NHKスペシャル【#あちこちのすずさん・戦争×アニメ×青春!】戦争中の恋・オシャレ・笑い…祖父母の青春をシェア…



出典:『NHKスペシャル【#あちこちのすずさん・戦争×アニメ×青春!】』の番組情報(EPGから引用)


NHKスペシャル【#あちこちのすずさん・戦争×アニメ×青春!】[字]


千原ジュニア&八乙女光&伊野尾慧&広瀬すず▽アニメで!戦争中の恋・オシャレ・笑い…祖父母の青春をシェア▽「この世界の片隅に」片渕監督と…▽らじらー!と同時生放送


詳細情報

番組内容

「オシャレしたくて防空ずきんにリボンを縫いつけた」「軍需工場の機械油でホットケーキを焼いた」いま、戦争中の暮らしのエピソードを家族から聞いて、SNSに投稿する若者が増えている。この夏、NHKスペシャルは「らじらー!」(ラジオ第1)や「あさイチ」とも連携して、こうしたエピソードを集めアニメやイラストで再現。デジタル時代の新しい戦争伝承に挑戦します!アニメは映画「この世界の片隅に」制作チームが全面協力

出演者

【キャスター】千原ジュニア,【リポーター】八乙女光,伊野尾慧,【出演】広瀬すず,片渕須直,【アナウンサー】近江友里恵,【語り】松嶋菜々子



『NHKスペシャル【#あちこちのすずさん・戦争×アニメ×青春!】』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

NHKスペシャル【#あちこちのすずさん・戦争×アニメ×青春!】戦争中の
  1. 近江
  2. ジュニア
  3. 戦争中
  4. 松嶋
  5. 戦争
  6. 八乙女
  7. パーマ
  8. 伊野尾
  9. 英語
  10. エピソード
  11. 女性
  12. 片渕
  13. 本当
  14. 空襲
  15. 祖父
  16. 栄美
  17. 康夫
  18. 時代
  19. 当時
  20. 自分


『NHKスペシャル【#あちこちのすずさん・戦争×アニメ×青春!】』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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≫こんばんわっふぉい!

ジュニア≫こんばんわっふぉい!
っていうのは、いつも

ラジオで言うてる
あいさつなんでしょ。

八乙女≫そうなんですよ。
ラジオでやっているあいさつです。

ジュニア≫そういうのを
よそでやるの

すごい恥ずかしいよね。
伊野尾≫まさか

NHKスペシャルで
言わせてもらえると

思ってなかったので
ちょっと後悔してますよ。

伊野尾≫ラジオの中ですから。
NHKスペシャルで

言うと思ってないです。

八乙女≫今日の
NHKスペシャルは

「らじらー!」との
コラボ企画生放送。

お便りも募集しております。
伊野尾≫テーマは「戦争」。

戦争の話ってなんだか
難しいなと

思うかもしれないですが
今日は違うんですよね。

ジュニア≫今年NHKは
こんな新しい取り組みを

始めました。
すずちゃん、お願いします。

広瀬≫「#あちこちのすずさん」
まずはこちらをご覧ください。

すず≫ありがとう。
この世界の片隅に

うちを見つけてくれて。
近江≫映画「この世界の片隅に」。

これまでとは違う戦争の伝え方が
大きな共感を呼びました。

(大砲の音)

近江≫太平洋戦争のさなか
主人公のすずが経験する

恋や失敗、笑い。
普通の暮らしを丁寧に見つめ

それを奪う戦争の残酷さを
描いています。

すず≫しみじみ
にやにやしとるんじゃ。

近江≫私たちは
すずさんのような

戦争中の普通の暮らしの
エピソードを募集。

「#あちこちのすずさん」と
名付けたところ

1000件を超えるお便りや
メールが寄せられたんです。

近江≫さらにネット上でも
20代、30代が

身近な家族に聞いた戦争の話を
発信し始めています。

近江≫12月の新作映画で
主人公・すずの声を演じる

のんさん。
ネットに広がる

あちこちのすずさんの
エピソードに

心引かれるといいます。

近江≫番組では
集まったエピソードを

片渕監督率いる
映画制作チームとともにアニメ化。

あちこちのすずさんたちの青春を
よみがえらせようとしています。

近江≫今日は生放送。

戦争中の暮らしのエピソードや

番組へのメッセージを
ホームページ、FAXで

募集しています。

今日は、みんなで見つけた
あちこちのすずさんたちの

お話です。

ジュニア≫あれ?

