昭和偉人伝 #125「阿木燿子&安井かずみ」…不動の地位を築いた2人の名曲誕生の秘話と人生の軌跡、ターニングポイントをたどる。



出典:『昭和偉人伝 #125「阿木燿子&安井かずみ」』の番組情報(EPGから引用)


[字]昭和偉人伝 #125「阿木燿子&安井かずみ」 


卓越した感性&センスで多くのヒット曲を生み出した作詞家、阿木燿子と安井かずみ。2人の人生の軌跡、ターニングポイントをたどり、名曲誕生の裏側に迫る!


詳細情報

おしらせ

※野球中継延長により、放送時間変更の場合あり

番組内容

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」「プレイバックPart2」「魅せられて」などで昭和歌謡に強烈なインパクトを与えた作詞家・阿木燿子。「危険なふたり」「わたしの城下町」などで昭和歌謡に大きな彩りを与えた作詞家・安井かずみ。この2人の卓越した感性&センスで多くのヒット曲が生まれた。

番組内容2

阿木は大学進学後、宇崎竜童と出会い結婚。デビューする宇崎に頼まれて作詞した「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」が大ヒット。翌年、オファーされて山口百恵に贈った歌が「横須賀ストーリー」だった。

安井は幼少期に戦争を経験。類まれなセンスでヒットを飛ばし1965年、伊東ゆかりの「おしゃべりな真珠」で日本レコード大賞作詞賞を受賞。

不動の地位を築いた2人の名曲誕生の秘話と人生の軌跡、ターニングポイントをたどる。

出演者

【語り】國村隼

初回放送日

2019/3/13

番組概要

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

番組ホームページ

<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/

制作

BS朝日、JCTV




『昭和偉人伝 #125「阿木燿子&安井かずみ」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

昭和偉人伝 #125「阿木燿子&安井かずみ」…不動の地位を築いた2人の
  1. 安井
  2. 阿木燿子
  3. 昭和
  4. 阿木
  5. 作詞家
  6. 山口百恵
  7. 女性
  8. 作詞
  9. ホント
  10. 百恵
  11. 作品
  12. 宇崎
  13. 宇崎竜童
  14. 時代
  15. 歌手
  16. 仕事
  17. ヒット曲
  18. 一人
  19. 言葉
  20. 自分


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それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて…。

♬~

お元気ですか?

