歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」黒船の軍事力で威圧するペリーを、幕府きっての…



出典:『歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」[解][字]


幕末から明治にいたる動乱のきっかけ、「ペリー来航」!黒船の軍事力で威圧するペリーを、幕府きっての頭脳派が迎え撃つ。最新研究が明かす日米初の外交交渉の真実とは?


詳細情報

番組内容

幕末から明治にいたる動乱のきっかけ、「ペリー来航」!この大事件は、これまで、太平の夢の中にあった徳川幕府が、アメリカ・ペリーのどう喝的な開国要求に屈したというイメージで語られてきた。しかしそれを覆す史料が――幕府の議事録「墨夷応接録」。冷静にペリーと対じ・主張し、矛盾点を臆することなく追及した日本側、林大学頭(はやしだいがくのかみ)の姿が明らかになった。最新研究より日米初の外交交渉の真実に迫る。

出演者

【キャスター】渡邊佐和子




『歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」
  1. ペリー
  2. 幕府
  3. アメリカ
  4. 交渉
  5. 日本
  6. 国書
  7. 長崎
  8. 浦賀
  9. 阿部
  10. 江戸
  11. 日本人
  12. 貿易
  13. 蒸気船
  14. 要求
  15. 外国船
  16. 黒船
  17. 食料
  18. 補給
  19. 意見
  20. 貴国


『歴史秘話ヒストリア「日本人 ペリーと闘う 165年前の日米初交渉」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


解析用ソースを読めば、番組内容の簡易チェックくらいはできるかもしれませんが…、やはり番組の面白さは映像や音声がなければ味わえません。ためしに、人気のVOD(ビデオオンデマンド)サービスで、見逃し番組を探してみてはいかがでしょうか?

☆無料で民放各局の動画視聴ができるTVer(ティーバー)!まずはココから!

他にも、無料お試し期間のあるVODサービスが増えてますので、各社のラインナップを調べてみるといいかもしれませんね。

↓NHK関連商品

国と国の代表が
国家間の問題を話し合う…

強大な力を持つ超大国を相手に
いかに国益を守るのか。

この困難な壁に挑んだ

日本人たちがいました。

♬~

日本の 欧米列強との
デビュー戦は

幕末 アメリカ ペリーとの
外交交渉です。

でも ペリー来航といえば…。

仰せは ごもっとも。
早速 貴公の言うとおりに…。

弱腰な幕府が 開国させられた。

そんなイメージで語られてきました。

しかし今 それを覆す史料が
注目を集めています。

幕府の記録…

ここから
交渉の知られざる実態が見えてきました。

それは…。

まずは 国書にて
どこそこの港を いくつ開いてほしいと

申されるべきであったと存ずるが
いかがであるか?

矛盾を 論理的に指摘し 反論する
交渉役の姿です。

「不平等条約」と語られてきた
この時の条約も

実は 対等なものとする
考えが

有力となっています。

最新研究から浮かび上がる ペリー来航。

大国の圧力に屈せず
交渉を成功に導いた

知られざる 日本人のドラマです。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今日のテーマは 「ペリー来航」。
いわゆる「黒船来航」です。

今から165年前 黒船の艦隊を率いる
アメリカのペリーが

日本にやって来て
開国を迫った大事件です。

突然ですが こちらのお茶
ペリーと 深~い関わりが…。

その名も…

人々は このお茶と
アメリカの「蒸気船」をかけて…

…と詠みました。

「お茶を4杯も飲むと
眠れない。

平和ぼけの幕府も
蒸気船に慌てて眠れない」と

からかう歌です。

しかし 最近の研究では
幕府は 事前に準備を進め

ペリーが来ても
冷静に対応したことが

分かってきました。

そのことは 実は 日本人とペリーたちの
ファースト・コンタクトの様子からも

うかがえます。

まずは その場面から
ご覧頂きましょう。

横須賀の港町…

幕末の日本を揺るがす大事件は
ここから始まりました。

沖合に
巨大な外輪を備えた蒸気船が出現。

全長 およそ80m。

防腐剤 タールの黒い色から
「黒船」と呼ばれた

4隻のアメリカ艦隊です。

率いるのは

アメリカ東インド艦隊 司令長官…

[ 心の声 ] いよいよ
我が国の目的を果たす時が来た。

江戸湾の入り口にある浦賀。

湾に出入りする船を取り調べる

幕府の船番所が置かれた
重要な場所でした。

(スタッフ)
ペリーは どこに来たんですか?

