歴史秘話ヒストリア「世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の真実」最新研究で保守的でマジメな実像に迫る。



出典:『歴史秘話ヒストリア「世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の真実」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の真実」[解][字]


室町幕府を倒し、新たな時代を切り開いた戦国の革命児・織田信長のイメージが覆されはじめた。最新研究で保守的でマジメな『魔王』の実像に迫る。新案内役は渡邊佐和子アナ


詳細情報

番組内容

旧態依然とした室町幕府を倒し、新たな時代を切り開いた戦国の革命児…そんな織田信長のイメージが近年、覆されはじめている。主流となりつつあるのは『朝廷や幕府の権威』を守ろうとする、まじめで保守的な織田信長像。実は最後の室町将軍・足利義昭の政権維持のために懸命に奔走していた。将軍の天下のために戦えば戦うほど、同盟者に裏切られ苦境に陥る信長。マジメすぎた戦国の『魔王』の素顔に迫る。新案内役は渡邊佐和子アナ

出演者

【キャスター】渡邊佐和子




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歴史秘話ヒストリア「世にもマジメな魔王 織田信長 最新研究が語る英雄の真実」
  1. 信長
  2. 義昭
  3. 家臣
  4. 天下静謐
  5. 天下
  6. 朝廷
  7. 史料
  8. 将軍
  9. 信長像
  10. 手紙
  11. 織田信長
  12. 全国統一
  13. イメージ
  14. マジメ
  15. 義昭様
  16. 軍勢
  17. 言葉
  18. 書状
  19. 朝倉
  20. 武力


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観を作るということですね。

突然ですが あなたが…

今回 「ヒストリア」は

全国の街で 100人以上の方に

街頭インタビュー。

歴代のNHK大河ドラマでも
名だたる名優たちが演じた 信長。

天下統一への強い意志。

近寄り難い威圧感。

恐れられ あがめられる姿です。

武将たちが全国統一を目指す
有名シミュレーションゲーム。

信長は 誰よりも革新的な武将として
登場します。

すわっ! かかれ!

今年 放送開始から10年がたった
「ヒストリア」も

全国統一の野望を抱く
征服者として

繰り返し描いてきました。

ところが…

近年 歴史学者を中心に

そんな信長像に対する疑問の声が
巻き起こっています。

♬~

まず 最初の疑問。

「本当に信長は…」。

続いての疑問。

「本当に 信長は…」。

ハッハッハッハッ!

平和な世の中を目指したという 信長。

では なぜ彼は
戦い続けたというのでしょう。

日本人が大好きな 戦国の英雄・織田信長。

これまでのイメージとは異なる
本当の魅力に迫ります。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。

この春から 案内役を務めます
アナウンサーの渡邊佐和子です。

どうぞ よろしくお願いいたします。

さて 今日の主人公は織田信長です。

抜群な人気を誇る信長ですが

意外にも 「謎に包まれた武将」と
言えるかもしれません。

実は 信長は 関係する史料が
比較的 少ない人物です。

例えば 出したり 受け取ったりした手紙で
残っているのは

1, 500点ほど。

秀吉や家康の半分以下です。

そのため 信長のイメージの多くは

江戸時代以降に書かれた
創作物から きています。

それが 研究にも
影響を与えてきました。

そんな中 5年ほど前から
注目されているのが

直接 関係する史料から
信長像を見直す動きです。

そして 浮かび上がってきたのは
新たな織田信長の姿。

どうぞ ご覧下さい。

ここに 若き信長が送った
一通の書状があります。

すなわち…

信長が朱印に刻み
スローガンとした この言葉は

これまで 「武力による全国統一」を
意味するとされてきました。

わしは 武力で
天下を我がものとする。

そのことを
この印判にて 世に知らしめん。

ハッハッハッ。

乱世に 全国統一を宣言するという

英雄・信長の「野望」。

ところが そのスローガンが押された
書状の内容は

野望とは 程遠いもの。

そもそも 手紙は 朝廷に宛てたもの。

更に内容は
朝廷からの贈り物に感謝しつつ

「領地回復」という 先方の願いを
かなえることを約束しています。

つまり この手紙は

古くからの権威である朝廷への
「敬意」が表れたもの。

そこに押すハンコで

「武力による全国統一」を
宣言するとは

何だか おかしいと思いませんか?

