昭和偉人伝 #124「三木たかし・浜圭介・弦哲也」 幾多の試練に打ち勝ち… 3人の作曲家の人生を辿り、名曲誕生の秘密に迫る。



出典:『昭和偉人伝 #124「三木たかし・浜圭介・弦哲也」』の番組情報(EPGから引用)


[字]昭和偉人伝 #124「三木たかし・浜圭介・弦哲也」


作曲家・三木たかし、浜圭介、弦哲也。幾多の試練に打ち勝ち作曲家へと転身し、心に染み入るメロディーで多くの人々を魅了。3人の人生をたどり、名曲誕生の秘密に迫る!


詳細情報

番組内容

多くの人々を魅了してきた作曲家・三木たかし、浜圭介、弦哲也。三木は「津軽海峡・冬景色」「時の流れに身をまかせ」「夜桜お七」など、弦は「天城越え」「鳥取砂丘」「ふたり酒」など、浜は「終着駅」「舟唄」「雨の慕情」などを作曲。3人に共通するのは、歌手としての夢がかなわず、人生のどん底を経験したこと。幾多の試練に打ち勝って作曲家へと転身し、今なお多くの人々の心に残る名曲を紡いだことだ。

番組内容2

音楽をよりどころにつらい日々を乗り越えた三木は、歌手に憧れて妹・黛ジュンと共に船村徹の門下生に。だが船村は三木を作曲家へ転向させる。

2度歌手デビューを果たすも全く売れなかった浜は、恩師・漣健児とのアメリカ旅行で作曲家としての道が…。

歌手デビュー後も下積みから抜け出せなかった弦は、ギタリストとして北島三郎のツアーに参加し、作曲家への道を勧められた。

3人の作曲家の人生を辿り、名曲誕生の秘密に迫る。

出演者

【語り】國村隼

初回放送日

2019/2/27

番組概要

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

番組ホームページ

<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/

制作

BS朝日、JCTV




『昭和偉人伝 #124「三木たかし・浜圭介・弦哲也」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

昭和偉人伝 #124「三木たかし・浜圭介・弦哲也」 幾多の試練に打ち勝ち…
  1. 三木
  2. 弦哲也
  3. 昭和
  4. 作曲家
  5. 歌手
  6. ギター
  7. 浜圭介
  8. 自分
  9. 先生
  10. 音楽
  11. テレサ
  12. メロディー
  13. ヒット曲
  14. 作品
  15. 演歌
  16. 時代
  17. 人生
  18. 本当
  19. 目指
  20. デビュー


『昭和偉人伝 #124「三木たかし・浜圭介・弦哲也」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて…。

♬~

お元気ですか?

