英雄たちの選択「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー~」縄文から弥生への移行期の謎に迫る。



出典:『英雄たちの選択「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー~」[字]


縄文時代の流れをくむ土偶を愛した(?)弥生人が、近畿地方にいた!近年発表された衝撃的な仮説を徹底検証し、知られざる縄文から弥生への移行期の謎に迫る。


詳細情報

番組内容

大陸から伝わった水田稲作と青銅器・鉄器を特徴とする弥生文化が、瞬く間に、縄文文化を席けんして、弥生時代が到来したというのが、これまでの通説だった。ところが近年、縄文時代の流れをくむ土偶が、少なからず近畿地方から出土していることが報告された。あわせて、縄文時代の祈りの道具・石棒も出土しているところから、縄文系弥生人の存在が浮かび上がってきた。原始ニッポンの知られざる歴史の真相に迫る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】松木武彦,中野信子,寺前直人,【語り】松重豊




『英雄たちの選択「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐ
  1. スタジオ
  2. ホント
  3. 山崎
  4. スタッフ
  5. 高嶋
  6. 拍手
  7. 今回
  8. ハハハ
  9. 東野
  10. 今日
  11. カレン
  12. 先生
  13. 香港
  14. 子供
  15. 足立
  16. 滝沢
  17. お願い
  18. リサ
  19. 菊地
  20. 生徒


『英雄たちの選択「追跡!土偶を愛した弥生人たち~縄文と弥生をつなぐミステリー~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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お~ これですか?

へえ~! 初めて見た こんなの。

<青森県の博物館で とんでもないものと
出会ってしまいました>

何だ? これ! すごい!

へえ~!

<それが こちら。

皆さん
何だか お分かりになりますか?>

<1万年以上続いた縄文時代。

縄文の人たちが作った土偶です>

<思わず見入ってしまいました>

<心ひきつけられるポーズの土偶。

今回は この原始の時代の
不思議な造形物が主人公です>

縄文から弥生へ。

今…

これまでは 稲作とともに
大陸から伝わった弥生の文化が

土着の縄文文化を
力で塗り替えていったとされてきた。

だが 近年 学者たちによって
大胆な仮説が次々に発表されている。

その一人 弥生時代の専門家
寺前直人さんは

新たな視点で…

すると 驚くべき縄文と弥生の交流が
分かってきた。

縄文のスーパースター
遮光器土偶が見下ろすスタジオでは

論客たちが 原始ニッポンの新しい姿を

語り合う。

ああ ちょうど間に入るかな
っていうことを 気付くとですね…

今回の「英雄たちの選択」は
原始ニッポン スペシャル。

はるか昔 縄文から弥生へ。
大転換期の謎に新たな視点で迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回は特別編として

「原始ニッポン スペシャル」と題して
お送りします!

もう すでに興奮されてますね
磯田さん! フフフ…!

後ろを ご覧ください! こちら!

大きな土偶が こっちを見ていますよ。

この土偶 最初はね

宇宙人とか思われてたこともある
亀ヶ岡の土偶ですよね。

私 子どものころ この土偶に憧れて
土偶を見つけるのが夢で

近所の朝寝鼻貝塚っていう所へ行って

一生懸命探そうとするんですけど
まあ 土偶はおろか

土器も見つからない。
もう 貝だけっていうので

そのまま帰ってくるという。
フフフ…!

古文書だけでなく 土偶も
お好きだったんですか?  そうそう…。

土偶も好きでしたよ。

目の前には こちら。

はい。 土器ですとか
釣り鐘のようなものもありますけど

いわゆる 日本の先史時代
縄文と弥生の文化を象徴するもの…。

そうですね。
釣り鐘に似ているのは銅鐸

弥生時代を象徴する祭礼の用具ですね
祭祀のね。

ですから その時代に生きた人々の
営みを探るにはですね…

…ことが とても重要になります。

今回は 考古学的な探り 探求
その面白さに触れていきたいんですよ!

もう 面白くてしょうがないですからね。
フフフ…!

磯田さんが番組を通して
見ていきたいポイント 何でしょうか?

