昭和偉人伝 #126 最終回 南こうせつ・島倉千代子・三橋美智也 なぜ3人の歌声は聴く人の胸を震わせるのか…波乱の人生に迫る!



出典:『昭和偉人伝 #126 最終回 南こうせつ・島倉千代子・三橋美智也』の番組情報(EPGから引用)


[字]昭和偉人伝[終] #126「南こうせつ・島倉千代子・三橋美智也」


昭和の歌謡界にあって今なお多くの人の心に輝きを放つ、南こうせつ、島倉千代子、三橋美智也。なぜ3人の歌声は聴く人の胸を震わせるのか…名曲の魅力と波乱の人生に迫る!


詳細情報

番組内容

フォーク界で若者たちを熱狂させた南こうせつ。壮絶な人生から紡がれる歌声で魅了し続けた島倉千代子。ヒット曲を連発しスター街道を走り続けた三橋美智也。なぜ3人の歌声は聴く人の胸を震わせるのか…。

南は、ボブ・ディランに影響を受け、歌手を目指して東京へ。かぐや姫を結成後、「神田川」が大ヒット。「妹」「なごり雪」などの名曲を世に送り、吉田拓郎や井上陽水らと一世を風靡。ソロ転向後もフォーク精神を貫き続ける。

番組内容2

幼少期に戦争を経験した島倉は、16歳で「この世の花」でデビューし、スター歌手に。だが、さまざまな危機が島倉を襲う。奮い立たせたのは、歌手を志すきっかけとなった美空ひばりだった。

民謡歌手だった母親の血を引く三橋は、9歳で「北海道民謡コンクール」日本一に。スター街道を走り続けるその輝きの影で、不幸が襲う。試練に見舞われながらも哀愁の歌声を響かせ続けた。

3人の名曲の魅力を探り、その波乱の人生に迫る。

出演者

【語り】國村隼

初回放送日

2019/3/20

番組概要

国家壊滅の状態から未曾有の成長を遂げた時代・昭和。そこには、時代を先導したリーダーがいた。そんな偉人たちを、独自取材と真実のインタビュー、さらには貴重な映像を交じえてつづる、波乱万丈の偉人伝。

番組ホームページ

<番組ホームページはこちら!>www.bs-asahi.co.jp/ijinden/

制作

BS朝日、JCTV




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昭和偉人伝 #126 最終回 南こうせつ・島倉千代子・三橋美智也
  1. 島倉
  2. 昭和
  3. 三橋
  4. 神田川
  5. 三橋美智也
  6. 自分
  7. 作品
  8. 島倉千代子
  9. 時代
  10. フォークソング
  11. 音楽
  12. ヒット曲
  13. ホント
  14. 伊勢正三
  15. 歌手
  16. 作曲
  17. 作詞
  18. 出会
  19. アルバム
  20. 歌声


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それは
日本が育ち盛りの時代でした。

明日は 今日より きっと良くなる。

誰もが そう思っていた。

キラキラと輝いていた彼らが
時を越えて…。

♬~

お元気ですか?

青春の記憶を呼び覚ます
叙情派フォークの名曲『神田川』。

今宵の偉人は

伝説のフォークグループ
かぐや姫を率いて

数々の名曲を世に送り出した
南こうせつ。

さらに 戦後の歌謡界を支え

多くの人々の人生の支えとなった
2人の偉人。

『人生いろいろ』 島倉千代子。

そして…。

望郷歌謡の名曲
『達者でナ』の三橋美智也。

世代やジャンルを超えて

激動の昭和を歌と共に駆け抜けた
3人の歌手。

その人生を紐解く。

南こうせつ 伊勢正三
山田パンダの3人組 かぐや姫は

それまでのフォークソングが
大切にした メッセージ性より

若者の感性に寄り添った
叙情派フォークを確立。

いよいよ
日本のフォークがきたかという

なんか 流れを感じましたね。

自分たちの生活に
根ざした歌っていうのは

そのとおり ピッタリに

街の風景にも
はまるわけですよね。

かぐや姫の伊勢正三が
作詞 作曲した『22才の別れ』。

メンバー3人が躍動し

前途洋々に見えた
かぐや姫の未来。

ところが わずか4年で解散。

さらに ヒット曲『神田川』の存在が
こうせつ自身を苦しめる事に。

やっぱり 人間
それだけをやってくれよだの

あんたは そういう人だ
って言われたら

それは誰だって嫌でしょ。

とっても自然な抵抗感ですよね。

当時は やっぱり
まだまだ創成の時代ですからね。

南こうせつ 『夢一夜』。

ソロになった こうせつは
ギター1本で全国を回り

歌うべき自分の歌を探す旅に出た。

一方 昭和30年代の望郷歌謡で

歌謡界を席巻した 三橋美智也。

レコードを出す度
次々に売り上げ100万枚を突破。

三橋の伸びやかな歌声が
大衆を魅了した。

♬~「おぼえているかい」

…ってやつですね。

♬~「故郷の村」

♬~「村を」

このね ここが難しいんですね
やっぱり。

三橋さんのは 上品にスムースに
展開しますよね それが。

耳に 非常に聴き心地がいい形で。

三橋美智也 最大のヒット曲
『古城』。

ところが 絶頂期の三橋を
思わぬ事態が襲う。

試練を乗り越えた先に
広がっていた世界。

島倉千代子は
ずば抜けた歌唱力と表現力で

一躍スターに。

その裏側には
命を落としかけた事故と

背負ったハンデを歌で克服した
壮絶なドラマがあった。

島倉さんの声がね
あれは ずるいですね。

お千代さんが歌うと

あの声とビブラートの回し方で
やっぱりジーンときますよね。

哀愁を帯びた島倉の歌声は

多くの人々に愛された。

同い年の女王 美空ひばりとの
知られざる関係とは…。

だが 島倉は人気絶頂の裏側で

様々なトラブルに見舞われる。

島倉は 窮地に陥る度
歌う事で幾度も救われてきた。

そして 病に倒れたあと

最後の曲を 南こうせつに託す。

自分の中で考えてる
あらゆるものを超えて

魂に 直接
訴えかけてくるもの

心に 直接 響いてくるもの…。

音楽っていうのは

ホントに 素敵な力を持ってるなと
思いますね。

(観客)こうせつ!