この曲はなんなんですか?

近江≫初めて聴きましたか。

「お洒落(しゃれ)禁物」
という曲なんです。

作られたのは1940年。

太平洋戦争が始まる
1年前の曲なんです。

ジュニア≫まさに、そういう
お達しがということですか。

近江≫「お洒落禁物」という
タイトルにも表れてますけど

このころの
おしゃれといえば、こちら。

パーマ。
どうです?すごいですよね。

これは電気を使っていたので
電髪(でんぱつ)っていうふうに

いわれていたそうなんです。
ただ、こういったおしゃれも

戦時中には
不謹慎だというふうに

言われていたんですね。
そこでこんな貼り紙も

あったんです。
パーマネントのお方は

町の通行をご遠慮ください。

ジュニア≫歩くなってこと?

近江≫張り紙まで町に
出現してしまった。

ジュニア≫でも、天然の人も
いますからね。

それはどうチェックするんだろう。

それぐらい、そんなことに

心を持っていかれてる
場合じゃないでしょという

上からあったってこと。

近江≫貼り紙からも

そういったことが
うかがえますけれども

パーマについては
戦争中のエピソードが

寄せられたんです。
ご紹介します。

近江≫埼玉県で美容院を営む
大塚良江さん。

84歳、今も現役です。

美容師になった
きっかけは戦争中。

小学生のころに母が開いた
パーマの店での体験でした。

≫関東地区、警戒警報発令。

松嶋≫戦争中といっても
パーマをかけたがるお客さんは

いっぱいいました。

「空襲がくる!」と山に避難して
警戒が解けて戻ると

もうお客さんが
列になっているんです。

パーマといっても
電気は使えません。

だから木炭パーマでした。

まず木炭の火にトタン板をかけて

そこに金属のクリップを載せて
熱くして

巻いた髪の毛にかぶせるんです。

大抵の人は頭にシラミがいて
パラパラと落ちてくるので

母は困っていました。

木炭は、お客さんが
持ってくる決まりでした。

当時は炊事用に家庭に配給される
貴重なもの。

それなのにごはんは
枯れススキなんかで炊いて

木炭はパーマに回していたんです。

お国の貴重な資源を自分の
おしゃれに使っちゃうんですから

非国民ですよね。

パーマをかける1時間半。

お客さんは
いろんな思いを吐き出します。

≫空襲で
あした死んでもいいように

きれいな髪形でいたい。

≫息子が戦死したの。

気持ちを張らなければ
家事もできないわ。

松嶋≫母は時に涙を浮かべながら
うなずいていました。

女性たちは皆、澄まし顔でしたが

よく見ると
おしろいの代わりなのか

水で溶いた小麦粉みたいなのを
顔に塗っていてムラができている。

おしゃれへの執念って
すごいと感じました。

♪「パーマネントは
やめましょう」

松嶋≫しょっちゅう
男の子たちにからかわれましたが

私は平気でした。

女の人はいつだって
おしゃれをしたいんですから。

そう、母もお客さんも
かっこいいと思っていました。

近江≫良江さんは
この戦争中の思い出を

家族に何度も話し
大切にしてきました。

その思いが伝わったのか
今では、妹や子どもたちなど

6人が美容の仕事をしています。

美しさを求める心は
生きる力を生む。

あの時代から
受け継いできた信念です。

ジュニア≫すずちゃん
調理に使うのではなくて

木炭を、美容にパーマに
使ってはったんですって。

いかがですか?女性として。

広瀬≫でも今の時代でも
ちょっと楽しいことをしたいって。

洋服が欲しいっていうのも
そうですけど

それとちょっと感覚としては
近いのかなというか。

ジュニア≫八乙女君
パーマといえば八乙女君。

八乙女≫振られると思いました。

あした、命がなくなっちゃうかも
