先人たちの底力 知恵泉 真田一族のブランド力 つくりだす哲学 真田昌幸・信繁武士にとって家名は、いわばブランド…


出典:『先人たちの底力 知恵泉▽真田一族のブランド力 つくりだす哲学 真田昌幸・信繁』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉▽真田一族のブランド力 つくりだす哲学 真田昌幸・信繁[解][字]


武士にとって家名は、いわばブランド。信州の小大名・真田が、なぜ「真田ブランド」となったのか?2回にわたって探る。今回は真田昌幸・信繁父子のブランドを作り出す哲学


詳細情報

番組内容

真田は、徳川や北条の侵略に脅かされ続ける小大名だった。そんな真田が名を知らしめた2つの合戦がある。1つは、父・昌幸が関ヶ原に向かう徳川秀忠軍3万8千を相手に3千で挑み勝利した上田合戦。そして、次男・信繁が真田丸を築くなどして家康を苦しめた大坂の陣の戦い。その戦いぶりは、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と評された。2つの合戦は圧倒的に不利な状況下の闘い。そこにはどんな覚悟と知恵があったのか?

出演者

【出演】アパレル会社代表取締役…山口絵理子,八木亜希子,静岡大学名誉教授…小和田哲男,【司会】新井秀和




『先人たちの底力 知恵泉▽真田一族のブランド力 つくりだす哲学 真田昌幸・信繁』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

先人たちの底力 知恵泉 真田一族のブランド力 つくりだす哲学 真田
  1. 昌幸
  2. 信繁
  3. 家康
  4. ブランド
  5. バングラデシュ
  6. 自分
  7. 最初
  8. 真田
  9. 山口
  10. 真田ブランド
  11. 真田丸
  12. 大坂城
  13. 徳川
  14. 徳川軍
  15. 徳川方
  16. ジュート
  17. 関ヶ原
  18. 個性
  19. 秀忠
  20. 先生


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この親子 きっと参考になります。

あっ やってますよ。
お客さんはいないと思いますけどね。

あれ? いますよ。
珍しいですね 何か。 ねえ。

雨でも降らなきゃいいけど。
雨降る前に入りましょうか じゃあ。

結構 丈夫そうな…。         こんばんは。
あっ こんばんは。

お待ちしておりました。  こんばんは。
あっ 先生も。 お二人おそろいで。

どうぞ どうぞ お掛け下さい。
いらっしゃいませ。

珍しいですね お客さんがいるなんて。
この店 はやってますから こう見えて。

そうだったっけ?
ええ うん…。

さっき 店長は でも新聞読んでました。

私も それ見たことあります。
シ~ッ。

ちょっと お二人にね
ご紹介しますけれども

こちらの方は
ブランドバッグをつくっている会社の

山口絵理子さんでいらっしゃいます。
山口と申します。 初めまして。

何の話 してたんですか?
いや それね
今ね これ見てたんですけど

お二人 これ ちょっと見て下さい。
何だと思います? これ。

ゴワゴワ。                麻布でしょう。
麻ですか?   そうなんです。

これね
ジュートっていうものなんですけど。

はい そうです。 こちら
インドとかバングラデシュで

野菜とか入れる袋で使われてる素材です。

ジャガイモとかね こういうのに入れて
市とかで売ってたりしますよね。

風通しがよさそうで。
ねえ 通気性がいい。

実はね こちらの山口さんは
このジュートを使って

バングラデシュ発信のブランドバッグを
つくってらっしゃるんですよ。

ブランド? ブランドバッグって…
イタリアとかフランスであるような

それを これでバングラデシュで?
で つくってる。

全部が結び付かない… パッとは。
そうですか。

お若いのに 何かすごいね。
ねえ そうなんですよ。

だから私もね 負けずに
ちょっと この店発信のブランドとかを

ちょっと やってみようかな~なんて
思ったりしたんですけど。

また何か 野望を持ちましたね。
何か計画でもあるんですか?

う~ん それがあったらね
いいとこなんですけど…

こういう困った時の 先生頼みなんですが。
先生に!?

