歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の“天下人”三好長慶」四国徳島が生んだ戦国武将その知られざる…



出典:『歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の“天下人”三好長慶」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の“天下人”三好長慶」[解][字]


四国徳島が生んだ戦国武将・三好長慶。実は織田信長に先んじて数々の偉業をなした「革命児」とも呼べる人物でした。戦国最初の「天下人」、その知られざる生涯に迫ります。


詳細情報

番組内容

四国・徳島が生んだ戦国武将・三好長慶。戦国時代、京都やその周辺の地域を意味する「天下」を治めた、最初の「天下人」といわれます。戦における鉄砲の使用や、キリスト教の布教公認、そして200年続いた室町幕府の打倒など、あの織田信長が成し遂げたとされてきた偉業の数々は、実はこの長慶が先んじて行ったものでした。これまで信長の影に隠れ、秘密のベールに包まれてきた知られざる生涯。幻の天下人・三好長慶の物語です。

出演者

【キャスター】渡邊佐和子





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歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の“天下人
  1. 長慶
  2. 三好長慶
  3. 晴元
  4. 天下人
  5. 天下
  6. 当時
  7. 戦国
  8. 将軍
  9. 織田信長
  10. 天皇
  11. 三好家
  12. 信長
  13. 義輝
  14. 元長
  15. 細川晴元
  16. 人物
  17. 戦国時代
  18. 鉄砲
  19. 徳島
  20. 評価


『歴史秘話ヒストリア「信長より20年早かった男 最初の“天下人”三好長慶」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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(兵たちの おたけび)

突然ですが

皆さんは 「天下人」といえば
誰を思い浮かべますか?

大河ドラマでも

名だたる俳優が演じました。

「人間 五十年」。

心 配 御 無 用!

生き延びられれば… それで十分じゃ。

ところが…。

天下人と呼ぶに ふさわしい人物
なんと もうひとり いたのです。

♬~

長き世の乱れを正し
民を救わん。

名は 三好長慶。 生まれたのは…。

♬~

阿波おどりや すだち
鳴門の渦潮で有名な

そう 徳島です。

え? 徳島出身の天下人?

何だか 初めて聞いたけど… と思った方

いらっしゃいますよね。

実は最近 この人物が
戦国の革命児だったという事実が

次々と明らかに。

構え!

まずは 鉄砲。

(銃声)

鉄砲といえば
戦国最強の武田軍を破った 織田信長。

ところが 長慶が 戦いで鉄砲を使ったのは
その25年も前なんです。

(一同)天におられる 私たちの父よ。

続いては キリスト教。

長慶は 信長よりも前に
キリスト教の布教を許可。

その痕跡 後ほど ご覧にいれます。

こうして 信長より前に

京を中心とする
広い範囲を治めた長慶を

専門家も 高く評価しています。

そう 長慶は 200年続いた室町幕府を討ち
新たな秩序を もたらした

天下人なのです。

長慶を支えたのは
戦国の世に芽生えた 新たな力。

(一同)おう!
えいえい おう!

更に 天皇からも
大きな信頼を得ていました。

今夜は 戦国の革命児・三好長慶。

知られざる
天下取りのドラマを ひもとくと

新たな戦国の姿が見えてきます。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今回の主人公は 三好長慶。

近年 最初の天下人として
注目が集まる人物です。

今から400年前 三好の名は

なんと ヨーロッパまで
鳴り響いていました。

オランダの百科事典にある
日本の統治者の変遷を見てみましょう。

「内裏」「公方」と並んで記されているのが
「三好殿」。

三好家が 天皇・将軍に次ぐ
日本の統治者だというのです。

一方 こちらは 日本の史料。
ある戦国武将の家臣の記録です。

長慶は 国を治める
お手本として

今川義元や武田信玄
そして織田信長と

並び称されています。

まさに 時代の中心にいた
人物だったのです。

戦国時代には
実力を高く評価されていた 三好長慶。

それでは まず
彼が 頭角を現すまでの

知られざる物語を ご覧頂きましょう。

三好長慶のふるさと
徳島です。

地元では どれだけ知られた
存在なのでしょうか?

えいえい!
(一同)おう!