石川さゆりが

女の情念を歌い上げた
『天城越え』。

様々な心模様を
多彩なメロディーで表現する…。

そして…。

多くのファンを驚かせた
ロックのリズム。

坂本冬美の『夜桜お七』。

ジャンルにとらわれず
新しい歌を追い続けた

さらに…。

八代亜紀の
歌手人生を変えた名曲 『舟唄』。

幅広いジャンルで
記憶に残る名曲を生んだ

三木たかし 弦哲也 浜圭介。

3人の作曲家には

かつて
歌手としてデビューしながら

夢破れ 作曲家に転身した
共通点がある。

数々の試練を乗り越え
成功をつかみ取った男たち。

今宵は
その波乱の音楽人生を紐解く。

妹 黛ジュンの『夕月』で

歌謡界に鮮烈に登場した作曲家
三木たかし。

当時 23歳。

三木は 幼い頃から歌手に憧れ

作曲家 船村徹の門をたたいた。

君はね 歌手になるよりね

作曲家になりなさいって

先生が
おっしゃってくださったんですよ。

ところが
早すぎた成功が重荷となり

極度のスランプに。

その窮地に手を差し伸べたのは
作詞家 阿久悠だった。

阿久とコンビを組んだ
『津軽海峡・冬景色』の成功で

三木は ヒットメーカーとして
評価された。

そして アジアの歌姫
テレサ・テンとの出会い。

ところが テレサとの突然の別れ。

さらに
三木自身も病に倒れてしまう。

もう あの時は

声もね ほとんど出ない
状態だったんだけど

咽頭がんですかね。

ええ… まあ やっぱり
あれが 一番悲しいですね。

試練を乗り越え
三木たかしが たどり着いた

音楽への思いとは…。

川中美幸の『ふたり酒』。

しみじみ歌い上げる
しあわせ演歌は

弦哲也の出世作。

母に電話をした時に

歌詞をね 「生きてゆくのが
つらい日は」って

言いながら… 歌いながら

歌詞がよく聴こえるように
電話で 話 した時に

母が泣いたんですね。

歌謡界を代表する歌手たちに

ヒット曲を提供してきた
作曲家 弦哲也。

そのスタートは
意外にもポップス歌謡の歌手。

働けば働くだけ 収入が増えてくる
っていうものでもないし

その働く場所がない。

歌えば歌うだけ お金が入ってくる
という事でもない。

歌う場所がない。

ある日 巡業先で
作曲家 弦哲也の扉を開いた

恩人 北島三郎のひと言とは…。

弦哲也と水森かおり。

互いに歌への思いを語り合う中で

明かされる 2人の不思議な縁。

♬~「俺が親父になった日は」

平成に代わり
新たに訪れる時代に

弦哲也が目指すものとは。

奥村チヨのヒット曲 『終着駅』が

作曲家 浜圭介の人生を変えた。

っていうような
気がしちゃって。

あんなにも
色んなタイプのメロディーって

生まれるもんですかね。

叙情的で温かなメロディーライン。

浜圭介が
作曲家として評価される以前は

ヒット曲に恵まれない歌手。

夢破れて 東京を離れ
家族に合わせる顔もなく

北国 弘前で
極貧生活を送った日々。

僕の ちょうど 枕元にね

粉雪がサーッと こうね

あったんですね。

それを見た時にね

もう 初めて

だが
懸命に生きる人々との出会いが

浜圭介の
歌への思いに 再び火をつけた。

作詞家 なかにし礼と取り組んだ

『石狩挽歌』。

そこでつかんだ歌心が

浜の曲作りを
さらに豊かなものにした。

ご自分が やはり
歌ってらっしゃるから…。

どん底の苦しみを
知っているからこそ

優しくなれる。

夢破れても 歌への愛情を失わず

人々の心に深く届く歌作りに
生涯をかけた作曲家

三木たかし 弦哲也 浜圭介。

学ぶべき世界が ここにある。

♬~「上野発の夜行列車
おりた時から」

三木たかしの代表曲
『津軽海峡・冬景色』。

そして…。

♬~「時の流れに 身をまかせ」

永遠のスタンダード
『時の流れに身をまかせ』。

さらに…。

♬~「さくら さくら」

坂本冬美の新たな魅力
『夜桜お七』。

三木たかしの作品は

どれも
個性的な魅力にあふれている。

それは
三木が一つの成功にとらわれず

常に
新しい歌を追い求めていたから。

まるで巡礼者のように

音楽を探す旅を続けた

三木たかしの生涯とは…。

昭和43年
高度経済成長の真っただ中。

日本初の超高層ビル
霞が関ビルが完成。

国民総生産が アメリカに次ぐ
世界第2位となった この年

一人の女性歌手が
スターへの階段を駆け上がった。

黛ジュン。

可憐な笑顔とパワフルな歌声が
ファンを魅了し

この年 『天使の誘惑』で
日本レコード大賞を受賞した。

黛ジュンには3つ年上の兄がいた。

『夕月』を作曲した三木たかし。

当時 23歳の新人作曲家である。

その頃の三木について
黛ジュンが語る。

あれってね 単調な曲に
聞こえがちなんですけれども

アップダウンがものすごくあって
ものすごく難しい歌なんですよ。

兄の歌はね
結構 難しい歌が多いんですよ。

フォークの女王 森山良子を
一躍 スターに押し上げた

『禁じられた恋』。

20代前半で
華々しいスタートを切った三木。

だが 思わぬ落とし穴が
待ち受けていた。

当時の心境を

三木は あるインタビューで
このように語っている。

流行歌を作るのなんて

ものすごく簡単だと
過信していましたから

やっぱり 罰が当たって

26歳の時に 音が
鳴らなくなっちゃったんですね。

怖かったですよ。

なんとか スランプを脱しようと

三木は睡眠時間を削って

あらゆるジャンルの本を読み
レコードを聴きあさる。

そこには
音楽の専門教育を受けていない

三木のコンプレックスがあった。

八方塞がりの日々は
数年間も続いた。

昭和48年のある日
思い余った三木は

親交のある作詞家
阿久悠を訪ねた。

仕事場で
心の内を吐き出していると

ちょうど
レコード会社の社長が現れ

阿久に仕事の話をし始めた。

それは
名古屋のラジオ番組で人気の

ディスクジョッキー
あべ静江のために

曲を作ってほしいという
依頼だった。

その時 阿久は社長に こう頼んだ。

阿久は 「音楽のジャンルに
とらわれすぎだ」と

三木にアドバイスした。

色のついていない新人になら

ジャンルを気にせず
曲が書けるはず。

すると
こんなメロディーが浮かんできた。

こうして
三木の快進撃が始まる。

は 昭和20年

4人きょうだいの2番目として
東京に生まれた。

