英雄たちの選択「“帝国”の誕生~明治天皇・立憲君主への道~」明治天皇が国民に受け入れられ、「帝国」が誕生する道程を描く。


出典:『英雄たちの選択「“帝国”の誕生~明治天皇・立憲君主への道~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「“帝国”の誕生~明治天皇・立憲君主への道~」[字]


軍服にひげの西洋の皇帝風スタイルに変身し、全国巡幸では生身の姿を国民に披露。新時代の立憲君主として、明治天皇が国民に受け入れられ、「帝国」が誕生する道程を描く。


詳細情報

番組内容

幕末まで、京都以外では民衆に馴染みがうすかった天皇。明治維新で王政復古を掲げた新政府は、天皇を新しい君主として国民に認知させることを急いだ。明治天皇は、この要求に応え、軍服にひげの西洋の皇帝風スタイルに変身。明治5年から始めた全国巡幸では、生身の姿を国民に見せた。政治的には、伊藤博文らの立憲君主制に賛同し、明治憲法の制定を後押しした。明治天皇が国民に受け入れられ、「帝国」が誕生する道程を描く。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】原武史,君塚直隆,赤坂真理,【語り】松重豊

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英雄たちの選択「“帝国”の誕生~明治天皇・立憲君主への道~」
  1. 天皇
  2. 明治天皇
  3. 明治
  4. 伊藤
  5. 憲法
  6. 巡幸
  7. 政府
  8. 政治
  9. 自分
  10. 新政府
  11. 大久保
  12. 一方
  13. 君主
  14. 国民
  15. 時代
  16. 当時
  17. 工場
  18. 国会
  19. 存在
  20. 中心


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滋賀県東部。

かつて宿場町として栄えた愛知川。

この町の旧家に

明治時代から伝わる貴重な品が
残されている。

(杉浦)ああ きれい!

三つ重ねの木盃。

ひときわ目を引くのが
金で描かれた菊の紋。

これは 140年前

明治天皇が
この町に訪れたときに贈られた

下賜品だという。

明治天皇は 在位中
北は北海道から南は鹿児島まで

全国を訪ね歩く「巡幸」を繰り返した。

学校や工場など 訪れたさきざきで
大勢の人々と間近に接した天皇。

その訳は…。

新政府を率いた

大久保利通たちの戦略だった。

幕末動乱のさなか
14歳で即位した明治天皇。

その存在は
まだ全国に知られていなかった。

無名の青年君主を

新しい日本を導く天皇として
あまねく知らしめる。

巡幸は 天皇の姿を人々に
どう印象づけたのか。

さらに 新政府が直面した課題は

新たに制定する憲法での
明治天皇の位置づけだった。

その役割の中核を担ったのが…

しかし 当の天皇は
自分の意思を反映できない政治に

次第に 意欲を失っていった。

天皇に憲法を深く学んでもらうため

伊藤がとった
起死回生の秘策とは?

装いを新たにしたスタジオ。

多彩なゲストが集まり

明治天皇を語り尽くす。

君主っていうのは
公務をやるだけじゃなくて…

明治天皇は どのようにして
国民に受け入れられていったのか。

幕末から明治へ 激動の前半生をたどる。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

さあ 磯田さん。
はい!
ご覧ください このセット!

お~! 新しくなっている!
はい!

リニューアルしました!