はい あの沖合に
釣り舟が見えますか?

その釣り舟と こちらの手前に
白いマンションがあります

あの中間ぐらい
ちょっと手前になるかもしれませんが

あの中間ぐらいのところに
ペリーは 泊まっています。

アメリカ側の 60門を超える大砲は

いつでも発射できる態勢。

更に 蒸気船の「ある動き」が
人々を驚かせました。

まず動いたのは
浦賀奉行所の役人です。

小舟で黒船に近づき
こう 呼びかけました。

しゃべったのは なんと英語。

実は 幕府は ずっと前から
アメリカの来航を予測し

周到な準備を進めていたのです。

幕府が
外国船に備えるようになったのは

ペリー来航の50年ほど前からです。

それまで 幕府の貿易相手といえば

長崎での
オランダと中国だけ。

いわゆる「鎖国」です。

しかし 18世紀の終わりごろから

日本近海に姿を見せる外国船が
急増します。

その数 70隻以上。

そして 驚きの知らせが飛び込みます。

大国・清が イギリスと戦い

蒸気船の威力に
なすすべもなく敗北したのです。

ペリー来航 11年前のこと。

幕府は 衝撃を受けました。

このころ 幕府のリーダーは
若き老中…

西洋の軍事力を知り
対外政策の見直しを始めます。

阿部は まず 長崎にいた
オランダ語の通訳たちに

英語を学ばせます。

その後 「外国船 応対マニュアル」や
国旗の一覧を作り

通訳たちを
浦賀などに配置しました。

そのうえで
今後 外国船に どう対応するか

検討を始めます。

まず 阿部は…。

江戸に近い海岸の備えを固め

異国の船が来たらば
直ちに打ち払うべきである。

どんなに 費用が かかろうとも
沿岸防備を強化して

「鎖国」を徹底しようという考え。

もはや 開国!

