NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館~」原爆の惨禍を伝える遺品や資料には…



出典:『NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館~」』の番組情報(EPGから引用)


NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館~」[字]


今年4月広島の原爆資料館がリニューアルされた。原爆の惨禍を伝える遺品や資料には、どんな物語が秘められているのか。遺品を通して、被爆者のメッセージに迫っていく。


詳細情報

番組内容

今年4月、広島の原爆資料館が、戦後最大のリニューアルを行った。遺品や資料に「持ち主のエピソード」や、「残された家族の思い」を記して展示。 被爆者が高齢化する中、遺品や資料に、被爆者の思いを語ってもらおうとしている。番組では、遺品に秘められた物語を取材。野球選手にあこがれた少年の半袖シャツが語る「あの日の惨状」。息子の革ベルトに込められた「母の悲しみ」をたどることで、被爆者のメッセージに迫っていく。



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NHKスペシャル「“ヒロシマの声”がきこえますか~生まれ変わった原爆資料館
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  17. 藤岡
  18. 月美
  19. 原爆資料館
  20. 今回


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13歳で命を奪われた
折免 滋くんの弁当箱。

中身は お母さんが作った
大豆と麦のまぜご飯でした。

原子爆弾によって
真っ黒に焦げています。

せめて 一口 食べさせたかった…。

お母さんは
滋くんが不憫でなりませんでした。

このブラウスは

高等女学校2年の丸見義子さんが
着ていたものです。

義子さんは 大ヤケドを負って
亡くなりました。

お父さんは 娘を探して
いくつもの遺体を確かめました。

焼け残った「マルミ」の刺繍から

義子さんだと分かりました。

いつも家事を手伝ってくれる
優しい一人娘だった義子さん。

お父さんは 生涯
ブラウスを手元から離しませんでした。

被爆資料や遺品を通じ

世界に核兵器の恐ろしさを訴えてきた
原爆資料館。

今年 過去最大となる
大規模なリニューアルが行われました。

被爆の衝撃を刻んだ 遺品や写真。

改めて その一つ一つにまつわる
エピソードを調査しました。

突然断ち切られた
掛けがえのない日常。

大切な人を奪われた
家族の深い悲しみをしるし

展示することにしたのです。

74年前の今日。

広島に投下された原子爆弾。

その年だけで 14万人もの命を奪い

生き残った人々の心と体に
深い傷を残しました。

しかし その体験を伝えてきた
被爆者たちは高齢化。

「ヒロシマ」を継承できなくなる危機感が
高まっています。

残された遺品に思いを託すことで

次の世代に 被爆の記憶を
つなごうとしているのです。

遺品や写真だけでなく
被爆者が描いた 原爆の絵も

常設展示されることになりました。

絵に描かれているのは
脳裏に焼きついた 悲しみの場面。

これだ。

形あるものだけでなく
被爆者の記憶をも

後世に
伝えようとしているのです。

大きく生まれ変わった
ヒロシマの原爆資料館。

遺品や写真から紡がれる
人々の物語です。

国内外から 延べ7, 200万人が訪れてきた
原爆資料館です。

今回のリニューアルは 1955年の設立以来
最大のものとなりました。

大切にしたのは

あの日
キノコ雲の下にいたひとりひとりに

思いをはせてもらうことです。

入り口には 強いまなざしで
まっすぐにこちらを見つめる少女の写真。

10歳の藤井幸子さんは
自宅にいた時に被爆し

全身に ガラスのかけらが降り注ぎました。

勉強好きで 弟たちをかわいがる
優しいお姉さんだった幸子さん。

右手にも大ヤケドを負い
指がくっついてしまいました。

幸子さんと対面したあと

その人生を奪った原爆の惨状が
姿を現します。

そして キノコ雲の下で
