先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 原爆の地に勇気と希望を!広島カープの奇跡」カープはいかにして復興のシンボルと…


出典:『先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 原爆の地に勇気と希望を!広島カープの奇跡」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 原爆の地に勇気と希望を!広島カープの奇跡」[解][字]


日本の戦後復興に尽力した人々の行動と信条から、明日を生きる知恵を2回に渡って伝える。1回目は、原爆の地、広島の復興の象徴として誕生した、広島カープの奇跡の物語。


詳細情報

番組内容

昭和20年8月6日、原子爆弾によって灰燼と化し、75年間は草木も生えぬといわれた広島。その復興のシンボルとして誕生した、広島カープ。昭和24年、カープは、県や市など自治体などの出資で、親会社を持たない市民球団として設立された。原爆の地に勇気と希望を!その思いとは裏腹に、資金難で、当初から解散の危機に立たされた。カープはいかにして復興のシンボルとなったのか?カープを作り、支えた人々の奇跡の物語!

出演者

【出演】二宮清純,中井美穂,広島大学平和センター教授…川野徳幸,【司会】新井秀和


『先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 原爆の地に勇気と希望を!広島カープの奇跡」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 原爆の地に勇気と希望を!広島カープの奇跡
  1. カープ
  2. 広島
  3. 選手
  4. 復興
  5. 石本
  6. ルーツ
  7. チーム
  8. 監督
  9. 昭和
  10. 広島カープ
  11. 優勝
  12. ファン
  13. 球団
  14. 原爆
  15. 今日
  16. 誕生
  17. 二宮
  18. プロ野球
  19. 後援会
  20. 自分


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今宵の「知恵泉」は
戦後の焼け跡から立ち上がった

あのプロ野球チームです。

昭和20年8月 太平洋戦争に敗れた日本。

日本は 全土にわたって空襲にさらされ

廃虚となった町では
人々は食べるものもなく

途方に暮れていました。

しかし 焼け跡から立ち上がり

その後 僅か数十年で

日本は まれに見る
経済成長を遂げることになります。

「奇跡」ともいわれた この戦後の復興。

さまざまな分野で
尽力した人々の思いと行動力から

明日を生きる知恵を
2回にわたって探ってゆきます。

今宵 取り上げるのは…。

(実況)空振り三振! カープ優勝!

