歴史秘話ヒストリア「軍港・呉と戦艦大和“世界の片隅”の町 悲劇と復興」焼け野原となった呉が再生する原動力…とある港町の近代史。



出典:『歴史秘話ヒストリア「軍港・呉と戦艦大和“世界の片隅”の町 悲劇と復興」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「軍港・呉と戦艦大和“世界の片隅”の町 悲劇と復興」[解][字]


「東洋一の軍港」をうたわれ、戦艦大和はじめ日本海軍の艦艇を数多く造った地でもあった呉(広島県)。「世界の片隅」にあった港町の誕生、繁栄、苦難と再生の物語。


詳細情報

番組内容

話題を呼んだ劇場アニメ「この世界の片隅に」の舞台、広島県呉市。「この世界~」にあった通り、呉は日本海軍の誇る「東洋一の軍港」であり、海軍や軍艦建造の関係者が多く暮らす「海軍の町」でもあった。なぜ呉はそうなったのか。そして呉建造の代表的なフネが「大和」。世界最大の軍艦は、現代にも通じるアイデアと呉の人々の力で完成した。この経験は、戦火で焼け野原となった呉が再生する原動力にも――とある港町の近代史。

出演者

【キャスター】井上あさひ




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歴史秘話ヒストリア「軍港・呉と戦艦大和“世界の片隅”の町 悲劇と復興」
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  2. 海軍
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  5. 鎮守府
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  7. 戦艦大和
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  13. 完成
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  15. 軍艦
  16. 戦争
  17. 軍港
  18. 現在
  19. 攻撃
  20. 石油


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2016年に公開され
大きな反響を呼んだ…

戦争の時代 主人公・すずが

家族と共に生きる日々を
描いています。

物語の舞台は…

かつて多くの軍艦が いかりを下ろした
「海軍の町」で

一時は 40万を超える人々が
暮らしていました。

この呉で建造されたのが…

呉に託された
史上 類を見ない巨大艦の建造。

難題に挑んだのは

海軍きっての天才技術者…

苦闘の中 西島に浮かんだ

現在の「ものづくり」にも通じる

アイデアとは…。

西島の下
呉の一流の職人たちが 力を結集し

大和は ついに完成します。

しかし それは 呉が 日本が

悲劇の太平洋戦争へ
向かうことを

意味していました。

度重なる空襲で
廃虚と化した呉。

救ったのは
大和を手がけた「ワザ」でした。

あなたの造船技術が欲しい。

かつての敵 アメリカが呉に託した

世界最大のプロジェクトとは?

今日は 大和を生み
日本復興の礎となった 呉

その運命を描きます。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今回は 広島県の港町・呉。

そして かつて その呉で建造された
戦艦大和について お送りします。

呉は 旧日本海軍にとって
最も重要な場所の一つでした。

それは 鎮守府が置かれていたからです。

「鎮守府」とは いわば
海軍基地を維持する官庁です。

停泊する艦艇の管理や補給をし

兵員の募集・訓練

更には 軍艦の建造や修理も行う

近代海軍になくてはならない機関でした。

鎮守府が置かれたのは
全国で4か所。

なかでも呉は 戦艦大和はじめ
空母や潜水艦など 133隻を建造。

その規模と技術で
「東洋一の軍港」と うたわれました。

歴史上 呉の町に 初めて
スポットが当たるきっかけとなった

「鎮守府」の設置。

まずは その いきさつを
ご覧頂きましょう。

瀬戸内海に面した
広島県 呉市。

人口23万。

日本有数の造船業の町として
知られています。

呉に残る 古い絵図。

海軍が来る前の町の様子を
描いたものです。

イワシ漁の漁船が並び
田畑の多い港町だった 呉。

その呉が 大きく変わるきっかけと
なったのが 「明治維新」でした。

時の明治新政府にとって
最大の課題の一つが

欧米列強に対抗できる
海軍を持つこと。

そこで 鎮守府の設置が
急務となります。

当初 候補地は2つ。

既に
造船ドックがあった
横須賀と

江戸時代からの
国際港
長崎です。

しかし これに
異を唱える人物がいました。

長崎の地は
鎮守府に適しておりません。

外海に面し 万一 列強の軍艦でも
攻めてきたら 守りようがありません。

長崎は
外海である東シナ海と じかに接し

敵にとって
攻撃の容易な地形でした。

しかし 鎮守府は こしらえねばならん。

長崎がならぬと申すなら 貴公

どこぞ 目をつけている
他の場所はないか?

