先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は…


出典:『先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」[解][字]


徳川家康・秀忠・家光の3代将軍は、代替わりの度に江戸城天守を3度建て替えた。なぜなのか?それぞれの将軍が天守にこめた思いを2回シリーズで探る。今回は家康の天守。


詳細情報

番組内容

関ケ原の戦いに勝利し、将軍となった家康が満を持して建てた、江戸城と天守には、どんな狙いがあったのか?2年前に公表された「江戸始図」によって、江戸城と天守の新たな実像が分かってきた。それは連立式天守など、さまざまな仕掛けと工夫がなされた史上最強の軍事要塞だった。家康は江戸城を、加藤、福島、毛利など、主に豊臣恩顧の大名たちに命じて造らせた。そこには、後の豊臣秀頼を倒す戦いをにらんだ家康の戦略があった!

出演者

【出演】奈良大学教授…千田嘉博,ファッションデザイナー…山本寛斎,和田彩花,【司会】新井秀和




『先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康の
  1. 家康
  2. 江戸城
  3. 大名
  4. 天守
  5. 石垣
  6. 大坂城
  7. お城
  8. 自分
  9. 天下普請
  10. 競争
  11. 当時
  12. シンボル
  13. 惣構
  14. 屋根
  15. 最強
  16. 知恵
  17. イベント
  18. 意味
  19. 寛斎
  20. 秀吉


『先人たちの底力 知恵泉「徳川三代の天守(前編)創業者 家康のシンボル」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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自分のアイデンティティーを表現する。

シンボルには こだわりたいですね。

う~ん… あっ でも
何か いいかもしれないな これ。

それ 何ですか?
これですか?    はい。

分かります? これ。

う~ん…。
ちょっと分かりにくいですよね。

お店の入り口ですよね。
そうなんですよ。

いや 私 この店の
四代目の店主なんですけど

何て言うか この店は
私にとっての城なんですよね。     お城。

もっと 自分らしさ 自分の城らしさを
出せたらなと思って

これ シンボルにしようかと思ったんです。

あ~…。
どうですか?

まあ 全体の雰囲気を
結構ぶち壊すデザインかなと思いますね。

ぶち壊す?
はい。 いきなり やっぱ 顔がついてると

ちょっと 入る時にびっくりするかなって
思いますけど どうですか?

そうですね…。
あっ 先生。 どうぞ どうぞ。

いいですか?
お待たせしちゃって。      こんばんは。

今 ちょうど
誰かに助けてほしかったんです。

ようやく見つけて やって参りました。
ちょっと 分かりにくかった…?

ちょっと なかなかね
道 入り組んでますね ここね。

そうなんですよ どうぞ どうぞ。
歴史が熱く語れるお店っていうので。

お待ちしておりました。
こんばんは。 ありがとうございます。

城郭がご専門の千田嘉博先生なんです。
こんばんは。

千田です。 よろしくお願いいたします。
和田彩花です。 よろしくお願いします。

いや~ でも 先生も
分かりにくかったってね

言ってましたけれども。

これ そういう意味でも
いいと思いません?