きれいですね。
明るいですよね。
明るい 明るい。

空も 何か… 上が抜けちゃってて。

開放感がありますよ。

ということで 新年度に入って
「英雄たちの選択」リニューアルしました。

放送も これまでの木曜日から

水曜日にお引っ越ししましたので…。

引き続き よろしく
お願いいたします。
お願いいたします。

そして
新年度最初の主人公は この方です。

明治天皇です。

まさに平成が終わろうとしている
このタイミングで明治天皇。

代々続いてきた天皇。

とりわけ
明治天皇とそれ以前の天皇では

大きく違いますよね。
はい。

どこが変わるのかと
なぜ変わるのかっていう話

ちょっとしてみたいですね。

つまり 天皇の在位中は元号を変えない。

これも 明治天皇からですね。

そういう意味で 今に影響している…

では 新しい天皇とともに始まった
明治という時代の

幕開けから
ご覧いただきます。

東京 明治神宮外苑にある…

明治天皇の足跡を
絵画を通して今に伝えている。

ずらりと並ぶ
高さ3メートルの絵 全80点。

明治天皇59年の生涯が
厳密な時代考証を経て

誕生から順を追って描かれている。

こちらは
慶応3年1月9日 京都御所で

天皇が皇位を受け継いだ儀式の様子。

父・孝明天皇の崩御を受け

僅か14歳で即位することになった
睦仁親王。

明治天皇の誕生である。

幕末の動乱 そして 明治維新へ。

天皇は これから
時代の大きなうねりにのみ込まれてゆく。

慶応4年 鳥羽伏見の戦いで
旧幕府勢力に勝利した新政府は

新しい国づくりに着手した。

このとき 大久保 西郷 木戸ら

新政府の指導者たちが構想したのは

天皇を中心に据えた国家だった。

しかし
そこには 乗り越えるべき壁があった。

近代日本政治史を研究する
西川 誠さんは

当時 多くの国民にとって

天皇は遠い存在だったと指摘する。

これは 江戸時代に京都御所で行われた
天皇の即位式の様子。

見物する人々を よく見てみると…。

なんと…

京の人々にとって天皇は 身近な存在で

即位式は 楽しみなイベントの一つだった。

一方 こちらは 江戸で描かれた錦絵。

聖徳太子に見立てた天皇が
雲に乗って来迎し

人々はというと…。

「てんぷらや だんごを はらいっぱい
たべとうござります」などと

好き勝手な願い事をしている。

江戸の人々にとって 天皇は

現世利益と深く結び付いた
神様のような存在だったのだ。

江戸時代 御所の外に
ほとんど出ることはなかった天皇。

民衆が抱く天皇のイメージは

地域によって 大きなばらつきがあった。

「まず 天皇の存在を
人々に知ってもらう必要がある」。

そう痛感していた大久保は

次のような建白を行っている。

新しい時代の天皇は

国民に その姿を見せる
西洋の君主のようになるべきだと

大久保は考えた。

慶応4年 大久保たちは

天皇を御所の外に出すことから始めた。

3月に まず 大坂行幸を実現。

さらに7月には
「江戸」から名が変わったばかりの

「東京」への行幸を計画した。

天皇は その求めに応じ 9月 京都を出発。

道中 民衆との交流を楽しみながら
東京へ向かった。

そして 京都出発から20日後…

東京では大勢の人々が天皇を祝福。

山車が繰り出され
2日間にわたるお祭り騒ぎが続いた。

ひとまず 新政府は 天皇の存在を
京都以外の人々にアピールすることに

成功したのである。

その後 新たに首都となった東京で

大久保たちは 西洋諸国にならった
「文明開化」を推し進めた。

そして 天皇自身が
新時代にふさわしい姿に変わることを

求めるようになる。

いわば 天皇のイメージチェンジ。

それを示すものが
明治神宮に大切に保管されている。

これは
天皇が明治5年に着用した洋服と帽子。

上着は 立て襟の燕尾服である。

帽子にあしらわれたのは鳳凰の刺しゅう。

ボタン掛けの上着は菊唐草文の刺しゅうで
覆い尽くされている。

金の糸をふんだんに使った
豪勢な作りである。

一方 こちらは天皇の軍服。

主に軍の視察や儀式などで
使われたとされる。

黒ラシャの地に 金モール。

少し傷んでいるのは
天皇が頻繁に着用した証しである。

天皇は二十歳のとき
この軍服を身にまとい

カメラの前に座った。

明治天皇の代表的な肖像写真。

おしろいや お歯黒を落とし

ひげを蓄え 正面を見据えた威風堂々な姿。

こうして
江戸時代までの天皇とは全く異なる

新しい時代の天皇が誕生したのである。

大久保利通らが中心となって
明治天皇を新しいイメージに

つくり変えるところまでを
ご覧いただきました。

原さん
この天皇のイメージ改革というのは

必要なものだったんですか?

当時の19世紀の東アジアの
情勢っていうのを見てみると

当然 西洋の列強が
迫ってきているという

危機感が
あったわけですよね。

それに対して
いかにして日本が

独立を確保すべきか
っていうのは

当時の政府にとっては
もちろん

非常に大きな
課題だったわけでして。

そのためには…

赤坂さん 天皇をテーマにした小説を
書いていらっしゃいますけれど

このイメージ改革
どのように感じましたか?