しれないからと

今の僕たちのおしゃれの
ベクトルと

昔の人のベクトルって
違うんだなって思いましたね。

近江≫早速番組にもメッセージを
寄せていただきました。

秋田県の方です。

今も昔も若い女性の心情は

変わらないのだなと思いました。

それから、木炭パーマについては
私もやっていましたという

投稿も、いくつも
すでに寄せられていました。

経験者も多かったんですね。

ジュニア≫ごくごく
オーソドックスなこと

やったんでしょうね。
近江≫その辺り

片渕さんにもうかがっていきます。
映画「この世界の片隅に」の

片渕須直監督です。

木炭パーマ、かなり
広がっていたみたいですね。

片渕≫当時、書かれた
絵日記みたいなもの

要するに、その日に
書かれたやつとか見ると

結構、髪の毛がくるくるしている
女性が描かれていて

コテとかで
やってたりのも合わせると

結構、たくさん
いらっしゃったんじゃ

ないのかなと思うのと

もう1個は

ある方の研究なんですけど

都会の方がああいう髪形してたら

戦争中に、空襲が始まって
地方に疎開しなければ

いけなくなったときに
パーマとかおしゃれの文化を

持った人が
地方に行くので、今度地方で

パーマが伝わったっていうんです。
はやった。初めてそこで

パーマの人がやってきて
あ、こういうのが都会の

おしゃれなんだわっていうので
実は、パーマが戦争中に

木炭パーマなんですけど
広まっていったっていいます。

ジュニア≫ちなみに
木炭パーマってどれぐらい

もつんでしょうね。

片渕≫あと、おしゃれっていうと
途中で、シラミ出てましたが

せっけんって油から作るので
油がないんですよ。

なので、シャンプーできないから
シラミがわいちゃって。

女学生とかは、かわいそうに
おかっぱみたいにしないと

不潔になっちゃうから。

おしゃれが、しようと思っても

できないおしゃれも
あってしまうので

戦争中なんですけど
大変ですよね。

かわいそうというか。
残念というか。

近江≫おしゃれも
規制されていたわけなんですが

ほかにも、戦争中
規制されていたものがありました。

英語です。横浜市のなつさん
28歳の方からの

投稿です。祖母によると
野球でストライクは真ん中。

ヒットはあたりに
変えられたということです。

ジュニア≫ボールは
なんなんでしょう?

外れとか?
じゃあ、千原ジュニアは

どうしたらええんやろね。

近江≫千原子どもさんとか
ですかね。

写真を見ていただきましょう。

当時、人気選手の
スタルヒン選手という方が

いらっしゃいました。
この方はこういった呼び名に

なりました。

須田博(すたひろし)選手。
ちょっと似てますけど。

ジュニア≫今のサッカー選手の
方なんかの

当て字と変わらないですよね。

近江≫こういった規制も
あったんですよね。

続いては英語が規制されている中

それでも英語を勉強したいと
思っていた女性のエピソードを

ご紹介します。
アルバムをお借りしてきました。

こちらの方です。

東京都の
刀根雅江さん、89歳です。

では、この方からのエピソードを
広瀬すずさんに

朗読していただきます。

広瀬≫ある日、私は
学校の購買部に向かいました。

そこにいたのは、英語の秋田先生。

戦争の影響で
英語の授業がなくなり

雑務係になっていたのです。

「私、英語を勉強したい」。

そう声をかけたら、みるみる
うれしそうな顔をされました。

英和辞書と一緒に
渡してくれたのは

「グリム」と「アンデルセン」の
童話集でした。

「この童話の英文を訳して
誰にも分からないように

持ってきなさい」と言われました。

万が一、このことが
周りにばれたら…?