一方 今すぐ 諸外国と貿易を始め
その利益で海軍力を増強するという

積極的な考えから…。

備えるにせよ 打ち払うにせよ…。

戦争を避けるため いっとき開国し

後で 鎖国に戻ろうという
消極的な考えまで。

結局 意見の統一は見なかったものの

こうした議論が 後の外国船への対応の
シミュレーションになったといいます。

そうした中 ついに その時が訪れます。

来年 ペリーが
蒸気船で 日本へやって来るという

オランダからの情報。

阿部は アメリカとの交渉を決意します。

つまり 幕府は 自ら交渉相手を選び

さまざまな準備を整えて
その時を迎えたのです。

さて 場面は 再び黒船の中。

幕府の役人が
マニュアルどおり 応対を始めます。

貴公らは いかなる目的で
我が国に来たのか。

我々は 友好使節である。

合衆国大統領から
将軍宛ての国書を持参しているので

受け取ってもらいたい。

我が国の法では 異国とのやり取りは
長崎で行うと決まっている。

貴公らは 一旦 長崎へ行ってもらいたい。

ところが…。

我々が浦賀に来たのは
江戸に近いためである。

長崎に行くことはできない。

もし 国書を
ここで受け取れないならば

武装のうえ 江戸まで持参しよう。

この強硬な態度の裏には

アメリカが通したい
3つの要求がありました。

まずは 「漂流民の保護」。

このころ アメリカは

太平洋で
捕鯨を盛んに行っていました。

そして 捕鯨船が
嵐などで

日本に漂着することが
多発していました。

2つ目は 「石炭や食料の提供」。

アメリカは 太平洋を横断し

アジアへ直行する航路を
開こうとしていましたが

主な補給地が
ハワイしか ありませんでした。

そこで注目したのが 日本です。

日本で
石炭や食料を補給できれば

悲願の太平洋航路が
実現します。

実は ペリーたちは

太平洋でなく
大西洋を回ってきましたが

補給に苦心しました。

途中 石炭が足りず
帆を張って航行。

蒸気機関を動かしたのは
日本到着 2日前です。

更に 乗組員1, 000人分の
食料も不足しがちで

病人や死者が出ていました。

幕府には
隠していましたが

補給は アメリカにとって大問題でした。

そして 3つ目の要求が
「貿易」です。

この時 アジアでは

欧米各国が 市場の獲得を
争っていました。

出遅れていた
アメリカですが

他に先駆けて
日本と貿易できれば

遅れを挽回できます。

さまざまな要求を携え

日本に現れた 大国アメリカ。

これに どう応えるのか

難しい かじ取りが
迫られていました。

こうして始まった 日米交渉。

しかし その ずっと前から
日本人は アメリカ人と出会っていました。

しかも そんな日本人の一人が
ペリー艦隊の中にいたのです。

それが 広島出身の船乗り 仙太郎です。

乗っていた船が難破し
漂流していたところを

アメリカの船に助けられました。

ペリーに雇われた仙太郎は
サム パッチという あだ名で

かわいがられたと言われます。

後に 日本に戻り 亡くなりました。

東京に残る墓には
サム パッチに ちなんだ

「三八君」の名が刻まれています。

このように
個人レベルでは始まっていた 日米の交流。

しかし 国同士の話し合いとなると
話は別でした。

互いに さまざまな思惑・問題を抱える
日本とアメリカ。

いよいよ 交渉そのものが始まります。

黒船では 交渉の前段階

国書の受け取りをめぐって
紛糾していました。

長崎に行くことはできない。

もし国書を
ここで受け取れないならば

武装のうえ 江戸まで持参しよう。

あくまで 浦賀で国書を渡したい
アメリカ。

報告を聞いた 老中・阿部正弘は
直ちに 重臣たちに意見を求めます。

しかし…。

ペルリは 戦も辞さぬ様子。

こたびばかりは
浦賀での受け取りも やむなしかと。

ペルリが何を申そうが
長崎行きを申し渡すべきである。

聞かぬとあらば
打ち払うまでのこと。

意見は まとまりません。

すると 更に 事態は悪化します。

(スタッフ)こちらは どんな場所なんですか?

ここはですね
ペリーの艦隊が来た時に

ペリーの艦隊が
いかりを おろした場所で

「アメリカン・アンカレッジ」
というところです。

浦賀の およそ15km北。
現在の横浜市八景島の沖。

なんと ペリーは無断で

艦隊の一部を 更に 江戸へ
近づけてきたのです。

幕府は強く抗議しますが
ペリーは 相手にしません。

これで 江戸の政府も
我々の決意を思い知るであろう。

阿部は ついに浦賀での
国書受け取りを決めます。

…というふうに考えてたと思います。

浦賀の すぐ隣にある
久里浜。

来航から6日後

ペリーと
船員300人は

ついに
上陸します。

浜辺に建てられた会見場で
国書の受け渡しが行われました。

満足したペリーは
一方的に言い放ちました。

我々は 来年
今回より多数の軍艦を率いて再訪する。

国書の返事は その時に頂きたい。

交渉の第1ラウンド
国書をめぐる攻防は

アメリカ側の勝利に終わりました。

ペリーが去ると
阿部は 直ちに動きます。

その一つが こちら。

(スタッフ)ここは どんな場所ですか?