(観客)こうせつ!

歌の持つ力が
多くの人々や歌い手自身の心を

大きな愛で包み込む。

いつの時代も 歌は
懸命に生きる人々のそばにあった。

歌と共に歩み続ける
南こうせつ。

今も輝き続ける
島倉千代子 三橋美智也。

学ぶべき世界が ここにある。

昭和47年 中国から

ジャイアントパンダの
ランランとカンカンが贈られ

上野動物園で公開。

愛くるしい姿を ひと目見ようと
長い行列ができた。

一方 社会に目を向けると

軽井沢の別荘地で 連合赤軍による
あさま山荘事件が発生。

数日間に及んだ籠城の様子が
テレビで生中継され

日本中の目を釘付けにした。

過激派による反体制運動が
終焉に向かう中

若者たちは 日々の暮らしに
目を向け始めていた。

そんな時代の風を受け

若者が支持する
フォークソングも

新たな時代を迎えようとしていた。

カリスマ的人気を誇った
よしだたくろうの『結婚しようよ』。

そして…。

ビロードの声を持つ
天才アーティスト 井上陽水

『傘がない』。

さらに…。

泉谷しげるのメッセージソング
『春夏秋冬』。

フォークソングの世界でも
声高に主張を叫ぶより

日々の暮らしを歌う作品が
支持され始めた。

そうした流れの中
あるフォークグループが

初めてのアルバムを
世に送り出した。

昭和47年 南こうせつとかぐや姫の
初アルバム 『はじめまして』より

『加茂の流れに』。

作詞 作曲は

リーダーの南こうせつ。

かぐや姫は こうせつと
ギター 伊勢正三

ベース 山田パンダの
トリオで結成。

かぐや姫と同世代の泉谷しげるは

こうせつの歌声に
衝撃を受けたという。

あの高い声と
ファルセットのすごい声と

日本人離れしたきれいな声は

本当に顔と一致しないというか…
素晴らしいなと思いますね。

アーティストだなと思いますよ。

実は このかぐや姫の前に

こうせつが参加した
第1期かぐや姫が存在した。

しかし 思うような活動ができず
解散したいきさつがある。

リーダーの南こうせつに

2つのかぐや姫を巡る思いを
尋ねた。

シングル盤でヒット曲を出そう
という考えが

もう そもそも間違えてる。

一曲一曲 丁寧に歌を作り

一曲一曲 若者たちの心情を
共に共有するっていう

楽曲を書いていこう。
そして…。

自分たちの 今度の…
なんていうか…

理想とするバンドを作るための
色んな意味で

その… 前のかぐや姫は
勉強になりましたね。

かぐや姫 渾身の
ファーストアルバム

『はじめまして』は
2万枚を超える売り上げを記録。

無名のバンドとしては
驚異的なセールスだった。

その後 ステージで収録した
ライブ盤を挟み

昭和48年に出したアルバム
『かぐや姫 さあど』では

3人のメンバー全員が詞を提供。

その中から 山田パンダの作品
『僕の胸でおやすみ』が選ばれ

シングルカットされた。

この『かぐや姫 さあど』で
B面に収められた曲の中に

レコーディングの直前まで
完成が危ぶまれていた作品がある。

作詞を依頼した喜多條忠から
締め切りを過ぎても詞が届かない。

レコーディングが迫り

曲をつける こうせつも
焦りを感じていた。

今日までに詞がないと
録音が間に合わない。

そのギリギリのタイミングで

喜多條から電話があった。

できたばかりの詞を
電話口で伝えると言われ

こうせつは
スーパーの広告チラシの裏に

詞を書き留める。

「貴方は もう忘れたかしら」

「赤い手ぬぐい
マフラーにして」…。

詞を受け取りながら
不思議な何かを感じた。

電話口で聞いた歌詞が

そのまま
メロディーになるような感覚。

じゃあ 2番いくよ とか言って

「二十四色のクレパス買って」

「貴方が書いた似顔絵」…。

「いつもちっとも似てない」…って
こう 書くんですね。

その書いてる時にね

なんとなく
メロディーを口ずさんでるの。

不思議でしたね。

なんとなくね…。

♬~「若かったあの頃
何も怖くなかった」

…って もう 歌ってるんですよ。

うーん… 不思議でした。

そして 『神田川』できました。

アルバム 『かぐや姫 さあど』より
『神田川』。

この曲が
ラジオの深夜放送で流れると

リクエストが山のように届き

急きょ シングルカットされた。

そして 瞬く間に
ヒットチャート1位に。

ヒットを目指した曲じゃなくって

なんか こう 作品として
当時の…。

レコード会社は
宣伝費 出さないで

リクエストによって
1位になっていったんですね。

学生時代から
かぐや姫のメンバーと交流のある

フォークシンガー イルカが

初めて『神田川』を聴いた時の
印象を語る。

いよいよ
日本のフォークがきたかという

なんか 流れを感じましたね。

なんか その…
もう 混沌とした中から

アメリカンフォークやったり
コピーやったり 色々…。

プロテストソングもやって…。
そういう中から

やっぱり 自分たちの
本当の生活に根ざした歌を…。

等身大の歌。

こういうものなんだってものが

こう いよいよ到来してきたんじゃ
ないかなって。

そういうものを感じましたね。

若者に強い影響力のあった
ラジオの深夜放送で

圧倒的な支持を受け

『神田川』は 売り上げ160万枚の
大ヒットを記録した。

なぜ これほど
『神田川』が支持されたのか?

こうせつは 平成31年発売の自伝
『いつも歌があった』の中で

こう述べている。

昭和49年の『妹』。

かぐや姫が次々に生み出す
ヒット曲は

フォークソングに
なじみのない世代の心も

動かしたのである。

かぐや姫を率いるリーダー
南こうせつ。

その音楽性や人間性は
どのように培われたのだろう?

