英雄たちの選択 そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心・天皇から庶民の歌まで4500首あまりを収め…


出典:『英雄たちの選択スペシャル▽そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択スペシャル▽そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心[字]


新元号「令和」で今、大注目の「万葉集」。天皇から庶民の歌まで4500首あまりを収めた歌集は、どのようにして生まれたのか?平城宮跡で万葉集の謎と魅力を語り尽くす。


詳細情報

番組内容

新元号「令和」で今、大注目の「万葉集」。その編纂者であり、最も多く万葉集に歌を残したのが奈良時代の歌人・大伴家持だ。宮廷貴族の権力抗争に巻き込まれた家持。一族の命脈を保つための家持の選択は、万葉集の成立に大きな影響を及ぼした。天皇から庶民の歌まで4500首あまりを収めた歌集は、どのようにして生まれたのか?奈良・平城宮跡に多彩なゲストが集結、万葉集に秘められた謎と魅力を語り尽くす。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【語り】松重豊,【出演】いとうせいこう,里中満智子,澤田瞳子,馬場基,中西進,【声】友近,粗品(霜降り明星)



『英雄たちの選択スペシャル▽そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択 そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心
  1. 家持
  2. 万葉集
  3. 奈良時代
  4. 大伴氏
  5. 馬場
  6. 本当
  7. 天皇
  8. 自分
  9. 仲麻呂
  10. 旅人
  11. 聖武天皇
  12. 文字
  13. 時代
  14. 大宰府
  15. 大事
  16. 大伴
  17. 当時
  18. 気持
  19. 言葉
  20. 池主


『英雄たちの選択スペシャル▽そして万葉集が生まれた~大伴家持が残した日本人の心』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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奈良盆地の北部の広大な一画。

かつて ここに 唐の長安をモデルにした都
平城京があった。

2010年に復元された大極殿。

天皇が国家的行事を執り行った
この巨大な建物は

1, 300年前の都の栄華を今に伝えている。

「英雄たちの選択」。
今日は 奈良にやって来ました。

はい。
奈良といえば 平城京。

そうなんですよね。
いい風も吹いてますけれど

ここ 奈良時代の平城宮の一角

「東院庭園」と呼ばれている所です。

発掘調査の結果 こうして 見事に
復元されているんですよね。

建物は もちろん

池の形や
植えられている木の種類もですね

奈良時代そのものなんだそうです。
ああ… 柳があったりして

何か 唐の長安のまねしている様子が
本当にね…。

そうそう!

じゃあ 私たち ちょっと こう
すてきな この…

歴史を感じながら歩ける
ということなんですね。

まあ 今は…

そうなんですよ。

だから この「英雄たちの選択」
たくさんやってますけど

その一番根っこの部分に
今日は迫りたいと思います。

「万葉集」。

飛鳥時代と奈良時代

およそ130年間の和歌を中心に集めた

日本最古の歌集である。

作者は 天皇から名もなき庶民まで。

4, 500以上の歌が20巻に収められている。

この膨大な歌集の編さんに
深く関わったのが

名門貴族にして…

恋あり。

旅あり。

グルメあり。

ハハハ…!
嫌な食リポだな! これ。

古代を生きた人々の
生の声を記録した「万葉集」。

今回は 大伴家持の生涯をたどりながら

万葉集の謎と魅力に迫る
2時間スペシャル。

これだけは言っておきたいから

短い言葉で打つみたいなのと同じように

その歌を詠めてしまう。

普通に…

そういう文化が
すごく多様にあったってことは…。

さらに 司会の磯田道史が

新元号「令和」の考案者に名前が挙がった
あの方を直撃。

ものすごく これはいい。

それをイメージしてみると

やはり 尊敬すべきもの
品格を持っているもの

きちんとした端正さを持っているもの
というものが「令」という。

辞書から
そういうことが読み取れるわけですね。

その平和の上に 今度は もう一つ…

奈良時代 きらびやかな宮廷社会の陰で
繰り広げられた権力闘争。

絶大な力を手に入れたのは
天皇の力を背景に台頭した

藤原仲麻呂だった。

家持の前に立ちはだかる
仲麻呂の横暴なふるまい。

「万葉集」の編さんを進める
家持は

厳しい選択を
迫られることになる。

うわっ! おっかあ どないしたんや?
包丁なんか持って。

もう我慢ならん!

藤原の「ナカマロ」か「ソトマロ」か
知らんけど

うちが いてこましたる!

ちょっと待て 待て!

「大仏さんに恥ずかしい」って言うてたんは
誰やねん。

陰謀渦巻く奈良の都で
家持は 歌に何を託したのか。

「万葉集」をひもとき

日本人の心の原点を見つめる。

♬~

「英雄たちの選択」。
今回のテーマは「万葉集」ということで

奈良時代の都 平城宮の一角の
東院庭園から 今日はお送りしています。

さあ 磯田さん
今まさに大注目の「万葉集」ですけれど。

この「万葉集」が編さんされた
奈良時代というのは

どういう時代だったと考えれば…。
そうですね 大体 その時代って

古代の日本が 大陸の影響を受けて

本格的に 国づくりを始めよう
というふうにし始めて 約150年。

大化の改新 乙巳の変とか
いわれるころからね。

そうすると その間
中央集権で やっていけば

外国風な国にしていけば

ばら色の国になるかなとか
思ってたんですが…。

我々だって
明治維新以来 150年ぐらい こう

外国モデルで近代国家をつくっていって。

我々も転換期に さしかかっているわけで。

価値観そのものをね ひょっとしたら

問わなきゃいけないのかも
しれませんよね。

それを考える最高の題材が
この奈良時代と

奈良時代に編さんされた「万葉集」の中に
あるのではないかと思いますね。

その「万葉集」の形は…

編さんの中心になったと
考えられるのが

大伴家持ですから
彼の選択に今日は迫りたいと。

まずは 漫画家の里中満智子さんです。

よろしくお願いします。
(里中)よろしくお願いします。

ちょうど同じころにね

「日本書紀」とか
「古事記」も

出来上がるんですけれども。

「日本書紀」
「古事記」と違って

最初に「さあ やりましょう」っつって

国が決めたわけじゃ
ないんですよ。

何か 自然発生的に
ちょっと

まとまってきたような
気がします。

だから そこがね 非常に個性的だなと。

自然発生的なのにもかかわらずですね

かなり 途中からは 意図的に
ありとあらゆる歌を集めようとしたと。

でしょうね。
はい。

だから いろんなテーマで集めて

歌った人の身分とか立場は
問わないっていう。

さあ 次 続いては
いとうせいこうさんです。

奈良時代を
どのように ご覧になっていますか?

僕 仏像 見るのも趣味なので

やっぱり そういうものを見ていると

それ以降に下っていく時代より

はるかにいい質の仏像が

平気で出来ている。
それで その… 作ってる人とか

その周りのお寺を造ってる人たちの中に

たくさんのインターナショナルな人材が
いるっていう。

だから 本当に 今で言ったら
六本木ヒルズみたいな。

その中で…
でも 今回の「万葉集」の場合は

そういうインターナショナルな人が
集まってるのに

自分の文字を
持ってなかったっていうことが

ものすごく大きな その…

やりたい この モチベーションに
なったんじゃないかっていう。

人が何か書いたり
何か言ってきたりしたことに

返せなかったり
持っていなかったりするっていうことの

そのときの その国の人たちの
気持ちっていうものが

何か伝わってくるなっていうふうには
思ってます。

インターナショナル?
(いとう)インターナショナルですね。

続きまして 歴史家の馬場 基さん。

この東院庭園は 馬場さんがお勤めの

奈良文化財研究所が

発掘調査をされた
ということですが。

平城宮全体を
私たちの研究所で

ずっと発掘調査を
継続的にやってて

60年やってますので

もうすぐ奈良時代を
超えるんですけどね。

そこで おっしゃってった
本当に 価値観とかが ぶつかる…

インターナショナルと

自分の固有が
ぶつかったっていう時代なんですね。

実は この庭にも それがあるんですよ。

この庭 今 池が こう あって…。
かっこいいでしょう。

一部は 奈良時代にある石…
見つかった石そのものが

あそこの石組みなんかに
使われているんですが。

岸が凸凹しているでしょ?

いかにも 何か日本的なんですが これね

この下に 奈良時代の最初の池が
埋まってるんです。

これはね…

それが奈良時代を通じて 徐々に徐々に
いかにも 今の私たちが

ほっとするような池に
変わってるんですね。

だから ちょうど そういった 本当に
グローバルスタンダードの在り方と

「私たちが大事にする美学って何だ?」
っていうのを

行ったり来たり
模索している時代だと思いますね。

最初は あれですか?
本当に… 直線の池を作っておいて

使ってるうちに やっぱり

くねくねと曲線のほうが
いいかなとかっていって

改造していた跡がある?
明らかに このあと このタイプの池が

ずっと 平安時代とか受け継がれて…。
ですよね。

(いとう)いや 面白いですよね。
だから 最初の こういう形って

何かが ちょっと違う
何か 自分たちの感じじゃない

何か おしゃれじゃないって思う気持ちが
生まれてたってことですよね。

「万葉集」も そういう目で見ると
ちょっと 面白いかなと思います。

そして 澤田瞳子さん
小説家でいらっしゃいますが

奈良時代を舞台にした作品も
発表していらっしゃいますけれど

大伴氏について
今 書いていらっしゃるそうですね。

はい。 家持の
お父さんの旅人が

西暦の720年に

九州のほうで
反乱が起きまして

そのときに
1万人余りの兵士を率いて

大将軍として
あちらに行くんですよね。

その反乱を 今
小説にしております。

大伴氏っていうのは
どういう印象を お持ちですか?

