先人たちの底力 知恵泉「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」婦人参政権も無かった戦前、女性として初の弁護士となった…


出典:『先人たちの底力 知恵泉「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」[解][字]


道を切り開いた女性たちの2回目。婦人参政権も無かった戦前、女性として初の弁護士となった3人の内の1人にして、戦後、女性初の裁判所長になった三淵嘉子の人生に迫る。


詳細情報

番組内容

かつて女性は弁護士になれなかった。それでも弁護士を志した三淵嘉子は、当時、唯一女性が法律を学べた、明治大学女子部に入学。猛勉強の末、昭和13年、同窓の2人と共に司法科試験に合格!初の女性弁護士に!戦後、嘉子は、裁判官に任官。女性初の裁判所所長に就任するなど男性優位の法曹界で女性の地位を確立してきた。その知恵を、民放アナウンサーから弁護士に転身した菊間千乃さんが読み解く。弁護士を志した意外な理由も…

出演者

【出演】弁護士…菊間千乃,大久保佳代子,大阪大学大学院人間科学研究科教授…木村涼子,【司会】新井秀和



『先人たちの底力 知恵泉「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

先人たちの底力 知恵泉「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」
  1. 嘉子
  2. 女性
  3. 弁護士
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  7. 自分
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  9. 大変
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  11. 菊間
  12. 三淵嘉子
  13. 女性裁判官
  14. 先生
  15. 勉強
  16. パワハラ
  17. 気持
  18. 仕事
  19. 司法省
  20. 駄目


『先人たちの底力 知恵泉「道を開いた女性たち 法律家 三淵嘉子」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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「法の下の平等」なんて言いますが

今宵は 男女不平等の時代に
女性の道をひらいた法律家に迫ります。

いや~ よく来て下さいました。
いらっしゃいませ。

よろしくお願いします。
どうぞ どうぞ どうぞ。

すいません。
よく もう テレビで見てました~。

ありがとうございます。
…なんて よく言われません?

ねえ 何か 辞めて10年たつんですけど
今でも いろいろ言って頂いて

ありがたい限りで。

でもね 今は
弁護士でいらっしゃいますからね。

私も 初めて聞いた時
驚きましたけれども

そもそも アナウンサーから弁護士に
転身しようと思われたきっかけは

何だったんですか?     伝えたくて
アナウンサーになったんですよ。

でも 伝えるって
伝えただけで終わっちゃって

具体的に何か世の中を変えていくことって
なかなか難しいなって思って。

弁護士になった方が
世の中 変えていけるんじゃないかって

思ったっていうところですね。
へえ~。 そうですか。

こんばんは~。
あっ こんばんは。 いらっしゃいませ。

あ~ これは お二人そろって。

大久保さんと木村先生
また ありがとうございます。

前回に続いて。
先生と 今 一杯やってきたんでね。

もう2軒目?            はい そうです。
そうなんですよ。 すいません。

お邪魔します 今日も。
いやいや いらっしゃいませ。

お待ちしておりました。 今ね 菊間さんに
弁護士を志したきっかけを ちょっと…。

裏で聞いてましたけど
何か 偉いなと思います。

そんなことない。        聞いてました。
聞こえました?           聞こえました。

意外と この店 壁薄いですね。
(笑い声)

でも どうなんですか? 大久保さんもね
今やもう芸人として大活躍ですけれども。

ここに来るまでは
こう 悩みなんかなかったんですか?

でもね どうでしょうね。 意外と…

そうですか。
(笑い声)

先生は いかがですか?
今の立場になるまでといいますかね。

そうですね。 いろいろあったといえば
あった感じですね。

まあ 皆さん いろいろありますよね。
改めて聞かれるとね。

皆さんのためにね 今日はね
いいもの用意したんですよ。 何でしょう。

こちらなんですね。

ちょっと遅くなりましたけど
私からのホワイトデーのプレゼントです。

バレンタイン あげてないのに?
うん。 今日のメニューが こちらなんです。

菊間さん よく
裁判で決着つけるようなことを

「白黒つける」なんて言いますよね?
はい 言います。

それにちなんでね
これにしてみたわけなんですね。

いいと思いますよ。
いいと思います。 はい。

自信持っていって下さい。
いいんですか?

