歴史秘話ヒストリア「巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥古市古墳群」なぜこれほど巨大なのか?巨大古墳誕生の謎に…


出典:『歴史秘話ヒストリア「巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥古市古墳群」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥古市古墳群」[解][字]


世界遺産への登録が確実視される大阪の百舌鳥・古市古墳群。最大の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)の全長は1キロをこえる。なぜこれほど巨大なのか?巨大古墳誕生の謎に迫る。


詳細情報

番組内容

世界遺産への登録が確実視される大阪の百舌鳥・古市古墳群。全長1キロに及ぶ大山古墳(仁徳天皇陵古墳)は天皇家の祖先の墓として立ち入りが禁じられてきた。昨年初めて宮内庁と地元の考古学者による合同学術調査が行われ、全体が敷石に覆われ3万本の埴輪が並ぶ壮大な人工空間であることが明らかになった。巨大古墳誕生の背景にあった、古代日本を取り巻く緊迫の東アジア情勢。その中で「天下統一」をはかる大王たちの戦略とは。

出演者

【キャスター】渡邊佐和子




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歴史秘話ヒストリア「巨大古墳誕生 世界遺産目前!百舌鳥古市
  1. 古墳
  2. 前方後円墳
  3. ヤマト政権
  4. 巨大
  5. 古市古墳群
  6. 百済
  7. 円筒埴輪
  8. 高句麗
  9. 世紀
  10. 大山古墳
  11. 時代
  12. 百舌鳥
  13. ルーツ
  14. 大阪平野
  15. 日本
  16. 弥生時代
  17. 宮川
  18. 豪族
  19. 全国
  20. 大阪


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>>場合によっては消すこともで
きるということですよね。

>>ありがとうございました。

「歴史秘話ヒストリア」
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今日のテーマは とっても大きいもの。

ということで まずは…

空から ご紹介しましょう。

飛び始めて 5分もたたないうちに
ご覧下さい。

ところどころに
古墳が見えてまいりました。

大小 さまざまな
小さな丘のように見えます。

今日のテーマは 「巨大古墳」。

大阪平野に広がる

「百舌鳥・古市古墳群」が

間もなく
世界遺産に登録されることが

確実視されています。

皆さん ご覧下さい。
ついに来ました 「大山古墳」です。

丸と台形を合わせたような

くっきりとした姿が 浮かび上がりました。

こう 民家と比べてみると
本当に すごい存在感ですね。

いや~ ほれぼれします。

それにしても なぜ これほど
巨大で不思議な形をした古墳を

造る必要があったのでしょうか。

♬~

百舌鳥・古市古墳群は

大王の墓である 巨大古墳を中心に

90ほどの古墳から成ります。

1, 600年前に造られました。

なかでも最大の 大山古墳は

外堀を含めた長さが
1キロにも及びます。

下から見ると
まるで 大きな森のよう。

初めての合同調査で
浮かび上がった

巨大古墳 完成当時の姿と
そこに込められた思いに迫ります。

それにしても どうして墓を
こんなに大きく造ったのでしょうか。

鍵を握るのは 古代日本を取り巻く
緊迫した東アジア情勢でした。

危機に直面した ヤマト政権が
古墳に託した戦略とは?