調査に協力してくれたのは
「三好長慶会」の皆さん。

徳島で 長慶の魅力を伝える
活動をしています。

三好長慶 知ってますか?

このところ 押さえとったっちゅうのは
誰じゃ。 思い出さんか?

なかなか 難しいようです…。

ここで 大ヒント。

丸の中に数字を入れる。 これなら…。

「一」。
アハハハッ!

数字ですか?
じゃあ 「百」で。

おっ 偉い!

徳島の人にも
もちろん 全国の人にも知って頂きたい

長慶の壮絶な人生。

早速
ご紹介しましょう。

父上!

1532年。 幼い長慶は
命の危機に さらされていました。

これは 我ら三好の者が こえねばならぬ
試練じゃ。

天の御心にかなえば
三好は また必ず立つ。

長慶の父・三好元長は このころ

「畿内」 京都周辺の地域で活躍する
有力武将でした。

ところが 敵の大軍に囲まれ

長慶たちを ふるさとの徳島
当時の阿波へ

逃すことにしたのです。

堅固に暮らせ。
はっ。

これが 父との別れでした。

応仁の乱から およそ60年。

時代は 戦国のまっただ中。

勢力拡大のため つわものたちは
戦に明け暮れていました。

長慶の父・元長が仕えていたのは
細川晴元。

細川家は 室町幕府のナンバー2
管領を務める家柄です。

元長は 晴元を細川家の当主とし

幕府に 大きな影響力を持とうと
考えていました。

ところが…。

殿。 こたびの戦の褒美
それがしは さぞ頂けるのでしょうのう。

≪これ 無礼者!