どうでしょう? 例えば 地方からね
全国に名をとどろかすような

ブランドをつくったような人って?
歴史的にはいますよ。

そうですか。
私が専門にしている戦国時代で

信州上田の… 今の長野県上田市
そこの例の 真田の昌幸 信繁親子。

これはもう まさに真田ブランドですよ。
なるほど。

真田ブランド いいですね。

周りを山に囲まれた
人口およそ16万の この町には

全国に誇るブランドがあります。

そのロゴが こちら。

一文銭を6枚並べた…

町の中には このロゴがいっぱい。

信州名物のおそばも このとおり。

もちろん このロゴのもとになったのは
真田信繁を生んだ真田家の家紋です。

もともと信繁の父 昌幸は
武田信玄の家臣。

武田家の没落で独立した昌幸は

近隣の徳川や北条の侵略に脅かされ続ける
小大名でした。

そんな真田家が
全国に名をとどろかせることになった

2つの合戦があります。

一つは 慶長5年
昌幸が 関ヶ原に向かう

徳川秀忠軍3万8千を相手に

3千で挑み勝利した上田合戦。

そして もう一つが
大坂夏の陣です。

この戦いで
昌幸の次男 信繁は

家康の本陣に突撃
死を覚悟させるほどの戦いぶりを発揮し

他藩の記録に
「古今なき大手柄」

「真田日本一の兵」と
書かれたほどでした。

武士にとって
家名を上げれば名誉となり

その家名を存続させることで
家には繁栄がもたらされる。

現在の会社にとっての
ブランドのようなもの。

真田昌幸 信繁親子がつくりだした
真田ブランドはゲームにも登場。

比類なき勇者として描かれた
キャラクターは 若者にも大人気。

一体 なぜ 信州の小大名が

全国に名をとどろかせるブランドを
つくりだすことができたのでしょうか。

今回 真田昌幸 信繁親子の

ブランドをつくりだす極意を
読み解くのは…

大学時代
途上国の経済援助に疑問を持ち

卒業後 バングラデシュの大学院に入学。

当時 アジアで最も貧しい国の一つとも
いわれていたバングラデシュから

世界に通用するブランドを
立ち上げたいと…

目をつけた素材は 現地で
野菜などを入れる袋に使われていた

ジュートという麻の一種でした。

丈夫で通気性に優れている反面
手触りが悪いことから

バッグには向かないといわれる中
独自開発した手法で

山口さんのデザインを現地の職人が
形にするという二人三脚で製造。

今では 日本や香港などに38店舗を持つ
人気ブランドに成長しました。

途上国からブランドをつくりだすことに
成功した 山口絵理子さん。

信州から真田ブランドを生み出した
昌幸 信繁親子の知恵を

どう読み解くのでしょうか。

ということなんですね。 すごいですね。
ねえ。

でもね 山口さん
どうして そのバングラデシュに

行こうと思われたんですか?
最初は いわゆるボランティアとか

国際協力に すごく興味があった
大学生だったんですけど

援助とか国際協力ってなると
やっぱり国際機関… 世界銀行とか

国連とかに すごく憧れていて
で ワシントンのそういった機関で

ちょっとだけ
アルバイトをしてたんですね。

すごく大きいビルの中で
やっぱり たくさんの国旗が揺れてて

非常にエキサイティングだったんですけど
やっぱり何か 大量の この援助が

本当に届いてるのかなっていうことが
すごく気になっちゃったんですね。

それで
当時 大学4年生だったんですけど

そんな自分も こんな場所にいるけれども
現場 知らないじゃないかっていう

何か自分の中の違和感が
もんもんと湧き出てしまって

インターネットで
アジア最貧国に行ってみようと思って

検索をしたら 当時出てきたのが
バングラデシュっていう。

最貧国だったんですか。
そうなんです その当時。

2004年とかなんですけど。 着いた瞬間に

何か やばいとこ来ちゃったなっていう
感覚が すごくありました。

どんなところが?
空港から出たら
もう ワ~ッて人が来るんですよね。

外国人珍しいっていう感覚で
来た人の中に

おなかが大きい
栄養失調の子どもがいたりして

何かバッグを引っ張ってきて
こういうジェスチャーするんですね。

お金ちょうだいっていうふうな感じで。

それが すごい衝撃的で… で
もう現場いなきゃ もっと知らなきゃ

という気持ちになって
向こうの大学院に入学しました。

そこで もっと行かなきゃって
思うところが すごいですよね。

その後 何があったのか ちょっと 今日は
たっぷりと伺っていくとしまして

まずは 今日の主人公ですけれども
真田昌幸 信繁。

先生 この真田家っていうのは
これ どういう一族だったんですか?