まず これを見てください。
はい。

これはですね 教科書によくある

原始ニッポン 先史時代の年表ですね。

そうですね。
石器時代の後に 縄文時代が

実に1万年以上もの年月をかけて

あるんですけれども。
長いですよね。

これ 実はね
卑弥呼以後の歴史を見たとしても

歴史の上澄みしか見てないわけです。

このね…

そこで考えたいのが 昭和から平成

そして 令和というふうに
元号であれば 区切りとして

一本の線で すっと引けますね。
確かに。

今 あそこも 赤い線が

弥生と縄文の間に
ありますけど

果たして
あんなふうに一本の線で

ぱっちり切れるもんなのか
ということを

今日は言いたいんですよ。

一本の線に ぐ~っと寄ってみると

縄文から
弥生に…

境目っていうのは
いろんなことが 起きてて

ひょっとしたら グラデーションに
富んでるんじゃないかと。

…っていうのが 今回のテーマです。

ちょっと 教科書も
疑ってみようという企画ですので

ぜひ よろしくお願いいたします。

では「原始ニッポン スペシャル」 まずは

今 日本の考古学界で注目を集めている
驚きの仮説から ご覧いただきます。

縄文から弥生へ。

1万年以上続いた
狩猟採集生活は

大陸から伝来した稲作技術によって
終わりを告げた。

そして 高度な文明に目覚めていく
新時代の幕開けだった。

大陸から北九州に伝わった稲作技術は

列島を…

つまり 近畿から関東 そして 東北へ
広がっていったというのが

これまで知られていた
原始ニッポンの通説。

しかし 常識を塗り替える仮説を
発表した人がいる。

東京大学教授で 考古学者の
設楽博己さん。

そのきっかけになったのは
今から25年前

偶然 目にした意外なものだった。

それは 北九州の福岡市にある
弥生時代始まりの遺跡から出土した

小さな土器の破片。

遺物を見に行ったときに
妙な土器が飾ってあったんです。

で その土器を見たら
東北地方のものなんですね。

何かの間違いじゃないかと
思ったんですけれども

ちゃんと 発掘調査で
出てきたものだということで。

調べてみましたら それは…

土器は 九州 福岡空港の近くにある
雀居遺跡から出土した。

弥生時代ならではの
農具なども多数出土して

注目を集めた遺跡である。

設楽さんの心を捉えた土器の破片は

およそ9センチ×5センチほどの
手のひらに載る大きさ。

壷形土器の胴部の一部で

漆で彩色されていることが分かった。

まず注目したのは その文様。

福岡から1, 200キロ以上離れた

青森県の亀ヶ岡遺跡から出土した

壷形土器の文様と
非常によく似ていることが判明した。

「雲形文」と呼ばれる文様で

縄文時代晩期の 東北地方北部の文化を
象徴するものだった。

設楽さんは あることに気付いた。

全くと言っていいくらい

よく似たものなんです。

微細な所の… すごく細かい所の
テクニックまで一致していますから

とても 北部九州の人たちが…

青森の壷形土器と 福岡の土器片の文様を
比較してみると…。

青森は 上の三角と
下の三角の頂点が

巧みにずらして作られている。

福岡も 上の三角と
下の三角の頂点を
ずらしている。

確かに2つの土器の
文様は ほぼ同じ。

北九州の弥生時代の遺跡から

東北北部の縄文晩期と

同じ文様を持つ土器が

出土していた。

これは 一体 何を物語るのか?

考古学者の設楽さんが打ち立てた
仮説とは?

それは…

恐らく 東北地方北部から
人々がやって来たんだろうと思うんです。

九州で
水田稲作が真っ先に始まるんです。

ですから その新しい文化 新しい動きに
敏感に反応した結果じゃないかなと。

なんと 東北の縄文人が

始まって間もない水田稲作の
情報収集をするため

自分たちの土器を携え
はるばる九州までやって来たというのだ。

さらに 設楽さんは
もう一つの重要な点に注目した。

実は 福岡の土器片には

文様の上に
赤と黒の漆が塗られていた。

それと同じく 樹皮に

赤と黒の漆をかけた
工芸品の一部が

同じ雀居遺跡から
出土したのだ。

30センチほどの扇形で 厚さは2.2センチ。

黒漆を塗った上に
赤い漆で縁取りされている。

これと非常によく似た作りのものが
やはり 東北で見つかっている。

福岡と同じく 黒漆を塗った上に
赤い漆で縁取りがされた

樹皮の漆塗り容器。

出土数が極めて少ない貴重なものだ。

設楽さんが注目する
土器の破片と漆塗りの工芸品。

これは 北の縄文人と九州の弥生人との
結び付きを示唆していた。

西から東への一方通行ではない
縄文と弥生の交流が見えてきた。

東北の縄文人が北九州を訪れて

稲作技術の
情報収集を行っていたという説。

中野さん これ 想像すると…。

でも どうやって

一体ね
交流していたんでしょうかね?

すごい こう壮大なね お話で。

ただ 2つ疑問が湧くのが

どうして
そういうことが行われていると

東北の人が
知ったんだろうというとこですね。

それから交通手段ですよね。

恐らく 船で
海を渡ったと思われるんですけども。

その造船技術が どの程度のもので

その長い距離を航海できるようなものが
造れたのだろうかというのが

まあ やっぱり 疑問には思いますよね。

さて 考古学者の松木さんにも
来ていただいていますが。

思わず 本当かなって
驚いてしまうような仮説ですけど。

松木さんは この仮説 どう思いますか?