現在 日本にある前方後円墳の数は

東北から九州まで なんと 4, 000以上。

何百キロも離れているのに

同じ設計図から
造られたかのような

古墳もあります。

そこから浮かび上がるのは

古墳で 「天下統一」を図る
大王たちの 驚きの戦略でした。

巨大古墳にまつわる さまざまな謎から

日本列島
その夜明けの時代に迫ります。

♬~

大阪・中之島にある…

貴賓室として使われてきた
特別な部屋に入ると…。

こちらが
仁徳天皇を描いた絵画になります。

仁徳天皇はですね
難波の地に 都を初めて開いたと。

これが 大阪の町の起源というふうに
言われておりますので

大阪にとっては 非常に
切っても切れない関係にあるわけですね。

大阪の地を開いたという伝説を持つ
仁徳天皇。

その墓とも言われるのが

日本最大の古墳にして
百舌鳥・古市古墳群の王様…

ここで 歴史を
おさらいしておきましょう。

日本で稲作が盛んになった
弥生時代のあとが 古墳時代。

その始まりは 奈良盆地で

前方後円墳が
造られるようになった

3世紀です。

そして5世紀。

今度は 大阪平野で

巨大な前方後円墳が
造られるようになります。

海に近く 大山古墳がある
「百舌鳥古墳群」と

内陸の「古市古墳群」。

合わせて
「百舌鳥・古市古墳群」です。

中国の歴史書に記された
倭の五人の王。

天皇家の祖先とも言われる
大王たちが

活躍した時代でした。

倭の五王の一人とも言われる
仁徳天皇の墓と伝えられてきた

大山古墳。

天皇家の祖先の墓として
宮内庁が 立ち入りを固く禁じたため

その実像は 謎に包まれてきました。

ちょっとすいません 失礼します。

はい ありがとうございます。

昨年秋 宮内庁と地元の考古学者による
初の合同調査が始まりました。

調査地点は
外側の堤の3か所。

溝を掘って
行われました。

調査に携わった…

まず驚いたのは 堤の上から
大量の石が出てきたことでした。

古墳の表面には 大きさの整った石が

敷き詰められていたと思われます。

調査では
更に驚くべき発見がありました。

出てきたのは
筒状の土器 円筒埴輪の一部。

隙間なく立てられていました。

これが 堤の上を
ぐるりと 取り巻いていたと推測されます。

大山古墳を飾りたてるため

その周囲に 3万本も並んでいたという
円筒埴輪。

一体 どのように作ったのでしょう。

古墳時代 円筒埴輪を制作した
工房があった場所です。

ここは
5世紀の埴輪工場を再現したものです。

発掘調査で 窯と工房が発見されて

ここで 埴輪を
粘土の塊から ひねってですね

そして乾かして 焼いて
そして 古墳の方へ運び出したと。

古墳時代 当時の方法で
円筒埴輪作りを再現してもらいました。

そこから分かったのは
「見せる」埴輪を作るための工夫です。

埴輪1本に使う粘土は およそ30キロ。

輪を積み重ねていきます。

側面に帯を入れて
縦長の造形に リズムを生み出します。

そして 帯と帯の間に
水平に模様を入れます。

丸い穴をあけて
アクセントをつけます。

高さ1mもの円筒埴輪。
最後のこだわりは 仕上げの色。

見せることを意識して作られた
赤く巨大な円筒埴輪。

大山古墳は 一面に石が敷き詰められ

