アナザーストーリーズ 運命の分岐点・選「外国人から見た3.11」 2011年3月11日、日本のために行動した多くの外国人…


出典:『アナザーストーリーズ 運命の分岐点・選「外国人から見た3.11」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ 運命の分岐点・選「外国人から見た3.11」[字]


2011年3月11日、日本のために行動した多くの外国人がいた。アメリカ軍にあって空母で被災地に向かった艦長、原発に肉薄したジャーナリストなどの知られざる物語。


詳細情報

番組内容

2011年3月11日、日本のために行動した多くの外国人たちの知られざる物語。東日本大震災で、海外から支援してくれた国と地域は128。それを支えた個人の決断とは?アメリカ軍による救援作戦「オペレーション・トモダチ」は、空母の艦長のある決断から始まっていた。さらに世界に正しい情報を伝えようと福島第一原発に肉薄したジャーナリストや台湾で募金を呼びかけた少女…。彼らの背中を押した思いとは?

出演者

【司会】沢尻エリカ,【語り】濱田岳




『アナザーストーリーズ 運命の分岐点・選「外国人から見た3.11」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

アナザーストーリーズ 運命の分岐点・選「外国人から見た3.11」
  1. 日本
  2. マクニール
  3. 被災地
  4. 空母
  5. 募金
  6. 原発
  7. 自分
  8. 判断
  9. バーク
  10. 決断
  11. 地域
  12. 世界
  13. 記事
  14. 支援
  15. 情報
  16. 状況
  17. 震災
  18. 台湾
  19. 安全
  20. 海兵隊


『アナザーストーリーズ 運命の分岐点・選「外国人から見た3.11」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。

↓NHK関連商品

日本人誰もが
忘れる事のできない あの日。

救援と復旧に奔走したのは
日本人だけではない。

翌日には早くも 世界各国の
救援隊が日本に到着していた。

それは海外にあって
あの時 即座に行動した人が

どれほど多かったかを物語る。

(一同)Pray for Japan!

なぜ これほど迅速な支援の輪が
世界に広がったのか?

その陰には 組織を超えた

一人一人の驚きの決断があった。

私の判断で 予定を変更し…

ある者は 膨大な救援物資を運び

ある者は 命懸けで ニュースを報じ

ある者は ささやかな善意を
呼びかけた。

世界が見た もう一つの 3.11。

外国人たちの知られざる物語。

♬~

3.11 東日本大震災。

あの時 世界が どう動いたかを
皆さんは ご存じでしょうか。

日本の窮地に
手を差し伸べてくれた

国や地域は 実に…

海を越えて 駆けつけた救援隊。

そして 次々に届いた 膨大な物資。

その動きは 一体どのように始まり
広がっていったのか。

運命の分岐点は…

世界中が
固唾をのんで見つめた あの日。

アイルランドの ジャーナリストは

危険を顧みず
現地取材を決意します。

台湾では 震災のニュースに
涙した少女が

自分に できる事を
探し始めます。

そして 第1の視点は…。

アメリカ海軍の…

彼が単独で下した決断は やがて

「オペレーション・トモダチ」
と呼ばれる

米軍あげての
救援作戦に

つながります。

たたき上げの
軍人が語る

決断の アナザーストーリー。

(サイレン)

幾多の命を奪った あの津波は

その後の復旧活動をも
困難なものにした。

仙台空港は水没。

空からの救援活動は
大きな制約を受ける。

だが…

仙台沖に アメリカ軍の
巨大空母が

突如 出現した。

これを機に 本格的に始まった
救援オペレーション…

最大時…

そして 189の航空機が投入され

ライフラインが途絶えた地域に
物資を運び続けた。

誰もが この先どうなるのか

まるで見当もつかないまま
途方に暮れていた

あの数週間。

それを思うと
はるか遠い海域にいた艦隊が

地震後 僅か40時間で
駆けつけた事は

奇跡としか言いようがない。

その裏には 驚きの物語がある。

奇跡を演出したのは
空母の艦長 トム・バークだ。

状況は 一刻を争っていました。

だから私は
あの決断を下しました。

軍としては
通常ありえない事でしたが。

巨大救援作戦。

男の おきて破りの決断とは?