まあ ひと言で言えば
いわゆる国衆ですね。     国衆?

戦国大名にまではならないんだけど
ある程度の地域を支配していて

だけど ちょうど
真田がいた地域っていうのは…

もう いろんな大名
強いのが いっぱいいるわけですね。

そういう中で いかに生き残るかっていう
まさに そういうね

非常に厳しい環境のとこでしたね。

そういう中での 真田ブランドの
一番の売りっていうのは何なんですかね?

まあ 簡単には屈しないぞという
負けじ魂というか。

生き残る その生きざまが
私は やっぱりブランドの

一番の売りじゃないかなと
思いますけどね。

山口さんは ブランドっていうものは
どういうものだと思いますか?

…なんじゃないかなと思ってます。

真田もそうですね。
ほかとは違う個性を持ってるような

そんな感じですよね。
何か その人じゃなければならないとか

これでなければならないみたいな
ほかには代えがないみたいなね

そういったブランドをバングラデシュでも
つくれると思われたんですか?

確かにブランドって言うと
ヨーロッパとか

先進国のにおいが
すごくする言葉なんですけど

その個性っていう言葉だとしたら
バングラデシュの個性って強烈で

やっぱり みんなが
この麻とかを大事に育てている

何か すごくワイルドで
力強い感じっていうのは

日本には 私 感じたことなかったし
現地にしかない職人さんも絶対いるので

安いものだけじゃないって
すごく思いました。

ビジネスとして まだ回ってなくても
そこに個性はあるっていうのは

感じられたんですね。
何か でも それを…

外から見たら こうじゃないっていうので
キャッチボールをしたいなと思いました。

なるほどね。

さあ 今日は そんな皆さんのために

こんなメニューを
ご用意させて頂きました。 こちらです。

サナダ付き。
野菜サラダ。

野菜サラダに掛けてるんですね
野菜サナダ 言われなきゃ分かんなかった。

(笑い声)
何か この店 親子丼が多いんじゃない?

