先人たちの底力 知恵泉 道を開いた女性たち オリンピックメダリスト・人見絹枝、アムステルダム五輪で見せた壮絶な闘いとは?


出典:『先人たちの底力 知恵泉▽道を開いた女性たち オリンピックメダリスト 人見絹枝』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉▽道を開いた女性たち オリンピックメダリスト 人見絹枝[解][字]


困難や偏見と戦いながら、その道を切り開いていった“初”の女性たちがいた。1回目は、日本女性で初めてオリンピックに出場し、メダルを獲った人見絹枝の闘いの人生に迫る


詳細情報

番組内容

明治40年生まれの人見絹枝は、170cmというとびぬけた体格。女学校時代、走り幅跳びで日本記録を更新。その後、スウェーデンでの「女子オリンピック」に、日本からたった1人で参加し大活躍!大会の主催者、ミリア夫人と運命的な出会いを果たす。夫人は、当初のオリンピックが女性の参加を認めていなかったことに抗議して、この大会を主催。夫人の考えに共鳴し勇気を得た人見が、アムステルダム五輪で見せた壮絶な闘いとは?

出演者

【出演】有森裕子,大久保佳代子,大阪大学大学院人間科学研究科教授…木村涼子,【司会】新井秀和




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さあ いらっしゃい。
歴史居酒屋 知恵泉。

今宵は 日本女性初の
オリンピックメダリストに迫ります。

いよいよ来年に迫った…

女性アスリートたちの活躍が
期待されますが

そんな彼女たちの先駆者が

昭和の初めにいたことを
ご存じでしょうか?

91年前のアムステルダムオリンピックの
日本女子代表…

女子スポーツへの偏見が根強かった時代。

人見は 数々の逆境をはねのけ

日本女性として初めて
オリンピックに出場。

見事2位でゴールに入り
初めてのメダルを手にしたのです。

世界記録を いくつも塗り替え

そして 僅か24歳で この世を去った
天才アスリート 人見絹枝。

女性が壁を突破する知恵とは
何なのでしょうか?

それをひもとくのが…。

(実況)有森が銀メダルを獲得! 第2位!

1992年 バルセロナオリンピックで

人見絹枝以来 64年ぶりのメダルを

日本女子陸上界にもたらした
マラソンランナーです。

その後のアトランタでも
ケガに苦しみながら銅メダルに輝き

2大会連続のメダルを獲得しました。

初めて自分で自分を褒めたいと思います。

実は有森さん 人見と同郷 岡山市の出身。

しかも祖母は 人見が通った女学校の
1年後輩でもありました。

そんな人見との不思議な縁を持つ
有森さんは

1996年
日本初のプロランナー宣言をします。

パイオニアとして
アスリートの地位向上のために

道をひらいたのです。

人見絹枝と有森裕子。

日本スポーツ史に燦然と輝く

2人の
アスリートから

女性が新たな道を
切りひらく知恵を

探ります。

大久保さん かつて
オリンピックとか出られたことは?

どういう質問? 私に?
オリンピック出たことあるかと?

一応 念のため…。
ないですね。

セクシーパン食い競争とか
もし そういう競技があればね…。

金メダル?                   金メダル。
こんばんは。

あっ いらっしゃいませ。

よかった。 今 微妙な空気だったんで。
お待ちしてました。

よかった。 助けられました。
どうも。

有森裕子さん お待ちしておりました。
どうぞどうぞ お掛け下さい。

よろしくお願いします。
うれしい。 見てましたもん。

ねえ~。
はい。

いや~ でも 有森さんはね
人見絹枝と同じ岡山出身と。  はい。

もともと人見の存在っていうのは
ご存じだったんですか?

