ザ・プロファイラー「安藤百福 インスタントラーメンが世界を変えた」 朝ドラ「まんぷく」でおなじみの安藤百福…人生最後の夢は…


出典:『ザ・プロファイラー「安藤百福 インスタントラーメンが世界を変えた」』の番組情報(EPGから引用)


ザ・プロファイラー「安藤百福 インスタントラーメンが世界を変えた」[字]


今や世界中の人が食べるインスタントラーメンを世に送り出したのが、朝ドラ「まんぷく」でおなじみの安藤百福。家族の協力で無一文から開発に挑む人生を追う。MC岡田准一


詳細情報

番組内容

朝ドラ「まんぷく」でおなじみの安藤百福。今や世界中の人が食べているインスタントラーメンを世に送り出したのは、人生半ばでのことだった。無一文の素人からラーメン開発に挑んだ百福は家族の協力を得て夢を追う。「ラーメンを売るな、食文化を売れ」と言った百福の商品は、戦後の発展とともに爆発的に普及。やがて欧米の文化の壁を越え、世界中に広まってゆく。そして、人生最後の夢は、なんと宇宙だった!MC岡田准一

出演者

【司会】岡田准一,【ゲスト】陳建一,星野佳路,山瀬まみ




『ザ・プロファイラー「安藤百福 インスタントラーメンが世界を変えた」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ザ・プロファイラー「安藤百福 インスタントラーメンが世界を変えた」
  1. 百福
  2. ラーメン
  3. 開発
  4. エビ
  5. カップラーメン
  6. 自分
  7. 息子
  8. 山瀬
  9. インスタントラーメン
  10. スープ
  11. 当時
  12. 事業
  13. お湯
  14. 安藤百福
  15. 起業家
  16. 研究
  17. 商品
  18. 成功
  19. 普通
  20. カップ


『ザ・プロファイラー「安藤百福 インスタントラーメンが世界を変えた」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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↓NHK関連商品

いつでも どこでも
お湯さえあれば食べられる

インスタントラーメンと その仲間。

日本人 一人あたり 1年間で
平均45食も食べています。

あまりにも おなじみのため
ピンと来ないかもしれません。

今日 プロファイルするのは この人。

事業家にして発明家の 安藤百福です。

さまざまな商品を手がけた百福ですが

この画期的な食べ物を世に送り出したのは
人生の半ば過ぎ 48歳の時でした。

1958年。

プロ野球のスーパースター・長嶋茂雄が
デビューした この年

インスタントラーメンが 世に出た。

開発の裏には 百福の
「七転び八起き」の起業家人生と

食に対する すさまじい体験があった。

47歳で事業に失敗し 無一文となった百福。

そんな時 頭に浮かんだのが
戦後の闇市で見た…

早くて 安くて
誰もが食べられるラーメンを目指した百福。

全くの素人から ラーメンの研究を始める。

小屋に籠もり 寝る間も惜しんで
研究に没頭する日々。

1年後 ついに開発に成功。

お湯さえあれば食べられる
「魔法のラーメン」として 大ヒットした。

このラーメンを アメリカや世界中にも
広めようと 乗り出した百福。

欧米の食文化の違いという
大きな壁に ぶち当たった。

しかし 百福は…。

百福が 苦闘の末につかんだ…

更に 百福は
インスタントのライスにも挑戦。

しかし 事業は失敗。
30億円の損失を出してしまう。

それでも百福は 前を向き続ける。

90歳を過ぎても 新たな
商品の開発に挑んだ。

夢の舞台は なんと…

世界の食を変えた
壮大な夢追い人の生きざまを

プロファイル!

♬~

48歳で
インスタントラーメンを開発した…

実は それ以前に 繊維やエンジンの生産
塩作りを手がけ

更に 学校経営など

10以上の事業を
手がけている。

若い頃から やり手の
起業家だった。

百福は…

1910年 安藤百福は
日本統治下の台湾で生まれた。

両親は 幼い頃に他界したため
呉服店を営む 祖父母のもとで育つ。

店には 大勢の商売人が出入りし
活気に あふれていた。

百福は そんな雰囲気が
大好きだったという。

幼い頃から
店のそろばんで遊んでいたので

足し算や引き算は もちろん
掛け算まで自然に覚えた。

二十歳の頃 百福は図書館に就職する。

しかし 何か 物足りず辞めてしまった。

百福は 父親の遺産を元手に
22歳の若さで メリヤス商社を設立。

しかし 台湾では
ほとんど流通していなかった。

百福は そこに目をつけ…

百福の読みどおり メリヤスは…

台湾でも 洋服が広まり
新しい肌着が 求められていたのだ。

起業から僅か1年。 勢いに乗る百福は

繊維産業の本場
大阪の船場に拠点を移した。

会社は ますます繁盛し

百福は 大阪でも
一目置かれる事業家となった。

ところが 8年後の1941年
太平洋戦争が勃発。

メリヤスの生産は 国の管理下に置かれ

商売が できなくなってしまったのだ。

しかし 百福は 全く めげなかった!