きっとスパイと思われ
捕らえられてしまう。

私は英文と翻訳を書いたノートを
新聞紙に隠して運び

素早く先生に渡しました。

翌日、返されたノートは
先生のアドバイスで真っ赤でした。

このころ
英語の教科書は、すでになく

頼みの綱は、辞書と想像力だけ。

憧れて入った学校は、兵器を作る
工場に様変わりしていました。

朝から晩までの働きづめの
殺伐とした毎日。

それでも

「人魚姫」「マッチ売りの少女」

「裸の王様」「雪の女王」…。

新しい物語を読むたび
その世界にのめり込み

ノートを開いているときだけは
夢心地でいられました。

1945年。

東京は何度も空襲を受け
学校の友達も命を落としました。

朝のあいさつは
「いってまいります」から

「さようなら」に変わりました。

ある夜、眠っていたところに
空襲警報が鳴り響きました。

私がとっさにつかんだのは辞書と
「アンデルセン」の童話でした。

けたたましい爆撃の中
私は、こう思ったのです。

「これは現実じゃない。

本当の世界は
もっと楽しくて美しいはずだ」。

ジュニア≫監督、この
いってまいりますから

さようならに変わったというのは
どういうことなんですか。

片渕≫本当にだから
毎日の生活が命の危機に

さらされているということだと
思うんですけどね。

そういう中で、心の中に
よりどころを、当時

しゃべってはいけないと
言われていた

英語に求めているという
お話なんですよね。

たくさん人がいて
戦争中の人って

みんな同じなのかな
当然、違うわけなんですよね。

僕らが千差万別のように

戦争中の人にも
自分は英語が好きだ

自分は算数が好きだとか
いろんな人がいたはずなんですが

たまたま英語の先生は
仕事がなくなってしまうし

英語が好きだった子は、ノートを

隠さなければ
いけなくなったりするわけです。

でもそれは
さっきのパーマのお話も

そうなんですけど

誰が、上の人から

お達しが来たのかというと

本当にそうだったのか
分からないんです。

誰が言いだしたのか
よく分からないんだけど

戦争中という
雰囲気の中で

いつか、パーマをかけたい
英語が好きだっていうのが

やっちゃいけないっていう風潮に
なっていくんですよね。

戦争っていうのはそういうふうに
一人一人の

個人の個性みたいなものを
踏みにじるところが

あるような気がするんですね。
それが、映像を作ってて

自分たちでも
ちょっと泣いてたんですけど。

ジュニア≫八乙女君
学ぶことも規制される

この時代、いかがですか?