あの~ 知ったのは…
私 高校から陸上始めてるんですけど

その時に 岡山で
山陽女子ロードっていう

女性のためのロードレースが…。
ロードレース。 へえ~。

その冠のネーミングが
人見絹枝杯だったんですよ。   なるほど。

そこからが初めて知った最初ですね。

でも何か いろんな縁も感じてる
っていうことですね。

オリンピックでメダルを初めて取って
自分も。

取ったその日が
人見絹枝さんの命日でもあり

メダルを取った日でもあるっていう。
わあ~ すごい。

そういう縁を聞いて 自分で勝手に…
勝手に近づいていったみたいな。

そんな有森さんもいらっしゃったのでね
今日 ご用意したメニューがあるんです。

それがね こちらなんですよ。
何ですか? こんなま~るい。

どうでしょう?               ホイルで。
これ ホイルで。

どうぞ 開けてみて下さい。

開けていいんですか?
ええ。

あらららららら。
あっ。

そうなんですよ。
このりんごなんですけどね

題して これなんです。 ダダン。

うわ~ 絶対 この店 通わない。
(笑い声)

そんなこと言わずに…。

ダジャレが好きなマスターがいて。
はい ウケました 今。

大丈夫ですかね?
バッチリです。

では 早速ですね
人見絹枝が どのように登場したのか

そこから見ていきましょうか。

明治時代の後半
それまで男子だけだった体育教育が

女子に対しても行われ始めます。

その理由は 夫を支え
元気な子を産むことができる

健康な女性を育てるためでした。

こうして始まった女子体育は
大正時代に入ると本格化。

陸上競技会も開催されるようになります。

一方 批判の声も上がります。

戦前の女子スポーツは
国のすすめる教育と

保守的な価値観の間で
板挟みになっていたのです。

人見は 明治40年の元日
現在の岡山市郊外の農家に生まれました。

幼い頃から男の子に交じって遊び回る
おてんば少女。

思春期に入ると
身長は ぐんぐんと伸びていきました。

10代で身長は170センチ。

女性の平均が 150センチにも満たない中
ひときわ目を引く存在でした。

そんな人見は 13歳で 県内の秀才が集まる
岡山高等女学校に入ります。

ここで熱中していたのはテニス。

袴をはいたままできるテニスは
女子学生の間で大流行していました。

陸上と出会ったのは 4年生の時でした。

テニスコートで見せる
人見の身体能力に目をつけていた顧問が

岡山県の陸上競技会への参加を
勧めたのです。

こうして 大した練習もせず
初めて挑んだ陸上競技。

人見は 走り幅跳びで 4メートル67。

なんと日本記録を超えるジャンプを
見せたのです。

それまでは
持て余し気味だった規格外の体。

人見は 自分の才能を思う存分生かせる
陸上競技のとりこになっていきました。

大正13年 人見は両親の反対を押し切り

体育教師を養成する
東京の二階堂体操塾に進学します。

すると 今度は三段跳びで
なんと世界記録を更新!

一躍 注目を浴びるようになります。

そんな人見を
激しい部数競争を繰り広げていた

大阪の新聞社が広告塔としてスカウト。

人見は 新聞社で
スポーツ記者として働きながら

競技を続けることになったのです。

すごいですよね。 いや まあ 本当に
ありえないぐらいの…。

みんな びっくりしたんじゃないですかね
本当に。

どうなんでしょう。
有森さんは 人見絹枝のように

学生時代から
記録ずくめだったりしたんですか?

私はね もう 全く逆で

高校も 私が入ってからスタートした
都道府県の駅伝なんかも

3年連続 補欠でしたし…。
補欠の時代。

とにかく もう 先生になりたいな
ぐらいに。             指導者側にって。

そうですね。 ただ まあ そのあとに

ちょっとした記録が
少しずつ自分の中で出ていく中で

その変化は起こってきて
自分を もう少し試したいとか。

やはり記録が 一回出たっていうのは
大きかったですね。

さあ 人見絹枝の知恵をね いろいろと
見ていこうと思うんですけれども

戦前
女性のスポーツを取り巻く環境って

かなり今と違うところも
あったと思うんですよね。

ちょっとね その辺り詳しい方がね
そろそろ いらっしゃるって

さっき電話があったんですよ。
電話ありました?

そうなんですよ。 道 混んでるかな?
こんばんは。

お待ちしておりました。
ナイスタイミングです。

3人目のお客様は

雑誌など 当時の世相から
戦前の女性の実態を研究する…

どうぞどうぞ。 お待ちしておりました。

今ね 戦前のね
女性を取り巻くスポーツについて

話 してたんですけれども
結構 でも 普及はしていた?