百福が目をつけたのは 軍需工場。

工員の男性は 戦争で徴兵され

残ったのは 家庭の主婦や老人たち。

百福は こうした人たちのために
「幻灯機」を製造した。

幻灯機とは 壁や幕に
写真を投影できる機械。

工場の壁に 機械のマニュアルを映して
大勢に教えたのだ。

何とか 事業を続ける百福だが
思いも寄らない不幸が降りかかる。

百福が経営する軍需工場から
物資が大量になくなった。

百福は 資材を横流しし

私腹を肥やした疑いを
かけられてしまったのだ。

百福は捕らえられ 留置所に入れられた。

そこで 生涯忘れられない経験をする。

留置所で出された食事は…

お椀は汚れ 悪臭が漂っている。

まさに 「くさい飯」。

あまりに臭く 食べることができなかった。

だが 絶食して数日たつと
飢えに耐えきれなくなった。

そして…。

疑いが晴れて釈放されるまでの
ひとつき余りの間

百福は 食べ物が
どれだけ大切か思い知らされた。

不幸にも 濡れ衣を着せられた百福。

しかし そのあとには
幸せが待っていた。

京都のホテルで フロント係をしていた

仁子と知り合ったのだ。

彼女に 一目ぼれした百福は
すぐさま プロポーズ。

初めは 結婚を断られたが

諦めずに 仁子のところへ通い続け
こう約束した。

1945年 百福は
35歳で 仁子と結婚。

2人は 息子と娘を授かった。

その年の8月 百福は終戦を迎える。

焼け跡には 飢えた子どもや

うつろな目をした大人たちが
あふれていた。

彼らが 心の底から求めるものは…

百福は 海水と鉄板を使って
塩作りを始めた。

しかし こんな…

たんぱく質や カロリーの不足で
倒れる人が 多くいたため

栄養食品の開発をしていた時のこと…。

ある晩 寝床で
ウシガエルの鳴き声が聞こえた。

すると 突然 アイデアが浮かんだ!

「このカエルを使えば 安くできるぞ」。

すぐさま 捕まえて
きれいに洗い 圧力釜に入れた。

ウシガエルが大爆発。
部屋中に 中身が飛び散った。

その後も
順調に事業をおこした百福だが

41歳の時に またもや…

今度は 信用組合の理事長に
なってほしいと頼まれ 就任した百福。

持ち前のチャレンジ精神が災いし
どんどん お金を貸してしまう。

債権が焦げ付き 次第に経営は悪化。

僅か5年で 破綻してしまった。

全財産を失った百福。
それでも 前を向いていた。

本当の挑戦は ここから始まる。

さあ ということで
47歳までの人生を見てきましたが

最初のVTRで 47までいくって
あんまりなかったんで…。   (山瀬)ねっ。

すごい びっくりしましたけどね。
(山瀬)もう 47になって

ちょっと 慌てちゃうんですけど。

ご存じでしたか? 安藤百福さん…。

あの カップラーメンを発明された方ということで
名前は存じてましたが

いろんなことがある人なんですね。
こんな波乱万丈だったとは。

起業家としては どう見られてますか?

起業家としては 私
典型的な創業経営者だと思いますね。

アイデアが いっぱいあって

もう いろんな事業に
こう 手をつけていくわけなんですけど

やはり 食べるのが
大変な時代だったんで

私はね ほんとに稼ぐことに
貪欲だったんだと思いますね。

陳さんは 百福と同じく
食に携わる仕事をされてますけど

どういうイメージですか?
いや~ 普通の人だったら

こんなに やっぱ やらないですよね。

やって 一個 成功すれば
それを守ろうとするよね。

でも この人 全然違うわけでしょ…

言い切りましたね。
じゃないと 無理ですよ。

それでは 最初のプロファイルテーマに
いきたいと思います。

山瀬さん どうですか?
リストの中で気になるものはありますか?