はい。
ここは 東京湾の中なんですけれども

正面に フジテレビが見えますように
お台場です。

その お台場の地名の
由来になりましたのが

真下に見えます
品川台場になります。

おおよそ
150m一辺ございまして

一つの台場につき

大砲が 30門前後
備えられました。

更に 阿部は オランダから蒸気船を購入。

後に その操船を学ぶ

長崎海軍伝習所が
設立され

優秀な人材が
育ちました。

残る問題は
誰が ペリーと じかに交渉するか。

当時 幕府には 外交専門の役職が
置かれていませんでした。

悩んだ阿部が思いついたのは…。

急に呼び立てて すまぬな。

いえ。

幕府きっての知性派と名高かった…

幕府の官僚養成所
昌平坂学問所の長官で

幕府の 過去の対外政策を調べ上げ
350巻にも及ぶ 外交資料をまとめた

外交通でもありました。

この国難に あたりうるは
そなたをおいて 他にはおらぬ。 頼むぞ。

ははっ。

まず 林は ペリー艦隊の分析を始めます。

集めたのは
海外情勢に詳しい知識人の意見。

その中に 大変重要な指摘がありました。

仙台藩士で学者の
大槻磐渓の意見です。

「黒船は強大ですが

彼らに 戦う意図はありません。

補給できないのですから

戦争には ならないでしょう」。

オランダからの情報や
蒸気船を見た経験からの分析。

「補給」という
ペリーが隠していた弱点を

見事に 言い当てていました。

…と思いますね。

続いて林は アメリカの国書を熟読し

一つ一つ
対応を検討します。

アメリカの要求は…

…の3つです。

かつて幕府は 外国船と見れば
問答無用で追い払っていました。

しかし今は 漂流民などがいれば
適切に保護しています。

もちろん 燃料や食料も提供。

アメリカは
そのための港を求めていますが

長崎とすれば可能です。

問題は「貿易」。

このころ 幕府内では

近い将来の開国・貿易の開始に
前向きな意見も増えていました。

しかし 世間にすれば 寝耳に水。

貿易など始めれば
外国人への不満 敵意が募り

過激な行動に出る者も
現れかねません。

「漂流民の保護」と

「石炭や食料の提供」は
受け入れ

「貿易」は
なんとか断る。

それが 阿部と林の出した結論でした。

[ 心の声 ]
かつて 我が国の誰もしたことのない
話し合いとなろう。

死を覚悟して 臨むしかあるまい。

そして 翌年の正月。

再び ペリー艦隊が姿を現します。

今度は 9隻の大艦隊でした。

しかも 浦賀を素通りし
一気に羽田沖へ。

そして 江戸近くでの交渉を
要求してきました。

不意打ちとも言える
ペリーの行動に

幕府は 急きょ 横浜で
交渉することを決めます。

ペリーと 500人のアメリカ使節が
横浜に上陸しました。

横浜港の目の前にある…

ペリーとの会見場が建てられた場所です。

この時の交渉の様子は

ペリーの記録「日本遠征記」と

林がまとめた「墨夷応接録」に

詳しく書かれています。

今回 2つの記録に基づき
交渉の詳細を再現しました。

遠路はるばるの船旅
ご苦労に存ずる。

ペリーによる 林の印象は…。

「この人物は 立派な風采を備え
物腰は 極めて丁重だったが…」。

いよいよ 交渉開始。

ペリーは 3つの要求のうち
何から切り出すのか。

それは 意外な言葉から始まりました。

今回の訪問も そのためである。

ところが貴国は
他国の船が遭難しても 救助せず

海岸に近づけば 砲撃するありさまだ。

かかる敵対行為を続けるなら

我々は 国力を尽くして
戦争をするつもりである。

よくよく考えられたい。

[ 心の声 ] 人命が第一と言いながら
戦を ちらつかせるとは…

厄介な相手だ。

こうして 日米初の外交交渉の…

交渉の場では
高圧的で 脅しすらかけてきた ペリー。

ところが 日本の庶民に対しては
そうでもなかったようです。

浦賀に ペリーゆかりの
意外なものが伝えられています。

(スタッフ)こちらは何ですか?