それも いい案だと思うんですけど

そういう時にですね 参考にして頂ける
いい歴史的なものがあるんですよ。

それが 江戸城なんです。
江戸城。

今日は その辺のお話
じっくりと伺ってまいりましょうか。

よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。

東京の中心を占める皇居。

天皇の住まいになったのは
およそ150年前のことです。

その前は
徳川将軍家のお城 江戸城でした。

この石の台の上に 天守がないから
ピンと来ないんですよね。

およそ400年前
徳川家康が江戸城を築いた時には

立派な天守が立っていました。

5層から成り
高さ 22間5尺 およそ48メートル。

天守台の高さ 10間と合わせると
68メートル。

20階建てのビルに相当する
巨大な建造物でした。

外観は 真っ白で

富士山と並んで雪山のようだと

江戸の人々から褒めそやされたと
伝えられます。

ところが その美しかった天守は
僅か16年で その姿を消しました。

なんと 家康の息子
2代将軍 秀忠によって

取り壊されたのです。

秀忠は 新しい天守を建てました。

同じく5層から成り 22間5尺。

天守台の史料は 見つかっていませんが

初代と ほぼ同じ高さだったと
考えられています。

神君 家康の天守を壊してまで建てられた
2代天守でしたが

これが また短命。

僅か14年で姿を消してしまいます。

今度は 秀忠の息子 3代将軍 家光が
建て替えてしまったからです。

3代目の天守も 同じく5層でした。

天守台が少し低くなり 高さ63メートル。

壁の色が黒に変わるなど

見た目の雰囲気が かなり変わりました。

徳川三代
なぜ それぞれの天守を建てたのか。

そのねらいと知恵を
2回にわたって探っていきます。

今回は 徳川家康の
初代天守に迫ります。

江戸城の知恵を読み解くのは…

1971年 ロンドンで

日本人として初めて
ファッションショーを開催し

世界のステージに登場。

その作品は デビッド・ボウイなど
スーパースターにこぞって取り上げられ

一躍 時代のシンボルに
なりました。

山本さんの活躍は
ファッションだけにとどまりません。

数々のイベントをプロデュースして
世界に熱狂の渦を広げています。

時代を見据え メッセージを発信し続ける
熱血魂 山本さんの目に

徳川三代のシンボルは
どう映るのでしょうか。

お~い。
あっ こんばんは。

こんばんは。
お待ちしておりました いらっしゃいませ。

どうぞ どうぞ こちらに。
どうも こんばんは。

お願いします。
いらっしゃいませ どうぞお掛け下さい。

お待ちしておりました。
山本寛斎さんでいらっしゃいます。

よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

どうですか? 寛斎さん。

親子三代 それぞれ
天守を建てたっていうのは

そもそも ご存じでいらっしゃいました?
いえ 知りませんでした。

江戸城というと
どんなイメージがありましたかね?

この前ですね
あそこの天守の所まで入りまして

一番頭にあったのが

その門から こっち側が
全部 高層ビルですよね。

こんなにすごい
モダンの極致の建物じゃないですか。

で 片方は どっちかというと
広々とした空間ですよね。

空間として どっちが どう強いのかと
思いながら 橋を越えたんですね。

そしたら いや~ この上いった人も
この下の方 江戸時代にしても

ほぼ互角の才能っていうのが
分かったんですね。

そうですか。
空間のおさえ方が 全く互角に見えて

だから 今の人が優れてるわけでもなし

江戸時代の人が
劣ってるわけでもなしみたいな。

びっくりしっぱなしで。
へえ~。

当時の人は 丸の内の高層ビルが
あれだけ高くなるって

知らないわけですけれども

実際 建ってみて比べても

寛斎さん おっしゃるように
互角のっていうことですから

それは 当時はね すばらしいもの
だったんじゃないのかなと思いますよね。

ちょっと その辺り 今日は
読み解いていこうかと思うんですけれど

和田さんはね
アイドルとして活動されながら

実は 大学院で
美術の勉強もされていらっしゃる。

すごいじゃないですか。
…ということなんですけど

どうですか?
建築っていうものに対しては。

でも 今回は お城じゃないですか。

私は やっぱ ふだん 絵画ばっかりを
専門に見ているので

全然 触れてこなかった分野なので
結構 楽しみです。

お城 面白いですよ。
権力の象徴ではあるんですけども

やっぱり 正しい権力だっていうのを
見せようと思ってますから

やっぱり 存在を美しく作ろうっていう
そういう意識が働いてますから

やっぱり それが 今でもお城っていうのが
愛されてる理由じゃないかなと思います。

寛斎さん どうですか?

