英雄たちの選択「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」 加来耕三、中野信子、萱野稔人、磯田道史、杉浦友紀…


出典:『英雄たちの選択「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」[字]


天下無双の名将・立花宗茂。関ヶ原の戦いの敗者には大逆転の秘策があった。幻の大坂城決戦とは?そしてなぜ大名に復帰できたのか?秀吉・家康も愛した宗茂の実像に迫る。


詳細情報

番組内容

「当今無双の勇士」「西国第一の猛将」とよばれた戦国の名将・立花宗茂。関ヶ原の戦いで西軍に属した宗茂は、決戦に参加できずに敗軍の将となった。だが、西軍の拠点・大坂城に籠城し、東軍を迎え撃つという秘策があった。宗茂の戦略とは?その後、宗茂は改易されたが、西軍武将の中で唯一旧領柳川への復帰を果たす。なぜ復活できたのか?今も柳川に受け継がれる教えとは?波乱万丈な生きざまで人々を魅了する立花宗茂の実像に迫る

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】加来耕三,中野信子,萱野稔人,【語り】松重豊




『英雄たちの選択「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」
  1. 宗茂
  2. 九州
  3. 西軍
  4. 関ヶ原
  5. 大坂城
  6. 家康
  7. 秀吉
  8. 家臣
  9. 帰還
  10. 大津城
  11. 武将
  12. 立花宗茂
  13. 大名
  14. 自分
  15. 東軍
  16. 籠城
  17. 今回
  18. 三成
  19. 選択
  20. 大軍勢


『英雄たちの選択「天下無双の名将・立花宗茂~関ヶ原敗戦・奇跡の復活劇~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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うん… 気持ちいいですね。
そうですね。

ゆったりしてますね。 気持ちいい。

水郷の町として知られる…

江戸時代 柳川藩10万9, 000石の
城下町として栄えた。

城跡には
明治時代に旧藩主が建てた洋館や

江戸時代の壮麗な大名庭園が
残されている。

こんにちは。
こんにちは。 よろしくお願いします。

はじめまして。
はじめまして。

現在 ここで旅館を経営する…

柳川藩主だった 立花家の子孫である。

戦国大名に連なる家が
今も 城内の屋敷を守り続けているのは

全国でも珍しいという。

うわ~ えっ!

これは…

ええ~!
これが本当に…

ええ。
宗茂の一軍には

みんな この金兜を支給して。
金色ですか?

金色です。

ええ~!

柳川藩の礎を築いたのが 初代…

天下人 豊臣秀吉から
「当今無双の勇士」とたたえられ

敵からも「西国第一の猛将」と
恐れられた人物である。

宗茂の戦歴は すさまじい。

秀吉の天下統一戦争に ことごとく参陣。

江戸時代には
大坂の陣 島原の乱で活躍。

その武勇を
天下に とどろかせた。

そんな宗茂の生涯の中で
最大の試練となった戦い。

それが
天下分け目の…

東西両軍の決戦は 僅か半日で終了。

宗茂のくみした…

だが…。

このとき 宗茂には…

史料には こうある。

「大坂城で
籠城すべきである」と。

西軍の拠点 大坂城。

この難攻不落の
要塞で

東軍の大軍勢を
迎え撃とうとしたのである。

その後 宗茂は 関ヶ原で敗れた…

新発見の宗茂の鎧袖が物語る
その知られざる背景とは?

波乱万丈な宗茂の生きざまを

さまざまな分野の専門家が

熱く語る!

もう非常に こう…

よく「鬼の居ぬ間の洗濯」って
言うじゃないですか。

…家康にしてみると。

秀吉 家康に愛された立花宗茂。

天下無双の名将の実像に迫る!

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき 彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回 取り上げる主人公は こちら。

戦国時代 天下無双とたたえられた

九州の大名…

私 今回 宗茂のふるさと
福岡県柳川市に実際に行ってみました。

行ってみて 私 あの…
さほど知らなかったんですけれど

「すごい!」のひと言で。
そうでしょう? すごいやつなんですよ。

すごい!
もう何見ても すごいって思いました。

関ヶ原の戦いっていうのは…

日程を?

