ETV特集「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」被爆者を含む8万8千人が参加。原爆投下直後の…


出典:『ETV特集「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」』の番組情報(EPGから引用)


ETV特集「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」[字]


日本映画史上、最大級の規模で撮影された映画「ひろしま」。被爆者を含む8万8千人が参加。原爆投下直後の街の様子を徹底的に再現している。時代に翻弄された映画の物語。


詳細情報

番組内容

原爆投下から8年後。広島で空前絶後の映画が製作された。タイトルは「ひろしま」。撮影に参加した人の数は8万8千人。日本映画史上、最大級のスケールを誇る。原爆投下直後の広島で何があったのか?被爆者たちが自ら演じて再現している。この映画は、ベルリン映画祭で入賞。国際的な評価を受けた。しかし今、この映画の存在はほとんど知られていない。いったいなぜか?そこには、時代に翻弄された映画の知られざる事情があった。


『ETV特集「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

ETV特集「忘れられた“ひろしま”~8万8千人が演じた“あの日”~」
  1. 映画
  2. 原爆
  3. 広島
  4. 当時
  5. 撮影
  6. 日本
  7. 被爆
  8. 上映
  9. 被爆者
  10. 世界
  11. 悲惨
  12. シーン
  13. フィルム
  14. 自分
  15. 製作
  16. 検閲
  17. 作品
  18. 実際
  19. 出演
  20. 日教組


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♬~

原爆投下から僅か8年後。

広島を舞台に
空前絶後の映画が撮影された。

映画の名は…

あの日 原爆が落とされた街で
何が起きていたのか。

被爆者たちが自ら演じ 徹底的に再現した。

お母ちゃ~ん! お母ちゃ~ん!

寒いよ~ 寒いよ~!

地獄だ 地獄だ!

鬼気迫る。
もう演技とは言えないよね。

本当に吐きそうになって
吐いたかもしれないし

倒れそうになりましたよね。

当時 撮影に参加した人の数は…

日本映画史上 最大級のスケールを誇る。

映画「ひろしま」は
ベルリン国際映画祭で入賞

国際的な評価を受けた。

あの悲惨さは もう…。

とにかく後の人に残したい。

それが 大きな
戦争の抑止になればいい。

なぜか 今 この映画の存在を知る人は
ほとんどいない。

とにかく こんな映画が
あったんだと。

映画人として
知らなかった自分が恥ずかしいなと。

もう当然 日本全ての人が

あのフィルムは
ご覧になったと思ってました。

だから 驚きましたね。

純粋に なんかミステリーみたいなね。

映画「ひろしま」は
どうして作られたのか?

そして なぜ 時代の闇に葬られたのか?

映画「ひろしま」。

一体 どんな作品なのだろう。

♬~

舞台は 1953年
原爆投下から8年後の広島。

市内にある中学校の
少年少女たちが主人公だ。

やめて! やめて!

あっ 鼻血が… 鼻血が出てるわ!

体の異変を訴える子どもたち。

しかし それが被爆によるものだとは
あまり知られていなかった。

死にたくないわ。

映画では
被爆者たちが重い症状に苦しみ

社会の片隅で
ひっそりと暮らす様子が描かれる。

被爆者たちを悩ます病気や貧困
そして 差別。

これらは 実際に
当時の社会で問題視されていた。

口では言わないが
いつ原爆症に命を取られるかと思って

毎日びくびくして生きてるんだ。

そんなことを言えば 君たちは すぐ
原爆を鼻にかけてるとか

原爆に甘えてるとか言って笑うんだ。

そして物語は 原爆が投下されたあの日の
忌まわしい瞬間へと遡っていく。

Bよ。 Bじゃない?

ほんと Bの音よ。

一瞬にして がれきと化した街。

(泣き声)

映画では 原爆投下直後の広島の姿が
徹底的に再現されている。

一郎!

お願いだから逃げて下さい。

子どものためを思うなら ここを逃げて!

よしこ!

よしこ~!