人々に起きた現実が飛び込んできます。

一つ一つの遺品は

一瞬にして断ち切られた日常を
伝えています。

3歳の銕谷伸一くんは

三輪車に乗っている時に被爆し
亡くなりました。

「天国でも遊んでね」。

伸一くんと一緒に
埋められた三輪車ですが

後に お父さんが掘り出して
資料館に託しました。

「原爆の恐ろしさを忘れないでほしい」と。

3人の中学生の遺品を合わせて
1人分がそろった学生服。

帽子の持ち主は
13歳の津田栄一くん。

津田くんは 甘えん坊で
お母さんが大好きでした。

上着とズボンは
14歳の福岡 肇くんのもの。

福岡くんは 英語が得意だったといいます。

12歳の上田正之くんのゲートル。

上田くんは 明るい性格で
たくさんの友達がいました。

大ヤケドを負って 「お母さん お母さん」と
呼び続けましたが

再び会うことは かないませんでした。

8月6日 原爆が投下された時

市の中心部では空襲による火事に備えて

建物を取り壊す作業が行われていました。

そこには 今の中学生にあたる

多数の生徒たちが動員されていましたが

およそ6, 000人が犠牲になりました。

その時 生徒たちが身につけていたものを
集めた展示があります。

ここには 生徒たちの写真以外に
詳しい説明はありません。

遺品のことを語れる遺族が
ほとんど亡くなっているためです。

私たちは 改めて
遺品が持ち込まれた経緯をたどりました。

そして 遺族の一人が存命であることが
分かりました。

坂上 崇さん 89歳です。

この半袖シャツは
3歳年下の弟が着ていたものでした。

坂上 彬くん 当時12歳。

野球が大好きで
プロ野球の選手になることを

夢みていました。

彬くんのシャツには 74年たった今も

血の跡が うっすら残っています。

左側は ぼろぼろになり

胸についていたはずの名札も
焼けています。

一体
彬くんの身に何が起きたのでしょうか。

8月6日
坂上さんは 彬くんを探すため

原爆の直撃を受けた
市の中心部に入りました。

彬くんが作業していたはずの場所では
見つからず

坂上さんは けが人が
運び込まれた救護所に向かいました。

いくつもの救護所を回って

ようやく彬くんを見つけたのは
3日目の朝。

中心部から20キロも離れた
陸軍病院でした。

本人が もう…

大好きだったお兄さんの姿を見て喜んだ
彬くん。

しかし その姿は 変わり果てていました。

爆心地から
僅か900mの場所にいたため

熱線を浴び
大ヤケドを負っていました。

左の腕は膨れ上がり
痛い痛いと うめいていたといいます。

再会もつかの間
その夜 彬くんは 息を引き取りました。

戦後74年目に 展示の大きな見直しに
踏み切った原爆資料館。

そこには 強い危機感がありました。

ものすごい煙がね
怪物みたいに動きよる。

被爆者の平均年齢は
既に 82歳をこえています。

被爆の記憶を
次の世代につないでいけるのか

ヒロシマは
今 大きな課題に直面しているのです。

リニューアルを進めてきた

前館長の志賀賢治さん。

いつの日か来る被爆者なき時代に備え

展示の方向性を
大きく変えることにしました。

戦後70年以上がたち

若い人たちにとって 原爆は
文字どおり歴史になりつつあります。

被爆者の痛みを実感してもらうには

遺品に宿る物語を 自分のこととして
感じてもらうことが重要だと

考えたのです。

これまでの展示は大胆に見直し
爆心地の模型は撤去。

資料館の象徴だった被爆人形。

名前がなく 作り物にすぎないとして
展示を取りやめました。

新たな資料館の在り方を
被爆者も後押ししています。

坪井 直さん 94歳です。

被爆者の代表として

リニューアルについて
意見を伝えてきました。

これこれこれこれ ちょっと待って。

まっすぐ進んで。

これです。 これが坪井くんですよ。

74年前 まさに この場所にいた坪井さん。

写真で確認された被爆者の中で
生き残っているのは

坪井さんだけになりました。

ついちゃおらんですかね。

坪井さんは 自分がいなくなった後も

遺品や写真に宿る被爆者の魂が
語り続けてくれるといいます。

遺品が語るのは 亡くなった人たちの
素顔だけではありません。

家族の深い悲しみも伝えています。