円筒埴輪が周囲を巡る
巨大な人工空間でした。

そして実は 古墳を飾る円筒埴輪と
敷石のルーツを探ると

意外なことが分かります。

3世紀 人々が 前方後円墳を
造るようになった理由です。

まずは 敷石のルーツから。

島根県出雲市の「西谷墳墓群」は
四隅の出っ張りが特徴。

弥生時代の豪族の墓です。

大山古墳同様
びっしりと 石が敷き詰められています。

一方の「円筒埴輪」。

そのルーツと考えられるものが
岡山県にあります。

ストーンサークルが特徴の…

弥生時代の列島最大の墓で

この地域を支配した
豪族の墓とされます。

円筒埴輪のルーツとされる 「特殊器台」。

死者への供物を載せる台を
象徴する焼き物です。

つまり 円筒埴輪と
敷石のルーツは

古墳時代の前
弥生時代の

地方豪族の墓に
あるのです。

更に もう一つ 前方後円墳には

地方の墓にルーツを持つ
特徴があります。

「形」です。

前方後円墳の成り立ちを研究する…

弥生時代 瀬戸内地方で造られた
円い墓には

祭祀を行う出っ張りがあります。

これが 前方後円墳の形の
ルーツだというのです。

なぜ ヤマト政権は 自らの墓に…

弥生時代の後期になると

列島各地に 稲作などによって
富を蓄えた豪族が誕生します。

なかでも有力だったと思われる
ヤマト 奈良盆地の勢力が

各地の豪族たちに呼びかけ
連合政権をつくります。

その連合の証しとして
彼らの墓の特徴を組み合わせ

前方後円墳を造った。

そう考えられるというのです。

その後 5世紀にかけて

前方後円墳は
巨大化していきました。

中国の歴史書が
「倭国の王」と記す五人の王

いわゆる
「倭の五王」の時代です。

大山古墳に葬られているとされる
仁徳天皇も

倭の五王の一人であるという
説があります。

地域の勢力を統合して出来たという
ヤマト政権。

大山古墳の不思議な形や
鮮やかな装飾は

前方後円墳が 日本列島の
「統合」の象徴だったという事実を

今に伝えているのです。

私が次に訪れたのは
古墳ファン 必見の場所です。

ここで 是非 ご覧頂きたいのが

こちら。
大山古墳の精巧に出来た模型です。

もうね 直線と曲線で表現された
美しい造形物だということが分かります。

あっ 先生。
今日は よろしくお願いいたします。

どうも よく いらっしゃいました。

古墳研究の第一人者…

すごい すてきだなあと思って。

(白石)古墳は 今 うっそうとした
森になっておりましてね

造られた 本来… 当初の時代
どういうものであったかというのは

分かりませんのでね

これで 本来のですね
古墳が造られた 当初の姿を

認識して頂こうという目的に
作ってるわけですね。

人の模型がありますけれども

それと比べると この大きさというのが
よく分かりますね。

中学生の頃 親父がですね
仁徳天皇陵古墳を

中学1年生の時でしたかね
初めて 連れていってくれましてね。

で この大きな…

もちろん 堀の外からですから
周りを回っただけですけれどもね

この中 堀の中の墳丘が
どうなってるんだろうと

非常に 不思議に思った記憶が
ありますね。

でも なぜ大阪に こういった
巨大な墓が造られたんでしょうか?