実は 3.11当日

在日米軍は 極めて動きが
とりにくい状況にあった。

日本付近に展開する
海軍の主力空母 ジョージ・ワシントンは

母港 横須賀で修理中。

海軍とは別組織で 非常事態への
対応能力が高い海兵隊の主力は

およそ 5, 000キロ離れた国々に
散らばっていた。

海兵隊司令官 アンドリュー・マクマニスは

震災の第一報を聞いた瞬間を
こう振り返る。

災害支援は 最初の数日が勝負。

過去の経験から
それは よく分かっていました。

だから 3月11日に
震災の第一報が入った時は

すぐにでも
日本に向かいたかったんです。

だが 3か所に散らばった部隊を
集合させ

出発するには
最低でも3日は かかる。

それでは 災害救助の
タイムリミットと言われる

「発生後 72時間」に
間に合わない。

このまま 手を
こまねいているしかないのか。

そんな時 遠く西太平洋に
1つの艦隊がいた。

行き先は 朝鮮半島。

空母 ロナルド・レーガンをはじめとする
アメリカ海軍第七艦隊。

韓国軍との合同軍事演習という
重大な ミッションが課されていた。

しかし 震災発生の直後。

空母の艦長が 驚きの指令を下す。

この決断に隠された
意外な事実を

今回 バークが初めて
カメラの前で語った。

日本で大震災が起きた事を
知った私は

すぐに 空母の行き先を
韓国から日本に変えました。

ほんの少し 船の向きを
変えたわけです。

私の現場判断でした。
軍では普通ありえません。

正しい判断か 間違った判断かを
とっさに考えました。

さまざまなリスクは ありましたが

日本に向かう事が正しい判断だと
決意しました。

バークは 高度に政治的・軍事的判断で
決められている空母の進路を

独断で変更すると決めた。

万一 その間に
不測の事態が起きれば

責任を問われる。

それも覚悟しての行動だった。

バークは 上官であり艦隊全体の
司令官である ロバート・ギリアに

すぐに その判断を伝えている。

私も バーク艦長の決断に
賛成しました。

すぐに
第七艦隊の司令部に報告し

正式な ミッションとして
許しを得たのです。

我々は直ちに
仙台沖へ急行しました。

日本政府からの正式な救援要請が
届いたのは そのあとでした。

バークは 日本に2年間
駐在した事もある。

友人が多かった事も 決断を
後押ししたのかもしれない。

私は 震災の1年ほど前まで
横須賀にいたんです。

日本で人々が 救いを求めている時
すぐに助けに行くというのは

ごく自然な判断でした。

だが 日本に向かい始めた翌日

バークたちの緊張を
一気に高める知らせが入る。

それが どれほどの危機を
意味するのか

判断できる情報は得られない。

だが2人は 仙台に向かい続けた。

仙台は 福島第一原発から 90キロ。

十分な距離があるという判断。

そして もう一つ理由があった。

我々の空母は 原子力で動く
原子力空母です。

だから当然 放射線の専門家たちが
乗っています。

経験と知識を兼ね備えた
優秀な スタッフぞろいです。

どこまでが安全で
どこからが危険かを

我々は正確に把握する
自信がありました。

そこで撮られた写真だ。

この光景に 誰もが言葉を失った。

衝撃的でした。

水面に木材や がれきが
散乱していて

家一軒が丸ごと
流されていました。

本当に信じられませんでした。

私たちは 誰か生存者がいないか
探しました。

しかし どんなに捜索しても
残念ながら

一人の生存者も
見つかりませんでした。

全く土地勘のない この場所で
自分たちに何ができるのか?