ペリーが浦賀に来た時に
船で使ってた鉄鍋です。

実はですね…

一説には ペリーの船で

ダッチオーブンとして
使われていたと言われます。

また 横浜では
ペリー自身が 農家を訪ねました。

名主の妻や妹から
お菓子やお酒のもてなしを受けた ペリー。

日本女性の印象を
こう 記しました。

ペリーたちにとって
庶民との触れ合いは

つかの間の
休息だったのかもしれません。

さて ペリーから「戦争」の言葉も飛び出し
緊迫する日米交渉。

幕府きっての理論家 林大学頭に
打つ手はあるのでしょうか?

船への砲撃を続けるなら

我々は 国力を尽くして
戦争をするつもりである。

よくよく考えられたい。

脅しにかかる ペリー。 ところが…。

貴公の申されるとおりならば
戦となるのも致し方ない。

林は動じません。

ペリーが言う 外国船への砲撃は
昔の話です。

また 戦争についても

「補給」という ペリーの弱点から
実際は 無理だと分かっていました。

なれど 人命を 何より重んじることでは
我が国は 他国に勝っておる。

これまで難破した異国の船には

薪や飲み水を与え 扶助いたすよう
触れを出しており申す。

無論 貴国の船にも
薪や水を給与いたそう。

林は 一気に 「漂流民の保護」と
「石炭や食料の提供」を

両方 認めると表明。

2つの要求が いっぺんに認められ

ペリーは 勢いをそがれました。

かねてより
必要な物資が提供され

漂流民も
助けて頂いているのであれば

特に 申し上げることはない。

ペリーは 気を取り直し
いよいよ 貿易について切り出しました。

そもそも 交易は

互いに足りないものを融通し合い
大きな利益を生むもので

これにより 国々は豊かになっている。

貴国が もし交易を許されれば
格別な利益が得られるはずで

是非とも認めるべきと思われるが
いかがであるか?

我が国は 自らの産物のみで足りており
異国の品がなくとも 不足はない。

更に ペリーの言葉を引用し 反論します。

最前 貴公は アメリカ国は
人命を第一とすると申された。

交易とは 利を得るものにて
人命と関わりがない。

遭難救助という
貴国の目的は達せられておるのだから

それでよしと存ずるが。

ペリー自身の 「人命が第一」という言葉を
逆手に取った主張。

ペリーは 痛いところをつかれ
黙り込みました。

やがて 口を開きます。

今のご発言 もっともなことである。

この度の交渉は
人命を重んじてのことなので

交易の件は これ以上は求めない。

なんと あっさり
貿易の要求を取り下げました。

こうして 初日の交渉が終了。

林にとって
ねらったとおりの展開となりました。

交渉では
議論ばかりしていたわけではありません。

両国の贈り物交換も行われました。

アメリカからは…。

こちらは
ペリーが 日本へ来航した時に

アメリカから持参した
機関車の模型です。

幕府の将軍へ献上するために
持参したものです。

やはり…

実際に 線路を敷き
試運転も行われました。

幕府の役人は 好奇心を抑えきれず

客車に またがって
大はしゃぎしたそうです。

一方 幕府は 米200俵を
力士に運ばせました。

日本人も
決して アメリカ人に

体格で負けていないことを
示すためです。

そして 9日後
2回目の交渉が行われました。

既に 主な議題は合意に至り
あとは 細部を詰めるだけのはず。

ところが…。

この横浜こそ 石炭や食料を補給する
港として ふさわしい。

しかし 他にも5~6か所
決めて頂きたい。

さもなくば どこへでも
勝手に 船を寄せて

提供を お願いすることになる。

それでは 貴国には不都合だと思うが
いかがか。

突然 ペリーが
たくさんの港を開くよう迫りました。

林は 内心 驚きます。

[ 心の声 ] 港を あちこちに開けとな?

