アナザーストーリーズ「モスクワ五輪ボイコット~幻の日本代表 涙の密室劇~」舞台ウラを知る記者や選手が証言…


出典:『アナザーストーリーズ「モスクワ五輪ボイコット~幻の日本代表 涙の密室劇~」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「モスクワ五輪ボイコット~幻の日本代表 涙の密室劇~」[字]


1980年、モスクワ五輪に日本は不参加。柔道山下、レスリング高田、マラソン瀬古ら、金メダル候補たちは涙を飲んだ。ボイコットの舞台ウラを知る記者や選手が証言。


詳細情報

番組内容

1980年、ソ連で開かれたモスクワ五輪に日本は不参加。柔道山下、レスリング高田、マラソン瀬古ら、金メダル候補だった選手たちは涙を飲んだ。ソ連の軍事侵略を理由にアメリカが呼びかけたボイコット。米ソ冷戦が、モスクワ五輪に全てを捧げていた選手たちの夢を奪った。揉めに揉めた末に決まった日本の不参加。あのとき舞台裏でいったい何が起きていたのか?政治家に密着していた記者や、翻弄された選手が明かす密室劇。

出演者

【司会】松嶋菜々子,【語り】濱田岳



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アナザーストーリーズ「モスクワ五輪ボイコット~幻の日本代表
  1. 高田
  2. 吉澤
  3. オリンピック
  4. 参加
  5. 選手
  6. 日本
  7. ボイコット
  8. モスクワオリンピック
  9. 取材者
  10. 河野
  11. コー
  12. ソビエト
  13. 会議
  14. 出場
  15. 不参加
  16. モスクワ
  17. 金メダル
  18. 実況
  19. 政府
  20. コーチ


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(歓声)

1980年 旧ソビエトで開かれた
モスクワオリンピック。

最後の演技者 ナディア・コマネチです。

この大会 日本は
数多くの金メダル候補を抱えながら

誰一人 その場に立つことはできなかった。

大会自体をボイコットしたからだ。

あの時 舞台裏で 何が起きていたのか?

♬~

(歓声)

スポーツの祭典 オリンピック。

世界最高峰のアスリートによる
力と技の競演は

数々のドラマを生み出してきました。

今 想像できるでしょうか?

この舞台を日本がボイコットする事態を。

今から 39年前

ソビエトで行われた
モスクワオリンピックに 日本は不参加。

それは日本のトップアスリートたちの
人生を劇的に狂わせました。

(砲声)

全てのきっかけは

オリンピックの開催国 ソビエトが
起こした軍事行動だった。

平和の祭典を開くはずの国が 隣国…

その暴挙に 世界が怒りを表明する。

それでも 日本のアスリートは
参加を疑わなかった。

柔道 山下泰裕は

日本選手権を3連覇し
不滅の連勝街道を歩み始めていた。

マラソン
瀬古利彦も絶好調。

世界最強と
呼ばれていた。

やってみぃ!
はい!

更に 連覇を狙うお家芸 女子バレーは

「新東洋の魔女」と呼ばれ
金メダル候補の大本命。

そして レスリング史上 最高の天才
高田裕司も

競技人生のピークを迎えていた。

(実況)金メダル獲得!

この不穏な事態が
にわかに現実味を帯びたのは

本番の僅か3か月前。

こんにちは。

その時 彼らは 競技の枠を超え
団結して出場を直訴した。

その思いは踏みにじられることになる。

運命の分岐点は 1980年4月21日。

モスクワオリンピックへの出場を
選手たちが直訴した日です。

選手やコーチ 91人が
悲痛な思いを訴えました。

前代未聞のその場所は
一体どんな空気に包まれていたのか?