僅か2歳で亡くなった
太尾田洋夫くんのパンツ。

母親の れんさんが
大切に持っていたものです。

洋夫くんは お母さんの背中で被爆。

「あつい あつい」と
水を欲しがりました。

水を飲むと死んでしまうといううわさを
耳にした れんさん。

最後まで
水を飲ませることができませんでした。

中学1年生 12歳の 南口 修くんが
大事にしていた革のベルトです。

修くんは 原爆の熱線で
大ヤケドを負い亡くなりました。

ベルトが語るのは 修くんの死を
生涯引きずり続けた お母さんの思いです。

革のベルトを寄贈したのは
修くんの兄 南口 勝さん 88歳です。

この写真しかないんですよ。

修くんは 3人兄弟の末っ子でした。

10年前に亡くなった 母親の静子さんです。

仏壇にベルトをしまい
毎日手をあわせていたといいます。

74年前の あの日

修くんは作業に動員され
爆心地から 1.2キロで被爆しました。

市の中心部から離れた工場にいた勝さん。

すぐに 修くんを探しに向かいました。

御幸橋がこれですから
歩いて ここまで行って…

しかし
爆心地から2キロ辺りで炎に阻まれ

引き返さざるをえませんでした。

家族が身を案じる中

修くんが
自転車の荷台にのせられ帰ってきました。

全身が焼けただれ
話すこともできない状態でした。

私は もう 本当…

その時 修くんが手に握りしめていたのが
革のベルト。

母 静子さんから入学祝にもらった
大切な宝物でした。

修くんは手当てのかいなく
息を引き取りました。

兄の勝さんは
この場所で 弟の遺体を荼毘に付しました。

原爆投下から何年たっても

静子さんの中で
あの日が終わることはありませんでした。

亡くなる前 修くんのベルトを
寄贈することを決めた静子さん。

「自分がいなくなっても
修のことを覚えていてほしい」。

そんな思いからでした。

今回のリニューアルで 修くんのベルトが
展示されることを知った勝さん。

3年ぶりに 資料館を訪れました。

修くんのベルトは
資料館で 新たな居場所を得ていました。

多くの人たちの前で
少し かしこまっています。

弟の記憶 そして母の悲しみを
ベルトは 語り継ごうとしています。

♬~

「"被爆者"と 一くくりに言っても

一人一人が 家族や友人 恋人がいる

当たり前の人間だったのだと思わされた」。

今回のリニューアルでは
遺品や写真だけでなく

あの日を描いた原爆の絵も
常設展示されることになりました。

被爆者の脳裏に
焼きついたまま

消えることのない凄惨な記憶。

資料館は その記憶そのものも
後世に伝えたいと

原爆の絵を
展示の もう一つの柱にしたのです。

家の下敷きになった娘を

必死に助け出そうとする
母親。

香川千代江さんが
爆心地近くで見た光景です。

炎が迫る中 母親は素手で
壁に穴を開けようとしています。

しかし 娘を救うことはできませんでした。

「おかあちゃんー!」と
名付けられた絵です。

激しく渦巻く炎にまかれながら

「早く逃げテェー」と叫ぶ母親。

娘は
「おかあちゃんー」と泣き叫んでいます。

これだ。

絵を描いた藤岡久之さん 86歳です。

74年たった今も 藤岡さんは
この光景に苦しめられています。

当時 藤岡さんは 12歳。

爆心地から2キロで被爆しましたが

建物の中にいたため
奇跡的に助かりました。

必死で自宅に逃げ帰る途中

この場所で
絵に描いた親子と出会いました。

燃えさかる炎が
親子に襲いかかった その瞬間。

母は 娘を
見ず知らずの藤岡さんに託しました。

藤岡さんは マキちゃんと呼ばれた
その少女を連れ 交番に向かいました。

泣き続けるマキちゃんを背に
藤岡さんは 交番をあとにしました。

母親から託されたのに
置き去りにしてしまった。

その心残りから 藤岡さんは 戦後

孤児の収容所や当時の警察官を訪ね歩いて
マキちゃんを探しました。

しかし あのあとすぐに
亡くなってしまったのか

消息は分かりませんでした。

助けられないなら いっそ 母親から
引き離さない方がよかったのではないか。

戦後57年がたって ようやく
長年の思いを絵にすることができました。

悔やんでも悔やんでも
悔やみきれないよね。

今回のリニューアルで

資料館に 全く新しい展示スペースも
設けられました。