こういう国をつくりたいっていう
ビジョンがあって

こういう格好をして

こういうふるまいを
してほしいっていう

そのビジョンに
合わせて

それを象徴するように
つくられた人だから。

その意味で ある種の…

さあ その明治天皇の変化
一番よく象徴しているのが

この明治6年に撮られた

こちらの軍服姿の写真だと
思うんですが

君塚さんは いかがでしょう?

(君塚)実は 同時代ですね
富国強兵のこの時代

いわゆる お手本にしたヨーロッパでは

みんな 王侯貴族たちっていうのは
みんな この軍服を着て

もちろん 陸海軍なんかの指導者にも
なっていくわけなんですけど。

お互いに そういった
軍服っていうのをですね

これまた勲章なんかも
お互いに交換し合って。

交換するんですか!
それっていうのは
イコールですね

自分の国のね 例えば
陸軍元帥とか海軍元帥に

相手の国王とか皇帝を叙すと。
そういうようなこともある。

そうすると あのユニフォームもね
もちろん 新調して

で 相手の国を訪れるときは
それで訪れるみたいな。

ひと言で分かりやすく言うと

明治以降…
というか まあ 維新が始まって

天皇のマッチョ化が始まるわけですよ。

マッチョな男性化。

それで これは本当に激しいもので。

そもそも…

明治天皇って
女の子と こんなイチャついたとか

そういう歌 出てこないんですよ。

非常に恋愛歌の多い女性的な世界の中で

しかも スタイルも 割と中性的な格好で
育てられてる。 ところが

明治天皇はね でも この役回りはね

僕は 割にね ご本人 男っぽい人なんで

「やった」ってところ
あったような気がします。

もともと 男性的な
性格だったんですか。       そうそう…。

なかなか…

おおらかな あんまり
ちまちました人ではないことは事実で。

つまり…

天皇のイメージ改革を果たした
大久保たちが

次に企画したのが全国巡幸です。

こちらをご覧ください。

地図が出てきましたが

明治5年から明治18年までの間

明治天皇は 大きく6回に分けて
日本各地を巡幸しました。

南は鹿児島から北は北海道まで。

この巡幸って
どういうものだったんでしょうか?

いってみれば 天皇の全国ツアーですね。

国民に
はい。 明治政府が
見せるため。
そう考えて。

天皇が こんだけ
巡って行って移動するのは初めてで。

昭和天皇が
やっぱり こう回っていくわけですね。

そういう意味なんですね。

その巡幸の中でも
今回 注目するのが こちらです。

明治11年の北陸・東海道巡幸です。

このときが最も大規模な巡幸でして

明治天皇は700人以上の随行員を連れて
北陸・東海道を回りました。

では この巡幸で
国民は天皇を どう受け止めたのか

私も取材に行ってきました。
あっ…。

はい! 現地に。

滋賀県 琵琶湖の東にある町 愛知川。

明治11年10月
北陸から京都へと向かう途中

明治天皇は ここに立ち寄った。

明治天皇が巡幸した土地
全国3, 000か所近くを訪れたという

打越孝明さんに案内してもらった。

江戸時代 中山道の宿場町として栄えた
愛知川。

巡幸では 宿泊施設などが数多く残る
こうした宿場町が積極的に活用された。

おっ ここが…。
ここですね 着きましたですね。

ここが明治11年の巡幸のときの…

「小休所」って言いますけども
そこの場所ですね。

江戸時代は旅籠で
今は料亭になっているこの屋敷で…

ごめんください。
失礼します。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

お待ちしておりました。
お願いいたします。

7代目当主の西村正司さんに

大切に受け継いできた部屋を
見せていただいた。

明治天皇が休んだ…

部屋の至る所に

天皇をもてなすための こまやかな工夫が
施されている。

こういう取っ手一つにしましても

菊の御紋が入った
金の取っ手になりまして。

真ん中ですよね。
(西村)そうです。

真ん中に 菊の御紋が
入っているということでございます。

たったの3か月ですか?
はい。

この御座所は
明治天皇を迎えるためだけに

建物ごと 急きょ 新築したものだった。

当時の主人は
費用の工面に相当苦労したという。

お金もね あの…
その当時の千円というお金を

使っておりますので もう大変…

田畑 売って
なんとか やってるということで…

そうですね。
それが明治 大正は おろか…

滞在の謝礼として
明治天皇から贈られたものを

西村さんは 大切に保管している。

お~!