映画に出演した人の中には

実際に被爆を経験した
広島市民たちも多くいた。

全編104分のうち
こうした原爆投下直後の惨劇が

30分以上にわたって描写されている。

(佐藤)私 そのころ 映画の…

映画雑誌の編集部に
入ったばっかりでしたけどね

愕然としましたね この映画 見た時にね。

端的に言って 非常に優れた映画ですよ。
その優れてるところっていうのは

とにかく当時の事実を再現しようっていう
その一点にありますよ。

被爆というのは
こういう状態だったんだっていうことを

とにかく
正確に記録として残そうというね。

その 何て言うかな その熱意が
非常にきちんと表現されてますね。

やはり これは
後世に残すべき重要な作品ですね。

髪の毛は抜けるかね?

はい。

遠藤一郎は いないか~!

原爆投下直後の苦しみを徹底的に再現した
「ひろしま」。

そこには この悲惨な現実を
知ってほしいという

被爆者たちの思いが込められていた。

この映画が作られるきっかけになった
本がある。

これがね 一番最初。

1951年の10月です。 一番最初。

「原爆の子」。

被爆した少年少女たち 105人が
自らの被爆体験や平和への願いを

飾らない言葉で つづっている。

「川の所にきて見ると
まっくろになった人が

『水がのみたい 水がのみたい』といって
くるしんでいました」。

「母は 『あなたまで死んでしまったら
後に残る子供がどうなるんです

どうか早く逃げてちょうだい』と
父をさとした」。

当時 日本では 原爆がもたらした悲劇は
世間に まだ広く知られていなかった。

日本を占領下に置いていた連合国が

プレスコードを敷いて
メディアを検閲していたためである。

原爆の悲惨さが知られれば

反米感情が高まり
日本の民主化を妨げると考えられていた。

とにかく
広島についての言論が

全体として
表に出ないようにと

アメリカは まあ
うまくやってたわけです。

普通の日本人は

原爆がどういうものであったか
っていうことを知らないんですよ

私も もちろんですけどね。

それだけ やっぱり 検閲が
厳密に行われたってことですけどね。

そんな中 世界に再び核の脅威が迫る。

1950年 米ソ冷戦の対立激化の中
朝鮮戦争が始まった。

トルーマン大統領は 戦局の激化に伴い

「必要とあらば 原子爆弾を使用することも
考慮中である」と言及する。

こうした状況に怒りを覚えていたのが
「原爆の子」を編さんした…

長田もまた被爆者の一人だった。

(五郎)私の父は 原爆投下は犯罪である
という信念を持ってたわけですからね。

これは やはりね
後世の歴史に残してやろうと。

その場合に 政治色とか
イデオロギー色があった場合は

検閲に引っかかって駄目だけど

子どもの作文ならね
検閲に引っかからないで刊行できる。

米ソ戦が始まるという危惧があったから

私の父もね 米ソ戦で
原子爆弾戦争が始まった場合は

大変な事態になるというんで

広島を繰り返すなと。
ノーモアヒロシマね ノーモアヒロシマ。

長田の依頼を受け 広島の子どもたちから
被爆した体験談を集めた。

(楠)あの先生は
私の文理大時代の恩師でして

原爆の体験記をね
子どもに書いてもらおうという話は

学生にも伝わってきまして

私は 幟町小学校に
お願いに行ったわけですね。

それは快く受けて頂きまして

そういうふうにして
大学生 在学中の学生が

各学校を手分けをして趣旨を訴えて
それで原稿を寄せて頂いた。

集められた体験談は 1, 000以上。

こうして出版された「原爆の子」は
累計27万部を記録。

日本全国に原爆の悲惨さが知れ渡る