彼の足跡をたどると

自然豊かなふるさとを駆け回り

愛と笑いに満ちた
時間を過ごす

少年の姿が
浮かび上がってきた。

に収録された『ひとりきり』。

歌詞に出てくる
「竹中」という地名が

こうせつの生まれた
ふるさとである。

南こうせつは

昭和24年 大分県 竹中村
現在の大分市で生まれた。

実家は 曹洞宗の寺で

末っ子の三男坊。

私は 田舎で育ちましてですね。

で ラジオから
色んな歌が流れてくるんですね。

田舎の放送局でしたから
歌謡曲が多かったんですけども。

三橋美智也さんの歌がね
なんか こう… しびれましてね。

とかね よく
子どもで 鬼ごっこしながら…。

とか言いながら
鬼ごっこしたもんですね。

その日
近くの家で宴会が開かれていた。

当時 小学2年生だった
こうせつは

近所のおじさんたちにのせられて

十八番の『哀愁列車』を歌った。

♬~『哀愁列車』

歌い終えると 酔っ払った
近所のおじさんたちから

10円玉のおひねりが飛んできた。

もう 檀家さんも
酔っ払ってるもんだから

はい! とか言って
おひねりが飛んできましたね

10円玉が。
当時10円玉は大きかったですよ。

もう喜んでね それ頂いて。

あっ 歌えば
金になるなっていう

なんとなく その…
潜在意識の中にあったんですかね。

こうせつが小学生だった
昭和30年代前半。

日本は高度経済成長時代を迎え

地方の若者が集団就職で
都市部へ働きに出た。

「金の卵」と呼ばれ
都会で暮らす若者たち。

ふるさとを懐かしむ
望郷歌謡がヒットしたのである。

『別れの一本杉』の春日八郎。

『チャンチキおけさ』の三波春夫。

『王将』の村田英雄。
そして三橋美智也。

さらに 美しい歌声で
スターの座を射止めた

ラジオから流れる望郷歌謡は

こうせつ少年の歌心も刺激した。

♬~「からたち からたち
からたちの花」

っていう あのかわいい
コロコロ コロコロしたね…。

『からたち日記』とかですね…。

『東京だョおっ母さん』とか
大好きでしたね。

こうして
スターが競い合うように歌った

望郷歌謡は
人々の心を大いに慰めた。

特に 三橋美智也は

昭和30年代の歌謡界で
圧倒的な人気を誇り…。

とまでいわれたほど。

しかし 三橋の歩んだ歌手人生は

波瀾万丈。

険しい茨の道だった。

三橋美智也が少年の頃に録音した
『江差追分』。

三橋は 昭和14年の
北海道民謡コンクールで

優勝したほどの天才少年。

昭和5年 北海道 函館に近い
上磯峩朗という町で

三橋美智也
本名 三橋美智也は生まれた。

父は幼い頃に亡くなり

母 サツが
愛情を持って三橋を育てた。

若い頃 民謡歌手だった母は

三橋に厳しく民謡を仕込んだ。

小学校を卒業すると

三橋は 家庭の事情から
進学を諦め

民謡歌手に交じって 巡業に参加。

つらい旅巡業に耐え
貧しい家計を助けた。

美空ひばりの
『越後獅子の唄』が流れた

昭和25年。

二十歳になった三橋美智也は
1人で上京。

東京で 民謡歌手の腕を
試したかったのである。

しかし 民謡を歌える場所がない。

方々 探し回り

横浜 綱島温泉で
ようやく 職を得た。

三橋は ボイラー番や雑用をして
働きながら

空いた時間に 温泉に通う常連客に
民謡を教え始める。

その後 意外な形で
転機が訪れた。

綱島温泉で民謡を教えていた
弟子 平野繁松が

NHKの 素人のど自慢で優勝。

平野は キングレコードで
録音する事になり

三味線の伴奏として
三橋が同行したのである。

録音が始まると
緊張のせいか 平野は

何度も テンポを外した。

見かねて 手本を示す三橋。

すると
レコード会社のディレクターが

顔色を変えた。

帰り際 ディレクターが
三橋に 声をかけてきた。

三橋は その場で 歌手として
スカウトされたのである。

上京して5年 三橋美智也は
レコードデビューを果たす。

昭和30年の『おんな船頭唄』は
待望の初ヒット曲。

『おんな船頭唄』は

三橋の最大の魅力
伸びやかな高音が映え

220万枚の大ヒットを記録した。

昭和31年 『リンゴ村から』は
望郷歌謡の代表曲。

歌手 小椋佳にとって
忘れられない作品だった。

♬~「おぼえているかい」

♬~「故郷の村」

♬~「村を」

このね ここが難しいですね
やっぱり。

これもね…
のちの演歌の人とか ほら

がなり歌にして
歌っちゃう場合があるでしょ。

あれは 僕…
下品で好きじゃないですね。

三橋さんのは 上品にスムースに
展開しますよね それが。

耳に 非常に聴き心地がいい形で。

昭和30年代
三橋美智也と共に

人々の心を捉えた
望郷歌謡の担い手たち。

昭和32年

春日八郎の
『あん時ゃどしゃ降り』。

そして…。

昭和32年

浪曲から歌謡曲に転じた
三波春夫の『チャンチキおけさ』。

さらに…。

男 村田英雄のミリオンセラー
『王将』。

そして 望郷歌謡の頂点に立つ
三橋美智也は

時代を超えて歌い継がれる名曲を
世に送り出した。

昭和34年の『古城』。

三橋の美しい歌声が