自分の生きた証しとか
権力っていうものを

巨大な建築物に表すっていう思いって。

最近分かってきたんですけどね
それに携わった人々

建築した人 設計した人
いろんな人 いらっしゃると思いますが

財源を集めた人とか
あると思うんですけど

その人たちの…

これが一番難しいことですよね。

だから お金を積んだから…

小判だから こうですかね。
(笑い声)

そう簡単にいくもんじゃなくて。

だから その辺までの気配りの…
民を どう動かしたかという

そこまで必要だったんじゃないかと
思っていますが。

今日 ちょっと その辺りのお話もね

今回のテーマでは
分かってくると思いますのでね。

家康っていうのは 江戸城を建てた時には
もう60代でありますよね。

当時で言うと かなり
人生後半というとこなんですが…

その点では 家康というのは
お城を すごく飾りたてるというのが

ちょっと遅れていたっていうですね。

そういったところを 江戸城でっていう
思いを込めて つくっていったっていう

そういう流れが
あったんじゃないかなって思います。

なるほどね。
じゃあ 一体 どうして家康が

日本一の天守を建てることに
なったのかっていうのが

ますます
気になってくるところなんですが

そこで 今夜の特別メニュー
こちらでございます。

城ですからね。
城めし。

ということで
ちょっとね イメージしてみました。

こちらです。 どうですか?

おいしそうではありますが…。
(笑い声)

よく見る白めしですね。

でも これが最強じゃないですか。
(笑い声)