きっかけとなった。

この本の中に手記を寄せた一人…

「顔や体の皮膚が
馬鈴薯の皮のように ぽろぽろにむけ

力無い足取りで
念佛を唱えながら逃げて行く老人。

血の滴り落ちる額を両手で押えながら

狂ったように 妻子の名を呼びまわる男

ああ 思い出すだけで
身の毛がよだつようだ」。

中村は 編者の長田に

「原爆の悲惨さを伝える映画を
作ってほしい」と願い出た。

そこで 映画の製作のために頼ったのが
日本教職員組合 日教組である。

映画「ひろしま」が製作される
出発点となった

中村の思いを記録した映像が
今回の取材で発掘された。

(中村)組織団体の応援が
なくちゃいけないですからね。

「日教組のね 大会があるから
そこに行って 私たちが言うよりも

実際に遭った中村くんが行ってね
呼びかけてくれ」と。

原爆の映画を作って下さいと
涙ながらに声をかけたわけですよ。

その時は 僕は ほんとにね

本当の姿を皆さんに見てもらいたい
という気持ちが強かったんです。

映画の製作を決めた日教組。

もともと 日本を民主化する目的で
連合国指令によって置かれた。

だが 朝鮮戦争が始まると

「子どもたちを再び戦場へ送るな」
というスローガンのもと 政府と鋭く対立。

当時 組合員数は 50万に上っていた。

映画の製作費は 全国の教師たちから
1人50円でカンパを募った。

合計4, 000万円 現在の貨幣価値で
およそ2億5, 000万円が集まった。

更に 映画「ひろしま」の趣旨に賛同し
一流の映画人たちがそろった。

監督は…

大手映画会社 東宝の出身で
同期には 黒澤 明がいた。

当時は 東宝を離れ

「きけ、わだつみの声」で
ヒットを飛ばすなど

社会問題を鋭く描く
作品を発表していた。

主演を務めたのは 当時
絶大な人気を誇った 松竹の看板女優…

会社の反対を押し切って
無償で出演を決めた。

私が生まれ育った広島の話だから

なんとか出たいと思ったんです。

当時は それぞれ俳優っていうのは
映画会社の専属で

ほとんど 他の会社の映画には
出れないというのが

もう 決まりだったんですね。

何度も何度も頼みまして

で とにかく
やっと出られたっていうことなんです。

で あの… やはり あの悲惨さは

もう とにかく後の人に残したい

で それが
大きな戦争の抑止になればいい

という考え方だったんですけどね。

映画「ひろしま」の製作の舞台裏を伝える
貴重な資料が残されていた。

(明子)これは やはり
「ひろしま」関係の箱でした。

カット割りとか
スチールなんかも入ってました。

シナリオや絵コンテ
撮影の準備ノートなど およそ200点。

残していたのは
この映画で助監督を務めた…

「海と毒薬」「黒部の太陽」など
後に日本を代表する映画監督になる。

皆さん ほんとに あの…
どう言ったらいいですかね

もう 夢中というよりも
本当に あの…

何もかも忘れて
この映画に集中するという

そういうお仕事ぶりだったようですね。

これ これ。 これ 面白いですよね。

これは
燃え盛る広島の街のシーンのセット図。

原爆が投下された街を撮影するために

市内の広大な河原に
20軒以上の家が建てられた。

こうして組まれた
大規模なオープンセットは

23か所に及んだ。

そして 「壊れた街」を描いたスケッチ。

力のこもった筆致で
ディテールまで細かく描かれている。

撮影の際に使われたのは

市民が被爆した際 実際に身につけていた
衣類や日用品 がれきや資材など。

その数は 数十万点に上った。

中には 原爆で亡くした孫の遺品を

涙ながらに持ってくる
おばあさんもいたという。

あきお~!