伝説のアイドル 山口百恵の
『プレイバックPart2』。

そして…。

ジュディ・オングが
日本レコード大賞を獲得した

『魅せられて』。

今宵の偉人は

どこまでも広がるイメージの翼を
たおやかな言葉でつづった

さらに もう一人…。

小柳ルミ子のデビュー曲
『わたしの城下町』。

色彩感覚にあふれた
斬新な言葉選びで

数々のヒット曲を
世に送り出した

日本の歌謡界に
新たな風を起こし

ひときわ輝いた女性作詞家2人。

その音楽人生を紐解き
名曲誕生の裏側に迫る。

山口百恵の大きな転機となった
『横須賀ストーリー』。

阿木燿子は
夫 宇崎竜童と共に

百恵の歌手人生の後半を
メインライターとして支えた。

だったと思いますね。

絶対 ボールだよねっていう球に
こう… バットを伸ばして

ヒットにするじゃないですか
イチローさん。

だから やっぱり
作家たちが想定してなかった

歌いっぷりでもって

ヒットに
結びつけてくれましたね。

阿木は 山口百恵の
感性と表現力を実感して

作詞という仕事の
難しさと喜びをかみしめる。

そして…。

歌手 山口百恵が

ファンの前で最後に歌った
『さよならの向う側』。

母の楽曲でいえば
やっぱり その…

大人の女性の生々しさ。

あとは 弱さ。

うん… なんか その

表裏一体な
女性のもろさだけど

凜として強い女性像
っていうのを

なんか… 描かれるのが

ものすごい長けてらっしゃるな
って思います。

阿木燿子は
百恵と共に歩んだ5年間で

プロの作詞家に成長していた。

一方 女流作詞家の先駆者
安井かずみは…。

沢田研二の『危険なふたり』。

安井は 女性らしい感性と
自由な発想を

歌謡曲に持ち込んだ。

その詞は
時に様々な表情を見せる。

千葉紘子が歌った『折鶴』。
そして…。

浅田美代子のデビュー曲
『赤い風船』。

大人の女性と
少女の初々しさが同居する

安井かずみの世界。

現代の童謡を作りたいっていう

コンセプト
だったらしいんですけれども

なんか… すごく あったかくて
フワッとして

こう… いい詞だなと思って。

結構… もう 安井さんが
詞を書いてくださると

売れたっていう
浅田美代子でしたね。 ハハッ…。

安井は

東京 飯倉片町のレストラン
キャンティを舞台に

時代の最先端を走る友人たちと
互いに刺激を与え合った。

一流好きですよね。

年の差とか 職業の差とか

そういうの
気にした事ないんですよ。

考えた事もないんですよ。

まず かっこいい仕事をしてて
かっこよくっていう

全面かっこいいというのに
魅力があるわけで。

竹内まりやの
『不思議なピーチパイ』。

安井かずみは
音楽家 加藤和彦と結婚。

その理想の結婚生活自体が
安井の作品となる。

エヘヘヘッ…。

同世代の女性たちに

憧れのライフスタイルを示した
安井を 突然の病魔が襲う。

最後の時間に
たどり着いた境地とは…。

一方 阿木燿子は…。

多くの作曲家や
アーティストとコラボし

阿木燿子は
多彩な作品世界に挑戦し続けた。

かなと思います。

人間を見る時も
それから 恐らく 景色を見る時も

我々が見る所じゃない所を
見てる感じがしますね。

幼い頃から
引っ込み思案だった阿木は

女子校時代
クラス仲間に溶け込めずにいた。

何かを変えたい。
そんな思いから大学に進み

未来の夫 宇崎竜童と
運命的な出会いを果たす。

そして 作詞の世界へ。

愛し合うのは なんて こう…

奇跡的な事だろうとか
そういうね

なんか こう…
温かいものであったり

生きていく上の
エネルギーになるようなものを…

作品を書けたらって
毎回 思いますけど…。

詞を書く事は 今を生きる事。

同時代に生きる人々の世界を
探り当てながら

歌謡史に残る名曲を紡いだ作詞家
阿木燿子 安井かずみ。

学ぶべき世界が ここにある。

第1次オイルショック後の
大型不況を経て

景気の足踏み状態が続く中

鹿児島で
日本初の五つ子が誕生。

明るい話題を提供した。

また
モントリオールオリンピックでは

体操ニッポンが
団体で5連覇を達成。

日本中を
テレビの前に釘付けにした。

そんな中
テレビで育ったスターが

脱アイドルを目指し
新たな挑戦を始めた。

山口百恵 17歳の歌声
『横須賀ストーリー』。

この歌の作詞家が
阿木燿子である。

本格的に作詞に取り組んでから
まだ2年目の31歳。

阿木燿子の夫は

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの
リーダーで

作曲家の宇崎竜童。

夫婦でコンビを組み
曲作りをしていた。

当時の阿木は
作詞家としては まだ駆け出し。

山口百恵サイドから詞を依頼され

何を書けばいいのか
見当もつかない。

17歳の女の子が共感できる詞って
なんだろう…。

散々 悩んだ揚げ句

ひねり出した
阿木と百恵の共通点

それが横須賀だった。

阿木燿子本人に
当時のいきさつを尋ねた。

花の中3トリオから出て…

もう 本当に
アイドル街道まっしぐら

っていう方からのオファーで

ちょっと戸惑いも
あったんですけど…。

百恵さんも横須賀で育たれて

私も 父と母が
横須賀に住んでたので…。

横須賀なら書けるかな
って思って…。

すごく なんか…
おしゃれな街というよりも

ちょっと…
どぶ板通りがあったり

米軍基地があったり…。

横須賀という街の地名が
書かせてくれたと思いますね。

一方 作曲の宇崎竜童は…。

詞が 先にできてくるんだけど
「へえ~ へえ~…」と思うような

詞だけ読んでても
面白いなと思うような…。

みたいな…。

阿木は 毎日
雨乞いのように言葉乞いをして

苦しみながら
『横須賀ストーリー』を書き上げた。

それだけ 思い入れの深い作品。

『横須賀ストーリー』の成功で

百恵から信頼を勝ち得た
阿木燿子と宇崎竜童。

このあと2人は

百恵のシングル曲を
立て続けに任される。

しかし そのあと 阿木に
作詞家人生最大の危機が訪れた。

昭和53年。

阿木は 百恵の
次のシングル曲に向け

作詞に取り組んでいた。

与えられたテーマは

音楽業界で…。

この専門用語を
男女の恋愛に どう置き換えるか。

阿木は苦しみながら
締め切りまでに詞を書き上げた。

ところが プロデューサーは
イメージが違うと言い

原稿の書き直しを命じる。

レコーディングから逆算して

書き直しに与えられた猶予は
わずか数時間。

追い込まれて 追い込まれて
追い込まれて…

主人と2人で

もう やるっきゃないね
って感じで。

で もう… 半ば
やけくそになって書いたら

なんか… おなかの底から

なんで こんな苦労するんだろう
っていう気持ちが

きっと凝縮して

「馬鹿にしないでよ」に
なったんだと思う…。

そういう感じの… そういう
エネルギーでしたね あれは。

山口百恵 昭和53年のヒット曲
『プレイバックPart2』。

歌手 ジュディ・オングが

この曲を聴いた時の
鮮烈な印象を振り返る。

ブレのない女性の

「ちょっと わかってるわよね」
みたいな。

かっこよかったですね。

まあ それが意にしてかどうか
わかりませんけど

私 真っ赤なポルシェに
乗ってます。

今も 思い出しても

同じ指摘を

二度させないっていうか…。

ここ 百恵さん
こういうふうに歌ってねって…。

で 理屈でわかってても

それが表現できない人は
いくらでもいるんですけど

「はい」って おっしゃると

もう そのとおりに
ちゃんと歌ってくださるので…。

阿木が 特に感心したのは
決めゼリフの歌い分けだった。

最初は 啖呵を切るように。

2回目は 少し切なく。

阿木は まだ10代の山口百恵が

歌の世界観をつかみ取り
理解する姿に

畏敬の念すら覚えた。

山口百恵の長男で
歌手として活躍する三浦祐太朗は

母の作品を聴いて
こんな感想を持った。

その 山口百恵…。

っていう事に 改めて

ちょっと
驚愕したというか…。

なんで こんなに

歌いこなせているんだろう?
というか…。

じゃないですけど…。

でも その
神がかる手助けというか

もう ホントに

阿木さん 宇崎さんの楽曲の
相乗効果で

まあ やっぱ そういう空気が
生み出せていたのかな?