八乙女≫自分の好きなものを
制御されるって…。

制御というか、不謹慎に
なってしまうっていう感覚が

今まで感じたことがないので
想像が、どう想像していいのか

分からなくなってしまいますね。

ジュニア≫そういう風潮の中
声を出して

学びたいって言ってくれた
生徒に、その先生は

本当にうれしかったでしょうね。
伊野尾君、どうですか。

伊野尾≫この先生も
今まで当たり前のように

英語を教えるという

授業があったものが

ある日突然、だめですよ
先生じゃないですよ。

教えちゃだめですよって
言われたときの

先生の気持ちというのを考えると
本当にいたたまれないというか。

ジュニア≫その物語が現実なんだ

この現実は、現実では
ないんだっていうふうに

逃避するしかなかったという。

片渕≫逃避でもあるけど
あるいは心の中の自由ですよね。

みんなが、それぞれ心の中に
いろんなことを思っても

本来いいはずだ
ということですよね。

近江≫今回、伊野尾さんも取材に
行ってきてくれたんですよね。

伊野尾≫こんな投稿がありました。

私は薬局に勤めていますが
そこの患者さんの青春が

とても波乱万丈なんです。
ぜひ、話を聞いてみてください。

ということで行ってまいりました。
伊野尾≫こんにちは。

溝渕≫いらっしゃいませ。

松嶋≫大阪府の溝渕栄美さん
93歳です。

松嶋≫太平洋戦争が始まった年
栄美さんは15歳。

スポーツが得意で
水泳部で活躍していました。

松嶋≫それは、栄美さん16歳
夏休みの登校日のこと。

≫佐野、おまえに返事がきたぞ。

松嶋≫学校に届いた1通の手紙は
見知らぬ兵士から。

栄美さんが送った手紙への
返事でした。

そのころ、遠い戦地の兵士を
励ますために手紙を書くことが

学校で奨励されていましたが
内容は決まり文句になりがち。

やり取りに発展することは
まれでした。

でも、栄美さんと兵士との場合は
違いました。

松嶋≫最初に届いたのはこの手紙。
ちょっと気負った感じでした。

≫「われも日本男児
ましてや海軍の軍人です」。

松嶋≫富崎康夫さん、21歳。

けが人の治療を担う兵士でした。

松嶋≫友達にからかわれながらも
栄美さんは休み時間に

返事を書き続けました。

内容は、身の回りで起きた
おかしな出来事ばかり。

巨大な毛虫を見つけて
池のコイに投げたら

パクリと食べちゃったこと。

なぎなたの授業で
正座をしていたら

先生の話が長くて
立つとき全員がこけたこと。

松嶋≫やがて康夫さんは
少しずつ積極的な一面を

見せるようになります。

≫「これからは兵隊さんでなく

康夫と
書いてくださいません

でしょうか」

「栄美さんのお写真も
お願いいたしますね。

だめかしら」。

松嶋≫最初は受け身だった
栄美さんも

康夫さんの人柄を知るうちに
月に一度ほどの便りを

心待ちにするようになります。

≫「今度、白い猫を飼いました。
夜は一緒に寝ています」

「現地の子どもたちに
折り紙を折ってあげました。

戦友は彼らを不潔だと言うけど

同じ人間です」。

松嶋≫しかし、文通を始めて1年。

栄美さんは、康夫さんの部隊が
苦戦していることを感じ始めます。

松嶋≫戦争が終わる4か月前

康夫さんからの便りは
途絶えました。

3年にわたるやり取りの中で

一度だけ
康夫さんは栄美さんへの

まっすぐな気持ちを
つづっています。

伊野尾≫僕、手紙を
何十通もあるものを

すべて、見させて
いただいたんですけど

手紙のやり取りというのは
本当に今の時代でもありそうな

この恋というか、男女の
距離感の縮まり方なんだけど