それでは 交易するも同じ。
恐ろしい混乱が起きようぞ。

動揺を隠し 予定どおりの回答をします。

これまでどおり
長崎で行うものといたしたい。

しかし ペリーは譲りません。

長崎は 我が国の船が
清国に向かう航路から外れていて

大変 不便である。

江戸より西に 5~6か所
北に2~3か所 定めて頂きたい。

林は やむなく譲歩。

長崎とは別に
もう1か所 検討すると答えます。

しかし ペリーは納得しません。

1か所ぐらいでは 話にならない。

少なくとも
3~4か所は決められたい。

そちらは
全権として来ているのだから

この程度のことを
即答できないはずはない。

是非とも今 答えを頂戴したい。

[ 心の声 ]
いくつも港を開くなど 到底 のめぬ。

何か よい策はないものか。

この時 林に
一つの記憶が よみがえりました。

読み込んでいた アメリカの国書。

港については
「南に一つ」とあるのみでした。

アメリカが 具体的な候補地を
絞り込めていなかったためです。

林は この点をつきます。

これは 無理なことを申される。

長崎とは別の港をと
言われるのであれば

何故 先年の国書に
一言も記されなかったのか。

国書にあれば 我らも
それなりの返答ができたというもの。

さほど重大なる事柄を
この場で決めるとなれば

まずは国書にて どこそこの港を
いくつ開いてほしいと

申されるべきであったと存ずるが
いかがであるか?

ペリーは 答えに窮します。

いかにも… 昨年の国書には
地名を記していなかった。

よろしい。
ならば できるだけ早く お答え願いたい。

2~3日 お待ちしよう。

さすれば7日。
7日の後 この場で答え申す。

承知した。

その晩 林は悩んでいました。

[ 心の声 ] ペルリが
長崎だけで満足するとは思えぬ。

ペルリを納得させるには

こちらも
それなりの覚悟を せねばなるまい。

♬~

林は 急いで江戸へ戻り
阿部たち幕府首脳に 考えを述べました。

ところが…。

きゃつらの求めに応じるなど 言語道断!

港は長崎のみ! 他はありえぬ!

将軍家の一門
水戸の徳川斉昭が激怒します。

しかし 老中の阿部は…。

ペルリの申すこと
全て 蹴れば

かの黒船が
いかなる振る舞いに出るか…。

大学頭。
(林)はっ。

わしは そなたに同意じゃ。
覚悟いたそう。

(林)ははっ。

林の提案に賛成します。
他の大名や幕臣も同じでした。

そして 3回目の交渉。

いずれの港を開くか
決められたか。

南は 伊豆国下田 北は箱館。

この2港にて 薪や水 その他
欠乏の品を給与いたすことと

決まり申した。

下田と箱館は

どちらも 江戸から離れた小さな港町。

アメリカ人との接触を 最小限にできます。

そして 3月3日。

条約の調印が行われました。

両国親睦の儀が 首尾よく整い
このうえなく うれしいことに思う。

貴国の国法は
まことに厳重なものであるのに

これまで 無理を お願いしてきたこと
何とも申し訳なく思っている。

同じく 大慶の至りである。
ご厚意 かたじけなく存ずる。

幕府は こうして
初めての国際条約「日米和親条約」を

アメリカと結びました。

…というふうに思いますね。

交渉の後…

余興として
船員たちによる喜劇が上演されると…。

ワッハッハ!

アハハハッ!

更に 酒に酔った幕府の役人が…。

日本とアメリカの心は一つ!

日本とアメリカの心は ひと~つ!
アッハッハッ!

…と大騒ぎ。

ペリーの部下の言葉です。

いつしか 彼らは
「友人」になっていたのかもしれません。

後に ペリーが記した
日本人に対する印象です。

「また 大変器用で その完璧な
手先の技術には 実に驚いた。

日本人が
西洋の知識を習得したら…」。

日本の重要な条約を収蔵する…

日米和親条約の批准書が
展示されています。

外務省に入省した者は ここを訪れ

日本が 欧米列強と初めて結んだ
条約について

学ぶといいます。

165年前 大国アメリカと
初めて 相対した日本人。

自ら 正しいと信じたことを

冷静に そして
正々堂々 主張した その姿は

日本の歴史に
確かに刻まれています。

♬~


関連記事