そうですね。
やっぱり 今のスポーツにつながるのは

学校教育制度の整備からですね。

男子の場合は 軍隊もできました
徴兵制もできましたので

兵式体操を中心としたような…。

まあ 普通体育プラス兵式体操。

女性は そういう体操は
女らしさを損なうということで

普通体操と遊戯とか
まあ ダンスとかですね。

ああいう
柔らかな動きをして…。

競技的なものは
広がったりはしなかったんですか?

やっぱり 走りたい 跳びたいっていう
意欲は 女性にもありますよね。

競技的なことも だんだん
発展していってたんですけれども

ただ 同時に いつも言われてたのは

あまりにも過激に競争しすぎるのは…

女性は 神経が か細いから

やりすぎると
神経衰弱になってしまうとか。

いろいろ勝手に言われるんですね。
女性ほど強いですよね。

神経 か細くないですよね。
ないですよね。 ねえ 本当。

あと 人見は170センチで

その体格もあってか
いろんなバッシングもあったようですね。

私は婦人雑誌の研究を
ずっと続けてるんですけど

婦人雑誌に出てくる分には
人見さんは やっぱり こう…

人気者なんですよね。 アイドル。

でも 一般の新聞
男性が やっぱり作って

男性も多く読むぞ
っていうようなものの中では

やはり 「本当に女なのか?」とか…。
ひどい。

それはひどいことを ちょっと
ここでは ご紹介できないようなことも

新聞に書かれたりして
傷つかれたと思います。

それこそ 本当 差別ですよね。

女性が頑張ってやってるのに
そんなとこから攻めてくるっていうね。

男社会というか
男目線のバッシングですもんね。   はい。

そうやって人見絹枝に対しても
賛否両論 渦巻く中で

人見は そのあと どうやって
結果を出していくことになるのか。

1つ目の知恵から見ていきましょうか。
はい。

選手としてスポーツ記者として
忙しい日々を送っていたある日。

人見は上司から
ある仕事を命じられます。

それは「女子オリンピックに
出場してくれ」というものでした。

女子オリンピックとは
女性だけの国際陸上競技会でした。

4年前の1922年 パリで初めて開催され

2回目が スウェーデンのイエーテボリで
行われるというのです。

新聞社の上層部は

そこに人見を出場させて
記事にしようと考えたのです。

こうして人見は たった一人で日本をたち
船とシベリア鉄道を乗り継ぎ

1か月近くかけて
イエーテボリに向かいました。

初めての海外。

そして 自分の実力が世界に通用するのか。

人見の心は 不安でいっぱいでした。

大会の貴重な映像が残されています。

ヨーロッパと日本を含む
8か国 83人の女性選手が集まりました。

アジアから来た人見は
ほぼ無名に近い存在でしたが

競技が始まると…。

そして走り幅跳びでは 5メートル50。

なんと 世界新記録をたたき出し
1位になってしまったのです。

人見は4つの種目で入賞を果たし

個人総合優勝という結果を出したのです。

栄冠に輝いた人見を
誰よりも驚き 注目したのが

大会の主催者 女性運動家の
アリス・ミリア夫人でした。

そこには
深い理由がありました。

クーベルタンの提唱により始まった
近代オリンピック。

その記念すべき第1回大会。

「参加することに意義がある」と言った
クーベルタンは

女性の参加を認めませんでした。

一体 なぜ?