前も何かね サケとイクラの親子丼
みたいなのを言ってましたから。

好きなんですね。
さすが常連の先生だけあって

ちょっ… 痛いとこ突かれちゃった。

ちょっと 食べてみたい感じですけどね。
私も食べてみたいです。

あっ そ… そうですか?
ええ 是非 是非。

た… 食べてみたい?
食べてみたい 是非。

じゃあ それ 後ほどにしましょうか。
まだ出来ないんですね。

ちょっと お時間頂きたいので。
しどろもどろだな。

まあ ということで
まずは 父親の真田昌幸の知恵から

味わってまいりましょう。

慶長5年9月15日 早朝。

石田三成率いる8万の西軍と

徳川家康率いる7万4千の東軍が激突。

天下をかけた…

一進一退の
どちらが勝ってもおかしくない攻防に

家康は いらだっていたといいます。

というのも 本来なら参戦しているはずの
秀忠軍3万8千が

到着していなかったのです。

秀忠軍の参戦を阻んだのが
西軍に味方する…

三成の挙兵を知った家康は
8月24日 息子 秀忠に

徳川軍の主力を率い 中山道を通り
西に向かうよう指示します。

それを受けて秀忠は まず途中にある
上田城を攻め落とすことを決意。

これを知って
昌幸は ほくそ笑んだといいます。

というのも 秀忠軍を足止めし
関ヶ原の戦いに参加させなければ

西軍勝利の時は
昌幸は 信濃一国の大大名となり

家名を全国に
とどろかせることができます。

しかし 昌幸の軍勢は
秀忠軍の10分の1にも満たない3千と

多勢に無勢。 不利に思える状況ですが

実は昌幸が
上田城で徳川を相手に戦ったのは

これが初めてではなかったのです。

昌幸が徳川と初めて戦ったのは
関ヶ原の戦いの15年前

天正13年のことです。

そのきっかけは
真田領を狙う北条氏に対抗するため

昌幸が徳川家康に
庇護を求めたことにありました。

北条と徳川が対立したままなら
問題なかったのですが

秀吉に対抗するため家康は

なんと北条と手を結ぼうとしたのです。

その見返りに北条は真田領を要求。

家康も認めました。

昌幸にしてみれば
真田領は 家康にもらったものではなく

代々 守ってきた土地。

到底 渡すわけにはいかないと断固拒否。

すると家康は上田城を攻略するため
7千の兵で進軍してきました。

対する昌幸の兵力は2千弱。

城外で戦いを挑んだ真田軍は
徳川軍に返り討ちに遭い 敗走。

徳川軍は追撃 大手門に迫ります。

実は これが昌幸の計略でした。

城壁まで近づいた徳川軍に
石や丸太が降り注ぎ

鉄砲隊が一斉に射撃を開始。

(銃声)

更に伏兵が側面から突撃すると
徳川軍は支えきれず敗走します。

その行く手を遮ったのは
あらかじめ仕掛けられていた柵と

上流の堰を切り落とし増水した川でした。

逃げ場を失い
川に飛び込んだ者の多くが溺れ

徳川軍は手痛い敗北を喫します。

昌幸の長男 信之が
家臣に宛てた手紙には

徳川方の犠牲者の数 1, 300人余り。

更に家康の旗本衆の一人
大久保忠教が書いた「三河物語」には

徳川方の兵隊の様子が
こう書かれています。

想像以上の敗北に
家康は上田城攻略を諦め

兵を引き揚げたのです。

この経験が15年後 昌幸に

秀忠軍を相手に上田城で戦うことを
決断させたのでした。

とはいえ 今度負ければ
一度目の勝利は水泡に帰し

逆に 二度目も勝つことができれば
まぐれではないことを証明できる

重要な一戦でした。

必勝を期した昌幸は
こんなお触れを出したと

史料に記されています。

自分の土地を守るため戦い
手柄をあげた者には

身分に関係なく土地を与えると
約束したのです。

これに多くの領民が応じました。

徳川軍3万8千に対して
自分たちの土地を守ろうと立ち上がった

領民 真田兵 合わせて3千の
攻防戦が始まります。

作戦は前回と同じ
敗走するふりをして城に引き寄せ

反撃するというものでした。

農民たちは 熱湯のかゆをつくり
徳川方に浴びせかけるなど

一丸となって戦います。

「上田軍記」には こう書かれています。

「百姓風情の者なれど

秀忠公の侍を追い払う」。

結局 9月11日になっても

上田城を落とすことができなかった秀忠は
城攻めを諦め 関ヶ原に向かいます。

しかし 上田に足止めされたことが響き

秀忠は 関ヶ原の戦いに
間に合いませんでした。

結果的に東軍が勝ったため
家康の叱責で済みましたが

歴史を変えたかもしれないほどの
大失態でした。

この二度にわたる勝利によって
昌幸は 真田の強さをアピール。

以後 世間は昌幸の真田ブランドを
認めるようになったのです。

あの徳川家に 二度にわたって勝つって
ほかにいるんですか?

いや ないですね。 真田しかないでしょう。

そこが 確固たる地位を築きましたよね
真田家。 これはもう すごい。

でもね 先生
とはいえ 家康は秀忠抜きでも

関ヶ原の戦いに…。        勝ってますね。
勝ってますよね。

普通には これ皆さん 大体
秀忠がいなくても勝ったじゃないって

言っちゃいますよね。
確かに勝ったことは勝ったんだけど

家康にとっては全くの誤算なんです 実は。
なぜかというと

3万8千の秀忠本隊が来てれば
それこそ豊臣恩顧の大名たちね…

例えば 黒田長政だとか福島正則 細川忠興
そういった人たちの活躍なしでも

勝てたの。 だけど
秀忠本隊3万8千がいなかったから…

そうなると そのあと
彼らに いわゆる加増ですよ。

恩賞として 論功行賞で
たくさん与えなきゃいけない。

秀忠が来てれば
自分たちだけで勝ってれば

彼らを そんな優遇しなくても済んだ。
自分の家臣たちを 恩賞たくさん与えて

盤石な徳川のあれができたはず。
なるほど なるほど。

家康の統治の計画に影響が出たって…。
狂いが出た。

だから外様大名が いっぱい残っちゃった。
これはもう誤算です 全く。

ふ~ん。 山口さんは
この知恵「二度成功をおさめろ」

これ どうご覧になりました?