今 信長像の見直しが
歴史学者たちによって進んでいます。

本人に 直接関わる史料だけで
信長を 捉え直そうとする

意欲的な試みです。

最新研究から導き出される
新たな信長像。

一体 どのようなものなのでしょう。

まずは 従来の説に基づいて

信長が 全国統一を始める
きっかけとなった出来事を

見てみましょう。

(家臣)申し上げます。

御屋形様に
書状が参っております。

(信長)書状とな?

ほう 天下が
向こうから転がり込んできたわ。

ハッハッハッ。

手紙の差出人は 足利義昭。

父・義晴と兄・義輝が
「元将軍」という

由緒ある家柄の人物。

各地を流浪しながら
将軍の座を狙って

大名たちに
協力を要請していました。

この義昭について

大正時代の歴史書には
こう あります。

「信長は 義昭の自由を奪い
実体のない将軍とした」。

信長が 義昭を利用したというのです。

義昭めを 担げば わしのすることに
誰も文句をつけられまい。

ハッハッハッ… ハッハッハッ!

ところが 直接関係する史料からは

信長の こうした姿勢は
うかがえません。

そこで もう一度 同じ出来事を

新たな信長像に基づいて
描いてみましょう。

(家臣)申し上げます。

御屋形様に 足利義昭様より
御内書が参っております。

(信長)なんと… それは恐悦至極。

義昭様は これほどまでに
この信長を頼みに…。

義昭は 信長以外の
多くの大名にも

協力を求める手紙を
出しています。

ところが その要請に

本気で応えた
形跡があるのは

信長 一人です。

この乱世を正すは 容易にあらず。

されど 義昭様のため
天下静謐のため

身を粉にして働かねばなるまい。

信長は 義昭に 自らの決意を記した
返事を送っています。

(信長)「御入洛につき記された御内書
謹んで受け取りました。

私は 義昭様の命令しだいで

いつでも お供する覚悟です」。

史料を そのまま読むと

義昭に尽くそうとする
信長の姿が見えてきませんか?

新たな信長像を探す試み。

実は あの「天下布武」も

「武力での全国統一」を
意味しないとする説が

有力になっています。

その根拠は
「天下」という言葉の 当時の意味。

このころ 日本に滞在した
ポルトガルの宣教師 ルイス・フロイスは

こう 記します。

「五畿内の領主が
『天下の領主』と呼ばれる」。

なんと 「天下」は

「全国」という意味ではなく 「五畿内」。

つまり 京都に近い
限られた地域を指すと思われるのです。

これを踏まえ 金子さんは
「天下布武」とは

「将軍が 京にいられるよう支える」
という

信長の決意を表すと
考えています。

わしの武力で
義昭様を 京の都にお連れし

荒れ果てた都も 元の姿に戻す。

そのことを
この印判にて 世に知らしめん。

(一同)えい えい おう!

そして もう一つ

信長の史料に多く出てくる
スローガンがあります。

それは 「天下静謐」。

室町幕府の正統な将軍が
「天下」 つまり 京都周辺を

昔のように 穏やかに治めている
という意味です。

さて 義昭の手紙を受け取って3年後。

力を蓄えた信長は
いよいよ 動きだします。

軍勢を岐阜から進め
敵対勢力を蹴散らしながら

京へ上りました。

そして ひと月余りで

天下を支配していた
三好氏を
追い払いました。

その直後 義昭は朝廷から
晴れて 征夷大将軍に任じられます。

このころの 信長と義昭の関係について
ある僧侶が残した言葉。

「義昭様の御入洛に
織田信長が付き従った」。

そこから読み取れるのは

上洛の主体が
あくまで 義昭だということです。

こうして 将軍が
3年ぶりに 京都に戻ったことで

「天下静謐」という理想に 一歩近づいた
義昭と信長。

義昭は 最大の功労者である信長に
心からの感謝の意を示しています。

信長殿 わしは そなたを
父のごとく思うておる。

そなたがいてこその
義昭じゃ。

ところが 史料によると
信長は こんなことを言いだします。

天下布武も相成りましたるうえは

岐阜に立ち帰り また 己の領地を
治める身に 戻りとう存じます。

全国統一の野望どころか
自分の国に戻ると言い始めました。

すると…。

もはや 御父は
都におってはくれぬのか?