(西村)で これが…。

あっ すご~い。

ああ きれい!

(打越)ぴかぴかですよね。

どういったものなんですか?

(西村)これは宮内省のほうから

陛下がお越しになったいうことで頂いた
三つ重ねの木盃でございまして

「五つ紋」といいまして
菊の御紋が5つ入ってるんです。

そういうものを
頂いたということでございます。

明治天皇は全国巡幸で訪れたさきざきで

花瓶や茶わんなどの品々を下賜した。

それらは大切に保管され

人々は のちのちまで
天皇のことを語り継いでいった。

明治11年の北陸・東海道巡幸では

さまざまなエピソードが伝えられている。

10月2日
現在の石川県に入った明治天皇は

旧加賀藩の藩主 前田斉泰に出迎えられ

4日間 接待を受けた。

その様子を見た地元の人々は

殿様よりも大きい天皇の権威を
感じたという。

9月に訪れた新潟では こんな話が。

天皇は 出迎えてくれた沿道の人々に

眼病患者が多いことに気付いた。

そのことを憂い
すぐに眼病の治療費として

千円という大金を下賜したという。

人々に あまねく天皇の姿を見せ
その権威や徳の大きさを印象づける。

しかし
巡幸の目的は それだけではなかった。

9月に訪れた…

ここで 天皇は1泊した。

こんにちは。 お願いします。
どうもご苦労さまです。 片桐です。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。 杉浦です。

歴史学者の…

新町を訪れた明治天皇の足跡を
研究している。

天皇の巡幸先として ここが選ばれた理由。

それは 新町の中心にあった工場を
視察するためだった。

巡幸の前年に造られた この工場に

明治天皇は 1時間滞在したという。

この工場は そもそも
どういう工場だったんですか?

官営の屑糸紡績所。
屑糸?

「屑糸」とは
繭から糸を作る際

品質が悪いため
廃棄される部分のこと。

この紡績所で屑糸をリサイクルし
新しい生糸を作っていた。

実は ここは 大久保や岩倉らが

新たな外貨獲得を目的として

建設を進めた 政府肝煎りの工場だった。

もともと 群馬には

フランスの技術を導入し
輸出用の生糸を製造していた

富岡製糸場があった。

この富岡製糸場に近く
屑糸を入手しやすいため

新町に紡績所を造ったのである。

明治天皇が訪れたときに 工員たちは
どういう反応をしたんでしょう…?

