英雄たちの選択「“幕末”をつくった天皇~200年前の生前退位~」今注目を集める光格天皇。衰えた朝廷の権威を取り…


出典:『英雄たちの選択「“幕末”をつくった天皇~200年前の生前退位~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「“幕末”をつくった天皇~200年前の生前退位~」[字]


200年前に生前退位し、今注目を集める光格天皇。衰えた朝廷の権威を取り戻すために、幕府と戦い続けた。時代を“幕末”へ導いた光格天皇の知られざる実像に迫る。


詳細情報

番組内容

4月30日、今上天皇は退位され、令和時代の新天皇が即位される。天皇の生前退位は、江戸時代以来200年ぶりのこと。最も近い先例となったのが、今注目を集める光格天皇だ。“幕府にもの申す”異色の天皇だった。政治不介入の原則を破り、幕府に民衆の救済を要求したり、火事で焼失した御所を平安様式に再建させたり、幕府と戦い続けた。朝廷の権威を高め、時代を“幕末”へと導いた光格天皇の知られざる実像に迫る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】藤田覚,上田紀行,御厨貴,【語り】松重豊




『英雄たちの選択「“幕末”をつくった天皇~200年前の生前退位~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「“幕末”をつくった天皇~200年前の生前退位~」
  1. 天皇
  2. 光格天皇
  3. 幕府
  4. 朝廷
  5. 定信
  6. 御所
  7. 儀式
  8. 権威
  9. 公家
  10. 江戸時代
  11. 尊号
  12. 民衆
  13. 復活
  14. 紫宸殿
  15. 政治
  16. 歴史
  17. 意味
  18. 御厨
  19. 江戸
  20. 幕末


『英雄たちの選択「“幕末”をつくった天皇~200年前の生前退位~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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4月30日 さきの天皇陛下は退位され

令和時代を担う
新たな天皇が即位された。

天皇の生前退位は

江戸時代以来
実に 200年ぶりのことである。

最も近い先例となった
その江戸時代の天皇は

どのような人物だったのか?

面影を伝える肖像が
京都に残されていた。

光格天皇である。

お顔は 見ていただくと
分かるように

すごく にこやかな
お顔をされています。

それとともに…

お優しいだけじゃなくて

芯の通ったようなところが見かけられる
天皇さまです。

柔和で
それでいて 強い意志を感じさせる表情。

実は この光格天皇
近年 大きな注目を集めている。

江戸時代を通じて
徳川幕府に従属を強いられてきた朝廷。

その権威を取り戻し
幕末へと橋渡しした天皇として

新たな光が当てられているのだ。

時は江戸後期 天明年間。

度重なる天変地異や飢饉に
民衆は苦しみ

江戸や大坂で 打ちこわしが頻発。

京では 5万人もの人々が
御所を取り囲み

天皇に救いを求めた。

光格天皇は
民の窮状を幕府に訴え

「お救い米」を出させることに
成功する。

天皇が政治に口を出すのは

幕府 始まって以来
前例のないことだった。

天皇は 幕府に
物申すだけではなかった。

これは 光格天皇の
譲位の儀式を描いた絵図。

さながら 平安絵巻のような
華麗な行列。

公家や武家だけでなく
町衆も繰り出し 見物した。

天皇は こうした古式にのっとった
数々の儀式を復活させ

朝廷の威光を高めていったのである。

武士の世に抗った光格天皇の実像とは?