こうして再現された原爆投下直後の街。

そこで演技をしたのは
実際に被爆した少年少女たちだった。

(沼井)これ 月丘夢路さんですよ。

で これが私。

だから 一緒に写ったのに
なんで こんな格好 ぐたっと…。

普通に写ればよかったのに
恥ずかしいなぁという気がします。

主演の月丘夢路の隣で

逃げ惑う少女を演じた 沼井彰美さん。

製作映画と書いてありますね。

沼井さんは 原爆投下3日後に

行方不明の親戚を捜して
広島市内に入り 被爆した。

最初は きれいな…
女学生がきれいな制服を着て

下は もんぺをはいて
白いブラウスを着てたんですけど

その焼け焦げるシーンの時には
それをぼろぼろに破って

汚い土とかを塗ってね。

頭も もう あの当時 被爆した人は
毛が逆立ちしてたっていう…。

だから そういう感じに
頭の毛もスッと上に上がるような感じで。

沼井さんには
今も忘れられないシーンがある。

この河原で撮影した
水を求めて川の中へ沈んでいく場面だ。

(沼井)先生の肩につかまって
流れていって

最後には 肩から離れていって

自然にず~っと流れていってしまった
記憶があるんですけどね。

泳げないんですよ 私はね。

泳げないんだけど
泳げないっていうことは言えないから

まあ どうにかなるだろうという気持ちで
ず~っと流れていって。

最後には
船がね 助けてくれるというか…。

元気だわ。

高校生の時 この映画に出演した…

「原爆の子」にも手記を寄せていた。

「私たちは 比治山にのぼって
山の防空ごうに入りました。

だんだんと山をのぼっていくうちに
たくさんの死人がごろごろしていたので

どうしても
見ないわけにはゆきませんでした。

その中には
私の知っている人も だいぶいました。

私は なみだが出て
しかたがありませんでした」。

国語の時間に 国語の先生からね

被爆した人は その体験を書いてきなさい
という宿題だったんですよね。

家で そうですね
ほんとに苦労しながら 泣きながら

鉛筆で ざら紙に…
1週間か10日は かかったかな。

ほんとに 何のてらいもなく
ほんとに飾り気もなくね

見たまんま 感じたまんまを
書いてますよね。

その後 映画に出演。

しかし その撮影は
つらく 過酷なものになる。

これは あんまりね
ちょっとね 見たくないね。

鬼気迫る。 もう演技とは言えないよね。

撮影が行われたのは
「原爆の子」の手記につづった

あの比治山だった。

(早志)私は 比治山のシーンは
ちょっと つらかったかな。

ほんとに地獄絵だったんですよね。

だから それを現実に…

そこに 撮影の時には実際の死体が
あるわけじゃないんですけれども

やっぱり もう あるような

幻想みたいな感じがね
湧き起こってくるというか

トラウマみたいになってて

比治山にのぼっていく途中とか
防空ごうに逃げ込んだ時とか

その辺が
一番たくさんの死体を見ましたので。

現実に見えてる景色と
当日の景色が重なるんですよね。

みんなには見えない景色が
私たちには見えるような感じで。

本当に吐きそうになって
吐いたかもしれないし

倒れそうになりましたよね。

そして もう一か所
撮影中 脳裏によみがえった

あの日の記憶。

それは 川にあふれる人々の姿だった。

(早志)川に下りた人は みんな
ほとんど亡くなったからね。

はい上がったりできた人は いないと思う。
もう 水 水で 水を飲もうとして

そのまま ずるずるっと
みんな死んだから。

人間の形態をしてないというか 見た目
色も何もかも ぐちゃぐちゃですから

それが川にいっぱい浮いてたんですから。

それを見たからね 私は。

人間の体って あんなになるんかな
いうような感じで。

それは描けないと思うわ
映画でも ちょっとね。

被爆者たちは あの日の記憶と闘いながら
演技をしていた。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…。

こうして 広島市内で
2か月にわたって行われた撮影。

日を追うごとに
協力する市民の数は増えていった。

映画の最後は もともと
子どもたちが合唱をしながら

原爆ドームに向かっていくシーンが
予定されていた。

しかし 撮影が進むと
何か協力したいという声が相次ぎ

ラストシーンが急きょ書き換えられた。

子どもたちも 大人たちも
皆が原爆ドームを目指して行進する。

広島が経験した悲惨さを伝えたい。

参加者の数は膨れ上がり
ラストシーンだけで2万人にもなった。

(楠)一番最後のシーンは

何万という群衆が
向こうの相生橋を渡ってくる。

子どもたちは もちろん
親も一緒になって。

だから そういう意味では

市民を挙げて この映画を作った
というふうに言えると思いますね。

こうして 日本映画史上 空前のスケールで
製作された 映画「ひろしま」は

1953年8月 完成した。

しかし 公開直前 思わぬ出来事が起きる。

完成試写をしたところ
配給を予定していた大手映画会社が

「反米的だ」と上映を拒否したのだ。

例えば…

うわっ!