父親は 仕事が長続きせず

家計は専ら母親が支えた。

夜の仕事に出て行く母親を

三木は切なく見送った。

貧しい暮らしの中
家に借金取りが現れると

三木は
妹のジュンと押し入れに隠れ

息を殺しながら
嵐が過ぎるのを待った。

妹 黛ジュンに
当時の様子を聞いた。

もう 夜逃げね…
しましたね…。

もう 私も…
なんでこんな夜中に起こされて

それで… まあ リヤカーですよね

リヤカーで
身の回りのものだけ積んで

それで 私と妹は
そのリヤカーの荷台に乗せられて

両親と兄2人は
そのリヤカーを引くんですよ。

引いてるの 4人で。

どこ行くんだろうなと思って…
またかよ みたいな感じで…。

その頃 三木は 母が買ってくれた
質流れのギターを

宝物のように弾いていた。

引っ越しを繰り返す間も

三木は
そのギターを大切に持ち歩く。

その時に聴いてた
ジャズっていうのが

のちのち 私と兄の…

要するに
音楽業界に携わったという

その要因の一つ
だったんではないかなと思います。

ギターとジャスをきっかけに
音楽に魅せられた三木は

やがて
歌手になりたいという夢を持つ。

知り合いのつてをたどり
きょうだい一緒に

作曲家 船村徹の門をたたいた。

三木は12歳 妹のジュンは9歳。

じゃあ 歌を聴かせてって言って

先生のピアノで歌ったんですよ

私と兄が。

それで その時 私は…

先生 もう ワンコーラス聴いたら
パッとやめて

「順子ちゃん
君は歌手になりなさい」って

おっしゃってくださったんです。

兄は その時
たまたま自分が作曲した譜面を

持って行ったんですね。

それで 先生のピアノで
ワンコーラス歌ったら

ピアノをおやめになって
ちょっと見せてって言って

その 持ってた譜面を
こう… 先生 ご覧になってて。

君はね 歌手になるよりね

作曲家になりなさいって

先生が
おっしゃってくださったんですよ。

そして 昭和42年
作曲家 三木たかしとして

22歳でメジャーデビュー。

ヒット曲を連発したあと
最初のスランプも乗り越え

再び
日の当たる場所に戻ってきた。

『スター誕生!』でデビューした
岩崎宏美が

少女から大人へ
揺れる心を歌い上げた『思秋期』。

三木は 恩人の作詞家 阿久悠から

石川さゆりの新曲を書くよう
頼まれた。

♬~

『津軽海峡・冬景色』は
画期的な演歌だと評価されている。

それは一体 なぜなのか?

三木自身は
このように語っている。

三木作品のアレンジを
数多く手がけた編曲家 若草恵は

こう分析する。

多分…。

『運命』の…。

♬~(ピアノ)

これを
モチーフにしたんではないかと。

インパクト 衝撃ですよね。

『運命』もそうです。 要するに…。

っていう
「ダダダ ダーン」ですから。

先生が この『津軽海峡・冬景色』
っていう「運命」を

彼女に 多分 詞のイメージの中で
表現なさったんではないですか。

三木自身 この曲で 自ら
運命の扉を開いたのかもしれない。

テレビ朝日の人気番組

『欽ちゃんのどこまでやるの!?』で
歌われた 劇中歌だった。

コンビを組んだのは

『四季の歌』で知られる作詞家
荒木とよひさ。

2人で手がけた作品は
400曲を超える。

名コンビと言われるゆえんとは…。

まあ 彫刻家がね…。

彼らは こんな事 言うんですね。

木を削ってね
観音様を作るんじゃなくて

彫り出すだけなんだよ
っていう話を聞いた事あって

まさに それだなと。

作業だと思うんですね。

そんな2人に
アジアの歌姫 テレサ・テンから

新曲の依頼が来た。

海外で活躍するテレサには

頻繁に
プロモーション活動できない

弱みがあった。

そこを逆手に取り
有線放送にターゲットを絞って

積極的にアプローチをかける
作戦に出た。

依頼を受けた三木は

有線で繰り返し聴いても
邪魔にならないよう

BGMを意識したサウンドに
仕上げた。

その曲が…。

『つぐない』は 狙いどおり
有線放送から人気に火がつき

売り上げが 150万枚を突破。

日本有線大賞
全日本有線放送大賞を受賞する。

日本人が忘れかけている
奥ゆかしさ けなげさが

テレサの美しい日本語の歌詞から
にじみ出る。

三木・荒木コンビは
テレサの歌声に魅入られながら

次の作品を生み出した。

昭和60年発売の『愛人』。

続く3作目も
さらなるヒットを目指し

永く歌い継がれる
スタンダードナンバーにしようと

期待は膨らんだ。 ところが…。

三木さんは あれを書く間に…。

もっと書いたかな。

それで 最後の方に おすすめ…。

Bタイプ これが
一番いいと思いますっていう

デモテープを…
三木さんが歌ったデモテープを

僕の事務所に持ってきてくれて。

書けたっていうか
それだけ だから もう

仏様が
触ればボロッと出るような…

観音様がね
そういう こう 作りだったんで

あとは 木を彫ればいいだけで。

彼女の… テレサ・テンの最高音を
使われて。

ファルセットを使われたんでは
ないかなと思います。

ですので 普段は
ファルセットっていうのは

あんまり テレサさんは
使われてないですよね。

でも この曲に関しては
「そばに」の「ば」が

ファルセットなんですね。

そうすると すごく こう

軽やかな
また 色っぽさみたいなのが

出てくると思うんですね。

三木が 一音に込めた思いを

テレサは見事に受け止めた。

この曲で 三木は

レコード大賞 作曲賞の栄誉を
受けた。

最高の歌姫と共に

世界を目指そうとした
その矢先…。

1995年5月8日

周囲は 第二のテレサを探した。

しかし 三木にはわかっていた。

テレサは もういない。

三木は テレサの歌声を
心に刻みながら

次の一歩を踏み出した。

新たなメロディーを探すために。

ジャンルを越えた演歌
『夜桜お七』。

三木にとって
特別な意味を持つ曲だという。

若草は この曲の編曲を担当した。

総まとめっていうぐらいに

この曲に
思いを入れたんだと思います。

というのは 色んな曲をね…。

先生は 新しいものを
取り入れてきたんですけども

『夜桜お七』に関しては
それの全て…。

♬~(ピアノ)

…という
こう ジャズの要素ですね。

それに… ジャズのリズムに

あの… 日本の いわゆる都々逸。

♬~(ピアノ)