やはり 奈良時代を通じて…

だけど その… やっぱ 奈良時代って
変化の時代だと思うんです。

先ほど おっしゃられたとおり すごく
インターナショナルな時代でもあり

その中から 日本独自のものを
つくっていく時代であると。

その中で…

すごいね 歴史上でも気になる一族。
「気になる一族」…。

さあ では これから ご覧いただくのは
その大伴旅人主催の宴。

まさに 新元号「令和」は
ここから生まれます。

令和ゆかりの地…

玄界灘に面した博多湾から
およそ15キロ内陸に位置している。

飛鳥時代に設けられた政庁 大宰府は

九州一帯の統治と
大陸や朝鮮半島からの攻撃に備える

重要な任務を負っていた。

奈良時代の初め 神亀4年ごろ

大伴旅人は 大宰府の長官として
奈良の都から赴任した。

旅人が率いた大伴氏は

神話の時代から
軍事をつかさどる有力氏族として

天皇に仕えてきた。

唐 新羅との戦争を経験した
古代日本にとって

大宰府は 国土防衛の最前線だった。

大宰府の歴史を研究する 森 弘子さん。

当時築かれた
巨大な防衛施設に案内してもらった。

今 目の前に見えてきたのが 水城です。

「水城」と呼ばれる

全長1.2キロ 高さ13メートルにも及ぶ
長大な土塁。

さらに その海側を
幅60メートルもの堀が守っていた。

(森)すべての この都市設計を
百済から亡命してきた

官人の指導によって作ったということで
当時とすれば もちろん

最新の都市設計によるものだ
ということがいえると思います。

太宰府市 観世音寺の梵鐘。

鐘に残された唐草文の様式などから
新羅系の渡来人の制作ともいわれている。

大宰府は 大陸の技術や文化を
いち早く摂取する国際色豊かな街だった。

大伴旅人の
邸宅跡ともいわれる場所に立つ…

新元号「令和」の出典となった宴は
旅人の屋敷で開かれたものだった。

「万葉集」に
そのときの様子が残されている。

「新春のよき月
風はやわらかく

梅は白粉のように白く

香草のほのかな香りが
漂っている」。

これは序文の一部。

当時の教養人の
慣習にならい

漢文で記された。

だが 宴で詠まれた数々の歌は

大和言葉の一音一音に漢字をあてた

「万葉仮名」という形式で書かれている。

天平2年正月。

旅人の邸宅に
九州各地を治める役人たちが集まった。

中国 唐から輸入されたばかりの梅を
めでながら 歌を詠み合う

「梅花の宴」が催されたのである。

旅人が歌会の始まりを告げた。

和やかな宴には 当時 筑前守で
一流の知識人として知られた

山上憶良の姿もあった。

「春になると咲く
我が家の梅を

一人で眺めて
過ごすことなど

どうしてできようか」。

憶良は 一人で梅を見る寂しさに触れ

大人数の宴を張ってくれた旅人を
たたえた。

これに答えた旅人。

風に舞う庭の梅を 天からの雪に見立てた
スケールの大きな歌を詠んだ。

漢詩を下敷きにした巧みな表現に
感嘆の声が上がった。

一同は それぞれに趣向を凝らしながら

梅を詠み 互いに心を通わせていった。

このとき詠まれた32首が

序文とともに
「万葉集」に収められたのである。

長年「万葉集」を研究してきた…

「梅花の宴」で詠まれた歌には

大宰府の土地柄が
大きく影響しているという。

頭の片隅にはね

中国の文学を置き そしてですね

一方では 日本の和歌の伝統を

踏まえているわけでしょう。

それはね やっぱり 大宰府のね

その場所の持っている力ですね。

そういう所に
花開いた文学といってもいいですし

その歌々を育んだのが
「梅の花の歌三十二首の宴」だと思います。

宴を開いた旅人の邸宅には

後に「万葉集」の編さんに関わる
少年の姿があった。

旅人の息子…

このとき
13歳だったという。

あ~ やれやれ…。
みんな よう飲まはった。

ちょっと あんた
ぼ~っとしてんと 掃除しんかいな。

ああ~ いやいや…。

家持坊ちゃんが
えらい しっかりならはったなと思てな。

(妻)ほんまやな~。

この夫婦 朝廷から旅人に与えられた
大勢の従者のうちの2人。

当時「資人」と呼ばれた。

貴族の位階や官職に応じて あてがわれ

あるじの家の下働きや
身辺の世話を担っていた。

それにしてもな 大旦那さんは
うまいこと言わはったもんやで。

何やて?

(妻)意味
分かってんのかいな。

初春の ええ月に
風がやわらこう 優しゅう吹いて…

う~ん… 何や?
ええ正月やいうこっちゃがな!

うん! これは 後世に残る。
絶対 残る気がする。

うちには よう分からんけど
今年も一年 ええ年でありますように。

「万葉集」や この「梅花の宴」で詠まれた
多くの歌の序文の中に

この「令和」 記されているんですね。

馬場さんは いかがですか?
大宰府と旅人について。

大宰府の長官って ちょっとね

都… この奈良の都も含めて

大体5本の指に入るぐらいの
偉さなんですよ。

ナンバー5まで。 ベスト5に入る
そのぐらい偉いんですね。

九州の諸国と 対馬と壱岐とかも
その地域を 全部を統括すると。

ですから…

「遠くにある朝廷」という呼ばれ方をする。
そのぐらい重要で。

なので…

(澤田)大宰府って 海外からの文物も
やっぱ 真っ先に入ってくる街。

明治時代の神戸とか横浜とか
そんなような印象の

先進的な モダンな…。
(いとう)港町ですね。

そうです そうです。
…だったんじゃないのかなって。

大宰府自身は ちょっと こう…

防衛の関係で ちょっと
港から引いてはいるんですけど

そこの港側とは やっぱ
道も… 大きな道が造られて

文物の交流が盛んだったようなので。

そして 少年の家持君も
きっと そこで モダンな風物を

日常的に… 思春期ですからね。

(いとう)おしゃれなものにね
めちゃめちゃ敏感な時期ですもんね。

そうですよね。 確かに。

…っていう気がします。

あと 「梅花の宴」って
この梅がポイントでね。

梅は あの… 中国からの輸入品で。

もう 先進国家の象徴たる木なんですよ。

それを 邸内に何本か植えて それを見て
宴を催すっていうのは

これ 中国風なんですよ。

みんなが一堂に集まって
何かをテーマにして

詩を詠むっていうのは
もう 先進文化なんですよね。

で 大伴旅人と山上憶良は
一生懸命 相談したんでしょう。

2人は 一音一字

「あ」は この字。 「い」は この字って。

それで 正しく 日本語が…

だから この「梅花の宴」は

集まった 皆さんに…

ああ そうですね。
「万葉」の仮名自体はね

古墳時代から 鉄剣に刻んだり
いろいろやってるんですが

その… どの字をあてるかが整ってきて

誰が読んでも分かるようになるのが

大体 旅人さんとか山上憶良さんとか
この「万葉」ぐらいからですよね。

やっぱり 文化っていうものがない国は
下に見られますから。

そこの意味でも 文字を… 表記を

ちゃんとすることは すごく
やっぱ 彼らにとっては大事なことで。

中国から見たら「お前たちはお前たちで
字 持ってんだな」って

言ってもらいたいっていう。

一音一字って いまだに 僕らは
ポップスの世界で

例えば…

日本語に ロック
乗るのか乗らないのかっていうことを

論争してたのは 70年代なんですよ。
それから…

僕も やるようになりますが。

「いや 英語のラップを日本語にするの
おかしいよ」っていう論争が

ずっと今まであって。

だから 全然 同じなんですよね
やってることが。

変わらないんだなって。
それを でも 彼らは

大宰府っていう
一番 東アジアの突端でやってたんで

国内的に やったんじゃなくて…

その緊張感みたいなものを
すごく もう…

「ああ… すごいな」って
「よく頑張ったな」って思いますよね。

確かに…。 でも どんな音で
詠んでたんですかね? 当時は。

どうなんでしょうね。 今より
ゆっくりは詠んでたんでしょうけどね。

そんなに抑揚がない幅で
詠んでいくわけ…。

〽 あしびきの
〽 ぬばたまの

期待しながら
みんなで楽しくやってたんだろうね。

だから やっぱり
今の… 文字で読んじゃうと

「万葉集」を文字で読んじゃうと
「ぬばたまの」っていうのが

本当 素早く読めちゃうから
記号にしか見えないけれども。

たぶん 「ぬばた」で

「ぬば」ぐらいで もう「ぬぶ」ぐらいで

闇が来るなって思いながら
こう… ビジュアルで。

頭の中で想像し始めるんですよね。
そうそう…!

たぶん 枕詞って そういう
ちゃんと機能があったんだけど

約束事みたいに学校は教えますよね。
あれ 歌だから!

「枕詞って なぜ あるんですか?」に

学校教育 答えてくれてないんですよ
多くの場合は。

あれはね 一座で共有したいイメージの
空間で出来上がったからだと

僕は思うんですけど。

「梅花の宴」から まもなく
家持は 父 旅人と

奈良 平城京に戻り
政治の世界に足を踏み入れます。

平城京の朝は早い。

日の出のおよそ20分前
響き渡る太鼓の音で 都は目を覚ます。

≪(太鼓の音)