っていうのは
改めて感じたんですけど。

山口百恵という稀有な才能に
引き上げられるように

作詞家としての能力を花開かせた
阿木燿子。

その 言葉をつづる感性は
どのように育まれたのだろう?

そこには
引っ込み思案で 内気な少女が

出会いを重ねながら

自分の本質と向き合う
葛藤の日々が横たわっていた。

内藤やす子の『想い出ぼろぼろ』は

阿木燿子 宇崎竜童が書いた
初期のヒット曲。

阿木が詞を書き始めたのは
大学に入ったあとの事。

それまでは 詞や音楽に
あまり縁のない生活を送っていた。

阿木燿子 本名 福田広子は

終戦間近の
昭和20年5月に生まれ

父親が町工場を経営する
横浜 鶴見で育った。

ホントに

学校に行くと

目立たない事のみを思って

いつも うつむいているような
記憶がありますけども…。

阿木は
幼い頃から 極度の近眼だった。

あの頃はコンタクトもないし
子供だし…。

でも

見えないのに
「見えない」って言えなくて…。

集団生活なんかで

友達の顔を認識できないとか

気楽に こう… 何ちゃんって
話しかけられないとか。

中学 高校は
ミッション系の女子校に通った。

元来 内気だった阿木は

箸が転んでもおかしい年代の
同級生たちに溶け込めず

一人で過ごす事が多かった。

坂本九の『明日があるさ』が
街に流れていた頃

阿木は 明治大学に入学する。

入学式の翌日
キャンパスを歩いていると

男子学生から声をかけられた。

それが 同級生の木村修史。

のちに夫となる
宇崎竜童との出会いだった。

女子校時代 賛美歌を歌う事が
苦手だったのに

初めて参加したバンドでは
自然に声が出た。

阿木は いつも陽気な宇崎に
引っ張られるように

音楽サークルの活動に
のめり込んでいく。

ある時 宇崎は
何げなく こんな事を頼んできた。

メロディーは
いくらでも書けるけれども

詞は 色んなテーマが…

なかなか思い浮かばないので。

まあ 周りにいる
誰彼構わず

ホントに… 同級生といわず

親といわず 兄弟といわず…。

阿木の兄弟… 阿木の親にも

詞 頼んでましたから。

しかし 宇崎は 阿木の書いた詞が

他の詞と違う事に
すぐ気づいたという。

阿木の場合は もう…。

ような感じなんで…。

それを そのまま五線紙に
僕は書けばいいだけなんで。

それと

22歳の頃 阿木の詞に

宇崎が曲をつけた作品が

レコード化された。

ジュリーとバロンが歌った
『ブルー・ロンサム・ドリーム』。

この時 阿木の母に紹介された

易者につけてもらった
ペンネームが

阿木燿子と宇崎竜童。

レコード会社の
ディレクターの人が

一曲 書いてみろよって
言ってくださって

こういう感じはどうかな?
っていうのを

阿木と話しながら
作った作品で…。

ただ あれは発売直後に

廃盤になったっていうか…。

その女性アーティストが

やめちゃったんですね。

それで だから…

僕と阿木にしてみれば
2人のデビュー作なんだけれども

結局 世の中で

聴いてもらう人が うんと少ない

不幸な… かわいそうな楽曲に
なってしまったと…。

このレコード化を区切りに

阿木燿子は
いったん作詞から離れる。

作詞 作曲の結びつきは
なくなったものの

その間 2人は愛を育んでいた。

大学を出たあと

阿木は PR誌の編集や
CMモデルの仕事に就き

宇崎の方は 会社員や

芸能プロダクションの
マネジャーなど

職を転々としていた。

しかし その後も
2人の関係は変わらず

宇崎は 実に7年もの間
プロポーズし続けたという。

昭和46年 阿木燿子と宇崎竜童は
都内の教会で式を挙げた。

しかし 結婚の1年後
大きな転機を迎える。

宇崎は
バンドのマネジャーから転身し

自ら ロックバンドを
結成したのである。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドは
3枚目のシングル