こういう ジャズの要素に
日本の和の要素を取り入れられた。

これは もう
画期的な事だと思います。

ジャズに都々逸
さらに ロックのビートへ。

新しい音楽を探し続けた
三木にとって

たどり着いた一つの答えが
ここにある。

限りない自由を求めて

音楽を作り始めた矢先

三木は 体に異変を感じた。

なかなか引かないリンパ腺の腫れ。

組織を検査し
出された診断結果は…。

その時 妹 黛ジュンは…。

手術の… その 選択ですよね。

っていうので…。

それが逆だったら…。

今 言うのは ちょっとね…

今 言っても
仕方ないんですけれども

食べる方を優先してたら

もっと 少しは
延命できたのではないかなって

私は思ったんですけれども

でも 兄が それは
選択した事ですから…。

まあ 声を優先して…。

まあ… 頑張ってましたね。

本当に頑張ってましたね。

命と変わらぬ 大切な声。

三木は のどへメスを入れる前に

思い入れのある曲で
自分の歌声を残そうと決めた。

それは 最高の相棒

荒木とよひさと作り上げた曲

『さくらの花よ 泣きなさい』。

♬~

自分のためだけに音楽を作る。

そんなこだわりすら
どこかへ消えた。

ただ 音楽がいとおしい。

三木たかし

命を削り
音楽に捧げた生涯だった。

先生が
だから 目指してたっていうのは

やっぱり 何か新しいもの
何か新しいものって…。

だから 多分
先生が目指してたのは…。

そういうものを
目指してたんではないかなって

思います。

もうちょっと待っててって。

すぐ行くから…。

なんていうかな…。

やっぱり

三木は今 全てから解き放たれ

遠い空のかなたで 思う存分
好きな歌を歌っているだろうか?

いや それでも飽き足らず
旅に出るかもしれない。

まだ見ぬ 新しい音楽を求めて。

♬~

作曲家 弦哲也のふるさと
千葉県銚子市。

この寺の参道にあった
楽器店で

おばあちゃんが買ってくれた
ギター。

これが
弦哲也の音楽人生の始まり。

長くつらい下積み時代。

ふるさとで成功を祈る
家族の思いや

数多くの出会いが

弦哲也の
折れそうな気持ちを支え

作曲家への扉を開いてくれた。

人生は長い旅。

流した涙の分だけ
心に火をともす歌が生まれる。

弦哲也 遠回りの音楽人生とは…。

将棋の棋士
内藤國雄九段が歌った『おゆき』。

この『おゆき』を作曲した人物が

弦哲也である。

当時 現役歌手だった弦哲也の

作曲デビュー作。

歌謡史に詳しい音楽評論家

小西良太郎が
弦哲也の曲の魅力を語る。

まあ 細やか。

みたいな事じゃないですか?
ベースにあるのは。

それが 普段着になったり
ドラマチックになったりする。

やっぱり 僕はね…。

もうなってるって
よく言うんですよ。

『おゆき』はロングセラーとなり

累計42万枚を売り上げた。

音楽生活十数年で
初めて手にしたヒット曲の感触。

さらに 作曲家 弦哲也の
代名詞となる作品が生まれた。

昭和55年 川中美幸の『ふたり酒』。

十代で 春日はるみとして
デビューしたあと

川中美幸と改名。

この曲が売れなければ

ふるさと 大阪に帰る覚悟だった。

曲を受け取った
歌手 川中美幸は…。

えっ? お酒の歌? 『ふたり酒』?

ましてや その… 男口調。

「生きていくのが つらい日は
おまえ…」

みたいな。 正直 まあ…。

その歌が
作品が いい悪いは別として…。

と思ったんですよね。 うん。

だけど 母に電話をした時に

歌詞をね 「生きてゆくのが
つらい日は」って

言いながら… 歌いながら

歌詞がよく聞こえるように
電話で話しした時に

母が泣いたんですね。

で その時に そうだ!