それに異議申し立てをしたのが
ミリア夫人でした。

女性の参加をIOCに却下された
ミリアは

オリンピックの向こうを張って
女子オリンピックを開催し

女性アスリートの力を
アピールしようとしたのです。

そんなミリアにとって人見は

自身の信念を裏付ける
何よりも頼もしい存在だったのです。

一方 人見もまた ミリア夫人の
考えと行動に大きな共感を覚えます。

さまざまな外国人選手と競い
自分の世界を広げることができたのは

ミリア夫人が女子オリンピックを
開催してくれたからでした。

日本から遠く離れた北欧の地で得た
同じ女子スポーツの道を歩む仲間。

人見は アスリートとして
更なる成長を決意しました。

人見に朗報がもたらされます。

ミリア夫人の粘り強い交渉により
ついにIOCが

オリンピックへの女子陸上競技の採用を
決議したのです。

しかし 一つ問題がありました。

女子に認められた競技は

100メートル走など 5種目のみ。

人見が最も得意としていた走り幅跳びは

行われないことになったのです。

そこで人見は 種目を100メートル
1本に絞ることに決めました。

このころ 国内に
人見の仲間ができています。

双子の美人アスリート
寺尾 正 文の姉妹です。

3人がそろって出場した国内大会では
僅かの差で人見が勝利。

互いに激しく競り合ったことで

当時の世界記録に あと0.1秒にまで迫る
好記録が生まれます。

ライバルとして そして仲間として。

3人は共にオリンピックに出ることを
誓い合っていました。

ところが…。

寺尾姉妹は 雑誌のグラビアを飾ったり

恋愛小説のモデルにされたり。

これに姉妹の父は激怒し

2人は強引に
引退させられてしまったのです。

共に頑張ってきた仲間が脱落したことで

またしても たった一人の代表に
なってしまった人見。

悲壮な決意を固めます。

1928年7月
女子の陸上競技への参加が認められた

アムステルダムオリンピックが
開幕します。

開会式では 日本選手43人が行進する中
唯一の女性である人見が先頭を歩きます。

ところが 思わぬ事態が起こります。

それは 女子100メートル準決勝でのこと。

この時 人見がマークしていたのは
世界記録を持つ ドイツのユンカー。

彼女を押さえれば
金メダルは間違いなしと考えていました。

当初はトップを走っていた人見。

「勝てる」そう思った瞬間

全くノーマークだった選手たちに抜かれ
なんと4着。

人見は勝利を己の使命と課しながら

油断により まさかの
準決勝敗退を喫してしまったのです。

人見は 日本陸上選手団の監督のもとを
訪ねました。

無酸素運動の100メートルと
有酸素運動の800メートルは

全く別の競技。

その無謀さを 監督たちは
必死で言い聞かせようとしました。

なぜなら…

しかし 人見は押し切ります。

唯一の女子選手としての悲壮な覚悟を
固めていたのです。

8月2日
800メートルの決勝が始まります。

第1コースの人見。

人見は トップに躍り出ます。

短距離選手の自分が勝つには

前半でリードし
逃げきるしかないと考えたのです。

しかし この作戦は失敗でした。

異常なオーバーペースを続けた人見は

300メートルを超えた辺りで

失速していきます。

1周目を過ぎ
順位を5位にまで落とした時

人見は 監督のアドバイスを思い出します。

人見は大きく腕を振り
猛烈な追い上げを見せ始めました。

最終コーナーで
ついに2位の選手を捉えます。

あと一人。

人見は2位でゴール。

1位の選手に
あと2メートルにまで迫っていました。

日本女性初となるメダルをひっ提げて
アムステルダムから戻った人見は

国民から大喝采で迎えられます。

しかし 当の本人は
虚脱感に襲われていました。

800メートルで限界を超える力を
絞り出したからでしょうか…。

心身ともに疲弊してしまったのです。

練習も休みがちになりました。

そして 人見は
引退を決意します。

その決断を海の向こうの大切な仲間に
伝えようとしました。

ミリア夫人です。

すると ミリア夫人から
こんな返信が届きました。

手紙の向こうに
ミリア夫人の笑顔が浮かんできて

勇気が湧いてきました。

そして人見は 新たな目標を定めます。

それは 仲間と一緒に チームとして
国際大会に出場することでした。

すごい。
ねえ。

100メートルで出場して
銀メダルを取ったのは800メートル。

急きょ出たっていう これ
有森さん どうですかね?

800って 全然走りが違うので
100と800って。

まず 挑戦のイメージも湧かないですよね
通常は。

でも やはり そこを
チャレンジしたっていうことは

よほど
すごく追い詰められてたというか

その思いだけで走ったんだろうなって。
400メートルでも だいぶ落ちてて

残りのとこから 手を振るだけで
あそこまで行けるもんなんですか?