これはですね やはり 当時の
東アジアの国際情勢の大きな変化ですね。

これを考えないと 解けない問題ですし

当時の国際情勢 東アジアの国際情勢の
密接な関係を持ってることは

これは もう 間違いないと思いますね。

どういうことでしょうか。

北朝鮮の首都…

かつて 「高句麗」と呼ばれた国の

都が置かれた場所です。

高句麗は 朝鮮半島北部の
騎馬民族の国。

激動の時代と言われた5世紀
強大な軍事力を誇りました。

平壌近郊にある…

2004年 世界遺産に登録されました。

古墳の中に入ると
高句麗の力の源泉が分かります。

華麗な絵が描かれた 古墳の壁。

役人の衣服は 整った政治制度が
あったことを示しています。

とりわけ驚くのは
250人もの兵士が行軍する姿。

馬にまで
甲冑を着せた

重装備の
騎馬軍団です。

これが 東アジアを
恐怖の渦に巻き込みました。

高句麗は 繰り返し南下して

百済を攻撃。

百済は
倭に援軍を求め

二国は
同盟を結びます。

実は こうした緊張状態の中で
倭が始めたことこそ

膨大な労力を必要とする
巨大古墳造りでした。

一体 なぜなのか。

倭の同盟国・百済の都があった
韓国 ソウル。

隣国なので…。

日本と朝鮮半島の古墳を比較研究する
考古学者の…

高句麗に対抗するため
百済が造ったものが残っています。

かつての都を囲む「城壁」です。

現在 ソウルでは

百済時代の城壁の発掘調査が
行われています。

そこから 規模が明らかになりました。

実に 幅43m
高さ11mという

巨大なもの。

高句麗の騎馬軍団を目前にした
百済の強い危機感を物語ります。

緊迫した状況の中で

百済が 倭に
導入を促したものがあります。

鉄剣や甲冑。

それまで 日本には ほとんどなかった
鉄の武具です。

同盟国である百済から
鉄の武具を伝えられた 倭。

その舞台こそ
半島と近畿地方を結ぶ大動脈

瀬戸内海に面した 大阪平野でした。

大阪平野は 3世紀に
前方後円墳が生まれた奈良に代わり

5世紀 ヤマト政権の

新たな勢力基盤となります。

実際 奈良の古墳の出土品が
祭祀用のものが多いのに対し

百舌鳥・古市古墳群では

鉄の品へ一変します。

最先端技術を取り入れ

軍事力を強化する

倭の五王の姿が 浮かび上がります。

軍事力を高めた ヤマト政権は
同盟国・百済に 援軍を送りました。

しかし 百済は苦戦を強いられます。

ソウルから南に 100キロ。
公州です。

倭の援軍を得て戦ったものの
都を高句麗に奪われた 百済。

この地を拠点とし
堅固な城を築きました。

更に 禹さんは
百済が 城を造った理由と

ヤマト政権が 巨大な古墳を造った理由は
同じだと考えています。

当時 国際港だった大阪湾には
朝鮮半島の人々も 頻繁に訪れました。

そして 巨大な古墳を
目の当たりにします。

その情報は 高句麗にも伝わります。

古墳の途方もない大きさから

高句麗は 背後に
倭の強大な軍事力を感じ取り

攻撃を
思いとどまったのではないか。

当時 大阪平野の海岸線は
現在よりも 内陸に入り込んでいました。

大阪湾に臨む高台に造られた

百舌鳥古墳群は

海上から 最も雄大な姿を見せるように

設計されています。

更に もう一つの中心地
奈良に向かって川を進むと

古市古墳群が 威容を現します。

5世紀 大阪平野に突如現れた
巨大古墳群。

それは 激動の時代
倭の大王たちが 国の命運を託した

巨大な防衛装置だったのです。

♬~

私がやって来たのは
近鉄 土師ノ里駅です。

この「土師」というのは

古墳や埴輪をつくる技術者集団
土師氏に由来しているんです。

その土師氏ゆかりの神社が こちら。

はじめまして。
渡邊佐和子と申します。

こんにちは。
今日は ようこそ お越し下さいました。

よろしくお願いします。

渡邊さんは 古墳ファンだと
お聞きしておりますので

是非 お見せしたいものがありますので
こちらに どうぞ。

境内の奥に 思いがけないものが!

これは また 大きなものが!
(南坊城)そうですね。

こちらが シュラになります。
シュラ?

「修羅」は 長さ8mにも及ぶ
古代以来の運搬具。

古墳に納める石の棺などを
運んだと言われます。

300人ぐらいで引っ張ったって
言われてます。

やはり
最後の石棺を納めるわけですから

大切なものを運ぶ
そのための運搬具ですから

人数をかけて運んだと言われてます。

古墳も巨大ですし
この運ぶ石 石棺も巨大で

道具も やはり これだけ大きいものだった
ということなんですね。

全て使ってたのは 土師氏です。
土師氏は 今で言うとゼネコンですね。

古墳の
総合プロデューサーといった感じです。

全国に 今 4, 000基を超える
前方後円墳がありますから

そういったものを つくり出したのが
土師氏ということになります。

日本列島各地に 数千も造られたという
前方後円墳。

しかし なぜ そんなに
たくさんの前方後円墳を

造る必要があったのでしょう?