皆さんは 本当かなと驚かれるんじゃ
ないかと思うんですけども。

考古学をやっていると

まあ ありうるのかなと
思っちゃうんですね。

というのはね
結構 遠距離で

物が移動するっていうことは
かなり古く

もう2万年以上前の旧石器時代からね

そういうことがあるんですね。
へえ…。

例えば
東北地方の作り方で作った石器が

岡山県の山間部で
出ていたりするんですよ。  へえ~!

だから 恐らく 情報も移動するし…。

情報がくるっていうことは

情報は人に乗っかって
まあ 当時はきますからね。

人の…

大事なことはね
やっぱ 米の味だと思うんですよ。

お米の味?    いろんな文化人類学の人が
言うんですけど…

遠くから手に入れてでも。
とりつかれちゃう。

まあ 今で言ったら 我々にとっちゃ
キャビアみたいなもんで

高級輸入食品みたいな。
どうも 南のほうの…

あっちへ船で持っていくと

すごいおいしい
こんなもんが出てくるのよと。

で 縄文の女の子とかでもさ こんなの…

米を持ってきたとかいったら
男の子が…。

「もう大好き!」みたいになるようなね。
モテちゃう。

モテちゃう。 何か いろんなことが
あったかもしれない 想像するとね。

今回の その 東北の縄文人が

九州へ向かっていたのでは?
という仮説からは

どんな新しい視点が
見えてくるんでしょうかね?

稲作のようなものが新しいものとして

古い日本列島の社会を

のみ込んでいく
というようなものじゃなくて。

これは選択する これは拒絶する これは…

これもね 教科書で不思議なのが

いや それまでの日本は
まるっきり縄文時代だから

縄文的文化の人たちなんですよ。

ところが 稲作が入ったっていう
記述になると

途端に 目線が
弥生人の目線になるんですよ。

だけど どっち側の目線で
教科書を叙述するかっていうと

縄文人が米を選択するっていう。

縄文人側からの主語にした…。

縄文人を主語にした書き方に
なってないんですよ。

例えば 明治維新のときのことを
引き合いに出して考えると

それまで 何か
牛を食べなかった人たちが

こぞって 牛鍋ですか…
食べにいったわけですよね。

でも それに反して

ああ 私は そういうの食べないわ
っていう人も やっぱり いて。

徐々に徐々に でも
すき焼き文化が広がってったりとか

たぶん このころも
同じだったんじゃないかなと思いますね。

最近 考古学っていうものは

反論できるような さまざまな材料が
見つかってきましてね。

かつては 弥生時代というのは
稲と鉄の時代だっていわれて。

これ 稲も 鉄も
それこそ 古代の高度成長のね

エネルギーになったものだという。

これが最近では 稲が伝来するよりも
500年ぐらい遅れて やっと 鉄が…。

へえ! 結構 ブランクがあるんですね。
かなり 時間的な…。

500年ぐらいの時間差があったんだ
ということが分かってきて。

そうすると…

…ということになると これ もう全然ね

時代像が変わってくるわけなんですよね。

そうしますと…

そうするとね これね 教科書で

どう書けばいいのかっていうのが
すごく困るんですね。

オーバーラップしてないと
いけないわけですね 本当は もっと。

というわけで 原始ニッポンの謎を探る
今回の「英雄たちの選択」ですけど。

実は 私 その謎と神秘に
触れるためにですね

東北の ある土偶に会いに行ってきました。
いいな~!

<「一風変わった姿の土偶が東北にいる」。

そう聞いて向かったのは
青森県八戸市にある…>

よろしくお願いします。

<学芸員の小久保拓也さんの案内で
縄文土偶初体験です>

では 早速 どうぞ。

うわ~ 面白い!

<こちらには 八戸の是川周辺から
出土した

縄文時代の土偶や土器など

貴重な埋蔵文化財が
およそ600点 展示されています>

<その中で お目当ての土偶は
特別な空間に展示されていました>

お~! これですか? はあ…。

へえ~! 初めて見た こんなの。

へえ~。

かわいい。

何だ? これ! すごい!

へえ~!