(山瀬)この 「何か
人の役に立つことはないか」。
おっ。

(山瀬)この一文
とてもきれいな一文だけど

キーワードは
「何かないか」なんですよ 多分。

いつも 何かないか 何かないかって
何か 新しいものも好きだし

新しいもの見たら
何か やらなきゃ気が済まないし

だから 何か 一つの事業を
手がけていても

もう 次に見えたら その先 その先って
どんどん どんどん

展開していくような方だったんじゃ
ないかなって。

その 両親がね 小さい頃に
他界してたりっていうことで

やはり 生活の安定ってものに対して

すごく苦労された方だと
思うんですよね。

ですから この 何かないかではなくてね…

…ということなんじゃないかなと
私は思ってます。

起業家は やはり 利益を追求したり

その もうけるっていうことに対して
貪欲なのは悪いことではないんですよね。

真逆な感じですけどね もうけ話と
人の役に立つこと… 何かね。   (笑い声)

陳さん どうですか?
リストの中で 気になるものは。

僕はね この
「しょせん 人間は動物ではないか

飢えれば豚になる」と
これが このキーワードだなと 僕は思ってる。

この経験は 大きいですよね。
(陳)これ 普通できないですから。

普通 皆さんね 刑務所入るっつったって
入れないんだから。

この経験っていうのはね
すごい 僕は大きいと思うんだよね。

ここで やっぱり その当時っていうのは
その食に対して

みんな なかなか おいしいもん
いっぱい食べられないじゃないですか。

まあ インパクトの強いワードとして

「ウシガエルの大爆発」っていうのも
ありますけれども。

これ よく考えて下さいよ。
ウシガエルが 家の中で大爆発するんですよ。

奥さんだったら…。
何か そういう めちゃくちゃなことも

この人 面白いこと考えつくなあって

面白いなあって感じられる人じゃないと
この人の奥さんは できませんよね。

(陳)陰の功労者というのは

僕は 奥さんじゃないかなと
すごい思ってるんだけど

うちの父をね 連想すると
そうなるから。

うちの父も
すごく有名になったんだけども

陰の力は うちの母ですから。

もう ほんとに これ100%
うちの母がいなかったら

うちの父も 僕も
ここまでなってないですよ。

星野さん リストの中で気になるのは?

(星野)リストの中で 「失ったのは
財産だけ」っていうのありましたっけ?

「失ったのは 財産だけではないか」。

(星野)これ 典型的な…

負け惜しみ。
そう。 やっぱり 起業家っていうのはね

どれだけ もうけたかが
まあ 自分の評価ですからね。

失敗して もういいやって
思ってるわけではないってこと…。

やっぱり 基本的に
楽観的な人だったと思うんですよ。

ちょっといいアイデアを
持ってる人がいると

どんどん お金貸しちゃったりとかですね。
僕は 敗戦して沈んでいく気の中

どうしたら みんなが
活気になるんだろうっていうことを

一個一個 こう 起業家として
埋めていけるものを探してたのかなって。

だから やることも 一個だけじゃなくて

これもできる あれもできる
あれもできる やってしまえ みたいな

こう まだ乗りがあったのかな
というか

何か そういうバイタリティーが
ちょっと感じる… ますけどね…。

1956年 経済白書に
「もはや 戦後ではない」と書かれ

日本は 目覚ましい発展を始めていた。

しかし 百福は この上昇気流に
全く乗ることができなかった。

なぜなら 信用組合の破綻で
全財産を失っていたからだ。

当時のことを 百福の息子
安藤宏基は よく覚えている。

これからの時代に
人々は 何を求めるのか?

その時 脳裏に ある光景がよみがえった。

それは 戦後の…

温かいラーメンを食べるために

たくさんの人々が
寒さに震えながら作る行列だった。

(百福)「家で手軽に
食べることができるラーメンは売れる」。

マーケティングなどの裏付けがない時代
直感だったが 百福は この商品に懸けた。

横浜にある 安藤百福の記念館。

ここには 百福が研究のため

自宅の庭に建てた小屋が
忠実に再現されている。

簡素な小屋に 毎日 籠もった百福は
こんなふうに考えていた。

百福の頭の中には 最初から
理想のラーメンの姿が浮かんでいたという。

それは…

お湯をかけるだけで
誰でも手軽に食べられるラーメンだ。

百福は これを実現するため
5つの目標を定めた。

まずは おいしくて飽きのこない
ラーメンの味の開発。

1度だけでなく 2度 3度と
商品を買ってもらうためには

誰もが おいしいと感じ
飽きのこないスープでなければ。

だが それが難しい。

味のヒントは 息子の宏基。

実は 宏基は…

宏基が小学生の時 飼っていた鶏を
母が絞めて 食料にしようとした。

ところが 鶏が暴れ その姿が
トラウマになってしまったのだ。

しかし 鶏ガラスープのラーメンは
おいしそうに食べた。

[ 心の声 ] 鶏肉が苦手でも
スープは大好きなのか…。 これだ!