この上映中止という判断。

背景には 世界情勢の大きな変化が
あったとみられる。

大きな問題が
我々の上にも及んでいます。

占領時代 アメリカは
ソ連との冷戦激化の中で

左翼や共産主義を厳しく取り締まる方針を
打ち出した。

共産党24名の幹部追放を決定しました。

反共産主義の砦とされた日本では
検閲が行われ

およそ3万人が
マスメディアや民間産業から追放された。

そんな中
政府から強い圧力を受けていたのが

映画を製作した
日本教職員組合 日教組だった。

当時 文部省は日教組に対し
政治活動を禁止する意向を表明。

対立が深まっていた。

映画が完成した 1953年
既に日本は独立。

自由な報道が
許されるようになっていたはずだった。

しかし メディアには アメリカとの間で
火種になりそうなものは

自主規制しようという空気が
漂っていたという。

要するに アメリカに遠慮したんです
はっきり言ってね。

あれだけ アメリカが
厳しく検閲してきたことをね

映画人たちは よく知ってますしね。

とにかく
映画の中で原爆について語ったり

ちょっと触れたりするだけでも
大変でしたから

それは よく分かってる…。

本当の意味での言論の自由の自覚が
やっぱり足りなかったんだと思いますね。

(永井)恐らく それで
職を失う可能性のあった

当時の映画会社の
サラリーマンとかは

やっぱり
考えたんじゃないかと思うんですよね。

何か言い損じたら 私の身に危険が及ぶ
私の家族が大きな迷惑を受けるっていう

その配慮は生きてるわけですよ。

組合活動であるとかですね
左翼的な運動っていうのは

警戒心をもって迎えられましたし
ほんの数年前までは

そういった行動っていうのがですね
厳しく断罪されていた時代ですから

それをあえてするっていうことがですね
どれぐらい勇気をもってできたのか。

映画会社が免罪されるわけでもないと
思うんですけど

映画会社を断罪して済む問題でもない。

日本を覆った時代の圧力。

「原爆の子」に手記を寄せ
製作に協力していた子どもたちも

撮影中から 心ない批判にさらされていた。

端的に言えば 赤だと言われたんですよね。
赤の手先という…。

利用されて 悪い方向へ今いってるから

それに協力するとね 絶対 今後
大人になった時でもよくないと。

悪影響があるから よくないと。

大学に入るとか
就職するとかいう時にもね

影響があるというようなことを
言われましたけどね。

だから あんまり深く関わらない方がいい
というのは

周りの大人から言われましたけれど

なぜかというのが まだよく
その時は理解できてなくてね。

(田邊)これ スタッフだよね。

15歳の時に 映画「ひろしま」に出演した…

田邊さんは
原爆ドームの隣にあった自宅を焼失し

両親と弟を亡くした。

その経験を「原爆の子」に つづっている。

「お父ちゃんは床についてしまった。

十六日のお昼ごろ
ついに おなくなりになった。

ぼくは なにもしないで

お父ちゃんに かじりついて
泣いてばかりいた。

お母ちゃんも どこでなくなったのか

かえってこなかった」。

映画には 脚本作りから携わり
生徒役で出演もした。

しかし ある日 学校で

映画活動に関わらないよう
諭されたという。

(田邊)校長室へ呼ばれたこともあるけどね
まあ あの… これは一番こたえたね。

こういうものに関わってると
まあ 勉学も遅れるし

好きなね 中学だから
高校進学もあるんだけど

そういうところに
行くことができなくなる。

陰に陽にね プレッシャーが
かかるわけだよね。

自分自身が正しいことしてるんだよ ねっ。

二度と あんなことは
あっちゃいけないっていうことを

映画の目的も そうだっていうふうに
すり込まれてたから

何ら自分は間違ったことをしてない。

むしろ 正しいことをしてるっていう
子ども心に自負心があるから

その いわゆる 葛藤っていうかな。
これが つらかったね。