アメリカ軍は 自衛隊災害派遣部隊との
作戦会議に臨む。

そこで知らされたのは 想像以上に
広がっている津波の傷痕と

ライフラインが寸断され 一刻の猶予も
ない地域が数多くある事。

この時 高速道路をはじめ
内陸の道路は各所で分断。

仙台空港も 津波で水没。

大量輸送の手段が なかった。

そんな中
海の上の動く基地として

圧倒的な物資輸送能力を持つ
空母に期待が かけられた。

まず私は自衛隊に 我々が ここで
何ができるかを説明しました。

どんな装備があるか

ヘリなら何ができて
飛行機なら何ができるか。

「さあ 何をすればいい?」。

自衛隊の要望は こうでした。

孤立した被災地の全てには
自衛隊の手が回らない。

そういう地域に
水や食糧などを運んでほしい。

そこから自衛隊と役割を分担して
作戦が スタートしたんです。

支援物資の輸送は 一刻を争う。

自衛隊とアメリカ軍で 担当地域を
分担する事が決まった。

アメリカ軍が
カバーする事になったのは

仙台から北 青森までに またがる
東北北部だ。

活動は 直ちに始まった。

まず 彼らが行ったのは

担当地域の地形を
つぶさに調べる事。

道路は つながっているか。
海から接岸は可能か。

どの地域が孤立しているのか。

これが 各地区の状況を
分析した画像です。

空からの観察で
簡単な地図が作られた。

崩れた桟橋や
打ち上げられた船など

特徴的な目印を書き込み

全員で地形を共有する。

そして 孤立地域を洗い出し
ヘリコプターで聞き取りに飛んだ。

やさしい日本語と
英語を併記した質問用紙を作成。

身振り手振りも交えて
話を聞いて回った。

場所によって
必要な物資は違います。

ある地区では 水が必要ですが

別の地区は おむつが
必要だったりします。

そうした状況を考えながら

それぞれの場所に 何を運ぶかを
決めていったのです。

空母には 3, 000人が数か月
暮らせるだけの

水と食糧が備蓄されている。

それに加えて 各地から届く
防寒用の毛布や衣類を

24時間態勢で届けていった。

それは まさに

途絶えかけた ライフラインを
ギリギリで つなぎ続ける

必死の輸送作戦だった。

だが…。

放射能への不安から 各国政府は

日本に住む自国民に
国外退去を呼びかけ始める。

その不安は 「トモダチ作戦」に従事する
将兵の間にも広がった。

放射線量は 常に計測していたが

心の底の不安は拭い去れない。

その時 艦長のバークが
異例の行動に出た。

かつて ヘリコプターの
名パイロットとして鳴らしたバーク。

指揮官自ら空母を離れ
救援活動の最前線へ。

そこには ある ねらいがあった。

放射能汚染への不安が
広がっていました。

でも 我々は常に専門家と
安全を確認していました。

だから 私の姿勢を
兵士たちに見せる事で

恐れる事はない 現場は安全なのだ
と伝えたかったんです。

その効果は あったと思いますね。

被災地を 直接この目で見る事に
意味があると思いました。

そして バークは艦内放送を使って
この作戦の意義を