何か 褒められてんだかどうなのか…。
自信持っていきます。

自信持っていって下さい。
はい。 さあ ということでですね

今日は 裁判にも関わる法律家として

女性への偏見と闘った人の知恵をですね
味わっていこうと思います。

昭和60年の男女雇用機会均等法の成立から
30年余り。

今や女性たちは あらゆる分野に進出し
活躍を続けるようになりました。

今宵は そんな女性たちの先駆けとも
いえる先人をご紹介。

昭和15年
女性として初めて弁護士となった

3人のうちの1人にして…。

その後 初めての裁判所長にもなった
人物です。

家を守り 子を育てることが
女性の本分とされていた戦前。

嘉子は さまざまな困難や偏見に
ぶつかりながらも奮闘を重ね

男性優位の法曹界で
女性の地位を確立してきたのです。

そんな嘉子に迫るのが

フジテレビアナウンサーから

弁護士に転身して
活躍をする…

女性法律家の先駆者
三淵嘉子の知恵を

菊間さんは どう読み解くのでしょうか?

ということでね
今日は女性法律家の先駆者

三淵嘉子にスポットを当てていこうと
思うんですけれども。

法律家というから
堅い感じのビジュアルかなと思ったら

すんごいかわいらしい
キャラクターが豊かな…。

女性で初めてっていうことで
お名前だけ存じ上げてたんですが

実際に動く映像というか
見たの 今 初めてで

同じ感想です。
あんなかわいらしい女性

チャーミングだなと思いました。
ねえ。

先生 どうでしょう。
この三淵嘉子というのは

女性史の中においては どういう
位置づけと考えたらいいんですか?

そうですね 大変重要な方だと思います。

選挙権もなければ
被選挙権もありませんから

立法に関われない
行政にも ほとんど関われないです。

官僚にもなれない
司法にも入れないっていうことで

国の大本を作ってる領域には
女性は入れなかったんですね。

じゃあ 「こうしたい」「国 変えたい」
「制度 変えたい」と思っても

直接的には もちろんできないし
思うだけしかなかったってことですよね。

その状況の中で 法律を扱う世界に

女性が入れるようになっていった
っていうのは

非常に画期的なことだったと思います。

後ほど 詳しい話を
伺っていこうと思うんですけれども

まずはですね 三淵嘉子が どのような
歩みを経て弁護士になったのか。

そこから見ていきましょうか。

これは 明治26年に発布された弁護士法。

弁護士の資格を記した第2条に
こんな記載があります。

女性が弁護士になれなかった戦前の日本。

三淵嘉子は
中田正子 久米 愛と共に

初めての
女性弁護士となりました。

嘉子は なぜ弁護士を志し

どうやって
夢を実現していったのでしょうか?