晴元に仕える武将の中で
最も力があった 元長でしたが

それが あだとなります。

次第に疎まれ

なんと 主君・晴元から 大軍を
差し向けられることになったのです。

元長が最期を迎えた
顕本寺です。

長慶を送り出した 翌日。

三好元長は この寺で
重臣たちと共に自害。

晴元が差し向けた
10万もの一向一揆勢と対峙した末の

壮絶な最期でした。

徳島県 藍住町。

阿波に逃れた長慶が
身を寄せた場所です。

父・元長
更には 多くの家臣まで失った長慶。

僅か11歳にして
家の命運を担うことになります。

逆境を乗り越えるため
長慶がとった策は…。

三好孫次郎長慶 若輩ではございますが
何とぞ よしなに…。

父・元長のことは残念であった。
そなたも変わらず 忠義を尽くしてくれ。

ははっ。

なんと 父を討った細川晴元に
忠誠を誓います。

一体 なぜなのでしょうか。

三好長慶を研究する 天野忠幸さん。

長慶の再評価を進めています。

その後 長慶は
晴元の忠実な部下として

各地の戦場を渡り歩きます。

そして3年。

立派な武将に成長していました。

おお 見事 見事。

殿のご威光あればこそ

若い それがしでも
家の主でいられまする。

まこと
細川の家臣で ようございました。

まあ わしを頼っておれば
間違いはない。

この時 細川晴元の力は
将軍をしのぐほど。

その晴元に対し

ご機嫌とりに徹する道を選んだ 長慶。

しかし ただ 耐え忍んでいただけでは
ありませんでした。

兵庫県 西宮市。

この地で 長慶は
転機を迎えます。

18歳の時 実力を認められ

一帯を治める 越水城の城主を
任されたのです。

いよいよ 戦国の革命児へ変貌する時。

その最初のステップが…。

長慶が就任した越水城の城主は

池田や伊丹など
「国衆」と呼ばれる

周囲の有力領主たちを
束ねる立場でした。

ところが…。

戦に召集しても 国衆たちは

実績のない
長慶の命令を聞いてはくれません。

そこで…。

長慶は さまざまな能力を持つ
人材の発掘に努めます。

当時 家柄ではなく

才能や実力を評価して
人を取り立てるのは

画期的なことでした。

そして この時

後に 側近として活躍する人物を
見いだします。

松永久秀にござりまする。

うむ。 三好譜代の者どもに負けぬよう
務めに励んでくれ。

はっ。

「土豪」と呼ばれる 地域の武士に
すぎなかったとされる 久秀。

持ち前の知恵を武器に

大名や朝廷相手の交渉ごとに
力を発揮します。

織田信長を てこずらせ

長慶の死後には 天下に 名をとどろかせた
豪傑としても有名です。

続いては 第2のステップ。

尼崎市にある本興寺。

法華宗の寺です。

長慶は 当時
畿内を中心に勢力を伸ばしていた

この 「法華宗」に注目します。

「禁制」は
長慶が 寺と交わした取り決めです。

…などが決められました。

なぜ 長慶は
本興寺を大切に扱ったのでしょうか。

本興寺には 影響下にある お寺
末寺が多くあり

そのネットワークは
近畿や四国から九州まで及んでいました。

このネットワークを活用したのが
法華宗の信者たち。

信者の中には
商人が 数多くいたため

なんと 東アジアにまで広がる
貿易ルートを築いていました。

その結果 長慶のもとに

中国の絹織物や
沖縄の芭蕉布など

貴重な品々が集まります。

なかでも 最も重要だったのが
当時 最新鋭の武器。

そう 鉄砲です。

当時 三好勢と戦をした
相手方の記録が残っています。

厳重な警戒ぶりから

長慶が 大量の鉄砲を使ったことが
うかがえます。

それは 織田信長が
集団で鉄砲を用いた 長篠の戦いの

なんと 25年も前のことでした。

(銃声)

まさに 「戦国の革命児」らしい
活躍を見せ始めた 三好長慶。

その最後のステップが…。

自らの 3人の弟を生かす策でした。

まず すぐ下の弟 実休に

三好の本拠地
阿波を任せます。

更に その下の弟 冬康を

淡路島の海賊を率いる
安宅氏の養子に。

最後に
その下の弟 一存を 

讃岐を治める
十河氏の養子に出しました。

こうして
瀬戸内海に力を及ぼす

ネットワークが完成します。

実力本位の…

宗教勢力と連携した…

そして 兄弟の絆を生かした…

父が討たれてから 16年。

力を蓄え続けてきた長慶は

ついに 戦う決意を固めました。

今こそ 父上のご無念 我らが恨み
ことごとく晴らさん!

(一同)えいえい おう! えいえい おう!

運命の日が 迫っていました。

いくつもの画期的な政策で
着実に力をつけていく 三好長慶。

しかし
これほどの人物にも かかわらず

私たちは なぜ
長慶を よく知らないのでしょうか?

江戸時代の
半ばごろまでは

「三好に頼らなければ

信長は成功しなかった」と
言われるほど

高く評価されていた
三好家。

状況が変わるのは幕末。

「日本外史」という
読みやすい日本史の本が

大ベストセラーになってからだと
いいます。

この本は 織田信長を高く評価。

戦国時代のような乱世では

勝つためには
何をしてもよいと説きます。

一方で 長慶のことは
ほとんど評価しませんでした。

そういったわけか
いまや ふるさとの徳島でも…。

信長直前の天下人って知っとるか?

長慶は あまり知られていないのです。

さあ いよいよ
三好長慶が立ち上がります。

そして 200年以上続く室町幕府に
敢然と対峙することになるのです。

今こそ 父上のご無念 我らが恨み
ことごとく晴らさん!

細川晴元を打倒するため
立ち上がることを決意した 長慶。

きっかけは
晴元が起こした ある事件でした。

池田の領地も何もかも
全て その方へ与えようぞ。

ははっ。

池田家は 晴元の治める地域で
最も豊かな国衆。

その財産を奪うため
当主を 自害に追い込んだのです。

晴元の横暴な振る舞いに

畿内や四国など 各地の国衆は動揺。

強い不信の念を抱きました。

これをチャンスと捉えたのが 長慶です。

「国衆の利益を守るのは

幕府を代表する晴元ではなく 自分だ」と

訴えたのです。

(一同)えいえい おう! えいえい おう!

長慶のもとには

幕府に不満を持つ武士たちが
次々と集まりました。

ついに長慶は
晴元ら幕府勢と激突します。

弟たちに
摂津の三宅城にいる晴元を任せた 長慶。

同じく江口にいた 晴元の側近

三好政長ら 敵の主力を攻めました。

(兵たちの おたけび)

その結果 政長ら800人を討ち取る
大勝利を収めたのです。

細川晴元は 将軍・足利義輝と共に
京を脱出。

近江に落ち延びました。

兄上 勝ちましたぞ!