繰り返し 繰り返し
兵士に語りかけた。

こうした中で 全員の士気が
どんどん高まっていったのが

よく分かりました。

上からの命令ではなく
ある兵士の呼びかけで

被災地に送る衣服や
物資があったら

みんなで出し合おうという
ボランティアが始まったのです。

多くの寄付金も集まりました。

私も 良いリーダーの仕事は
命令で人を動かすよりも

その背中を押して ベストの力を
引き出す事だと学びました。

震災発生から2週間。

空母の力をもってなお 孤立を
解消できない場所があった。

震災時 この島の
2か所を津波が横断し

島内は3つに分断された。

道路は がれきで寸断され
使えない。

港も破壊され がれきを
除去するための重機も運べない。

米軍では ある部隊の到着を
待ちわびていた。

海から接近し 敵地に上陸して
戦うために編成された海兵隊だ。

水陸両用車など
独特の機材を備え

トラックや重機を運べる
特殊な船もある。

だが
その到着は遅れていた。

彼らは 最短距離の
太平洋側ではなく

日本海側を回れと上層部から
指示を受けていたからだ。

というのが公式の説明だが…。

現場司令官だった マクマニスは
こう語る。

上から 日本海を通るよう
命じられた理由は

逃げてくる被災者のため
ではなく

我々を フクシマから
遠ざけるためだったと思います。

あの時 原発事故で放出された
放射性物質は

東に流されていました。

海兵隊は大きく迂回し
日本海側を進んだ。

3月18日に秋田

20日に津軽海峡を通過して

太平洋側へ。

そして震災から
16日後の…

すぐさま
大型車両を島に上げた。

運ばれた電源車によって
16日ぶりに明かりが ともった。

島の復旧には ブルドーザーなどの
重機が不可欠でした。

でも そんな大きな物を海から
運び込める船が なかったんです。

それを持っていたのは
我々 海兵隊だけでした。

あの時 島の人々は

何週間も つらい避難生活に
耐えていました。

日本海ルートで時間が かかり

我々の到着が遅れた事は
残念です。

そこから復旧は 一気に進む。

島を分断していた がれきを撤去。

10日間の突貫作業で
道路を整備し

陸からの救援を可能にした。

ようやく住民たちに 戻った笑顔。

だが マクマニスには

到着が遅れた事に加えて
もう一つ 心残りがあるという。

実は 島に入ってからの
海兵隊の活動は

命令によって
大きく制限されていました。

我々が持つ装備のうち 被災地で
使っていいと許可されたのは

全体の 10%程度に
すぎなかったのです。

今でも その理由は
判然としませんが

部隊の力を全て出しきれば
もっと役立てたはずだと思うと

心残りでなりません。

なぜ 使う装備が制限されたのか?

上層部からは
複数の理由を説明されたが

マクマニスは 今も納得していない。

そして
作戦の陰で起きた事が もう一つ。

参加していた兵士の一部が

この作戦で 被ばくしたと

訴訟を起こした。

艦長のバークは それを
どう受け止めているのか?