現代の論客たちが語り尽くす。

あの譲位式から 間違いなく

目に見える天皇の… 要するに
演出が始まってるわけでしょ。

民衆が天皇を育てていくっていうか
みんなからの期待感を

自分が引き受けて
ますます成長できるっていう人が

カリスマ的なリーダーに
なっていくんですよね。

朝廷の権威回復に生涯をささげた
光格天皇。

新たな時代を用意した
その知られざる戦いに迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

そのとき彼らは何を考え 何に悩んで
一つの選択をしたんでしょうか。

今回の主人公は こちらの方です。

光格天皇です。

先日 天皇陛下が退位されましたけれど。

最も近い先例といっても
およそ200年も前のお話なんですが

江戸時代に生前退位した天皇として
今 注目されている方です。

あんまり知られてないが

現在までの天皇の中で
3本の指に入るほど重要な方ですね。

ちょっと これ見てください。
はい。

これはですね 幕末に出版された
朝廷の役職などを書いた名鑑ですね。

歴代の天皇のお名前があります。

初代の神武天皇から
お名前が ずっと書いてある。

天皇 天皇と… こう 続きますね。

ところが あるとき… あっ ここです。

村上天皇の次

冷泉院
圓融院というと

これ 「院」に
なっていくんですね。

誰かの戒名みたいに
「院」って言ってた時代がある。

1回 ページ
めくりましょう。

ペラ パラパラ… と
900年間

この「院」が
続くんですけど

江戸時代の終わりごろになって

後桃園院のあと
光格天皇となってますね。

その次は 仁孝天皇と続くんですけど。

つまり…

ということは
その光格天皇がいなければ

今 私たちが身近に使っている
この「天皇」という呼び方も

ここまで日本人に

定着していなかったかもしれない
ということなんですね。

今ごろ 「院」とかいう可能性
ゼロじゃないでしょうね たぶんね。

そうなんですね。
そして 今回 取り上げるのは

光格天皇の在位中に起こった
こちらの3つの事件です。

ひと言でいいますと…

緊張関係が生じたと。
この中でですね 光格天皇が

朝廷の権威… 天皇の権威というのを
上げるような動きが出てくると。

我々 幕末・明治維新の過程で
日本の中心…

後に 近代の元首に
なったりするのっていうのは

天皇ですよね。
ええ。

もし このとき
光格天皇が何もしていなかったら

天皇を中心にした
国家づくりの展開っていう

幕末・明治維新の形でなかった
可能性すらある。

そういう点で 光格天皇って
とっても大事な天皇なんですね。

さあ それでは 光格天皇とは
一体 どういった人物だったのか。

その生い立ちから見ていきましょう。

江戸時代の風情を残す
この街に

光格天皇に関わる
興味深い史料が残されている。

天皇の母が記した手紙。

ここには
我が子が誕生したときの感慨が

率直に表現されている。

「どのような因縁で

このような
畏れ多いことになったかと

我ながら
不思議に思います」

実は 光格天皇の生母 磐代は

倉吉の庶民の娘だった。

京都で 閑院宮典仁親王の
屋敷に奉公し

親王との間に祐宮
後の光格天皇を生んだ。

典仁親王は
東山天皇の孫にあたる皇族。

庶民出身の母との間に生まれた祐宮は

本来 天皇位とは縁遠いはずだった。

その運命を変えたのが
後桃園天皇の死だった。

残されたのは
生後10か月の皇女だけ。

皇統断絶の危機を
乗り切るため

祐宮に 次期天皇の
白羽の矢が
立ったのだ。

後に こう語っている。

「皇統の末端にいた私が
天皇になったのは

思いがけない天運だった」と。

その出自もあってか

光格天皇は 生涯
天皇のあるべき姿を追い求めたという。

中でも 力を注いだのが
廃れていた朝廷儀式の復興だった。