こうして ラーメンの味は
チキンベースに決まった。

次は…

百福は お湯をかけるだけで
麺もスープも完成することに こだわった。

そのため 麺とスープの粉末が
別々ではなく

百福が考えたのは あらかじめ…

だが 百福は
ラーメン作りは 全くの素人。

開発の足取りは
おぼつかなかった。

まずは 小麦粉の中に
スープを練り込んでみた。

しかし 麺は ボソボソに切れてしまう。

次に 麺を蒸して スープにつけてみた。

すると 今度は 麺が…

このころの百福は
朝5時に起きて 小屋に籠もり

夜中の1時 2時まで研究に没頭した。

当時の心境をつづったメモが残っている。

麺に スープの味を染み込ませる。

この問題の答えは 家にある…

ジョウロで 麺にスープを振りかけると

均一に 麺の表面に
染み込ませることができた。

お湯をかけるだけで
麺とスープの両方が出来上がる。

理想のラーメンに また一歩 前進した。

当時 百福は 朝から晩まで研究に没頭。
安藤家の生活は苦しかった。

それでも家族は 百福を信じていた。

ある日 妻の仁子は
友人に こう尋ねられた。

当時 ラーメンは
失業者が 仕方なく始める屋台。

そんなイメージが 根強かった。

しかし 仁子は こう返した。

次の課題は…

冷蔵庫が それほど
普及していなかった当時

常温で 日もちのする食べ物を求める人が
大勢いると 百福は考えた。

長く保存するためには 麺の水分を抜いて
乾燥させることが必要だ。

開発を始めて1年がたった ある日。

ヒントは やはり家庭にあった。

台所で 妻の仁子が
てんぷらを揚げていた時のことだ。

鍋をよく見ると 小麦粉の衣が
油の中で 泡を立てている。

百福は 麺を油の中に入れてみた。

すると シューッと音を立てて
浮かび上がってくる。

麺の中の水分が 熱で蒸発し
泡となって 外に出てくる音だった。

揚げた麺の断面を 顕微鏡で見てみると

麺の中の水分が抜け
無数の穴があいていた。

その麺に熱湯を注げば
穴から お湯が吸収され

麺が 軟らかい状態で
復元するというわけだ。

揚げたことで
麺は完全に乾燥した状態になり

日もちがするようになった。

そればかりか 衛生面でも
非常に有効だということが分かった。

最後は…

百福は 完成した商品の値段を…

1958年 8月25日。

ついに 百福の
インスタントラーメンが発売される。

喫茶店のコーヒーが
1杯 およそ50円の時代。

35円のインスタントラーメンは
手軽な常備食として 人気を博した。

「お湯をかけるだけの 魔法のラーメン」
と言われ 大ヒット商品に成長する。

安藤百福 48歳の時だった。

さあ ということで
2つ目のVTRは たった1年間でしたね。

まあ 濃厚な1年を
見させて頂きましたけども

こちらに
インスタントラーメンをご用意しました。

早速 いただきましょう。
いただきます。

やっぱ 何か 安心する味ですよね。
安心するというか…。

どうですか? このラーメン
料理人としてみると。

(陳)これは だから 万人に合う味。

やっぱ 駄目だっていう人も
いらっしゃるんだけど

全体的 相対的に見れば
支持される味ですよ。

だから 僕は
これだけ続くと思うんだよね。

当時 高度経済成長期で
地方から上京した1人暮らしの方とか

忙しい生活の中 ぴったしですよね。
増えた時代だったので

簡単に食べられて
保存性のあるインスタントラーメンは重宝されたと。

(山瀬)これ ここにきて
あれじゃないですか。

「人の役に立ちたい」が
生きてきてるっていうか…。

料理できないね 一人の学生さんでも

すぐに ごはんを食べて
おなか いっぱいになれる。

または 主婦の方とか この当時

この一食の登場で 少し
自分の時間ができたかもしれないし。

だいぶ楽になりますもんね。
お湯 注ぐだけで…。

だから この人は発明家なんですよ。
企業の偉い人ではなく 一発明家。

レストランで作ってるラーメンと…