プロ野球チーム…

昭和20年8月6日

人類史上 初めて
原子爆弾が落とされた広島。

その4年後 カープは
広島の人々を野球で勇気づけるために

親会社を持たない唯一のプロ野球チーム

市民球団として誕生しました。

しかし カープは 初年度から

苦難の道を歩むことになります。

振るわない成績。

すし詰めの三等車で移動するほどの
資金不足。

存亡の危機に立たされたカープは
いかにして立ち上がり

広島の復興のシンボルとまでいわれる
存在になったのか。

広島カープをつくり
守り 育てた人々の知恵から

スポーツの持つ力に迫ります。

今回 その知恵を読み解く仕事人は…

国内外のあらゆる競技に精通し

試合結果にとどまらない

歴史や社会的背景を踏まえた
鋭い視点から

スポーツを語り 評する
ジャーナリストです。

そんな二宮さんは
自他ともに認めるカープウォッチャー。

自身が運営するウェブサイトでは

「カープ・アイ」と名付けた
連載コーナーを設け

愛情あふれる
しった激励を送り続けています。

原爆の惨禍から 人々が

復興への勇気と希望を託した

広島カープの奇跡の物語です。

今日も暇だな。
グラスが どんどん きれいになっていく。

こんばんは~。
おっ いらっしゃいませ。

こんばんは。
お待ちしておりました。

あっ! 二宮さんも。
こんばんは~ どうも。

いらっしゃいませ。  今日は 2人連れ。
どうぞ どうぞ こちらに お掛け下さい。

お邪魔しま~す。
いらっしゃいませ~。

お待ちしておりました~。

いや 今日は あの
野球に縁の深い お二人をね

お迎えしてということなんですけれども。

二宮さん 今 あのVTRで

カープが
お好きということでしたけれども

でも そもそも愛媛出身でいらっしゃる…。
私 もともとは

子どもの頃は 巨人ファンだったんですよ。

「巨人 大鵬 卵焼き」の時代ですから。
はい。

ところが 中学時代に
当時ラジオを よく聴きましたよね。

ええ ええ。
瀬戸内海を挟んだ

広島のラジオ局からですね
カープの中継が入るんですよ。

それで ずっと聴いてるうちに
洗脳されて

カープ好きになってしまった
ということなんですよ。

そういうことですか。
はい。

中井さんは あの スワローズファン?

まっ もともとは
野球に そんなに興味がないまま

あの 野球の番組に
携わることになりまして

そこで勉強して 何か
身内に野球選手ができてしまいまして。

ご主人がね。
やっぱりね お世話になりましたし

気になるので
まあ ヤクルトですね やっぱりね。

そうですか~。
二宮さん どうなんでしょう あの

カープって よく こう
広島の復興のシンボルなんて

いわれますけれども。
そうですね

球団の その生い立ちが ほかの球団とは
やはり ちょっと違うんですよね。

つまり その
焼け野原になったあとにですね

本当に 市民 県民の
希望の星として生まれたと。

そして 今に至ってると。
へえ~。

どうやって その球団が出来たのかね

今日は いろいろと お話
伺っていこうと思いますけれども

今日 用意したメニューは
やっぱり これでしょうかね。   アハハ!

はい。
わあ お好み焼き!

そうなんですよ。
どうぞ召し上がって下さい。

はい いただきま~す。
せっかくですからね。  いただきます。

これ 広島流?
はい。

広島のお好み焼き。
何が違うんですか?