近年 発見された絵図に

光格天皇がよみがえらせた
ある儀式の様子が描かれている。

御所の中に設けられた 祭祀の場に向け

今まさに
天皇の乗った鳳輦が進んでいく。

天皇が その年に実った穀物を神に供える
新嘗祭。

だが 戦国時代以降

長い間 御所の外で
公家が代行するようになっていた。

光格天皇は これを御所の中で
天皇みずから 執り行う

本来の形に戻したのである。

天皇は ほかにも 大嘗会をはじめ

数々の朝廷儀式を復活させ

かつての
天皇の威光を取り戻そうと努めた。

しかし それが儀式の枠を超え
現実の政治に及んだとき

為政者である 徳川幕府との衝突を
引き起こした。

きっかけは…

大量の火山灰による天候不順は
東北を中心に

数年にわたる
大凶作を引き起こした。

世に言う…

影響は 大都市にも及んだ。

天明7年 米の値上がりに耐えかねた
民衆による 打ちこわしが

江戸や大坂で相次いで起こった。

そして 京都でも
一大事件を引き起こした。

貧窮に苦しむ人々が
御所を取り囲み

天皇に向かって
お参りを繰り返したのだ。

その数 1日5万人に上る日もあった。

現場に居合わせた ある男は

この日の御所の様子を
次のように伝えている。

「京だけでなく
大坂や近江からも人々が集まり

まるで 伊勢参りのような人出だ」。

「御所では 人々が
厳しい暑さを避けられるよう

周囲の溝を 掃き清め
湧き水を流してくれている」。

「りんごも 3万個が配られていたが
昼過ぎにはなくなってしまった」。

「京の町衆は 奉行所に何回も訴えたが
何一つしてくれないので

天皇に 直接
お願いすることにしたのだ。

あまりにも
大規模なお参りが続くので

幕府でも
対応を協議し始めたようだ」。

実は この背後で

民衆の窮状に心を痛めた
17歳の光格天皇が動いていた。

幕府との やり取りを記録した史料に
天皇の肉声が記されている。

朝廷が政治のことに口を出すのは

徳川幕府始まって以来
前例のないこと。

対応をめぐって 幕閣の議論は紛糾した。

そして…。

申し入れから およそ ひとつき。

幕府は京都市中に
1, 500石のお救い米を放出した。

天皇の意思が幕府を動かしたのである。

皇室の歴史に
造けいが深い

所 功さんは

その意味を
次のように指摘する。

これは 江戸前期 中期には
なかったことで

自分も天皇として
なさねばならんことがあるんじゃないか。

それを やっぱり 将軍に
意見を言うことだということを

思い切ってなさる。

結果的に かなりの施しを
幕府側も考えて

やはり 人々が困ったときには…

光格天皇の胸の内を伝える
直筆の書簡が残されている。

若き天皇は 幕府との関係を変える
大きな一歩を踏み出したのである。

光格天皇 実に興味深い人物ですが
まずは 今回の退位をめぐる

有識者会議にも参加された
御厨 貴さんです。

御厨さん 光格天皇のどういったところに
注目されていますか?

やっぱりね この人は胆力がありますよね。
ああ 胆力。

胆力があって…
しかしね

それに加えて 結構
細かいことまで見てる。

全体の歴史の流れ
みたいな

あるいは この…
あり方みたいなものについて

しっかりと
それをつかまえていく能力があった。

だから 自分がどの辺にいるのか

どういうふうにして
やったらいいのかっていうのが

割と 分かってる人だったという。
スマートですね そういった意味では。

(御厨)スマートで… だけど
スマートだけじゃないんですよ。

それで いざっていうときに
やっぱり 何かね

やらなきゃいけないときには
やるっていうね

そういう果敢なところもないと…。

大体 考え込んでしまうと
駄目なんです。

お公家様は すぐ考え込むから。
そうですか。

歴史学者で
光格天皇の研究をされている

藤田 覚さんは いかがでしょうか?