私といたしましては 瀬戸内沿岸の
いずれかに求めるべきかと。

瀬戸内ならば
守るに易く 攻めるに難い。

まさに
鎮守府のためにあるような地形です。

本州と四国に挟まれた 瀬戸内海。

ここなら 紀伊水道と豊後水道

関門海峡で守りを固めれば

敵を完全に防げます。

万一 侵入を許しても

瀬戸内海には 3, 000もの島々があり

敵は 海の迷路に翻弄されるはず。

早速 赤松は

どの港が鎮守府に適しているか
大規模な調査を始めます。

そして 行き着いたのが…

対岸には 港を覆い隠す島々。
海軍の基地として 理想的な地形です。

しかも 港のそばに広い土地があり

さまざまな施設を建てるにも
事欠きません。

そして ここには

鎮守府設置を決定づける
大きなメリットがありました。

こちらは 呉港に近い 両城地区。

急な坂に建つ家々が 特徴的です。

長年 呉の歴史を研究している
千田武志さん。

いや~ いい見晴らしだ。

千田さんは この景観に

鎮守府を置く後押しをしたものが
隠れているといいます。

これは 私の想像なんですが…

建設工事で
山から石が切り出された結果

階段状の平地に 家が建つ
今の景観になったのではないか。

この場所から鎮守府までは 2キロほど。

確かに こんな近くで
建築資材を調達できれば

言うことありません。

赤松の調査に 海軍は決断します。

「この呉湾を除きて
他になし」。

突貫工事の末
「呉鎮守府」が開かれました。

1890年のことです。

明治に造られた建物を
今も見ることができます。

かつての司令長官の部屋は

現在 海上自衛隊 呉地方総監の
執務室として使われています。

更に 呉には
造船施設である「造船廠」も置かれました。

これにより 日本海軍は

より多くの軍艦を
建造できるようになります。

この 軍艦宮古 以後

呉では 海軍の発注を受け

艦船が 続々と造られていきます。

それに伴い 職人の数も急増。

造船廠は 5年で 5, 000人あまりの工員を
抱える大工場となります。

しかし 「東洋一の軍港」となる前に
大きな試練が待ち構えていました。

事件が起こります。

一部の職人たちが
上層部に抗議し 暴動。

翌日には ほとんどの者も
サボタージュを始めました。

彼らが訴えたのは 労働環境の改善。

国を挙げての軍艦建造の中
過酷な労働が強いられていました。

「遅刻した者は減給」。

「作業が深夜に及んでも
仮眠は禁止」。

これらに対する ふんまんが
爆発したのです。

やがて 造船廠トップが解任され

職人の処遇も
見直されることになります。

で すぐに よそに逃げられちゃ困る
ということで いろいろ…

一転 憧れの存在となった
呉の職人たち。

全国から職人が
更に集まることになります。

大正時代には 人口10万を超え
呉は 大都市へ変貌していました。

町には…

呉は ついに
国の内外に その名を知られる

「東洋一の軍港」となったのです。

呉には 今も 市民と海軍が
親しい関係にあった名残が

数多く残っています。

その一つが こちらの料亭。

海軍の将兵から 「メイ」と呼ばれました。
なぜかというと…。

名前が「五月荘」 5月だったから。

他にも
「フラワー」「メープル」など

海軍軍人は よく

なじみの店に

英語に ちなんだ
愛称を付けました。

「メイ」には 海軍ゆかりの品も
伝えられています。

日露戦争での ロシア・バルチック艦隊の
進路を予想した地図。

当時の最高機密とおぼしきものを
料亭が持っているなんて

海軍と町の関係が いかに近かったか
うかがい知ることができます。

海軍の拠点となり
明治以降 大きく様変わりした呉。

やがて 世界でも類がなかった船に
関わっていくことになります。

それが 戦艦大和でした。

呉の観光名所…

最大の見どころは こちら
10分の1の大きさの 戦艦大和。

巨大戦艦の圧倒的なスケールを

およそ70年前の当時さながらに
体感できます。

大和は 装備一つとっても巨大。

主砲46センチ砲も世界最大で
射程距離は 42キロ。

東京湾から撃てば 都内を飛び越えて
埼玉県まで届きます。

主砲を命中させるため
目標までの距離を測る 「測距儀」。

これも 全長15メートルと
世界有数の大きさでした。

そして 進んだ技術だったのが

「注排水」のシステムです。

これは 水を
自由に出し入れできる仕組みで

片側で浸水しても
反対側に注水して 元に戻します。

不沈艦 大和を支える
装備の一つでした。

当時 世界でも最大・最新鋭だった
戦艦大和。

呉が挑んだ…

海軍省は
途方もない計画を始動させます。

「世界最大の戦艦を建造する」。

日本は なぜ
それを造ることになったのでしょう。

言葉は こう… あれですけど…

少数でも
世界最大・最強の
戦艦を造ればよい。

ただ
与えられた猶予は…

戦艦建造には
決して 長い期間ではありません。

建造の舞台に選ばれたのが…

頼みは 当時 日本で
最も優れた職人たちの腕。

プロジェクトを
指揮するのは

海軍の造船少佐
西島亮二 35歳。

ドイツで最新技術を学んだ
船造りのエキスパートです。

しかし 未曽有の試みには
難問が山積していました。

こんな大戦艦を
たったの4年と10か月で造れなんて

海軍省は 自分たちが
どれだけ むちゃなことを言ってるか

分かっているんでしょうか?