亡き父上も
さぞ お喜びでしょう!

(長慶)うむ。

こうして 晴元に勝利し
その支配から独立した 三好長慶。

それは 晴元が支配していた

畿内周辺の8か国を治める
実力者になったことを

意味していました。

(鐘の音)

2年後の1551年。

三好長慶は 室町幕府の重臣から

信頼を寄せられるように
なっていました。

三好殿が お味方下さるとは百人力…
いや千人力 万人力じゃ! ハハハッ!

いえ それは 恐れ多し。

ただ それがしは
これまでの世の乱れを鎮め

民を安んずる その一念にござる。

ハハハッ ご謙遜を。
三好殿も 存分に過ごされよ。

ところが…。

この成り上がりめが~!

あ… ぐぁっ!

痴れ者!
ううっ! ぐっ…!

刺客を放ったのは

当時 近江にいた
将軍・足利義輝でした。

細川晴元と共に

反撃の機会を
ねらっていたのです。

でやぁっ!
うっ…!

更に長慶は 妻の父親を暗殺されます。

当然 反撃に出るはず…。

ところが 長慶のとった行動は
実に意外なものでした。

三好筑前守が名代
松永弾正忠久秀にござりまする。

都まで お供つかまつる。

なんと 敵対行為を仕掛けてきた
将軍・義輝を

京に迎えることにしたのです。

長慶は なぜ
そのようなことをしたのでしょうか。

天野さんは そこに
戦乱を終わらせたいと願う

長慶の思いを読み取ります。

長慶は 例えば 足利家については

父の代から支持してきた 義維ではなく

義輝を支持。

このように なるべく多くの者が
納得する形で 分裂をおさめ

幕府を もり立てようと考えます。

しかし…。

僅か半年後 義輝は

京の霊山城に
立て籠もります。

そして 長慶を攻める姿勢を
見せたのです。

(長慶)もはや これまで。

尊氏公以来
足利将軍こそ 天下人であったが

今の将軍家には その天下を
鎮めるおつもりは ないようじゃ。

されば わしが やるしかあるまい!

殿!

(兵たちの おたけび)