うちの両親も
苦労苦労で きましたからね。

だから これは うちの両親。

という事は 世の中に
こういう ご苦労ご苦労で きた

ご夫婦が たくさんいらっしゃる。

私は その代弁者となって
歌っていけばいいんだって

母の涙で
ちょっと手応えを感じましたね。

『ふたり酒』は 売り上げ100万枚を
超える大ヒット。

川中は 『紅白歌合戦』に初出場し
親孝行を果たす。

また 『ふたり酒』は

夫婦歌の新しい形として

しあわせ演歌と呼ばれた。

しあわせ演歌の大ヒットは

川中美幸はもとより

弦哲也の人生も大きく変え

さらに 昭和歌謡に

新たな1ページを開いたのである。

歌手を目指し
14歳で故郷を離れてから

『ふたり酒』の成功までに
20年近い歳月が流れていた。

それは 全く先の見えない
つらく苦しい旅路であった。

弦哲也 本名 田村正稔は

昭和22年
銚子市の郊外で生まれた。

この山あいの集落が
弦哲也のふるさと。

(弦)7~8人

こんなちっちゃい所に
住んでたんですよね。

本家から
田んぼを1つ分けてもらって

そして
その田んぼを コツコツ耕して

米を作ったり
その畑で サツマイモを作ったり

麦を作ったりね。

昭和30年頃
お茶の間の主役は ラジオだった。

スピーカーから流れてくるのは

『湯の町エレジー』や
『かえり船』といったヒット曲。

特に 弦少年の心を捉えたのは

イントロや伴奏で
美しい音色を響かせる

ギターだった。

どうしてもギターが欲しくなった
弦少年は

鉄くず拾いや

とったドジョウを売り歩いて
こづかいをためたが

ギターを買うなど
しょせん 無理な話。

ところが…。

ある朝 目が覚めると

枕元に ギターが置いてあった。

しかも 銚子の町へ行く度に
見とれていた あのギターだ。

それは 祖母からのプレゼント。

ここで おばあちゃんが

ここで花を… 種を植えてね
そして 花を育てて

やがて この花が咲いたら
それを切ってね 束にして

こう 籠に…
背負い籠に背負って

この近所の町や村にね
朝早く 暗いうちから

「花はどうだねー」って言いながら
花売りをして

わずかなお金を稼いでたんですね。

そのお金で

僕が ずっと夢にまで見ていた
ギターをね

ある日…
小学校6年生の時でしたね

枕元に
ギターが置いてありました。

これが

おばあちゃんが買ってくれた
ギターの実物。

弦哲也は 今も
このギターを大切に弾いている。

中学に上がると

ギターを 毎日 学校に持ち込み
休み時間に弾き語り…。

そんな生活の中で
歌手になる夢が膨らんでゆく。

歌が好きな中学の担任は

弦の夢を知り
相談に乗ってくれた。

その担任に 知り合いのつてを
たどってもらい

最後に
作曲家 大沢浄二を紹介された。

昭和37年3月。

弦哲也は ギター1本と
小さなカバンを抱え

実家の最寄りにある
松岸駅のホームに立った。

この時 弦哲也 14歳。

しかし それは
夢の入り口とは名ばかりの

長くつらい修業生活の
始まりだった。

♬~「赤い夕陽が
校舎をそめて」

♬~「ニレの木陰に 弾む声」

舟木一夫が
『高校三年生』でデビューした

昭和38年

弦哲也も
スターを夢見る高校生になった。

ところが 大沢浄二に弟子入りして
1年2年と時間が過ぎても

デビューのチャンスが
巡ってこない。

歯を食いしばり我慢を重ねて4年

念願のデビューの日が

ついに やって来た。

昭和40年の『好き好き君が好き』。

若者らしい
ポップス調の曲で

田村進二という
芸名も

大沢がつけてくれた。

ところが

発売1年が過ぎても
デビュー曲はヒットせず

その流れは

2枚目 3枚目のレコードでも
同じだった。

要するに 青春歌謡としてはね。

歌は うまいんですよ。

うまいけど 地味かなと…。

三田明以降 どっちか言うとね

歌がいいとか どうかよりも
ルックスの勝負でしたから。

そういう中で

歌はしっかりしてるんだけど
なんていうのかな…。

弦哲也の身辺に
大きな変化が起きた…。

結婚。

翌年には 長男 武也が誕生。

新しい家族のために なんとしても
ヒット曲を出したい。

そんな弦の思いとは裏腹に

現実は 妻のアルバイトが
家計を支えていた。

だが このつらい時間が

のちに 弦哲也の音楽人生を支える
土台となる。

やがて
思いもよらぬ転機が訪れた。

演歌のスター 北島三郎から

ツアーに同行するよう
弦哲也に声がかかった。

その役目は 意外なものだった。

それは 北島が
舞台で自分の生い立ちを語る際

ギターの伴奏をする事。

憧れの先輩に認められた嬉しさ…。

それが 歌ではなく
ギターだった悔しさ…。

ツアーから戻ると

弦は 行きつけの居酒屋で
気を紛らわせた。

声をかけてくれる
常連客の優しさに甘えて

愚痴をこぼす事も
しばしばだった。

北島のツアーが終わりに近づいた
ある日

弦は 北島の席に呼ばれた。

「そうですね まあ…」。

「そうか。 それも
