歴史秘話ヒストリア「よみがえる大坂の陣 幻の金屏風 誰が描かせたのか」 大坂冬の陣図屏風の色彩が今年復元され…



出典:『歴史秘話ヒストリア「よみがえる大坂の陣 幻の金屏風 誰が描かせたのか」』の番組情報(EPGから引用)


歴史秘話ヒストリア「よみがえる大坂の陣 幻の金屏風 誰が描かせたのか」[解][字]


400年前の史上最大の合戦「大坂冬の陣」その詳細を描いた「大坂冬の陣図屏風(びょうぶ)」の色彩が今年復元された。美しくよみがえった屏風絵から、描かせた人物に迫る


詳細情報

番組内容

400年前の史上最大の合戦「大坂冬の陣」。翌年の「夏の陣」とあわせ豊臣家が滅び、徳川の世が確立した「天下分け目」の大いくさだ。真田丸など有名なエピソードも多い。しかし戦いを記録した「大坂冬の陣図屏風 」は、いわば「下書き」。色がほとんどなく色の指定があるだけだった。今年、色彩が復元された結果、屏風絵の発注者など、さまざまなことが判明しつつある。最新の考古学的成果もあわせ、よみがえった幻の屏風に迫る

出演者

【出演】奈良大学教授(元学長)…千田嘉博,【キャスター】渡邊佐和子




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歴史秘話ヒストリア「よみがえる大坂の陣 幻の金屏風 誰が描かせ
  1. 陣図屏風
  2. 屏風絵
  3. 徳川方
  4. 秀忠
  5. 大坂城
  6. 大坂
  7. 豊臣方
  8. 色彩
  9. 武将
  10. 兵士
  11. 建物
  12. 銃声
  13. 城壁
  14. 大坂冬
  15. 豊臣秀頼
  16. 屏風
  17. ジグザグ
  18. 一体
  19. 周囲
  20. 情報