いくつか特徴があると思うんですが

一つは やはり君主だと。

これが天皇の務めだと。

こういう
君主意識ですね。

それと もう一つがね…

これが非常に強いんですね。

最初が9歳で天皇になってますから

そんなこと
何も分からなかったはずなんですが

30の少し手前くらいになると
「私は傍系の出身である」と。

「皇室の末のほうから
図らずも天皇になったんだ」と。

自身で自筆で書いた文書の中で
そういうことを書くようになる。

コンプレックスっていうのか

傍系意識を強く持ってた方

ということは言えますね。

この人は伝統を復活させた方ですよね。

だけども
伝統主義者っていうにしては

相当 冷めた意識が
あるような気がするんですよ。

これ 社会学では
「再帰性」っていう言葉で

よく言うんですけれども。

例えば 伝統のお祭りをやってる人にね

「何でやってるんですか?」って言うと

「いや これは しきたりだから」って
言うことが多いんですよ。

ところが 今 そういう
お祭りとかがなくなった所で

村おこしとかで お祭りを
復活させようっていう人に聞くと

「いや こういうことで
うちの村を復活させるんですよ」って

そういう理屈をつけてきますよね。
ええ。

この人は傍流から出てきたので
冷めた意識があって

この伝統というのを

ここで復活させてく
っていうことの意味が

半ば 分かって
やってるんじゃないかな。

そういう意味では ある種の…

そう。 伝統っていうのが大事で。

光格天皇の場合は…

つまり 光格天皇の地位って
微妙なのが宮家の出身ですよね。

僕 よく授業なんかで

江戸時代の宮家の
地位の低さについて説明すると

学生に驚かれるんですけど。

五摂家っていう
5つの家があるんですよ

摂政関白になる家。
その下側にいるんですよ 宮家はね。

そうすると
そこから天皇になるっていうことは

要するに 今の会社に
なぞらえちゃいけないけど

5人抜き 8人抜きで社長になった
取締役のようなものなわけですよね。

だから…

そうすると
誰よりも朝廷のことに詳しい

昔の儀式に詳しい…

これまでできてなかった 何か儀式を
一個ずつ復活させたら

「すごい この天皇」とかいうふうな

やっぱり
求心力を持たせるような行動を

とらなきゃいけないというような…
また とれるという

そういう能力も持った人だったと
思いますよね。

なるほど。 そして 天明7年に起きた

御所千度参りですけれど

このとき 光格天皇は初めて

幕府に対する
政治的な動きに出るわけですが…。

(御厨)いや だから やっぱり
あれじゃないですかね。

僕は それは ある種の
危機管理能力だと思うのね。

要するに 幕府のほうは

もう ずっと
システムで出来上がってるから

危機管理能力なんてのは
もう ないわけですよ。

どうしたらいいかっていうと
それこそ さっき言ったように

ずっと眺めてるうちに…。
天皇のほうはね

やっぱり
みんな困ってるんだったら

「それ やってみたら?」
っていうことが言える。

それはね さっきから出てるように
傍流からきて

何か しなくちゃいけないと思ってるね
天皇には それがある。

こういうことを通じてね 天皇の側に

何かあったら出ていこうという
危機管理能力がね

だんだん だんだん身についていく
僕は プロセスだったと思いますね。

これ 磯田さん 天皇は …とはいえ

御所の中の すごく奥のほうに
いるんですよね。         そうそう。

でも 聞こえるんですか? みんなの声は。

まず なぜ 天皇のところに行くという
発想になるのかっていうと

僕は 少しね やっぱり 何となく…

…というのは 何かっていうと
古代は 大内裏 造ってたとき

ある門の場所から
叫んでいいことに なってたんですよ。

「天皇 あの国司が悪い!」とか言って
叫んでたんですよ。

天皇陛下にですか?
歴史学も… うん 叫んでたんですよ。

そうすると
万の単位 集まったわけですよね。

京都って
大体 当時5~6万軒の家があって

30万人ぐらいの家があった。

そうすると
「ちょっと出してやれや」って言うと

もう確実に 民衆たちは…

もう これは 政治力ですよね。

あと もう一つ やっぱり…

カリスマの研究って ありますけれども
あれって

カリスマの人の中に すごい力があって…。
それも重要なんですけども。

そこで 民衆が そのカリスマに

「お願いします」って言ったときに
何が起こるかなんですね。

みんなからの 「あなた もっともっと
立派になって」っていう その期待感を

自分が引き受けて
ますます成長できるっていう人が

カリスマ的なリーダーに
なっていくんですよね。

そういう意味では
民衆も彼を盛り立てていくし

彼も じゃあ もっといくぞっていう

いい循環を起こせるような
何か資質が… そういう部分ですよね。

さあ 御所千度参りを通じて 光格天皇は

幕府との関係に
大きな一歩を記したわけなんですけれど

そのあと
さらなる衝突が起きることになります。

思わぬ事態が京都を襲った。

応仁の乱の戦火を上回る大火災が発生し

市中の8割が消失。

火の手は
御所にも及び

天皇の住まいである
禁裏御所をはじめ

すべてを
焼き尽くしたのである。

御所から ほど近い聖護院。

難を逃れた光格天皇が
仮住まいした部屋が

今も そのままの形で残されている。

18歳の光格天皇は この仮御所で

焼失した御所の再建という難題に
挑むこととなった。

それを後押しした貴重な史料が
残されている。

天皇の住む御所や
役所の構造 位置関係を描いた

大内裏全体の図である。

天皇が重要な儀式を行う
紫宸殿の図面は

寸法に至るまで
事細かに記されている。

ある公家が 膨大な古文書から

平安時代の大内裏の姿を
調べたものだった。

光格天皇は 江戸時代になって
規模が縮小されていた御所を

この書を基に
平安様式で再建しようとしたのである。

だが それは たやすいことではなかった。

実現には 江戸時代を通じて
朝廷の支出を すべて負担してきた

幕府の説得が必要だった。

そのころ うち続く
不作や飢饉の対策を余儀なくされ

幕府財政は 深刻な打撃を受けていた。

再建を担ったのが 八代将軍 吉宗の孫で

名君の誉れ高かった 老中 松平定信。

いわゆる 「寛政の改革」である。

定信は徹底した緊縮財政を掲げ
あらゆる支出の見直しを進めた。

そんな定信にとって

巨額の費用がかかる
平安様式での御所再建など

到底 認められるものではなかった。

御所造営奉行に任じられた定信は
みずから 京へ乗り込み

天皇の意を汲んだ 関白との交渉に臨んだ。

定信の主張は次のようなものだった。

「再建のための…」

一方 天皇の意向は
これと真っ向から対立するものだった。

「御所全体というのではなく

紫宸殿と清涼殿を
平安時代の様式で再建し

儀式の威儀を整えたい。

造営に使う材木について
えり好みはしない」。

半年に及んだ交渉 その結果は…。

現在の…

光格天皇の計画どおり

平安様式で再建されたものが
今に受け継がれている。

焼失前に比べ 敷地面積は1, 800坪増加。

紫宸殿は 格式の高い入母屋造りとされ

儀式を滞りなく行えるよう
建坪が増やされた。

清涼殿は 武家様式の書院造りから

平安様式の寝殿造りに変わっている。

注目すべきは 紫宸殿と南門の間の

朱塗りの回廊。

それまではなかったが
このとき 復元されたもの。

幕府が費用面から
最も難色を示した部分だ。

これは 再建前の御所を描いた絵図。

確かに
紫宸殿と南門の間に

回廊は存在しない。

なぜ これが
認められたのか?