さすがの長慶も 我慢の限界でした。
やむなく 将軍・義輝を攻めます。

義輝は 自ら城を焼き
近江へ逃れるしか ありませんでした。

そして この時 長慶は

自ら国を治めることを
決意しました。

「義輝に従う者の領地は
没収する」という

命令を出し

幕府の権威を否定したのです。

足利将軍家に頼らず 都を支配した
三好長慶。

戦国最初の天下人が生まれた
瞬間でした。

大阪・高槻市。

32歳になった長慶は

この地を拠点に
天下の政を始めます。

高槻に 天下人・長慶の器の大きさを示す
史料が伝えられています。

当時 田に引く水をめぐって
村同士が 度々対立。

大きな争いの原因となっていました。

高槻でも 戦国時代

2つの村の間で 水争いが起きます。

そこで長慶は

家臣に 双方の村の言い分を
聞き取らせる一方

中立の立場にある村にも
聞き取りを行い

公平な解決を目指しました。

最後には
自ら 判決を下したといいます。

更に長慶は 意外な人たちとも
関係を持ちました。

その証しが
こちらの部屋にあるといいます。

高槻市で出土した 戦国時代の人骨です。

ひつぎには 十字架。

そう キリシタンの遺骨です。

主の祈りを唱えましょう。

長慶は 1560年に京の都で
更に4年後には 全ての領地で

キリスト教の布教を許可。

当時 宣教師たちがもたらした

医術などの先進的な技術を
望んだと言われます。

南蛮文化に理解があった
織田信長より前に

キリスト教を保護していました。

こうして 信長 秀吉 家康に先駆け
天下人となった三好長慶。

応仁の乱から90年。
新たな時代の始まりでした。

ついに 天下人となった三好長慶。

しかし 当時 支配下に置いていたのは
近畿や四国を含む 11か国。

日本全国ではありません。

それでも 天下人と言えるのには
理由があります。

実は戦国時代

「天下」という言葉の意味は
今とは違っていました。

ポルトガルの宣教師が記した文献には

「五畿内の領主が
天下の領主と呼ばれる」とあります。

「天下」は 「全国」という意味ではなく

京都と その周辺の限られた地域を
指しているというのです。

32歳で 天下を治めることになった長慶。

彼が理想とする世について
述べたとされる言葉があります。

「理世安民」。

「世に道理を広め 民を安んじる」という
意味の言葉です。

長慶は 人々が穏やかに暮らせる
秩序ある社会を

目指したのかもしれません。

しかし 栄光の時代は
長くは続きませんでした。

三好家は なぜ 歴史の表舞台から
姿を消すことになったのか。

波乱万丈の人生
その絶頂と悲劇を ご覧頂きます。

(シャッター音)

新しい元号は 「令和」であります。

現在 天皇の代替わりに行われる改元。

戦国時代には その多くが

災害や飢饉など 世の中の不幸な状況を
変えるため 行われました。

当時 改元は
天皇と 武家の代表である将軍が決定。

将軍は 儀式の費用を用意します。

更に 公家が年号を考え

天皇が それを発表しました。

1558年 永禄の改元が行われた時

時の正親町天皇が
パートナーに選んだのは

三好長慶でした。

これは 長慶が 武家の代表者として
認められた証しだといいます。

やはり もともと 阿波国の…

大阪・堺市にある 南宗寺。

ここに 永禄の改元の後

三好長慶が 天皇から信頼を得たことを
うかがわせるものがあります。

それが 銅像に刻まれた…

40歳の時 長慶は 天皇から
この紋を使うことを許されました。

実は この紋
天皇が 足利将軍や 信長・秀吉など

世を治める実力者に
使用を許可したものでした。

名実ともに天下人となった 三好長慶。

ところが このころから
次々と悲劇に見舞われます。

申し上げます!
何じゃ。

義興様 芥川山城にて
にわかの ご発病。

薬師が 手を尽くしましたが…。

長慶の一人息子で
優れた武将と評判が高かった義興が

亡くなったのです。

22歳の若さでした。

突然のことに 父・長慶は
嘆き悲しんだといいます。

既に 2人の弟を
亡くしていた長慶。

お家安泰のため
策を講じます。

(長慶)皆 義興と同様に
仕えてくれるよう。

ははっ。
ははっ。

後継者に
弟・十河一存の子

義継を選んだのです。

なぜ 弟の冬康や
他の甥ではなく

義継だったのでしょうか。

義継の母は
名門の公家・九条家の出身。

長慶は 三好家が実力だけでなく

家柄も
天下人に ふさわしいものになるよう

義継を後継者としたのです。

しかし 悲劇は終わりませんでした。

大阪・大東市にある 飯盛城。

ここで 長慶は
家のため 冷酷な行いに出ます。

弟の中で 一人だけ生き残っていた
冬康を城に呼び…。

上意!

あぁっ!

上意…?
兄上が わしを討てと申したのか!

えいやあ!

なぜ… なぜじゃ兄上!

今や 天下を治める立場となった 三好家。

それを分裂させ
再び 世を乱すわけにはいかない。

しかし この時
長慶にも 死の影が近づいていました。

冬康の死の2か月後

三好長慶は
病で亡くなります。

享年43。

戦国の革命児
その あまりに突然の死でした。

長慶の死の1年後。

(銃声)

願いむなしく 三好家は分裂します。

その後 織田信長によって
後継者の義継が 自害に追い込まれ

三好家の天下は ここに ついえました。

大阪・高槻市の芥川山。

空から見ると
山頂に 平らな場所があるのが分かります。

三好長慶が天下を治めた 城の跡です。

長慶の死の4年後
この城に 織田信長が現れ

10日余り 滞在しました。

この時 京を目指していた
信長には

ある目的があったといいます。

芥川山の山頂には
長慶を祭る ほこらがあります。

450年前 この地方の水争いを
おさめたことに感謝し

地元の人々が 命日に お参りしています。

しかし 去年の夏

台風によって 城跡や ほこらが
被害を受けました。

現在 地元の有志による
復旧作業が続いています。

♬~

戦国の世。

信長らに先んじて 天下を治めた
三好長慶。

その足跡は
今も 確かに刻まれています。

♬~

♬~

♬~


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