これは 現在 残されている 大和の図面。

極めて 緻密な
甲板上の建造物の内部構造です。

大和の設計図は
3万枚にも及んだといわれ

まともに造るとなると

5年弱という期間は
あまりに短く思われました。

むちゃでも何でも やる。

やれる。

やれんではなく
やらんといけんということだ。

この時の心境を
西島は 手記に記しています。

「不手際は許されないと 憂慮していた」。

どうすれば 期限内に完成できるのか。
西島は 思い切った手を打ちます。

それは 作業場を
大和専用にすること。

明治以来の
増設に次ぐ増設で

造船の現場は

実際の作業に
そぐわない

レイアウトに
なっていました。

西島は 大和建造の前に
作業場を 大規模に工事。

大和の作業に
合うものにします。

これはですね…

更に西島は 建造について
画期的な手法を採用します。

当時の造船は 一番下から
順に造っていくというのが

普通でした。

一つの工程が完成しないと

次へ進めないので

工期は長くなります。

「ブロック工法」は違いました。

造船の工程を パート分けし
それぞれ 同時に作業します。

最後に 全てのパートを合体させて
完成。

各作業を並行して進められるので
工期が短くなります。

更に西島は 職人たちの労働に
「工数管理」という方法を取り入れました。

まず 一つの作業を完成させるのに
「必要な工数」

作業量の予想グラフを
作ります。

これに 実際の作業量の
グラフを重ねます。

実際の線が
予想の上にある場合

作業量が 予想以上に
かかっていることになります。

一目で分かる目安の下 西島は

作業が増えすぎた部署には
すぐ 人員を補充するなど

的確に対処しました。

この「工数管理」で
スケジュールの遅れもなくなります。

結果 難航が予想された大和の建造は
意外にも早く進みました。

そして 予定より なんと半年も早く
大和は完成したのです。

水兵として大和に乗っていた
廣 一志さん。

初めて見た その大きさが
何より印象に残っています。

加古やなんかと…

兵たちも 歌で「大大和」とたたえ
親しんだ 戦艦大和。

現在の 呉の造船所の敷地に
大和建造の名残を見ることができます。

ドック自体は変わりましたが
上を覆う屋根は 当時のまま。

しかし いつしか呉では

空前の巨大艦のうわさが
広まっていました。

父親が
大和乗り組みの海軍士官だった…

父は ニヤニヤ笑ってね
「ああ そうか」って言っただけで…

呉の粋を集め 誕生した
世界最大の戦艦。

しかし それは 町が戦争の悲劇に
巻き込まれることも意味していました。

日本海軍の士官や 水兵さんたちに
とても愛された飲み物があります。

ラムネです。

さまざまな最新設備のあった
戦艦大和には

「ラムネ製造器」もありました。

でも おいしいラムネを作るには
プロの技が要ります。

呉には 大和でラムネ作りを教えた
飲料メーカーさんが 今も健在。

…ということになっております。

呉と大和にあった のどかな時間。

けれども 時代は
ついに 戦争へ突入してゆきます。

日本は
アメリカとの戦争に踏み出します。

日本の切り札 大和の初陣は
その半年後。

連合艦隊旗艦として
司令長官・山本五十六を乗せ

一大決戦に臨みました。

目指すは ミッドウェー島。

連戦連勝の日本海軍は

残る アメリカの空母部隊を
撃滅し

戦争の早期終結に
つなげようとしていました。

ミッドウェー島に向かう
日本艦隊のうち

先頭で進撃していたのは

4隻の空母を中心とした部隊。

そして 大和は後方。

この配置には 海軍の作戦がありました。

まず 日本の空母部隊の航空機が
攻撃を加え…。

敵空母に打撃を与えた後

大和の巨大な火力で とどめを刺す。

大和の信号兵だった 廣 一志さんは
当時18歳でした。

決死の覚悟をしていた
廣さんでしたが

やがて大和は
思わぬ行動に移ります。

実は この時

前衛の…

作戦は中止され…

ミッドウェー海戦によって
戦いの流れが変わると

アメリカの猛烈な反撃が始まりました。

米軍によって 海上輸送路が遮断。

力が入れられたのは
いわゆる 人間魚雷

「回天」の生産です。

魚雷を改造した
一人乗りの体当たり潜水艇。