やがて 道幅80メートル

都の中心を南北に貫く朱雀大路に
人々が行き交い始める。

奈良時代にも
街路樹として植えられていた柳。

地方に赴任していた家持は
望郷の思いを この柳に託した。

710年 平城京遷都とともに
造営された巨大な宮殿 平城宮。

東西1.3キロ 南北1キロの

広大な敷地の北に
大極殿がそびえ

正面玄関ともいえる
南側の中心を

朱雀門が固めた。

この壮麗な朱雀門。

代々 大伴氏が守ってきたことから

「大伴門」とも呼ばれていた。

「梅花の宴」が開かれた天平2年の暮れ

家持は 父 旅人と共に
朱雀門そびえる平城京に戻った。

だが 僅か半年後 旅人が世を去る。

家持は 大伴氏の命運を
一身に担うこととなった。

成人した家持は
「内舎人」と呼ばれる

天皇の警護役として
聖武天皇のそばに仕えた。

聖武天皇は
藤原不比等の娘の宮子を母に

光明皇后を妻に持ち

藤原氏と
深い縁戚関係にあった。

このため 朝廷では
武智麻呂や 宇合など

藤原4兄弟が
絶大な権力を握っていた。

奈良 正倉院。

ここには 光明皇后が
聖武天皇の死を悼んで納めた

数々の宝物が残されている。

唐から伝来したといわれる
見事な螺鈿が施された琵琶。

聖武天皇 愛用の品と伝わる。

大陸の技法を用いた
美人画。

国際色豊かな文化を
今に伝えている。

数々の宝物は
聖武天皇の遺品であるとともに

それを支えた藤原氏の栄華を
物語るものであった。

ところが 藤原氏中心の朝廷を
揺るがす事態が起きる。

都で 天然痘が流行し
権力の中枢にいた藤原宇合ら4兄弟が

僅か3か月余りの間に
次々と亡くなったのだ。

代わって政権を担ったのは…

皇族出身の諸兄は

聖武天皇を補佐し
政治の混乱を収めようとした。

古くから天皇に仕えてきた
大伴氏を率いる家持は

この諸兄と親密な関係を築いた。

日本古代史を研究する木本好信さんは

諸兄と家持は 当時
お互いを必要としていたと考えている。

天平10年に成立した…

そういう意味で言えば
橘 諸兄とすれば やっぱり

大伴氏の やっぱり 嫡流にいる…

…というふうに思いますし
反対に 家持からすれば

お父さんの旅人は
亡くなっておりますので

まあ あの… これから自分が 大伴氏を

背負っていかなければいけない
というふうな状況の中で

親しい関係を築いておくっていうことも…

おい おっかあ えらいこっちゃ。

宇合はんまで はやりの疫で
亡くなったらしいで。

宇合はんって あの藤原のかいな?

(夫)そうやがな!
これで藤原の偉い人は

みんな 亡くなってもうたがな。

(妻)ほんまに恐ろしいこっちゃ。

ほんでも あんた これで 橘 諸兄さんが
ぐっと上がってきはるんちゃうか?

そやなあ。 家持坊ちゃんは

諸兄さんの息子さんの奈良麻呂さんと
仲がええさかい

ええことがあるかもしれん。

なんや あたしには
ぼんぼんが集まって

遊んでばっかりいるみたいに
見えるけどなあ。

それが男の世界っちゅうもんじゃ。

よし わしも飲みに行こ。

何 言うてんの!
疫の最中に 出て行くやつがあるかいな!

す… すんません…。

天平10年 秋。

家持は 橘 諸兄の息子 奈良麻呂が開いた
宴に参加した。

貴族の子弟が集う宴に
家持の弟 書持や

同じ大伴氏の中でも
特に家持と親しかった

池主が同席していた。

この席で 家持の詠んだ歌が
「万葉集」に残されている。

橘氏との関係を大切にしたい
家持の思いが読み取れる。

「紅葉が散るのを
惜しんで

親しい者同士が
遊ぶ この夜は

明けないでほしい」。

「紅葉は最高でございました。

こんなときに開かれている

宴というものは…
宴というものは

もう 朝なんか来なくても
いいんです」っていうようにね…

恐らく 奈良麻呂が
この歌を聞いたら

「これはね しっかりとね
定石どおりにね

俺のことをね
褒めてくれたな」と。

「こういうことは
できるやつだな」。

そういうふうなのは
分かると思いますね。

橘氏と大伴氏の密接な関係は

その後の家持の人生を
大きく左右することとなる。

宴から7年。

家持は 主に

飛鳥時代から奈良時代にかけての
歌を集めた歌集の編さんに

携わることになった。

後の「万葉集」である。

家持は 先人たちが集めた歌を引き継ぎ

それに
同時代の優れた歌や自作も加えた

一大プロジェクトに精魂を傾けていく。

いよいよ 名門貴族の嫡男として
家持は政治の世界に入りますが

馬場さん そもそも この大伴氏というのは
どんな氏族だったんでしょうか?

「大伴」… 「大きい伴」ですよね。

「伴」っていうのは
文字のとおり 「お供をする」とか…

「伴」っていう いろいろな氏族が
いっぱいあるんですけども

それの いわば…

大伴は 武門の家ということが
いわれるんですが

これ 大事なのが
「武門」っていうと 今 イメージでは

本当に 物理的に攻撃するとかの
イメージ 強いですけども

昔ですからね。

だから 例えば
大伴が すごく関わった役所に

「衛門府」っていうのがあるんです。

その衛門府には さっき話題になった
隼人司というのがあって

この隼人の人たちが
独特の声を出して

邪悪な霊を追うと
追い払うなんていうのも…。

南九州の人たち。

そのね 独特の盾を持って
邪悪なものを追い払う。

そうすると 大伴氏は 物理的に
天皇を守るのも大事ですけども

こういった精神世界というか

魔術というか こういった世界でも…

武門の家っていうのは だから 何も
チャンバラが強いだけじゃなくて…。

歌うことって そこと
どう関係があるんですか?

当然 やっぱり 言葉で

さまざまな いいこと 悪いことを
起こすわけですよね。

ということは 歌が もし 下手だったら
どうなりますか?

「コケッ」みたいな…。
そうですね。 きちんと歌えて

その場に ふさわしくて
しかも きちんと 場が良くなるとか

未来が良くなるように歌えないと

大伴氏の仕事 できたとは
言えないですよね。

大事な仕事なんですね 歌うことも。
大事な技術であり 仕事だと思います。

そういうことだと思うんですね。

今度 逆に… ただ 家持っていう個人に
ちょっと フォーカスをして考えると

彼は 経歴を見ていくと
最初 内舎人っていうですね

天皇のそばで ずっと 近侍する
というところから始まって。

聖武天皇の東国行幸
要するに 一緒に旅をして

たぶん その 旅先 旅先で…

近くで泊まり込んで
警備をしてるんですよね。

(馬場)たぶん 家持という人は

「一緒に旅をしたな
あんとき 雨 降ったな 風 吹いたな

今日は風が強いな」というような
そういう感覚を

たぶん
聖武天皇と共有しているんですよね。

聖武天皇は人生を通じて
真面目に祈り続けて 悩み続けた方で

そばに仕えてると きっと
絶対 支えたいと思う人なんですよ。

いい人だと思います。
変な言い方だけれども。

だから そういう
祈りの天皇である聖武天皇。

その天皇がですね あるとき

「いや 大伴は昔から よくやってくれた」
とかって言うわけですよね。

だからね
「この方のためなら頑張ろう」と

そういう気持ちにもなったと思いますし。

まあ 大伴さんっていうのは
昔の豪族で 近衛軍で

それで 藤原なんかより
ずっと昔から やってて。

「お家の犬」という言い方が
戦国時代の徳川を支えた旗本にあるけど

朝廷の親衛隊だというので

聖武天皇に
若いころから仕えてるわけですよね。

文字を使う段になったとき
2つ 使い方があって。

一つは 法学部的に 法制度に使う…
これは藤原氏が得意なものですけど。

やっぱり 大伴氏っちゅうのは
軍事貴族で 先ほど言ったように

言葉だとか 歌だとか まじない…。

歌の力とかいうのが
やっぱり 強いですから

恐らく 文字を
もう一個の使い方として詩歌に使うと。

だから 法制と詩歌っていうのは
文字の使い方として

2つの大きなものですけど

その詩歌の部分を担うような形があると。

<さて 家持が勤めていた役所の跡が
平城宮の中で見つかっています。

馬場さんに案内してもらいました>

<「大伴門」とも呼ばれた…>

<門をくぐって
東へ およそ200メートルの所に

その役所はありました>

<ここは「兵部省」という

軍隊の人事や武器の調達をつかさどった
役所です。

発掘調査の結果
柱の位置が特定されています。

家持は この役所の管理職

「兵部少輔」を務めました>

(馬場)割と
仲良しなんですよ。

まあ そういう意味では 比較的ね

恵まれた職場環境だったのかも
しれないですね。

たぶん 家持は この空間だと もうね
ナンバー3ですから

あの辺に どかっと座って
「うん そうか そうか」とね

「奈良麻呂さん よろしいですかな」なんて
やってたんじゃないですかね。

この溝は 何ですか?

これは ちっちゃい溝ですけど
平城宮の中には

太い溝とか大きい溝もあったりします。
へえ~!

溝ってね 我々 見つけると
ちょっと うきうきするんですよ。

何でですか?
未曽有の大発見とかって…。
ああ…。

あっ 違います 違います。 あのね
溝は 埋まるときとか埋めるときに

ゴミ捨てるときが多いんですよ。
あ~!

じゃあ こういうのを見つけると
ちょっと わくわく…?

「何か出てくるんじゃないか」って。
へえ~ 面白い。

<馬場さんの勤める研究所に
お邪魔しました>

<これは 平城宮のゴミ捨て場と
考えられる場所から集めた

泥のような塊です>

<流水で洗い 出てきた木片などを
細かく分類していきます。

こうした こまやかな手作業の結果

1, 300年前の暮らしぶりが
浮かび上がってくるのです>

おっ! 文字 書いてある。

あっ… 「上」。

(馬場)「上」 あっ 読めたじゃないですか。
はい。

「大」。 ふ~ん 面白い。

(馬場)こういうのは…
「木簡」って ご存じですか?   はい。

木の板に字を書いたやつ。
それの削りかすなんです。

ああ~! 字が書いてある所を削って

中の… 真新しい所に また書くんですか?
そうです。

だから 削れば 何度でも何度でも
なくなるまで使えるというのが

木の強みなんです。

奈良時代は紙もあるんですよ。
紙も入っているんですが

木は まず 丈夫で硬くて。

例えば 飛ばない…
それこそ 風で飛ばないとかね

そういうのも… いい点とか あとは

日常的に
ちょっと やり取りするメモだったら

削って 再利用が利くっていう。
それが強みで

かなり重宝されてたみたいで。
あっ そうなんですね。

へえ~… それで削られたものが
見つかるんですか? こうして。

削られてないものも見つかります。

持ってみてもらえます?