やっぱり 企業と戦争って…

戦争とか戦って
全然違うと思うんですけれども

企業の中でも 工場と
私たちへの信頼関係っていう意味でも

一回のオーダーとか 一回の契約で
終わってしまう人たちって

やっぱり たくさんいて
特に途上国とのやり取りだと

一回来た ハッピーっていって…

継続するっていうのは全然違うフェーズで
やっぱり そのスポットというか

一点の発注で終わっちゃうこと
あるんですけど

やっぱり本当に それを売り切って
また返ってきたとか

また発注くれたとかっていう
何か そういう積み重ねが

すごく大事なんじゃないかな
というふうに思ってたので

やっぱり 複数回
きちんと結果を出すことっていうのは

すごく通じる部分あるかなと思いました。

売れるっていうのの価値観というか
こういうものが売れるだろうというのが

バングラデシュの人と共有するのも
難しそうですよね。

すごく最初は難しかった。 何か やっぱり
同じ言葉… ベンガル語なんですけど

同じ言葉話してても
いいものって言っても 全然違くって

向こうで びっくりしたのは
やっぱり いいものって イコール

よくコピーをつくる。
中国で出来るものをコピーして

ちょっとでも安いものをつくる
っていうのが 何か全体のゴールに

勘違いしていらっしゃる方も
たくさんいるから 何か私にとっては

そこよりも さっきのジュートが
個性なんじゃないとか

みんなだけのいいものが
あるんじゃないっていう

キャッチボールをしてたんだけど
でも やっぱり

「えっ 何言ってるの?」っていう。
何か分かる気がする。

だって「えっ これ? これが
どうやって?」みたいなね 気持ちに。

だから現地のみんなも 自分たちが
そこのブランドという舞台に立てる

というのは
思ってもみない提案だったから。

でも できるんじゃないかなっていう
ところから始めました。         へえ~。

ただ売れるだけじゃなくて ブランド的に
高くとかね 売れるだけじゃなくて

現地の人も幸せになるぐらい
いいものをっていうことを

つくり続けるっていうのには
何か自分の中で秘けつというか

こうしたらっていうのは
あったんですか?