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現代的なビルの一角で…

歴史ファン注目の 大プロジェクトの成果が
お披露目されました。

はい じゃあ どうぞ。 お願いします。

高さ183センチの屏風絵。

400年前の大戦

「大坂の陣」が描かれています。

その知られざる世界を
目撃しにまいりましょう。

♬~

「歴史秘話ヒストリア」。
今夜も どうぞ おつきあい下さい。

今日 ご紹介するのは
「大坂の陣」。

大坂城に籠もる豊臣方を
徳川方が滅ぼし

戦国時代から続く乱世を
終わらせた

史上空前の大戦です。

♬~

大坂の陣が起きたのは
江戸時代の初め。

真田丸の戦いで有名な 「冬の陣」と

翌年の「夏の陣」。

2度の戦いの結果 豊臣家が滅び
徳川の世が始まりました。

夏の陣には 有名な屏風絵があります。

画面いっぱいに

徳川方と豊臣方が激突する様が
描かれています。

昭和の初め この絵をもとに
大阪城の天守閣が再建されたほど

史料的価値が 高く評価されています。

実は 冬の陣の屏風絵もあります。

しかし
同じく重要文化財でありながら

あまり 注目されてきませんでした。

今回 私たちがご紹介するのは
その「冬の陣図屏風」です。

今年6月 デジタル技術によって
本来の色彩が よみがえりました。

その結果 大坂の陣の実像が
見えてきたのです。

東京国立博物館所蔵のものを
CG再現しました。

画面中央 やや左に 巨大な大坂城。

そして右に 徳川方の本陣。

両軍合わせて
およそ30万の兵が激突した

巨大合戦の様子です。

ところが この屏風には

先ほどの「夏の陣図屏風」と
大きな違いがあります。

極彩色の「夏の陣図屏風」に対し…。

「冬の陣図屏風」は

くすんだ赤以外
ほとんど 色がありません。

時を経て 色あせたわけでも
なさそうです。

更に…

たくさんの書き込みがあります。

よく見ると
さまざまな色の指示です。

一体 どういうことでしょうか。

実は この絵
江戸の絵師の家に伝えられてきました。

木挽町狩野家は
有名な御用絵師 狩野派の一派。

将軍家などの注文を受け

豪華な絵画を制作した
絵師の集団です。

そのため この屏風は

豪華な屏風を作るための
いわば 下書きと考えられています。

しかし これをもとに完成した
屏風は 伝わっていません。

そこで…。

大坂の陣400年を きっかけに
プロジェクトが始まりました。

印刷会社を中心に
大学などの専門家が集まり

色彩を復元することになったのです。

メンバーは 大名家の宝物 城郭の発掘

狩野派の記録 日本画の色彩といった

さまざまな分野の研究者たち。

まず着手したのは
色の指示の解読でした。

「白」とあるからには
白かなあと思いますよね。

更に気になるのが こちらの人物の鎧。

「地コン上 サネテイ」とあります。

「地コン上」は
「鎧の地が濃い青」という意味。

更に「サネ」は
鎧の部品ですが…。

絵師たちの専門用語を解読した結果

ようやく 色が確定してきました。

絵に 本来の色彩を のせていきます。

よみがえる屏風絵。

日本画の専門家も 納得の表情です。

さあ 屏風絵の時代に
タイムスリップしてみましょう。

まずは 大坂冬の陣のハイライト
「真田丸の戦い」です。

「赤備え」と呼ばれた真田勢。

その拠点・真田丸の姿が
鮮やかに よみがえりました。

のぼりは 朱。

鎧は 丹。

2種類の赤で 塗り分けられています。

殺到する 徳川方の大軍。

掲げる旗指物は
色彩にあふれています。

この仕上がりには
専門家も 感動を隠せません。

♬~

(銃声)

真田丸で ひときわ目立つのが
鹿の角をつけた 赤い兜の武将。

彼こそ 真田信繁。

大河ドラマでも大活躍でした。

♬~

放て!

放て!
(銃声)

色彩が よみがえったことは
新たな発見にも つながりました。

戦場のリアルな姿が
明らかになったのです。

長さ 実に9キロ。

大坂城の外周「惣構」は
豊臣方の 守りの要です。

塀の上に 瓦屋根がのった
堅固な城壁が築かれています。

ところが よく見ると
塀の色が バラバラです。

一体 どういうことでしょうか。

水堀の中に立つのは 木製のバリケード。

横に渡された 2本の棒から
戦場のリアルな工夫が分かりました。

2本の棒のうち
下の棒が もし 低い位置にあったら

兵士は 足をかけ
簡単に越えられますが…。

城壁と バリケードの間には
たくさんの丸いものが。

色を塗ってみると…

さあ 何だと思いますか?

もう一つ 屏風絵から
分かったことがあります。

この戦いにおける
最新鋭の武器の存在です。

こちらは 攻める徳川方。

緑色の竹の束は 盾。

弾を防ぐための伝統的な方法です。

火縄銃の弾なら
十分 防ぐことができます。

ところが…。

城壁には 火縄銃を撃つための穴の横に
もっと大きな穴が描かれています。

ここには 2人がかりで撃つような

最新式の巨大な銃があったと
考えられています。

(銃声)

うわ~!

徳川方に 甚大な被害が出ました。

これは 徳川方が
この時 用意した鉄の盾。

残された
豊臣方の弾の跡から

巨大銃の威力が伝わってきます。

困った徳川方は 新たな手を講じました。

それが こちら。

何だか 分かりますか?

着色された屏風絵を よく見ると

竹の盾の背後に
たくさんの兵士たちが描かれています。

彼らの下半身があるのは
どうやら 溝の中のようです。

これは 「仕寄り」と呼ばれる人工の溝。

いわば 「塹壕」です。

ジグザグに掘られ 後方から
前線に近づけるよう作られました。

なぜ ジグザグなのか。

豊臣方は 城壁から射撃してきます。

塹壕がジグザグなら

兵士たちは 城壁から見て
死角に入ることができ

弾が当たりにくくなります。

ジグザグには
もう一つ 目的があります。

こちらは花火… ではなく 焙烙玉。

戦国時代に使われた爆弾です。

火薬で 破片を飛び散らせ
敵を殺傷しました。

もし 塹壕が一直線だと…。

(爆発音)