いや~ でも よほど 何か…
筋力もさることながら気持ちですよね。

気持ちだけですよね きっと。

追い詰め過ぎたから やっぱり
ああやってレース終わっちゃうと

ちょっともう 気力が一回
失いかけちゃったんですかね。

もう 何かこう 脱力感というか

多分 精神 自分が思ってる以上に
使っちゃった… 体力もそうですけど。

まあ本当に 体も心も

ある意味 何かが ザッと抜けた感じに
なったのかなっていうのは。

でも それを救ったのがミリアだって…。

海を越えた向こうの女性だった
っていうのが すごいですね。

周りにも いろんなね
指導者だったりいたろうに。

思わぬところに仲間がいるって
まさにね この知恵でしたよね。

でも先生 ミリアもね

女性に向けられた偏見と闘う
一人だったというわけですよね。

そうですね。 オリンピックが始まって

女子も そこに参加をって思ったところ

女子に激しい競技は
向かないっていうことから

オリンピックから
いわば排除されたような形になって

それで アリス・ミリアが やっぱり
「じゃあ 女子だけ集めて

女子オリンピックをしよう」っていうのを
パリで1回目にやって。

そしたら IOCから 「オリンピック
っていうのを使うな」って言われて。

で ちょっと別の名前にしたけど

まあ いわゆる女子オリンピックとして
語り継がれてますね。

男って ちっさいですね。
「名前を使うな」なんてね。 やだ~。

そんな嫌がらせしたんですよ。
嫌がらせ 本当に。

意外だったのがね
銀メダルを取ったあとに

一度は引退を考えたという
人見ですけれども

有森さんは どうでした? メダルを
取られたあとの心境といいますか…。

自分は 何か
もっとこうしたいって思っても

言えば言うほど 周りと かみ合わなくて…

ともすれば引退するっていう。

そういう 何となく
空気しか感じられない自分だったし…。

やっぱり あれですか?
そういう 気持ちが落ち込んでしまうと

スランプみたいなものにも
陥ったりするんですかね?

それをスランプって言われるのが
すごく嫌だったんですよ。

私はスランプに落ちてるんじゃなくて…

自分のやる気がなくなったわけじゃ
ないんですよ。

でも 絶対言われました。
「スランプに落ちるんだよ」とか

「気持ちが脱力するんだよ」とか。

それはもう オリンピックで ああいう成績
取ったからって 勝手に決められて。

じゃなくて
この現状に私は困ってるっていうこと。

自分の気持ちが落ちてるわけでは
全くないっていうことを言うのも

何か通じなくて。
確かに 難しいかもしれないですね。

安易に言っちゃいますもんね。
「スランプでしょ」みたいなね。

そういうふうにしか周りに映らない
っていうことも

非常にこう 自分の中では
どう理解していいか分からないっていう。

いろんな形で だんだん崩れていきました
気持ちも体も。

唯一 あの当時 バルセロナに出て
3位には入りませんでしたけど

4位になった山下佐知子さんとかが
話ができたぐらいでしたよね。

再び次を目指そうって思えたのは

山下さんとのつながりがあったから
ってことなんですか?