何だろう? あと すごく…

<しゃがむポーズをとり

胸の前で手を合わせています>

<顔は キリッとした太い眉毛が
印象的でした>

一見すると男性かな? って思いましたね。

そうなんですよね。

ただ わざわざ
胸の表現がつけられていて。

それから 真ん中に こう…

点が縦に並んでいると思いますけれども。
ボタンみたいなのがね。

これは その…

…してるんじゃないかといわれていて。

<「正中線」とは
妊娠した女性のおなかに現れる

縦の線のこと>

<脚の間には 子どもが生まれてくる

女性の性器もありました>

土偶本来の持っている女性像だってことを
主張しているんですね 恐らく。

じゃあ やっぱり 女性なんだ。

何を意味しているんですかね?
合掌して… 座って合掌している。

やはり 祈りの土偶なんだろうと。

祈る姿勢を示しているんじゃないか
ということですね。

で もう一つは これは…

ほう…。

<つり下げられた力綱を持ち

座った姿勢で子どもを産む…>

<合掌土偶とは 今まさに
新たな命を産み落とそうとしている

女性の姿だというのです>

縄文人にとって 土偶っていうのは

どういうもの…
どういう存在だったんですかね?

やはり 土偶は
女性の形を模したものが

古くからありましたので

そのための祈りの道具だったんじゃないか
と考えられます。

いや すごい この土偶。

<合掌土偶は 分類によれば
屈折像土偶に属します>

<実は「安産」と「子孫繁栄」という
祈りが込められた このタイプの土偶が

縄文と弥生の交流の謎を解き明かす
重要な鍵を握っているというのです>

弥生時代の研究者…

縄文時代の象徴とされてきた
土偶をもとに

2年前 ある大胆な仮説を唱えた。

それは 「近畿地方の土偶の中に

東北地方の縄文の土偶の影響が
色濃くある」というものだ。

屈折像土偶 全国で100点以上あると
思われてたんですけども

それらの類例を探していきました。

それを…

…というのが
最初の出発点 きっかけですね。

寺前さんは 各地の発掘の調査報告書を
しらみつぶしにあたり

土偶の型式を調べた。

その調査方法は
考古学ならではの地道な手作業。

発掘された土偶の
所蔵先に足を運び

土偶一つ一つを実寸大で記録し

そのデザインの変遷をたどる。

どこかに 当時の人々の気持ちを読み解く
ヒントがないだろうか?