そこに、戦争っていうことが
起こってしまうってことが

ここまで、2人の仲を引き裂いて
悲しいことになってしまうと

思うと
驚きでしたし

また康夫さんの文字が
楽しい話をしているときは

すごくやわらかい字なんだけど

本当にお国のために
戦わなければならないという

お話を書いてるときは字に
そういう思いが

乗っかってるというか
つらさも伝わってくるという

本当に衝撃的な
お手紙、貴重なものを

見させていただきました。

近江≫栄美さんの
文通相手の富崎康夫さんの

消息、今回番組スタッフも
調べてみました。

終戦の年の1945年に
日本兵がいた場所を示しています。

その数は
およそ350万人いました。

康夫さんは、今でいう
フィリピンにいたことまでは

分かっているんですが

その後の消息や
ご家族の連絡先は

分からなかったということです。

ジュニア≫そのとき21歳。

近江≫康夫さんのような
海外に赴いていた方が

350万人もいたと。

戦争中に海外で亡くなった方は
200万人以上いたと

いわれています。

その一人一人に
いろんなドラマがあって

生活があったんだなということを
どうでしょう?ジュニアさん。

ジュニア≫監督、兵隊さんに
お手紙は

よく書いておられたんですか。

片渕≫そうだと思います。
たくさん今でも

残ってるんじゃないですかね。
あちこちに。

僕、ちょっと猫や子どもたちを
どうしたのかなっていうのが

気になっちゃいましてね。

せっかく、仲よくしてたのに
爆弾が落ちてくるときは

一緒に爆弾が落ちてくるし。

200万人亡くなった方の中で

病気で亡くなったとか
食べるものがなくなって

亡くなってしまった方は
相当の数なんですよね。

でもそれは、その土地に
いる人たちにとっても

やっぱり、食べ物が
なくなってしまうっていう

いろんなことが
あったんじゃないのかなと思うと。

ジュニア≫かなりの数の
やり取りが

あったでしょうから。
もしかしたら、その中には

1組2組、会われたってことも
あるかも分かりませんね。

片渕≫帰ってきてね。
ちゃんと帰ってこれた人は

人生がね、そこから
芽生えていくわけですからね。

近江≫海外でも多くの方が

犠牲になった戦争なんですが
国内でも多くの方が空襲で

亡くなりました。
全国500か所以上が

空襲を受け死者は
およそ41万人といわれています。

その記憶は今も多くの人に
消えない傷として

残っているんです。

三重県津市。

大正時代から続く花火大会は
地元の夏の風物詩です。

今年52歳になった
村上英俊さん。

小学生のころ、この場所で
忘れられない体験をしました。

松嶋≫子どものころ
夏がくるのが待ち遠しかった。

夏休みは海でめいっぱい遊んだ。

海水浴に海釣り
そして極め付きが

家族で見る花火だった。

水面に広がる色とりどりの花火。

「この世にこんなに
きれいなものがあるのか」と

思っていた。
ある年の花火大会。

母がつぶやいたひと言を
私は聞き間違いだと思った。

≫やっぱり、そんな
気持ちのいいもんでもないな。

松嶋≫毎年欠かさず、私を
花火に連れてきてくれていた母。

だがこのときは空を見ることなく
ずっとうつむいたままだった。

特に光が降り注いでくる花火は
苦手なようだった。

このとき、母にとっての戦争は
まだ終わっていないのだと知った。

近江≫村上さんのお母さんは

戦争中、9歳のとき
あの花火大会が

行われている海岸で空襲に遭い

海の近くを
走って逃げ惑ったという

経験があったそうです。

片渕さん、今のエピソードは
いかがでしたか?