幕府側の史料に その経緯が記されていた。

「紫宸殿や回廊などの坪数は増えたが
ほかの箇所で減らした部分もある。

今回は特別に…」

定信は 光格天皇の
強い要求に屈し

ほかの建物の
坪数を減らすことで

なんとか 帳尻を
合わせたのである。

今後の朝廷への対応について
定信は 自叙伝の中で こう記している。

御所再建を もくろみどおり実現した
光格天皇。

しかし 幕府との間に

新たな対立の火種が
くすぶり始めたのである。

光格天皇は 老中 松平定信との交渉の末

御所を平安様式に復古して
造営することに成功しました。

この情熱ですか。
藤田さんは どう ご覧になりましたか?

朝廷の儀式 儀礼を再興し
古い形に引き戻す 復古させる。

こういうことを始めていたし
今後も やろうとしてる。

それは場が必要です。

その場というのは
それこそ 紫宸殿 清涼殿なんですね。

特に 紫宸殿の前庭を囲む回廊ですね
これがないと

ところどころから…

要するに そういう
復古させようとしている儀式を

威儀正しくというのですかね
行うには

一定の建坪 面積と
そういう回廊が必要だと。

もちろん
お金がかかるのは 当たり前だから。

そのためにですね
ところどころの建坪を減らすと。

それと同時にですね 天皇が…

こういうふうに 頼み込んでるんですね。

つまりね これ
一種の弱者の脅迫みたいなものでね

弱いほうは
だから あそこで勝っちゃうわけですよ。

しかも これ 言ったときに
幕府は… それは歴史ないからね。

それより もっと昔の
歴史の話っていうのは

やっぱり 松平定信なんかにとっても
それは認められるものであって。

だとするならば
こういう解決方法っていうのをね

うまく そこは処理されたんでしょうね。

つまり やっぱりね ある種の…

いざというときに役に立つと。 だから…

これ 後ろにいてくれたほうが
はるかに ありがたいわけですから。

そういう政治判断もあったんじゃないかな
と思いますけどね。

でも これは面白いですよね。
圧倒的に 朝廷のほうが力が弱くて

何をやるにも 幕府のほうから
お金をもらってこなきゃ 何にもできない。

「おたくの江戸幕府って
たかだか百数十年でしょ?」って。

「それも あなたたちが
こうやって治世ができてるのも

私たちが保障しているからで

この御所が立派になっていくってことは

あなたのためにもなるんじゃないの?」
みたいな。

そうですよね。
はい。

定信自身も考えてみれば
ものすごく家柄がいいわけだけど。

吉宗の血筋を引いて
ちゃんと学問的に分かってて

倫理的に正しいからっていうのが
彼の政治的な正当性を成していると。

だから 部屋を…
自分の住んでいる所を 小さくしてもと

少年天皇に言われると
やっぱり 弱いわけですよね。

あと 僕 もう一つ 定信にも
表と裏があるような気がしていて。

ふだんの定信の様子を見てると

例えば 「集古十種」というような

昔の… 古いものの
カタログを作ってみたりとか

本 出すぐらいですから。

平安の大内裏が復元されて
儀式をやるというのは。

抑えられないんじゃないですかね。

僕も担当してたら ちょっと
抑えられなくなるところ ありますよ。

「これは財政で…
一応 公的な立場としては

やりたくないんですけど
ああ言ってますしね」とか言って。

本人も理解があるというところが
最後は押し切られやすかったという…。

どうなんですかね? この辺は。

まずですね
お金のことを言うと あれですが

造営に いくら かかったか。

例えば 当時の江戸幕府の
その年のね 予算の

お金の計算でやると 九十何万両
それくらいの規模なんですね。

だから 財政的に言えば
絶対 受けられない。

でも できちゃうんですよね。
ところが 納得させられた。

それは しょせん
造らなきゃならないんです。

これは 義務です。
そしたら これをどう 逆に利用するか?

そのときに 当時
よく出ていたのはですね

「将軍がね あるいは幕府が天皇を尊べば

大名は 幕府を 将軍を尊ぶ」と。

「大名が幕府を尊べばね…
家臣たちも 大名を尊ぶ。

こうやって
上下の秩序が守られるんだ」と。

こういうような意見が
出てるわけですね。

つまり 定信はですね
こうなったら しかたがないから

立派なものを造って 幕府 将軍はね

天皇 朝廷を これだけ尊んでるんだ
尊敬してるんだと示すことによって

これで みずからを
納得させたってことだと思います。

21歳となった光格天皇

幕府との対決は新たな局面を迎えた。

この年の12月
天皇は 41人もの公家を御所に招集し

意見を求めた。

どうであろう?