普通の…。
これはね 麺が入っているところが…。

あっ 確かに。
まあ よく比較されるのは

関西風っていうのもありますけれども
でも 伺うとこによりますとね

何々風っていうのは それぞれ
あんまり言わないって聞きましたね。

あっ そうなんですか?
うん 何か やっぱり自分たちのが

お好み焼きだっていうふうに
思ってらっしゃる方

多いみたいですけれどもね。
おいしい。

やっぱり その 広島の
お好み焼きの特徴が まさに その

重ねてあるということなんですが

そこで このお好み焼き
こんなメニュー付けました。

こんな名前を付けました。

いろいろな…

そうなんですよ。 ありがとうございます。

いえいえ。
そう受け取って頂いて。

では まずですね そのカープが
どうやって生まれたのか

そこから見ていこうと思います。

広島市の中心部 旧太田川が分岐する
三角州に広がる…

原爆によって亡くなった人々の慰霊と

核兵器のない 恒久の平和を願い求める

広島のシンボルとしてつくられた
この公園は

昭和24年に成立した

広島平和記念都市建設法に
基づいて整備されました。

その同じ 昭和24年

広島カープも産声を上げたのです。

日本のプロ野球は
戦争による中断を経て

昭和21年に再開。

娯楽に飢えていた国民に
熱狂的に支持されていました。

その人気を踏まえて
日本野球連盟の正力松太郎は

それまで8球団だった
プロ野球のチームを増やし

2リーグ制を提唱します。

これを受けて 広島の有力企業の人々や
政治家が動きます。

戦前から野球王国といわれた土地柄

プロ野球チームをつくって
原爆に打ちのめされた人々を

勇気づけたかったのです。

彼らは 自治体の協力を取り付け
創設準備委員会を結成。

大企業の傘下に属さない

いわゆる 市民球団として

プロ野球への参加を申し入れます。

チーム名には 「カープ」のほかに
いくつかの候補がありました。

レインボー…。

一つは…

しかし 虹のように
すぐ消えては困ると却下。

アトムとは 原子の意味。

広島の悲劇を繰り返さないという
意味がありましたが

スポーツに政治性を持たせるのは
避けるべきだとされました。

平和都市 広島を
表現するには最適ですが

う~ん いまいち強そうに聞こえません。

やっぱり カープですかね。

うん 広島のチームなら
カープのほかには なかろう。

鯉は 広島市を流れる
太田川の名産であり

滝を登る力強い姿は
生命力の象徴とされます。

原爆の悲劇から立ち上がろうとする思いが
カープの名前に込められたのです。

こうして復興のシンボルとして
誕生した市民球団 広島カープ。

しかし その前途には
さまざまな苦難が待ち構えていました。

うん。 ということだったんですね。

カープが どういう成り立ちで
今あるのかってことを

知ってる人は
意外に少ないかもしれないですね。

市民球団であるということも
案外知られてないのかもしれないなと

思いました。
あの 先ほども出ました

正力松太郎さん
当時のコミッショナーですよね。

今で言う エキスパンション
球団数を増やしましょうと。

この背景には いくつか
理由があったと思うんですよね。

まあ その やはり…

…という背景があった
というふうに思いますね。

一方で そのGHQによって

禁止されていったものも
あったわけですよね。 そうですね。

あの例えば その武道とかですね

そういうものは
まあ あんまり奨励されなかったと。

ということで 今日は
あの原爆の被害を研究されていって

戦後の広島の状況にも お詳しい方を

実は もう
お招きしているんですけれども。

もう店内にいらっしゃるんですが。
えっ? あっ!

よく見て下さい。

いつから そこに? こんばんは。
この店 広いんですよ。

いろんな所に お客さんが…。
すごい静かな お客さんですね。

ちょっと ちびちびと
先生 飲まれてましたけれども

どうぞ こちらで
みんなで ワイワイやりましょうか。

こんばんは。

いつの間にか店にいた この方は
川野徳幸さん。

原爆や被爆 平和教育の研究を行う

広島大学平和センターの教授なんです。

いらっしゃいませ お待ちしておりました。
お邪魔します。

あの どうですか 川野さん
その カープの誕生

やはり広島の人たちにとっては
大きな出来事なわけですよね?

1945年の8月6日の原爆の投下によって

その年の12月までに 10万人以上が
亡くなったというふうにいわれてます。

まあ原爆被爆者の人たちが
よく言うんですね。

昭和20年8月6日以降の10年間を

空白の10年というふうに
被爆者の方々は呼んでるわけです。

まあ そんな10年の間にですね
この広島カープが出来たというのは

やっぱり その彼らが
まあ復興の過程において

さまざまな不安だとか 心配だとか
いろんなことを抱えていたと。

放射線由来のさまざまな疾患が
発症するリスクを

非常に… まあ 生涯負い続けるという

そういったものに 彼らは
対峙しなきゃいけないと。

で カープというのが
一つの まあ 復興の希望みたいな

そういったものを多分
カープに投影したんだろう

というふうには 今 考えています。

う~ん もう それだけ つらい時代の

何て言いますか その一つの
希望っていうものってことなんですよね。

あの当時 原爆市長と
まあ その後も ずっと

原爆市長というふうに
命名されている

浜井信三という
市長がいるんですが

まあ浜井さんなんかもですね
彼の回想録の中で

当時は娯楽 映画ぐらいしかなかったと。

まあ そういった中で あのカープに…。

広島カープの誕生というのが まあ…

そういった
強い思いがあったというようなことを

回想録に書かれてますね。
でも そう考えますと

その昭和24年っていうのは

広島平和記念都市建設法が
出来たのも24年ですし。

そうですね。
カープが誕生したのも 24年で。

そうです。 まあ カープに投影した
復興への思い

まあ 心の復興ということであれば
心の復興の元年。

で まあ 都市建設法が出来るということで
物の復興の元年という

2つの元年 あるいは 記念の年
ということになるのかもしれませんね。

スポーツとか アートって
なくても困らない…

ねっ 食べ物とか 空気とか
そういうものと違いますけど

だけれども やっぱり
それにしかできない役割っていうのが

やっぱり あると思うんですよね。
人を応援することで

自分にも力が よみがえってくるっていう。

そうして誕生した
カープなんですけれども

そう簡単には
いかなかったっていうものの

一つがですね ちょっと見て頂きたい
写真があるんですね。

こちらなんですね これ。 何の写真だと?