(片桐)宮内庁に
絵が残ってますけれども

技女さんたちも 特別な服を たぶん
あつらえてもらったと思うんですけど

紺のパーティードレスのような
ビロードのような服を着て

仕事をしているところを
天皇に見ていただいた。

明治天皇は
全国巡幸で 工場をはじめ

新政府が進める 近代化の
象徴ともいえる施設を数多く訪れた。

学校。

地方行政を担う庁舎。

天皇が 出来たばかりのこれらの施設を
視察することで

新政府は 文明開化や殖産興業の推進を
図ったのである。

巡幸は 人々が広く明治天皇を
知るようになっただけでなく

天皇自身にも 為政者としての自覚を
促すきっかけになったという。

それで 自覚が…

いくつかですね
訪れてみたんですけれど

やはり 先ほどもありましたけれど

とにかく 最大のおもてなしを
皆さん したくて

頑張ってるっていうのが伝わってきて。

巡幸の効果っていうのは
もう絶大で

あとあとまで
伝説化して残るわけですよね。

これまで やってないことも
やってるところがポイントで。

「勧農」っていって
「農業を勧める」は やってたんですよ。

ところが だんだん
殖産興業をやるようになると…

産業を進める
というふうになって利用された。

基本は 見るっていうことは
実は 支配するということなのが

東アジアに共通してるんですけど
帝王の場合は。

要するに…

そして 巡幸に際して 天皇のために

初めて 外国から購入されたものが
ありました。 こちらです。

登場しました。

明治4年にフランスから購入した

そして
その後の巡幸で天皇が使用した馬車です。

これ
立体CGで ほぼ実物と同じ大きさに

再現しました。

10年ちょっとぐらいの
時期だったんですけれども。

それは まあ 見えなかったわけですよね
乗ってしまうと。

ところが ここで
ガラスというのが出てきて

で 見えるようになると。
さらに これは ほろが上がりますので

そうすると もう 顔を出すと
全部見えたりするわけですよ。

(原)…っていうことの意味は
非常に やっぱり 大きくて。

だから…

両者なんですよね。
だから そこに 一つ

「見る・見られる」みたいな関係性が
出てくる。

そこは やっぱり大きな違いだと思います。

一つ 不思議だったんですけれども…

確かに
セキュリティーの面で そうですよね。

(赤坂)行列だったとはいえ

「見える」っていうことは
怖くはなかったのかと。

赤坂先生おっしゃったとおりですが

ちょっと 馬車 危ないという
暗殺の危険性なんて…。

で おっしゃるとおりで もう…

もう 近代の 特に西洋の君主は…

もう 見てもらう。 で それで 国民に
より自分の姿を見せるということは

ある一方では もちろん
便利でもあるわけですけども

それをかけて やっぱり 馬車に乗って…。

だから やっぱり その辺りも
この明治天皇ですね …の日本が

受け入れた 導入したっていうような
背景には あるのかもしれませんね。

そういうことも 実は もう露骨に見えた。
そういうケースですよね。

では 巡幸で 天皇のイメージを広めた
新政府にとって

次の課題は
国の中で 天皇を

どう位置づけるか
ということでした。

明治11年5月
政府を揺るがす事件が発生した。

大久保利通が 赤坂仮御所に向かう途中

紀尾井坂で暗殺されたのである。

実行犯たちは 斬奸状を起草して
明治政府を糾弾した。

「現在の法律は 天皇のご意向でもなく

人民の意見を取り入れて
作られたものでもない。

要職にいる
一部の官吏の独断によるものである」。

この事件を契機に
宮中で 天皇の在り方を

変えようとしていた勢力が動きだした。

中心となったのが
熊本藩出身の儒学者
元田永孚や

土佐藩出身で
新政府の参議も務めた
佐佐木高行。

「侍補」と呼ばれる 天皇の側近たちである。

侍補は 明治10年に

天皇を補佐する役職として
宮中に設置された。

天皇のそばに仕えながら
政治や道徳を教え

日々の相談を受けたりする役割も
担っていた。

これは 明治神宮に今も残されている
明治天皇への進講に使われた教科書。

天皇が主に学んだのは
元田の意向を反映した

「書経」や「詩経」など 儒学の古典だった。

侍補たちは 天皇を

「徳」をそなえた聖人君子に
育てようとしたのである。

大久保が暗殺された直後
宮中で対応を協議した侍補たちは

かねてからの考えを実行に移した。

大臣・参議による専制を批判し
天皇が政治の実権を握る

「天皇親政」を進めるべきだと
奏上したのである。

今の政府は
薩摩 長州の一部の人間が牛耳り

陛下の意向を無視して
政治が進められています。

このままだと
天下の人心に不平が積もり

政府要人を狙った暗殺事件が
再び起きることでしょう。

維新の大業が水の泡になってしまいます。

今こそ 古代中国の聖人君子のように

徳を身につけた君主となられ

天皇親政を実現しなければなりません。

明治天皇は 涙を浮かべて奏上を聞き
侍補たちの考えに同調した。

そして
みずから政治に介入する動きに出た。

当時 空席となっていた工部に

侍補の佐佐木高行を就任させるよう