決めさせた男と
言っていいかもしれないです。

つまり…

すごいんです! とにかく この武将は。
僕 一番好きかもしれませんね。

一番ですか?
あの… 戦国武将の中ではね。

おお~!
ただ 関ヶ原の戦いでは 立花は西軍。

いわば 負け組ですよね。
それね 人生の中で 一度だけ

間違った判断を
せざるをえなかったんですよ。

これが関ヶ原の戦い。

でも まあ 一度失敗しても
なんと 敗者復活する道はあるわけで

実は…

今回 最後まで見ると
失敗しても また回復できることとは

どういうことなんだろうっていうのがね
分かると思いますね。

うわ… 楽しみです。 では 宗茂は

なぜ 天下無双とたたえられる
名将となったのか

その背景から ご覧いただきます。

福岡県南西部にある柳川市。

その中心部 水堀に囲まれた
広大な敷地に柳川城址がある。

歴代藩主ゆかりの品々を収めた史料館。

ここに
立花宗茂愛用の甲冑が残されていた。

これ 立花宗茂の甲冑なんですけど
恐らく 関ヶ原合戦のころに

作られたものだというふうに
考えられるので…

へえ! 思ったより おしゃれですね。

兜を飾る丸い形は 月の光を表し

戦いの神 摩利支天の
シンボルとされる。

一般的な甲冑に比べ
鉄の地金は厚く 重い。

鉄砲の攻撃から身を守るため
実戦本位に作られた甲冑である。

非常に がしっとした体つきで。 しかも…

…というふうに考えられるので
非常に大きな。

当時としては だいぶ背が高いですね。
何というか アスリートみたいな

ラグビー選手みたいな
可能性がありますね。

はい。 スポーツマンっていう
感じじゃないでしょうか。

ねえ。 へえ~!

天下無双と呼ばれた
武将 立花宗茂。

その武勇は 2人の父親から
譲り受けたものだった。

宗茂は 永禄10年

九州 筑前の武将 高橋運の
長男として生まれた。

宗茂が運から譲り受けた刀。

鎌倉時代の名工 長光の剣。

宗茂が15歳で養子に出されるとき
「敵 味方に分かれたら

この剣で父を討ち取るように」と
渡されたという。

運からは
武将としての覚悟をたたき込まれた。

もう一人の父が…

勇猛果敢で知られた道雪も
宗茂に刀を与えている。

道雪が 雷神を
一刀両断したという伝説を持つ名刀…

切っ先の変色した部分は

雷神を切り裂いた証しだという。

道雪の猛々しさを よく伝えている。

2ふりの刀を常に戦場に携帯し

武勇に磨きをかけた宗茂。

道雪から家督を譲り受け 立花家を継いだ。

主は 運や道雪が仕えた…

九州北部に覇を唱え
6か国を治める大名だった。

海外の文化をいち早く取り入れた
キリシタン大名としても知られている。

天正14年 九州は
動乱の時代を迎えていた。

南部の島津が
急速に版図を拡大。

北上しながら
大友の領国に迫った。

同じころ 中央では
豊臣秀吉が台頭し

瞬く間に
畿内や中国地方を制圧。

四国まで
勢力圏を広げていた。

島津の圧迫に苦しむ大友宗麟は

秀吉に救援を求める。

大友が服属したことで

宗茂も秀吉の配下となった。

5万の大軍勢を率いて
大友領に侵攻した島津軍は

九州の要…

このとき 宗茂に任されたのが

北の玄関口 博多湾を押さえる立花山城。

実父 運は
その先の要衝 岩屋城で

南から迫り来る島津の
大軍勢を待ち構えた。

島津軍の猛攻に
運は 僅か700余りの兵とともに籠城。

徹底抗戦を貫いた。

だが…。

兵力の差は大きく…

運は自刃し

籠城兵は一人残らず討ち死にという
壮絶な最期を遂げた。

島津の次の狙いが…

大小7つの峰に 砦が築かれた山城である。

弱冠二十歳の宗茂は

兵1, 700と共に籠城した。

立花山城を囲んだ島津軍は
宗茂に降伏を呼びかけた。

宗茂は こう答えた。

「関白秀吉公の
ご命令を守るのみ。

関白殿を捨て置き
島津に降伏するなど

武士の
することではない」。

「実父 運は
この義を堅く守り

見事に切腹して
果てたというのに

自分だけが
生き長らえて

汚名を
天下に伝えるなど

思いも
よらぬことである」。

宗茂も 戦死した父と同じように
徹底抗戦を宣言したのである。

大軍勢の島津に どう立ち向かうべきか?