『スモーキン・ブギ』が大ヒット。

その頃 宇崎は

次に出すアルバムに
詞を書かないか? と

阿木に声をかけたという。

コンセプト…。

まあ 色んな あの…

「なんだよ…
人生 うまくいかないんだ」って

思っているかもしれない人たちを
テーマに

歌を作りたいっていう…。

アルバム作りたい
って言われた時に

ホントに あの…。

って言うのも 変なんだけど…。

って
言われたような気がして…。

阿木燿子が詞を書くのは
数年ぶりの事。

すっかり忘れた詞の書き方を

少しずつ思い出しながら

広告の裏紙に書いた詞を
宇崎に渡した。

すると…。

非常に面白いなと思ったけれども

まだ プロの作詞家としての
自覚があった上で

書いてる詞じゃないので…。

だけだったんで…。

メロディーを
何度もつけたんですけど

やっぱり…

途中で諦めざるを得ない。

とか。

まあ 仕方なしに
あれは じゃあ

トークにしてしまおうって事に
なったんだけど…。

阿木が 文字数合わせを忘れ
思い浮かぶまま書いた詞が

歌謡界に
波紋を投げかける作品となった。

昭和50年
ダウン・タウン・ブギウギ・バンド

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』。

エレキギターとベースが
一定のフレーズを繰り返す中

ヨーコの行方を追う男に
裏街の連中が語りかける。

まるで
サスペンスドラマのような展開。

宇崎さんが こう
つなぎかなんかで

話をするみたいな…。

喋りの間に
歌が入るっていう。

かっこいいと思いましたね。
でも…。

という そういう

お顔の… こう
受ける印象とのギャップが

すごかったです。

流れ流れて…
女の子が一人 流れていく。

で それを追っかける男も

決して
堅気じゃないかもしれない。

…っていうコンセプトで書いた時
すごく書きやすい。

今でも そうなんだけど

なんか あの そういう人の歌は
得意なんですよね。

当時の歌謡界で

あらゆる栄誉を手にした
作詞家 阿久悠が

『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』
を聴き…。

と悔しがったほど
衝撃を受けたという。

実質的なデビュー作で

センセーショナルな
登場を果たした 阿木燿子。

同じ頃 歌謡界を席巻する
女性作詞家がいた。

安井かずみ。

歌の世界に女性の時代を築いた
先駆者 安井かずみは

横浜育ち
ミッション系の女子校出身など

阿木燿子との共通点も多い。

だが 2人の作品や生き方を
紐解けば

決定的に違う
何かが浮かび上がってくる。

そこには
時代の最先端を闊歩する強さと

孤独を恐れる弱さが
同居する

一人の女性の
生き様があった。

昭和40年 ザ・ピーナッツが歌った
『ドンナ・ドンナ』。

世界中でカバーされた
フォークソングの名曲に

日本語の訳詞をのせたのは
安井かずみ。

安井は
洋楽のヒット曲を日本語で歌う

いわゆる カバーポップスの分野で
世に出た。

昭和14年 安井かずみは
横浜市で生まれた。

両親と妹の4人家族。

化学者である父親は

フランス語の原書を
取り寄せるほどのインテリで

安井は
文化的な香りのする環境で育った。

だが 安井は
幼い頃から病気がちで

医者に 外出禁止を命じられるほど
虚弱だった。

戦争が激しくなり
母親の実家に疎開したあとも

家の中で ずっと
絵を描いて過ごしたという。

戦争が終わった頃
安井は健康を取り戻した。

新しい時代の到来と共に
まるで 生まれ変わったように。

その後 横浜の名門
フェリス女学院に進学。

幼い頃から絵を描き

父の影響で西洋芸術に触れてきた
安井は

画家になる夢を膨らませていた。

ところが…。

小坂一也が『監獄ロック』を歌った
昭和33年

安井は 自由な校風で知られる
文化学院美術科に入学。

そこで
感性豊かな学生たちに刺激を受け

次第に解放されていった。

20代の安井かずみは
たくさんの恋をした。

そして
眠っていた才能が目覚める。

ある日の事

手に入れたい楽譜が
どうしても見つからず

安井は 版元の出版社を訪ねた。

出版社で待つ間 その横で
男たちが顔を突き合わせ

何やら話し込んでいた。

歌詞の翻訳をしている。

面白そうだ。

安井は 学生の気安さで
首を突っ込んでみた。

そうです。

この時 歌詞を訳した曲が…。

昭和36年
坂本九の『GIブルース』。

安井の言葉選びのセンスを
評価したのは

カバーポップスを日本に広めた
漣健児だった。

それまで 自分たちの歌を求め
洋楽を聴いていた若者が

日本語でも歌える
カバーポップスに飛びついた。

安井かずみは
『GIブルース』をきっかけに

本格的に訳詞を始める。

この時 22歳。

田辺靖雄と梓みちよが
昭和38年にデュエットした

『ヘイ・ポーラ』。

安井は 自然な言葉を積み重ねて
愛のささやきを巧みに描いた。

画家を目指していた安井は
独特の色彩感覚で言葉を操り

従来の作詞家がまねできない
詞の世界を生み出した。

やがて 洋楽を元にした
カバーポップスから

オリジナルの
和製ポップスの時代が到来する。

昭和41年 槇みちるが歌った
『若いってすばらしい』。

作曲は 和製ポップスの生みの親
宮川泰。

訳詞ではなく
オリジナルの詞を書く作詞家

安井かずみが誕生した。

そして 安井とほぼ同時期に
洋楽の訳詞を経て

作詞家として成功を収めた
女性がいる。

もう一人の先駆者 岩谷時子。

越路吹雪が 昭和27年に歌った
『愛の讃歌』。

越路の持つ世界観に合わせて
言葉を選び

シャンソンの名曲に
日本語の詞をのせたのが

彼女のマネジャーを務める