太政大臣 三条実美に催促したのである。

しかし それは
天皇親政の勢いが強まることを恐れた

三条たちによって実現を阻まれてしまう。

三条や岩倉 伊藤たちは
天皇… 政治は自分たちが行う。

自分たちが
改革しようということで…

一方 同じころ 政府の外でも

天皇の在り方に深く関わる
新たな動きが巻き起こっていた。

地方の士族や豪農たちが中心となり

国民の自由や権利の拡大を求めた

「自由民権運動」である。

国会の開設と憲法の制定によって
国民主体の政治を目指した。

運動の過激化を抑えようとした政府は
明治14年

9年後に国会を開設すると宣言。

併せて 憲法の制定作業に
本格的に取り組むこととなった。

この動きを主導したのは
大久保亡きあと 政権の中枢にいた…

当時 政府よりも早く 民間では
さまざまな憲法案が発表されていた。

天皇の位置づけをめぐり

議会の権限を優越させるもの
天皇の大権を認めるもの

中には 天皇の廃位を求めるものまで
幅広く存在した。

天皇を 憲法の中で どう位置づけるか。

政府内で 憲法制定の中核を担った伊藤は
頭を悩ませていた。

そんな中 明治15年3月

伊藤は 憲法調査のために
ヨーロッパへと旅立った。

そして ウィーンで
みずからの憲法観を決める

重要な人物と出会う。

ウィーン大学の法学者
シュタイン教授だった。

伊藤は
その講義を受け 強い感銘を受けた。

シュタインの教えは

「君主」に一定の統治権を認めつつ

「行政」を中心に据えることで

「君主」や「議会」の横暴を
制御するというもの。

当時ヨーロッパの新興国だった

ドイツ プロイセンの憲法の考え方だった。

伊藤は これこそが日本の現状に即した

「立憲君主制」であると確信した。

憲法構想を固めて 伊藤は帰国。

政府に復帰し 早速 宮中改革を進めた。

だが そこで直面したのは
みずからの意思を反映できず

政治への意欲を失っていた
天皇の姿だった。

たまりかねた伊藤は 明治18年8月

三条実美に書簡をしたためた。

政務に熱心でない明治天皇への嘆きが
率直に語られている。

最近 天皇が気にかけていることといえば
運動など 体に関することのみ。

政治には全く興味を示さない。

天皇が おつとめされるのは
僅か2時間程度。

さらに その間も
側近たちと談話するばかりで

大臣や参議に
国務について問うようなことはない。

このため 天皇の知らないところで

大臣たちが 重要な政策を
勝手に決めるような事態が続いている。

私の心中は 烈火のようである。

黙って見ているわけにはいかない!

明治天皇に 立憲君主としての在り方を
どう理解してもらうのか。

伊藤の苦悩は深かった。

天皇の側近だった
元田や佐佐木らが主張した天皇親政。

原さん この天皇親政は どんな理想を
目指したものだったんでしょうか?

「論語」とか「書経」といったものを
教科書としながらですね

いわゆる 帝王学を
天皇に授けようとした人です。

そこには徳治主義というふうに
いわれますけれども

法ではなくて
徳をもって 君主の優れた…

先ほど出てましたけども 新潟にですね
明治天皇が巡幸に行ったときに

沿道に目を患った人たちが
多いということに気付いて

いわゆる ご下賜金というものをですね
与えているわけですけれども。

あれなんかも 明らかに 元田永孚の影響が
やっぱり あるわけですよね。

つまり…

だから
憲法が出来ていくわけですけども

その中で…

実は 元田をはじめとする人たち

つまり…

…というふうに思われます。

親政 みずから政治を行うのかですけど

恐らく 僕が想定してたのは…

天皇の前で各閣僚がいて 議論が行われ

昔の 名君といわれた人が

みずから 家老の会議の席に出てって
やってた姿を

恐らく 想定してたと思うんですよね。

だから… これ でも 危ないんですよ。

会議の席で
天皇が「うん」って言うわけですから…

つまんない政策をやっちゃったりとか
ましてや あの… ねえ?

そこは難しい。
難しい。

天皇親政の一方で

伊藤らが目指したのは立憲君主制。

この立憲君主制の理想っていうのは
君塚さん どう考えますか?

伊藤もですね
最終的には たぶん…

どういうのかというと
簡単に言っちゃうと…

実際の行政というのは
いわゆる 政府ですよね。

まさに そういう近代的なね。
ですから 天皇というのは

さっき 磯田先生 おっしゃったとおり
責任は負わない。

すべて そういったものに
任せるというような方向に

最後は
本当は いきたかったんだと思います。

ところが…

ちょうど オーストリアとか
プロイセンのような いわゆるドイツ系の。

いわゆる 伊藤がね
これぐらいだったら

ホップ ステップ ジャンプで
最後はイギリスにジャンプしたいけど

多分 ホップ ステップ辺りで 最初は
プロイセンとかオーストリアにならって

そういう形でのね
君主制でいこうというのは 恐らく…

じゃあ その理想モデルを携えて
帰国してきた伊藤ですけれど

帰国してみたら明治天皇は 随分
政治に関心がないように見えたって

この辺りは 原さん いかがですか?