典仁親王は 閑院宮家の当主で

皇位についたことはない。

したがって 天皇の譲位後の尊号である

「太上天皇号」を贈るというのは

極めて異例のことだった。

背景には
宮中における序列の問題があった。

幕府が定めた「禁中並公家諸法度」には
こう 規定されている。

「三公之下 親王」。

「三公」とは
太政大臣 左大臣 右大臣のこと。

つまり
典仁親王は

天皇の
実の父にも
かかわらず

臣下の
下に座ることを
強いられていた。

光格天皇は太上天皇の尊号を贈ることで

この序列を変えようと図ったのだ。

しかし それには幕府の承認が必要だった。

天皇は ほとんどの公家が
賛成したことに力を得て

幕府との間を取り持つ
武家伝奏に交渉を命じた。

天皇は どのようにして
幕府を説き伏せようとしたのか?

松平家に残された史料から
再現してみよう。

閑院宮典仁親王に
太上天皇号を贈るのは

かねてからの願いである。

我が父も老齢。 なんとしても かなえたい。

これまでにも 鎌倉時代の後高倉院

室町時代の後崇光院のように

皇位につかず
太上天皇となった先例もある。

朝廷の大多数が賛成しているのだ。

幕府が認めないようならば

こちらにも考えがある。

事態は すぐに江戸に急報された。

「これ以上 新規の要望は認められない」。

定信は幕閣に対し
断固たる方針を表明する。

先例 先例と言っても

おのおの 状況が異なるので
従う必要はない。

天皇が持ち出したのは
政治の混乱期の特例である。

私情により 皇位についていないのに

太上天皇号を贈るのは 道理に合わない。

それでも尊号を贈るというならば
責任者の公家を処罰し

閑院宮ご自身に
尊号を辞退していただくまで。

定信は 断固として 尊号の拒否を主張。

しかし 天皇も引き下がる気は毛頭ない。

朝廷は 幕府に こう通告した。

「今年の…」

天皇側からの一方的な通告。

定信も すぐに反撃に出る。

真っ向から ぶつかった 両者の主張。

勝利するのは 光格天皇か?
それとも定信か?

さあ 光格天皇と松平定信 2人の対決は

ついに最終局面を迎えます。

尊号を贈ることを
強行しようとする天皇と

あくまで
拒否を主張する定信。

2人の言い分
どちらが正しいんでしょうか?

幕府のほうが 相当追い込まれてるなって
感じがありますよね。

つまり 最終的には 皇位というのは
そんな軽々しいものじゃないんだって

幕府のほうから
言っちゃうっていうことは

逆に 天皇家に対して

それは軽々しいことじゃないんだ
ということを

追認しちゃうことには
ならないんですかね?

天皇の権威はね 高いほうが

そこから将軍職に
任命されてるわけですから

それに基づいて
政治を担当してるわけですから

高くていいんですよ。

その軽いところから
将軍職に任命されてたってね

将軍自身に権威がつくかと。
(上田)あっ そうか。

ものすごく高い権威なんだけど

それを ちゃんと行政で
抑え込んでるっていうところに

幕府の力の源泉が
むしろ あるわけですね。

だから コントロールから
外れられては困る。     (上田)なるほど。

あと やっぱり 何か
閑院宮って低いところから出てきて

そのお父さんに…
父に尊号を贈るということで

明らかに
歴史的にも上昇させようっていう

コンプレックスの部分までもが 何か
歴史を動かしてく 原動力になって

それが どんどん大ごとになってって

力関係が拮抗したり 逆転したりする
っていうところが

すごく面白いですよね。

だから 光格天皇からすれば 要するに
価値ゼロみたいなところ

というより むしろ
価値マイナスみたいなところ。 だから…

要するに だんだん
上がってくわけですよ。    なるほど!

ところが 幕府のほうは…

だからね
そこがね 方向性が違うの やっぱり。

だから 光格天皇は
どんどん どんどん点数 上げてくわけ。

もう一つ 僕が思うに…

そもそも 関白や摂政や三公といわれる
大臣たち

これの下に宮家を置いていること自体が

実は
天皇コントロールシステムなんですよね。

(御厨)意味があるわけね。
そうそう そうそう。

五摂家だとか ああいう5軒ぐらいある

高級公家を 強く権威づけることで
天皇に並立させて

なんとか コントロールするっていう
システムになってる。

だけど これで 宮家 天皇が言うとおりに
ほいって言って

飛び越して 上げるようなことを
やったら

それは 近世の初めから
神君が目の黒いうちから やってきた

朝廷コントロール装置を
みずから 壊しかねないと。

これは 本当にね
絶対に認めてはいけないっていうか

認められないものですよね。
幕府としては。

さあ 尊号事件は
どのように決着したんでしょうか?