実は 宗茂には勝算があった。

籠城から1か月後

総勢20万に及ぶ秀吉軍の第一陣が
九州に迫った。

秀吉の…

このときを宗茂は待っていたのだ。

秀吉軍の到来を聞いた島津軍は

立花山城の包囲を解き 撤退を開始。

宗茂は この機を逃さなかった。

兵力僅か1, 500で城外へ出陣。

撤退する島津の大軍勢5万を
果敢に追撃した。

「宗茂の逆襲は
島津軍には

全く思いもかけぬことで

散々に蹴散らされた」と
記録は伝えている。

このとき 宗茂は

父 運が戦死した
岩屋城の奪還にも成功した。

後に秀吉は 宗茂を

「誠に九州の逸物」と
たたえ

大友氏の家臣から

10万石の大名に
取り立てた。

領地は 筑後の柳川。

ここに 戦国大名 立花宗茂が
誕生したのである。

さあ 今回 お集まりいただいた皆さんは

「立花宗茂ラブ」の方々と伺っております。

まず どこが好きで どういうところが
すごいと思っていらっしゃるのか

宗茂の魅力について
存分に語ってもらおうと思うんですが。

中野さんは いかがですか?

大体 こう 強い人っていうのは

それに見合うだけの
黒いものを持っていたりして。

野心的だったり
ちょっと こう…

裏切りも
辞さないようなところが

あったりするものと
思われがちなんですが

この人には そういうところが
ないように見えるんですね。

まあ ちょっと…
安っぽい言い方かもしれないけども

カッコいい人なんですよね。

まあ その
武勇が すごいだけではなくて…

まあ パーフェクト。
本当に何でもできる人なんですよね。

学校一の もて男みたいな
感じですよね。             そうですね。

運動も勉強もできてみたいな。
そうそう。

立花宗茂… 大きいのは
おとうさんですね。

おとうさん2人が ずぬけて
でき過ぎるんですね。

片一方のほうの

実のお父さん
運というのは

もう たなごころを
指すようにですね

相手の心が読めた
っていうんですね。

で 現に玉砕したときも

家臣が みんな ついてくるわけですよ。
逃げないわけですよ。

で もう片一方のほうの立花道雪。

立花宗茂のすごいところは
そういう おとうさん2人を…

実のお父さんと養父ですよね。
それを身近に見てるわけですよね。

そうすると
レベルが ずぬけて高いんだけれども

彼から見たら 身近にいるわけですよ
レベルが高いのが。

ここまで大絶賛ですけれど
萱野さんは どんな印象をお持ちですか?