そうですね。 彼女も同じように
実業団も所属してましたし

その現場で
何となく似たような体験をされてたし。

でも それでも頑張ろうねって
頑張らなきゃねって言って

2回目のオリンピックを目指す時は
彼女も目指したんですよ 一緒に。

結局 彼女は目指せなくて断念して

私が まあ 引っ掛かって
出れるようになった時に

同じ本当その苦しみと その経緯を
ず~っと知ってる彼女から

オリンピックを迎える年のお正月に
送ってきた手紙に…

葉書を… もちろん
ほかに文章あったんですけど

最後の締めで 「とにかく頼むから

スタートラインにだけは立ってくれ」
っていう

そういう手紙をもらった時に

やはり こう… 一緒に越えてきた時間を
本当に分かってくれていて

「その中で出れる あなたはね」っていう
その思いが 全部伝わって

あの手紙なかったら 多分 私 そのあとは
続いてなかったかもしれないですね。

すばらしい手紙ですね。
ねえ。             ねえ 本当。

なかなか あんまりたくさん
同じ種目で

選手同士が こう
気持ちを分かち合うというか

ないんですけど
本当に あの時 あの当時は

もう 山下さんの存在は大きかったですね。

人見は 今の有森さんの山下さんのような
存在の人とかっていうのは

いたんですかね?
いらしたみたいですね。

十数年前に スウェーデンの
イエーテボリ大学に

訪問したことがありまして

市民の人たちが作ったアルバムですよ
っていうのを見せてもらって。

人見 人見 人見って書いてあるんですよ。
ここにも人見 ここにも人見。

いろんな場面で活躍している
人見絹枝の写真が

一般人が すごくきれいに撮って
その中で生き生きと競技してる写真と

それから一緒に参加してた
ほかの国々の選手たちとの集合写真とか

笑顔 笑顔 笑顔が いっぱい写ってて。
すご~い。

真面目顔しか日本のメディアには
載ってないですし

そんな幸せそうな写真を見たのは
本当に印象的だったので…。

そうなんだ。 意外と日本でいて

いろんな頑張れよっていう重圧とかが
あるより 海外行った時の方が…。

初めてだったんじゃないですかね
海外で。

解放…。
解放感あったのかもしんないですね。

そこに行けば
自分と競い合える人たちがいて…。

話が通じて。

仲間を見つけたっていう 最初の
体験だったんじゃないでしょうかね。

さあ 続いてなんですけれども
オリンピックのあとのですね

人見絹枝の知恵を
味わっていきたいと思います。

引退の危機を脱した人見が
次の目標に定めたのが

翌年 プラハで行われる
第3回 女子オリンピック。

すぐさま人見は
全国から有望な選手たちを集め

6人のチームを結成しました。

しかし
チームをプラハに派遣するためには

1万5, 000円もの費用が必要です。

現在の価値に換算すると
およそ4, 200万円。

女子スポーツ連盟はできたばかりで
そんな大金を用意することはできず

正式なオリンピックではないため
国からの援助も期待できません。

人見はトレーニングのかたわら
資金集めに奔走することになりました。

まず行ったのが
企業を回り 寄付金を募ること。

しかし まだ
女子スポーツへの理解は得られず

思うような結果につながりません。

そこで アムステルダムオリンピックの
映画の上映会を開き

入場料を集めようとしましたが…。

経費がかさみ かえって借金を抱える始末。

八方塞がりの状況に頭を抱える
女子スポーツ連盟の役員たち。

ここで 人見が ひらめきます。

全国975の高等女学校に通う
およそ40万人の女学生。

彼女たちに 一口10銭
現在の価値にすると

280円ほどの寄付を
募るというのが

人見のアイデアでした。

チームを陸上選手の代表としてではなく

日本に生きる全女性の代表として
連帯を呼びかけようとしたのです。

それからというもの 人見は

昼は 本業の新聞記者として働きながら
夕方からは 競技場で陸上の練習。

そして 夜は遅くまで
寄付を呼びかける手紙を書きました。

こうした努力のかいあって

出発する1週間前
ようやく目標額1万5, 000円が集まり

日本代表チームは プラハに向けて
出発することができました。

集まった女性たちは

「君が代」を歌いながら
送り出したといいます。

そして 第3回 女子オリンピックが開幕。

参加選手は300人と 前回の3倍以上。

そして日本チームも
人見を筆頭に6人が堂々と行進します。

しかし 人見は体調を崩していました。

プラハに向かう道中 シベリアでひいた
風邪をこじらせていたのです。

それでも 人見は
気を吐きます。

さまざまな種目に参加し入賞した上に

走り幅跳びでは1位!