光格天皇のもとに
江戸から 驚くべき知らせが届いた。

「以上3名の公卿は
江戸へ下向すべし」

武家伝奏や議奏は 本来

朝廷と幕府の関係を円滑にする役目の
公家である。

しかし 定信は 彼らこそが
尊号事件などで

朝廷を強硬姿勢に傾かせた黒幕と
断じたのだ。

明くる 寛政5年1月
正親町と中山は江戸へ下向。

老中 定信じきじきの
厳しい取り調べを受けた。

下された処分は
逼塞 閉門など。

幕府が高位の公家を
直接処罰するのは

前代未聞のことだった。

定信は 幕府に提出した書類で
その理由を記している。

「朝廷と幕府の交渉は まず…」

朝廷は 幕府に諮ることなく

一方的に尊号を贈ることを
強行しようとした。

これまでの手続きに従わず
幕府を ないがしろにした行為を

定信は 断じて
認めることができなかったのだ。

一旦は 抵抗の構えを見せた光格天皇も

一連の幕府の強硬な姿勢に屈し
尊号を贈ることを断念。

公家たちの処罰も受け入れた。

尊号事件は 天皇にとって
手痛い敗北となった。

しかし 光格天皇の心から

朝廷の権威回復への意欲は
消えうせることはなかった。

今年の春 国立公文書館で

ある貴重な絵巻が
およそ30年ぶりに公開された。

文化14年 47歳を迎えた光格天皇は譲位し
上皇となった。

そのときに行われた 行幸 すなわち
これまで住んでいた禁裏御所から

上皇として住む仙洞御所に
移る様子を描いたものである。

行列を先導するのは
華麗な装飾を施した牛車。

そのあとに
正装に身を固めた公家たちが付き従う。

平安絵巻さながらの行列が
繰り広げられた。

所さんは この絵巻には

注目すべき部分があるという。

私は 先般来
非常に びっくりしましたのは

この行列の中に…

それが行列に出てるわけですね。

画面の左右 2人がかりで
運ばれている 2つの櫃。

この中に入っているのが…

南北朝時代以降 記録から消えていた
これらの品々を

光格天皇は復活させ
譲位の儀式に用いたのである。

天皇が 律令国家以来
日本全体を治められるというのは

やはり…

あえて これらを
一緒に引き出されたというのは

天皇というのは
血統が一連につながってるという

時間的な連続性もありますけども…

そういう意味でも それが かつては
この鈴や鍵であり

また 太刀であったということだろうと
思います。

絵巻には もう一つ
興味深い光景が描かれている。

画面の右端
桟敷に陣取って行幸を見物する人々。

公家や武士に交じって
あちこちに庶民の姿も。

当時 ほとんど
外出することはなかった天皇が

禁裏御所を出るというので
多くの人々が拝観した。

さらに 絵巻に描かれることで

譲位式の壮麗な様子は 後世へと伝わった。

光格天皇の譲位は あらゆる人々に

朝廷の威光を思い起こさせる
きっかけとなったのである。

当時の幕府も 例外ではなかった。

定信が老中を辞して すでに20年以上。

時の将軍 11代 徳川家斉は

その権威を確固たるものとすべく
朝廷に接近した。

みずからを…

さらに 跡継ぎの家慶を…

異例の官位昇進を願い出たのだ。

譲位後も 朝廷で
大きな影響力を持っていた光格上皇は

この要求に応じた。

見返りとして得たものは 大きかった。

そのことに関わる上皇ゆかりのものが
聖護院に秘蔵されている。

これは 寺伝によればですね
光格天皇が…

…っていうふうに伝えられております。

金色に塗られた豪華な網代輿。

光格上皇は 晩年 この輿に乗って
修学院離宮へ御幸したという。

江戸時代初め 後水尾天皇が造営した

修学院への御幸は 90年以上途絶えていた。

将軍家の官位昇進への返礼として
幕府は この行事を復活させたのである。

庭園や建物は修復され
道具類も すべて新規に調えられた。

500両に上る道具の費用
上皇の外出に伴う 1, 000両の支出は

すべて 幕府が負担した。

光格上皇の修学院御幸は14回に及び

そのための莫大な支度金が
毎年 朝廷に支払われた。

幕府は
いつしか天皇の権威に寄りかかり

みずからを権威づけることに
必死になっていたのである。

天保11年 光格上皇は
70年の波乱の生涯を閉じた。

尊王運動が全国に広がっていく
幕末の到来は

それから 僅か十数年後のことである。

光格天皇と定信が

真っ向から対立した
尊号事件ですが

結局 定信は
尊号を贈ることを拒絶。

天皇も
これを受け入れるという

決着になりました。

御厨さん
どう ご覧になりますか?