訴訟の事について
コメントする事はできません。

ただ 空母には精密な
放射線量の測定装置があり

乗組員の安全のために
常に監視していた事。

また その装置では
微量な放射線しか

検出されていなかった事は
言っておきたいと思います。

空母 ロナルド・レーガンは
活動を終えた。

次に向かった先は ペルシャ湾。

ビンラディンを指導者とする
アルカイダ掃討作戦に投入された。

延べ50日に及んだ 「トモダチ作戦」で
米軍が運んだ物資は…

…と発表されている。

1人の決断から始まった
「トモダチ作戦」。

時を同じくして 世界各地でも

日本に向けた さまざまな支援が
始まっていました。

その裏には 日本の窮状を正確に
海外に伝え続けた

外国人ジャーナリストたちの力が
ありました。

ご覧下さい
この記事。

日本のマスコミも 正確な情報を
集めるのに四苦八苦する中

そのジャーナリストは…

福島第一原発から
僅か2キロの距離まで肉薄。

原発周辺に取り残された
人々の声は もちろん

被害の実態を客観的に伝えました。

これを書いた男が 第2の視点。

アイルランドの新聞社の特派員…

福島原発の
至近距離に迫った男。

覚悟の アナザーストーリー。

3.11当日

デイヴィッド・マクニールは
妻 奈々子とともに

自宅のある東京にいた。

妻の おなかには
7か月になる赤ちゃん。

だが その時
マクニールは迷わず妻を残し

車で被災地に向かった。

今 自分にしか できない事がある。

マクニールが東京を出発したのは
震災の翌日。

しかし…。

そして 首都圏の大渋滞を
ようやく抜けた時

あの一報を ラジオで聞いた。

この時点では 爆発が
どれだけ深刻なものなのか

詳しい情報は全くなかった。

政府の判断も揺れ動く。

午後5時39分には

原発の半径 10キロ圏内の人々に
避難を指示。

だが 僅か46分後に撤回し

避難指示の範囲を
20キロ圏内に拡大した。

そんな中 マクニールが深夜になって
たどりついたのは

福島・いわき。

避難指示が出た地域の すぐ隣だ。

避難所に飛び込むと
身を寄せた人々は

いつ爆発するかもしれない
原発の恐怖を 口々に語った。

その声を聞き マクニールが母国に
発信した最初の記事が これだ。

マクニールは
更に現地の声を伝えようと

各地の避難所を回る。

しかし…。

この時 マクニールは判断を迫られた。

事態が切迫する中 伝えなければ
ならない事は無数にある。

だが 身重の妻を
このままにはできない。

私の…

その時 妻は
おなかの子供と同時に

被災地を取材する夫を案じていた。

デイヴィッドは とにかく
私の安全を確保しないと

自分も記事 取材の集中が
できないという事で

その時点は泣きながら
しかも 押し込まれて

「行きたくない!」って言いながら
私は新幹線に乗って

大阪に行きました。 1人で。

3月16日には フランスが
首都圏に住む自国民に対し

日本国外への退去を勧告。

イギリスや オーストラリアなども
その動きに追随した。

空港には 日本を離れようとする
外国人が押し寄せた。

原発が怖いから逃げるんだ。

原発は大丈夫だと思いますが
子供のために帰国します。

マクニールは
日本在住のジャーナリストとして

どう行動すべきかを
必死に模索していた。

そして
決断の決め手になったのは

イギリスの大衆紙に載った
こんな記事だった。

「東京の放射線レベルは
通常の 10倍らしい」。

「ガソリンも 水も 食料もなく
飢えている」。

今は世界が日本を どう支援するか
考えねばならない時なのに

根も葉もない情報が 氾濫すれば

本当に必要な事が
分からなくなってしまう。

この状況を変えられるのは
外国人である自分しかいない。

マクニールは 原発の様子を
自分の目で確かめ

客観的な事実だけを