しかし 人見が最もこだわったのは

個人ではなく
チームとして結果を残すこと。

人見は 入賞が有力視されていた
個人200メートルを棄権し

400メートルリレーに全てをかけます。

日本女子チームは 400メートルリレーを
一丸となって戦い

結果 4位入賞を勝ち取ったのです。

帰国後の人見は 休む間もなく
講演や寄付のお礼で 全国を駆け回ります。

激闘を経て 疲労困ぱいの体に

追い打ちをかけるかのような
多忙な日々は

彼女を
次第に むしばんでいくことになります。

翌年4月 自宅で喀血します。

3か月の闘病の末
人見は 24歳の若さで亡くなります。

燃え尽きたかのような死でした。

その翌年 ロサンゼルスで開かれた
オリンピックには

陸上で9人 水泳で7人 合わせて16人の
日本女子代表が出場しました。

人見がまいた女子スポーツの種が
実を結んだのです。

う~ん。 24歳は若いですね。

何かもう これからも いろんなことが
広がっていきそうな感じの時に

それを見届けられず亡くなっちゃう
っていうのは ちょっと気の毒ですね。

残念ですね。
生きてたら いろんなことを広げて

可能性 すごい感じますよね。

生きてらっしゃったら
もっと いろいろ学びたかったですね。

先生 その寄付を呼びかけて
当時の女性たちの心を動かしたのは

どういうとこだったんですかね?
いろんなところで 女性が

不利な状況に置かれてる
っていうことに対する不満と

もっと よりいい状況になりたい
っていうふうな願いが

常に潜在的に存在してたと思うんです。

そこに 火を うまくつけることができた
っていうのが

成功のカギだったんだろうなと思います。

大久保さん どうですか? 連帯して
みんなと何かを闘ったっていう…。

今の話聞いて ちょっと言うことじゃ
ないかもしんないんですけど

女芸人の子たちと温泉ロケ行くと
タオルが用意されてるんですが

それって 意外と男性スタッフが
用意したタオルって

丈が短かったり 薄かったりね
ちょっとするんですよ。

わざとですかね?
何も考えてないんですよ。

それは みんな 女芸人で抗議しに行って…

「見えますよ」って言って
厚い長いタオルをゲットしました。

すばらしい。
大切なことですよね。

すごい大切なことですよね。
そうなんですよ。

やっぱ 男社会だから
分からないこともあるから

そういうのは みんなで言って
変えてくって。

言った方がいいです。
ねっ。 言わないと変わらないですからね。

人見がね 連帯した一つの理由として

後進を育てたいっていう思いも
あったと思うんですけれども

有森さんの
アトランタオリンピックのあとの

いわゆる
プロ宣言といわれるものですけれども

あれも後輩たちに道をひらく
っていうことなんですかね?

最終的には
その流れを望むことになりましたね。

プロ宣言っていわれるものは

具体的に どういうことを
求めていったんでしたっけ?

スポンサーとって 自分にとって
走ることで お金を得ようとした時に

これは許可がいるって。 あなたが
肖像権 自分の持ってないからって

話が出てきて 「何で自分の肖像権は
自分が持ってないんだろう」っていう

そこに疑問が出てきて。

これは 競技協会に属した段階で
その協会が もうJOCに一括管理を

してるっていうふうに
初めて知ったんですよ。

もちろん 最初は やはり自分が

スポーツを通して生きていきたい
っていう思いを

一生懸命 訴えながら
考えて いろいろ投げていって。

その最後に
「じゃあ とにかく もういいよ」って。

「じゃあ 特例ね」って言われた瞬間に
いやいやいや 特例じゃ困るんだと。

有森裕子だから それができたとか
してもらえたなんてじゃなくて

これからあと 絶対 私以上に
すごい選手が出てきた時に

私のだけの例だと困るんだと。

だから「特例ではなく前例じゃないと困る」
っていうのを言った時に

この流れを 考え方とか思いを
継いでほしいっていうのは

その時に ざっと生まれたのは
ありましたね。              へえ~。

そんな感じでした。
なるほど。

さあ 今日は 人見絹枝の知恵を
味わってまいりましたけれども

どうですか 大久保さん
通して見てきて。

人見さんが すごい人だっていうのは
分かったのと

来年のオリンピックの見方が

今 女子が活躍してるのは
人見さんみたいな方たちがいて

こうなってるんだっていうのが
いろんなの踏まえて見えそうだから

楽しみ方が 深みが
持てそうな気がしました。

なるほど。     よかったです。
ボ~ッと見るとこでした。

(笑い声)

さあ では最後にですね 女子マラソン初の
メダリストの有森さんにですね

どうでしょう 初めてを成し遂げるための
極意って 教えて頂けますかね?

やはり もう とにかく 自分の思いを

自分自身に思い続けること
言い続けることと

それに少しでも近づけることの行動の…。

まあ 何でもいい ちっちゃくても
起こしていく 起こし続けること。

それは いつか
誰かの目に留まるんですよね。

誰かの目に留まるし
誰か何かを感じてくれる。

それは 良いも悪いも感じてくれる。
忘れられない存在になる。

忘れられないから 何を
やってるんだろうと興味を持ってもらう。

そして それが いずれか思いが届いて
応援につながって

形にできて 変化を起こせるっていう。

やっぱり 本当 思いを続けること
動き続けること

そして 自分に言い続けることっていう

これは
ものすごく大事なことだと思います。

ありがとうございます。

今日は どうも
ご来店ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。


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