嘉子は大正3年
銀行に勤める父 武藤貞雄の赴任先

シンガポールで生を受けました。

シンガポールは漢字で書くと…。

ここから1字取り
「嘉子」と名付けられました。

その後 帰国すると

12歳で 名門 東京女子高等師範学校
附属高等女学校に入学します。

この学校は
数ある高等女学校の中でも最高峰とされ

女性にとってのエリートコース。

卒業生は家庭に入っても
子どもに高い教育を施せると

結婚相手としても
引く手あまただったといいます。

いわば
一流の花嫁切符を手に入れていた嘉子。

しかし 父から 女性の社会進出が進んだ
欧米のことを語り聞かされるうちに

自分も職業婦人として生きてみたいと
考えるようになりました。

更に当時は 大正デモクラシーの時代。

女性の権利拡大を求める運動も
広く展開された時期です。

昭和元年には 市川房枝が
婦人参政権運動の展開とともに

女性でも弁護士になれるよう

法改正を求める請願を
行っています。

嘉子は
そんな夢を抱くようになっていました。

ちょうど そのころ
法律を学びたいと考える女性に

初めて門戸を開いた学校がありました。
明治大学です。

ここで教鞭をとっていた
民法学者の穂積重遠は

やがて来る弁護士法の改正を見越して

女性法律家の育成が急務であると
考えました。

穂積は 学長の横田秀雄
そして 同僚の松本重敏と共に

大学の理事会や文部省に働きかけ

昭和4年 明治大学に
女子部を設立したのです。

嘉子と一緒に入学した学生は50人。

女子部は 塾と呼んだ方がふさわしい
小さな学校でした。

集まっていたのは

女学校出たての10代から40代の人まで
さまざま。

皆一様に 強い情熱を抱いていましたが

それでも 女性が法律を学ぶことに
眉をひそめる風潮があったと

嘉子は記しています。

世間からの視線に加え
日本を取り巻く社会状況も

女子部に逆風となって吹きつけます。

世界的に起こった大恐慌により

学費が続かず
学校を去る者が相次ぎました。

また 満州事変をきっかけに
体制が軍国主義へと傾くと

進歩的な考えは押さえつけられ

女性が学問することへの批判が
集まるようになります。

依然 弁護士法は改正されず
先行きが不透明なまま

女子部の廃止も現実味を帯びてきます。

昭和11年 弁護士法の改正に伴い

ついに女性も

弁護士になることが
できるようになります。

しかし 事は そううまくは運びません。

その年も またその次の年も

女子部の出身者が弁護士資格を得るための
司法科試験を受験していますが

いずれも不合格でした。

女子部の危機的状況の中で

嘉子は どんな気持ちで
勉強をしていたのでしょうか?

女子部の後輩が
当時の嘉子の様子を証言しています。

嘉子の評伝をまとめた
弁護士の佐賀千惠美さん。

「女子部を守りたい」。
その思いが力を与えたと考えます。

やっぱり
自分のためだけっていうことでは

なかなか人間っていうのは
頑張れないので。

嘉子が試験に挑むのは 昭和13年。
入学から6年がたっていました。

悲願は届きます。

この年 明治大学女子部出身の

中田正子 久米 愛 そして嘉子の3人が

司法科試験に合格します。

大学の名前は全国にとどろき
翌年の入学者は倍増。

嘉子たちは 夢をかなえると同時に
女子部の危機を救ったのです。

1年半の修習期間を経て

昭和15年12月
嘉子は東京弁護士会に登録。

日本初の女性弁護士の一人として
その大きな一歩を踏み出したのです。

今だって 司法試験 受かるなんて
めちゃめちゃ大変じゃないですか。

なのに それプラス まだ弁護士法が
改正されてない時から始めて

女子部全体のことを考えて
1人でも まずは行かなきゃと思って

すごい気力とエネルギーと。
すごいですね。

当初は 女性が弁護士になれなかった
ということですけれども

教育も受けさせてもらえないような
ところもあったということなんですかね。

はっきりと 男女別の教育というのが
なされてましたし

女性は あるところまでしか進学できない
っていう状態になっていましたから。

明治大学の女子部っていうのは
非常に先見の明があったと思います。

穂積重遠さんと松本さんと
このお二人が

弁護士法改正についての
意見を

声を大にして おっしゃって

法改正がなされたっていうようなことが

資料見てたら出てきますね。

プラス 横田学長ですね
明治大学の横田学長は

昭和2年の大審院の判決で
当時の女性を苦しめていた

刑法の中にあります姦通罪。
不倫とかしちゃうと駄目なんですよね。

女性だけ罰せられるっていう時代に

夫にも貞操を守る義務があるっていう
判決を下して

大きな社会的影響を与えた人物が
横田学長なんです。

そういう立派な先生たちが作った女子部を
潰さないためにも

嘉子は頑張ってたと思うんですけれども。

でも菊間さん 司法試験って
これは大変ですよね?

うん 大変ですね。
大変でしたよね? 大変でした。

もういいって感じですね。

何年ぐらい勉強されたんですか?

アナウンサーやりながら
大学院 通ってたのが3年間で

辞めて 集中して2年間です。

アナウンサーやりながらって
めちゃめちゃ大変じゃないですか?