子であるわしを… 見捨てると申すか…。

うっ ううっ…。

義昭は 信長に
そばにいてほしいと頼みました。

二人が 信頼関係で結ばれていたことが
うかがえます。

信長が帰国して ふた月後。
急ぎの知らせが もたらされます。

(家臣)京にて 一大事にござりまする!

いかがした?

(家臣)三好の軍勢が
公方様のおわす本圀寺に!

危機にひんした義昭を救うため
信長は急ぎました。

降りしきる雪の中
先頭を駆けていく信長。

行けぇ~!

軍勢が 必死で追いかけたと言われます。

岐阜から京都までの120km余りを
僅か 一昼夜で駆け抜けました。

京都市。

この事件を きっかけに
信長が 義昭のために造ったものが

近年 発掘されています。

それは お城。

大きさは およそ400m四方。

地図上で比較すると

後に徳川家が築いた
二条城と比べても

色ない大きさです。

二重の堀を 全て石垣で固めた
厳重な造りでした。

こたびの御父の忠義
厚く礼を申すぞ。

ははっ… 恐れ入りまする。

史料から浮かび上がってきた
新たな信長像。

それは 戦国乱世に

室町幕府を中心とした秩序を
取り戻そうとする

少し意外なものでした。

義昭のために 懸命に尽くした信長。

実は 義昭以外の人にも
こまやかな心配りをする人物でした。

ある時 信長は

当時 畿内で最も栄えた港町
堺の有力者 津田宗及を

岐阜城に迎えました。

この時 宗及は 信長にお盆を贈ります。

塗り重ねた漆に 彫刻を施した
見事なものでした。

翌日 お茶の席に招かれた宗及。

すると そこには 心ときめく光景が。

茶道具の極め付きの名品が
並んでいたのです。

その中に
宗及が贈ったお盆もありました。

しかも 風情ある花入れが置かれ
柳の枝が挿してあります。

贈り物への感謝を さりげなく示す
信長の粋な計らいでした。

信長は 相手を心から理解し
誠実に向き合おうとする

マジメな人だったのかもしれません。

しかし そんな信長の性格は

自らを
窮地に追い込んでいくことになります。

1571年 信長による…

死者は
3, 000人に上ったと伝わっています。

この出来事によって

「残忍な独裁者」という
信長の悪いイメージが定着します。

信長は なぜ焼き打ちを行ったのか?

実は そこにも

将軍に 忠実に仕える信長の
意外な姿が浮かび上がります。

義昭が上洛した翌年。

室町幕府が 天下を正しく治めるという
目的に向け

義昭と信長は 本格的に動き始めます。

天下静謐のため この信長
力を尽くしてまいる所存にございます。

信長が まず行ったのは

武力で 各地の大名を打ち破ること…
ではなく…。

義昭の意を受け

各地の敵対する大名同士を
和睦させること。

そのため 書状を出します。

例えば 川中島で
何度も死闘を繰り広げた

武田信玄と上杉謙信。

更には 九州北部をめぐって争っていた

毛利元就と大友宗麟。

和睦の呼びかけは 全国に及びました。

…という そういう考え方ですよね。

一方 将軍の権威に従わない
勢力に対し

過激な姿勢を示したのは 義昭でした。

若狭の逆徒を ただちに成敗すべし。
頼むぞ。

(信長)ははっ。

若狭国へ遠征。

信長が 義昭に討伐を命じられたのは

若狭の武将 武藤氏。

若狭出身の義昭側近と

対立関係にあったと思われます。

攻めよ!

ところが この義昭の指示が
思いがけない方向へ波及します。

若狭の武将 武藤氏の背後に

越前の有力戦国大名

朝倉義景がいたのです。

こうして 義昭の命令で始まった戦いは
織田と朝倉の全面対決となります。

更に…。

(家臣)一大事にございます!
(信長)いかがした?

北近江の浅井殿が ご謀反!
謀反にございます!

それは まことか!

浅井長政は
信長の妹・お市の夫で

同盟の相手。

それが 朝倉と通じ
敵に回ります。

信長は 二人の強者に
挟み撃ちにされました。

(家臣)我らは 袋のネズミではないか…。
殿!

(家臣)殿!
(家臣)殿!