調査の結果 寺前さんは

東北と近畿地方の土偶に
つながりがあることを発見した。

それは 合掌土偶に代表される
座産のポーズをとった

屈折像土偶たちだった。

…を およそ3年かけ 徹底的に調査。

すると 東北地方の中で

さまざまに デザインを
変えていることが分かった。

その変遷とは

両手を置いていた
脚の部分が

次第に省略されていった
というもの。

岩手で発掘された
土偶は

脚の部分が貧弱。

そのかわり
自立させるため

尻の部分に出っ張りが
ついていた。

そして ついに
脚のない座産姿勢の土偶を

大阪で突き止めた。

改めて 脚が省略されていった
という視点で並べると

東北の土偶と 遠く離れた近畿の土偶が
非常に似ている。

しかし これだけでは

東北の土偶が近畿に伝わった
十分な証拠とはならない。

寺前さんは 東北と近畿を結ぶ

ミッシングリンクともいうべき土偶を

探し続けた。

すると 一つの土偶が候補に挙がった。

滋賀県 赤野井浜遺跡の

上半身と両手が欠けてしまっていた
土偶だった。

この土偶の実測図を描きながら
あることに気が付いた。

脚の部分の膝上にあたる部分が

剥がれていました。

これを観察すると どうも

外側から 棒状のものが
もともと はり付いていて

それが剥がれているんだということを

史料の調査で
初めて確認することができました。

滋賀の土偶には
胴体とつながる両手があり

膝の上に手を置くポーズだったことを
突き止めた。

そして
脚の間に 女性の性器があることから

東北特有の土偶の流れをくむ

座産のポーズだと考えた。

調査した土偶を並べてみると

東北から滋賀 そして 大阪へ

土偶のデザインが 東から西へ伝わった
考古学的な物証となった。

さらに調査を進めると
東北の座産を表した土偶が

関西に少なからず分布することも
分かってきた。

縄文時代であろうが
水田稲作が始まった弥生時代であろうが…

やはり 私たちが神社に行ったり
お寺で拝むのと同じように

伝統のある儀式や儀礼

御利益がありそうな信仰という形では
この…

…というふうに考えています。

土偶から見えてきたのは

東から西への新たな歴史の切り口だった。

このあと 寺前さんがスタジオに。

自説をじっくり語ってもらう。

ご紹介しましょう。
VTRにも登場していただきました

考古学者の寺前直人さんです。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いします。

先輩 後輩の関係なんですよね?
お二人は。

そうなんですよ。
同じ大学の同じ研究室で。

私がね 母校に集中講義に行ったときに
彼が大学院生だったんです。

で 私が講義で言ったことに

リポートを出すと… 全部
それを批判するリポートを出してきて

おっ すごいやつがいるなと思って。
それが彼なんです。

そうだったんですね 寺前さん。
はい。 そのころは まだ若かったです。

それにしても あれですね 杉浦さん
合掌土偶に ひきつけられてましたね。

ちょっと カメラがなかったら
私 泣いてしまったかもしれないぐらい。

土偶で泣く?
ハハハ…! ものすごく感動してしまって。

何か 見ていると
どんどん語りかけてくるような

本当に ものすごいパワーを持った
土偶でしたよ。

寺前さん いかがですか?
見に行ったことも…。

ご覧になって 分かったと思うんですけど
まず大きさですね。

非常に土偶の中でも
屈折像土偶の中でも

この是川の土偶は
大きいです。

で 印象的なのが

痩せている 非常に細い
スタイルがいい

っていうところが
あるんですけど

これ 妊婦さんだとすると

あんまり 栄養状態が
良くなさそうにも見えますよね。

そういう意味で言うと
非常に厳しい条件の中で妊娠して

まさに その出産に挑もうとしている。

そういう姿が 信仰の対象として

こういうデザインを
あえて しているのかなというのを

私なんかは思いましたね。
すごい…。

いろんなこと 想像できますね。

もちろん 今 現代医学が使える私たちは
薬で 陣痛促進剤を使ったりとかして

分べんを安産にしようと
努力するわけですけれども

当時 そんなもの使えないわけなので…

でも メンタルのケアっていうのは
非常に重要で

これを そばに置いておいた人が

実は 前の出産は成功しているよっていう
お話だけでも随分 心が安らかになって

安産につながる確率が
ちょっと上がったりはする。

寺前さんの仮説もですね
まさに その東北の縄文土偶が

弥生時代の始まりに 近畿地方の人々に
何か影響があったのではないかという

非常に面白い 興味深い仮説だなと
思ったんですが。

ミッシングリンク。
あの土偶が見つかったときって

どんな気持ちだったんですか?

(寺前)見に行くまでは どうかなと思って
史料調査先に出かけたんですが

それを手に取って観察して
実測図を描いていくと

あっ これは
こういうふうにつながっていって

あっ 上半身を
こう復元すれば こうなるんだ。

そうなると 東北の あの土偶
大阪の この土偶

ああ ちょうど間に入るかな
っていうことを 気付くとですね

なかなか 史料を目の前にして 興奮して

楽しくなっていったのを覚えています。
ああ…。

これ 実際に 物をね 観察して

形の変化の順番に並べていくっていう…

寺前さんは こういうことを
きっちりと やってるんですよ。

私たちの世代の考古学者も

型式学やってるんだけれども…

寺前さんは 逆にね…

退化しながら脈々と伝わっていったのか

ということをね やってるんで

もう 私の世代の考古学者とは
発想が逆ですね。

でも それがね 新しい世代の考古学者だな
っていうようにね

私なんかは思うわけです。

土偶って
いろんな種類があると思うんですけれど

その いろんな種類がある中でも
何で この屈折像土偶だけが伝わったと?

屈折像土偶って 土偶の中でいうと
5%とか 非常に少数派なんです。

出産に関わる姿勢っていうのは
その性格とか

お祭りの内容 分からずとも その…

…っていうことを
気付けるっていう意味では

言葉はなくとも 説明がなくとも

そのポーズで
その目的 その役割っていうのが

気付けるっていうのが選ばれた理由。

西の人 近畿の人が この屈折像土偶を

選んだ理由じゃないかなというふうに
考えています。

僕ら 発展段階論っつって
人間の世の中っていうのは

新技術が出て どんどん発展して
生産力も上がってっていう。

新しいもの新しいものを研究していくのが
研究の本筋なんだっていうのに

それは考古学も歴史学も
とらわれすぎてた時代っていうのがある。

…なんてことは
今日でも ありうるわけで。

技術は発展するが
人間の心は発展するのか

祈りの形式は
発展したりどうするのかとか

そういう問題は一番大事なことで

これが やっぱりね
平成の終わりぐらいから

この 令和の歴史学とか考古学のね
新しい面白い視点だと思うんですよ。

さて 縄文から弥生への移行期。

その時代に 近畿の人々は
どんな生活をしていたのか。

原始ニッポンの謎 さらに迫っていきます。

稲作が始まった西日本の遺跡から

ある象徴的なものが発掘されている。

武器による殺傷痕のある人骨だ。

稲作は 人々の生活を激変させ…

それは 激しい争いの時代でもあった。

では 稲作が普及した近畿地方の暮らしは
どうだったのか?