第1の視点は NHK記者 吉澤章喜。

オリンピック担当として
選手の取材を続けていた吉澤は

その様子を一番後ろで見つめていました。

そして彼は 巨大な力によって

日本のボイコットが
決定づけられていくまでの一部始終をも

目撃することになります。

日本代表アスリートたちを襲った悲劇。

その内幕に迫る

密室のアナザーストーリーです。

(取材者)ちょうど
一番いい所…。
(吉澤)一番後ろの。

吉澤章喜は
モスクワボイコットが決まる前夜

ある重要な情報を手にしていた。

だが 記事にできなかった。

吉澤は 何を知っていたのか?

吉澤がスポーツ担当になったのは
29歳の時。

アマチュアスポーツを回れと言われ
しめたと思った。

2年後のモスクワオリンピックに行ける。

先輩と手分けして

あらゆる種目の代表候補に
意気込みを聞いて回る日々。

特に ふだん
スポットの当たらない競技で

オリンピックを目指す選手の言葉が
印象に残っているという。

その1人…

モントリオール大会に続く出場で
今や有力なメダル候補。

モスクワを目指せば 年齢制限で
プロへの道が絶たれることを知りながら

それでもオリンピックに こだわってきた。

吉澤が取材した様子が残っている。

オリンピックのために それぞれの選手が
払う犠牲は計り知れない。

吉澤は彼らの活躍を心待ちにしていた。

事態が急転したのは
オリンピック前年の12月。

開催国ソビエトが 突如アフガニスタンに
侵攻し 大統領を殺害したのだ。

アメリカと緊迫の冷戦を続けるソビエトが
ついに牙をむいたと

西側諸国は震撼する。

この訴えに 西側諸国は同調の動き。

果たして 日本は?