(爆発音)

遠くまで
爆弾の破片が届いてしまいます。

しかし 塹壕がジグザグであれば…。

(爆発音)

(爆発音)

破片は 曲がった部分より
先に届きにくいため

損害を減らすことにつながります。

(爆発音)

世界の戦争の歴史では
塹壕戦が有名なのは 第1次世界大戦。

その300年も前の 大坂の陣で
本格的な塹壕戦が行われていたのです。

あっ すぐそこですね。

大阪城の正面玄関
大手門から 400メートル。

はじめまして。
アナウンサーの渡邊です。

すいません 鹿野と申します。
よろしくお願いいたします。

今年3月 この場所から

「冬の陣図屏風」に描かれたのと
そっくりなものが 出土しました。

大規模な建物の跡です。

屏風絵では
大坂城内の この位置にあたりますが

雲で見えません。

そこで 徳川方を見てみましょう。

大きく描かれた建物は
有力武将の屋敷。

実は 出土した建物と
共通点があります。

発掘現場では
建物の周囲が 1段 低くなっています。

かつての庭が
意外な方法で活用されていました。

ほんとだ。
これ きれいに残ってますね。

大名屋敷の 礎石のある立派なものとは
だいぶ 様相が違いますね。

実は 「冬の陣図屏風」でも

武将の屋敷の周囲に
小さな建物が描かれています。

これは 「陣小屋」といって
足軽たちが寝泊まりしたところです。

地中から見つかった大きな屋敷と
それを取り囲む小屋。

「冬の陣図屏風」の世界が
姿を現しました。

えっ 鉄砲玉? ええ?

あっ もう
ほんとに きれいに まん丸ですね。

(鹿野)こういうのが
鉄砲玉なんですけれども

実はですね…

製作途中?
そうですね。

角が生えてますね。

ちょっとね この辺りに…。

大坂の陣の時は 遠くにある最前線では
戦いが行われていて

こういった小屋では

戦いに使う鉄砲玉が つくられていた
という感じですね。

本来の色彩が よみがえった
「冬の陣図屏風」からは

激しい戦いの様子だけでなく
人々の息づかいまで 伝わってきます。

1614年は 寒い冬でした。

屏風絵には

野外で過ごさざるをえなかった
徳川方の兵士たちの

暖をとる様子が描かれています。

一方 堅固な城壁の中
大坂城内に 目を転じると

そこには なんと開店中のお店?

こちらは どうやら商談中のようです。

商人たちが相手にするのは
集結した 30万の兵士たち。

繁盛しているのは
温かい汁ものと…

タバコ売り。

長いキセルをくわえた兵士が
描かれています。

そして こちらで売っているのはお酒。

少しは 寒さが紛れたでしょうか。

(いななき)