田邊さんは次第に 自分の純粋な思いが

イデオロギーの対立や政治活動に
利用されたと思うようになった。

子どもを介してね
自分たちの思いを達成する。

そこには どうしても無理があるんだよね。

日教組にしてもね やっぱり

平和っていうものを 最終目的にしたい
っていうのは 同じだったと思う。

ただ そこへ持っていくのに

思想であったり イデオロギーであったり
あるいは行動ね

そういうものに子どもを利用したと。

だんだんと 嫌気が差してきてね

このままじゃ 自分 駄目になると思って

それで高校から
山口県の学校へね 転学して

原爆とは二度と関わりたくない
広島とは関わりたくない

そういう強い思いでね 広島を後にした。

最終的に 映画「ひろしま」は

独立系の映画館や自主上映会などで
細々と公開された。

しかし その存在は 広島の人々にさえ
徐々に忘れられていった。

関西大学教授の永井さんは
この一連の動きは

現代に生きる私たちにも
つながっている問題だと指摘する。

なんで これが駄目だったんだろうとか
どうして こんなふうに

意欲のある作品が お蔵入りに
なったんだろうっていう思いがね

強くなると思うんですよ。

それ以上にですね 今それは
解決されてる問題なのかとか

あるいは 当時の判断を誤った人たちは

なぜ 誤ったっていうふうに
なってしまうのか。

これでよかったんだと思えた状況の
当時の人々の置かれていた様子を

今の私たちが どう考えるか
っていうところが大事ですよね。

そういう意味ではね
70年かかって出された宿題ですよね。

もう一回 この映画を使って お前たちは
何をするっていう感じだと思うんですよ。

映画が完成して 66年。

被爆者たちの思いが詰まった映画
「ひろしま」の貴重なフィルムは

国立映画アーカイブで
ひっそりと保管されている。

長らく眠ってきたこのフィルムに目をつけ
自主的に上映活動を始めた人がいた。

9万人近い広島の人たちが
この映画に携わり 出ていたと。

これはもう
世界に類のないことでありね

これは広島の宝であり 日本の宝であり
世界の宝であると。

小林一平の父 大平は

かつて監督補佐として
映画「ひろしま」に携わっていた。

(一平)親子関係で言えば
おやじに対しての尊敬の証しかな。

この映画が どんどん上映されてって
ああ こうだったんだと。

うん そういうのを知ってもらう。

まず知る 知ってもらうってことが
一番大切だと思います。

ところが4年前
一平は 心筋梗塞で急逝。

この映画を広めたいという父の遺志を

息子の開さんが
引き継ぐことになった。

映画「ひろしま」の上映をしております
小林 開と申します。

この映画 僕の祖父
小林大平というんですが

監督補佐として
参加しておりまして

それの関係で 父が上映を始めて
僕が後を受け継いでやってるという…。

今 開さんは 全国各地に出向き
映画の魅力を伝えている。

再上映に賛同してくれる映画館も
徐々に増え

今年は 全国11か所で上映される。

とにかく こんな映画があったんだと。

映画人として知らなかった自分が
恥ずかしいなと思いましたね。

50年以上たってますが
その時点でも 新作として

皆様に提供すべきだと思いましたので。

次の世代に受け継いで頂きたいので
それは劇場で ずっと持続させて

定期的に上映することが
大事だと思ってます。

ちょうど今 セッティング中ですね。

再上映活動を通じて開さんが目指すのは

若い世代に 少しでも
原爆について知ってもらうことだ。

この日は 大学で開かれた

学生たちも参加する
市民講座での上映会だった。

う~ん… 衝撃的というか。

自分がこうなったら怖いなっていう。

なんか… もうちょっと ごはんとか人とか
大切にしようって思いました。

病院で種を植えた時
あったじゃないですか。

その芽が出た時の喜びとかも
その… 映画だと分かるので。

この学生が印象に残ったシーン。

芽が出た。 芽が出た…!