オリンピックに選手を送るかどうかの
決定権は 政府にはない。

日本オリンピック委員会が
独立して判断を下す。

当初 吉澤は 出場を楽観視していたが
ある男を取材し 事の重さを感じ取る。

政治家 河野謙三。

首相の大平正芳と昵懇の大物で
この時…

つまり 日本オリンピック委員会も含めた
アマチュアスポーツ界のドン。

この河野が
モスクワボイコットのキーマンとなる。

ある日 ポロッとね 河野さんに
どうするんですか? って聞いた時に…

…っていうのを
ポロッと言われたんですよ。

(取材者)出ないでくれとは言わなかった?
(吉澤)言わなかった。

つまり 河野は大平から

不参加の方向で話をまとめるよう
指示されていたことになる。

ただし
政治が強引に介入できる案件ではなく

JOCに判断させなければならない。

オリンピックが3か月後に迫った4月。

アメリカ オリンピック委員会が

正式にボイコットを決定した。

すぐに日本政府も
不参加が望ましいと改めて発言。

もちろん その言葉は
日本オリンピック委員会に向けたものだ。

この時 悲痛な訴えを上げたのは
選手自身だった。

こんにちは。

この日 日本オリンピック委員会のある

岸体育館に
代表候補やコーチら 91人が集まった。

競技の枠を超え 態度をはっきりさせない
JOCに向けて 思いを直訴した。

毎日新聞の記者 須田泰明も
この会議を取材していた。

レスリング 高田の訴えで
大勢は決したと感じたという。

そういう考えを持ちましたね。

選手たちの訴えは
世論を大きく揺さぶった。

5日後 日本オリンピック委員会は
ようやく声明を発表した。

「原則」という言い方が気になるが

参加の方針には違いなかった。

この時
吉澤は あの男の動きを気にしていた。

ここまで なおも動きを見せていない。

出場エントリーの締め切りまで 残り9日。

ここで 態度を保留していた西ドイツが
不参加を表明。

そして締め切り前日 ついに河野が動いた。

その晩 吉澤は河野から
ある情報をつかんでいる。

電話口に出てくれて…

この日 河野は
オリンピック委員会の幹部を集め

伝えていた。

モスクワオリンピックに
出場するかどうかは

翌日のJOC総会で決める。

だが 事前に おもだったメンバーを集め

日本体育協会の臨時会合として
会議を開く。

そこに 内閣官房長官を呼んであるという。

それが河野の言い分だった。

電話しといた。 …という話をしたんです。

そしたら 河野さんが…

その時の表現が 「書くなよ 書くなよ
書くなよ」って何回か言われたんですよ。

(取材者)いわゆる… オフレコ。

重大なカジが切られたと直感した。

だが ウラ取りする時間がない。

吉澤は 記事にできなかった。

多分 死ぬまで
どっちか分からないと思うんですけどね。

翌日…

官房長官 伊東正義が現れた。

JOC委員が多く出席しているが

あくまで表向きは 別組織…

冒頭を除き 非公開とされた
この会議のあと

それまで参加を主張していた委員の多くが
不参加に回ることになる。

一体この会議で 何があったのか?

自転車競技連盟の代表だった岡本雄作は

あの会議には出席していないが

内容を漏れ伝え聞いた。

そういうような話は
伝わってきましたよね。

毎日新聞の須田は 官房長官が
直接来たことに驚いていた。

現場行って 「えっ ほんとかよ おい」って。

(取材者)それは驚きでしたか?
驚きだったよ それはね。

こりゃダメだと。

関係者以外は閉め出され
この念の入れよう。

昔の古いあれなんで
木造のドアだったんで

隙間があって…

それだけは もう ず~っと
こうやって のぞいて。

ただ 何となく わ~って
言い合ったりしてるものが

あるなっていう雰囲気だけは
伝わってきた。

この会議の様子は
25年を経て 明かされた。

日本体育協会の職員が
ひそかにつけた議事録を公開したのだ。

議論は2時間半にわたり
侃々諤々だったことが分かる。

このやり方に 厳しく
疑問を呈したのは…

そして 夕方5時。

委員長の柴田勝治が幕引きを図った。

議事録によれば 採決の結果

31対13で 不参加が決まった。

吉澤には 最後の仕事が残っていた。

オリンピックに行けなくなったことへの
選手の反応を聞く。

プロへの道を絶って
モスクワにかけていた長は

年齢制限で競輪選手への転向はできず
26歳で引退することになる。

率直に言って
どういう感想を持たれました?

(吉澤)なんか最後に… よく覚えてる。

…っていうのを言ったのをね
ものすごい覚えてるんですよ。

こうして日本は
モスクワオリンピックをボイコット

多くのアスリートが涙をのみました。

しかし あの時 本当にボイコットしか
道はなかったのでしょうか?

実は 日本と同じように
政府から強い圧力を受けながら

参加を決めた人々がいます。

イギリスです。

第2の視点は 陸上中距離で
金メダルを獲得した セバスチャン・コー。

世界記録を持ち イギリス選手団の中でも
スター的な存在でした。

政府のさまざまな働きかけを敢然と拒否
独自の対抗措置に訴えます。

自分たちの信念は 闘って守る。

勇気と したたかさの
アナザーストーリーです。

7月 モスクワオリンピック開幕。

実は アメリカのボイコット呼びかけにも
かかわらず

多くの西側諸国が

選手団を送り込んでいる。

この大会 一人のスターが生まれた。

男子 1, 500メートル決勝。

歴史的なデッドヒートを制し
金メダルに輝いた…

だが この激走と爽やかなルックスだけが
彼をスターにしたわけではない。

コーは 大会の前から
政治の圧力にあらがう

闘いのシンボルだった。

(取材者)Hello.

Nice to see you again.