男のロマンかもしれないけど…」。

「でも 生活していかなきゃ
いけないしな」。

「音楽の この世界から
離れないでも やっていける…

生活していける

作曲家っていうのが
あるんだよ」と…。

そして 北島は
自分が作った曲を歌い始めた。

♬~「風 風 風よ 吹くな」

♬~「寒いじゃないか」

そして あの作曲デビュー作
『おゆき』が生まれた。

それでも
いつか スター歌手になる夢は

簡単には諦められなかった。

日本全国100カ所で
ステージに立ち

その間にヒット曲が出なければ
歌手を辞める。

歌手になりたくて 千葉から
出てきたんだっていうのは

やっぱり
自分でね 思いきるには

手間がかかったでしょう。

だから 100カ所やれば
どうだみたいな気持ちは

あったんじゃないですかね。

それから 自分を

ここまで やったらさあ
っていうふうに

自分に納得させたいっていう事も
あったんじゃないですか。

どっちへ行くか。

曲へ だんだん比重
かかっていくについてはね。

二足のまんまじゃ

なかなか世の中ね
そう甘くはないと

思うでしょうから。

6年がかりで終えた

結果は…

歌手として ヒットは出なかった。

しかし…。

女の情念を描ききった吉岡の詞。

弦哲也のイメージをかき立てる
メロディー。

さらに
炎のような石川さゆりの歌。

『天城越え』は
歌謡史に残る名曲となった。

歌手への未練を断ち切り

作曲家として
新たな道を歩き始めた弦哲也。

積み重ねた苦労や経験が
味となり

メロディーに
優しさや すごみまで与える。

その先には 名曲が生い茂る
豊かな森が待っていた。

石原裕次郎 『北の旅人』。

その頃 裕次郎は
ハワイで病気療養中。

レコーディングは
ハワイで行われた。

レコーディングするからといって
決して…

万全な体調というか
のどの調子とは言えないわけで

裕次郎さんは さすがに
ワンコーラス歌い終わって

いったん 録音をストップして

酸素吸入を ちょっとして。

ちょっと息苦しいから
ちょっと休憩するわって言って

また 一息入れて
3コーラス目をという感じの

録音でしたけれども。

歌に対する情熱を

本当に 必死で傾けながらの
レコーディングだったのかなと。

あとで思うと
本当に胸が熱くなりますね。

そして 昭和63年。

美空ひばりが復活を果たした
東京ドーム公演。

その舞台で歌う書き下ろし曲を

たかたかし 弦哲也のコンビが
手掛けた。

迎えた レコーディング当日。

デモテープで 僕が『裏窓』を
ギターを弾きながら歌った

そのテープを ひばりさんが聴いて
覚えてくださったんですね。

そうですって言ったら…。

ですから…。

まあ 今でも ひばりさんの
レコードを取り出してきて

レコードを こう かけて

ひばりさんの あの懐かしい声と

自分の弾いたギターの音色が
聞こえてくる。

それが『裏窓』ですね。

美空ひばりの『裏窓』。

時代を象徴する大スターから

大切な贈り物を受け取った
弦哲也。

大きな自信と迷いなき足取りで
さらに前へ進む。

平成2年。

歌手 都はるみの復帰 第一作
『小樽運河』は

弦哲也が作曲。

はるみは スローなメロディーに
女性の本音を素直にのせた。

さらに…。

…って言われてた
時代だったんですけど

この『二輪草』は
やっぱり 色んな先輩方が…。

…っていうね
自信をもらったよって

やっぱり
色んな先輩方に言われましたね。

僕が やっぱり好きなのは

人と人との出会いの縁。

それを こう…

「縁歌」と呼んだり。

あるいは
苦労して頑張ってる夫婦を

後ろから 頑張れよと…

後ろから こう
そっと背中を押す。

応援する

そんなのが 「しあわせ演歌」って
いうんじゃないかなって

思いますね。

水森かおりの大ヒット曲
『鳥取砂丘』。

この名曲が生まれた背景には

弦哲也と水森かおりを結ぶ
不思議な縁があった。

舞台となったのは
東京 北区 都電が走る下町。

上京したあと 弦哲也が

長い下積み時代を過ごした
庶民の町。

この場所には 仕事帰りに 弦が
いつも立ち寄る居酒屋があった。

カウンターで飲んでいると…。

…と いつも声をかけ

愚痴を聞いてくれた常連の男性。

その人には2人の娘がいた。

歌が上手で のど自慢大会でも
活躍していた姉と妹。

それから30年近く過ぎ

妹の方は 歌手 水森かおりとして
弦哲也と再会した。

(弦)お邪魔します。

ああ 先生!
よろしくお願いします。

どうも どうも…。
今日は ありがとう。

っていう事でね
近所では評判だったんだけど。

どちらかというと…。

と思ってたね。

やだ…。
(弦)まさか かおりちゃんがね…。

平成7年 水森かおりは

『おしろい花』でデビュー。

この時 22歳。

その後 水森かおりは

目立った活躍が
できないまま

周囲も
危機感を募らせていた。

そんな時 弦哲也の曲を
歌う機会が訪れた。

♬~(ギター)