これ 電車ですよね?
ねえ。

みんな 何か あの…

そうなんですよ。
これ 実は 遠征に行くために…

選手なんだ。
当時は まあ

親会社がないことでですね なかなか
その資金源もないということで

給料も遅配が続いてたりしてたって
言いますね。

この写真が象徴するように
その資金不足によってですね

カープは 存続の危機に
陥ることになるわけなんですが

それを どうやって乗り越えたのか。

最初の知恵 味わってまいりましょう。
はい。

広島の人々の希望を託され

華々しく そのスタートを切った
広島カープ。

栄えある初代監督を務めたのは

丸い眼鏡に鋭い眼光がトレードマーク…

戦前の全国中等学校優勝野球大会。

現在の夏の甲子園で
広島商業の監督として4度の優勝。

プロでも 大阪タイガースを
2度の優勝に導いた名将でした。

石本は 大陽ロビンスの監督を辞めて

カープの監督に
自ら名乗りを上げたといいます。

実は 石本自身も
家族を原爆で失っていました。

広島の復興に
強い思いを抱いていたのです。

しかし 石本にとっては
これが苦難の道の始まりでした。

なんと
石本が監督に内定した10月の時点で…

当初 カープは 自治体からの補助金や
地元企業の寄付などを合わせて

およそ2, 500万円の設立資金が
入る見込みでしたが

蓋を開けてみると 予定の8分の1。

300万円程度しか集まらず

セントラル・リーグへの加盟金
300万円も

待ってもらっている状況でした。

2リーグ制が決まり
球団は倍近くにまで増えています。

選手の年俸が高騰したことで

懐の寂しいカープは
相手にもされませんでした。

そこで石本は 自らの人脈を頼りに
全国をまわり

選手を かき集めました。

既に引退し 喫茶店を開く
元選手にまで声をかけたといいます。

また こんなエピソードも残っています。

県内の有望な学生球児を自宅に招き…。

お前ら カープに入れてやるから
ここに判を押せ。

契約書だ。

あの~ 給料は
いくらくらいもらえるんでしょうか?

とりあえず 両親に相談しないと。

細かいこと気にするな! はい はよ押せ!

ほれ! ほれ!