哀愁を醸し出す。

売り上げ300万枚。
記録的な大ヒットとなった。

三橋美智也さんは天才でしょ。

あれは もう…

ひと声聞きゃあ
三橋美智也ですからね。

もう… あのキーで

しかも ブレスがないという
珍しい歌い方をしてらっしゃるし

あの抜け方というのは やはり…

さすが 民謡やってきてる人たちの
底力みたいなものがあって…。

すごいですね。

とんでもないヤツです。

大衆が抱く
望郷の思いをすくい取り

歌謡界で頂点を極めた
三橋美智也。

そんな三橋に憧れ
歌う喜びを覚えた南こうせつは

音楽体験を重ねながら

大きな出会いを
迎えようとしていた。

日本のフォークソングを代表する
名曲 『22才の別れ』は

かぐや姫のアルバム
『三階建の詩』で発表された。

作詞 作曲した伊勢正三は

南こうせつの高校時代の後輩。

2人が出会ったのは

大分市内にある名門
大分舞鶴高校。

10代後半を迎え こうせつの興味は
洋楽に移っていた。

フォークソングの神様
ボブ・ディランが歌い

世界中で愛された『風に吹かれて』。

「はあ~!
歌って こういう歌があるんだ」。

「お前を抱いてやる」と。
「朝まで離さない」。

「キスを何回してやる」とか。

そういう歌が多くて それも
すごい好きだったんだけど…。

キスどころじゃないぞと
今 社会は…。

ベトナム戦争とか 大変だぞ。
そっちに いくんですね。

高校時代のこうせつは
フォークソングの風に吹かれて

新たな音楽の魅力に目覚めた。

高校3年の時

楽器のできる1年生 2人を誘い

ヤング・フォーク・スリーというバンドを結成。

そのうちの1人が伊勢正三だった。

愛称は「正やん」。

噂で なんか 新入生で
すごくギターがうまくて

それで あの… 声がよくて。

…いるっていうのを聞いて
勧誘に行って。

正やんと… 後輩の伊勢正三と

もう一人 釘宮さんって 今
お医者さんになってますけども。

彼と3人で

ヤング・フォーク・スリーっていう
バンドを作りました。

ギターを持っていれば
不良少年と呼ばれかねない時代に

県下有数の進学校
大分舞鶴の文化祭で

3人はフォークソングのライブを
決行した。

もう すごいよかったです。

みんな 大拍手で。

ギターを持って 3人で歌って

ハモるっていう事自体が
もう 珍しい時代ですから。

もう 学生… 当時の同級生は
みんな ビックリしてましたね。

昭和42年
高校を卒業した こうせつは

上京して 明治学院大学に入学。

しかし
プロの歌手になろうという意志は

それほど強くなかった。

ビートルズが出てきた。
ストーンズが出てきた。

ビーチ・ボーイズが出てきた。

全部 東京からの情報。
一気に 東京 目指すんですよね。

それは

そして 音楽に携わる仕事が
できたらいいなと

漠然と思っていました。

当時は 70年安保の前夜で
学生運動も激しく

大学はロックアウトされ
ほとんど休講状態。

こうせつは
大学のフォークサークルに入り

アマチュアバンドの運営を
手伝いながら

人脈を広げていく。

明治大学の学生で
ベースを弾いていた

山田パンダと出会ったのも
この頃である。

色んな大学生同士の
フォークソングをやっている人たちが

交流が すごくあったんですよね。

その中に
こうせつさんもいらして…。

それで なんか でも こう
黒縁の眼鏡をかけている

とても こう…
なんていうのかな?

楽しげな男の子だなっていう
イメージはあったんですけれども。

もう その当時から
ホントに なんか こう

ピカッと こう
光っている存在でしたね。

昭和45年のある日

レコード会社の
オーディションを受ける友人が

付き添ってほしいと
こうせつに頼んできた。

友人に付き添い こうせつが
チューニングを手伝っていると

レコード会社の社員が
声をかけてきた。

ところが
飛び入りで参加した こうせつが

オーディションに合格。
ソロデビューが決まる。

ソロデビューで 約束どおり
レコードを作ってくれたんですね。

そして 発売して

友達からも家からも
買ったって 買ったって

何件も入ってきて…。

これはヒットしてるわ~!
相当 売れてるなと…。

しかし 買ってくれたのは
身内だけ。

レコードの売り上げは 200枚。

これではダメ。 売れないとダメ。
ウケないとダメ…。

そんな思いから 昭和45年

学生フォークで知り合った友人に
声をかけ

南高節とかぐや姫を結成した。

だが 契約した会社は
演歌色の強いクラウンレコード。

かぐや姫は

北島三郎ら演歌系の歌手と
同じ手法で売り出された。

五木ひろしが 三谷謙の名で

テレビのオーディション番組を
勝ち抜いていた時

かぐや姫も同じ番組に出場した。

その時に歌った曲…。

番組の審査員席を あ然とさせた
『酔いどれかぐや姫』は

コミカルな味わいのある作品。

実は 『酔いどれかぐや姫』の詞を
書いたのは

駆け出し時代の
阿久悠。

これをね…
学園祭で すごい人気があるから

これをレコードにしたいって。

きたきた! チャンスだ!