片渕≫実は逆のお話も
知っていて

戦争中に空襲に遭った人が
本当だったら、今頃の季節は

花火大会だったのになって
おっしゃってて。

あんなに楽しかったのに

切ないっていう思いで

空襲を眺めながらそれより前の
花火大会のことを思い出している

という記憶
それも読んだことあるんですけど。

戦争さえなかったら
ずっと楽しい、楽しい

花火大会が昔からあって、今でも
ずっと続いてたかもしれないのに

ある世代の人たちにとっては
それが本当に

悲しい思い出で。

あんな大きな音を聞くだけで
耐えられない

光がまばゆいのだけで
耐えられないって人が

いてしまうのは
残念ですね。みんな

夏のこの季節になったら、花火を
素直に楽しめればいいのになと

思うんですね。

でも、そんなたくさんの方々が

空襲という
日本のある一定以上の街が

みんな、ああいうことに
なってしまってるわけなので

すごくたくさんの方が
そういう思いを心に

刻まれてしまったんじゃ
ないのかなと思います。

近江≫戦争中の
エピソードを集める

「#あちこちのすずさん」の
取り組みですが

若い世代からも
多くの声が寄せられています。

ここからは八乙女さん
伊野尾さんお願いします。

八乙女≫ご覧ください。

1000を超える投稿が
集まりました。

これはその一部でございます。

伊野尾≫
しかも投稿すること以外の形で

活動に参加している人も
いるんです。

八乙女≫僕が実際に
ロケに行ってきました、どうぞ。

伊野尾≫こちら戦争中に行われた
結婚式の写真なんですが

見てください。
戦争中の白黒写真を

カラーにして
思い出をよみがえらせる

取り組みがあるんです。
記憶の解凍プロジェクト。

広島の高校生、庭田杏珠さんが
中心となって進めています。

庭田さんが大切にしているのは
カラー化をしながら

聞き取りを行うこと。

実際の色を思い出そうとする中で

記憶がまざまざと
よみがえってくるといいます。

伊野尾≫カラー化写真を
SNSに投稿すると

若い人たちが共感。
次々とシェアされています。

さらにハッシュタグを見た
若いアーティストが動きました。

歌手のDAOKOさんは
投稿を読んで

空襲に遭った人の思いを
絵で表現したんです。

ボディーペインティングを
得意とするチョーヒカルさんは

戦争の闇の中でも人間らしさを
失いたくないという願いを

作品に込めました。

八乙女≫こうした若者たちの動き

「らじらー!」のリスナーにも
広がっています。

僕が訪ねたのは
三重県の、あささん21歳。

戦争中は
何を食べていたのか聞き取って

再現してみようとしているんです。

八乙女≫この日の案内役は
祖父の中森陽夫さん、79歳。

戦争中、よく通ったという
この場所。

足元にある草さえも
大切な食糧だったそうです。

八乙女≫
「この世界の片隅に」でも

すずさんが野草を採って
食べるシーンがあります。

豊かな時代に育った僕と
あささんには未知の食べ物です。

八乙女≫さらに…。

八乙女≫おじいさんが
強く僕たちに勧めたのは

昆虫のイナゴ。

八乙女≫
イナゴは当時、貴重なタンパク源。

たくさん集めると
お母さんが褒めてくれるので

夢中で捕ったそうです。

調理法は油で炒めるだけ。

これが当時は
ごちそうだったんです。

八乙女≫あささんと僕は
戦争中の暮らしを

ちょっとだけ
理解できたような気がしました。

ジュニア≫八乙女君
いかがでしたか

当時のごちそう。

八乙女≫やっぱり
おじいさんの

戦争中の話を聞きながら
採ってたので

そのときは、その背景に

タイムスリップした感覚になって
食べて

あ、おいしいって感じた。

VTRにも映っていない
野草もたくさんいろいろ

食べたんですよ。

本当においしいのもあれば
ただ苦いっていうのも

あったりとかして。
でも、これを毎日

食べるのかって思うと
やっぱりちょっと違うなっていう。

僕はその日だけ食べたから
おいしいって感じて

帰りましたけれども

これを毎日、食べるのは
ちょっと

つらいのかなって思えたり。

あと、印象的だったのは
苦かった、ヨモギ。

でも、当時は
苦いという味がするだけで

幸せっていうのが
結構、僕の心には

残りました。

ジュニア≫監督、去年も
教えてもらいましたけれども

ちゃんと残ってるんですけど
日記にね、おなかがすくでしょ。

朝とかお昼に食べたものを
自分の中で戻して

これをもう1回
そしゃくするんですって。

味がするっていって。

それでなんとか、飢えを
しのいでた。

お昼食べた、うどんを
今日は、おなかすいたから

もう1回かんでってやってたら

よくよく考えたらあれ?しばらく
うどん食べてないぞってなって

じゃあ、なんやったんや
ってなったら

おなかにいる虫やったんですって。

っていうのを、笑える話として
残してはったり。

片渕≫でも、そうなんですよね。

僕も映画を作るときに
いっぺん、お塩がなくて

料理作ったら
どうなるかなと思って

野草を摘んできて

それで、全然塩使わないで
食べてたんですよ。

一番最後に