信長の
生涯最大のピンチと言われた状況。

それは 自らのせいというより

義昭に従ったため
起きたことだったのです。

この時は 何とか生き延びた信長。

しかし その直後 義昭のため

生涯 消えない汚名を
負うことになります。

若狭攻めの 3か月後。

四国に追いやられていた 三好の軍勢が
再び 都に攻め上がろうとしました。

この事態を受けて 義昭が動きます。

陣触れじゃ! 国中の軍勢を集めよ!

(家臣)ははっ! かしこまりました!

義昭は またも信長の軍勢を中心とする
3万とも言われる兵を動かし

三好に備えました。

一方の三好も 味方を募ります。

大坂本願寺や 延暦寺 浅井 朝倉などを
自らの陣営に引き入れました。

この時 浅井と朝倉が
近江から都に向けて進軍。

琵琶湖のほとりで

織田方の軍勢との戦いが
起きます。

この事態に 信長も
救援に向かいました。

劣勢となった
浅井・朝倉の連合軍は

近くの寺に
逃げ込みます。

信長に焼き打ちされることとなる…

信長は 延暦寺と
粘り強く交渉をしました。

「私たちに
協力してくれるならば

かつての延暦寺の領地を
回復させましょう」。

「もしも このまま
浅井・朝倉の味方を
するならば

焼き打ちせざるをえません」。

ところが延暦寺は 一切 返答しません。

信長は待ちます。

そして 1年近くたった頃。

やむをえぬ。

叡山を攻めるより 他なし。

比叡山 焼き打ち。

天下静謐を保つための 苦渋の決断。

しかし 当時の人々は
厳しく批判しました。

こうして 天下静謐のため働いた信長は

残忍な征服者のイメージを
まとうことになったのです。

更に 信長にとって
悪いことは続きました。

公方様の御家来衆の 悪しきうわさ

御屋形様には
お聞きおよびにございましょうか?

うわさ? 何じゃ それは。

(家臣)はっ。

何でも 寺社や公家衆の所領を
好き勝手に かすめ取っておるとか…。

そは まことか。

「平野神社の領地は

ことごとく
義昭のものにされてしまった。

それを 家来に与えたようだ」。

世を正しく治めるべき将軍が

他人の土地を
自分のものとしたという うわさ。

マジメに 天下静謐を目指す
信長にとって 許し難いことでした。

信長は 合わせて21か条にも及ぶ

義昭の行動規範を定めます。

他にも 義昭が

理由なく
金品を求めるのを禁じたり

朝廷へ きちんと
貢献することなどを求めました。

天下静謐のためであれば

義昭に対しても態度を変えない
マジメな信長。

しかし 次第に義昭は

信長を疎ましく感じるように
なっていったようです。

ハッ 田舎大名風情が!

更に その反感は それまで信長が
良好な関係を保っていた

各地の勢力にも広がります。

同盟関係にあった武田信玄も
信長と たもとを分かちました。

そして 1573年。

もはや 信長も滅ぶしかない。
このままにては わしも共倒れじゃ。

ついに 将軍義昭が

信長の敵対勢力と結ぶことを決めます。

この時 信長が
義昭の側近に送った手紙。

(信長)「義昭様に 丁寧に
ご説明申し上げようと
思っています」。

「共に
天下を再興することが

私の
心からの望みなのです」。

自分が 義昭に裏切られるとは
夢にも思っていなかった 信長。

しかし 人一倍
マジメであったがゆえに

周囲との距離は
離れていく一方でした。

ここまで 私たちが

世にもマジメな人物として
紹介してきた 織田信長。

でも こんな あだ名を
聞いたことありませんか?

なぜ このような
恐ろしい あだ名が

付いたのでしょう。

宣教師 ルイス・フロイスによると…。

信長のもとに たもとを分かった
武田信玄の手紙が届きます。

その署名に
「天台座主 信玄」とありました。

「天台座主」とは
比叡山 延暦寺のトップのこと。

信玄は
比叡山を焼き打ちした信長を

強烈に皮肉ったのです。

これに対して 信長は 返信に
「第六天の魔王 信長」と署名しました。

仏道の修行を妨げる神のことです。

売り言葉に買い言葉で返した
言葉が

後世 恐ろしいイメージにつながるとは
本人も思っていなかったはずです。

ただ ひたすら 天下静謐を目指した
戦国のマジメな魔王 織田信長。

彼は なぜ 悲劇的な最期を
迎えなければならなかったのでしょうか。

田舎大名風情が!