で 紹介されたのが 阿久悠さん。

阿久悠さんも
まだね 売れてなかったんですよ。

だから 阿久さんとは仲良くて。

ずーっとね…
僕 先生とか言った事…。

阿久さん 阿久さんって。
向こうも こうせつ こうせつって。

ホントに 死ぬ間際まで
仲良かったです。

番組とは あまりに方向性が違う。

かぐや姫は 自ら
オーディション番組を降りた。

その後
番組で10週勝ち抜きを果たした

五木ひろしが
こうせつに声をかけてきた。

洗面所に行って

五木さんが 洗うあそこに
こう 腰掛けて ギター持って。

30センチぐらいの距離だよ
狭いから。

そして 五木さんが

「このデビュー曲 聴いてくれる?」
っつって。

って歌ったんですよ。

「どう思う?」って言うから

「五木さん 絶対に売れる」
って言ったの。

そしたら
そのまま1位になりました。

それからも 様々な問題が噴出し

かぐや姫は 解散の道をたどった。

しかし
方向性の違う音楽を知った事で

逆に やりたい音楽が見えてきた。

こうせつは 演奏時間や曲目に
制約があるテレビより

メッセージがきちんと伝わる

ラジオやライブを
大切にすると決めたのである。

そして 高校の後輩で
浪人生活を送っていた伊勢正三に

バンド結成を呼びかけた。

さらに
東京で知り合ったベーシスト

山田パンダこと 山田嗣人を誘う。

伊勢正三は 高校の時に
もう その…

詞 曲の才能っていうのが
すごいなって思っておりました。

そして パンダさんは
すごい音楽に詳しくて

それから…
素敵な声をしてましたし

ベースも うまかったので

この3人だったらいけるかな
っていう感じがしてました。

昭和46年 新生かぐや姫が誕生。

デビューシングルは

伊勢正三作詞 こうせつ作曲の
『青春』。

それまでの経験や出会いを
糧にして

こうせつは 新生かぐや姫で
理想の音楽を追い求めた。

南こうせつさんがすごいなと
思うところは

自分の才能は
もちろん おありなんですけど

人の才能を引き出す力が
すごい強い方なんですよ。

ヒントになるような事を
くれたりするんですね。

だから やっぱりね

かぐや姫の3人の
個性っていうものが

とってもいい形で際立って
成立してたんだと思いますね。

南こうせつが 出会いを繰り返し
未来を模索していた頃

のちに こうせつと
不思議な縁を結ぶ女性歌手が

過酷な運命に翻弄されながら
歌い続けていた。

島倉千代子。

島倉の道のりを振り返れば

度重なる窮地を
歌う事で乗り越えた

壮絶な音楽人生が横たわっていた。

昭和30年
デビュー曲 『この世の花』で

200万枚の大ヒットを達成した
驚異の新人 島倉千代子。

島倉の魅力は あの美しい歌声。

コロコロと回る
きれいなこぶしは

泣き節と呼ばれ 愛された。

島倉の大ファンで

のちに 曲を提供する堀内孝雄が

その魅力を語る。

世界に入れる人。

どの歌もそうだけど

この歌の世界 この歌の世界って
世界観にいるのね。

それは 僕も勉強になりましたね。

要するに こういうふうに
歌うんだというのが…。

だから 日本中の人が
感動したっていうのは

わかりますよ あの声は。

やっぱり 独特の
陰りのある声というかね

不思議な…
哀しみを常に含んでいるという

もう 素晴らしいですね。

島倉さんの
素晴らしいところはですね

男はね 女が泣いたら
困っちゃうわけですよ

お手上げなんですね。

もう 泣いてるんですね 最初から。

日本人の心の琴線に触れる歌声で

瞬く間に スターの座を手にした

島倉千代子。

だが 島倉の激動の音楽人生は

彼女が負った深い傷をきっかけに
始まった。

昭和13年 島倉千代子は
東京 北品川で生まれた。

未熟児で誕生し 体も弱かったが

母 ナカは 島倉を甘やかさず

厳しくしつけた。

昭和19年
島倉が小学校に上がる頃

戦況の悪化から
一家は 信州 松本の郊外に疎開。

そこで起きた事故が
島倉の運命を変えた。

疎開先の家には
水道が引かれていなかった。

200メートルほど離れた井戸まで
水をくみに行くのが

6歳だった島倉の役目。

島倉は 木でできた台車に
一斗瓶を載せ

砂利道を往復していた。

瓶に水をいっぱいに詰めた
その帰り道…。

(瓶の割れる音)

島倉を抱え
母は医者に駆け込んだ。

母の願いが通じ

島倉の左手は
47針の傷痕と共に 体に残った。

しかし その左手は

ものを強くつかんだり
握る事ができなくなったのである。

戦争が終わり 東京へ戻っても

左手の傷痕を隠すため
いつも 包帯を巻いていた。

また ハンデを
背負っている意識から

友達と遊ぶ事もなく

島倉から笑顔が消えた。

そんな娘を心配した母は

閉じた心を開かせようと
歌を歌った。

流行歌から童謡まで
なんでも歌った母。

島倉も 一緒に声を合わせ始めた。

歌う喜びから心を開き

やがて のど自慢大会に出るほど

歌が好きになった。

高校生の島倉は

コロムビアコンクールに応募して

全国優勝。

歌手への切符を手に入れた。

昭和30年。

島倉千代子 2枚目のシングル
『りんどう峠』。

作詞 西條八十と
作曲 古賀政男は

日本コロムビアが誇る
エース級コンビ。

当時 同じコロムビアの
頂点にいたスターが

美空ひばりである。

ひばりのヒット曲
『港町十三番地』。

レコード会社は

大看板のひばりに並び立つような
スターになってほしいと

島倉に期待を寄せていた。

実は ひばりと島倉は同い年。

島倉は ひばりに憧れ
心から尊敬していた。

デビューして間もない頃

コロムビアの歌手が総出演する
ショーに参加した島倉は

憧れのひばりを見た途端

緊張のあまり
怖くなって トイレに逃げ込んだ。

(ノック)