岩谷時子だった。

『サン・トワ・マミー』や
『ろくでなし』など

岩谷が書く日本語の訳詞を歌い
越路は成長していく。

同時に 作詞家 岩谷時子の評価も
高まった。

昭和37年 ザ・ピーナッツの
『ふりむかないで』。

そして…。

昭和40年

若大将 加山雄三の永遠のバラード
『君といつまでも』。

さらに…。

岸洋子が歌った 『夜明けのうた』。

岩谷は 洗練された言葉選びと
女性らしいみずみずしさで

瞬く間にヒットメーカーとなった。

岩谷と親交が深かった
元東芝レコードの草野浩二は…。

男性ばかりだった作詞の世界に
新しい風を呼び込んだ

岩谷時子と安井かずみ。

そして 安井は

作詞家の枠に収まりきらない
活躍で

時代のトップランナーとなる。

昭和43年
伊東ゆかり 『恋のしずく』。

歌詞から におい立つ
女性らしい細やかな情感。

そして…。

辺見マリの『経験』は
昭和45年の作品。

自由な発想を持つ安井かずみは
大胆な言葉選びで詞をつづった。

また 安井は 作詞家として
成功を収めただけでなく

同世代の
ファッションリーダーとして

時代の寵児となる。

デビュー当時

安井かずみの作品を数多く歌った
浅田美代子にとって

安井は憧れの存在だった。

ホントに 現実にお会いしたら

うん…。

かっこいいのひと言ですね。

ああいう女性の生き方っていうか

本当に素敵だなって
思ってましたから…。

そうですね
ファッションも憧れでしたね。

東京 飯倉片町に
安井が毎晩のように通った

伝説のイタリアンレストラン
キャンティがある。

女優 加賀まりこや
歌手 かまやつひろし

ファッションデザイナー
コシノジュンコらが集まり

六本木族と呼ばれて

互いを刺激し合った。

コシノジュンコ本人が語る
安井かずみとの濃密な時…。

まあ お互いに

遊びながら仕事ができたっていう
感じですね。

仕事も遊びも一緒くたみたいな。

そういう…
だから 私は若い人に言うのね。

真面目一方じゃなくて
遊びも真面目に遊んだらって。

そうすると
何かしら自分の身になるから。

色んな意味でね。

時代の最先端で活躍し

自立する女性のシンボルであった
安井かずみ。

やがて 30代を迎え
新たな境地をつかんだ この曲。

昭和46年
小柳ルミ子の『わたしの城下町』は

旅情をかき立てる名曲。

洋楽のカバーポップスに
訳詞を書き

キャリアを重ねてきた
安井かずみは

日本人の心のよりどころに
目を向け

ポップスとの融合を図った。

この時 32歳。

実は 安井かずみは
20代で青年実業家と結婚し

離婚も経験している。

安井と深い親交があった

評論家 大宅映子が

彼女の内面に起きた変化について
こう語る。

自分の中にある和の要素を
再発見した 安井かずみ。

そして
みずみずしい感性が光る この曲。

昭和47年 千葉紘子の『折鶴』。

大人の女性が
幼い頃に思いをはせるような

優しさと郷愁にあふれた作品。

安井は 仕事に恋に遊びに
常に全力投球。

真剣に遊びながら

プロの作詞家として
いつも心に刻んでいた事がある。

どの瞬間も 全力で生きようとした
安井かずみ。

その快進撃は さらに続いた。

昭和48年 沢田研二のヒット曲
『危険なふたり』。

そして…。

同じく 昭和48年

『赤い風船』は
浅田美代子のデビュー曲。

現代の童謡っぽい
歌なんですけども

そういう詞も
書けるし

とっても

そこが
すごいなと思って。

時代があったんですね。
ジュリーさんと…。

それで その…。

すごいなと思う。

私は もうホント
歌が下手だって言われてたんで

申し訳ないなと思ってますけど…
作った方に。

昭和40年代後半 安井かずみは

幅広いジャンルで
ヒット曲を量産し

作詞界の第一人者と誰もが認めた。

また昭和45年 初エッセイ集

『空にいちばん近い悲しみ』の
出版を皮切りに

次々とエッセイを発表。

スタイリッシュな生き方を示しながら
理想の愛を語り

同世代の女性たちの
カリスマ的存在となった。

だが あまりに多忙な生活が

安井の心と体を
少しずつ むしばんでいた。

奔放なイメージとは逆に

生真面目で責任感が強かった
安井かずみ。

求められるものが100だとすれば
120以上で応える努力をしていた。

作詞家ってね 孤独ですよね。

1人にならないと

作詞ができないので

私を すごく
うらやましがるわけですよ。

いつも こういう所にいて…。

だから 全然 そこが
タイプが違ってて。

自分を追い込んで
人知れず傷つき

疲れ果てていた ある日

安井は一人の音楽家と恋に落ちる。

彼の名は加藤和彦。

昭和46年
『あの素晴らしい愛をもう一度』。

加藤和彦は
作曲とボーカルを担当した。

ある所で 安井かずみは

落ち込んで元気がない
加藤和彦を見かけた。

安井かずみの恋愛事情を知る
大宅映子が

当時を こう振り返る。

昭和52年
安井かずみと加藤和彦が結婚。

38歳の安井は
8歳年上の姉さん女房だった。

やがて安井の心に変化が表れる。

第一線で身を削りながら
ヒット曲を書いてきた安井には

少し休息が
必要だったのかもしれない。

加藤との結婚を機に

あれほど量産していた作詞から
次第に距離を置くようになった。

そんな安井と入れ替わるように

作詞の第一線に躍り出たのが
阿木燿子だった。

夫 宇崎竜童の導きで
作詞を始めた阿木は

ヒット曲を積み重ね
プロの作詞家として評価された。

その先に 大きな別れが
待っていようとは

誰も想像すらしていなかった。

阿木燿子は 山口百恵に対して
毎年 複数のシングル作品を提供。

その どれもが話題を呼び
阿木自身の評価も高まった。