この一線は譲れなかったと…
定信にしてはね。

一応
勝ちっていうふうになったんだけど

その後の いろんなのを見ていると

やっぱり より狡猾だったのは
光格天皇のほうかなと。

そのあと じゃあ
二の矢 三の矢があるわけですよ。

さっきの譲位式なんかも そうでしょ?
はい。

だから みんな やって来て

天皇さんって どんな人だろう?
っていうのを見ていくっていうね。

しかも それに手応えがあったんですよ。

だから 何度も 何度も
修学院に行くわけでしょ。

あっ そうか。 それも見せて?
うん そうそう… 見せるっていうね。

見せることによって
権威が上がっていくという。

これは ずっとあると思います。

それは 今の 要するに
天皇家にまで伝わっている。

だから メディアを どうやって
コントロールするかみたいな話

これはね これから あと
天皇が使っていく 一つの手段ですよね。

ここに こんなものを用意したんですけど
これは「固関木契」っていって。

要するに 譲位の儀式の前に

誰も 都に入れないように関所を閉める
「警固固関」という儀式が

演劇みたいに行われるんですけど。

「パッと 伊勢の国まで行って

鈴鹿関を閉めてこい」
とか言うとですね

こういう割符木を持ってって
天皇の正しいお使いであることは…。

そうしたら 朝廷から
関所の門を閉めに行く役人の数なんて

要するに…

あっ そうなんですか?
ええ。 近江国なんかだったら

近江国の「守」 「権守」 「介」
もっと… みたいな ものすごい量の役人。

それをやってみせると。

その 見える化とか ページェントとかね

そういうものって
とっても重要なんですけど それが…

京都っていう所は 歴史が凝縮している

歴史の
パワースポットだらけなわけですよ。

そこで なおかつ 行列したり

まさに ここが うちが
ずっといた所なんだよっていうのを

平安時代からの それを
見せてったときに

私のところには
絶対的なものがありますよって。

(御厨)言えるわけだ。
(上田)はい。

それを民衆も見せられたんだったら
ちょっと 江戸のほうの将軍と こっちと

どっちが どっちなのかなというのが

おのずから分かっちゃうっていう
すごい演出家ですよね。   そうですよね。

ここまで 光格天皇という人物について
見てきましたけれど

最後に 光格天皇が
その後の日本に与えた影響

そこから 何を汲み取るべきなのか
お聞きしたいと思うんですが…。

幕末のターニングポイントっていうのは

恐らく 日米修好通商条約を締結すると
幕府がね。

そのときに…

つまり その時点までにね かなりの…

それで 結局
幕末の政治的な争いというのは

つまり 天皇を頂点として

政治を前へ進めていくという
争いになったわけですよ。

それが 明治維新で天皇を頂点に頂いた
いわゆる…

これが 光格天皇のころの

さまざまな動きなのではないか
というふうに考えているんですけどね。

力と力の政治っていう
その暴力的な統治っていうものがあって

しかしながら そこから 平和な時代が
ずっと続いていったときに

水平的な力と力のぶつかり合いじゃない

何ものかの権威というのを
民衆も求めていくし。           ああ…。

はい。 民衆どころではなくて

幕府自身も
それを求めていくんだっていう。

それが また 明治に向かっていく
原動力になるっていう

その 奥深さは すごく感じさせますよね。

最後に 磯田さん 今回の主人公は
光格天皇でしたけれど いかがでしたか?

江戸時代の天皇って 研究する意義は
とってもあると思っていて。

天皇 連綿と続いてるんですけれども

でも
いつも同じ状態なわけではないですよね。

古代にあった姿だとか 昔の儀式を

もう一回 リプリントするように…

実権という点では…
実際の権力という点では

江戸時代の天皇は
実際に政治してるわけではありません。

しかし…

ちょっと さわりのところが 今日は

見られたかもしれませんね。

そういうことを考えながら しっかり

江戸時代の
天皇を見るのに 光格天皇というのは

とてもいいきっかけだったんじゃないかな
と思います。

皆さん 今日は ありがとうございました。
(一同)ありがとうございました。


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