それは もう
どっちが おいしいかっていう競争を

やっぱり避けたと思うんですよね。

ですから もう これの
すばらしさっていうのは やはり

お湯をかけるだけの…

この割り切りが その
マーケターといいますかね

事業家としての
すごさだと思っていて。

普通 おいしいラーメン作りたいって
なりますよね。

これ やっぱ プロの観点からは
そうなるんだけど

彼 素人だから。 逆にね
こんなこと言っちゃいけないんだけど

素人の方が 意外とすごいこと考えるのよ。
それは そうですよね。

(陳)プロは 分かっちゃってるから
その内容を。

そっから始めるんだけど
素人さん 違うから

だから 逆に すごいことをね
こう バッて こう出せるのも

やっぱ 素人なのよ 実を言うと。

家族は どう思っていたと思いますか?
無一文の時の家族。

やっぱり お父さんのことを
尊敬していたと思うんだよね 僕はね。

尊敬。 うん 一生懸命やる父だから
陰ながら 背中見てるわけよ。

いいかげんなことを
してる方じゃないから。

だから 恐らく
あの奥様にしろ ご子息たちも

みんな見てるから その姿を…
努力してる。

だから 何だよっていうんじゃないと
僕は思う。

その姿を見せてるから…

(笑い声)
強いですよね 奥さん。

私だったら 多分
「出来るまで出てくんな」って言って

多分 小屋 外から鍵かけますよ。
(笑い声)

ものすごく 事業家として
認められてた時代が

47歳にまでなって失った時の やっぱり

強烈な悔しさがあったっていうのは
そう思うんですね。

まあ それが 何か
もう一つ事業を立ち上げて

成功させるんだっていう
ものすごく強い あの執念というか

本人が こう 駆り立てられていったんじゃ
ないかなってふうに ちょっと思いますね。

保存ができて 長くって それが
ラーメンができたら最高だなっていう

漠然としてるけど 最高を こう
求めだしたのかなっていうのもあって。

これは 必ず広まるっていう
何か 経営者としてのビジョンが

普通のラーメン屋とか 料理人ではないビジョンが
先に あったんだろうなっていう。

現在 世界80か国以上で
販売されているカップラーメン。

百福が これを発明したのは
61歳の時だった。

百福が 51歳の時
会社は 急成長を遂げていた。

この年 インスタントラーメンの生産量は
年間で 5億5, 000万食。

翌年には 10億食

その翌年には 20億食を超える。

あっという間に 日本の食卓に広がった
インスタントラーメン。

あまりにも普及したため
売り上げは 頭打ちになった。

そこで百福は 新たな販路を開拓しようと
欧米視察に旅立った。

56歳の時だ。

アメリカで 商談に臨んだ時のこと。

地元のバイヤーに まずは インスタントラーメンを
食べてほしいと頼んだ。

すると…

彼女は 麺を2つに割って
紙コップに入れ

そこに お湯を注ぎ フォークで食べ始めた。

「欧米の人は 箸と丼で食事をしない」
という 当たり前のことに

初めて気付かされた。

驚いたのは これだけではなかった。

街中ではハンバーガーやフライドチキンを
食べながら歩く人が大勢いた。

世界にラーメンを広げるため 超えるべきもの。
それは…

帰ると早速 社員と共に海外でも売れる
新たな食べ物の開発を始めた。

コンセプトは 片手でカップを持ち
どこでも立ったままで食べられるラーメンだ。

この開発で 一番の難題は
カップの中間に麺を固定する方法だった。

輸送中に麺が崩れることを防ぐ
アイデアだったが

当時の技術では 中間に
うまく収めることができなかった。

悩み続けたが 解決策は
やはり 何気ない生活の中にあった。

ある晩 百福が 布団に横たわっていると
めまいのような症状に襲われた。

天井が ひっくり返ったような感覚に
陥った。

その時…。

[ 心の声 ] そうだ
カップに麺を入れるんじゃなくて

麺に カップをかぶせて
ひっくり返せばいいんだ!