大阪の弥生文化博物館 副館長の
秋山浩三さんは

近畿の遺跡の発掘調査から

西日本とは異なる様子が見られると
指摘する。

秋山さんが注目するのは

大阪 八尾空港の近くにある田井中遺跡だ。

河川の改修工事に伴い
およそ500メートルにわたって

遺跡を調査した。

遺跡の中央。
ここには 弥生人が暮らす集落があった。

濠を巡らした
弥生時代特有の環濠集落跡や

文様のない弥生式の土器が
多数 出土したことが

その決め手だった。

一方 その遺跡の両側は

縄文人の集落だったことが
明らかになった。

決め手は 2つの集落跡から
見つかった

土器の口にギザギザのある
縄文式の土器だ。

田井中遺跡には 縄文と弥生
2つの異なる文化を持った人々が

かなり接近して暮らしていた。

もともと 縄文系の集落が
住んでおった所の一角にですね

新しくやって来た
弥生系の集落の人たちをですね

居住を認可したといいますか
一緒に住みだした。

つまり…

そういう状況が この遺跡の調査で
分かるようになったわけですね。

水田稲作が始まったばかりの
近畿地方で…

互いに隣り合わせになって
生活を営んでいた。

北九州や西日本の一部で起きたような

凄惨な争いはなかったのだろうか?

秋山さんは
そうした可能性を否定している。

その証拠が…。

この縄文系の所も 弥生系の所もですね

このポイントがある所は
石棒が出てるんですね。

石棒は 男性器をかたどった
棒状の石器で

土偶と並ぶ
縄文の代表的な祭りの道具だ。

その石棒が縄文と弥生の両方の集落から

4本 発掘されている。

さらに 秋山さんは 近畿地方62遺跡で

出土した石棒を調査したところ

その数 合計…

秋山さんによれば

紀元前600年前後の近畿は

縄文から弥生への移行期にあたり

石棒が92本 出土している。

この時期に 石棒が
集中して使われていたことが分かる。

北九州では 新しい戦いの武器が
普及し始めていた時代

近畿では 縄文の文化の象徴 石棒が
これまでになく尊重されていた。

このことから 秋山さんは こう結論する。

祭祀 その精神面の領域ですよね。

そういう領域においてもですね

この弥生系の集落と縄文系の集落に
かなりの交流があったんじゃないかと

推定していいんじゃないかと思いますね。

こういう共生っていう状態が
あったからこそね

近畿地方全体が大きなトラブル 摩擦
あるいは戦いですよね

そういうものがなく
平和裏のうちに 時代が大きく…

大きな時代のうねりとして
転換していったんじゃないかと

私は思いますけどね。

さらに 近畿地方には
より大量に石棒が出た遺跡がある。

弥生時代の
集落の一つ…

ここからは なんと石棒が12本

そして その祭祀跡が発掘された。

祭祀跡は 熱を受け
バラバラに砕けた石棒と一緒に

大量の土器が見つかった。

これは 縄文時代と同じ祭祀儀礼を
行っていたことを示す証しとなった。

近畿地方の暮らしは 弥生の文化が

縄文の文化を力で覆い尽くすという
通説とは異なっていたのである。

弥生時代になると 北九州では

集落同士の
激しい争いが起こったのに対し

近畿地方では縄文の集落と弥生の集落
それぞれに暮らす人たちが

共存する社会が生まれていたという説を
ご紹介しましたけれど

これも驚きですよね 中野さん。
非常に面白いですよね。

心理学の実験では
多くの例があるんですけれども。

近くに
まあ 2つのグループをキャンプに…。

お互いに知らせない状態で
キャンプに行かせる。

で 偶然を装って その2つのグループに
お互いの存在を知らせて

ちょっとでも
競争をあおるようなことをすると

もう 数日の働きかけで
戦争状態になるんですよ。

これを収めることは
極めて難しいとされてたんですが

500メートルにも満たないような中に

いくつも集落があるというのは
なかなか不思議な感じがしますよね。

松木さんは どう考えますか?
何で 争いは起きなかったと考えますか?