手段を選ばぬ強引な勧誘で

なんとか
チームとしての体裁を整えた石本。

しかし シーズンが始まると

更なる危機が 石本とカープを
襲うことになります。

開幕から3戦目で カープは初めて

本拠地 広島での試合を迎えます。

ここでカープは
国鉄スワローズを相手に

ファンの声援を受けて打ちまくり 16対1。

大差で勝利。

更に翌日 4対3で
阪神タイガースを破り 地元2連勝。

ファンたちは熱狂します。

しかし 資金の乏しいカープは

間もなく その勢いを失っていきました。

遠征では
寝台車の切符を買うことができず

選手たちは すし詰めの三等車での
移動を余儀なくされます。

旅館の宿泊代を払えず 選手の実家や
親戚の家を泊まり歩きました。

こんな ありさまでは
試合で力を発揮できるはずもありません。

更に 当時のプロ野球は
試合を開いた時の興行収入を

勝ちチームが7 負けチーム3で取る
決まりがありました。

資金がなくて勝てない。

その結果 興行収入が少ない。

更に 金が足りなくなる。

出口の見えない悪循環に
さしもの名将 石本も

なすすべがありませんでした。

昭和25年のシーズンが終わって

カープは…

全てのチームに負け越して
8球団中 断トツの最下位でした。

翌年 シーズン開幕を前にして

セントラル・リーグの顧問 鈴木龍二が

お荷物球団と化したカープに対して

ある提案を行います。

リーグへの加盟金300万円さえ
支払うことのできない

貧乏球団のカープに対し

連盟は 事実上の
解散通告をつきつけたのです。

球団は なんとかチームを残せるよう

さまざまな大企業に
スポンサーになるよう持ちかけますが

話をまとめることはできません。

もはや これまで。

3月14日 球団幹部たちは会議を開き

ついに 合併話を
受け入れることが決まりました。

まさにゲームセットです。

そして 決定を告げるために
監督である石本が呼び出されました。

ところが 会議の場に現れた石本は

幹部たちに
一発逆転のアイデアを提案したのです。

案があります。 後援会をつくるんです。

後援会?

大きく出資を募るのではなく

広く人々に窮状を訴え
募金を集めるんです。

勝算はありますかね?