うん 大変でした。 ほとんど
3時間ぐらいしか寝ない状態で…。

でも何か 私も 嘉子さん…
三淵さんほどじゃないですけど

ちょうど私がロースクール行こうと
思った時も

司法制度改革で 社会人に もっと
門戸を開きましょうっていう流れの中で

入ったんですよ。 結構 入ったことが
ニュースとかにも出ちゃったから

やっぱり 私が ここで
途中で諦めたり 失敗すると

あとから社会人の人が 「やっぱり
社会人は無理だよね」って言って

諦めちゃうんじゃないかなっていうのを
勝手に思っていて。

そういうふうに自分を奮い立たせる
一つのワードとして

「だから頑張らなきゃいけないんだ」って
思って

毎日16時間 勉強してたっていうのは…。
16時間。 大人の16時間は すごいですよ。

3食 全部 食べながら
こう 何か読むとか書くとかして

3食 1時間以内ですし

もう本当 1秒たりとも
司法試験以外のこと考えなかったですね。

そんなもんなんですか?
大体 司法試験 目指す人って

一回 そういう時期があるんですか?
一回あるんです みんな そういう時期が。

ほう~ それ乗り越えた人が
法律を扱うっていう。 信頼できますわ。

そうですよね。
信頼できますわ。

人の やっぱり人生の岐路を
左右するようなものを扱うので

体を張って守るわけですから
依頼者の方を。

やっぱり その弁護士がなる…
法曹関係者が精神的に弱かったりとか

しょうがないから もういいかなとかって
思っちゃったら駄目じゃないですか。

だから 人より もっと強くなきゃいけない
っていう意味で

あれだけ厳しい試験が
課されてるのかなって。

そこ乗り越えてきた人が
なれるものなんですね。

精神的な強さも試されてますね。
じゃないかなと思いましたね。

あの難しさは。
絶対やだ。

そう聞くと納得できる部分もありますね。
確かに。

でもね やっぱり それほどの勉強を
してまでも弁護士になるっていうのは

当時の嘉子にとっては
その弁護士っていうのは

どう魅力的だったっていうふうに…。

女性は もっと ちゃんと男性と同じなんだ
ってことを

言いたかったんじゃないかと
思うんですよね。

同じように勉強すれば
同じように能力もあって。

だから 同じような仕事に就けば

同じだけの力を発揮できるんだ
っていうことを

見せつけてやりたいって思いが
あったんじゃないかなと思います。

弁護士になった嘉子なんですけれども
これで終わりではありません。

その後も いろんな問題が起きてくる
ということで

1つ目の知恵 味わっていきましょう。

晴れて女性弁護士として働き始めた嘉子。

しかし そのキャリアは
中断を余儀なくされます。

そんな風潮が生まれ

裁判 特に民事訴訟が
ほとんど なくなってしまいました。

弁護士として
開店休業の状況が続いたこともあり

嘉子は 和田芳夫と結婚します。

そして 男の子を授かりました。

ところが 終戦直前に召集された夫は
戦地で病に倒れ

そのまま亡くなってしまったのです。

戦争が終わり 幼い息子を 女手一つで
育てなければならなくなった嘉子。

ここで彼女は 弁護士への復帰ではなく
裁判官になることを目指すのです。

なぜ裁判官を志したのか?
その原点は10年ほど前。

司法科試験の時に感じた
怒りにありました。

試験会場でのこと。

掲示板には 合格者向けに司法官試補

すなわち裁判官や検事の志望者を募集する
告示が はり出されていました。

そこに記された採用条件に
嘉子は驚がくします。

なんと 「日本帝国男子に限る」と
書かれていたのです。

嘉子は 晩年に出演したラジオ番組でも
この時感じた怒りを回想しています。

戦後の 人生の新たなスタートを
切るにあたって

嘉子は かつて感じた怒りと
向き合おうとします。

そのための新たな武器もありました。

昭和21年11月に公布された
日本国憲法です。

嘉子は 自分を裁判官に採用するよう
司法省に じか談判します。

おっしゃることは
よく分かるんですけども

何分 前例がありませんからね。
どう考えても おかしいと思いませんか?

分かりました。 確かに そのとおりです。

ただ 何事も新しい制度が
整ってからの方がよいでしょう。

それまでは司法省の仕事の手伝いをして
勉強をしておいてはどうでしょうか?

ほら 君も結構ブランクがあるでしょ?