この方法で 麺を容器の中間に
うまく収められるようになったのだ。

百福は この新商品には 初めて
具材を入れることにした。

中でも こだわったのが エビだ。

世界中から さまざまなエビを取り寄せ

発色の良いものを選んで…

実は このアイデアは 試作品を食べた
女性の ひと言から浮かんだという。

1971年 百福は お湯さえあれば
どこでも食べられる新商品

カップラーメンを発表。

しかし 記者の反応は意外に悪く
冷ややかな意見が目立った。

「立ったまま
食べるとは…」

それでも 百福には確信があった。

発売から2か月後 百福は
カップラーメンの宣伝を兼ねた販売を行った。

店を出したのは 東京・銀座。

当時 始まったばかりの
歩行者天国の路上だ。

そこには 長髪にジーンズ
ミニスカートといった

最先端の文化に敏感な…

最初は戸惑っていた若者たちだが

一人 また一人と食べ始めると
たちまち人だかりができた。

多い日で なんと1日…

1972年2月。

意外な出来事から カップラーメンの知名度は
全国的なものとなった。

長野県にある山荘に
連合赤軍のメンバー5人が

人質を取り 立て籠もった この事件。

テレビで生中継され
日本中が 固唾を飲んで見守っていた。

極寒の2月 取り囲む機動隊の隊員が
食べていたもの。

それが カップラーメンだった。
仕出し弁当も凍る寒さの中

お湯をかけて すぐに食べられるカップラーメンが
隊員たちの体を温めた。

これは テレビ中継に
何度も映し出されたという。

この時から カップラーメンは
火がついたように売れだし

一時 生産が追いつかなくなるほどだった。

1973年には アメリカでも発売され
人気商品となる。

欧米の文化の壁を超えるために開発した
カップラーメン。

日本人の食文化をも変える
大きな力を持っていた。

あさま山荘の時は
地元に いらっしゃった?

テレビは見てましたけども
でっかい あの鉄の球が

こう保養所に バンバン当たるところは
よく覚えてるんですけどね。

穴が あいたりなんかして。
軽井沢中部小学校の5年生だったんで

学校は もう 休みになりましたしね。
町の中は 厳戒態勢で。

さあ ということで。 続いてのテーマは…

星野さん どうですか?
リストの中で気になるものは。

そうですね まあ 「ラーメンを売るな
食文化を売れ」っていうのは

もう 今 そのマーケティングの理論に
また どんぴしゃりな表現で。

やはり 前の世代っていいますかね
古い世代の方々からは

なかなか受け入れてもらえない事実が
あったと思うんですよね。

で 若い人たちの方が
柔軟に受け入れてくれるっていうことを

やはり 直感的に感じたんだと
思うんですよね。

実感があったってことですか。
ええ。

欧米視察は どうですか?
やっぱり そこが大きかったんですかね。

(山瀬)そこ そこだと思うんです。

まあ 60前後のおじさんが
立ってハンバーガー食べてる人を見て

そこで こう 衝撃を受けられる
その柔軟な感覚っていうのが

一番すごいなあと思います。

半分に割って カップに入れて
お湯注いで フォークで食べるの見て

かっこいいと思ったんですかね。
これだってね。

どうなんですかね。
(山瀬)そこまで振り切らないと

インパクトはないじゃないですか。
せっかく新しいものを作っても

その中に 今までの丼で
箸みたいなものだったとしたら

そこに みんな
びっくりはしないだろうし。

何か もう きちんと
プロデュースされてるというか…。

「フォークじゃないと駄目だ」って
言ったんですかね。

(笑い声)
どうだったんだ…。

銀座という場所… 歩行者天国で

フォーク片手に
立ちながら何かを食べている。

でも すごく衝撃だと思うんですよね。
初めて 多分 見る光景。

なんて おしゃれなんだろう。 こんな…

こういうこともあるんだっていう 何か
こう 自分の中のスタイルの転換っていうか

きっと そのさまは 多分ファッション誌を
見るぐらいな感覚だったと思いますね。

陳さん リストの中で
気になるものはありますか?