マネジャーに促され
島倉は ようやく挨拶を済ませた。

その時 ひばりが何を言ったのか
全く記憶にない。

同じ歌手でも
それほど遠い存在だった。

昭和33年 『からたち日記』。

島倉は成長するにつれ
その思いとは裏腹に

ひばりの座を脅かす存在だと
見なされていく。

だが このあと 島倉は
プライベートの問題に悩まされた。

昭和38年。

島倉は 阪神タイガースの
藤本勝巳選手と結婚。

人気歌手と
人気球団の4番打者とのロマンスは

格好の話題を提供した。

しかし
将来を案じて 反対する母親を

説得できぬまま
島倉は結婚に踏み切った。

多くのものを犠牲に

スタートした結婚生活だったが

多忙な2人に すれ違いが生まれ

結局 離婚という結末を迎える。

その後 母親とは疎遠のまま

島倉は 一人
大きな荒波の中に放り出される。

気がつけば 5年近く
ヒットから遠ざかっていた。

孤独をかみ締める島倉に

歌の神様が
救いの手を差し伸べる。

昭和43年の『愛のさざなみ』は

作詞 なかにし礼
作曲 浜口庫之助コンビの作品。

和のイメージで歌い続けた島倉が

洋楽のテイストを加えた曲に
挑戦し

100万枚を超える
ミリオンセラーとなった。

しかし
その喜びも長くは続かない。

母が脳軟化症で倒れた。

結婚問題がこじれて以来
親子は仲直りできぬまま

母は寝たきりの状態に。

島倉は物言えぬ母に
声をかけながら

2年10カ月に及ぶ
闘病生活を支えた。

島倉を産み 慈しんでくれた母。

島倉の祈りもむなしく
母は息を引き取った。

数々の痛手を負いながら

何度も「なにくそ!」を繰り返し

乗り越えてきた島倉千代子。

その窮地を救ってくれたのは
いつも歌だったのである。

一方 その頃 第2期かぐや姫を
結成した南こうせつは

理想の音楽作りを追い求めていた。

『神田川』で 初めて
ヒットチャート1位を獲得。

その行く手は前途洋々に見えた。

しかし その偉大なヒット曲が

こうせつを苦しめる
要因になるとは

誰も予想できなかった。

昭和49年
かぐや姫の『赤ちょうちん』は

『神田川』のイメージを
受け継いだ作品。

結成から3年 ヒット曲が続いて
コンサートも満員に…。

かぐや姫は

フォークソング・ブームを
牽引する存在となる。

その間 こうせつの私生活に
大きな変化があった。

『神田川』がヒットする
数カ月前の事…。

その日
ラジオの深夜放送が終わり

こうせつが アパートに帰ったのは
明け方だった。

朝8時 チャイムに起こされ

寝ぼけ眼で
玄関のドアを開けると

同じアパートに住む女子大生が
立っていた。

どうやら
間違って配達された荷物を

届けてくれたようだ。

女性は 荷物を渡すと
急いで立ち去った。

ドアが閉まる音で
我に返った こうせつは

自分が パンツ1枚だった事に
気づいたのである。

その女性が のちに
こうせつの伴侶となる 所育代。

名誉挽回のチャンスを狙っていた
こうせつは

しばらく経ってから
育代に 声をかけた。

彼女が 音大の学生だとわかり

こうせつは
自分が歌手である事をアピール。

「レコードを聴きませんか」と
部屋に誘った。

レコードを聴き 歌を歌い

楽しい時間は
あっという間に過ぎた。

気がつけば 朝の4時。

この出会いをきっかけに
こうせつと育代は 同棲を始め

程なく 結婚の誓いを交わす。

南こうせつ 24歳の門出だった。

公私共に充実した こうせつは

かぐや姫 4枚目のアルバム
『三階建の詩』に取り掛かる。

バンドを成長させ

平屋の建物だった かぐや姫を
3階建てにしよう。

そんな思いから
伊勢と山田も 作曲に参加した。

この時 伊勢正三が書いた曲…。

アルバム 『三階建の詩』より
『なごり雪』。

のちに フォークシンガー
イルカがカバーして

話題となった。

ふわっと思った時に
ふわっとできたんだって。

だから もう ホントに
舞い降りてきたかのように

できた歌なんだっていうふうには
聞いてましたね。

ビックリしましたねえ。

本当に素晴らしい作品でしたね。

うん… まあ 結果的に それを

イルカさんのプロデュースしてる
旦那さんがね

これ イルカに歌わせたい
っていう話が…。

ああ… イルカは
似合うんじゃないかなって

直感で思いましたね。

当初 こうせつは

アルバムからのシングル候補に

『なごり雪』と『22才の別れ』を
挙げた。

ところが レコード会社は

『神田川』路線が売れると読み

同じイメージの『赤ちょうちん』や
『妹』を強引に推してきた。

さらに

メンバーの知らないところで
『神田川』の映画化が進み

こうせつの不信は募った。

作品も まだ出てないのに
次は日活がやる…。

もう3作まで決まった。
映画化が先に。

リーダーとしては これは もう…
かぐや姫は続けられない。

自分のバンドだと思ってるのが

全然 知らないところで
続いていく…。

これ以上 なんか
妥協しながらやっていくと

自分じゃなくなってしまうかな
っていう事で

解散に走らせてしまいましたね。

こんなね 大全盛の時に

辞めるなんていう事は
ありえないだろうって

誰もが思ってたし
私も そう思ってたんですけど

でも それ やっぱり
それぞれお互いのね

やっぱり こう…
もっと先へ進みたいっていう

気持ちから出たもの。
それは 発展的な事で

すごい… やっぱり
かぐや姫なんだなって

思いましたね。

昭和50年 かぐや姫は
4年間を全力で駆け抜け

短い歴史に幕を下ろした。

ソロになった南こうせつは

ライブを中心に
精力的な活動を展開。

翌 昭和51年には

日本人のソロ歌手として初めての
日本武道館公演を成功させた。

そして…。

昭和53年 南こうせつ『夢一夜』。

作詞は阿木燿子。

女性作詞家との
コラボレーションが

色彩豊かで
におい立つような作品を生んだ。

阿木燿子さんの詞を見た時に
これは すごいって…。

なんか 『源氏物語』とか

あの頃の日本の美っていうか…。

これは すごいなって…。

この詞に寄り添って
メロディーを書いてみよう

と思って作ったのが
『夢一夜』なんですね。

ソロ活動が充実し
30代を迎えた 南こうせつ。

子どもが生まれた事をきっかけに
東京を離れ

ふるさと 大分に移住。

はた目には 音楽活動と家庭の
両輪をフル回転させ

充実した生活を送っているように
見えた。

ところが その心の中で
異変が起きていた。

こうせつは日本武道館で
ソロコンサートを成功させたあと

ロック寄りのサウンド志向を
強めていた。

それにつれ 『神田川』的な
フォークソングから

意識的に
離れようとしていたのである。

ファンからは 『神田川』を聞きたい
という声もあった。

しかし こうせつには

次のステージに進みたいという
意識が強く

かたくなに
『神田川』を歌おうとしない。

こうせつが
『神田川』を歌わない事で

コンサートの客足は
徐々に落ちていった。

自分は これから
どんな歌を歌えばいいのか?