はい。

ここから嘉子は2年間 司法省などで
事務員として働いています。

そこで目にしたのは

男女平等をうたう憲法の下
改められる法律の数々でした。

昭和22年 新憲法の下で
最高裁判所が発足し

現在につながる新しい裁判制度が
整えられます。

そして2年後の昭和24年。

明治大学女子部の後輩で

戦後に司法修習を受けた石渡満子が
判事補に任官。

その4か月後
ついに嘉子も裁判官になりました。

若き日に感じた怒りを忘れることなく
機を見て行動を起こした嘉子は

また 新たな道を切りひらいたのです。

ということでね 裁判官に転身したという
嘉子だったわけなんですけれども。

すごいです。
疑問から目をそらさないっていうか

おかしいと思ったことを
徹底的に追及していく。

弁護士向きなんですけど
そういう性質って。 すごいなと思います。

それはさておき
嘉子の原動力は怒りだったと。

どうなんでしょう。
同じ転身した身として

菊間さんは 弁護士への転身の背景に

怒りのようなものって
何かあったりしたんですか?

さっき ちょっとお話しした

おかしいと思ったことから目をそむけない
っていうところが出発点なんですけど

私が入った時に 「女子アナウンサー
30歳定年説」っていうのがあって

皆さん 20代で 4年目5年目で辞めて

フリーになるか
結婚なさってって方ばっかりで。

30歳定年説って
おかしいと思ったんですよ。   勝手にね。

そう。 何で決めるんだと。

キャリアを積んでるからこそ
発信できる言葉とか

伝え方があるはずだと思った時に
じゃあ ただただ

「30過ぎても出たい出たい」って言ってても
しょうがないから

30過ぎた時に若い新人のアナウンサーとは
違う要素を自分につければ

アナウンサーとしての寿命が延びて
それによって 女性アナウンサーの

新しい道がひらけるんじゃないか
ってことを思ってたんですよ。

で やっぱり 30ぐらいになった時に
その壁が見えてきた時に

「あっ 私は入社した時 そう思ってたな」
って思ったことも思い出し

ちょうど ロースクールも出来たし
夜間もあるし

「じゃあ行こうかな」と思って行ったので

気になったことを ずっと諦めないで
追っていくっていうところは

何か共通かなと思いました。
すごい。 行動に移して それを。

でも そのタイミングを計るのって
すごく難しいと思うんですけれども

例えば 今見て頂いた
嘉子の闘い方といいますか…。

すばらしいなと思いました。

そこで司法省に行って
「駄目です」って言われて

「だったら嫌です」って言わないで 2年間
ちゃんと そこで働くじゃないですか。

私なんか
物事を変える人って やっぱり…

きっと 彼女が
司法省で 一生懸命やって

周りが賛同してって だったら やっぱ
女性もいいんじゃないのっていう

何か 周りの後押しをバックに
裁判官になったような気がして…。

すごく人望のある方だったみたいですね
やっぱりね。

周りを引き付ける…
チャーミングだし しっかりしてるし

リーダーシップあるけど
ちょっと おちゃめだしみたいな…。

大事ですよね。 本当そういう人格というか
持ってるもので 味方作ってって

自分がやりやすくするっていう状況
作るってね。

先生は いかがですか?
今の立場 教授になるまで…。

そうですね。 私が大学に入った時に

私の大学では ほとんど 女性の教授も
いらっしゃらなかったので

そのころに言われたのが
やっぱり 女性だっていうだけで

ペッて よけられるよって…。

私 あんまり 将来のこと
そんな はっきり考え…。

なれると
あまり思ってなかったのですけども

そう言われると 「あれ?」みたいな
カチンと来るっていうか…。

はじかれちゃうんだ?
うん。

で なろうと思ったら まあ…

子どもを作るなとか…
だから 作る時期を選べってことで。

就職するまでは 子ども作るな。

就職したらしたで
迷惑かけるから 2~3年は作るなとか

いつ作ったらいいんだろうって
思ってる間に

子ども持てなかった人 多いですし

私も そうなんですけれども
難しかったなって思いますね。

大学の先生なんて みんな

もう 当たり前だけど インテリジェンスで
上のハイクオリティーな人たちだと

思うじゃないですか。 そんな人たちでも

そういうふうに
女性が言われたりするんですか?