歌手と作詞家がタッグを組み
競い合いながら成長していく…。

そんな阿木と同じように

一人の歌い手に長く寄り添った
女性作詞家がいる。

山口洋子。

女優やモデルなど
数々の経験を経て

銀座の高級クラブ「姫」の
ママになった山口は

知り合いの勧めで
作詞を始めた。

昭和45年

内山田洋とクール・ファイブ
『噂の女』で

作詞の面白さが
わかり始めた頃

一人の歌手と出会う。

デビュー5年目の三谷謙。

テレビのオーディション番組で
審査員を務めた山口は

三谷の実力に ほれ込み
再起に力を貸した。

その曲が…。

昭和46年 三谷謙改め五木ひろしの
『よこはま・たそがれ』。

印象的な言葉を重ね
聴く者のイメージを呼び起こす。

この新しい感覚の曲が大ヒットし

五木は
スターの仲間入りを果たした。

山口は
続けて作品を提供しながら

五木の成長を見守っていく。

昭和48年の『ふるさと』。
そして…。

同じく 昭和48年の『夜空』では

日本レコード大賞を受賞。

山口洋子と五木ひろし 共に
初めてのグランプリ獲得だった。

山口は自著の中で

作詞家と歌手の関係について
こんな表現をしている。

歌手 五木ひろしの成長と共に

作詞家 山口洋子の腕も
上がっていった。

しかし
スターのメインライターとなると

毎回 ヒットを出す事が求められ

その重圧は並大抵ではない。

それは
山口百恵の成長を託された

阿木燿子と宇崎竜童にとっても
同じ事。

どうすれば ヒットを出すノルマが
果たせるか…。

やっぱり 当たらなければいけない
っていう前提があるので。

ほとんど
シングルのオーダーは…

変化球だと思いますね。

っていうような
まあ オーダーだったんで。

例えば 昭和54年の

『美・サイレント』では…。

歌の中に伏せ字を入れ

聴き手にイメージさせる戦略をとった。

これも やっぱ 僕
ずるいんですけど

母に聞いたんですよ。
ハハハハ…。

やっぱ気になるじゃないですか。

テレビ番組で 母が こう…
マイク離して なんか言ってるの。

で 多分
夕食を食べてる時なんですけど

これ なんて言ってるの? って
普通に聞いてしまったんですけど。

口パクパクして

あそこで 何 言ってるんだろう?
っていう。

目が もう すごい
こう 開いちゃいますよね。

主人と もう なんか
面白がってっていうか

あの ちょっと…。

放送事故が
起こったような

というふうに
視聴者が思うような曲

書いてみようっていう
いたずら心で…。

になるっていう。

これをやったら みんな驚くだろう
っていうので作った…。

読唇術… 唇を読む人がいれば

百恵さんの口を見てたら
わかると思う。

でも これはね…。

阿木燿子は
与えられた仕事を受け止め

全てに応えようとする
山口百恵の懐の深さに

いつも驚かされていた。

気がつけば 山口百恵は
二十歳の女性に成長していた。

百恵との会話から アルバムの詞を
発想するという企画で

他愛のない話をしていた時

百恵が ふと こんな事を語った。

映画やドラマで
山口百恵と共演を重ねていた

三浦友和との恋。

そして 2人は結婚へ…。

山口百恵は引退を発表する。

本当 嬉しかった。

ひとつはね この

そういう思いも
正直言って あって…。

でも もう書けないっていう
悲しみもあって 寂しさもあって。

でも最終的には 百恵さんは
ご結婚の引退だったので

だから あの…
あれだけ忙しい間で

大変な 命削るような
アイドルの生活から

大好きな人と結婚なさる事が
やっぱり すごい嬉しかったし…。

山口百恵 31枚目のシングル
『さよならの向う側』は

惜別のメッセージ。

昭和55年10月5日 日本武道館の
ファイナルコンサートで

山口百恵は
大勢のファンに別れを告げた。

やっぱり 百恵さんが

ファンの方に なんて
おっしゃりたいのかなって

思った時 やっぱり

「Thank you for your everything」
っていう

言葉だったんじゃないかなって
ありがとうって…。

込めて…。

感謝と「行きますね」って…。

でも まあ 本当に なんか

あの若さで よくぞ
全ての曲 そうですけど

歌いきってくださったなと
思います。

阿木燿子が
山口百恵に書いた詞は

5年間で79編にのぼった。

今でも 百恵の
少しハスキーで豊かな声を

イメージしながら
詞を書き始め

はっとする事がある。

それは 阿木燿子が
作詞家を続けている限り

何度も繰り返されるに違いない…。

昭和54年 水谷豊の
『カリフォルニア・コネクション』。

作曲は平尾昌晃。

夫 宇崎とのコンビで評価を高めた
阿木燿子には

単独でも詞の依頼が殺到した。

夫に導かれ
作詞を生業にした 阿木燿子。

では 彼女にとって
作詞とは何か…。

私は その都度 その都度

なんか
なんて言ったらいいのかな…。

誰のメッセージか
わからないんですけど なんか

たった今…。

って なんか
そういうメッセージを

私自身の肉体を通して
歌手の方の肉体を通して

伝えてる気がするんですけど…。

阿木燿子は 詞を書くたびに

子供を産み落とす苦しみと喜びを
感じているのかもしれない。

昭和54年
梓みちよの『よろしかったら』。

相手を まるで挑発するような
恋の駆け引き。

作曲は 『また逢う日まで』
『木綿のハンカチーフ』の筒美京平。

そして…。

昭和53年 南こうせつ『夢一夜』は

静かに 情念の炎を燃やす
一途な女性が主人公。

一度も見た事がないので
作詞してる時は

まあ もちろん
黙ってやってるんでしょうけど…。

知らない。 どういう顔して…

まあ 頭 振り乱して
やってるんだろうなとは