やっぱり 水森かおりを
変えてくれたのは 弦先生で

『東尋坊』っていう歌だったと
思うんですね。

で 自分自身が その…
全国キャンペーンに行くと

今までと
明らかに反応が違っていて。

って 皆さん
集まってくださるんですよ。

続く 平成15年

ご当地ソング第2弾として
世に出た この曲。

人は
人生で何度転んでも立ち上がり

また 歩き始める。

その背中を
静かに押してくれるのが

弦哲也の歌なのである。

まあ 先生には 本当に 私…

何度も
くじけそうになった時にね

もう 本当に なんか
勇気を頂くお言葉を

いっぱい頂いてね。

どんだけ こう… 救われたか
わかりませんね。

奥さんが台所で

まな板トントン トントン
っていうのを聞きながら

仕事ができる。

他に そんな堅実なね
ヒットメーカーって

会った事ないですよ。

やがて年号が変わりますが

その年号の古賀政男も
かねてほしいと思いますよ。

歌は いつも
聞く人 そして歌う人の心に

寄り添っていたいものですね。

人生は 旅に似ている。

全ては
窓の外を流れる景色のように

ただ 時と共に流れていく。

我 未だ旅の途中。

浜圭介 昭和60年の作品

『望郷じょんから』。

青森 津軽地方で
少年時代を過ごした浜は

雪と寒さに閉ざされるこの地で

ぬくもりの大切さを知った。

そして 歌手の夢 破れ

自分を見失っていた時

作曲家への未来に
導いてくれたのも

この場所。

凍てつく北の大地が教えてくれた
決して諦めない心。

どん底からはい上がった浜圭介の

壮絶な音楽人生とは。

昭和46年
『終着駅』を歌った奥村チヨ。

和製 シルヴィ・バルタンと
呼ばれた

元祖 アイドル歌手。

奥村チヨ本人に

初めて曲を聴いた時の
印象を尋ねた。

すごい衝撃でした。

「落葉の」って出だしから

なんか フランス映画のような…
映画音楽のような…。

って
鳥肌 立っちゃったんですね。

作曲は これが
初めてのヒット曲となる浜圭介。

昭和40年代中頃 まだ
駆け出しの作曲家だった浜は

所属する事務所の代表で

日本に 洋楽のカバー・ポップスを
根づかせた訳詞家

漣健児のアメリカ旅行に参加。

最新ポップスを肌で体験した。

その最終日
ニューヨークのホテルで

漣は 浜に声をかけた。

ぼーっと こう ビルの外を見ると

雨で ビルが もう
灰色になってるのね。

空も見えないね。

それで こう 考えてるうちに…。

♬~「ティラリラ リラリラ」

…って このメロディーが
落ちてくるんですよ。

うん。
メロディーが落ちてくるってのは

この事 言うのかなって思う。
ねえ。

絶対の自信を持ち

曲の売り込みを始めた
浜圭介だったが

レコード会社の反応は鈍い。

思い余った浜は

事務所の代表である漣健児に
相談すると…。

彼の弟は 東芝レコードの
ディレクターだった草野浩二。

作り手と歌い手の熱意が重なった
『終着駅』。

レコードが売り出され

すさまじい勢いで
ヒットチャートを駆け上がり

ほどなくベストテン入りした。

落胆する浜に
一人の新人が紹介された。

昭和47年
三善英史のデビュー曲 『雨』。

この曲で三善は
レコード大賞 新人賞を獲得。

続いて…。

の 『そして、神戸』。

貧しいっていうか
厳しい生活っていうかね

時代っていうかね あの…。

多かったでしょ。
だから やっぱり

そういう意味で がむしゃらに
やっぱり 書きましたね。

作曲家 浜圭介が歩んできた道。

それは 波乱万丈を
絵に描いたようなもの。

さらに その道をさかのぼると

銃弾が飛び交う中国大陸の荒野で
命からがら逃げ惑った

母親と浜圭介。

大きな苦難が待ち受けていた。

昭和47年
千葉紘子が歌った『折鶴』は

幼い頃の記憶が郷愁を誘う
叙情的な作品。

しかし 浜圭介の記憶に
ふるさとの情景は残っていない。

昭和21年4月
浜圭介 本名 金野孝は

旧 満州 現在の中国東北部にある
林口で生まれた。

昭和20年8月9日
日ソ中立条約を破棄して

ソ連軍が日本の関東軍に
攻撃を開始した。

浜の父親は
兵隊に取られて 留守。

母 きみえは幼子の手を引いて

山の中を逃げ回った。

この時 母のおなかには
浜の命が宿っていた。

子どもを5人連れて…。

もしも
ロシアの軍に見つかったら

子どもたちを3人 自分でね
楽にさせて

そして おふくろ本人は

自分で自決しようという考え
だったらしいですね。

運良く出くわした旧日本兵が

親子を 捕虜収容所に
連れていってくれた。

浜は
そこで産声を上げたのである。

あの状況の中での…。

っていうのを
つくづく感じる事がありますね。

昭和22年 浜親子は
引き揚げ船で舞鶴港に到着。

一家は 友人を頼り
青森県 大鰐町に移り住む。

城下町 弘前に近く
雪深い山あいの町。

終戦で復員した父は
単身 北海道に渡り

札幌の街で働いた。

その間 母は

父からの
わずかな仕送りを頼りに

貧しい暮らしの中で
子どもたちを育てたのである。

昭和29年
浜が小学校2年の時

父親が 札幌に
家族を呼び寄せた。

札幌の小学校に転校したあと
浜に友達はできなかった。

音楽の授業で歌った 『春の小川』。

ソプラノのような声質で
歌ったんだね あの頃。

そしたらね
先生もビックリするし

生徒もビックリするし。

もう その辺から

歌の持つ力を実感した浜は

人前で歌う事が大好きになった。

その後 中学に上がると

浜の興味は洋楽へ。

♬~「You are my destiny」

中学2年の途中から
札幌市内のダンスホールで

バンドボーイの
アルバイトを始めた。

時には 店のステージで歌う事も。

バンドボーイのアルバイトを
始めた事は 父に内緒だった。

厳格な父は
浜が歌手を目指していると知り

すさまじい剣幕で怒った。

♬~

浜は2年生の途中で高校を中退。

青函連絡船と汽車を乗り継ぎ

2日がかりで
東京にたどり着いた。

昭和39年 浜は

牧宏次の芸名で
待望の歌手デビュー。

ところが 全く売れない。

つらい地方巡業を続けるうちに

熱かった歌への思いが
次第に冷めていく。

思い出すのは 母の事。

母からは 励ましの手紙が
幾度となく届いた。

全て平仮名で
大きく書かれた文字。

「がんばっているかい」

おふくろって
手紙 書いた事がないんでね…。

それで 平仮名でね…。

びっしり 平仮名で書いてね
手紙を送ってきてね…。

それから 浜は 日記を書くように
歌作りを始める。

ところが…。

事務所との契約トラブルから

浜は 決まっていた