百舌鳥・古市古墳群から
北東に 700キロ。

岩手県奥州市です。

ここに 地元で 「一本杉」と呼ばれる
小さな丘があります。

もしかして…。

はい。 こちらが「角塚古墳」になります。

杉の生えている方が
後円部。

こちらの手前が 前方部になります。

大山古墳が造られた 5世紀。

全国の前方後円墳の数は
数千にも及んでいました。

実は これほど たくさん造られたのには
理由があります。

大阪・堺市の歯科医…

実は 古墳の形態研究の第一人者です。

古墳の形を詳細に調べた結果

大阪平野の古墳と 地方の古墳には
深い関係があると考えています。

つまり ヤマト政権と

同盟を結んだ地域は

同じ形の古墳を造ることを
許可されます。

更に 古墳を造る技術者と設計図が
送り込まれ

その地域の力に見合った大きさの

古墳が造られます。

こうして ヤマト政権は

全国に 自らを頂点とする秩序を
つくり出していったというのです。

その実例が 百舌鳥・古市古墳群から
南西に 500キロ離れた

宮崎県の「西都原古墳群」にあります。

あちらに こんもりと小高くなった森が
見えますけれども

あちらが
九州最大の前方後円墳である

「女狭穂塚古墳」になります。

墳丘の長さ 176m。
九州最大の前方後円墳です。

仲津山古墳は
古市古墳群にある前方後円墳。

墳丘の長さは 290m。

全国で 9番目の大きさを誇ります。

ヤマト政権の「仲津山古墳」と

宮崎の「女狭穂塚古墳」。

縮尺を合わせると ピタリと一致します。

高度な土木技術が伝わったことを
物語ります。

では ヤマト政権は
どうして この地域に

前方後円墳を造ることを許可したのか。

その理由が分かるのが…

長さ1mを超す
大型の船形埴輪です。

九州南部の豪族と
前方後円墳を介して結び付いた ヤマト政権。

大陸への使者の派遣や
朝鮮半島との交易に必要な

高い航海技術を
手に入れたと考えられています。

ヤマト政権が 協力関係を持とうとした
地域は 全国に及びます。

群馬県の「八幡塚古墳」は
墳丘の長さ 102m。

火山の噴火で埋まっていた
前方後円墳が 復元されています。

発掘に携わった…

ヤマト政権は この地にも
重要な役割を求めたと考えています。

弥生時代には 日本にいなかった馬。

高句麗の騎馬軍団の威力を
感じた ヤマト政権が

朝鮮半島から導入。

生産を急ぎました。

(若狭)ヤマト王権がですね 馬の生産を

広い大地がある
東国の豪族に委任をしています。

こちらでつくって それをヤマトに送る
ということをしていたんですね。

各地に 古墳を造ることで
さまざまなものを手に入れた ヤマト政権。

実は もう一つ
全国に 古墳を造った理由があります。

現在 日本中に残る前方後円墳の多くは

川や海を使った
交通の要衝にあります。

ヤマト政権は 古墳を

各地を結ぶ 交易ネットワークの
「シンボル」にしたと考えられるのです。

こうした古墳の在り方は

朝鮮半島の古墳文化と
対照的だといいます。

かつて 新羅の都があった
韓国 慶州。

半島最大級の
古墳群があります。

王の墓からは
膨大な量の埋葬品が出土しています。

権力の象徴 鉄。

絢爛豪華な金の冠。

ペルシャから はるばる運ばれた
ガラスの器。

葬られた人への崇拝を重視する
半島の古墳に対し

日本では
数の広がりが重要だったといいます。

形を共有することで

日本列島の人々が
共通の意識を持つきっかけとなった

「古墳」。

ヤマト政権が生んだ
この独特なシステムは

最新技術の伝播や

交通網の整備を促し

その後 日本という国や その文化の

礎となったのです。

百舌鳥・古市古墳群では
今も 発掘調査が行われています。

そこに 必ず姿を現すのが
地元 堺市の歯科医…

戦後 古墳群が経験した
激動の時代の生き証人です。

宮川さんが 古墳の魅力に目覚めたのは
70年前。

考古学好きの仲間たちと
グループを作り

古墳の研究を始めました。

しかし戦後は 古墳を
大きな危機が襲った時代でした。

天皇や皇族の墓である

「陵墓」の指定を受けた古墳は

保護されましたが

それ以外の古墳は
宅地開発などのため

次々と壊されていたのです。

「私たち郷土の誇りを守りましょう」。

1955年 大学生になった
宮川さんは

仲間と 古墳を守る運動を
始めました。

宮川さんが 保存のために奔走した…

なぜか コンクリートの橋が
架けられています。

(宮川)橋が出来ますとね
こっから ダンプカーが 中 入る。

「池に囲まれた住宅地」という格好で
売り出すような計画だったみたいですね。

宮川さんたちの運動は
やがて 市民を巻き込み

大きな流れとなります。

そして 1956年
いたすけ古墳は 国の史跡に指定され

守られることになりました。

オバケとか怖がるので

おうちの裏には
神様がおる古墳があるから

大丈夫よっていうので。 フフフッ。

いたすけ!
いたすけ。

(取材者)いたすけ古墳。
よく遊びに来るの?

(子供たち)うん!

(取材者)誰が入ってるんだろうね。

う~ん… いたすけさん?

(笑い声)

(シャッター音)

タヌキが お出迎え。

工事用の橋を あえて残そうと
提案したのは 宮川さんでした。

♬~

大都会の真ん中に
奇跡的に残された 巨大古墳群。

1, 600年前 日本列島の夜明けの記憶を
伝えています。

♬~


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