そうですね。 30年前ですからね もう。
あっ 昔…。

だから 今はもう
随分変わってますよね。

さあ 三淵嘉子
裁判官になったわけなんですけれども

そのあとの知恵を
今度は見ていこうと思います。

裁判官となった嘉子の初任地は…

ここで嘉子は その飾らない人柄で
瞬く間に職場の人気者になっていきます。

同僚たちと宴会を開けば

上機嫌で 戦後の流行歌「りんごの唄」を
歌うのが 常だったとか。

また 酔い潰れた男性裁判官がいれば

小さな体で肩を貸して
駅まで送り届けたこともあります。

女性の先駆者としての気負ったところは
全く見せませんでした。

あとに続く女性裁判官も
毎年 誕生していきます。

しかし 人数の増加とともに
一つの議論が持ち上がりました。

それは 女性裁判官の人事について。

「女性も男性と同じように
地方の裁判所に転勤させる」という

人事方針に 多くの地方裁判所が

「女性に来られては困る」と
拒否の姿勢を見せたのです。

人員の乏しい地方の裁判所に異動すれば

必然的に凶悪犯罪や暴力団がらみの事件を
担当することになる。

女性に そんな裁判を受け持たせるのは
気の毒だ。

それどころか 被告から甘く見られ
危害を加えられるというのです。

嘉子は そんな論調に
内心 大きな反発を覚えていました。

昭和31年 ある事件が起こります。

許せない… 殺してやる!

刃物を向けたのは 嘉子が担当していた
民事訴訟の当事者でした。

判決に納得できず 思い余って
裁判官の嘉子に刃物を向けたのです。

そんな声がささやかれた事件の夜
嘉子は

先輩の判事 内藤頼博に
相談を持ちかけています。

弱音を吐くかと思いきや

彼女は 全く違う視点で
この一件を捉えていました。

裁判官に 女も男もない。

2人は 自分たちに課せられた責務と
人が人を裁く難しさについて

夜が更けるまで語り合ったといいます。

女性として法曹界に風穴をあけた嘉子。

でも 彼女が大事にしていたのは

女だからではない
裁判官としての仕事の在り方。

その一点だったのです。

しかし そんな嘉子が 一度だけ

女性初を意識して 勇気を奮って
行動したことがありました。

それは 嘉子が任官して2年ほどたった
昭和25年ごろのこと。

NHKのラジオ番組の収録で

嘉子は 田中耕太郎最高裁長官を囲んでの
座談会に出席しました。

この時 田中長官に
こんな発言があったといいます。

戦後新しく出来た 家庭や少年に関する
事件を扱う家庭裁判所。

女性裁判官は そこに配属されるべきとの
見解を 田中長官は示したのです。

この発言に 嘉子は猛然とかみつきました。

「女は家庭に引っ込んでろ」
ということでしょうか?

そういうことでは ないのだけれどもね。

家庭裁判所が適任かどうかは
それぞれの裁判官によります。

男女で決める問題ではないと思いますよ。

嘉子の発言の背景には

女性裁判官の進路が
限定されてしまうことへの

危機感がありました。

私が ここで何も言わなければ

自分はおろか 次々と 後輩が
家庭裁判所に送り込まれるだろう。

それは
女性裁判官の可能性を狭めることになる。

相手が ほかならぬ法曹界のトップ
田中長官だからこそ

誤った認識は改めさせなければいけない。

そんな思いから
嘉子は果敢にも意見をしたのです。

一本とられましたな。

嘉子の反論が功を奏したのでしょうか。

その後 女性裁判官の配置に
偏りは起こりませんでした。

もちろん 嘉子は 家庭裁判所の仕事を
軽んじていたわけではありません。

男性と同じように
名古屋地裁への転勤を経たあと

東京家庭裁判所に異動しています。

ここで 嘉子が大切にしていたのは
裁判所を訪れる人々のこと。

調停室の壁が汚れていれば 白く塗り直し
壁に絵を掛け カーテンを新調しました。

また 昼休みには
廊下に音楽を流したといいます。

離婚協議など 家庭の問題を抱える人を

少しでも和ませたいとの気持ちが
あったのです。

1人の裁判官として
当事者たちに寄り添い続けた嘉子を

同僚は こんな言葉で評しています。

昭和47年 嘉子は 女性として初めて
裁判所の所長を任されます。

周囲から寄せられた
あつい信頼の結果でした。

法曹界における女性の在り方の
ロールモデルを示した嘉子は

昭和54年 65歳で退官を迎えました。

門出の日に身につけたのは
赤いスーツと帽子。

法律家として 甘えることなく
仕事に打ち込んできた彼女の情熱が

あらわれているかのようです。

(聞き手)今は どういうお気持ちですか?