そう… そうですね。
ええ。

どう最強なのか
最初の知恵 ご覧頂きましょう。

2017年 世紀の大発見がありました。

松江歴史館に眠っていた貴重な史料が
千田さんによって発見されたのです。

これまで謎に包まれていた

徳川家康によって築かれた 初代江戸城。

その詳しい姿が初めて分かってきました。

まず 注目したいのは
この部分なんですが…

石垣から城の姿を復元すると
このようになっています。

敵が侵入するためには

5つの門を
破らなければなりません。

それも ただの門ではなく
囲みになっています。

それぞれが 枡形と呼ばれる

防御を強化した形態になっているのです。

枡形とは
戦国時代末期に発達した 城門の形態です。

城の急所は 門です。

門を破られ 城内に侵入を許すと
戦いは 一気に不利になります。

そこで 枡形の囲みをつくって

侵入してきた敵を
鉄砲や弓で四方から攻撃。

門の守りを強化したのです。

攻める側にしてみれば
枡形一つでも手ごわいのに

家康が用意したのは
5つ連続させるという鉄壁の構え。

これは… 普通 諦めますよね。

次にですね 注目をして頂きたいのは
この部分ですね。

大きな四角 あるいは小さな四角が
いくつか見えますが

この一番大きいのが大天守。

こういった 少し小さめの四角が

小天守 小天守と考えられまして…。

なんと 江戸城のシンボルである天守は
1つではありませんでした。

大きな天守と
2つの小さな天守から成る

連立式だったのです。

3つの天守と その間をつなぐ渡櫓を

連動させて 守備を行うため

防御力が極めて高く

敵が城内に侵入しても
この連立天守だけで

長期にわたって戦い続けることが
可能だといわれています。

「江戸始図」により 明らかになったことは
ほかにもあります。

本丸の北に目を移すと

そこには
3つの馬出しが装備されています。

馬出しも 城門を守る仕組みの一つ。

門の前に とりでを築き 堀で守ります。

敵が城門にたどりつくには

横から回り込むしかありません。

そこに集中して攻撃をかけるのです。

更に 死角となる別の門から
部隊を送り出して

敵の背後から攻撃することができます。

この戦法を得意としていたのが武田信玄。
家康の宿敵でした。

敵方の技術も
家康は 貪欲に吸収したのです。

家康が このように

さまざまな技術を
詰め込んだ裏には

ある ねらいがありました。

天下分け目の決戦といわれた
関ケ原の戦い。

勝者となった徳川家康は

400万石という巨大な所領を持つ
日本一の大名にのし上がりました。

朝廷から
征夷大将軍を拝命し

武家の棟梁に
のし上がったのです。

しかし まだ 家康の天下取りは
完璧とは言えませんでした。

家康の強敵は 大坂城にいる豊臣秀頼。

そして 豊臣恩顧の大名たち。

関ケ原では 家康の味方について

広大な領地を得ています。

天下を取るために 秀頼との決戦に
勝たなければならない家康。

豊臣方が一丸となって
立ち向かってくるとなると

厳しい戦いが予想されます。

さあ 家康 知恵を絞って…。

秀頼に勝つための家康の戦略。
それが 江戸城だったのです。

実は 家康にとって

これが 初めての
本格的な築城でした。

三河にいた頃 家康の居城だった
岡崎城 浜松城は

石垣や天守のない
土塁や空堀だけの城でした。

江戸に移ってからも

太田道灌が1457年に築いた城を
そのまま使っていました。

そんな家康が江戸城を築く
戦略的な意味は

豊臣の大坂城を
天下人の城から蹴落とすためでした。

当時 日本一だった大坂城を
超える城を築くことによって

敵のシンボルをおとしめる大作戦。

そのために 家康が まず こだわったのは
天守の大きさ勝負でした。

大坂城の天守 42メートル。

これに対して 江戸城は 68メートル。

まずは 江戸城の完勝です。

次に家康がこだわったのは
火の攻撃に耐えられるかどうか。

大坂城は 木の柱や はりが
壁から露出しており

火がついて燃え広がる危険性があります。

これに対して 江戸城では

燃えにくい白漆喰で 屋根の軒裏まで
天守全体を覆ってあるため

火の攻撃に極めて強いのです。

ここでも 江戸城の方が優れています。

3つ目のこだわりは 耐久性です。
ポイントは 屋根の重さ。

大坂城の屋根は
土を焼いて つくった重い瓦ぶき。

対する江戸城では 鉛を使いました。
当時 最新の技術です。

今でも 鉛ぶきの屋根を見ることができる
加賀百万石 金沢城。

江戸城に遅れること およそ70年
鉛瓦が採用されたといいます。

300年以上前と変わらぬ技法で行われる
屋根の修復作業の様子です。

厚さ1.8ミリの鉛の板で
木の屋根を覆っていくのです。

鉛でふいた屋根は
土瓦に比べて 重さが3分の1ほど。

建物の耐久性が向上します。

というわけで
この勝負も江戸城が制しました。

最後の勝負は 惣構えです。

惣構えとは 堀や石垣を使って

広く 城下町まで
城内に取り込んだ城のこと。

なぜ こんなことをするのかというと…。

この惣構えには