思いますけど。

ほとんど 後ろ姿しか見てない。

ええ
台所に立ってる時も 後ろ姿…。

なんか
阿木燿子の後ろ姿を見ながら

人生やってきたかなっていうね。
はい。

そして 阿木燿子が
呼び覚ました女性像が

名曲に深く刻まれた。

ジュディ・オングの『魅せられて』。

このひと言が 全てを物語る。

やっぱり
すごいなと思ったのは

「好きな男の腕の中でも
違う男の夢を見る」っていうのが

えっ! と思いましたよ。

「いやあ これは

どんな感じで歌うんですか?
こういうの」って言ったら…。

って 言われて

ああ じゃあ しゃあしゃあと
歌えばいいんだなと思って

知らん顔して歌うようにしてます。

その頃から ずーっと。

エーゲ海と風に託し
女性を描いた『魅せられて』は

作詞家 阿木燿子は名実共に

歌謡界のトップランナーに
躍り出た。

ところで 阿木は

女性作詞家の先駆者であり
6歳年上の安井かずみについて

どのような印象を
持っているのだろう。

私たちの どこか まあ…。

安井さんは すごく

時代をつかまえるのに長けた
作詞家でらっしゃったと思う。

ちょうど あの時代の
女性のアイコンっていうか

本当に 憧れの存在だったんじゃ
ないかな…。

阿木燿子が
充実した仕事を重ねていた頃

安井かずみは
作詞の第一線から身を引いていた。

その隣には

公私にわたるパートナー

加藤和彦が 常に寄り添っている。

時代の先端を行く 理想的な夫婦。

だが 運命の足音が
静かに近づいていた…。

昭和55年 竹内まりやの
『不思議なピーチパイ』は

安井かずみと加藤和彦の共作。

人気CMソングとして
全国に流れ

売り上げ40万枚の
ヒット曲となった。

結婚後 安井かずみは

全てにおいて
夫との活動を優先させた。

人の前で。

エヘヘヘッ…。

仕事とプライベートでも
良きパートナーであった2人は

共同の著作を発表しながら

結婚生活の理想像を模索した。

家で食事する時も

きちっと。 それ…。

お姫様。

で トノバンは ホント 器用でね。

まあ レストランでも
絶対 一流な所に行って。

その辺で
カサカサッて食べたりしない。

ちゃんと それも
仕事になってるんだから

それでいいんですけどね。

周囲がうらやむほど
理想の結婚生活を送っていた

安井かずみと加藤和彦。

安井にとって 一番大切なのは
輝いて生きる事。

その手段のひとつに
作詞があったのかもしれない。

昭和59年 アニメ映画
『超時空要塞マクロス』の主題歌

『愛・おぼえていますか』。

歌手 三浦祐太朗は 幼い頃から

『愛・おぼえていますか』の
熱烈なファン。

あの曲って もう 多分 84年…。

僕が生まれたぐらいの年の曲
なんですけど…。

なんか そこの

その『愛・おぼえていますか』
っていう楽曲を

生んでくれて
ありがとうございますって

伝えたいですね。 はい。

プレッシャーと闘いながら
締め切りを守り続けた30代よりも

今 はるかに
充実した人生を送っている。

安井が
そう感じていた ある日の事…。

安井は ふと 左胸に痛みを覚えた。

最初は ゴルフによる筋肉痛だと
思っていた。

しかし 痛みは なかなか引かず

近くの掛かり付け医に
相談すると

専門病院に行くよう勧められた。

診断の結果は…。

がんは すでに骨に転移しており

胸には 水がたまっていた。

加藤は 手術ではなく
抗がん剤と放射線治療を選択する。

医師の見立てでは
余命は およそ1年。

仕事を全てキャンセルした加藤は

妻に寄り添いながら
闘病を支えた。

勘が鋭い安井には

がんを知らせない闘病は
難しいと考えて

余命は伏せ
病名だけを伝えたという。

安井が
がん告知後に書き始めた日記には

一進一退を繰り返す病状に
一喜一憂する様子が

ストレートな言葉で
つづられている。

そして たどり着いた境地…。

だが 病魔は

あれほど凜としていた
ZUZUから

あらゆるものを奪っていった。

生きようとする気力さえも…。

そして 日記の
最後のページに書かれた一節。

安井かずみ 平成6年3月17日
肺がんのため逝去。

享年55。

今 私が 例えば 動物愛護の
色んな事をやってたりする時に

『赤い風船』を歌ってくれって
言われるんですね。

って 言われて。

っていうところは

里親さんが来た感じとか…。

みんな 泣くんですね
会場の人がね。

だから そうやって…

またね よみがえってくれてる
っていう感じもするし

あの… 大事な歌ですね うん。

安井かずみさんに出会って
私は今があります。

やっぱり…。

ホントに宝です。

たくさんの「ありがとう」に
囲まれたまま

頑張り屋のZUZUは
天国への階段を上っていった。

昭和61年
中森明菜の『DESIRE-情熱-』。

阿木燿子は 様々な才能との
出会いを大切にしながら

作詞に磨きをかけてきた。

やっぱり 聞いてくださる方が
落ち込むような歌は

あまり書きたくないし

「頑張ろう」とか

「ああ… 生きているって素敵だな」
とか

愛し合うのは なんて こう…

奇跡的な事だろうとか
そういうね

なんか こう…
温かいものであったり

生きていく上の
エネルギーになるようなものを…

作品を書けたらって
毎回 思いますけど…。

平成3年 都はるみが歌った
『BIRTHDAY』は

阿木燿子 宇崎竜童夫妻の作品。

当時 40代半ばだった阿木は

同世代の都はるみが

心から共感できる世界を探り

言葉をつづった。

ちょうど その頃
阿木燿子に大きな出会いがあった。

その後 夫 宇崎竜童と共に

長く関わる事になる
新たな創作の糧

それが フラメンコ。

♬~(音楽)