一方 こちらは馬小屋。

馬の足元には
餌用の箱が置いてあります。

それにしても
いろいろな形をしています。

一体 なぜでしょうか。

現代の馬の達人に
理由を教えてもらうことができました。

馬が緊張する環境で
慣れた飼い葉おけを使うのは

今も昔も 変わっていないようです。

ところで 不思議な格好をしている
人たちを見つけました。

襟巻きをしているみたい。

ヨーロッパ人のような姿です。

彼らは何者なのか。

実は 武将なのだそうです。

デジタル復元の結果

戦場のリアルを
余すことなく描いていることが分かった

「大坂冬の陣図屏風」。

しかし 一体 誰が 何の目的で
これほどの作品を描かせたのでしょうか。

いくつもの合戦図を分析してきた…

合戦図には 必ず表現されるものが
あるといいます。

実は 「冬の陣図屏風」には
複数の戦いが描かれています。

例えば ここには
11月26日の日中…

大坂城の北東 京橋口から
攻め入ろうとした徳川方を

豊臣方の武将たちが
連係プレーで 押しとどめています。

こちらには 12月4日朝…

真田信繁率いる 5, 000の兵が

徳川方 1万人以上を
死傷させました。

そして ここには
12月17日未明の…

豪傑・塙 団右衛門率いる
部隊の

鮮やかな奇襲として
知られています。

つまり 描かれているのは
大坂方の勝ち戦ばかり。

更に その中央に描かれた大坂城にも
注目すべきポイントがあります。

城の中央に 鉢巻き姿もりりしい若武者。

隣には 華やかな衣装の女性。

勝ち戦の報告でしょうか
武将の話を聞いています。

この人物こそ
大坂城の主

豊臣秀頼だといいます。

豊臣秀頼…。

天下人・豊臣秀吉の跡継ぎ 豊臣秀頼。

彼が この屏風絵を描かせた
可能性があるというのです。

そう言われてみると この屏風絵には

徳川方の象徴とも言うべきものが
描かれていません。

場所は 大坂城の 西の丸。

分厚い雲で覆われた部分です。

ここには 秀吉の死後
徳川家康が築いた

もう一つの天守があったはず。

それが描かれた
「夏の陣図屏風」と比べると

やはり 不自然です。

更に…。

しかし 冬の陣が終わってから
夏の陣で 秀頼が命を落とすまで

半年もありません。

秀頼は
発注できたのでしょうか。

原さんは 「冬の陣図屏風」は
この数か月の間に発注されたものの

秀頼が死んだため
完成しなかったと考えています。

ということで

「屏風を描かせたのは
豊臣秀頼ではないか」

という説を ご紹介しました。

もし これが事実ならば
ある有名な建築物の姿が

これまで
考えられていたものとは

違ってくるかもしれません。

それは…

「大坂夏の陣図屏風」をもとに
昭和の初めに 再建されました。

ところが 「冬の陣図屏風」には

北側に 「付庇」という
不思議な形の屋根があります。

これは 現在の天守閣にはありません。

これまでも この屋根を描いた絵図は
知られていましたが

今回の復元で
存在した可能性が高まりました。

ここまで 豊臣方が描かせたとして
見てきた 「大坂冬の陣図屏風」。

ところが この屏風には

豊臣方には知ることが難しい情報も
詳しく描かれていたのです。

もし 描かせたのが秀頼ではないのなら
それは 一体 誰なのか。

そして どんな事実が
見えてくるのでしょうか?

全国の城跡を飛び歩く…

今回 「冬の陣図屏風」の検討を
重ねるうち

ある疑問を抱くようになりました。

千田さんが着目したのは

屏風絵に描かれている
「小山」。

徳川方が 竹の盾の置かれた
最前線に築いたものです。

いくつも並んでいるのが
見えます。

こちらは その裏側。

土俵を積んで 兵士が隠れています。

これは…。

撃て~!
(銃声)

「築山」と呼ばれた 射撃用の陣地です。

撃て~!
(銃声)