手を 両手広げて… 置きます。

おおっ! 重い。

重いっていうか
木を持つよりも…。

ずしっときて…。
ちょっと こう

石を持ってるぐらいの重みは感じます。
でも 触感は 少し軟らかいですよね。

これ ずっと 1, 300年間
土の中にいたんですけれども

木としてはね ぼろぼろなんです。
ふにゃふにゃなんです。

そのかわり 中に水が入り込んで
形を保ってる。

これが 土の中
1, 300年間 頑張った証しなんです。

<木簡の断片には

当時の人たちの肉声が残されていました>

(馬場)
「常食の菜が」…。

「甚だ悪」。
(馬場)「悪い」。

「おかずが まずい」。
「まずい」? ハハハ…!

(馬場)「何だ? こりゃ!
おかず まずいじゃねえか!」っていう。

へえ~!

「まずい」っていうのを
何で書いたんですか?

何ででしょうね?

文句なんて
口で言えばいいじゃないですか。

ああ 確かに。
(馬場)今 私たちって

ちょっと
「聞いたこと すぐ メモ取りなさい」とか

「何か そんな… 文句があるなら
ちゃんと書面で提出しろ」とか

怒られるとき ありますよね。

もう ここ 始まってるんですよね。

あるいは そういう技術を

まずいおかずを食わされてるようなやつが
持っている。

これが奈良時代の 文字と言葉をめぐる
環境というか状況も

1, 300年前の奈良の都では
飯の文句も字で書いて。

文字文化って どうしてもね 書とか
何か難しいのになっちゃいますが

実は 裾野の広さって
すごく意味があるんですよ。

その裾野が一気に…。
広がった時代。
そうですね。

だから 「万葉集」が生まれた?
「万葉集」にも そういうのが

絶対 背景にあると思うんです。
私たちの…

どうぞ。
はい 失礼します。

え~っと…。

<ほかにも 貴重な木簡が保管されている
収蔵庫に入れていただきました>

<平城京で発掘された
形も厚みも さまざまな木簡たちです>

大変 大変…。
じゃあ ここ 読んでみてください。

「さん」…。
「さん」。 次は?

「みかわ」。
そうです!

<これは 私の出身地 愛知県の三河から
天皇へのささげ物として届けられた

ある食べ物についていた札です>

(馬場)これ 読めますかね この字。
佐藤さんの「佐」に「米」。

佐藤さんの「佐」に… 「お米」?

「サメ」。
あっ 「サメ」!

(馬場)ほら 日本語を
どうやって漢字で示すのか。

音を使うと こういった
当て字みたいな世界で

一生懸命 彼らは遊んでいるというか
字を書き始めているんです。

<墨をすり 木簡に文字を残してくれた
奈良時代の人たち>

<おかげで
1, 300年前のふるさとの人たちと

つながった気がしました>

杉浦さん あれ 1, 300年前のですよ!

あれ 生木簡ですよ 生木簡!
生木簡。

どんな感じですか? あれは。
思ったより… 木なので

もっと軽いと思ってたんですけど
水も含んでいて 結構 しっかり硬くて。

でも 何か 現実として

これが 1, 300年前だとは こう…。
ねえ。

触ったのは
あれ 古代の人も触ったものなんですよ。

下手したら 江戸時代の文書を

江戸時代の人が握ってた時間より

奈良時代の人が握ってた時間…。
いや 長いですよ それは。

ぎゅ~って握りながら
削って 削って やってますからね。

ええ。 土器とか あれもね

やっぱ 触ると いきなり

「ああ エレガントだな!」ってことが
分かってくるっていうか。

リアリティーが出てくる。

木簡には
私が見せていただいたようなですね

サメのように 音に漢字をあてた
「万葉仮名」と呼ばれる表記が見られます。

ほかにも このように… はい。

…など
あるんですが

この… ちょっと 皆さんに
クイズなんですけど

これ 何だと思いますか?

(いとう)「メシカタバイル」?
ああ 3文字目からな…。

「メシ」に「タ… ベル」?

あっ 「タベル」?

「米志」は… 頭は「メシ」ですよね。

答えは…。

「メシヲタベル」。 「メシヲ」なんですね。

これ どういう…?

(馬場)先ほども話題になっていた
やっぱり この時期に

大体 どの日本語の音に
どの漢字をあてるかって

大体 パターンが固まってきているので

木簡だけ見ていると
大きくはですね この…

こういう 一音一字をあてていくのは
一つは 古い時期の木簡に多いんです。

奈良時代より前の時期…

例えば 「イカ」は

藤原京の時代 平城京にくる前は

よく この「伊加」見るんですが
平城京にくると

今の「烏賊」に
なっちゃうんですよ。

もう一つが 「贄」という 天皇用のごはん。

天皇様用。
特別スペシャル食材ってやつは

割合に この万葉仮名を使っている。

やっぱり 何か 音を伝えたいんですかね。

さらに面白いのが

例えば
「多比」の「多」っていう字なんていうのは

別に「多い」じゃなくても
「田んぼ」の「田」でも

ほかの例を見ると あるんですよね。

でも 「タイ」のときは
「多い」を書くんで どうも…。

縁起良くしてるんだ!
(馬場)たぶん そうなんですよ。

なかなか しゃれた使い方を。

呪術的な力も やっぱり
感じてるっていうことですね。

もう すごい不便だったでしょうね
最初は。

言ってることと書くことが
どうしても 何か つながらない。

何か この意味と ビビッとこない。

みんなが探して「それ!」って「それ!」って
決まっていくっていうことですよね。

誰かに 文字というものを通して

自分の意志を伝えられるって
すごいうれしい行為じゃないですか。

しかも そこに 文字の めでたさとか
そういうので

さらに 自分が伝えたい…

ああ 確かに…。

<先ほど「メシヲタベル」と出ましたが

私たちも
奈良時代の料理を頂くことにします>

あっ! あそこにある高つきは
ひょっとして 奈良の食事?

はい。 奈良のお料理ですよ。

<古代の文献や発掘調査の成果に基づいて
復元した

奈良時代の料理です。

これは
牛乳を12時間も煮込んだ乳製品

「蘇」といいます>

見つかっている木簡で言うと
光明皇后の関係したとこでしか

まだ見つかってないんです。
ふ~ん!

超高級?
(馬場)美容食も兼ねた薬みたいな。

(澤田)どうだろう?

おいしい。
何でしょう? これ。

これね あれです。
ちょっと 商品名は言えませんけど

サラリーマンが
朝食べてくやつ あれですね。

サクサクしてて
ものすごい滋養が入っている感じ。

あれですね 栄養入ってるやつですね。

(澤田)食感も似てますね。
(いとう)似てますよね。

でも これね 絶対ね
お年寄りにいいと思うんですよ。

消化吸収しやすいし 栄養価も高いし。

これ作る人は つきっきりでしょう?

ずっと混ぜてなきゃいけないから。

だから 人手がある所じゃないと
作れないですよね。

(いとう)贅沢ですね。

<続いては 先ほど 万葉仮名にあった…>

<調味料をつけて食べていたようです>

(いとう)横に ディップ ついてますけど
ディップ つけたほうがいいですか?

ディップが それこそ
「万葉集」に出てくるんですよ。    えっ!

「醤酢に 蒜搗き合てて 鯛願ふ」
っていう言葉が出てきて。

要するに そのときは
おいしい食べ物の象徴として。

だから 醤に酢を混ぜて「醤酢」か。

これが一番おいしい?
(馬場)これは ベストらしいです。

はい。 たっぷり 醤酢をつけました。

あっ やっぱり いけますね。
(いとう)いける?

(里中)いただきます。

うん。

すごい さっぱりしますね。
(いとう)そうですよね。

<こちらは…>

<奈良時代の人たちは

実は 肉を好んで食べていたと
考えられています。

シカのほかに イノシシの肉も
ごちそうだったようです>

シカジャーキー。
ジャーキー。

これは お酒がいりますね。
ちょっと塩味があるんで。

で 臭みもあるから
何か ちょっと合わせたくなる。

<最後の品は 木簡にもあったサメです。

拍子木に切り
塩を振って天日干しされた

「楚割り」と呼ばれる料理です>

ん! なんて おいしいんだろう!

ハハハ…!
嫌な食リポだな! これ。

どういう味なんですか?
何なんだろう?

あとからね かんだあとに じわ~って
味が舌に攻めてくるんですよ。

「攻めてくる」?
ええ。

結構 乾いてますね。

最初はね
「普通の干し魚かな」と思ったんですよ。

何つったらいいんだろう?

だから 魚のビーフジャーキーですよね。
魚のジャーキーの感じで…。

うわっ 本当だ これ…。

最後にね 舌に酸味がくる…。
(いとう)ふわっと サメの香りがしてくる。

…というのが
まあ 私の いつも思う印象なんです。

調理時間が 12時間とか…。
(いとう)ねえ!

皆さんね
味わっていただいていますけれど

話を 大伴家持に戻します。

政界デビューした大伴家持は
歌人としても活躍を始めます。

その舞台が
越中守として赴任した現在の富山です。

よっしゃ これで全部片づいたと。

今度行く「越中」いうのは
どんなとこなんやろ?

水がきれいで 米が
ぎょうさん とれて

そら ええとこらしいで。

何や 心細いわ…。

何を言うてんにゃがな!

家持坊ちゃんが
越中守にならはったんやで。

それに お供させてもらう わしらが
そんなことで どないすんねや!

ほんまやな あんた!
もう 坊ちゃんやないで!

従五位下 大伴家持様やからな!