これ 気になるの「エビ」でしょ。
エビ。 エビいきますか。

(陳)僕 いろんな世界の
いろんなとこ行くんだけど

エビはね 共通的に言えるのは
みんなね 高級感持ってるね。

エビに対しての その感覚っていうのは。

エビっていうと 皆さんね「おお エビ」って
結構 喜ぶ方が多いんですよ。

陳さんの お父さんも
エビチリの生みの親ですけども。

だから うちのおやじも考えたんですよ。
エビ 日本人好きだから。

で 味も
その四川にない味を出そうって。

実際のエビチリはですね
全然違うんですよ。

あの 干すエビって書いて
干すって 汁ないのよ。

ひき肉 入ってんのよ 普通。
(山瀬)へえ~。

豚の挽肉と エビと とうがらしで
できてんのが エビチリなの。

もう 皆さんが食べられる
味にしたっていうところも

その理由じゃないかなと
僕は 思うんだよね。

だから この百福さんっていうのは
このエビを こう

カップラーメンに入れたっていうのは
やっぱ すごいなあ。

こだわりって やっぱり大事ですか?
経営者のこだわり…。

こだわり… 大事ですね。

顧客の声を聞こうなんていうこと
よくやるんですけど。

その顧客の声は 競合他社にも
みんな いきますからね。

ですから 競合と自分が違うのは
どこなんだろうっていうと やっぱ…

そこが最終的には 差になっていくと
私は思ってますけどね。

やっぱり 何か
やり遂げる力なんだと思うんですよね。

ビジョンって どっかで ふと湧いたり

誰もが してるんじゃないか
もしかしてって

僕 ちょっと思ってるところがあって。

やりたいものって ちょっと見つかっても
時間がないから やらないとか。

あっ これいいかもなと思っても
大抵やらないんですよ 多分。

100人いたら99人 それを
突き詰めてやるって なかなかできなくて。

そういう こう 光るビジョンを見つけた時に
見逃さないで やりきる強さが

この人は あったのかなあと。
このギラッとした感じで

絶対 離さなかったんじゃないかな
というふうに思いますけどね。

1987年 経済の自由化を図る
改革開放政策が始まった中国を

76歳の百福は 訪れている。

目的は 「麺は どこで生まれ
伝わってきたのか?」を探る旅。

上海を手始めに
広州から四川省をまわり

北京・西安を経て
西域まで足をのばした。

麺の歴史を
自分の目と口で感じ取ろうと

延べ…

食に対する百福の情熱は
衰えることはなく 生涯現役だった。

一体 なぜだったのか?

カップラーメンの成功で
日本を代表する経営者となった百福。

1974年 食糧庁長官が
ある相談を持ちかけてきた。

戦後 日本人の食卓は急速に洋風化し
パンが普及。

米離れが進んで 古米と呼ばれる
余剰米があふれていた。

そこで カップラーメンで培った技術を利用して
米の消費を促してほしいのだという。

百福は 頼られると嫌と言えない。

お国のためならと 喜んで引き受けた。

1年間の研究の末に
「即席カップごはん」が完成。

新聞も 米の消費回復の救世主かのように
書きたてた。

成功を確信した百福は

会社の年間利益と同じ金額の
30億円を投じて生産ラインを新設した。

1975年 「即席カップごはん」を
いよいよ発売。

(テレビコマーシャル)「熱湯を注ぐだけで
おいしいごはんが スパッと作れます。

味付けは 自由自在」。

期待どおり 爆発的な売れ行きだった。

「今 カップライスで新登場」。

だが 僅か1か月で
小売店からの注文がピタッと止まった。

驚いた百福は
自らスーパーマーケットに出かけてみた。

そこで目にしたのは

一度は 商品を取っても
棚に戻していく お客の姿。

ラーメンとは需要が違う。

百福は カップラーメンの成功で…

己の未熟さを突きつけられた。

百福は 出血覚悟で撤退。 65歳だった。

その翌年 息子の宏基は カップうどん
カップ焼きそばと 大ヒット商品を生みだし

新時代を築いていた。

さすがの百福も
息子の手腕を認めざるをえなかった。

1985年 百福は 75歳で
社長の座を息子に譲り 会長になった。

ところが 会長となっても 百福は
誰よりも早く出社し 新製品は必ず試食。

商品の細かいところまで
直接 指示を出した。

社長の宏基にしてみれば
何とも扱いにくい会長だ。

経営方針を巡り
親子は 何度も激しく対立した。

その時 決まって百福は
こう言ったという。

このころ 百福は
己の仕事に対する考えを語っている。

食が足りないと 争いが絶えない。

そんな思いを込めて作った言葉だ。

1995年1月 阪神・淡路大震災が発生。

百福は すぐに被災者の支援に動いた。

即席麺100万食を 緊急輸送。

寒さが一番厳しい時期。

火が使えず 電気にも不自由する
避難所生活。

温かいラーメンは 笑顔を運んできた。

2001年 91歳になった百福は

21世紀に ふさわしいラーメンの開発を
思い立った。

目指したのは…

なんと 宇宙!

「宇宙で食べるラーメンの開発」という
壮大なものだった。

90歳を過ぎていたが
自ら開発の指揮を執った。

気圧が低い宇宙船内を考慮し
75℃のお湯で戻る 特殊な麺を開発。

無重力の空間で飛び散らないよう
スープには とろみをつけた。

こうして
4つの味の宇宙食ラーメンが完成。

2005年 スペースシャトル・ディスカバリー号と共に
百福のラーメンは 宇宙へ。

初めて 宇宙で ラーメンを食べた
野口聡一さんは

こんな感想を送ってきた。

この時 95歳。
成功を少年のように喜んだ。

その1年後…

百福は 急性心筋梗塞で死去。

食と共に生きた 96年の生涯を閉じた。

「百福は なぜ 生涯現役を貫いたのか」
山瀬さん どう思いますか?