こうせつは 答えを見いだせぬまま
自問自答を繰り返した。

心の中に大きな葛藤を抱えたまま

こうせつは
悶々とした時間を過ごした。

(観客)こうせつ!

(観客)こうせつ!
(南)フゥー!

(観客)こうせつ!

南こうせつ ライブの定番曲
『うちのお父さん』。

30代における
こうせつのテーマは

『神田川』を歌わずに
何ができるのか?

しかし 答えが見つからないまま

平成元年 こうせつは
40歳の大台に乗った。

ちょうど その頃 NHKから

歌番組の司会をしてほしいと
依頼が来た。

その時に 当然のようにNHKは

『神田川』を歌ってくださいって…
歌うんですけど。

前に進む きっかけになれば。

こうせつは あれほど避けていた
『神田川』を歌った。

番組が放送されると

こうせつやスタッフが驚くほど
大きな反響が…。

あの深夜放送で

『神田川』を流した時の
リクエストハガキが来たより…。

で みんな 感動したと…。

私は 『神田川』が原点なんです。

あれを聴いて 自分の戒めにして

そして 自分が頑張る時の
活力にしてきた。

この歌を歌ってくださいって

今日 聴けてよかったっていうのが
いっぱい来るんです。

で 僕は その時に
ああ~ これは…。

自分でも気がつく。

この みんなが支持してくれる…。

そこから また歌い始めるんですよ
しっかりと。

こうせつと『神田川』の間に
距離が生まれたのは

曲の影響力が
あまりに大きすぎたためだった。

歌番組の司会をして
もう一つ 再認識した事がある。

それは 歌が持つ力の素晴らしさ。

演歌やポップス ロック フォーク
クラシックなど

ジャンルにかかわらず
どの音楽にも力がある。

そして 改めて 自分に
音楽の楽しさを教えてくれた

三橋美智也や島倉千代子に
感謝する気持ちが生まれた。

その頃 三橋美智也は

春日八郎 村田英雄と共に
三人の会を立ち上げ

健在ぶりを示していた。

しかし 歌謡界の頂点を極めた
大スターでも

歌の世界で生き抜く苦労は
並大抵ではなかった。

昭和37年
三橋美智也 『星屑の町』。

中学校になった時に

なんか ヒットチャートの
歌謡番組みたいなのがあって

帰りの げた箱の所で…。

っていうのを覚えてます。

♬~「両手を回して…
カカン カカン カカン」

♬~「帰ろ」

♬~(ハミング)