やっぱり私は すごく…

俺は職人として技術に誇りがある
自信を持ってるっていう人たちが

少しずつ入るように
なってきたんですよね。

そこがゴールだよって いっつも言ってて。

じゃあ 職人さんとして
プライド持ってる人に

ちゃんと その言葉が響いた。
そうですね はい。 最初のきっかけは…。

できるようになったら
世界に あなたの技術は通用するよって

じゃあ 語りかけて?
まあ 言い続けましたね それは。

その哲学っていうのは すごいね。
なるほどね。

でもね 今度は商品をつくるという
戦いが終わりますと

今度は売るっていうね 戦いの現場に
移っていくのかなと思うんですけれども

どうなんですか?
バングラデシュ製っていうものは

最初は どういう反応だったんですか?
最初に言われたのは

「バングラデシュは どこですか?」とか
「ジュートって何ですか?」とか

まあ その中には
メード イン バングラデシュって

きちんと刻印してあったんですけど
それ ちょっとイメージ悪いから

取った方がいいよっていう方も
何件かいたんですけれども

でも やっぱり それ以上に
「何か このチャレンジ面白いね」って

言って下さる方の方が
圧倒的に多かった気がして

励まされながら やってきましたけど。

そうか。 まあね
イメージ悪いって思っちゃうのも…。

まあ 一般的にはそうでしょうね。
でも哲学としては

絶対そこは譲れないですよね。
そうなんです 絶対…。

何のために私 やってんだって話ですよね。
そうなんです はい。

そうですよね。
そこがブレなかったっていうね。

はい うん。
ブランドを高めていくといえば

徳川に 二度勝つことで
世にブランドをね

真田ブランドを
知らしめたわけなんですけれども

それを更に高めたのが 昌幸の次男
信繁だったということなんですよね。

上田合戦で二度にわたり徳川軍を破り

広く世に知られるようになった…

ところが信繁にとって不幸だったのは

その時の大将は 父の昌幸。

信繁は戦いに参加し活躍しましたが

世間からは 昌幸の次男という評価しか
されなかったことです。

その上 関ヶ原の戦いは西軍の敗北。

昌幸 信繁親子は 今の和歌山県にある
九度山に蟄居させられ

厳しい生活を余儀なくされます。

そうした中 昌幸は

徳川と豊臣が戦う日が
いずれ来ると考え

その時こそ 再び真田の名をとどろかせる
チャンスだと待ち続けます。

しかし 11年たっても その日は来ず

65歳で 生涯の幕を閉じます。

昌幸が死ぬと
九度山についてきていた家臣たちが

次々に信州へ帰り 真田の名は
過去のものとなってしまいました。

そして 九度山の生活が14年目を迎えた
慶長19年 待ち続けた日が来ます。

家康が豊臣家を滅ぼすための戦を
仕掛けたのです。

信繁のもとに豊臣秀頼からの使者が送られ
出馬を要請されます。

快諾した信繁に
秀頼から与えられた兵は5千。

長宗我部盛親 後藤正親らと共に

五人衆と呼ばれるほどの高待遇でした。

しかし 作戦会議の席上で
突きつけられたのは

父 昌幸がつくった真田ブランドが
自分のものではないという現実でした。

信繁が生前の父と共に練り上げた作戦…

という積極策を主張しても

秀頼の側近である大野治長などから

天下の名城を出て戦うは愚策と
相手にされないのです。

実は この状況を
父の昌幸は言い当てていました。

結局 会議は籠城に決定。

信繁に許されたのは
大坂城の南に出城をつくり

そこで戦うことでした。

そして信繁がつくったのが…

従来の説では
その形は大坂城を背にした半円形で

三方から敵に対処する
防御用につくられた

とりでだったと考えられていました。

ところが 2016年7月。

松江歴史館で それまでの真田丸の
イメージを変える史料が発見されました。

今までは ここの部分が
大坂城 ちょうど この絵図の

北側のとこなんですけど
くっついてるっていうふうに

イメージしてたんですが
実は これ実際の地形で測ってみると…

それを隔てた外側にありますから
今までのように

付属施設としての真田丸っていう
イメージではなくって

完全に独立したお城としての真田丸
っていうふうに考えるべきだ

ということが分かってきました。

その説によれば 目的も

単に大坂城の弱点をカバーするだけでは
なかったといいます。

というのも 大坂城の弱点は

川などの天然の要害のない
南西なのですが

真田丸がつくられたのは南東。

大坂城とは
200メートルの谷で分離されているため

徳川方から攻撃されても
支援が得られない場所。

信繁は あえて そこに出城を築き
敵に攻撃させることで

弱点の南西から
目を背けさせようとしたのです。

この捨て身の作戦は
信繁が父 昌幸を超えようとした

一か八かの勝負。

決死の作戦だったのではないか
といいます。

信繁自身は 昌幸から いろんなことを