世界に伝えようと決意する。

その決意を
大阪にいる妻に伝えると

返ってきた答えは…。

応援もしてました。
じゃあ 奈々子

ちょっと調べるの手伝ってよ
っていう感じで

だんだん そこから
電話をして調べたりとか

それを デイヴィッドと一緒に
記事にする事だったら

今できる事だっていう事で じゃあ
一緒にしようねって言って

それを したんですね。

そして マクニールは福島に向かった。

とにかく行ける所まで
原発に近づき

何が起きているかを確かめる。

避難指示が出された
20キロ圏内に入ると

ものものしい空気に包まれた。

マクニールは
車を更に進め…

原発の門の前まで たどりつく。

そこで撮影したのが この一枚だ。

大きく ひび割れた壁。

被害の すさまじさを
物語っている。

その直後 原発の作業員に
立ち退くよう言われ

これ以上の撮影は できなかった。

マクニールは このあと数時間
更に周辺を取材する。

そして 一つの記事を書き上げた。

タイトルは…

記事の冒頭には 原発から
僅か2キロの地点で出会った

親子の言葉を記した。

更に マクニールの取材は

原発から 20キロ以上離れた
地域にも及んでいた。

そこにも 困窮した人が…。

例えば 南相馬市。

政府からの指示に混乱していた。

この地域を対象に 政府からは
こんな指示が打ち出されていた。

「福島第一原子力発電所周辺の…」

「地元市町村におかれては

住民の皆さんの 『自主避難』を
促進していただくとともに

国 県と密接な連携を図り

適切に対応を お願いいたします」。

つまり 避難するかどうか

自分の責任で
決めてほしいというのだ。

一体 何が起き

いつまで続くのかも
分からないというのに。

マクニールは 当時の市長の怒りの声を
伝えている。

市長は 「住民が自主的に判断して
避難してほしいと言われても

当の政府や東京電力から
全く情報が来ない」と訴えた。

マクニールは 政府の
「自主避難」の方針を

厳しく批判した。

根拠のない風説や データが
乱れ飛ぶ中

原発の周辺を幅広く観察し

冷静に事実を まとめた
この報道は

世界に向けた貴重な情報となった。

こうした記事は
思わぬ反響を もたらした。

間もなく市長のもとに

不思議な電話が
舞い込むようになったのだ。

マルセ-ユから
電話が かかってきたり

アメリカの アトランタから
電話が かかってきたり。

南相馬支援のために
イベントやってると。

どこに どういうふうにして
お金 送ればいいんだ みたいな

そういう電話も
かかってきましたから。

そうですね。
そこは間違いないと思いますね。

本来であれば 日本のマスコミも
現場に来てもらって

私らの現状を 伝えてもらえれば

ここに本来 支援してくれるボランティア
もっと多かったと思うんだけど

最初なんか ボランティア
全く来なかったので

どうなってんだろうという思いが
ありましたけれども

外国人ジャーナリストたちが 現場に
行かなきゃ分かんないって事で

入ってきたとは
思うんですけれども

我々にとっては本当に
ありがたい事ですよね。

自分たちの状況について

知らせてくれる人たちが
いるとか。

あれから7年 マクニールは今なお
被災地の取材を続けている。

報道が次第に減っていく
被災地の声を

届け続けたいと考えている。

あの時 おなかにいた子供は
無事 誕生。

その後
更に2人の子供が生まれた。

被災地の実情が
明らかになるにつれ

世界各地からの支援も
広がっていきました。

それが
どれだけの量に及んだのか

正確に把握する事は
不可能ですが

例えば こちら。

現在までに 日本赤十字社に
送られた義援金を見てみます。

5位が中国 4位が オマーン。

3位がタイ 1位が アメリカ。

では 2位が どこか
分かりますか?

