦雄の気持ちを支えたのは
孝則の活躍でした。

うん 行く末 義詮殿から義満殿へ
寝返りいたそうよ。

(取材者)はい そしたら お父様…。

う~ん いかがですか?
う~ん いや…

もう突然に もう…。

(笑い声)

親父と おふくろが…

そしたら 横から おふくろが…

合いの手が…。
漫才ですね。

そうですね。

今年 孝則さんは
結婚32年目を迎えました。

こんにちは。

孝則さんの妻 恵理子さんです。

結婚する時 良子さんから
言われたことがありました。

もう おなじみのフレーズ。

(取材者)「血の涙」 言ってました?
言ってました。 言ってました。

母 良子さんの教えを守ってきた
孝則さんと恵理子さんは

昨年 いい夫婦に贈られる
パートナー・オブ・ザ・イヤーに選ばれました。

邦雄さんは 70を越えた頃から
高血圧と糖尿病を悪化させ

入退院を繰り返すようになります。

良子さんは 10年以上 介護を続けました。

そして 平成25年 邦雄さんは
83年の人生を閉じます。

う~ん すばらしい。

そんなもんよ。

あ~ うそだと思うな。
(笑い声)

40年前 邦雄さんと良子さんが
仲人を務めた…

陣内木工の婚礼家具と共に
朝倉市の農家に嫁ぎました。

平成29年 九州地方を襲った集中豪雨で

玲子さんの暮らす集落の大部分が
流されました。

自宅は浸水し ほとんどの家具は
使えなくなってしまいましたが

奇跡的に 婚礼家具は無事でした。

あ~ ほんと きれいや。

長崎に暮らす 友廣さん夫婦も

44年前 陣内木工でそろえた
婚礼家具を大切にしています。

(誠治)これが陣内さんの。
(取材者)あ~。

(誠治)これは もう
43~44年前になるんですよね。

磨き込まれた木目は
色あせることなく輝いています。

21歳の時 職場結婚した
誠治さんと イツ子さん。

家族を築いていく中で いつも そばには
このタンスがありました。

妻 イツ子さんが 家計のやりくりのために
使っていたのは…。

うん あ~ そういうの作ってたなあ。

荷物の運搬をしていた誠治さん。

その作業着をつるしていたのが
このタンスでした。

…というか そういった感じになりますね。

陣内家に 良子さんが嫁いで62年。

良子さんは 毎日
家族のことを祈っています。

いつも案じているのは
東京に暮らす 孝則さんのこと。

(取材者)今でも心配なんですか?

う~ん いかがでしたか?
いやいや ごめんなさい…。

いや でも…
ちゃんと厚生年金 入っとります!


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