天平18年 家持は 越中守に任じられ

現在の富山県から石川県一帯を
治めることになる。

朝廷から大きな期待を
背負っての赴任だった。

当時 聖武天皇は
大仏建立を進めていた。

天然痘が流行し うち続く飢きんに
心を痛めた聖武天皇は

仏教の力で国を守ろうとしたのである。

越中には 東大寺の荘園も数多くあった。

家持は その管理に尽力することで

ばく大な資財が必要な大仏建立を
支えようとした。

だが 赴任早々
家持に悲しい知らせが届く。

長年 共に暮らした弟 書持が
都で急死したのだ。

家持自身も重い病の床に就いた。

このとき 家持の心を慰めたのは

共に紅葉の宴にも参加した
一族の池主だった。

家持と同じく越中に赴任していた池主と
歌の交歓が始まった。

季節が春めいてきたというのに

外出もままならない我が身を嘆く家持。

「春の花は

鶯が鳴いて
散らしているでしょう。

いつ
あなたと一緒に

頭に
かざせるのでしょうか」。

池主は 悲嘆に暮れる家持を励ます。

「山吹の花は

あなたが手を触れる前に
散ることなど

決してないでしょう」。

家持と池主の親交は
2人が都に戻ってからも続いた。

富山で「万葉集」を研究する新谷秀夫さん。

池主との歌を通じた交流が

越中での家持の生活を支えたと指摘する。

現代で言うと…

たぶん 池主と家持って

教養のレベルも
ほぼ一緒だったと思うので

家持が 歌… 五七五に込めた気持ちとか
表現とかは

ちゃんと同じレベルの人ならば
すぐに判断できるので

答えれるわけですね。 だから…

家持は 体調を回復すると
意欲的に歌を作り始めた。

創作の刺激となったのは
奈良では見られない越中の自然だった。

「立山に
降り積もった雪を

夏の間中 見ていても
飽きないものだ。

まさに神の山の名に
背かないことよ」。

家持は 夏でも雪が消えない光景に
目をみはった。

新しい着想や題材を
次々と歌い上げていく。

少し 伝統から脱却した…

それから 素材も それまでの「万葉」の…

歌… 歌人として勉強しながら
成長する中で

人とは違うことをやってみようと
思ったのが

この富山の5年間だとは思う…。

越中赴任から2年。

天平20年 春 家持は領内を巡回した。

「雄神川が少女たちの衣装の紅色に
照り映えている。

浅瀬に入り 藻を採っているようだ」。

「之乎路の山道を まっすぐに越えると

朝凪ぎしている羽咋の海が広がる。

船と梶があれば こぎ出したいものだ」。

みずから
越中の自然と人々の暮らしに分け入り

家持は 歌人として大きく成長した。

「万葉集」に残された家持の歌のうち

実に半数近く 220首余りが

越中時代の5年間に詠まれたものである。

やって来ました 富山県まで。

こちらの 高志の国 文学館に
やってまいりました。

今日はですね 「万葉集」の話になると
会いたくてしょうがない人がいるんです。

あっ 先生 どうも お久しぶりです。

(中西)ようこそ おいでになりました。
ありがとうございます。 どうも。

この方と会う時間っていうのは
宝物の時間なんです 私にとっては。

中西 進さん。

「万葉集」研究の
第一人者で

新元号「令和」の考案者として
名前が挙がった。

中西さんが館長を務める
高志の国 文学館は

大伴家持から現代文学やアニメまで

富山に関わりの深い作家や作品を
幅広く紹介している。

今回 「令和」と年号が定まりまして

「万葉集」が出典なわけですけれども。

令和というのは いつ

「梅花の宴」ができたか
というときの中に…

こう 書いてあるわけですね。
「やわらかい日だ」と書いてある。

日本人というのは
「いいお天気ですね」とか

「今日はお日和が良くて」とかっていうのが
まず 最初のあいさつでしょ。

要するに 自然をね 大事にするという
民族性の中で出てきた

どうしても言わなきゃいけなかった事柄だ
ということになるんですよね。

だから 「令」であることと
それから 風が やわらかであることと。

これは絶対的に大事なの 日本人にとって。

そういうことですからね
ものすごく これは いい。

「令」である
それをイメージでしてみると

やはり こう 尊敬すべきもの
品格を持っているもの

きちんとした端正さを
持っているものっていうのが

「令」という。 辞書から
そういうことが読み取れるわけですね。

なるほど。
やっぱり 「令」というのは

相当 品格の高いものを
示したみたいですね。

だから 平和 平和と言いながらね

我々 平和を築いてきたつもりだけども。

まあ できてないかもしれないけど。

その平和の上に 今度は もう一つ…

なるほど。 普通の平和じゃなくて

グレードアップした
麗しい平和… はい。

家持というのは 性格的には
どんな感じの人…?

僕 ロマンチストは間違いないだろうとは
ある程度 思うんですけど。

極めて有能なところもありますよね。

文字を操って 役所の仕事をしたり

そんな感じのイメージで
よろしいんですかね?

だから 非常に…
ひと言で言えないぐらいの性格ですよね。

だけど…

しかし 真面目で
融通が利かないかというと 適当に…

だから そういうことで言うと 何かこう

ある程度の上流階級の家に生まれて

で 天皇に忠誠を尽くして

人間的に ほれ込むみたいな
情熱もあって…

そうすると 当時は
どうしたらいいかって 一生懸命 考えた。

つまり
漢文の中で育っているわけでしょ。

今で言うと 横文字。

横文字が達者だったら出世するわけです。

地方へ行ったら 横文字なんか関係ない。

じゃあ どうしたらいいんだと。

ここの共通点というものに
一生懸命 入れ込んだ。

ですから…

和歌を作ることが民政であると。

何か 民への興味というか

彼の性格自体 非常に好奇心が
強かったこともあると思いますけれども。

何を人が考えているんだろうと。

ここが 結構
僕 大事なところだと思うんですよ。

こういう政策が行われた場合に

人は どのような情念や

気持ちの中にいるのかという

それを直視する姿勢が「万葉集」とか

家持の この奈良朝の人々の中に
あることに

非常な 僕は安心感を覚えるんですけど。
そうですね。

たぶん 日本の天皇政治… 私に言わせると
「歌人政治」って言うんですけどね。

それに対して…

歌人であるということをもって
知ろしめすという。

それは もう 本当に
型どおりに ずっと こう…。

頭のいい男だし なかなか 切れもするし。

人間性が たっぷりあるから
悩むんですけれどね。

だから そういう中でね…

この 天性として その2つがないと

仕事ができないみたいなね。
はあ… なるほど。

磯田さん 中西さんとのお話
本当に奥が深いお話でしたね。

そうですね。
いつ お会いしても楽しいんですけど。

でも 和歌を詠むことで 家持は
自然や民と接して 発見があるとか

そこで 風景だとか そこにいる人々とか
動植物だとか みんな こう

詠むことで 一体感になってくる
っていうような感じがあるんでしょうね。

やはり 子どものころに まず
大宰府のほうにいたっていうことと

併せ考えると
もちろん 昔見た大宰府の風景も

それはそれで 都とは違う風景で
きっと思い出深かったと思うんですけど

さらに違う風景が
この国にはあるんだっていう。

やっぱり 複数…
2か所 違う場所を見るっていうのは

すごい刺激になったと思うんですよ。

…っていう感じは
今 見てるとありますよね。

大宰府に行ってるときは もっと
丁々発止 やってたかもしれないし。

もちろん 自然があったとしても
大体 都会的な人たちとのつながりだし

都は そうだし。 それが こう…

自分だけみたいな時間が
出来てくるとなると

とたんに やっぱり
人は歌を作っちゃうんじゃないですか?

ああ…。
(里中)また あの こう…

あの辺りっていうのは 日本海を隔てて
大陸と向き合っていますから…

今の日本人って
太平洋ばっかり見てますけれども

あの時代は 結構ね
今で言う 中国とかロシアの辺りまで…。

朝鮮半島に至るまで いろんな所と
大昔から交流があったので

結構 重要な場所なんですよね。

だから 仕事も やりがいもあるし
新しい土地だし。

景色を見てみると… 風景を見ると
歌心が刺激されるし。

そうすると 歌をね
それこそ ほとんどの… 半数の歌を

ここで詠むっていうのは
何か 分かる気がしますけどね。

その「万葉集」には
庶民の歌もですね 多く残されています。

中でも代表的なのは

北九州の防衛に当たった
「防人」と呼ばれる人たちの歌です。

家持は みずから
防人たちの歌の収集に当たっていました。

飛鳥時代から
九州沿岸の警備に当たった兵士 防人。

朝廷が設置した
外敵の襲来に備える最前線部隊だった。

防人の多くは はるばる
東国から招集された農民たちである。

食料も武器も自己負担という過酷な任務。

任期は3年に及び
中には 故郷に帰り着けず

野垂れ死にする者もいたという。

越中での務めを終えた家持は都に戻り

兵部省の役人として 難波の港から
防人を送り出す任務に携わった。

このとき
家持は多くの防人の歌を採集し

そのうち84首を
読み手の名前まで含めて残した。

あ~ 疲れた。

おっかあ 今 帰ったで。

あんた おかえり。
ご苦労さんやったな。

難波の港は どんな様子やった?

あ~… 東国から
ぎょうさんの人が集められとったわ。

ありゃ 送り出す家持坊ちゃんも
大仕事やで。

軍隊の偉いさんに出世しはったけど
つらい仕事やで。

中には 家族と別れてきた人も
おるんやろな。

そうやがな。
そんな人らから 家持坊ちゃんは

丁寧に歌を 聞き取ってはったわ。

あんたも聞いたんか?
ああ。

中でも泣けたんがな…。

(夫)…とな!

そうか…。

「防人に行く旦那さんが
足柄峠から 袖を振ったら

家に残してきた奥さんに
見えるやろか」いうこっちゃな。

そうやがな。

それだけでも つらいのに
奥さんの歌もあんねん。

はあ…。 「旦那の服を
濃い色に染めたらよかった。

そしたら はっきり見えたのに」ってか。

みんな 無事に お国に帰れるように
お祈りさせてもらおうや。

何事もありませんように。

はい お芋。
ん?