学んだというふうに思いますし

自分自身にも お父さんと同じように

あるいは お父さんを超える
そういった戦略家であって

実際の指揮をしたら
できるんだっていう

そういう思いは
強くあったと思いますので

そういった思いっていうのが…

お父さんを超えていきたいっていう
そういう思いは

きっとあったんじゃないかな
っていうふうに思います。

信繁の思惑どおり
徳川方は 孤立した真田丸に攻撃を集中。

信繁も真田の家名を再びとどろかせるのは
この時ばかりと奮闘。

徳川方は多くの死傷者を出し 攻撃を中止。

信繁は 大坂冬の陣
最大の戦いと呼ばれる戦に勝利します。

これにより
負けた徳川方の将兵はもちろん

それまで信繁の実力を疑問視していた
大坂方の人間も

父 昌幸以上ではないかと評判を呼び…

信繁の活躍で有利に戦いを進めていた
大坂方でしたが

家康が放った砲弾が天守閣の一部を破壊。

恐れをなした淀殿が
外堀を埋めるという条件で和睦を結ぶと

戦況が一変します。

堀を埋められ 真田丸も取り壊され

裸城同然となった大坂城。

慶長20年5月
家康が戦いを仕掛けてきます。

もはや勝ち目のない戦。

実は 信繁のもとには

徳川方から
信濃一国を与えるので寝返りしないか

という打診が来ていました。

しかし 信繁は これをきっぱりと拒否。

信繁が上田の親族に送った
最後の手紙に こう書いています。

今更 徳川の家臣となり
生き延びることより

武名をとどろかせて
華々しく散ることを選んだのでした。

最期の日となる 慶長20年5月7日。

信繁は 大坂城の南
およそ6キロのところにある茶臼山に

陣を構えます。

その様子が史料に こう書かれています。

「茶臼山には真田が赤備

つつじの花 盛りに開くが如し」。

赤の甲冑に身を包んだ真田軍が

午後1時過ぎ
徳川家康の本陣を目指して突撃を敢行。

狙うは 家康の首ただ一つ。

信繁自らが刀を振るい
幾重にも守られた徳川軍を蹴散らします。

決死の真田軍の前に
家康の本陣が二度突き崩され

死を覚悟した家康が
腹を切ろうとしたともいわれています。

しかし 三度目の突撃で
信繁も ついに力尽き

真田軍は全滅します。

ところが この戦いぶりが
真田ブランドを不動のものにしました。

他藩の記録には
「古今なき大手柄」

「真田日本一の兵」と記され

更に江戸時代中期 平和な時代が訪れ

武士の忠君に脚光が当たると

秀頼に殉じた
真田信繁の忠義が見直されるようになり

以後 真田の名は
現在に続く人気ブランドになったのです。

ということなんですね。
もう この最後のところの話は

聞くたんびに もう聞いただけで
ウルウルしちゃいますよね。

何か あまりにも
ドラマ以上にドラマチックというかね。

何か でも私は 感動したのは

自分も一緒に戦ってるっていう
タイプなんでしょうね きっと。

だから みんなもついてくるというか。

そしてね 真田丸ですけれども
先生 真田丸の構造っていうのは

どういうものなんですか?
特別な構造なんですかね?

本当に今までは
単に大坂城の総構えの外に

ちょっと出っ張って つくってた
出丸みたいな感じだった。

それが最近の史料発見で
いや むしろ もっと独立した

出城ですね いわゆるね
そういった形で位置づけられて

そこを まあ 真田信繁の方が挑発して
そこを攻めさせて

そこで… あの時の大坂冬の陣での
戦場での戦死者が一番出たのは

あの真田丸の攻防戦ですからね。

でも 信繁は
最初 この作戦が採用されないのとかね

それは やっぱり信繁自身の 個人の実績が
ないからっていうことなんですか?

そうですね。 やっぱり多くの人は
二度の上田城攻防戦は

あくまで お父さん
昌幸の方が主になって戦ってますから

信繁の存在っていうのは そんなに皆さん
注目してなかったと思うんですけどね。

やっぱり 評価をものにするためには
命懸けるしかないというか。

実際の戦いで
相手に打撃を与えなければっていうね

やっぱり そういう思いが
強かったでしょうね。

そういうリスク冒してでもって…
二代目の悲哀はないと思うんですが

自分が開拓者ですからね。
はい。

でも やっぱり リスク冒さないと
何か分かってもらえないみたいなのは?

やっぱ 最初ね…
最初の一歩っていうのは

いろんなリスクがあるんだろうな
というのを感じましたけど。

日本から来て 何だか
「どうせ バングラデシュのこと

分からないだろう」とか言う人とかも
最初はいそうですよね。

やっぱり 向かい風は
いっぱいありますけどね。

何か それ最初 言いだしっぺになるか
ならないかっていうの ありますよね。

もう美学としてありますよね 人生の。

人生のね。 本当にね。

山口さんは バッグづくりの中で
そのバングラデシュで

何て言うんですかね
せっかく成功したのに

また振り出しに戻ってしまった
っていうような経験っていうのは?