やってみなければ分かりません。

でも なんとかなると思います。

石本の提案は
大口のスポンサーに頼ることは諦め

ファンに 町内会や職場
学校単位で後援会をつくってもらい

それぞれの会員から
年間200円の会費をもらうというもの。

スポーツライターの西本 恵さんは

石本の発言は 決して その場の
思いつきではなかったと考えています。

石本に
後援会のアイデアを着想させたもの

それは チームが県内の中学校で
紅白戦を行った時

地元ファンから
大歓迎された記憶だったといいます。

3月20日。 石本は 広島県庁の前で

ファンに向けて
後援会づくりの第一声を上げています。

このままでは カープは
潰れてしまいかねません。

被爆の町 広島に

二度と このように郷土に根ざした
チームが誕生することはないでしょう。

皆さん一人一人のお力で

どうか カープを
救ってやって頂けないでしょうか。

更に石本は 新聞紙上に手記を寄せ

後援会への参加を呼びかけました。

そして…

石本は 実に1万人以上に会い
頭を下げたといいます。

石本だけではありません。

選手たちも 県内各地に出向き
協力を訴えました。

場を盛り上げるために
壇上で「炭坑節」を歌う選手もいたとか。

監督や選手の役割を超えた
必死の勧誘を重ねたことで

加入者は 後援会構想の発表から
僅か4か月で 1万3, 000人を記録します。

更に ファンたちも
自発的な動きを見せています。

試合の度に 球場の入り口には

誰彼ともなく寄付を集めるための
酒だるが置かれました。

カープのために役立ててほしいと

ファンたちは なけなしの小遣いを
その酒だるに投げ入れました。

球団とファンが一体となった活動により
この年の収支は 113万円の黒字を計上。

経営を軌道に乗せることができました。

何があっても決して諦めない
石本の執念と それに応えた広島の人々。

こうしてカープは
最大の弱点だった資金不足を克服し

存続の危機を脱したのです。

すばらしい。
ねえ。           うん よかった。

もう何か よかった。 今があるのは
この時 乗り切ったおかげなんですね。

でも どうですか 二宮さん
後援会っていうのは

やはり 当時 画期的だったと…?
これはもう 画期的ですよね。

この石本さん自身がね
いろんなキャリアの豊富な方でですね

例えば 毎日新聞の新聞記者も
されてるんですよ。

で 地元の政財界に
非常に顔が利いたってことがありますね。

言ってみれば 単なる監督じゃなくて

今で言うGMのはしりみたいなことも
されてるんですよ。

ですから
いろいろな経験だとか知見だとか

あるいは土地柄があっての
この後援会制度。

今だったらね
クラウドファンディングとかいって

皆さんね 応援するために
みんなで お金出し合うっていうのが

割と普通の感覚になってるけど
もう この時代から きちんとやって

自分たちのチームっていう気持ちを
ちゃんと持たせて…。

だって 選手たちだって そのおかげで
できてるっていう喜びがあるから

お互い いい効果 生みますよね。
そうですよね。

余談ですけどね 「おらが町のチーム」
「おらが町のクラブ」で

Jリーグはね 地域密着っていうことで
成功しましたよね。

初代チェアマンの川淵三郎さんも
最初はね

広島カープみたいなのが理想だと
おっしゃってましたもんね。

今でこそ市民球団って言いますけど

当時の古い新聞
特に中国新聞なんか見ますと

郷土球団って書かれてますからね。
へえ~。

まさに選手たちは
自分たちの子どもなんだと。

そして みんながね
ファンも含めてファミリーなんだと。

だから 「勝ってもカープ 負けてもカープ」
っていうのは

きっと彼らの そういう思い…
発しているんだろうなっていうのは

いつも思いますね。 大学の同僚なんか…
少し年配の方々に話を聞くとですね

まさか… まあ サイエンスの世界で
生きてる人なんですが

まさか 家族とか郷土愛とかって
使うような人じゃないんですが

ことカープに関しては
やっぱり郷土愛とか家族だとか。

だから 勝ってもカープだし
負けてもカープだというようなことを

よく おっしゃいますね。
新井さん 今日は居酒屋で

トークしてますけどね 広島では酒場でね
女房の悪口言われても 頭来ないけど

カープの悪口言うと頭来るっていう人が
結構いるんですよ。

そうですか。
気を付けなきゃいけないですよね。

それだけの
このファンの熱量っていうのは

この時だけじゃなくて その後も 二宮さん
ずっと続いていったと?