70年間 草木も生えないと言われた広島で
種が芽吹き

被爆者たちが 希望を取り戻す。

苦しいと思うんですけど…

けど それを 次の世代や人に
伝えていくという

その思いがこもっていて
とてもいい作品だなと思いました。

(開)この映画が残された… 映像として
未来永劫 残るものだと思いますので

これをやっぱ見ることによって
継承ってことをしていって

そういうことによって また

二度と核を使わない
使わせないっていう思いが

芽生えるんじゃないかなっていうふうに
思いますね。

再上映の活動で
映画は少しずつ知られていった。

しかし より多くの人に
見てもらうためには 課題があった。

半世紀以上も前のフィルムは 激しく劣化。

映像を補修してデジタル化する必要が
あったものの 多額の資金が必要だった。

そんな時 突然 海外から

映画「ひろしま」の手助けをしたい
という声が届いた。

(伊地知)
今から もう3年前になりますかね

まあ 私の 要するに インターフェース

それに 突如として出てきたんですよ。

「えっ! こういうのが やってるんだ」。

偶然 この映画の存在を知った
映画プロデューサーの伊地知さん。

日本で上映活動をする
小林 開さんに連絡した。

伊地知さんは 北米での上映と

フィルムをデジタル化する
スポンサー探しを申し出た。

「ひろしま」は 世界に向けて
要するに 北米だけじゃなくて

世界に向けて発信していくのに
いい作品だと思いました。

すると ハリウッドに拠点を置く
大手メディア会社から反応があった。

世界中の良質なクラシック映画を
北米に配信する専門チャンネル。

この会社は 課題だった
フィルムをデジタル化する資金を提供。

そして 映画「ひろしま」を北米で配信した。

映画は 北米やヨーロッパ アジアなど
世界10か国で上映され

今も続々と公開が続いている。

原爆投下から 74年。

今も 世界から
核の脅威は消えていない。

カナダのトロントに 映画「ひろしま」へ
大きな期待を寄せる人がいる。

(ノック)
ごめんください。

こんにちは。 よくいらっしゃいました。

核兵器廃絶国際キャンペーンが
ノーベル平和賞を受賞した際

スピーチを行った。

アズ ア サバイバー フロム ヒロシマ。

広島での被爆体験を世界に発信し
核兵器禁止条約の採択にも尽力した。

実は 66年前
映画「ひろしま」が作られた時

サーローさんは 試写会に参加。

しかし そのあと すぐに渡米したため

映画が上映中止になっていたことを
長い間 知らずにいた。

見たっていう記憶はあるんですね。

あれ以後 こちらに来てますけれども

もう当然 日本全ての人が あのフィルムは
ご覧になったと思ってました。

だから 驚きましたね。

ゲストとして招かれたサーローさんは

改めて この映画の持つ
圧倒的な力を感じた。

(映画「ひろしま」の音声)

ちょっとばかり きついですね。
精神的にきつかったですね。

全てを覚えてるような
気持ちでいますけどね

やっぱり こういう映画を見ると
忘れたことも また思い出されましたね。

でも これ 現実なんですもん。

七十何年前に起きたこと。
これが今も続いてる。

だから それを思い起こさないで
忘れたふりをして生きるわけにいかない。

(サーロー)抑止論だ… ね
いろいろなね そういう

戦略的な言葉を使って
核の話を進め続けるんではなくって

もう一度 人間に返って
人間の角度から このことを考えるには

これ以上の教材って
ないんじゃないかしらと思いますね。

これは貴重な
尊い宝のようなもんだと思うわ。

国内外で上映の輪が広がる
映画「ひろしま」。

映画に関わった被爆者たちが
今 思うこと。

♬~

映画を一人でも多くの人に
見てもらいたいなという。

この映画を見てもらえば やっぱり

核廃絶につながっていくんかな
という気があるんですね。

♬~

原爆っていうものをね
映画として表現するわけだけど

やっぱりね 本当に原爆を
体験した者でないとね できない。

それぐらい原爆っていうのはね
重いテーマであり

また いろんな情報を包含してる。

♬~

映画って ほんと現実から比べたら

とてもじゃないが あんなもんじゃないと
私たちに言わせればね思いますけれども

何十年もたって その体験をした人が

どんどんどんどん少なくなっている
現在だからこそね

なんかの形で そういうふうに
伝わっていくということは

絶対大事なことだと 必要なことだと。

原爆の悲惨さを伝えたい。

かつて市民たちは
平和への願いを映画に込めた。

スクリーンに映る名もなき人々。

そのまなざしは 現代を見つめている。

(鐘の音)

バリアフリーバラエティー
「バリバラ」。 始まるよ!


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