宗茂ラブの人が 今日

集まってるという中では
私 ちょっと

スタンスは
違うのかもしれないな

というふうに
思ってますね。
というのも

確かに すばらしい人物だなと
私も思うんですよ。

それにしても
なぜ ここまで

人気があるのか
っていうことにも

少し疑問があるんですよ。
義に厚いとか

華々しい戦果を積み上げているという人は
ほかにもいるわけですよ。

にもかかわらず…

…っていうことを 少し 今日は
探ってみたいなと思いますね。

磯田さんは もうね 冒頭で

一番好きな武将と
おっしゃいましたけど。

西国第一とたたえられている。

ここがね あの 例えば日本中で…

だから リーグ戦でいうと

優勝候補がぞろぞろいるっていうのが
九州で。

よっぽど 頭も使って心も使わないと
無理だというね。

私 九州っていうこと 一つ
問題を解く鍵あるのかなと思いますね。

九州は当時の日本でいえば
もう 文明の窓口ですよ。

南から西から どんどん どんどん
新しい文明が入ってきますので

日本で最も先進的な地域ですよね。

その中で鉄砲も入ってきた。

で 鉄砲を使う戦の中で その戦術も
どんどん洗練されていくわけですよね。

例えばですね…

そうするとですね…

だから
テクノロジーと人間性というものが

うまく結び合うような そんな可能性を

宗茂が示しているんじゃないかなと
思うんですよね。

相性が良かったんですね そのね。

面白いなと思いますね。
確かに。

豊臣政権の大名となった立花宗茂。

宗茂は 秀吉の天下統一戦争を支え…

だが…。

宗茂の運命を左右する出来事が起こった。

天下人 秀吉の死である。

豊臣政権を受け継いだのが

政務をつかさどる五大老と
実務を担う五奉行だった。

しかし やがて
五大老の筆頭 徳川家康と

五奉行の一人 石田三成の対立が
あらわになる。

家康につくか
それとも 三成か。

宗茂に宛てた三成の書状が残されている。

朝鮮出兵での宗茂の功績を
たたえたものである。

「昨日の手柄は 言うまでもなく

合戦の功名 めでたいことである」。

三成は 宗茂を頼りにしていた。

やっぱり 心情的に 私は…

ですから やはり

自分の力をね
認めてくれて しかも それを…

…という思いがあるので

私は 最初から…

…というね
そんなつもりでいたと思いますね。

慶長5年6月。

事態は 大きく動いた。

家康は謀反の疑いありとして

五大老の一人 上杉景勝の討伐を決断。

およそ3万の軍勢を率いて
会津へと向かった。

その隙をつき 三成は

同じ五大老の毛利輝元を
総大将に担ぎ出し

反家康の兵を挙げる。

宗茂は 迷うことなく三成に味方した。

宗茂の言葉が残されている。

「戦いの勝敗いかんを問わず

ただ 秀吉公の恩義に報いるのみ」。

宗茂は 三成に求められた
兵数1, 300を超える

4, 000の兵を従え 上洛した。

8月22日。

宗茂たち西軍は 美濃・大垣に進出。

上杉討伐から取って返し

西上してくる
東軍の大軍勢を

迎え撃つためだった。

ところが 西軍に属した大津城主

京極高次の裏切りが発覚。

宗茂は 三成の要請に従い

大津城攻略に矛先を変えることとなった。

琵琶湖の南に位置し
古くから水運の要衝として栄えた大津。

平地に築かれた大津城は

琵琶湖に突き出した湖上の城。

攻め手の攻撃を阻む
三重の堀に囲まれた

守りの堅い要塞であった。

宗茂たち西軍の大津城攻めが始まった。

これに対し…

しかし…。

「立花は西国第一の猛将。
世に知られた武勇の達人。

夜討ちの油断を
するわけがない」。

京極勢は宗茂を恐れ
守りに徹したのである。

大津城を いかに攻略するか?