何か… 何か一つ終わったという段階です。
そういう気持ちです。 満足感というのか。

あの最後のシーンを見ていて
私は イギリスのサッチャーさんと

似たものを感じたっていうか…。
サッチャーさんも

初めて国会に女性として乗り込む時に
男ばっかりの社会の中で

あえて
タイトスカートとハイヒールで

乗り込んでいったっていうのを
前 読んで

女性は女性としての役割として
ここにいるんだっていう

立ち位置をもって
乗り込んだっていうのを読んで

同じような感じを受けました。

知恵がね
「甘えるな そして 甘えさせるな!」

ということだったわけですけれども。

女性を甘えさせることで 女性の可能性を
ちょっと狭めてんじゃないかって

いうのであれば
最近 バラエティーとかでも

女性だから
氷水なんか浴びなくてもいいよとか

何か ちょっとした気遣いがあるんですよ。

でも 私からしたら…

ねっ 甘えなのか… 甘えさせるな…
でも難しいですけどね これもね。

すごく難しいですよね これね。
そうですよね。

要は その… 自立をきちんとしなさい
っていうことを言いたいんだろうなとは

思うんですね。 もちろん
女性 男性は 性の違いがあるから

特性はあるわけで
例えば 重い荷物を持つのを

女性がやるより 男性がやってくれたら
うれしいなと思うの

それが 私 甘えだとは思わないんですね。

だから そういうことじゃなくて
一人一人 自立した人間として

職場の中で働きなさいよってことを

おっしゃりたかったんじゃないのかしらと
思いました。

上司と部下っていう関係なんかにおいても
男だからとか女だからって

偏見のようなものっていうのも

見直す必要も
あったりするんじゃないですかね。

そうでしょうね。
確かに 理不尽な怒り方されたり

男だから ガンガン ガンガン
怒っていいっていうのも

問題だと思うんですけれども

それで怒られないから
女子が得してるのかっていうと

怒られるべき時に 怒ってもらえる機会を
逸してるというふうにも

考えられるわけで
上司から叱られた時に

あまり叱られて
それに耐えるっていう経験がないから

泣いちゃったり…。 今だと パワハラとか
いうふうなことも出てきますから

訴えられても嫌だし
優しく接しとこうとか…。

実際問題ね 今 管理職の皆さん
どこまでが教育的指導というかね

叱るっていうことで
どこからがパワハラか

これ悩むと思うんですけど…。

あくまでも パワハラの定義っていうのは
業務の適正の範囲を超えた指導が

パワハラになるので
適正な範囲かどうかってことを考えれば

大丈夫なんですけど…。  私 若い男の子の
マネージャーがいるんですけど…

…って飲みに連れていくのは
これ 大丈夫ですか?

ちょっと難しいですね。

メンタルケアもしてもらおうと思って。

駄目ですよね。 そうなんです。

だから 皆さん そこで悩んでるんですが

ただ 何でもかんでも
パワハラになるわけじゃないので

そこ 放棄しないでほしいですね。
指導は。

やっぱり
若い人たちの芽を摘んじゃうことに

本当になりますよね。
それ 性別かかわらず

そういうことが
今 問題になってるかもですね。

最後に菊間さん 女性が
新たな道を切りひらくための極意って

何ですかね?

う~ん…。

できるやつだ。
っていうことだと…。

やっぱり 仲間を作ることが大事で
論破しちゃ駄目だと思うんですよ。

説得していかなきゃいけない。

その時って 難しい顔したり
悲しい顔したりするんじゃなくて

やっぱり 口角を うんって上げて
頑張ろうっていう気持ちでいくと

話を聞いてくれる人も増えるだろうし

じゃあ 応援しようっていう気持ちの人も
増えてくるんじゃないかなと思うので

口角を上げるっていうのが
いいんじゃないかなと…。

いいと思います。
思わぬところから来ましたね。

でも できることだ 確かに。
まず できる。

今日からでもできることですよね。
はい。

じゃあ 私も 今日は 口角を上げて…。
上がってますよ いつも。

大丈夫ですか?      うん。
また来て下さいね。   はい。

ご来店ありがとうございました。
(3人)ありがとうございました。


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