いくつもの役割があったんですが

一つは 合戦になった時に 地域の人々が
敵の軍勢にさらされてしまいますので

みんなが避難してくる
そういった場所になるっていう。

もう一つは 例えば江戸城のように
全国の大名の軍勢が結集して

江戸城を防衛する
江戸城で戦うっていうことを考えると

お城の中心部だけでは とても…
いるところもありませんので

惣構えの中に軍勢が駐屯できる
そういったスペースを確保する。

改めて 大坂城と江戸城 それぞれの
惣構えの規模を比較してみましょう。

大坂城の惣構えの周囲は
およそ8キロメートル。

江戸城の惣構えの周囲は
およそ14キロメートルです。

惣構えの規模も
江戸城が上回りました。

こうして 江戸城は
家康のもくろみどおり

大坂城をしのぐ 最強の城になりました。

天下人にふさわしい
シンボルとなったのです。

実は 家康が江戸城建設を命じた時

一つ こだわったポイントが
あったといいます。

初代江戸城の天守が白いのは
家康の たっての希望によるもの。

ライバルの大坂城は 黒っぽい外壁に
金の装飾を入れていました。

これは 朝廷の正装にも通じる
伝統を意識したからだともいわれます。

家康は 黒とは対照的な
白をシンボルカラーとすることで

自分は 秀吉の二番煎じではなく

新しい時代の
新しい指導者だということを

天下に宣言したのではないでしょうか。

こうして誕生した
日本一大きく 日本一強い城。

それは 家康の 天下の覇者を目指す決意

そして 敵対する者への警告の
シンボルだったのです。

寛斎さん どうですか?
いろんな工夫がありましたよね。

工夫に行く前に 千田先生が
あの図面を発見されたわけですよね。

その時の驚きの様子を

どんな感じで ご覧になったのか
ちょっと お教え頂きたい。

いや~ もう 何と言うのか

突然 すごいプレゼントを
もらったような気持ちですよね。

だって もう 今まで 本当に 家康が
どんな江戸城をつくったんだろうって

ず~っと
いろいろ 想像はしてたんですけども

その謎を解き明かす絵図が
突然 何の前触れもなく

そこに ありますって出てきたので

わ~って騒ぐと 唾とか飛んで
史料を傷めちゃいますので

ハンカチ あてて…。

わ~って叫びたいんだけども
叫べないし

でも すごくうれしいっていう…
足元 ジタバタしてました。

何で 松江にあったんですか?
これはですね

松江の松平家に伝来した
絵図というふうに考えられるんですけど

実は その…

それで 江戸城の こういう詳しい絵図が
伝えられたっていうふうに考えられます。

改めて 「江戸始図」ですけれども

分かったことっていうのは
どういうことだったんですか?

一番 戦国の城のいいところというのか
戦国時代 信長 秀吉

あるいは 武田信玄だったり
上杉謙信だったりっていう

戦国のお城づくりの中で いろいろな
こういう 知恵が生み出されたものを

全て結集して まさに戦国のお城
最強のお城の考え方の

集大成として
江戸城が出来ていたっていうですね

そういうことが
絵図から見えてきたんです。

どうですか?
その… 何て言うんですかね。

それまでの他人のアイデアを取り入れて
自分のものにするっていう やり方。

それは ありえませんね。
あっ そうですか。

世界と仕事する場合は

人に影響されてっていうのは
国際的な勝負ではできませんから

オリンピックで10秒切るというのと
同じぐらいの創作が求められますんで。

それから 気になることがあったとしても
よその庭を見てというのは 本当にない。

それでも 家康は
マネしてでも つくりたかった

理由みたいなものってあるんですかね?
やっぱり 家康っていうのは

単純なマネではなくって

そういう もとのものを
更によくするっていうんですかね。

更に もっとすごいものにして 全面的に
江戸城に取り入れていってるんですね。

信玄のつくった 例えば 丸馬出しなんかも
はるかに超える形で

やっぱり 家康がつくってますから…。

最終的には
完全に彼のものになってたと思いますよ。

大体 黒かったのを
真っ白にしちゃうっていう

あの発想そのものが すごくないですかね。

色の研究家としては どう?
色の…。

美術も学ばれているということで。
天守 真っ白ですもんね。

でも やっぱり 黒いと
印象は ものすごくゴージャスだし

何か きらびやかっていう印象も
すごくあるけど

白だと そういう印象は
もっと軽々しくて…

何か スタイリッシュに
見えるなっていうのは 印象でありました。

でも 当時としては

例えば 信長の安土城も
黒っぽい外観でしたし

秀吉の大坂城も 天守っていうのは
黒っぽい外観でしたから

そういう 立派な天守っていうのは
黒いんだっていう

そういうイメージが
ずっとあったと思うんですね。

それを家康の江戸城っていうのは

本当に逆の色の 真っ白でっていうことに
決断したわけですから…。

今までの…

今の 家康の白いお城の一群から

姫路のお城っていうのは どれくらい
あとに出来たものなんですか?