♬~「カカン カカン カカン」

ところが この曲を最後に
三橋は ヒットから遠ざかる。

さらに 勧められるまま
宝石店やホテル経営に出資。

三橋は 歌手以外の事業で
多額の借金を背負った。

人生に変調を来し始めた
三橋を尻目に

歌謡界には
新たなスターが続々と台頭する。

懐かしいふるさとに
思いを馳せる。

千昌夫 『北国の春』。

そして…。

一夜の出会いに賭ける女心。

五木ひろし 『長良川艶歌』。

下の世代が台頭し
主役の座を奪われた三橋は

その後
意外な姿で表舞台に戻ってきた。

昭和54年の『THE TOMBI』。

ミッチーこと三橋美智也は
この年 49歳。

三橋は
ラジオのDJを務めながら

ストレートな物言いや人生相談で
若い世代に支持された。

その後
三橋は気力を充実させたまま

60代を迎えた。

平成に入り

春日八郎 村田英雄と
三人の会を結成。

大御所3人が ステージ上で
火花を散らし合う様子に

ファンは喝采を送った。

しかし…。

平成7年 秋

三橋は ゴルフからの帰り道
車の中で心臓発作に見舞われ

緊急入院。

命は取り留めたものの

その後
意識が回復する事はなかった。

その後 歌い手さんが
たくさん出てきてますけど…。

やっぱり 生まれつき持った
声の味っていうのは

これ… 訓練しても努力しても

どうしようもないもの
かもしれませんね。

三橋さんのあの声と
同じ声出せったって無理です。

この国に生まれて

そして この国の四季を愛でて

そして 声にして歌う。
その なんか…

三橋さんは そう思います。

日本人が
がむしゃらに働いた時代。

人々の痛みを一緒に感じ

共に歩んでくれた あなたの歌声を
私たちは忘れない。

そして 三橋と共に
歌謡界を支えてきた島倉千代子も

この頃 試練の時を迎えていた。

昭和56年 島倉千代子の『鳳仙花』。

作詞 吉岡治 作曲 市川昭介。

この曲は 島倉の歌手人生にとって
大きな意味を持つ作品。

最愛の母を亡くしたあとも

島倉の生活は 公私にわたって
波乱の連続だった。

『鳳仙花』がヒットする数年前の事。

島倉の裏書きした
約束手形を持って

債権者が 公演中の劇場に
押し掛ける事態が起きた。

世話になった恩人に
実印を預けたのが間違いのもと。

債権者は
連日のように楽屋に押し掛けた。

千秋楽の日
島倉が舞台の上で詫びると

客席から
温かい声援と拍手がやまない。

島倉を利用する人間は
確かにいたが

その何倍もの人々が
彼女に手を差し伸べた。

『鳳仙花』も 島倉を励ます
作り手の思いから生まれた曲。

さらに 島倉の歌手人生の集大成が
実を結ぶ。

昭和62年のヒット曲
『人生いろいろ』。

作詞 中山大三郎
作曲 浜口庫之助。

島倉自身の経験を折り込みながら

前向きな応援ソングに仕上がった。

『人生いろいろ』は
息の長いヒット曲となり…。

を売る ミリオンヒットを記録。

そして この年

島倉は 億単位の借金を
返済し終えたのである。

長いトンネルを
ようやく くぐり抜けた島倉は

若い世代の活躍に刺激を受け

堀内孝雄ら
フォーク系のアーティストと

作品を作り始めた。

新しい時代の歌

歌いたい歌を歌う。

島倉は 若い世代との仕事に

意欲的に取り組んだ。

そして

歌手生活60周年を記念した作品を

南こうせつに依頼する。

島倉さんから
体調がよくない。 でも…。

っていう電話を頂いて。

その時に

ホントに並々ならぬ決意でした。
電話の声が。

この時 島倉の体は

末期のがんに蝕まれていた。

レコーディングが
1週間ちょっと迫った頃に

突然 電話がかかってきて…。

っていう電話を頂いて。

ちょっとビックリしまして。

これは 尋常じゃないなと思って

島倉さんのお家に
録音機材を持ち込みまして

声をとりました。
3回とりました。

一番最初に歌ったのを
私が採用しました。

レコーディングを終えた3日後
平成25年11月8日

島倉千代子 肝臓がんにて逝去。

享年75。

普通は もう… 点滴状態で
こんな酸素吸入して…。

歌うどころじゃ…
「ハアハア…」ぐらいですよ。

それを 歌ってるんですよね。

で 思ったんだけど
やっぱり 天命をね…

人が

感動する。 素晴らしい。

島倉さんには ありがとうって
お礼を言いたいです。

ぜひ。

違うタイプを
作りたいんですよね。

ねえ。 だから からたちの…
細い小道でもいいんですけど

今度は 違う道を歌ってほしいな
と思いますね。

島倉千代子。

涙の海に浮かんだ
かれんで心優しい花は

強く しなやかな
その生涯を閉じた。

南こうせつは
島倉千代子に贈った

『からたちの小径』を

今もライブで歌い続けている。

こうせつさんが歌ってる時に…。

それは やっぱり それだけ

その人の事を思って
作った歌なんだなと思って…。

こうせつさんが
ステージから戻ってきた時に

そんな話を ちょっとしたら…。

こうせつは 依頼があれば

ギター1本抱えて 全国を回り

自分が歌いたい歌
集まった人が聴きたい歌

どちらも歌う。
もちろん『神田川』も歌う。

若い頃は 思い出に浸り
過去を振り返る事は

前へ進む妨げになると思っていた。

でも 今は違う。

ふわっと…。

その音楽が
スーッと入ってきたら

それを大事に自分も歌ったり…。

う~ん…
あるいは 懐かしんでみる。

懐かしむって悪い事じゃない。

それを こう… 受け入れる。

どんなものも受け入れる。

私は こうせつさんの歌を
聴いているのに…。

感じになってくるんですよ。

それは 多分ね 客席の皆さんも

それを感じるんじゃないかなと
思いますね。

だから 誰もが

そこが やっぱりね
こうせつさんのね

あの… 神懸かったね
すごいとこだと思いますよ。

そんな こうせつのもとへ

まるで天から降りてきたように

新たな作品が届けられた。

きっかけは あの東日本大震災。

平成23年3月
大震災が起きた数日後に

かつて 『酔いどれかぐや姫』を
書いた作詞家

阿久悠の事務所から
一編の詞が届いた。

阿久は その4年前に
この世を去っており

その詞が遺作にあたるという。

届けられたのが
『愛よ急げ』って歌なんです。

それで その詞を読んだ時に…。

で これを急いで届けようっていう
なんかね…。

っていうね…
ふうに感じたんです。

それで
すぐメロディーをつけてね…。

亡き阿久悠からのメッセージ
『愛を急げ』。

ステージと会場は歌で繋がり
大きな愛に包まれた。

平成31年。

南こうせつは
デビュー50周年を迎える。

70代の大台に乗った こうせつは

改めて
歌作りの原点に戻ろうとした。

それは

自分の中に湧き上がる 心の声に
耳を傾ける事。

70になって 考えますよ
死とかいうのは もう ホントに…。

自分の問題として。

『男が独りで死ぬときは』って歌を
作ってみたかったんです。

日本人ですから
桜の木の下で 西行みたいに…。

「願はくは
花の下にて春死なむ

そのきさらぎの
望月のころ」っていう

西行の歌がありますけど

ホントに
今 しみてきますね。

で そんな歌を
ギターで歌ってみようと思って

作った歌であります。

こうせつが

自分の中に 静かに湧き上がる
心の声をすくい取り

編み上げたアルバム
『いつも歌があった』。

そして 今だから歌える歌
『男が独りで死ぬときは』。

私にとっても
客観的に 色んな事を…。

時々 アドバイス的な事をね。

あれは とてもよかったよとか

いい事とか
とっても言ってくださるんでね。

それがね とってもうれしい事で…
褒めてくれる人って

あんまり いないんですよ
大人になると。

こうせつさん 私にとっては
褒めてくれる

おじちゃんっていうかね…
おいちゃんなんですね。

これからも もちろん 一緒に
歌っていきたいと思っています。

お互いに
言いたい事 言い合うような…。

友人っていうレベルでいても
つまんないかなって。

やっぱ アーティスト同士で
いないといけないんで

やっぱり ライバルであり…。

切磋琢磨して

お互いに潰しっこするような
関係でいたいですね。

せっかく こう 与えられた
自分の運命っていうのは

どこまでいくか わかりません。

これは もう 神のみぞ知る…
明日 死ぬかもしれない。

でも 私の喉が続く限り
歌ってみたいですね。

歌ってみたいです。

ホントに 人生 これからですよ。

ホントに…
60代 70代過ぎてから

本当の花を咲かせる時なんです。

いきましょうよ。 やりましょう。

私は それを願っております。

いつでも
私は 歌で応援していきます。

人生それぞれに
寄り添う歌がある。

誰もが 心の中に歌人を宿し

人が出会うたび
新たな歌が生まれる。

時代が変わろうとも

人々の生きる力は変わらず
希望が絶える事はない。

今日を生きたあと
どんな明日に出会えるのか

楽しみだ。


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