フラメンコに
ホントにのめり込んで

仕事そっちのけで

もう…
お稽古場を掛け持ちしたり

自分で お稽古場を借りて
レッスンしたり…。

青春… 2度目の青春って
感じだったのかなあ。

自ら ステージに立つほど
のめり込んだフラメンコに

今度は プロデューサーの立場から
取り組んだ。

平成13年 近松門左衛門の名作を
フラメンコで表現した…。

♬~(音楽)

阿木は プロデュースの他
構成や作詞も担当。

音楽は 宇崎竜童。

では なぜ
『曽根崎心中』だったのか…。

色んなご縁があったというか
なんか 導かれるように…。

主人の… 最初に主演した映画が
『曽根崎心中』だったもので…。

もう 初めて本格的に
出してもらった映画で

まあ 右も左もわかんないうちに
出来上がってしまった。

で そこで
ものすごく反省と後悔と

まあ 色んな こう…

ああ これ あかんわ
っていうのがあって

なんか 達成感が
全然なかったんですね。

その後 宇崎が作曲した

『ROCK曽根崎心中』を

発展させる形で

フラメンコと和の世界が

融合していった。

阿木燿子がプロデュースした

『フラメンコ曽根崎心中』は

さらに 不思議な再会を演出する。

平成26年 舞台の再演にあたり

主人公 徳兵衛役の歌い手を
探していた阿木燿子は

膨大なCDの中から
イメージどおりの歌声に出会った。

その歌手が…。

当時 デビュー2年目の歌手
三浦祐太朗。

三浦友和と山口百恵の長男である。

30年以上の時を超えた
あの歌声との再会…。

CDジャケットの
名前とか見ないで

次から次に こう…

デッキにかけて
聴いてた時

「あっ この人いいな」
って思ったのが

祐太朗さんで。

なので あとから 百恵さん…。

って
ビックリしたぐらいなので…。

祐太朗さんの声の中に こう…

哀愁っていうのかな…

ある陰影というんでしょうか。

…が すごく感じられたので。

どこか百恵さんの 何か こう…。

っていうか

そういうものに通じるものが
やっぱりありますよね。

ひっくり返りましたね ホントに。

それも だから ひと言で言うと
縁な気がしていて…。

ホントにありがたいご縁の中に
いるな 自分は…

って思いますね はい。

いや もう 親子二代で そもそも

あのお二人の楽曲を
歌わせて頂けるっていう事が

ホントに幸せだなっていう
まず そこがありますし…。

ドラマチックな再会が
さらに 新たな歴史を刻む。

平成30年 『Ay曽根崎心中』と
タイトルを変えた舞台で

再び 劇中歌を歌う三浦祐太朗に

阿木燿子の用意した曲が『菩提樹』。

この曲は
阿木が 山口百恵に書いた

あの 『さよならの向う側』と
繋がっているという。

ああ もう戻ってこないんだな
っていう

どこか覚悟をするような気分で
聴いていたし

まあ 作った僕たちもそうだし…。

『菩提樹』では…。

…っていう そういう歌詞が
ちりばめられていて。

また… なんだろう。

今度は 来世でも また会おうね
っていう

そういう 輪廻のところを
歌っている歌詞だなと僕は思うし

まあ お二人も そう
おっしゃっていたんですけど…。

なんか その繋がり…。

っていう この関係性は

何度 思い返しても やっぱり

奇跡的だなって思うし
ありがたいなって思いますね。

ホントに思います 最近 特に…。

あのお二人の なんか こう…
僕を見てくださる目が

やっぱり そういう… 息子とか
そういうのを見る目で

見てくださってたりとか
するので… うん…。

なんか この年になって

母親が もう一人
増えたなってすら思いますね。

ホントにありがたいです。

ああ ありたい 理想の女性…。

ええ…。

ホントに
人生 楽しんでらっしゃって

それが 全部
作品に出てらっしゃいますもんね。

ほれてるんですよ 宇崎さんが…
もう 阿木さん 大好きなの。

きれいですしね
魅力的ですもんね。

僕のメロディーに対して
あまりにも厳しいので

それは もう…。

でも その まあ…
その厳しさがあって

初めて 僕は 作曲家として
なんていうんですか…

新しい 新鮮なもの…。

一歩でも半歩でも
前に進んだメロディーを

書かなくちゃいけないという

宿命みたいなものをね

阿木燿子によって
発見させられてるっていう毎日ね。

ホントに
今年に入ってからなんですけど

詞を書くのが 少しだけ
苦痛じゃなくなったっていうか…。

もう 作詞家になって
40年以上になるのに…。

あの… ちょっと楽になった
っていうのが実感があって

だから…

これから
少し自由に詞が書けるかな

っていう予感があるんですね。

ちょっと観念したのかもしれない。

やっぱり 自分の肩書を…。

主人と共に…

まだまだ生きてる限り

自分に与えられた任務を
遂行しようというか

頑張ろうという
ちょっと お尻をたたきつつ…。

♬~「格子戸をくぐりぬけ」

歌作りに生涯を賭けた
美しき女性たち。

道なき道を歩んだ先駆者がいて
あとに続く者がいて

色とりどりの花が咲く。

人生を豊かにしてくれる
歌の揺り籠。

その揺り籠を揺らす手は
母の手ように美しく

いつまでも
私たちを見守っている…。


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