もう ず~っと持続してますよね。

今の新球場ですよね
あの 駅の近くにあるですね

それが出来る時も また あの時も
たる募金やりましたからね。

「よみがえる たる募金」ということで。
何か 文化なんですね。

広島の文化の一つなんですね。
なるほどね。

でも そうやって
みんなで助け合わないと

生きていけなかったんでしょうね
もう。

じゃなければ 復興を乗り切れないという
彼ら自身の思いが

きっとあったんでしょうね。
さて ちょっと 皆さんにですね

見て頂きたいものがあるんです。

これです。               はい。
ご存じの…。

そうなんです。 カープといえば

この帽子の色 赤ですよね。

赤ヘル軍団なんて言われることも
ありますけれども

先ほどまで見て頂いたVTR
白黒映像だったじゃないですか。

はい。 そうでした そうでした。
なので

多分 分からなかったかも
しれないんですけど 実は…

ということでですね
次は この赤という色をですね

チームに取り入れて 悲願の初優勝を
実現させた男の知恵なんですね。

また ちょっと中井さん
減っちゃいましたから…。

飲みが スピードが速くて すみません。
新たな知恵を味わって頂きましょう。

球団発足当初の資金不足は
乗り切ったものの

その後も カープの成績は
低迷が続きました。

昭和28年以降
6球団になったセ・リーグで

カープは 4位や5位が ほとんど。

特に40年代後半は 3年連続最下位。

まさに 泥沼の時代が続いていました。

優勝などは 夢のまた夢。

選手 そしてファンでさえも
敗北に慣れきっていた昭和50年。

チームに大変革をもたらす男が
監督に就任します。

アメリカ人 ジョー・ルーツ。

日本球界初の
メジャーリーグ出身の監督でした。

監督となったルーツと選手が
一堂に会したのは

昭和50年2月 宮崎県日南市で行われた
春のキャンプでのことでした。

ミーティングに現れたルーツの姿に
選手たちは目を丸くします。

創設以来 カープは 紺色を基調とした
ユニフォームでしたが…。

なんと ルーツは
赤い帽子をかぶっていたのです。

ざわめく選手たちに
ルーツは こう言い放ちました。

どうも こんにちは。

去年亡くなった衣笠祥雄さんは
この時の驚きを

生前 インタビューで こう答えています。

野球は巨人。

選手にさえ刷り込まれていた
コンプレックスを取り除くため

ルーツは アメリカ流の最新の野球理論を
次々と取り入れていきます。

コーチ陣を広島大学に通わせ

スポーツ生理学を踏まえた
トレーニングを導入。

選手の運動能力を
アップさせようとしました。

更に キャンプ中の夜遊びは禁止。

破った者は 罰金10万円と

野球に集中せざるをえない環境をつくり
コンディショニングにも配慮しました。

そして さまざまな改革の中でも
ルーツが最も重視したのは

選手たちに ファイティングスピリットを
持たせること。

長年の低迷により染みついた
いわば 負け犬根性を捨て

選手たちに 戦う魂と挑戦する勇気を
植え付けようとしたのです。

一体なぜ ルーツは ここまで
優勝に こだわりを見せたのでしょうか。

ルーツは 1941年 高校を卒業すると
すぐに海兵隊に入隊。

南太平洋の戦場で
日本軍と戦っていました。

そこでの体験を ルーツは
家族にも多くを語っていません。

唯一 明かしているのは
目の前で戦友が撃ち殺されたこと。

そして 戦争が終わって30年後に
ルーツが訪れたのは

かつての敵国 日本。

しかも 原爆が投下された広島でした。

町は すっかり復興して
立派になっていました。

しかし いまだに原爆症に苦しみ

多くを語らぬまま亡くなってゆく人々が
いました。

消えることのない戦争の傷痕。

ルーツが選手に対して 口癖のように
繰り返し言った言葉があります。

広島の人々が復興への思いを託して
誕生した 広島カープ。

しかし 敗北に甘んじているだけの
今のカープは

市民との約束を まだ果たせてはいないと
ルーツは思ったのです。

だから 優勝しなければならない。

そして 運命のシーズンが開幕。

カープは さい先よく連勝を飾りますが…。

ルーツは その熱すぎる思いによって
審判や球団首脳と衝突。

なんと 1か月もたたないうちに
退団してしまいます。

急きょ 監督を任されたのは

守備コーチを務めていた
古葉竹識 39歳。

ルーツの精神を受け継いだ
古葉に率いられ

カープは 怒とうの快進撃を続けます。

そして10月15日 後楽園球場。

優勝まで あと1勝。

相手は 長嶋茂雄率いるジャイアンツ。

試合は広島にも中継され

原爆症の入院患者も
テレビに くぎづけになりました。

(実況)カウント ワン ツー。
ピッチャー 第4球を投げた!

カーブを打った! レフトフライだ…。
構えた! 構えた! 構えた!

捕った! 捕った! 捕りました!
ついに 広島カープ 優勝! 優勝!