イギリス スポーツ界の重鎮として
バロンの称号を与えられている。

大学生で 800メートルと1, 500メートルの
世界新記録を樹立。

一躍 モスクワオリンピックの
金メダル候補に躍り出た。

そこに 首相マーガレット・サッチャーの
この発言。

だが 大学で経済と歴史を学んだ
23歳の若者は

泣き寝入りなどしなかった。

コーは仲間と共に
はっきりと声をあげた。

ボイコットは間違った選択だと。

そして 政府には
不参加を強要する権利はないこと

政府が認めない場合は
個人の資格で参加すると表明した。

イギリス政府は コーの父親を呼び出し
説得を依頼。

が 息子が息子なら
父親もまた父親だった。

この動きを
イギリス オリンピック委員会も後押し。

オリンピック史を研究する
フィリップ・バーカーによれば

このあと政府は さまざまに
圧力をかけたらしい。

ならばと 選手とオリンピック委員会は

独自に派遣費用を調達する動きに出る。

基本的に…

ある人が言ったジョークですが

「この国の人間はジミー・カーターではなく
マグナカルタに従う」。

まあ つまりは そういうことなんです。

ちなみに 開会式でイギリス選手団は

国旗の代わりに
オリンピックの旗を掲げ

ソビエトに抗議するイギリス政府の
顔を立てている。

なんとも抜け目ない。

一方フランスは 参加するかどうかは
個人の判断に任せるとした。

陸上競技の代表だった…

ソビエトの軍事侵攻には
大きな憤りを感じていた。

だが 彼は参加することに こだわった。

彼らは言います…

かくして迎えた モスクワの舞台。

イギリス代表のコーには
波乱が待っていた。

自身が世界記録を持ち

絶対の本命と言われていた

800メートルで まさかの敗北。

大会前から
その言動を注目されながらの舞台は

23歳の若者には 重かったのかもしれない。

6日後 1, 500メートル 決勝。

(号砲)

コーは 激走。

(歓声)

コーは 2012年の
ロンドンオリンピック招致活動では

責任者を務めた。

強調したのは イギリスが
これまで全ての大会に参加し

平和の理念を尊重してきたこと。

参加を貫いた国と 諦めた国。

いずれにせよ このボイコット問題は

人生をかけて競技に取り組む
アスリートたちの運命を一変させました。

第3の視点は

あの時 戦いの場を失った男の
再生の物語です。

出場を訴えた会見で 男泣きに泣いた

レスリング
フリースタイル52キロ級代表…

日本レスリング史上
最高の天才と言われた高田は

ボイコットの決定を受けて
失意の中 引退の道を選びました。

しかし 4年後
ロサンゼルスオリンピックで

奇跡のカムバックに挑むことになります。

最強の男が 人生の絶望と向き合った
アナザーストーリーです。

今 高田裕司は ここの監督を務めている。

高田の最強伝説は 今も世界で語りぐさだ。

戦ったら自信をなくすと

ライバル ソビエトが 同じ階級の選手を
出場させなかったとか…。

自分は相手に倒されることはないから…

ある試合 隙を突かれて敗れた時…

…と うそぶいたとか。

私 これは
オリンピック終わったあとですね…

(取材者)ほんとですか?
はい。

タバコを吸ってましたけどね。

(取材者)あっ 現役中?
はい。

だが高田の人生は あの一件で
波乱に満ちたものとなる。

高田の強さは圧倒的だった。

超人的な反射神経と技術で
全7試合中 6試合をフォール勝ち。

金メダルにも にこりともせず
こんなことを考えていた。

この時 22歳。

今の自分に 更にパワーを加えれば

レスリングの究極の形とも言うべきものを
体現できる自信が 高田にはあった。

以来4年
世界の頂点に君臨し続けた高田は

当然 モスクワオリンピックでも
金メダルの大本命だった。

あの日までは…。

高田は突然 コーチに呼ばれ

スーツに着替えて
一緒に来いと言われた。

どこに行くのか 何をするのか。

説明された記憶は 一切ないという。

そして あの会議が始まった。

…っていう感覚だったですね。

しかし 自分の番が来た瞬間
熱いものが込み上げて

思いがけない言葉が口をついた。

≪高田 どうもありがとう。

(拍手)

結局 ボイコット。

勝負の場を奪われた高田は 引退を決める。

だが 落ち込んでいる暇などなかった。

現役を引退した以上 身を置いていた
大学からも出なければならない。

翌年 高田は故郷 群馬に戻り
高校の体育教師となった。

受け持ったのは定時制のクラス。

そのころの貴重な映像が残っている。

いくつだ? 青木 いくつだ?