外国人被爆者の遺品や資料が
集められた一角です。

捕虜として広島に収容されていた
アメリカ兵。

ジェームズ・ライアン少尉の認識票です。

母親の名前と住所が刻まれています。

母親は 息子が

自分の国が投下した原爆で
殺されたことを知り

激しいショックで
涙さえ流せなかったといいます。

ある兵士が所持していた
旧日本軍の軍隊手帳です。

そこに記されていたのは
松山忠弘という日本名。

朝鮮半島で徴兵され
被爆した
韓国人でした。

郭貴勲さん 95歳です。

自分の手帳が展示されると聞き

韓国からやって来ました。

郭さんは 終戦の前年

日本の統治下にあった朝鮮半島で徴兵され
広島に送られました。

爆心地から2キロで被爆。

当時 広島には 2万人以上の
朝鮮半島出身者がいたとされています。

こんなのは たくさんありますよ ほかに。

郭さんの体には 今も
被爆のあとが残っています。

なくならないです。

今回 資料館が
外国人被爆者の展示に踏み切った背景。

そこには
世界に被爆を伝える中で直面した

大きな壁がありました。

1995年に
アメリカの国立博物館が企画した原爆展。

当初 被害を伝えるため 原爆資料館の
遺品の展示が検討されました。

しかし
原爆投下は戦争を終わらせたという

退役軍人らの反対で
急きょ中止されました。

原爆の脅威を訴えるためには

被害が日本人だけにとどまらないことを
示す必要に迫られたのです。

むしろ そうじゃないんだよ…

少し
大げさな言い方かもしれませんが…

リニューアルされた資料館。

最後のコーナーで出会うのは

戦後70年以上にわたって
原爆を引きずり続けるヒロシマの姿です。

原爆によるヤケドの痕 ケロイドを抱えた
吉川 清さんの背中です。

針で刺すような痛みで

眠ることもできませんでした。

戦後 16回もの手術を受けただけでなく

差別や偏見にも苦しみました。

漁師の中村杉松さんは
被爆で大ヤケドを負い

激しい体調不良に苦しみました。

一時は回復したものの
放射線による後遺症を恐れ

不安にさいなまれます。

中村さんは 精神のバランスを崩し

一家は離散しました。

全ての展示の最後に掲げられたのは
不安と希望が伝わってくる親子の写真。

爆心地から僅か750mで被爆した
母親。

そして その1年後に生まれた
赤ちゃんです。

撮影した写真家の名前は
記されていますが

親子の名前はありません。

その後 どうなったのかも
分かっていませんでした。

赤ちゃんは その後 無事に育ったのか?

取材を始めて半年。

写真の親子の消息が分かりました。

田岡月美さん
被爆の翌年に生まれました。

写真に写る あの赤ちゃんは

72歳になっていました。

月美さんは
写真を見たことがありませんでした。

資料館に展示されていることも
知らなかったといいます。

74年前の あの日。

母親は 月美さんの兄にあたる
1歳の赤ちゃんと一緒に被爆しました。

母親の英子さんです。

至近距離から放射線を浴びたため

体中に紫色の斑点が現れました。

1歳の良一くん。

激しい嘔吐を繰り返し

被爆から3週間後に亡くなりました。

母が言うには 母乳?

母 英子さんの被爆から
1年がたって生まれた月美さん。

物心付いてからは
亡くなった兄の影を

母が ずっと引きずり続けているのを
感じてきました。

「亡くなった兄だけでなく
生きている自分も見てほしい」。

しかし 母 英子さんが亡くなるまで

その複雑な思いを
明かすことはできませんでした。

リニューアルした資料館に

写真が展示されていることを知った
月美さん。

見に行くことを決めました。

あの日 母が見たヒロシマの惨状。

大切な息子を失った母の心をたどります。

そして。

月美さんは 写真家が聞き取っていた
母の言葉を初めて知りました。

「息子の代わりに生かしてもらった」。

「その思いが
新たな命を育む自分を
支えてくれた」。

…で 母には

生んでくれてありがとう。

遺品や写真に託された
被爆者たちの最後のメッセージ。

ヒロシマを忘れないでほしい。

魂の叫びが 次の時代へ届くように。

♬~

♬~


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