当時の九州の玄界灘沿岸っていうのは
もう 結構 早くから稲作が伝わっていて。

稲作をするためには
水田を開かないといけないんですよ。

森が切り開かれちゃって 海を見ると
大陸からね 渡ってきた船が着いて

もう いろんな人たちが来てね
そこ ここに ちまたが出来て

人口のプレッシャーが すごく高くなって。

その割に
玄界灘沿岸って平野が狭いんですよ。

ああ…。
だから 資源は少ない。

それに比べると 近畿地方というのは

まだ 背後に深い森が広がってて

川も大きくてね
で 河川の堆積していく力も大きいので

それが どんどん
平地を まだ広げていってるわけですね。

だから…

松木さんのおっしゃるのに加えて

一つは 情報や技術の入手の
アクセスの差があると私は思います。

やはり 玄界灘沿岸ですと 海の向こうには
新しい技術や道具があって

それを入手することができれば
一気に その集団の中で

優位に立てるっていう条件が
そろっていたと思うんですけども。

それに対して…

こういった条件の中で
それほど 実力行使をする道具

あるいは技術をもって 周辺の人を
圧倒するようなことではなくて…

石棒っていうのは まあ 男性器を
模倣しているっていう話がありますから

男性のシンボルだと思うんですけども。

結構 大きいものを
その 弥生時代の始まりのころに

近畿の人たちは
作ろうとしているんです。

直接 殴り合うわけじゃない
殺し合うわけじゃないけども

シンボルを できるだけ大きいものを
入手したり

大きい石棒の祭りをするような形での
緩やかな競合なんかっていうのは

もしかしたら あったかもしれないな
というふうに思いますね。       う~ん。

僕は ホッとしたと思うんですよ。

人間本来の姿を是認 尊重する姿
っていう点でいえば…

関西の遺跡の姿 見てると

石棒に心ときめかせる弥生人
っていうのがあったとしたら

そのまんまですよね 本当。

皆さんね 疲れる 癒やされるって
すごく 何となくおっしゃるでしょ。

何か 国家のことを考えると疲れるとか

社会の仕組みに押しつぶされるような
っていうふうにおっしゃるんだけど

体は一つも動いてないですよね。

何で疲れる感じがするかって
ちょっと考えてみてほしいんですよ。

実は…

…というスタイルになったんでしょうね。

そうですね。
ホッとするっていうのは分かりますよね。

弥生時代になると
直線とかですね

正円とか そういうような

いわゆる幾何学的な図形を

きっちり作るように
なるんですよね。

縄文は直線とか ないんですね。

正円もなくて
こう オーガニックな形をしてて。

人類史を見てると こういう…

こうなってきてるように見えるんだけど
実は そうじゃなくて…

緩みたいっていうのが
いろいろ 随所に出てて。

だから 今日テーマにしている…

うん 面白いですね。

いや~ 奥が深い 縄文と弥生。

縄文の影響は 思いがけないところに
顔をのぞかせていた。

大阪 茨木市の東奈良遺跡から出土した
高さ14.5センチの小さな銅鐸。

設楽さんは この銅鐸の文様に
強い関心を持った。

こちらは 石川県小松市から出土した
弥生時代の土器。

銅鐸と土器
どちらにも だ円の文様が描かれている。

この2つの文様が物語ることは?

(設楽)上下を こう 区画されて

その中に だ円を入れていくと。

土器のほうも上下を区画して

配置しているわけです。

ただ だ円を入れていくだけじゃなくて

だ円同士 離して
置いていってるんですよね。

この文様も
実は 縄文系の文様なんですよね。

なんと 縄文時代にルーツを持つ
だ円を横に連ねた文様が

弥生時代の土器
そして 銅鐸へと引き継がれていた。

古来 銅鐸は

新しい祭祀の道具として
大陸から伝わったものといわれている。

ところが
東奈良遺跡から出土した銅鐸は

その大陸伝来の銅鐸に

東日本の縄文文化の要素を
刻み込んだ姿になっていた。

私は これは…

…じゃないかなというふうに思ってます。

銅鐸は お祭りの道具ですので
非常にシンボリックなものですね。

シンボリックなものの採用というのが
弥生固有のもの

あるいは 大陸系のものではなく
縄文系の文様を採用している。

となってまいりますと…

日本最古とみられる銅鐸は
その内側が すり減っていた。

これは 銅鐸が
祭りや儀礼のとき 鳴り響く鐘として

かなり長い期間
用いられていたことが分かる。

銅鐸に息づく縄文の文様。

これは その後の日本のあけぼのへと
どうつながっていったのだろうか?

最後は これぞ弥生時代の象徴といわれる
銅鐸にまで

縄文文化の名残が
刻まれていたという話でしたけれど。

それにしても 本当に そうですね
あの円は もう まさに

縄文という感じがしてきますね。
よく似てますね。

(寺前)普通 金属器って

強力な武器とか 伐採のための おのとか

耕作するための くわとか すきとか
そういうふうに

相手を打ち負かしたり
より効率的に開発する道具として

導入されるというイメージが
あるんですけども

近畿は そうじゃなくて…

…ような道具に
まず投資して使うっていうのが

彼らの目指したやり方。 これが…

だからこそ
縄文の文様が入っているのは

ある種 自然な流れといいますか。
そうですね。

もう一つ 面白いのが
先ほど 最初のころの土器

弥生土器って つるっとした土器が
多かったんですけど

このころになると
もう一度 文様を持つ土器っていうのが

近畿地方で復活するんですよ。
へえ~!