台湾なんです。

この 日本赤十字社への
29.3億円をはじめ

さまざまなルートで送られた
義援金は トータル…

世界でも
最大級の規模となりました。

第3の視点は 台湾で
日本への募金を呼びかけた

2人の
女子中学生です。

ささやかな一歩から
日本への支援の輪を広げた

勇気の アナザーストーリー。

台湾では あの日の事を今も

多くの人々が
記憶に とどめている。

私も募金しました。

被害が本当に ひどくて
心が痛みました。

新しい時計を買おうと
お金を ためていましたが

時計を買わず 寄付したんです。

山あいにある この中学校でも

日本の被災地に送るための
募金が行われた。

台中市東勢地区。

この のどかな町にも
東日本大震災のニュースは届いた。

中学校で始まった募金。

その主人公となったのが

当時 中学3年生だった
この2人だ。

最初に募金を呼びかけた…

最後まで手伝った親友の…

当時の思い出の教室を
案内してもらった。

懐かしいですね。

校舎の雰囲気が変わりましたね。

(2人)ここです。

(許)ここが あのころ
私たちが通っていた

3年1組の教室でした。

2人にとって日本は
子供の頃からの憧れの国だった。

中でも陳さんは 大の日本好き。

ファッションや料理も
日本の雑誌を参考にしてきた。

浴衣姿で
こんな写真まで撮っている。

そんな
中学3年生の陳さんにとって

東日本大震災は
ひと事とは思えなかった。

あの時 テレビのニュースで 3.11
東日本大震災の映像を見ました。

2日間 涙が止まりませんでした。

災難が いつ来るかなんて
分からない。

私も すぐに死ぬかもしれない。

だから 悔いがないように

その時 できる事を
やろうと思ったんです。

自分にも 何かできる事はないか。

そう考え始めた頃 街角で
被災地への募金活動を見た。

台湾の人々にとって
忘れられない記憶があった。

1999年。

台湾中部で発生した…

2, 400人以上が亡くなった。

この時 世界で最も早く
被災地に駆けつけたのが…

真摯に復旧を助け
義援金を送った日本人の姿を

多くの人々が覚えていた。

そして 最も被害が大きかったのが
中学校がある東勢地区。

ほとんどの人に
被災の経験がある。

だからこそ この地域の人々は
いち早く動いた。

老舗菓子店の社長
翁 も その一人。

921台湾大地震の すぐあとに
仕事で日本に行った時

東京で台湾のために 多くの人が
募金しているのを見ました。

とても感動しました。

その感謝の思いで
東日本大震災では

うちの お菓子を
被災地に送る事にしたんです。

被災地では糖分が
不足していると考え

台湾名産の焼き菓子
太陽餅と パイナップルケーキを

3日かけて 1, 000個ずつ作り
日本に送った。

そして あの少女は…。

みんなが募金などを
しているところを見たら

自分も できるんじゃないかと
思いました。

一緒にやってくれる
仲間が欲しくて

一番 親しかった
許さんを誘ったんです。

でも 引っ込み思案な性格。

なかなか 声を掛けられない。

他のクラスに行っても
中に入る事さえ できなかった。

他のクラスの みんなが
私の事 知らなくて

すごく警戒されました。

「自分たちには関係ない。

なんで 募金しなきゃ
いけないの?」とか

「日本の被災地の人なんて
知らないし」とか

初めは ほとんど
相手にしてもらえませんでした。

しかし…

ふだんは近寄らない
やんちゃな男子たちに

恐る恐る声を掛けた時…。

あまり真面目じゃない
やんちゃな男子たちが

「俺はやる お前たちもやれよ」と
言ってくれた おかげで

多くの生徒が
協力してくれるようになりました。

それまで
真面目組と不真面目組は

ほとんど口も
きかなかったんですが

募金を きっかけに
友達になっていったんです。

2人で始めた募金は
やがて 中学校全体の取り組みに。

生徒たちは お昼ごはん代や
お小遣いを節約して

お金を捻出した。

これが クラスごとのリスト。

10元 およそ30円のコインが
多いのは

おやつを1回 我慢した
生徒が多いから。

そして 学校全体で…

およそ 15万円が
集まった。

台湾各地で始まった募金の陰に

きっと 多くの陳さんが
いたに違いない。

テレビ各局も 日本への募金を
呼びかける チャリティー番組を制作。

こうして 200億円を超える
義援金が集まっていったのだ。

あの体験は
陳さんの人生にも影響したとか。

寄付を呼びかけた
この時の経験から

人の役に立ちたいという気持ちが
強くなりました。

だから 私は
中学校を卒業したあと

看護師の道を志したんです。

今は大学で 看護師の勉強を
しているんですよ。

これは あの時 使われた募金箱。

みんなが 一つになった思い出は

今も 後輩たちに
語り継がれている。

国や地域の壁を超えて送られた
日本への援助の数々。

その背後には
複雑な外交関係に裏打ちされた

したたかな ねらいも含まれている
という指摘もあります。

しかし あの時
何の見返りも求めず

日本のために行動してくれた
人たちが 確かにいました。

それが どれほどの力を
くれたのか

私も もう一度 思いを
巡らせてみたいと思います。

(一同)Pray for Japan!

あの時 世界の人々は

どんな思いを
日本に届けようとしたのか。

送られた品々から
想像してみてほしい。

中国 テント 900張

使い捨てゴム手袋 325万組など。

フランス マスク 97万2, 000枚

防護服 2万セットなど。

バングラデシュ 毛布 2, 000枚

ゴム長靴 500足。

タンザニア インスタントコーヒー 600缶。

バーレーン サッカーボール 123個。

フィンランド スチール製水筒 2, 800個。

ロシア 毛布 1万7, 200枚

水 3.6トン。

遠い海外にあって
日本の事を思った人たちが

あの時 確かに いたのだ。

♬~


関連記事