明治天皇自身は 元田永孚から
非常に影響を受けてますので

要するに 自分が
ある種の主体性を発揮してですね

民に対して ある種の…

そうではなくて 最新のというか

制度をヨーロッパから輸入して…

それに対して 何ていうか 自分が…

それは 何か すごくあったんじゃないか
っていう気がするんですよね。

私は 人の心っていうことから
考えてしまうんですけれども

自分が中心になっている青写真の中で
国が出来ていて

西郷が 結果的には反乱を起こして
悲劇的な最期を遂げたとか

大久保にしても ひどい殺され方をして

自分の最初の青写真の中で

親しかった人が
どんどん ひどい死に方をしていって。

明治天皇に
どのようにして憲法を学んでもらうか。

伊藤には 秘策があった。

それをうかがわせるものが
國學院大學に残されている。

「澳國スタイン博士講話録」。

伊藤と同じく
シュタインの講義を受けた ある人物が

その内容をまとめた記録だ。

侍従の藤波言忠。

少年のころから宮中に出入りし

明治天皇の信頼も厚い学友だった。

伊藤は当時 ヨーロッパに滞在していた
藤波に目をつけ

シュタインのもとで
憲法を学んでもらい

帰国後に
明治天皇に進講するよう要請した。

藤波は およそ1年にわたり

シュタインの憲法観を
徹底的にたたき込まれ

天皇の立憲君主としての
心構えまで学んで 帰国した。

明治20年に始まった藤波の進講は

およそ4か月 計30回以上に及んだという。

西川さんは 冒頭の記述から

憲法を熱心に学ぶ
明治天皇の姿が

よくうかがえるという。

(西川)「聖上 戯れにのたまわく
『藤波の講義か』」ということで

「また お前の講義か」と
天皇は戯れに言った

ということなどが書かれている。

かなり信頼していたんだろうと思います。

藤波は 立憲君主制の仕組みを
工夫を凝らして説明し

天皇の理解を助けた。

ここの図も
政府と国会の関係がある。

帝王 政府 国会とある。

今の三権分立と違うんですけれども

この3つの調和が
国家の発展に
つながると。

これを見ながら
政府は政府の意思が
あっていい。

国会は国会の意思が
あっていい。

天皇は天皇の意思が
あっていい
ということで

天皇の役割というのを政府に何を任せるか
国会に何を任せるのか。

…というのが 藤波の

これを聞きながら
理解できたのではないかと思います。

明治21年春まで続いた
藤波の進講によって

明治天皇は憲法の中で規定される
みずからの役割を理解し

自覚を深めていった。

伊藤のもくろみどおり

天皇は
新しい立憲国家にふさわしい君主へと

成長を遂げたのである。

明治神宮の一角に立つ…

この中の一室で
伊藤たちが作った憲法草案について

最後の審議が行われた。

さあ この部屋ですね。

この部屋こそ…

明治憲法…

天皇の諮問機関として設置された枢密院。

およそ1か月にわたり
伊藤を議長とし

皇族や大臣が参列する場で
激しい議論が交わされた。

憲法の制定に深い関心を示す天皇の姿は

この会議での様子によく表れていた。

そして 明治22年2月11日。

新築された宮殿で 天皇臨席のもと
盛大な式典が催された。

憲法で 天皇は どう位置づけられたのか。

「第一條 萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」。

天皇が日本の統治権を担うことを宣言。

その一方 第四條で 天皇の統治権は

「憲法ノ條規ニ依リ」。

すなわち 憲法に従うことが明記された。

立憲君主として
憲法の制約を受ける天皇の役割を

明確に規定した憲法となった。

憲法発布の前に
式典公開のために整備された敷地である。

宮殿での発布式を終えた
明治天皇と皇后は

馬車に乗って パレードを行った。

皇居前広場は 大勢の群衆であふれ

憲法の発布を祝った。

喜びの声は 東京から全国へと広がった。

幕末維新の動乱のさなかに即位した
明治天皇。

それから22年。

近代日本の立憲君主として

国民の前に
その姿を ようやく定着させたのである。

こうして
明治22年に憲法が発布されました。

原さん 明治天皇自身は
どのように考えていたんでしょうかね。

憲法を発布するってこともそうだし
内閣制度を作ることも

帝国議会を作ることも
そうなんだけれども

そういう まあ 要するに…

…という感覚は
たぶん持っていたと思うんです。

だけど
本心は どうなのかっていうところは

そこが一番よく分からないところで。

だから
自分が 徳を身につけて 成長して

そして いわば…

そう単純ではないんじゃないかっていう。

そこは やっぱり 明治天皇の
非常に複雑なところなわけですよ。

赤坂さんは いかがでしょう?