生番組の出演をボイコットし

穴を開けてしまったのである。

総スカンを食った浜は
歌の世界で居場所を失う。

昭和43年 まだ 雪の舞う3月

失意の浜は 汽車に揺られて
青森まで たどり着いた。

連絡線に乗って
津軽海峡を渡れば

家族が住む北海道に帰れる。

母に会いたい…。

みんなね
僕が東京に出てくる時に

頑張れよって言って…。

みんなが 僕に期待してくれた。

それが ワーっと 頭の中をね
やっぱり よぎるんですね。

それでね

結局 浜は

小学校時代の友人がいる
弘前に向かった。

この街は 東北随一の桜の名所。

「さくらまつり」の時期になり

屋台で食べ物を売る
アルバイトを始めた。

ある時 ふらりと入った居酒屋で

浜は 隣り合わせた
50がらみの女性と話をした。

泥水をすするような
彼女の身の上話に引き込まれ

気がつくと 浜は涙を流していた。

浜は たまたま隣り合わせた
女性の人生を

筆の赴くまま詞に書き起こし
曲をつけた。

タイトルは 『おんな道』。

この歌をですね 全国から来てる

寅さんのような香具師の人たちに
聴かせたんですよ。

そしたらね

で あの声がなかったら

僕は きっともって 再度
東京に戻ってこなかったですね。

一度は夢破れ
どん底で もがいた浜圭介は

出会った人々のぬくもりに
背中を押され

再び上京した。

知り合いの家を転々としながら
レコード会社を回り

自作の曲を売り込む。

だが 浜が作った歌に
興味を示す者はいない。

それでね もう…。

雨が降っていようもの
だったらね

靴底がね 穴が開いててね

そこから 入ってくるんですよ
雨がね。

この虚しさという… これはね

なんとも言えなかったね。

ある時 いつものように
電報を受け取った浜は

そこに書いてある文字を見て
驚いた。

「キミノウタガキキタイ」

電報の差出人は…。

漣は 浜と専属契約を結び

さらに アメリカで
本場のジャズやロックを聴かせた。

その貴重な体験が
『終着駅』誕生に繋がったのである。

浜圭介。 人との出会いに恵まれ
作曲家として再出発を果たした。

ここから
浜の快進撃が始まる。

浜圭介は 『街の灯り』と

前年のヒット曲 『そして、神戸』が

評価され…。

そんな浜のもとに
一編の詞が届いた。

送り主は 作詞家 なかにし礼。

パッと こう… 詞を見たら

『石狩挽歌』って。

これは文学だと思ってね。

俺 これ書くんだ… と思って。

生半可な気持ちじゃ
これはね いけんなと思って。

で 始めたの。

それでね
一生懸命やるんだけどね

なかなか出てこないの。

書いては破り
書いては また破りを繰り返し

自問自答を重ねるうち
ふと ある音楽が浮かんできた。

それは…。

ここからきたんですよ。

「ヤーレンソーラン」の続きが
「海猫が鳴くから」がきたんですよ。

「ヤーレンソーラン ソーラン

海猫が鳴くから ニシンが来ると」
って きちゃったの。

これは もう 詞にぴったりだと。

それで 一気に書いちゃいました。

昭和50年 北原ミレイ 『石狩挽歌』。

普通のメロディーでいくと

「あーれーかーら」って
4分音符を… 連なる。

あれは 「あれからニシンは」って
16分音符を こう 連ねていく。

あれが16分音符。

こういう歌謡曲っつうのは
いや 今までなかった。

16分音符を多用した『石狩挽歌』で

演歌の新たなスタイルを確立した
浜圭介。

そんな浜の創作意欲を

作詞家 阿久悠が さらに刺激する。

昭和54年の『舟唄』。

そして…。

『雨の慕情』は…。

『石狩挽歌』を生んだ事によって
あの『舟唄』が生まれるわけです。

『舟唄』の次が
『雨の慕情』なんです。

「タラララ リラリラ」。
あれも 16分音符なんです。

名曲『舟唄』 『雨の慕情』
誕生の裏には

浜メロディーの原点である
『石狩挽歌』の存在があった。

浜圭介との出会いによって

歌手人生に影響を受けた
歌い手は多い。

森昌子も その一人。

昭和56年 『哀しみ本線日本海』。

それまでは

歌わされているという
自分がいたんですね

色んな楽曲に。

でも 浜先生の歌で

自分は 本当に歌手として
やっていけるという

自信がつきましたね。

そして 昭和63年

浜は 今や伝説となった
あの歌姫に

メロディーを捧げた。

ちあきなおみの『役者』。

浜圭介が

50年余りかけて
たどり着いた境地。

朝起きて窓を開けると
天気がいい…。

そんな ごく当たり前の日常に
感動する心を持つ事。

それが
人の心を動かす歌作りに繋がる。

その豊かな感性を

浜に与えてくれたのは

母 きみえである。

浜が まだ30代半ばの頃

母は寝たきりの生活になった。

ある日の事
母を見舞った折に

なんとなく
その手を握ってみた。

ザラザラして
ゴツゴツと節のある手。

久々に… 久々っていうか
もう何十年ぶりだな…。

おふくろの手を
こういうふうに握った時に

ビックリしたね…。

もう ザラザラしててね

それでね 皮膚が硬いんだね あれ。

本当に あれは ちょっとね…。

やっぱり おふくろって

子どもたちのために 一生懸命
働いたんだなっていうね…。

平成26年

母 きみえは 家族にみとられて
静かに息を引き取った。

僕のベッドの所にね

ちゃんと
おふくろの写真が置いてあるし。

…なんて おふくろにお願いして

作品を書く事もありますね。

本当に 私の
心から頼れる

先生に対して
失礼かもしれませんけど…。

お兄ちゃんです。

これからも
昌子ちゃんと呼んでください。

見守ってください。

私にとって

歌の先生であり

うーん…
歌の理解者であり

温かい優しい旦那様。

いっぱいですね。
フフフフ…。

戦後ね 日本が
もう大変な時代だった時に

僕たちの先輩はね
いい作品を書いてね

そして 国民は
それを聴きながらね

「よし 明日 頑張ろう」
というふうに奮起した。

先輩が作った その大衆歌謡をね
やっぱり大事にしてね

これからもね やっていこうと…。

今の若い子たちも
好きになれるような歌謡曲をね

書いていきたいなと思いますよね。

人生の試練に打ち勝ち

新たな道で 栄光を手にした

三木たかし 弦哲也 浜圭介。

一度破れた夢は

決して消える事なく

別の新たな夢となり 実を結んだ。

彼らが残した名曲を聴く度に
私たちは思い出すだろう

諦めずに立ち上がり
歩きだす事の大切さを…。

だから 人生って面白い。


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