家持は 防人たちの歌だけでなく

当時の庶民の心情がよく伝わる
詠み人知らずの歌を

数多く記録した。

「多麻川の水にさらす
布のように

さらに さらに
どうして この子が

これほど
いとしいのだろうか」。

一方 都でも…。

「近頃の私の
恋にかける力を

手柄として申請したら

きっと 貴族に
してもらえることだろう」。

望むべくもない高い地位と
実らぬ恋をかけたユーモアに

下級役人の悲哀も目に浮かぶ。

私は「なぜ お前は『万葉集』の
研究をしたか」と言われたときに

一時 公約数的に
言っていたのは…

無名者に対する目というものがなければ
「万葉集」は もう 魅力ないですね。

そもそも 詠んだのが個人で
っていうふうに

思い込んじゃってるけど
ひょっとしたら

あの村で 昔から言い伝えられてる
いい歌とか そういうような概念で

もう 当時自体で…
大昔の人が詠んでいるやつとか

そういうものを集めたりも
してるわけですよね きっとね。

そうです そうです…。
だから 無名っていうのは

空間的に遠いから無名である場合と

時間的に昔のだから無名である場合と
両方 無名がありますよね。

歴史的な無名というのは
大体 集団の歌ですね。

だから 最初から もう 個人の力のない…。

それから 東歌なんかは遠い所にいて。
そうそう 東歌ですよ。

そこから引っ張ってきた兵隊さんは

東歌の作者と同じなんだけども

兵士になったら とたんに
個人の名前があるという

こういう不思議な現象が…。
そうですね。

そういえば どこそこの あれの何々って
防人になると個人名が生じますよね。

「万葉」の中にある発想って 明らかに…

ここが非常に面白い…。

これは非常に大事なことで やっぱり…

「万葉集」は人間への熱いまなざし?

うん。

僕なんか よく
いつも挙げるのが…

最後の一行 最後の一行。

要するにね 「長野県の道は

開発したばっかりの道だから

足が痛いから… なるかもしれないから

靴履いて あなた!」
って言ってる…。

最後の「靴 履いて あなた!」っていう…。

これ ただの文字なんですけど
大声で送り出すときに

手をこうやって
叫んでいる様子が見えるという。

それでいて 庶民なんかは
靴なんか持ってないんですよ。

願望なんです。
願望なんですよね。

それを「架空の現実」と
言ってはいけないんですね。   はい。

これに真実がある。
これは本当の歌だっていうふうに

思わなきゃいけない。
で これは何を言っているかっていうと

今 信濃路を ちゃんとパブリックの力で
政府で造っていると。

で いいかげんな工事だから。
いいかげんな工事だね 本当。

突貫道路でしょうと。
それを痛烈に皮肉っているわけです。

それを ちゃんと

愛の歌という伝統の中に入れ込みながら

政府批判の歌ではなくて

愛情の歌に変えてしまうという。
そうですよね。

それを見た人が やっぱり
みんな 感動するので

みんなで集めて見てると。
で 共有するというね これ…。

だからね やっぱり みんな 詠み手は
愛の歌に変えてしまうというね。

本音をぶっちゃけて言えば
愛が好きなんです 人間ね。

どんな政府批判であっても それを
全部 変えて 十分満足をしているわけ。

心の声を拾うっていうのが
やっぱり 「万葉」で。

その拾い方には そこに…

これが やっぱり 「万葉」の本質の 大体
近いものじゃないかなというふうに

今 思ってきました 私。

この家持が「万葉集」に記録した
防人たちの歌には

本当に深い意味があったんですよね。

何で この家持はですね その…
そういった人たちの歌を

残そうとしたんでしょうね?

これは もう 今は
推測するしかないわけですけど。

本当は 家持の仕事は
一君のもとに国家を束ねる

幹にあたる仕事を
木で言うと やってたはずなのに

葉っぱの多様性
枝葉のように分かれた民の…

「一君万民」って よく言いますけど

僕は「一君万葉民」っていうか
葉っぱのほうの…

国家が こうやって徴兵してきたら

彼らの家庭では
一つずつ物語が生じるわけですよね。

「あなた 本当に生きて帰ってこれるの?」
とか言って

さっきの足柄山の坂の歌のような話が。

葉っぱのまんまに
葉っぱを記録していくということに

何らかの楽しみを覚えたに違いない 彼は。
面白いですね。

私はね その一人一人が

やっぱり 歌をね 詠めるっていうのが
大したことだと思って。

歌が詠めるっていうのは

限られた字句の中で 文字数の中でね…

…みたいなのと同じように
その歌を詠めてしまう。

庶民が集められて
「行け」って言われて来るわけですよ。

いろんな思いを抱えて。

で そこで歌が詠めるっていうのは

文学性っていうか 教養っていうか
底力が

何か 隅々まで行き渡ってて
すごいなと思いますね。

国家が出来上がって
戸籍とか計帳とか作って

国民の名前や年齢を
がんがん書き始めるんだけど

気持ちを書き留めるっていうことまで
やっただろうかと

いろいろ…
絶対に思ってたと思うんですよね。

(里中)そうですよね。

税金を納めさせる対策じゃないですからね
これはね。

「万葉集」面白いなと思うのは

天皇の歌から 名もない庶民の歌まで

しかも それを記録してるのが
一応 まあ 貴族であって

それなりの立場にある家持なんですよ。

だから 日本の歴史の中で 実は…

…っていうふうに考えます。

そもそも 詠み人知らずの歌が

あれだけピックアップできたってことは

それは もっと
10倍 20倍あったはずなんですよね。

もう 江戸時代とかまで

お魚を運んできたお魚屋さんは

お魚を納めるときに
「お肴謡」っていうのを軽く謡う。

それを持ってきて
「うん よかったね」っていう人は

「よかったね」っていうのを謡い返す。

大工さんは 家が出来たら
「建前の謡」を謡う。

みんなは それを聞いて また返す。

この謡い合うっていうことは

随分 こっちまで
僕らは やってたはずなんですよ。

そのことを忘れちゃってるから

こういうことが
不思議に思えるかもしれないけど

とっても普通に…

そういう文化が
すごく多様にあったってことは…

このときに
東歌でも そうなんですけれども…

…っていうのも やっぱり

言葉を大切にする姿勢の表れだと
思うんですよ。

変に都言葉に直さずに。

そのまま書き留めようとしたのは

やっぱり 家持の持っている
さまざまな人への思いだと思います。

でね 自分が もしね
しんどい思いしてきたとかね

東のほうから来て
「ああ もう ふるさとへ

帰れないかもしれない」って
思ったときに

「ちょっと
気持ちを聞かせてくれ」って言われたら…

だから
そういう政治のやり方もありますよね。

「聞きますよ」って。

「力になりますよ。
何でも言ってください」って。

で 書きとどめて

「ずっと記録として 置いときますよ」って
言われるだけで

やる気になったり
前向きになったりするっていう。

ちょっと
これ やらしく 逆に 支配者的に見ると…

つまり 言葉を 音を。

しかも お国言葉で。

これは やっぱり
一つの支配の形ですよね たぶん。

で それを
全国から集まってきた防人から

集めてるっていうっていう面も
あると思うんですよ。

録音機があればね! 当時。
(馬場)ねえ!

絶対 欲しかったと思うんだけど。
ねえ! 家持さんはね。

家持が集めたものっていうのは

必ずしも 律令政府にとって 都合が
いいものばかりじゃないわけですよ。

これ 読みようによっちゃ
明らかに政権批判だろうみたいなの

いっぱい あるわけですよね。
それも集める。

だから ひょっとすると
「万葉集」っちゅうのは

君主のもとに 民の思いを…

葉っぱの 民の感情を集めて…

万民というのは
何を大事に 何を思って

暮らしているのかっていうのを
やっぱ 把握したいと。

でも 天皇は やっぱり 全国のすべてを
知らなきゃいけないんですよ。

暦も 時間も支配して 空間も支配して

名前… 人々の名前もね。
(いとう)「君主というものは」と。

(馬場)となると やはり
人々の歌っている歌も集めるのは

もしかしたら 支配の大事なもので。
もしかしたら もっと冷たく

ただ集めておしまいだったはずのものが
家持が やっぱり人をね 愛する…。

(いとう)発見しちゃった。
そう!

今 聞いてたら
「あっ そうか」と思ったんですけど

「この意見いいな」と思うと

ツイッターで
リツイートするじゃないですか。

人のも自分のも そんなに

区別がない感じじゃないですか 当時は。
「いいね」を押してるわけだ。

そう! 「いいね」を押してると

あんだけになっちゃったっていうのは
すごく 何か分かる気がする。

「うまいな」と思ったら
それ リツイートしちゃって

自分の意見も書いちゃうっていう。

さあ 家持は 越中での勤めを終え
奈良に活躍の場を移しました。

大きな選択を ここで迫られます。

聖武天皇は 娘 阿倍内親王に譲位した。

女帝 孝謙天皇の
誕生である。

当時 朝廷で勢力を拡大していたのは

藤原仲麻呂という男だった。

天然痘で亡くなった
武智麻呂の次男である。

仲麻呂は 叔母にあたる
光明皇太后の後ろ盾を得て

異例の昇進を重ね
大納言に抜てきされていた。

光明皇太后の中には

自分が皇太后としての権力を

保持するということとともに

女帝であるがゆえに

あまり
天皇として カリスマ性が十分にない…

…という部分は それは あると思います。

天平勝宝3年。

家持は 少納言となり
政界の中枢に近づいていく。

その翌年。

聖武天皇の悲願だった
大仏の開眼供養が盛大に催された。

父・聖武 母・光明皇太后と共に
孝謙天皇も式典に参列した。

ところが 孝謙天皇は 式典後
宮中には帰らず

仲麻呂の邸宅に 長くとう留した。

この出来事は
仲麻呂の力を天下に示すこととなった。

政権トップにいた橘 諸兄の地位は
次第に脅かされ

家持の立場も危うくさせる状況が
近づいていた。

「万葉集」の家持の歌の中に
このころの苦悩がうかがえる一首がある。

国文学者の鉄野昌弘さんは

歌に込められた家持の思いを
こう推察する。

「雲雀は空高くうらうらに
晴れ上がった空に飛んでいて

で 自分は それに対して
地上で一人

心悲しく思っている」っていう
そういう歌なんですよね。

橘 諸兄の権力が空洞化していって

藤原仲麻呂の権力っていうのが
増大していくという。

当時の大伴氏の苦境であるとか

家持の
政界での孤独っていうような

そういうことと関連する歌だろう
というふうに思います。

天平勝宝8年。

さらに家持の苦悩を深める事件が起きた。

大伴氏の長老の一人 古慈斐が

朝廷をひぼうしたとして

出雲守を解任されたのだ。

それは 仲麻呂の計略によるものだった。

一族の暴発を危惧した家持は

軽はずみな行動で大伴の名を汚さぬよう
自重を促す歌を詠んだ。

「大和の国で
曇りなき名を持つ大伴一族よ

その名に恥じぬよう 務めを果たせ」。

(すすり泣き)

あんた 何 泣いてんの?