宗茂たちが注目したのは 城の背後の…

滋賀県の戦国史に詳しい

太田浩司さんに
案内してもらった。

大津城 今 これ見ていただくと

ちょっと ビルが たくさん建っちゃって
分からないんですが

ちょうど この辺りの
湖岸になるんですけども。

記録によると 長等山の中腹に
立花宗茂を中心とする西軍が陣取って

ここから 大砲で 大津城を
攻撃したというふうにいわれています。

日本史上…

西軍は 長等山から大津城を砲撃。

前代未聞の攻撃に
城内は阿鼻叫喚となった。

京極高次は降伏し 城を明け渡した。

宗茂たち西軍の完勝であった。

同じ日 美濃では
東軍総大将 徳川家康の策略によって

両軍の主力が関ヶ原へ転進した。

…が激突した。

天下分け目の合戦…

だが 西軍にくみしながら
戦いを傍観していた

小早川軍1万5, 000が
突如 西軍に襲いかかった。

小早川秀秋の寝返りであった。

結果 西軍は総崩れ。

戦いは 僅か半日で
東軍の勝利となった。

関ヶ原の戦いの この本戦以前に

大津城の戦いがあった
ということですけれど

ここでは初めて 大筒が使われたと…。
はい。 大砲ですよね。

そもそも この人 大友系の人ですから。

お得意なんですよ。 だから 嫌ですよ
立花と戦うっていうのは。

大砲は撃ち込まれてね。
それで夜討ちしようにも最強だし。

あそこ 立てこもっている
京極っていうのは

本当に ばかにされている大名で 今頃
「蛍大名」って言う人もいるんですよ。

要するに お姉ちゃんが ものすごい美人で
太閤に かわいがられたから

あいつは 大津っていう いい場所に…

大名で家柄もいいから
もらってるだけだっていうのと。

要するに…

…になってしまったという
この大津城の戦い。

まさに 関ヶ原の戦い 行われていて

宗茂は そこには
参戦していないということなんですが。

あえて 皆さんに語ってほしいのが
もし 宗茂が

では その関ヶ原の戦いに参戦していたら
ということなんですけれど。

加来さん いかがですか?
もし…

ただね 関ヶ原が始まる前に…

日本の歴史的には一発勝負でドン!
っていうのは あんま ないんですよね。

お互い 向かい合って ちまちまやって
ちょっと 小競り合いをやって

誰かが間に入ってということになった
可能性はあると思いますよね。

だから そうなることを考えてみると…

しかし それで
決着がつくわけではなしに…

立花宗茂が もし 参戦していたら
戦そのものは 西軍のほうが

有利に動いたのかもしれないなと
思います。

ただ このとき
様子見の大名も多かったですし

宗茂が参戦するとなれば
より力を入れたかもしれないですよね。

でも もしかすると 家康っていうのは

その さらに上を
いっているかもしれないと思うのは…

やるでしょうね。
家康ならば。

磯田さん どうですか?
これはね まず 大体…

なぜか?

…って言うじゃないですか。

何でだっていうと
もし 立花宗茂がですよ

「あっ 大津城が落城した」。

大津から関ヶ原までなんて
1日か そこらで来ちゃいますよ。

だから 家康にしてみると こうですよ。

「小早川秀秋は 俺のために
裏切ってくれる」っていう話なんだけど

立花軍が 戦場に到着して

「おい 立花だぞ。
小早川ら 俺と戦うんだぞ」って

下に 陣取って
小早川ストッパーになられたら

少々 裏切らせる程度では…。
でも まず…

強さは分かってるわけですからね。
うん。 だから もう

本当に…

だから 9月15日?
ええ。 だから戦場が あそこで。

だから すごいと思うんですよね。
本戦の…

そうですね。
すさまじい。

しかも 僅か10万石ちょっとの大名が
これだけ恐れられてたっていう。

関ヶ原の戦いに敗れた西軍の武将たちは

戦死する者 敗走する者が
後を絶たなかった。

宗茂の一代記…

その後の宗茂の行動が
詳細に記されている。

翌16日 大津城にいた…

さらに 東軍が
石田三成の居城 佐和山城を

攻めているという情報も入った。

「関ヶ原のこと
事実であるに違いない。

ここは 覚悟を
決めなければならぬ」。

17日 早朝。

宗茂は 大津城を引き払い
西へと向かった。

当時 大坂城には
秀吉の遺児 豊臣秀頼

そして 西軍総大将 毛利輝元が
滞陣していた。

西軍が敗れた今 どう行動すべきか?

宗茂の心の内に分け入ってみよう。

ここは やはり 大坂城で
東軍を迎え撃つべきではないか?

大坂城には 総大将の毛利輝元殿や
秀頼公がご健在。

まだ十分に戦える。

しかも 大坂城は
難攻不落の巨大な要塞。

いくら大軍勢の東軍とはいえ
手も足も出まい。

大坂城は 東と北を河川に守られ

南に低湿地が広がる天然の要害。

秀吉は ここに 三重の堀を構え
当時最大の城を築いた。

2003年 現在の大手門近くで
巨大な堀跡が発見された。

幅22メートル 深さ6メートルの…

「障子堀」は 秀吉を悩ませた関東の雄
北条氏の築城術として知られている。

侵入した敵は

細かく仕切られた堀の中で
動きを封じられ

城内からの弓や鉄砲の攻撃にさらされる。

堀に落ちた者には

逆茂木などの仕掛けが
待ち受けていた。

実は 大坂城の主要な出入り口3か所に

こうした堀が築かれていたと
推定されている。

発掘調査でも 年号が書いた木の札
木簡が出てきてですね

それで
慶長3年に掘ったっていうのが

たぶん正しいと思うんです。
で そうすると…

自分が死んでしまうっていうことは
何となく分かってるときですよね。

もう あんまり余命がないと。

関ヶ原で西軍は敗れたとはいえ

決戦に参加せず
次なる戦に備えている者も多かろう。

その兵3万は無傷のままだ。

城内には 秀頼公の旗本衆や
総大将 輝元殿の兵もある。

これだけの兵力があれば
大坂城を守り抜くことなど たやすい。

あるいは ここは 一旦 九州へ帰還し

天下の趨勢を見極めるという策もあるか?