明治天皇が「蝉丸」という能が
好きだっていうことを読んで

とても はっとしたんですね。
というのは「蝉丸」っていうのは

盲目なために 天皇から…
放逐された天皇の子が

芸能者になって 琵琶法師になって
どこか辺境…。

逢坂山ね。 境目の所にいるわけですよ。
そうです。

そこで 同じく天皇家から放逐されて

それは 美しくないという理由で
放逐されたお姉さんと

ひと時 会うっていう悲しい話ですよね。

その作品に思い入れるっていう天皇に
何となく胸が きゅっとしてしまって。

ということは
もしかして 京都で暮らしていて

そこから引き離されて
異形のものに作り変えられ

何かを… それを
演じなければいけなかった寂しさが

あったのかもしれないと思いました。

明治天皇が歩んだ道を
今回 見てきたんですけど

改めて どう感じますか?

六大巡幸っていうのが
今日は すごく トピックとして

重要だったと思うんですけれども。

それは 元田永孚のようなね
考え方ですと

まさに民のね 実情を知ると。

そういう考え方が一方であったと。

しかし
他方で 近代化を進めていく中で…

そういう天皇像っていうのも
一方であったわけじゃないですか。

ところが これは要するに敗戦によって

その路線というものは
破綻したわけじゃないですか。

そうすると 戦後は

いわゆる 象徴天皇制の
時代になるわけですけれども

そうすると
また 天皇が全国を回ってですね…

そういうことをやる。

要するに それは やっぱり 政治が
十分カバーできないような人たちに

より多く愛情を注ぐというのが

今の天皇・皇后の中心的な役割に
なっていったとするならば

実は 今の天皇は もちろん
戦後の いわゆる 民主主義教育を

受けているわけですけれども
結果的にはですね

今の天皇は一番 儒教的なですね
一番 民に寄り添うっていうことを

徹底的にやってるっていうふうにも
見えるわけですよね。

実は 今日お話が出た
最初のころっていうのは

もう 世界中 19世紀は
大半は もう帝国 王国だったのが

今現在は もう28か国になっちゃった。

それから 今は
ご存じのとおり 世界的な最先端の問題

地球環境
あるいは男女の平等 あるいはLGBT…

その王室を見た いろんな

団体立ち上げて
それを支援したりというように

実は 非常に まだまだ 立憲君主制も
捨てたもんではないような

そんな中で 新しい21世紀のね
日本の天皇制も

どうなってくのかということを
注目したいですね。

さあ 磯田さん。
まもなく今の天皇が退位されて

そのあと
新しい天皇が即位されるという時代。

明治天皇を今日見てきて
まさに日本史の中でも

一番 激動のターニングポイントで
いろんなことに巻き込まれながらも

新しい時代を
作っていかなければいけない。

明治の人々 それで 頂点にいた明治天皇も
すごいストレスだったと思うんですよ。

もう小さいときから
どんどん変わっていきますからね。

一応 効率っていう点では
立憲君主制をとったことで

富国強兵という意味では
一端の成功はあったわけですよね。

だけど…

我々は戦後 持ったのは
主権者になったときに持ったのは

象徴天皇制というものですよね。

これ どういうふうに
運用するのかという問題は

我々 今度
主権者なので 何事もタブーにせずに

しっかり 天皇たち
天皇の帝室 皇室の制度を見ながら

歴史を見つつ 世界を見つつ

やっぱり考えるべきかなというふうに。

3代目 大事だと。
ぜひ こういう番組をきっかけに

いろいろ 今日も
皆さん思われたことあると思いますので

しっかり もう一回 反すうしながら

考えることが大事ということで

感想ですね。

今日は 皆さん ありがとうございました。


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