ドラマティックな一瞬であります。

25年間の つらい苦しい思い出は消え去り
胸を張って 栄光のゴールインで…。

カープは 26回目のシーズンで

ついに 悲願の初優勝を果たしたのです。

10月20日。 広島平和大通り。

カープの優勝パレードに
30万人の人々が集まりました。

監督の古葉竹識さんは

この時 目にした光景を
忘れることができないと言います。

沿道に集まった群衆の中に

遺影を掲げる人々の姿があったのです。

みんな 何か こう…。

すいません。 写真を…。

我々に 一生懸命
こう 見せてくれるんですね。

感動しました。

これだけ 皆さんがね
優勝を喜んでくれて そして…。

それは 原爆投下から30年目に訪れた

広島の復興を祝う
歓喜の祝祭でもあったのです。

初優勝の瞬間
すごい盛り上がりでしたね。

確かに あの お客さんが
胴上げしてたんですね 選手を。

今 考えられないですよね
フェンスも高いし。
そうですよね。

古葉さんが言ってましたね。
いろんなとこから手が出てきて…。

「自分ぐらいだろう ファンに胴上げされた
監督は」って おっしゃってましたね。

でも やっぱり 何て言ってもね
ジョー・ルーツですけれども。

そうですね
これは 私は直接ご本人から

聞いたわけでは
もちろん ありませんけれども

自分が
縁があって広島の地に降り立って

そして やっぱり この原爆ドームを
見るわけですよね。

その時の思いっていうのは
複雑なものがあったと思いますね。

とにかく やはり その広島っていうのは
戦後復興 そして平和の象徴

この2つを目的につくられた
球団ですから

やはり その… 平和に貢献したいという
思いは強かったんじゃないでしょうかね。

特別な球団なんだと。
はい。 それをまた選手たちが

そのルーツのですね
気持ちっていうのを理解したと。

この方がいなかったら
初優勝はなかったんだろうと思いますね。

でも 1か月で辞めちゃうんでしょ?
そうですね。 まあ 非常に闘志が

空回りするようなところもあってですね
やっぱり この判定とかでですね…。

許せない?
許せないと。 選手が出る前に

審判とね けんかしてしまうと。

初優勝っていうのは 広島にとっては

とっても大きなことだったと
思うんですよね やはり。

カープっていうのは
大変 弱かったけれども

彼らが愛情… 愛情を注いだ 注いだ
弱小チームが ついに優勝してくれた。

そういう意味から考えれば
ある意味 心の復興というのが

ある程度 到達点に達したんだろうと。
もう一つは ちょうど時期を同じくして

昭和50年には 岡山まで通っていた
新幹線が広島まで延びると。

昭和50年っていうのは
広島にとって 心と物の復興。

この2つが
ある到達点に達したんだろうな。

そういった記念すべき年なんだろうな
というふうには思いますね。

さあ 今日は 戦後復興という切り口でね

広島カープの誕生から初優勝までを
見てきたわけですけれども

中井さん どうですか?      私 プロ野球
そんなに知らなかった時代に

何で広島だけが
広島っていう土地の名前が

いわゆる チームの名前になってるのか
すごく不思議だったんですよね。

こういう背景があるというのを知ると
やっぱり スポーツができること

あるいは スポーツ選手が
今 自分たちのためだけに

やってるんじゃないっていうことも
やっぱり 分かってくると思うので…。

ああ 何か… ちょっと
広島 応援したくなってきました。

スワローズじゃなくて 広島で?
両方。 はい。          (笑い声)

二宮さん いかがでした?

そうですね やはり 日本でも その…。

例えば 阪神・淡路の大震災のあとにですね
オリックスが優勝してですね

「がんばろう KOBE」で
復興のね いわゆるシンボルになった。

あるいは 東日本大震災のあとに
東北楽天ゴールデンイーグルスが

優勝するとかですよ つまり その…

スポーツ球団の使命って何だろう
ってことを考えた時にはですね

やはり 精神浮揚効果ってのが
あると思いますよね。

単に お客さんが入って
もうかるだけではなくてね

どれだけ その地域や町にですね
勇気をもたらせるか。

そして 社会を変革できるかと。

そのための
とても大きなコンテンツなんだっていう。

まさに 広島カープは
そのはしりだったと思いますね。

ちょっと見え方が
変わってくるかもしれませんね。

変わりました。 随分 変わりました。
とはいえ 今なおね

原爆症で苦しんでらっしゃる方もいる
ということも

忘れないでいたいところですよね。

広島の復興の特異性というのは
そういった人たちが復興を成し遂げたと。

あの復興の時代を もう一回ですね
しっかり思ってですね 考えて

ああいう先人たちの苦労をですね
無にしないように

次の世代にバトンを渡していかなきゃ
いけないなと

そういったことを思いました。

今日は もう せっかくね
野球通の皆さんに

お集まり頂きましたので
もう ここからは ちょっと…。

あれ?
あれ?

ねえ 今シーズンのプロ野球について
みんなで語り合いながらにしましょうか。

どうですか?
二宮さん 今シーズンは。

そうですね
5月は調子がよかった…。

(肉を焼く音)

昨日は ローストビーフ。


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