関ヶ原の戦いで 毛利は動かず

小早川が裏切ったため 西軍は敗北した。

いくら難攻不落の大坂城とはいえ

心が 一でなければ

籠城戦などできぬ。

九州へ帰還しても 宗茂には勝機があった。

同じ西軍で
武勇の誉れ高かった島津義弘と

手を結ぶという作戦である。

実は 前年 宗茂と義弘は

互いに起請文を交わしていた。

「このたびの
談合について

心の底から
残らず

互いに
語り合ったことは

一切
他言しないこと」。

そういう家なんですけれども やはり…

実際に その…
起請文を取り交わしてる。

で 一体 どういう話を
したのかっていうのは

これ 記録に残ってないので
何とも分からないんですけれども。

大坂城に籠城するか
それとも 九州へ帰還するべきか。

宗茂に選択の時が近づいていた。

関ヶ原の戦いで 西軍が敗れ
宗茂に選択の時が訪れます。

大坂城に籠城するのか。

それとも 九州へ帰還するのか。

まず 加来さんは どちらを選択しますか?

私は 1の大坂城に籠城するほうを

取りますね。

先ほどのVTRにもありましたけれども

天下無敵のね 大坂城ですよ。

完璧の布陣を敷いて
守れる大坂城があればですね

十分に宗茂なら戦えたと思いますね。

で 何よりも…

う~ん… なるほど。

さあ 萱野さんは どちらを選びますか?

私は「九州に帰還」を選びます。

宗茂のこれまでの戦い。

まあ 豊臣秀吉のためという
大義があって

戦いを行ったわけですよね。

今回も 確かに豊臣秀吉のためだという

大義名分 あるんですけど

その…

彼から命令を受けることが
できないんですよ。

この状況で 彼自身が本当に戦う意味が
あるのかっていう問題が

出てくると思うんですよね。

彼の良さが発揮できないわけですよ。
それこそ大義のため

秀吉のためっていうことでは
もう戦は戦えないなということで

九州に戻っていくということを

やっぱり 選ばざるをえないだろうなと
思いますね。

私は「九州へ帰還」を選びます。

え~… これですね

戦力は確かに
西軍 十分あるんですけれども

それでも負けているわけですよね。

何で負けているかっていうと
様子見の武将が多すぎたりとか

ちょっと翻弄されてる要素が
あまりにも西軍に多くて…

宗茂 パーフェクトというふうに
申し上げましたけども

残念ながら…

(中野)そこを攻められると
かなり弱いんですよね。

やっぱり 小さい集団で

気心知れている人たちだけを連れていて

それで戦うのであれば勝てるけれども…

…っていうと
やや心もとないところがある。

となると九州へ帰還というほうが
妥当なのかなと思います。

さあ 加来さん 皆さん… お二人の意見と
違いましたけれど どうでしょうか?

あのね まずは大坂城で戦ってみると。

で もし負けるようなことになれば
また九州でやればいいわけですよね。

何も わざわざ
大坂から下がる必要はないわけで。

この間に…

十分に態勢として整うと思いますね。

戦う必要がないわけですから。
守っていればいいわけですからね。

状況 大きく 日本の歴史は
私は変わったと思うんでございますが

何か 今日はね
ちょっと分が悪いなという。

ハハハ…。 そうですね。

ということですが 皆さんの意見聞いて
磯田さんは いかがですか?

私は「九州へ帰還」だな。
おっ!