はい たくさんあります。
たくさんですか。

やっぱり最初は誰が信頼できるのかなとか
異国の地なので分からないので

何か バッグの検品 品質を見る
チェックすることとかやってる最中に

日本のパスポートがなくなっちゃったとか
っていう事件があったりとか

約束してた工場 行ってみたら
何もなかったとか

いろんな 何か当たり前じゃないことが
普通に起きるなっていう。

最初は そんなことばっかりでした。
ちょっと みんなが

ちょっと信用できなくなっちゃうみたいな
気持ちになる時もありますよね。

もう結構 落ち込んじゃったりとか。
そもそも この夢は果てしなくって

やらない方が きっと自分も幸せだって
思う時もあったんですけど

でも やっぱり根底には さっきの哲学で
何のために ここにいるの私って

いっつも日記に書いてました。
どうして ここに来たの私っていう。

朝の散歩したりとかして 本当に…

そうしたら やっぱり
ここの地域は駄目だったけど

ここだったら どうかなとか。
まだ できることがあるんじゃないか…。

やっぱり みんなが
この国はリスクがあるとか

この国は政情不安だとかって言って
あるいは賃金高くなったとか

いろんな理由で国から去る人たちが
いるんだけど

私 それを目指して
ここに来たわけじゃないけどって

やっぱり ずっと思ってて。

かっこいい。 えっ じゃあ 例えば

今日の話で言うと 信繁が
せっかく 徳川の方についたらってね。

だって もう明らかに
そんな戦略家だったら

これ もう駄目だなって
分かるじゃないですか

堀も埋められちゃったりとか。
ここで多分 自分は最期になるって

きっと分かってますよね? あれ。
でも行かない気持ちも ちょっと分かる?

全然 次元は違うけれども分かります。
ちょっとしたことがあって

ジュートを
私は さっきの扱っていたんだけど

起業して本当にボロボロの時に
ある家具屋さんから

そのジュートの生地だけ輸入させて
くれないかって言われたんですね。

でも やっぱ 私の哲学としては
それを ちゃんと縫製して

バッグにするっていうことに
付加価値を生み出すことに

何かビジョンがあったんですよね。
だから その布を渡したら

ビジネスとしては
すごく量が大きい話で

簡単じゃないですか ただ送るだけだから。
でも やっぱり

それは お断りした自分っていうのは
何か よかったかなっていうのは

今 思ってるんですよ。
信繁に通ずるのがありますね 何かね。

全然 次元が違いますけど。
へえ~。

どうなんですか
そういった山口さんの活動を見て

後に続こうなんていう企業も
出てきたりしてるんですか?

今 バングラデシュ すごくたくさんの
日系企業さんも含めて

工場 だんだん出来ています。
でも やっぱり

メード イン バングラデシュっていうのを
個性にやっていこう

ということっていうのは まだまだ
ちょっと少ないかなと思うんですけど

でも やっぱり生産拠点の一つとして

すごく立派な広報になってるっていう
実感はあります。

あれだけの苦しい思いをしたかいがあった
っていうか何て言うかね。

今 振り返ると どうですか?
あの時?

う~ん やっぱり
もう一回は やれないなって思うけど。

(笑い声)

でも これからは
これから先のアジアの発展とともに

みたいなイメージが
また膨らんでるんですよね?

いろんな国で職人さんいるだろうし
っていうふうに夢を描いてます はい。

山口さんが考える ブランドをつくりだす
極意っていうのは 何なんですかね?

私は やっぱり
哲学じゃないかなと思います。

個人の持ってる…

一番根底にあるものかなと思います。

最初は個人が持ってる主観なんですね?

私は そこが大事だと思う。

強い個人の思い?
うん。 原体験とか

そういうところから生まれるもの。
あ~。

いろんなお話が聞けましたけれどもね
皆さん そろそろ…

もう終電とか大丈夫?
いや まだ親子丼 食べてないです。

あっ 親子丼ですか?       ええ。
あっ ああ… 親子丼…。

よく覚えてましたね? 皆さんね。
後ろに さんさんと輝いてるし。

そうだ! また来て下さったら
その時は もう腕振るいますよ。

また…。   じゃあ また来なきゃいけない。
そういうことですね。

是非 皆さん連れ添って
来て頂ければと思いますので。

はい 分かりました。 ふに落ちないな。
なんとか…。

今日は ご来店ありがとうございました。
(3人)ありがとうございました。


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