(寺前)やはり 文様があったほうが

自分たちの身近な土器なんかも
使いやすい 暮らしやすい。

シンプルな生活は
あんまり好きじゃなかった人たちが

この文様に囲まれた生活を
営むようになったときに

こういう金属器を
使いだしたのかなという気はしますね。

(松木)弥生時代っていうのは
地域色も とっても多様な時代で。

縄文のもののリバイバルの社会もあれば

九州のように まっしぐらに
国家に向けてね 進む社会もあれば

東北のように もう べったりと縄文が…

本家 本元 大本山で
残ってるような所もあって。

そうすると 弥生文化って何なのか?
っていうことなんですよね。

考古学で文化っていうと

同じ形の道具を使い
同じような家に住み

同じような暮らしをしている集団が
残したものをもって

弥生文化とか縄文文化とか
言うんだけれども。

そうなると 弥生文化って
「そんなものあるの?」っていう。

だから 私はね 弥生文化って

そういう考古学な意味合いでは
なかったんじゃないのかなと。

つまり…

…なんていうこともね
これからは ちょっと

考えていかないと
いけないのかななんていうことをね

ちょっと 思いましたね。
これまでは

集団で稲作を始めた段階を物差しにして
全部 弥生…

いや… ここまで弥生がきたとか言って

それで 教科書でも
そう教えてはきたんだけど

面白い議論ですね。
一石投じますね これはね。

今回 やってて思ったのは

私たち 宗教…
まあ ある特定の宗教が

一つ ドンって
ある国じゃないのにもかかわらず

ずっと… 祈る文化だけは 縄文から ずっと
絶やさず続いてるっていうことは

すごく不思議だなと思って。

僕ね これ 絶対… 森なんですよ。
森?

あのね 世界の国の中で
森林面積が3分の2に達して

こんなに人口規模がある国って
ないんですよ。

あらゆる動物や生態系が

あっちにもこっちにも
多様なものが うようよある中で

その中に ちょこっと隠れるように
埋もれるように

この多量の人間が住む中で…

…っていう姿かなと考えますね。

(中野)恐らく 原始日本だと…
まだ 弥生人たちが来る前の日本だと

美のほうに より重きがあって
あんまり 合理性とか 戦うとか

そういうほうに興味がない人たちのほうが
適応度が高く

そういう人たちの文化が
花開いた時代というのが

かなり長く続いたんだろうと
思うんですね。

でも そこに ひとたび
戦闘的な人たちが入ってくると

がらっと そこに違う文化が

そっちに塗り替えられていくようなことが
起きていって。

でも 塗り替えられたと思いきや
ちょっと 揺り戻しもあったりして。

じゃあ 果たして
どっちが どれぐらいの割合で

生き残るのかなっていうのも
すごく面白いと思うんですよね。

恐らく でも 今の日本の人たちって

戦うことが好きというよりも
むしろ もっと心安らかに

できれば 美しいことのことを考えて
過ごしたいなっていうことを

考える人のほうが多いように感じていて。
やっぱり 私たちの中にも

縄文人の血っていうのは
眠っているんだろうなというのを

しみじみ思うように… 感じますよね。

(松木)考古学も 一方向に向けて
同じように進むのではなくて

停滞があったり 挫折があったり
多様な考え方が出てきたりして

徐々に 徐々に 未来に向かって
進歩していくのかなっていうことがね

今日 すごく痛感しました。

だから これからは令和の考古学者を

彼は育てていくわけだけども
もう たぶん 寺前さんにも

予測もつかないような考古学者がね。
学生のリポートを読んでて

「え~! 何だ? これは!」
みたいなことが 恐らくあって。

今度は そういう世代の人たちが

新しい 縄文 弥生像みたいなのを
作っていくんじゃないかなと思ってね。

さあ 磯田さん

今回は「原始ニッポン スペシャル」と
題して お送りしてきましたけれど

本当に驚きの連続でしたね。
そうでしたね。

絶対 完全に相手を塗りつぶす形では
進化…

一方的に
進化したとかいうものではないだろうと。

融合したり 縄文のほうも 弥生の影響を
たくさん受けたでしょうし

今日 やってきた作業っていうのは

ひと言でいうと…

…っていうことが やっぱりキーワードで。

自分とは違う時を生きた人々の

心のありよう。
自分とは違う空間を生きた人々の

心のありようを読み解くって

とても大事だと思うんですよ。

目に見えるものでもって

その背後にある人の心のありよう

特に
自分とは違う人々の心のありようを

読み解く努力
っていうのをやるのが考古学であって。

これは 僕らにとっては
これから絶対 必要なことですよ。

全然違う文化の人が
いっぱい やって来るわけですから。

考古学から 何か こう

生きるためのヒントが
見いだせそうですね。    そうですね。

今日は 皆さん ありがとうございました。


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