築山の痕跡を
見つけられないだろうか。

千田さんが調べ始めたのは
アメリカ軍が撮影した 航空写真。

空襲で焼け野原になった大阪では

終戦直後 建物の下の地形が
むき出しになっていたのです。

う~ん…。

これ… ここにね 何か高まりは
これは ありますね うん。

「立体視」という手法で
僅かな高低差を読み解いていきます。

ここはね おっきい何かもあったか…。

(千田)
少し高いところが ここにありますね。

大坂城 惣構の南側に
およそ300m間隔で見つかった 高まり。

なんと 「冬の陣図屏風」に描かれた
築山の位置と

不思議と一致したのです。

怖いですね ハハハッ。

いや~ まさに こういったところに…

現実の地形と一致した 屏風絵の情報。

この正確さが
千田さんの疑問を深めます。

こちらは 徳川方の
仙台藩・伊達家が残した図面。

自らの軍勢については
詳しい布陣が描かれていますが

他の家については

大名の名前が
記されているだけです。

そして加賀藩・前田家。

こちらも 自らの軍勢は
武将の名まで記されていますが

他の家の情報は 一切ありません。

徳川方同士ですら
情報が不足している戦場。

…とすれば 豊臣秀頼が

徳川方の さまざまな情報を
正確に把握することなど

できないのではないか。

徳川秀忠だ。

徳川家康の息子
2代将軍・秀忠。

千田さんは この屏風絵から
秀忠の気配を 色濃く感じています。

屏風絵に描かれた 徳川方の陣地。

大御所・家康の陣は こちら。

半分 切れてしまっています。

それに対して

家康の陣の上の方に描かれた
徳川秀忠の陣は 実に立派。

物見櫓のある御殿が
描かれています。

塀を巡らせ
周囲を 水堀が取り囲んでいます。

実は 先ほど ご紹介した馬小屋も
秀忠の陣の一角。

まさに 城のような外観です。

襟巻きをつけた武将たちが
描かれているのも ここ。

秀忠の陣は 屏風絵の中でも
詳しく描かれているのです。

秀忠の陣に掲げられている
金の扇は 総大将の印。

戦国乱世の覇者・徳川家康が
若い頃から あまたの戦いで掲げてきた

伝説の馬標です。

秀忠がいるのは 御殿の中央

御簾の向こうだと考えられます。

敵を討ち取った報告を
聞く様子。

大軍を率いる者に
ふさわしい場面です。

…というのが
もう はっきり分かります。

しかし 秀忠が
屏風絵を発注したとすると

なぜ 豊臣方の勝利が
多く描かれているのでしょう。

将軍とはいっても 秀忠には
ほとんど 実戦の経験がありません。

初陣は 1600年の関ヶ原の戦い。

秀忠は 信州上田城で

真田昌幸相手に苦戦します。

(銃声)

そして 決戦に 間に合いませんでした。

関ヶ原以降は
戦が 全くない時代が続きました。

2代将軍となっても 秀忠が
采配を振る機会はありませんでした。

そして 大坂の陣。

将軍として 初めて大軍勢を率いた
秀忠にとって

冬の陣は 「晴れの舞台」だったのです。

秀忠発注の可能性が出てきた
「大坂冬の陣図屏風」。

大坂城研究一筋 40年の
中村博司さんも

注目すべきは
中央の大坂城ではなく

その外側 徳川方の布陣だといいます。

画面向かって右に描かれた
秀忠の本陣。

周囲を固めるのは
将軍直属の家臣 旗本です。

一方 豊臣方と対峙する
最前線には 外様大名。

…など 関ヶ原前後に

徳川家に従った大名たちです。

そして 本陣と最前線の間には

徳川家に 長く
仕えている大名

譜代大名がいます。

江戸時代の政治システム…

江戸や大坂などが 幕府の直轄領。

その周囲に 徳川一族の親藩や
譜代大名が配置され

最も外側に 外様大名が置かれました。

その政治システムが

「大坂冬の陣図屏風」に
あらわれているというのです。

この屏風絵に 天下を治める将軍の目線が
うかがえるのであれば

込められたのは 乱世を終わらせ
太平の世をひらこうという

秀忠の気概だったのかもしれません。

よみがえった 「大坂冬の陣図屏風」。

描かせたのは 豊臣秀頼なのか

それとも 徳川秀忠なのか。

意見は分かれました。

しかし この屏風絵が

大坂の陣の膨大な記憶を
宿していることに 変わりはありません。

♬~

去年 その後の大坂城に関する
新しい史料が見つかりました。

1620年 大坂城の大再建が始まります。

その責任者・藤堂高虎宛ての手紙です。

誰の居城に すべきだと
いうのでしょうか。

この時 用いられた石材には
100トン以上のものもあります。

史上最大級の城は

徳川秀忠のために
よみがえりました。

秀忠は 全国各地の藩に
城造りを分担させました。

石垣に刻まれた さまざまな刻印が

そのことを示しています。

盤石の幕藩体制の下 完成した
徳川の大坂城。

その規模は 豊臣のものと比べ
はるかに巨大になったのです。

時代の転換となった 大坂の陣。

よみがえった屏風絵には

いまだ 知られざる事実が
眠っているにちがいありません。

♬~


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