申し訳ないけど 加来さんには。
なぜかというと…

…ってことが やっぱり大事で。

あっ 淀殿?
この2人が もう 絶対に

頑と 何があっても
豊臣公儀だということを言って

家康軍の中にいる…

…と 子どもに向かってと言って。

さらに問題なのが
大坂城に立てこもった場合…

あの政治屋の家康ですから…。

「あつかい」と言って
要するに講和条件を

天皇の命令で出してきたりとか

急速に官位を高めて
将軍や関白になったりして

あらゆる手を打ってこざるをえない。

さあ その「大坂城籠城」か
それとも「九州へ帰還」なのか。

その決断は 宗茂の人生を
大きく変えることになります。

籠城戦に
打って出ることを

選択したのである。

早速 総大将 毛利輝元のもとに
使者を派遣。

しかし
輝元は決断できなかった。

「これから評議を尽くして
ご返答申し上げる」。

宗茂は あきれ返った。

「今から評議するなどとは
ことのほか 浅き知恵である。

総大将がそうであれば
とても籠城などできまい」。

宗茂は 軍勢を引き連れ
九州へ帰還することにした。

これにより…

急ぎ領国 柳川へ戻った宗茂。

しかし 数日後 新たな苦難に直面する。

東軍の軍勢およそ4万に
柳川城を包囲されたのである。

東軍の武将 加藤清正が
降伏を勧めたときの

宗茂の言葉が残されている。

「兵たちの命は

城主が切腹して
助けるというのが

武将の大法である」。

宗茂は みずからの命と引き換えに

城兵の命を守ろうとしたのである。

しかし 清正は宗茂を生かし

すべての城兵を助けることを約束。

宗茂は これに応じ 城を明け渡した。

そして…

しかし 宗茂は諦めなかった。

みずから上洛して 家康との接触を図り

旧領 柳川の復帰を目指したのである。

2017年 それをひもとく手がかりが

かつて立花家の家臣だった家で
発見された。

宗茂愛用の鎧の袖である。

朝鮮出兵のとき

鎧袖なしに戦っている家臣を見て

宗茂が みずからのものを与えたと

伝えられている。

鎧は 戦国武将にとって
命を守る大切なもの。

その一部を家臣に与えるという行為は

極めて珍しいという。

家臣に対して
どうケアするのかというのは

非常に気にしてたところが
あるんじゃないかなと思います。

そういったところで 非常にですね…

家臣の大半は
その後 清正に召し抱えられたが…。

この家臣たちを
路頭に迷わせないためにも

旧領の回復が必要だった。

そんな宗茂を放っておかなかったのが
家康だった。

関ヶ原の戦いの敵ながら

宗茂の武勇と人徳を
高く評価していたのである。

慶長11年 家康の計らいにより

宗茂は 陸奥・棚倉3万石の領地を
与えられた。

宗茂は大名への復帰を果たした。

その後 家康が豊臣家と戦った
大坂の陣で活躍。

徳川家の絶大な信頼を勝ち取っていく。

関ヶ原の戦いから
20年の歳月が流れていた。

私の計算だと…

これは本当…

敗軍の将から奇跡の復活を遂げた宗茂は

寛永19年 76年の生涯を閉じた。

江戸から明治 そして現代へ。

激動の時代を乗り越え 立花家は

今も柳川城の中に生き続けている。

宗茂から18代目 立花千月香さん。

明治時代に建てた洋館や
旧藩主の邸宅を利用して

城内で旅館を経営している。

はあ~!      ここが大広間。
大広間になってます。

へえ~!
その奥にありますのが

松濤園という お庭です。
うわ~!