ふ じ わ らの… 仲麻呂が憎い!

せやけど 今 藤原と争いになったら
国が乱れるがな。

大仏さんが出来て まだ4年。

仏さんに恥ずかしいことしたら

天皇さんにも
背くことになるんちゃうんかいな。

分かっとるわい!
せやから 家持坊ちゃんは

みんなに
「早まるな」って諭さはったんやわい。

家持坊ちゃんが
一番悔しい思いしてはるんやろ?

それが分かっとるから
涙が止まらんのじゃ!

いつの間にか 大きいもんを
背負わはるようになったんやな。

(泣き声)

しかし 家持にとって
事態は悪化の一途をたどった。

天平勝宝9年
仲麻呂に対抗していた 橘 諸兄が死去。

これを機に
仲麻呂は行動をエスカレートさせていく。

前年に亡くなった
聖武の遺言で決められた

皇太子 道祖王を廃し

代わりに 自分の邸宅にかくまっていた

大炊王を新たな皇太子に立てたのだ。

さらに 仲麻呂は
橘 奈良麻呂を閑職に追いやり

大伴氏の高官も左遷。

仲麻呂の横暴極まるふるまいに
大伴一族の怒りは頂点に達した。

橘 奈良麻呂を中心に政変を起こし
仲麻呂を打倒しようというのだ。

越中で家持を支えた池主も
首謀者の一人に加わった。

政変の計画を知った家持。
その心の内に分け入ってみよう。

皇位を ぞんざいに扱い

朝廷を意のままに動かそうとする
仲麻呂様のふるまいを

このまま見過ごすわけにはいかない。

池主をはじめ 一族の者が

奈良麻呂様と行動を共にしようとしている
気持ちは よく分かる。

大伴の力を集めれば

ひょっとしたら 仲麻呂様を
倒すことができるかもしれない。

だが 仲麻呂様の背後には
孝謙天皇がおられる。

このたびの企てを どうお考えになろうか。

やはり 武力に訴えることを慎み

事態を静観するべきなのではないか。

武門の氏族 大伴の力は
天皇の御身を守るためにあるのだ。

一族の不満を訴えるために
使ってはならない。

苦悩する家持に 猶予はなかった。

厳しい選択を迫られた家持ですが

信頼している池主もね そういう…

「やってやる!」っていう感じに
なっちゃってますからね。

池主 結構 過激ですからね。
あ~。

ほっといたら
あんまり出世できる人じゃないんでね。

大伴で… 没落なうえに
端っこの人たちっちゅうのは

藤原 やっつけなきゃ
浮かび上がってこれないわけですから。

だから この辺は 突き上げてきますよ。

「そりゃ 坊ちゃんはいいでしょ
そこそこのとこでいけるから」

みたいなことを言われたに違いないです。

(澤田)先ほど 池主の話が出ましたけど

あと 古麻呂なんかも結構 過激派で。

鑑真を連れて来るときの
遣唐副使なんですけど

大使は「鑑真は 中国のほうで
とても大事にされてるから

いや ちょっと 乗せるの
無理だよ」っていうんで

大使は やめさせようとするんですけど

古麻呂が 「いやいや
聖武天皇様 言ってたから」って言って

連れて来ちゃうんですよね。

結構 目的のためには
手段を選ばないタイプの古麻呂なので…

非常に名誉心が強くて
もともと 軍人の集団なんで

絶対 うちの親分の利益のためにやって

恐ろしい命でも
平気で やるところがあるんでしょうね。

よく言えば 果敢な…。
大伴の中には。

家持も 大伴の代表だったかどうかは
もしかしたら 分かりません。

あくまでも…
それは 確かに 旅人の子ですから

「家」っていう意味では
大伴家の代表になるはずなんですが。

それこそ
古麻呂とか いろんな人いますので。

勢力図に大きな変化があって。

その中で 橘という 新しく出来た家も
ちょっと調子悪くなってという。

そういう すごく…

だからね もしかしたら 家持としては
みんなの怒りも分かると。

確かに 仲麻呂は ちょっと横暴だと。
強引だ。

しかし 彼は彼なりに
この国を新しく生まれ変わらせて

盤石なものに
しようとしているのではないか。

何か いろんな人の声を

ちゃんと聞いてあげようって思える
家持だからこそ

相当 苦しい気持ちだったかも
しれないですよね。

さあ それでは 大伴氏の命運を懸けた
家持の選択 ご覧ください。

うわっ! おっかあ どないしたんや?
包丁なんか持って。

もう我慢ならん!

藤原の「ナカマロ」か「ソトマロ」か
知らんけど

うちが いてこましたる!

ちょっと 待て 待て!

「大仏さんに恥ずかしい」って言うてたんは
誰やねん。

とほほ…。
あんた こら 困ったこっちゃで。

(2人)困ったなあ…。

(すすり泣き)

家持坊ちゃん どないしまひょ?

仲麻呂打倒の計画は急展開を見せた。

橘 奈良麻呂が挙兵しようとしたことが
密告により露見したのだ。

厳しい取り調べの結果

計画に関わった者は
死罪 流罪に処せられた。

橘 奈良麻呂だけでなく
大伴氏からも 池主をはじめ

家持に近い者たちが
命を落としたといわれる。

共謀者とされたのは443人に及んだが

そこに
家持の名はなかった。

家持は
事態を静観するという選択をしたのだ。

「万葉集」の中に このときの家持の胸中が
うかがえる歌が残されている。

「咲く花は 移ろふ時あり」
っていうのには

明らかにですね
人のことが託されていて。

恐らく…

実際に 華やいで
橘氏の場合は瓦解していった。

そういう氏族っていうのが

例えられているんだろうと
思うんですね。

一方「山菅の根」というのは
非常に…

それは やはり天孫降臨とか

神武天皇以来の歴史というのを
持っている大伴氏ですね。

ずっと皇室の脇でですね

仕えてきた者たちであるっていう

そういう
その大伴氏の歴史っていうのが

託されていて。

「山菅の根し 長くはありけり」。

長かったのだというような
思いをですね

そういう大伴氏の
粘り強さっていうものを

表現しているんだろう
というふうに思います。

家持は
変わりゆく時勢に動揺することなく

大伴氏本来の務めを果たす覚悟だった。

家持の選択によって
それまで集めてきた数々の歌は守られた。

ということで 家持は 結局
仲麻呂打倒計画には 加担しませんでした。

この選択 里中さん
どうご覧になりましたか?

やっぱり どうやっても 今は勝てないと
判断したんじゃないかなと思います。

それと こういう騒ぎを起こすと
やっぱり 天皇様に悩みを与えてしまう。

昔の神話の時代のころからの

大伴の使命っていうと
大げさですけれども

そういうふうに思ってたでしょうから。

たとえ どんなことであれ
騒ぎを起こしてね

自分たちに大義名分があろうとも
それによって 天皇様をね 悩ませたり

混乱させたりするようなことは
あってはいけないんじゃないかと。

…だと思ってたような気がしますね。

当然 藤原一族でも 国家への忠誠とか

天皇制度への忠誠はあったかもしれない。

あるいは大伴の 今回
頑張った人たちもそうだと思うんですが。

この家持は…

もちろん 神話の世界以来
それは繰り返しなんですよね ずっと。

たぶん 家持は 本当に…

ほかの大伴氏は
もうちょっとこう 近代化されちゃって

システムとしての国家だとか
天皇とかになってくると戦うことになる。

もし 個人としての 聖武天皇なり
あるいは その先にある孝謙天皇なりに

忠誠と考えたら
その人が政権を委ねている仲麻呂に

反乱を起こすのは どうなんだろうと。
そういう問題になりますよね。

私 そもそも論になってしまうんですが
私は 奈良麻呂の乱というものは

そもそも
政変と呼べるほどのものだったのかと。

もちろん 彼らが 反藤原で
結構 あの人たち よく宴会やってて

反藤原勢力で よく飲んでるんですけど
記録を見ますと。

それが じゃあ もう
仲麻呂を討とうというほどの

積極的な行動だったのかなっていうとこは
ちょっと 以前から疑問を持ってまして。

というのは…

…のが この乱なんですよ。

藤原仲麻呂って
自分のおじいさんですら

邪魔になると
左遷して飛ばしちゃうんですよね。

だから 結構 手段 選ばない人なので
ひょっとしたら 奈良麻呂の乱って

彼らの不平不満を
ちょっと 小耳に挟んで

ガッとすくい上げようと思って
やられた…

ただ そう思うと じゃあ 何で家持は
そこで引っ掛けられなかったんだろう

っていうのは不思議なんですよ。

だから ひょっとしたら
仲麻呂からすると…

…っていうふうに考えます。

いとうさん どう思いますか?