共に 天下静謐を目指して5年近く。

ついに 足利義昭は
信長に対して兵を挙げます。

信長は やむなく
義昭が籠もる城に攻めかかりました。

そして 2日後。

(家臣)義昭様を お連れいたしました。

(家臣)座れ!
(義昭)あっ…!

(家臣)かくなるうえは
お覚悟を決めて頂く他あるまい。

(信長)待て!

どこへなりと早く行かれよ。

命までは奪わなかった信長。
ただ 追放しました。

この結果 240年近く続いた室町幕府は
事実上 滅亡し

新たな時代が始まります。

そして この時
信長は 難しい課題に直面します。

将軍を追放した結果

天下静謐のよりどころが
なくなってしまったのです。

信長が頼みにしたのは 朝廷でした。

信長は 当時 経済的に苦しかった
朝廷のため 奔走を始めます。

天皇家や公家の領地を
一から調べ上げ

長い戦乱で奪われた土地があれば
それに代わるものを 補償しました。

信長は これ以降
朝廷という権威を よりどころに

天下静謐を目指すことになります。

…ということが
言えるのではないかと思います。

朝廷は 信長の働きを評価し

「右近衛大将」という
義昭を上回る 高い官職を与えます。

信長は 「天下」 つまり
京都周辺の敵対勢力と戦いを続け

更に7年かけて
30近い国を支配下に治めました。

ついに戦国の覇者となった 信長。

それは ひたすらに
天下静謐を追い求めた結果だったのです。

(銃声)

ところが このころから

信長に 不可解な行動が
見られるようになります。

全く ぶれなかった信長に生じた
「きしみ」。

それは 突然の死の1年ほど前のこと。

信長が決めた…

そのころ 四国で勢力を広げていたのは
土佐の…

かねてから 信長に承認を得て
四国全域へと勢力を広げていました。

5年前 信長の四国攻めをめぐる書状が
発見されました。

信長の ある家臣が
元親に出したものです。

「元親様のご不満は もっともなこと」。

「どうか 穏やかなお気持ちを
保って下さい」。

元親を
懸命に なだめようとしていたのは

信長から 元親との仲介を任されていた…

…っていうのは
やっぱり よく 分かりますね。

それまで信長を支えてきた 光秀。

天下静謐と矛盾する行動を
強いられた時

一体 何を思ったのか。

信長の命で
四国攻めが始まろうとしていた

まさに その日。

(銃声)

信長は 明智光秀の裏切りにあいます。

天下静謐に 誰よりもマジメに向き合った
織田信長。

四国攻めの その先に

一体 どのような天下を
思い描いていたのか。

永遠の謎になりました。

織田信長の死から…

今 私たちが思い描く信長像は

史料が示す姿と一致しません。

葬儀が行われた大徳寺で

その謎に迫る手がかりが
見つかりました。

信長の肖像画です。

近年 修理が行われ
意外な事実が浮かび上がりました。

これです。

表に描かれた信長は

薄い水色と茶色の
控えめな衣装を 身にまとい

腰には
脇差しを 1本 差しています。

ところが その下に描かれていたのは
左右で色が違う 豪華な衣装。

刀は 大小2本を差しています。

更に 赤外線を当てて調べると

ひげの形を変え

威厳を消し去る修正が

施されていました。

一体 誰が なぜ
このように 描き換えさせたのか。

絵の制作年代などから
指示を出したのは

信長のあと 天下人となった
豊臣秀吉だと見られています。

そして これ以降

信長の悪いイメージが
形づくられていきます。

江戸時代初めに記された
秀吉の伝記。

「信長公が
家臣に領地を与えるやり方は

帳尻が合わないものだった」。

200年後の江戸後期には 残忍なイメージが
語られるようになりました。

「信長ならば こう詠むだろう」と
作られた歌が 世に広まります。

ところが 明治になると
信長は 一転 英雄となります。

朝廷を支えた信長は

天皇中心の国づくりを進めた
明治新政府にとって 好都合でした。

教科書でも 信長の忠誠心が強調され

それは 太平洋戦争が終わるまで
続きました。

英雄と悪役を行き来する信長像が
形づくられたのです。

そして 今 私たちは 本物の信長に
迫ることができたのでしょうか。

信長を探す旅は
この先も続いていきます。

♬~


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