実は 少し
姫路城の方が早いんですね。

ただし
その姫路城をつくる時

家康の命を受けて
つくっておりますので

そういった意味では

白いお城をつくると
どうなるかっていう

そういう実験だったのかもしれませんね。

しかも その天守が
大天守と小天守が連立するっていうのが

まさに これも
江戸城の中心部と同じですから

西国の大名が こう ずっと…

瀬戸内海 進んでいって
姫路城が見えますと

何となく
江戸城を見てる気がするみたいな

きっと ミニ江戸城みたいなところが
あったんじゃないかと思います。

へえ~。
番組で言うリハーサルですね。

そうですね。 まさに そんな感じですね。

でも そんな
リハーサルも重ねたかもしれない

江戸城なんですけれども
実は 家康のねらいは

江戸城を つくって終わり
手にすることだけではなかった

ということなんですよね。

そこには 更なる知恵があったんです。

最大 最強の城 江戸城の建設。

いくら 徳川家が
400万石のお金持ちとはいえ

痛い出費… だと思いますよね。

ところが 大丈夫。

家康は 征夷大将軍
つまり 武家の棟梁という立場なので

大名たちに命じて
公共事業をやらせることができるのです。

これを天下普請といいます。

家康からしてみれば
タダ同然で 自分の城が手に入る。

なんとも お得な話です。

大名たちは 不満があろうと
従うほかありません。

実は 家康自身
天下普請に駆り出される つらさを

身にしみて知っていました。

家康は
当時の天下人 豊臣秀吉に命じられ

伏見城の建設を手伝うことになりました。

ところが あまりに厳しい現場に
逃げ出す者が続出。

家康は 部下たちに

現場から逃げ出した者は
妻子ともども死罪にすると通達しました。

更に 驚きのひと言があります。

上方衆 つまり 秀吉の家来に
成敗されることがあっても 耐え忍べ。

当時 絶大な力を持っていた秀吉は

チャンスさえあれば
家康を潰そうと狙っていました。

その手に乗らないためには

ひたすら耐え忍ぶほか なかったのです。

でも 今 その秀吉の立場にいるのが
家康です。

自分がなめた辛酸を
大名たちに味わわせる気満々です。

江戸城のあと 行われた
名古屋城の天下普請の時。

福島正則が「これは たまらん」と
加藤清正に ぼやいたという

逸話があります。

加藤の返事は 「ならば 国に帰って
戦の準備を始められよ」という

つれないものでした。

家康の命に逆らうことは すなわち
家が滅びることを意味したのです。

しかし 家康は
大名をいじめたり 工事費を浮かせたり

せこい目的のために
天下普請を行ったのではありません。

家康の天下普請 その真の目的は何か。

ヒントとなるのが 江戸城の工事に
家康が指名した大名の顔ぶれです。

…などなど 要するに
いずれも豊臣恩顧の大名たち。

家康は 豊臣方を切り崩すために
天下普請を利用したのです。

この時 家康は まだ
豊臣家との最終決戦を残しています。

あの関ケ原の戦いの時 家康は

「これは あくまでも
石田三成という悪者退治。

決して 豊臣家との戦ではないからね」
という方便で

まんまと豊臣恩顧の大名たちを
味方につけることに成功したのですが…。

秀頼が相手となれば
この手は 通用しません。

さあ 家康 どうする?