特攻兵器でした。

そのころ アメリカ軍は

圧倒的な戦力で
太平洋の島々を攻略。

そこから 日本本土への空襲を
開始します。

その目標の一つが
呉でした。

海からの攻撃には
無敵とされた呉ですが

空から降る爆弾には 無力でした。

海軍の施設はもちろん
周辺の民家まで

激しい爆撃に さらされます。

1945年の呉空襲を体験した…

逃げ惑った あの日のことは
忘れられません。

(藤枝)2つ… 2つあるじゃろ。

(藤枝)感覚として。

当時 小学2年生だった藤枝さんは
4人姉妹でしたが

空襲で 幼い2人の妹を亡くしました。

この時 呉に投下された焼夷弾は
16万発を超えたといわれます。

大和にも 運命の時が訪れます。

沖縄に展開する
敵の何百隻もの艦艇や

何万もの航空機の中へ
飛び込む作戦。

生還の見込みは
ほぼありませんでした。

大和は 沖縄まで いまだ遠い地点で

300機を超える米軍機の攻撃を受けます。

戦闘開始から 2時間。

無数の魚雷と爆弾が命中した 大和は…

藤本黎時さんの父も
大和と運命を共にしました。

出撃直前 父・藤本弥作大尉は
呉の自宅に帰ってきました。

藤本さんは
この時の会話を覚えています。

戦死してほしいんじゃないかと
私に問いかけるわけです。

…というふうな気持ちがありますね。

大和沈没から 4か月後。

そして 4年に及んだ
太平洋戦争が終わりました。

アメリカをはじめとする
連合国軍の占領下に置かれた 日本。

呉の海は
傷つき 半ば沈んだ軍艦で

まさに
日本海軍の墓場となっていました。

海軍も 東洋一の軍港も消え去った呉。
そこに転機が訪れます。

アメリカの大手造船会社が
やって来たことでした。

あなた方の造船技術が欲しい。

我々の造船技術…
具体的には 何をしろと?

タンカーの建造です。

今後 世界の発展には
石油が欠かせません。

その石油を大量に運べる
タンカーが必要です。

戦後 高まった石油の需要。

それに伴う
タンカーの建造ラッシュは

呉を放っておきませんでした。

タンカーの大きさは?

3万8, 000トンです。

これを… 9か月で
造ってもらいたい。

3万8, 000トン!
それを たった9か月で…。

そんな巨大船の依頼を聞いたのが…

実は…

[ 心の声 ] 誰も見たことのない大きな船を
こんな短期間で…。

まるで 大和の時の西島さんだ。
よし やってやろうじゃないか!

短い期間で 世界最大のタンカーを造る。

真藤は まず
「工数管理」のグラフ作成を始めます。

師である西島と
全く同じ手法でした。

また 「ブロック工法」も採用。

世界最大のタンカーに

西島の 戦艦大和のノウハウが
つぎ込まれました。

そして 9か月後。

タンカーは 期限内で 見事完成。

「ペトロクレ」と名付けられました。

石油を指す英語「ペトロ」と

「呉」が合体したものです。

その後 呉の技術に下支えされた
日本の造船業は 世界一となり

戦後復興の原動力となりました。

大和が沈んで 60年目に開館した
「大和ミュージアム」。

5年前から
ボランティアガイドをしている…

大和のことを見に来た見学者に
必ず 話すことがあります。

ミュージアムでは
回天も展示しています。

呉では 「生きて帰れない船」も造った
という負の部分も

伝えなければならない。

兼森さんの考えです。

明治になるまで そこは
のどかな 一漁村にすぎませんでした。

近代海軍 先駆けの地として
大和の ふるさととして

思いも寄らない道を
たどっていきました。

多くの市民の
喜び 悲しみの舞台ともなった

海軍の町・呉。

「船造り」で 戦後も生き抜いた
この港町は

今も力強く その歩みを進めています。

♬~

さて 私が「歴史秘話ヒストリア」を
ご案内するのは 今夜が最後です。

番組を担当して3年。

皆さんに 94の秘話を
ご紹介することができました。

本当に ありがとうございました。

4月からは 私 渡邊佐和子が
ヒストリアの案内役を務めます。

これからも 歴史にまつわる
秘話中の秘話を どんどん ご紹介します。

どうぞ
よろしくお願いいたします。


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