塩昆布出して食べたら

ひと口口に入れるだけで
天国に行ったみたいに。

お塩ないとか
今でも虫を油で揚げてたけど油も

途中から多分なくなっただろうし

本当にどうしてたんだろうなって
思うとね…。

近江≫衝撃的なエピソードも
ありましたけれども

続いてのエピソードは
子どもに戦争体験を

語り継ぎたいという
30代の女性からの投稿です。

近江≫杉山麻衣子さん。

娘の朔弥ちゃんに
絵本を読み聞かせるのが日課です。

近江≫実は杉山さん、幼いころ
祖父の一郎さんから

戦争の思い出話を聞くのが
大好きでした。

一番印象的だったのは
シベリア抑留での体験談です。

終戦時
満州にいた66万人の日本兵は

その多くがソ連軍の捕虜となり

シベリアなどで
強制労働をさせられました。

一郎さんは、その1人でした。

松嶋≫いつも優しかった祖父。

実は争いごとが苦手で

戦場でも敵を撃てず
上官に何度も殴られたそうです。

終戦後は、ソ連軍に捕らわれ

シベリアの強制収容所で
働かされました。

仕事は工場での金属加工や
食堂での調理の手伝い。

厳しいノルマを課され

食事も足りず
栄養失調に陥ったそうです。

真冬は、気温マイナス30度を
下回る極寒の地。

身を寄せ合って寝ましたが

朝、目覚めたら
隣の仲間が死んでいることも

たびたびでした。

絶対に生きて日本に帰りたい。

思いついたのが、ずる休み。

逆上がりを20回してから
診察を受けたら

「熱があるし動悸も激しい」と
仕事を休ませてくれました。

工場や食堂には
ソ連の女性が働いていました。

手先が器用だった祖父は

余った金属で指輪を作り
プレゼントしました。

女性たちは大喜び。

調子に乗った祖父は
指輪をどんどん作ったそうです。

ある日
絶体絶命の危機が襲います。

それは、シベリア鉄道で
別の収容所へ運ばれる

道中でのこと。

湖のほとりで休憩となり
外で用を足していると

ソ連兵が、いきなり銃を
突きつけてきたのです。

≫なぜ列車に戻らない!
脱走するつもりだな!

松嶋≫もうだめかと
覚悟したそのときでした。

≫一郎は
そんなことをする人じゃない!

出発時間が
分からなかっただけよ!

松嶋≫一緒に食堂で働いていた
ソ連の女性でした。

彼女の勇気で、祖父は
一命を取り留めたのです。

近江≫祖父の一郎さんは

現地の女性から渡された
この写真を

生涯大切にしていました。

近江≫杉山さんは最近
シベリア抑留の歴史を

調べ始めました。

祖父の人生を
深く知りたいという思いからです。

知らなかった厳しい現実。

それと同時に、祖父の語り口が
いかに魅力的であったかに

気付きました。

近江≫この日、杉山さんは
祖父が日本に

持ち帰ってきたという指輪を
娘に見せました。

大好きな祖父の物語とともに

戦争を語り継いでいこうと
決めています。

ジュニア≫すずちゃん
いかがですか?

広瀬≫やっぱり当時のものとか

受け取った側としては
一生の宝物にもなってるけど

なんか環境は違うし
時代は違うからっていうのも

もちろんあったから
重いなとか、心苦しい瞬間は

見てても
もちろんあったんですけど

今の人たちと
一緒に生活をしているのは

変わらないので。
楽しいこととか

ちょっと
ドキッとしたりすることとか

いろいろあったんだなと。

ジュニア≫軍人さんが
銃を向けてて、そこに女性が

勇気を振り絞って
銃を下げさすって

ふだんの生活で
いかに、この方が

優しくてすてきな人だったのかが
分かりますけどね。

八乙女君、いかがですか。

八乙女≫あのクオリティーの指輪

言葉が通じたのか
通じなかったのか

分かりませんけど

全国共通の思いみたいなのが
たぶん伝わって、1人の女性を

動かしたと思うと
すごい魅力的な男性だったんじゃ

ないかなと
思いますね。

ジュニア≫よう残ってたね。

あれをよう持って帰ってきて
くれはったね

あの指輪をね。
伊野尾君、いかがでしょう。

伊野尾≫僕らのように
戦争を知らない世代が

どんどん増えていって
子どもに語り継ぎたいって

おっしゃってましたけど
やっぱり、この話を

どんどん若い世代に
伝えていくということが

大事なんだなというふうに
改めて思いました。

近江≫片渕さん、次の世代に
伝えていくために

どんなことが大事だと思いますか。
片渕≫今日、僕たち

アニメーションでエピソードを
絵にしたんですけど

あれは全部本当にあった
人生のお話なんですよね。

たくさんの人生があって
戦争中の中でも

いろんな人々の個性が
そこにあったってことですよね。

それを見ていると
ああ、その時代って

実は、我々から見ても
そんなに

遠くないんじゃないのかなって
思えたりもしますね。

そうやって戦争中の時代との
距離感が自分の中で

近づいてきたなと思った方は
もっとたくさんのものを

あの時代に
どんなことがあったのかなと

ご自分で、そこに
近寄っていってほしいなと

思います。


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