そこで 家康は 敵対しそうな勢力に
天下普請でお金を使わせ

更に 大坂にいる秀頼と
接触させないようにしたのですが…。

なんと家康 大名たちを更に疲弊させつつ
いい仕事をさせるという

最高の方法を思いついたのです。

家康の天下普請ということで申しますと

単に この部分を…
例えば 福島正則がつくれとか

加藤清正がつくれ
っていうだけではなくて

ある一つの石垣を
非常に細かく区分して

何人もの大名が入り組んで
その一つの石垣をつくるっていう

普通に考えますと
非常に面倒くさいというのか

かえって うまくいかないのではないかと
思えるような方法をとっていました。

なぜ そんなことをしたのでしょうか。

それが 家康の巧妙な知恵だったのです。

名古屋城は 江戸城のあとに
天下普請によって つくられた城でした。

当時 石垣の建設作業を
大名たちに どう割りふったのか

記録が残っています。

これを見ると 本丸の南側だけで

9人もの大名が
請け負っているのが分かります。

家康が大名たちに強いたのは
厳しい競争でした。

「隣の藩より 早く いいものをつくろう」。

いやいや始めた作業のはずなのに

気が付けば みんな 自らの家名をかけて
仕事に頑張ってしまったのです。

家康は 江戸城でも
同じように大名たちに競争させました。

皇居のお堀の石垣には
そんな競争の跡が残っています。

石に刻まれた大名たちの刻印。

例えば これは…

そして この刻印は
加賀藩 前田家のものだと思われます。

大名たちの競争によって

今も残る 立派な石垣が
つくられたのでした。

こうして 競い合い 金を使わされ
へとへとになって

家康のために
最強の城をつくらされた大名たちは

これに刃向かうのは無理だと
すっかり戦意を喪失してしまいました。

慶長19年 翌20年。 大坂の陣。

豊臣秀頼を倒すために
家康が満を持して仕掛けた戦い。

天下普請に招集された豊臣恩顧の大名に

秀頼のために戦った者は いませんでした。

家康の用意周到な戦略の
勝利だったのです。

ちょっと 心が苦しくなりました。
でも そうしないと勝てないですもんね。

そういう時代だった。

そうですね。 やはり 家康の戦略によって
最後 豊臣家との戦いっていうのは

大坂の陣で
起きるっていうことになりましたが

逆に もともとは 豊臣に
シンパシーを感じていた諸大名たちは

おのずから
家康のもとに従うということになって

そういった意味では 多くの戦いを
防ぐこともできたということで

江戸城の果たした役割

すごい強いお城として
つくったっていうのは

実は やっぱり 大きな意味が
あったんだっていうふうに思います。

さっきのスタジオでは お話の中では

いかに美しくて最強の城をつくる
っていうところを見てきましたけれども

もう一つ 同時に 戦う気を
なくすためのものでもあったって

寛斎さん これ どう ご覧になりました?
ですから 私が分かりませんのは

一つのすばらしい建物をつくるのに
参加するとなると

お上の命令どおりに いろいろやらなきゃ
ならないということは分かりますが

一方で そのスタッフ 周り 仲間
自分の命を聞く人たちが結束しないと

これだけのものは できないですよね。

その心理の操りは
どうしてできたのかなというのが

かなり不思議ですね。

たかがイベントで みんなが
面白いというものを作るだけでも

これだけのエネルギーがかかりますから。

どうですか? 寛斎さん

いろんなイベントも
手がけてらっしゃいますけれども

最初は 周りのスタッフが ちょっと
いやいや手伝ってたりしたのに

気付いたら 引き込んでるとか
そういうこともあるんですか?