言えよ 早く!
(笑い声)

高田は 新たな目標を見つけようと

レスリング部のコーチに没頭した。

(高田)いつも実戦と一緒。
相手よりも少し力入れて。

そしたら 相手も動くし。

しっかり内側から無理なくスッと
タックルに入る…。

高田の熱血指導で
部員は みるみる強くなったのだが…。

教えを受けていた生徒たちは
とにかく大変だったらしい。

生徒のため 有り余るエネルギーで
世話を焼いてくれたからだ。

「えっ!」と思って。

(取材者)さぼれないですね。

今でこそ光栄な話なんですけども…。

これがですね…

高校生の前では。

はた目には 気持ちを
切り替えているようにも見えた高田。

だが本人は こんな思いを明かした。

この モスクワが終わった1年2年は
地獄だったですね。

地獄ちゅうか まあ…

「なんで俺は ここで
こんなことしてるんだ」ということでね

悩まされた時期がありましたね。

それは オリンピックから
3年後のことだった。

日本代表のコーチを頼まれ

チームのヨーロッパ遠征に随行した
その時。

その時に…

それは やっぱり
あの時にね 自分の中で

やっぱり…

高田は 電撃復帰を
発表する。

教え子たちの反応は…。

…という気持ちもありましたね。

生徒たちは 高田が本当にいるべき場所を
分かっていた。

♬~

代表を勝ち取った高田は

ある計画を抱いていた。

(高田)今だから話しますけど…

(実況)モスクワオリンピックは もう
優勝確実と言われながら 幻の代表。

あの涙の抗議は
記憶に新しいところです。

赤いユニフォームが日本の高田。
さあ 試合が始まりました。

高田は 積極的に攻め込み

並ぶもののない技術を見せつける。

(実況)腕をとって 飛行機投げ!

世界を制したレスリングは健在だった。

初戦 2回戦ともに
フォール勝ちを決める。

しかし…

(実況)う~ん!

高田が投げられました。

タックルを決められ
続けざまにポイントを奪われる。

必死で追いつくも 最終盤。

(実況)片足タックル
高田が攻められた!

高田が攻められた 高田が攻められた!
2秒 1秒…。

(ホイッスル)
(実況)試合が終わりました。

高田 敗れました。

トルステナが高田を下しております。

高田は 銅メダル。

思い描いたメダルではなかったことで
あの計画は未遂に終わった。

(高田)…という感じですよね。
失敗したなと。

今 大学のレスリング部で
若手を指導する日々を送る高田。

オリンピックへの参加を決める
あの JOCの理事でもある。

私は守れる立場にいるんだと。

39年前 アメリカとソビエトという
超大国同士の争いが

トップアスリートたちの人生を
翻弄しました。

決して取り戻すことのできないチャンス。

限られた時間で
競技人生を闘う者にとって

その不条理な傷痕が
どれほど深いものだったのか

私には想像もできません。

この出来事から 何を学ぶのか?

それは スポーツの世界だけに限った
問題ではないかもしれません。

こんにちは。
(取材者)よろしくお願いします。

この男が 取材に応じた。

柔道 山下泰裕。

モスクワのことは
これまで多くは語ってこなかった。

そうです。

なんと山下は
モスクワの試合会場に出向いたという。

やっぱり試合会場 入る前は…

そんな複雑な気持ちになるんじゃないか。

ところがね…

私が会場に入ったら…

大きな声で 離れてますけど
「お~い ヤマシタ」って 手振るんです。

こっちも…

…っていう気持ちになった。

後悔が1つあるという。

下に おりてって…

4年後のロサンゼルス。

山下は 足の負傷を乗り越え
金メダルを獲得した。

(歓声)

あの時 流した涙は

幻に終わった日本代表全員の
思いだったのかもしれない。

♬~


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