僕は 家持が もし… っていうか

何を じゃあ 俺がすればいいんだ
っていったときに

あまり その手がないと思うんですよね。
むしろ 文化的な官僚であって。

なので 今 まあ 澤田さんの
おっしゃるようなことがあったとすると

仲麻呂に対して
裏で 政治的に手を回して

いろんな人たちを説得するとか
「まあまあ」って言うとか

「ここは うちを守ってください」って
言うとか…

手紙出すとか
そういうことを してたかもしれない。

まあ 彼としては 裏側には
一応 つながりを持っているので

彼には 累が及ばなかったってことも

ありうるだろうから…

…っていう考え方ですね。

できるやり方は やったんじゃないかと。

なるほど。
…なんだけど 僕はね ちょっとね

一緒になって このとき 仲麻呂を殺して
一気にクーデターやっちまうのも

ありだと思うんですよ。
じゃないと もう 限界にきてるんですよ。

それは できないでしょうね。

それは 家持の性格からして
天皇の意思なしにはできないよね。

これが 大きいとこなんですよ。

(いとう)そこに
ネゴシエーションできてれば…。

兵器の場所と所在と数は知ってても…
しかも 長官じゃないですからね。

ちょっと そこは
つらいとこじゃないですかね。

家持はね もしも 天皇が言ったら…。

別に 立場関係なく
声上げた者の勝ちですから。

どうもね この大伴っていうのは

大伴氏利益のために
軍事発動をやるってことは

非常に抑制的にしてきてる人たちで。

それで生き延びてもきてるんですよ
確かに これまでは。

この時期の仲麻呂って
結構 孝謙と まあ ずぶずぶとは…

男女の仲という うわさがあるぐらいの
まあ 状態ですから

そういった相手に 弓を引くことを
果たして 家持は良しとしたのか。

…ってなったときに
いや ちょっと手出しにくいよな

っていうのは あったんじゃないですかね。

そうか それは固めてますね 向こうもね。

でも どうなんでしょう?

さらに 「万葉集」の編さんを
頼まれていたわけじゃないですか。

それも 選択には
影響あったんでしょうか?

っていうか
もしも 彼が関与してしまって

ここで処分されてしまったら

彼が管轄していた文書って
どうなっていたんですか? つまり。

もう どこかに散逸するとか…

それを もし 大事に思っていたら。

こっちのほうが 価値があると
思っていたとしたらっていう。

制度的に言えば 木簡ということで
国による差し押さえで

国が収納しますけれどね。

家持は 反乱側だっていうことになれば…。

自分が 最後まで責任を持って
これは ちゃんとしたいっていう思いは

あったような気もします。
これ 差し押さえられちゃうのは

ちょっとな… ってね。

さあ それでは 選択後の家持を
ご覧いただきましょう。

(夫)つらいなあ…。

(妻)つらいなあ…。

やっと 事が収まったと思たら
やっぱりなあ。

家持坊ちゃん 今度は因幡国か。

(夫)坊ちゃん もう わしらは年ですさかい
ここでお別れです。

(妻)坊ちゃん どうか お達者で。

おっかあ
よう ここまでお仕えしたもんやなあ。

あんたも 髪が白うなったもんや。

あほ! これは梅じゃ。
梅の花が散っとんのじゃ。

ああ いつか そんなことも
あったような…。

橘 奈良麻呂の変の翌年

家持は 現在の鳥取県東部

因幡国への赴任を命じられる。

天平宝字3年 正月。

新年をことほぐ歌を詠む。

「新春の今日 降りしきる雪のように

一層良いことも 積もり重ならんことを」。

この静かな祈りの言葉が

4, 500首を超える「万葉集」の
最後を締めくくる歌となった。

その後も家持は 謀反計画が発覚すると
しばしば関与を疑われた。

因幡守以降 薩摩 相模 上総など

地方での勤めを重ねることが多かった。

天応2年 60歳を過ぎた家持は

鎮守将軍として
奥州 陸奥国での勤務を命じられた。

武門の大伴氏の名に恥じぬよう

朝廷に敵対する蝦夷と対峙し続けた家持。

延暦4年 現在の宮城県 多賀城で
その生涯を閉じた。

家持が編さんの中心を担ったと
考えられている「万葉集」。

その完成時期は定かではない。

しかし 都が 奈良から長岡京を経て
平安京に移った時期に見いだされ

「万葉集」の名は
後世まで広く知られるようになった。

ご覧いただいたように 家持は

奈良麻呂の乱で
処罰は受けませんでしたけれど

因幡へ行くことになりました。

いろいろ むなしいんですけれども

でも ここに来て このまま
人生 終わるのかなといったときに

最後の歌はね 私は ものすごく
思いがこもってると思ってます。

もう 意図して
「はい 私 とにかく こういうつもりで

本当に心から祈ります」っていう感じで

「どうか 良い世の中でありますように」
っていう…。

すばらしい歌だと思うんですね。

何か 絞り出したようなひと言を最後に
彼の言葉はなくなるわけですよ。

「万葉集」には残っていないですけども

例えば 「百人一首」にもね
あったりするんで

彼自身は歌ってた…?
私はね 歌ってたと思うんですよ。

人間の癖って
そうそう変わるものじゃないから

あれだけ歌を詠んでね
歌を集めてた人が

ある日 突然
パタッとね やめるっていうのは

これは ちょっと 不思議すぎるので。

だから 何かで なくなっちゃったか…

希望… 希望も込めて。
希望も込めて?

いとうさん いかがですか?

歌には歌の論理っていうものがあって

現実では刀を持って
相手に勝てなかったとしても

想像の中で
それを超越するっていうことはあって。

それが… だから 文学って
ずっと 人類が残してきているもので。

その論理で言えば
「雪の中で お正月 来ました」って…。

「また いいことが
ありますように」なんて…

そこしか言わないって
逆に こう 皮肉にも取れるし。

寂しさが 何か こう…

人間として 何か
事象を上回っていくっていうような…。

これは だから 歌として すごく…

…みたいなものを 僕は ここに見るし

これが
最後の一首になっているっていうのも

これは 編集者としては
冥利に尽きるような

編集の仕方するよね」とも
後の我々が受け取れる

これが歌っていう文化の すごく
幅のあるところなんだっていうことは

確かだと思うんですよ。

その「万葉集」は その後も
大きな影響を私たちに与えていますが

例えば 江戸時代や幕末

そして 今回 新元号で
改めて注目されていますよね。

時代の節目節目に
どうして「万葉集」は注目を集めるのか。

私自身の感想で言いますと

やはり 「万葉集」っていうのは
確かに歌なんですが

歴史書に出てくるキャラクターたちの
いろんな思いが

その中に込められている。
例えばなんですけど あの…。

飛鳥から近江に
都が移ったときがあるんですけれど

歴史書の中には「都移りがありました」。
「みんな 遷都しました」なんですけど。

そのときに
「万葉」の女流歌人として名高い

額田王が三輪山を見て

「三輪山が 雲に
隠れているのを見て

最後のお別れなのに」って
嘆く歌があるんですよ。

その中には
「都移りがあって さみしいな」って

「故郷を捨てるんだな」っていう
人々の思いがある。

だから 「万葉集」っていうのは
思いが込められた

しかも そこに 歴史も一緒に込められた

一つの歴史書というふうにも
読めると思うんです。

人の気持ちの根底のところって

昔も今も変わらないなっていう
実感があって。

「万葉集」を読んでいると
男女の区別もない 身分の区別もない

政治犯の歌も平気で載ってるし

そういう人に同情する歌も
載ってるしって。

何よりありがたいのが
日本語として読めるんですよ 私たち。

言葉っていうものがね
なくなってしまった民族も

たくさんあるんです 世界中では。

運がいい国土だなと思います 本当に。

だから そのありがたさを
かみしめながら…

いろいろ教わる気がしますね。

よくね 中西 進先生と 冗談で…

ああ…!

確かに。
ねえ 言ってるんですが。

言うのも言葉の力ですから。
確かに。

皆さんの… 刺激を受けたんですが
やっぱり

言葉と歌を信じる力

そのスタートとして
振り返られるのかなと。

あのですね

よく「万葉集」と「古今和歌集」って
対比されますけども

「古今和歌集」の序。

「やまとうたは人の心を種として」
そのあとです。

「万葉」って言ってるんですね。

そうすると
あの… 「和歌集」で言われた

人の心を 気持ちを種として

それが命を得て 大きく膨らんで
一つ一つの言の葉になっていく

魂を得て 言の葉になっていく
そういう…

そして 何か
その… 葉っぱが ひらっと落ちてきて

紙の上に乗ったら 葉っぱのはずが
すっと 字に変わったのを

私たちは見ているのかな…。

(いとう)「万葉集」っていうのは
いまだに

本当にそうか 分かってないことが
いっぱいあるじゃないですか。

あのころ出来て 百何十年で
編さんされたもののみならず

そこから ず~っと
現代まで解釈が ず~っと…

歌人も研究者も何も解釈が…。

だから この… 分からないところもある。

人の気持ちって こうも解釈できるし
こうも解釈できるという歌だからこそ

このように 常に何かを映す…
投影することができるっていう

装置になりやすいと思うんです。
しかも これが身分が関係ないとなると

本当に みんなの気持ちが
いろんなふうにも読み取れる。

だから…

今日 皆さんのお話 聞いてて 私も

1, 300年前のことなんだけれど
そのときに編さんされた

この「万葉集」というものが
いかに人肌があるものなんだなって…。

人肌感があるね。
「万葉」の「よう」は もう

「多様」の「よう」と言っていいぐらい
いろんなものが… 本音が詰まってる。

だから 開くと 1, 300年前なんだけど

缶詰みたいに
やっぱり 生々しく上がってくるんで

「へえ~ 人って 本来 こういう思いを
描くものなのか」っていうのを

やっぱり 曲がり角になったら
見たくなりますよね。

それでじゃないでしょうかね。

…っていうのがあるから。

家持は「花は散っていくけど 根は残る」
っつったけど…

だから たぶん
目先の乱に乗って死ぬよりは

少々 自分の…
一時 自分の部族を栄えさせるよりは

「万葉」を残してくれたことに
えらい感謝をするんですよね。

おとなしいやつだとは思いますけど 本当。

(いとう)おかげで…?
大いに 僕は感謝してるんですよ。

「万葉」を残したことへの感謝。
はい 家持さんたちに。

でも それこそ 皆さん
言葉として 文字として 絵として

残していくことを
されていらっしゃるので

1, 300年後の人たちは
皆さんのを見て こう…

いろいろ感じ取るかもしれないですよね。

本当に 皆さん
今日は ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。


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