まずね 私がおかしくなってますよね
やる時は。

もう 脳が燃えまくりで

「いくぞ」という もう
チンチンに熱くなった状態じゃないと

伝わっていきませんよ。
周りは ついてきますか? それ 最初から。

もう ついてこざるをえないような
ありとあらゆる仕掛け。

お握りの量が… 大きくて
おなかがすかないというのを含めて

本当に いろんな技は
つぎ込んでいきますよね。

だから 最後 終わった時に

拍手するのは 私だけじゃなくて
私 静かで

みんな 参加した方が
全員が こうなってきますから

そうなると もう
任しとけっていう世界ですよね。

世界中 やってみて
これが勝ち戦の一番の必須項目ですね。

ふ~ん。 やっぱ その…
上に立つ人の熱量といいますかね

エネルギーというか。 そこがポイント…。
だと思いますね。

家康の側も やっぱり
巧みに考えてたと思うんですね。

それが 一つは 割普請でありまして

同じ石垣をつくるのに わざと細かく
工区を分担させて競争させるんですね。

それは どれだけ早く つくれるかっていう
競争でもありますし

「隣の大名は あんな大きな石を
頑張って持ってきてる。

うちも負けずに
大きい石つくるぞ 築くぞ」とかっていう

競争でもありますし

「うちの方が こんな高い石垣
こんなに早く出来た」っていう…。

もう 何て言うんですか?
それが 江戸城中で一斉に競争で

負けるもんかっていうことで
みんながやるわけですよね。

ただ いやいや つくるだけじゃなくて
競争して いいのが出来たら

みんなが うれしくなっちゃうっていう

人々を その気にさせるっていう方法を
やっぱり とってたっていうのが

すごいとこだっていうふうに思います。
みんなでつくり上げる…

やっぱり 私たちは コンサートというのが
一番のメインどころなので

そこには もちろん ステージに立つ人と
あとは それを作るスタッフの方がいて

または それだけで
一応 世界観は作られるんですけど

お客さんが入って
やっと完成するものだと思うので

それは 全身の歌とダンスのパワーで

バッて ぶつけていくしかないかなって
私は 思います。

でも そうすることで やっぱり
そういった人たちは

気迫とか気持ちを感じて
みんなが乗ってくるので…。

だから あの時代に 大きな石垣の石を
運んでくる時に もう 何トンもあって

今みたいに クレーンとかありませんから
もう 人力で運ぶわけじゃないですか。

その時に 例えば 加藤清正などは

仮装をして
石の上に立って 音頭を取って

それから きれいな人が
周りで こう それを… 歌を歌って

それで きれいに ものすごい…
何て言うんですかね

パレードみたいにして
大きな石を運んでいったって…。

それは すごいわ。

それは すばらしい。    ですから
いやいや やってるんじゃなくて

もう 石を運ぶっていうこと自身が
一つの すごいイベントで

みんなが それを見学するっていうですね。

こういうのって どうなんですかね?
その 上に立つ人のパワーも必要ですし

下で支える人たちのやる気っていう…
両方が かみ合わないと…。

そうだと思いますね。
それぐらいのパフォーマンスというか

イベントをやっていく
レベルっていうのはね

世界水準ってことなんですよね。

だから さっきの 千田先生がおっしゃった
石の上の踊りなんていうのは

世界で見たことあるかっていう
感じですよね。

今日 先生から 私のイベントの方に
アイデア頂きましたよ。

今回は 超刺激的な… 番組に出てね
アイデアもらって帰るなんて

聞いたことないですよ。
(笑い声)   そうですか。

まあ でも お城はね

軍事拠点っていうような
イメージがあったんですけれども

もっと複雑な いろんな用途が
あったということですよね。

すごい江戸城をつくることで
戦わずして

相手方に味方するかもしれない
諸大名の力を弱らせて

しかも すごい江戸城を
その大名たちにつくらせることで

いかに 江戸城がすごいかっていうことも
骨身にしみて 分からせる。

とても このお城を攻めることはできない
っていうふうに思わせてしまうっていう。

だから 戦わずして
本当に 家康は勝ったわけですよね。

すごい戦略だと思います。

でも 和田さん そんなお城 今
我々 見ることができないわけですよね。

そうですね。

それは 取り壊されちゃったから
ということなんですね。

しかも 自分の息子によってという。

こんなに大勢の人が
みんなで力を合わせて頑張って…

更に ものすごく巨大なスケールで
建てていったにもかかわらず。

なぜですか?
ということで

それは 次回のお楽しみに
いたしましょうかね。

今日は ご来店 ありがとうございました。
(3人)ありがとうございました。

(揚がる音)


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