総面積7, 000坪。

東京ドームの
ほぼ半分の大きさの敷地内にある

壮麗な大名庭園。

散策をするような お庭ではありませんが。

うわ~ すてき。

立花家に代々伝えられてきた
宗茂の言葉がある。

宗茂が…

…という言葉が
ありまして。

で やっぱり 私も
父から幼いころから

自分が
幸せになりたかったら

まずは周りの人を
幸せにしなさい

っていうことを言われてきたので

やっぱり こう 常に…

…っていうことは 常々から

こう 刻まれている言葉ですね。

宗茂が残した 家臣と領民への思い。

それは 柳川を訪れる人々を
もてなす心として

今に受け継がれている。

はい。 関ヶ原のあと 宗茂は

大坂城籠城を
一度は決断したものの 諦め

九州へ帰還するという選択をしました。

加来さん。 一度は決断するんですが
やはり そこには毛利輝元が…。

駄目な大将でしたね。 でもね…

宗茂は そうではなしに
まあ しょうがないかと。

じゃあ 次で考えようと。
ほんなら 九州へ戻ってくる。

その九州の中も
状況が刻々と動きますよね。

(加来)常に やっぱり 柔軟に
周りの状況を見ながら

どうしたらいいかということを考える。

で 加藤清正に説得もされて
家臣も引き取るからと

もう一回
考え直したらどうかと言われると

そうかな? と考えるわけですね。

その中で 恐らく
できるだけ早く元へ戻るという

そういう計画もあったんじゃないか
って気がしますね。

そう。 感情論にならないとこが
珍しいんですよ。

通常 こういう…

ところが おめおめ…

これができるってのは 意外に

日本人 嫌いかもしれませんけど
すごいんですよ。

宗茂の柔軟性っていうとこに
着目してみたいと思うんですけれども

言うなれば 高橋運の
あの島津義弘っていうのは

敵なので 手を結ぶっていうのは
まあ ちょっと こう… 何て言うのかな。

普通の感覚だと 忸怩たるものが
あるのかなっていうふうに

想像しちゃうんですけれども。

でも まあ 割と こう…
気脈を通じるというか

話し合いができているわけですよね
お互いに。

これを 何か こう…
裏切りというふうにとるのか

それとも柔軟性ととるのか…。
僕は 近世の武家社会を

ちょっと 普通に… あまり
理解されてないなと思うんですけど。

いや 俺の親を討つほど
相手は強い武士だと。

だから 僕は お前を尊敬するし
これから仲良くしようと。

何か 大抵…

(中野)面白いですね。
すごい。

親の首 取るほど強い者は

しっかり お勉強して
仲良くしないといけないという。

で まあ 関ヶ原の戦いのあとに
改易に遭うんですけれど

最終的には 西軍の武将で
唯一 旧領復帰できている。

唯一ですからね。
なぜ 宗茂だけが そうできたのか。

やはり 家康は知ってたと思いますね。

そのことが分かってるからこそ…。
しかもね 宗茂もですね

自信がね やっぱ あったんだと思いますね
自分に対する。

中野さんは どうして
その旧領復帰できたと思いますか?

あんなに改易しまくって…。
猜疑心が強いんです。

何かをしてあげるほうが
もらうよりも

ずっと気持ちいいものなので 本来は。

そういう人に対して
何か こう… することによって

徳川家も 快感を
報酬として得るっていうことが

ひょっとしたら
あったかもしれないですよね。

というのも 徳川幕府が確立されて
平和な時代になった。

そうなるとですね。 今後…

となると…

そのときに 幕府の求心力を
いかに保つかってなったときには…

地位の向上がありうるんだっていうことを
示す必要があると思うんですよね。

…ためには やっぱり この宗茂を

旧領復帰させるっていうのは
大きなメリット あったと思いますね。

今回 実際 私 現地に行って
あの立派な お庭 見たんですけども

のどかで穏やかで 本当に 心が こう…

おっとりした人でもあったのかなっていう
印象もあったんですよね。

そういうバランスが とても
良い人だったのかもしれないですね。

でしょうね。
うん。 磯田さんは

今回の この宗茂から
どんなことを こう 私たち…。

僕ね 中小企業の会社の社長さんでも
こんな最強集団

どうやったら出来るんだろうと
思ったはずですよ。

実は それに疑問を持ったのは
細川忠興だったんですよ。

宗茂さん 家臣は みんな
あなたの言うことを聞くし

うまくいくんだけど いい目付け…
要するに

監視役でも代理人でもいるんですか?
って言ったんだそうですよ。

そしたら 宗茂は
意外なことを言ったんですよ。

違いますと。 全く 私…

自分は 自分がいいと思ったことも
悪いと思ったことも

寝床でしゃべったことさえ
家来の そのまた家来まで話しますと。

そうしたら
みんな 一体感を持ってくるんだと。

要するに…

同じ気持ちに
なるってことが大事なんですと。

だから 僕は 柳川古文書館に行ったときに
衝撃を受けたことが…。

どの藩でも
見たことがない史料を見たんです。

それは何かっていうと 柳川藩のために
宗茂のために戦って死んだ人の

もう ず~っと
すべての戦いの名簿があって

それを毎年 供養し続けてた この家は。
戦死者名簿。

言ってますよね 宗茂は。

「進め! ここで死ぬんだぞ」と言ったって
そんなもの進んでくれるものじゃないと。

自分のことと
お互いの信頼関係がないと

一緒に前進してくれるものではないんだ。

そのためには
一人一人を大事にすることなんだと。

で 隠したりしないんだと。

情報公開なんて ほとんど
できないんですけど この国では。

不思議な集団が ここにあって

真っ当なことをやって
真っ当に生存を全うしたっていうのが

僕 これ 希有な日本史上の

歴史だと思ってるんですよ。

ねえ? ぜひ
このことを知っていただきたくて

今日は この番組できて うれしかった。

ということで 皆さん
今日は ありがとうございました。


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