まあ でも 息子に
社長の座を譲った瞬間。

もちろん もう自分の息子が大丈夫だって
踏んだのもあると思うけど

その前にちょっと自分が先を読み間違えた
瞬間って あったじゃないですか。

その時に 自分より
息子の方が頑張れている。

よし 自分は もう 先が
読めないかもしれないから 息子に譲ろう。

譲ったけど 結果 いろいろ湧いてきて
仕方がないっていうのが

まだ… まだ続いてたんではないかと。
止まらなかったですもんね。

こういう天才的な
創業経営者っていうのは

譲る気なんかないんです。

要するに 会社って こう自分で
1人で研究していた時から

10人になって 100人になって
だんだん大きくなるじゃないですか。

大きくなっていくって
工場も たくさん出てくると

そのリーダーシップや マネージメントの仕方も
実は 変えなきゃいけないんですよね。

息子さんは そこを きちっと把握して

新しいマネージメントになったんだと
思うんですよね。

ただ お父さん やめられないから

お父さんに 私は やることを与えたのが
麺ロードであり

そして
宇宙食ラーメンだったんじゃないかなと。

(陳)全く 俺も そう思う。
(星野)お父様も 何となく こう

常に自分の事業欲を満たしながら

会社の方は 新しい
マネージメントスタイルに移行していく。

宇宙食ラーメンていうのは 宇宙飛行士にしか
ニーズがないわけですから。

ほんとだ。
ほんとに そうだよね。

宇宙飛行士にしか売れない
ラーメンですよ。

それを許した息子さん

だけど その父… お父さん…
百福さんが考えたものが 日本を制し

それが 飛び出て世界を制し
そして 宇宙まで行くって

なんてロマンあふれることだろうって。

「食足世平」という こう…。
(陳)いい言葉だねえ。

(山瀬)いい言葉。 すっごい分かる。
オリジナルの言葉なんですよね。

(陳)いや これ この言葉 すてきだね。

やっぱり 前あった… ほら
一番最初に出てきたじゃないですか。

人間は その 何だ… 飢えてね
豚になるっていうのあるじゃない?

やっぱ そこに原点があるよね。
やっぱ おいしいもん食べて

怒る人いないし… いうところだと
思うんですよね。

だから やっぱり その食が満たされる
ということは平和にもつながるわけだし。

すばらしい言葉だと思うね。

ということで 今日は
安藤百福の生涯を見てきましたが。

天才の起業家 創業経営者なんですよね。

すごく周りの人が こういろいろサポートして
完結した96年というね

すばらしい経営者人生だったと
思うんですけども

私も事業家であり 経営者なんですけど

やっぱ 経営者っていうのは
どっかで引かなくてはいけない

どんなに功績があった人でもですね

ですから そこを
考えさせられるってことが

すごく大事なんだなというふうに
感じました。

いや~ この人すごい人。
そんな簡単に出る人じゃないですよ。

僕は 一番偉いのは その奥さんだと…。
僕の感想から言うとね。

一番 たたえなきゃいけないのは
陰で支えてくれた奥さんだと思います。

何か 今日見た 安藤百福さんに
タイトルを付けるとしたら…

何か 自分には行動力みたいなものが
少し乏しくて。

でも 人って 普通 その安定に
あぐらをかくというか…。

でも この方の生き方 見ると…

…に感じなきゃいけないこと
なのかなって

何か 今日 ちょっと思ったから
これからの自分の人生に

ちょいと ヒントにしていきたいなって
思います。

やっぱ もうけることが
人のためにもなるし

利益を生むことが
人が求めていることだという

商売人の気質でやってきたんだと
思うんですけど

だんだん やっぱり これだけ こう

国のためならとかっていうほどの
企業になってくると

人々の生活を守っていくっていう気に
なっていくんだろうなと思うんですよ。

そうなった時に きっと 何か
人類の食文化っていうことまで

きっと 何か ご本人は考えるように
自然となってたんじゃないのかな。

何か まだ できるはずだって。

何か大きな気概を感じてたんだろうなとは
すごく思いますけどね。

今日は 皆さん ありがとうございました。


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