NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」小川平吉が、1925年に創刊した「日本新聞」…



出典:『NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」』の番組情報(EPGから引用)


NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」[字]


戦前日本人の思想の変遷に大きな影響を与えた、ある「新聞」が見つかった。戦前最大の右派メディアとされる「新聞」から、知られざる「戦争への道」をたどっていく。


詳細情報

番組内容

戦前最大の右派メディアが見つかった。時の司法大臣・小川平吉が、1925年に創刊した「日本新聞」である。新聞が発行されていた11年間は、日本が「大正デモクラシー」から急速に「軍国主義」に傾斜していった時代だった。なぜ日本人は、一度は手にしていたはずの「自由」を手放し、「戦争への道」を進んだのか。「日本新聞」を手がかりに、見つめていく。

出演者

【出演】伊武雅刀,石丸幹二,正名僕蔵,小林勝也,高瀬哲朗,【語り】鈴木陽丈



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NHKスペシャル「かくて“自由”は死せり~ある新聞と戦争への道~」
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  16. 天皇機関説
  17. 統帥権
  18. 言論
  19. 時代
  20. 日本主義者


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(読経)

なぜ 日本人は
戦争への道を選択していったのか。

春4月。

あるテロ事件の首謀者の命日に
民族主義を掲げる団体が集結していた。

昭和初期 総理大臣を銃撃し

死に至らしめた。

凶弾に倒れたのは 戦前
民主的な政治を推し進め

国民から絶大な信頼を得ていた
総理大臣だった。

この後 自由主義的な思想を持つとされた
政治家が

テロやクーデターで
次々に命を落としていった。

失礼します。

よろしくお願いします。
どうぞ お通り下さい。

日本を
戦争へと向かわせることになったテロ。

その背後の思想を広めたとされる
戦前最大の右派メディアがあった。

その名は 日本新聞。

多くは失われたとされていたが

戦前 国家の中枢にいた人物が
保管し続けていた。

新聞の編集方針を貫いていたのは
日本主義と呼ばれる思想。

天皇が統治する国家体制を絶対視し

その破壊につながる社会のあり方を
激しく糾弾した。

新聞が創刊されたのは 1925年。

後に大正デモクラシーと呼ばれる
自由な空気にあふれた時代だった。

現代につながるライフスタイルが確立し

人々は 映画や音楽など
欧米の文化にも親しむようになった。

労働運動も盛んになり
人々は一定の言論の自由も手にしていた。

そして 普通選挙も実現。

政府が国民の支持を得て

軍の力を抑えることにも
成功していたのである。

日本新聞は こうした自由主義的な風潮が
国家体制の危機を招くとして

激しく攻撃した。

僅か10年余りで 社会から自由が失われ

日本人は 破滅への入り口に
立つことになったのである。

そして 日本は
泥沼の戦争へと突き進んでいった。

アジアや太平洋で甚大な被害を出し
悲惨な結末を迎えた。

それから74年。

新たな時代を迎えた日本。

号外で~す!

今では あの戦争の僅か10年前まで
自由があったことに

思いを致す人はいない。

知られざる 戦争への道である。

♬~

日本新聞の創刊者の孫
元衆議院議員の小川 元氏。

私たちは
戦前最大の右派メディアを手がかりに

日本人の歩みをたどることにした。

新聞を創刊したのは

明治期から衆議院議員を務めていた実力者
小川平吉。

司法大臣として
治安維持法の制定に深く関わるなど

国粋主義者として知られていた。

日本新聞が創刊されたのは 1925年。

内務省の記録によると 日刊で1万6, 000部
発行されていたという。

新聞創刊の目的は
日本主義と呼ばれる思想を広げること。

天皇が統治する独自の国家体制
いわゆる「国体」を絶対視し

日本を礼賛する記事を
数多く発信していた。

創刊時 新聞の主張に賛同した会員の
一覧が残されていた。

後に 戦争を指導することになる人々が
名を連ねていた。

この12年後 総理大臣となる若き日の…

14年後に 同じく総理大臣となる…

そして 当時は まだ陸軍中佐だった…

賛同者たちは 明治憲法に定められた

万世一系の天皇をいただく日本という国を
特別視する思想を共有していた。

我が日本の皇道政治は

万世一系の天皇が

現人神として
道徳政治を実現せるものなり。

官吏 公吏 議員はすべて

天皇の広大無辺 深遠無窮なる
仁徳の大御心を以て

心と為さざるべからず。

しかし 日本主義は

言論や学術の世界では 古い考えとして
受け入れられていなかった。

創刊初期の記事。

赤化 つまり共産主義化によって

国体が破壊されるという危機感が
にじんでいる。

学生 労働者。

革命思想。

大正デモクラシーの時代
自由主義的な機運が高まっていた。

近代化が進み
日本人の生活が大きく変わっていった。

言論や集会の自由が拡大。

労働争議も活発化した。

大手新聞には ロシア革命を実現させた
共産主義に関する書籍の広告が

頻繁に掲載されるようになっていた。

日本新聞は こうした自由な風潮が
危険な思想を社会に広げているとして

日本人や日本社会の変革を
目指したのである。

今回 発見された新聞は 3, 000日分。

私たちは その見出しに使われている
言葉を拾い出した。

すると 意に沿わない主張や人物に
売国や非国民などのレッテルを貼り

繰り返し攻撃していたことが分かった。

日本新聞が名指しで
非難の矛先を向けていた地域があった。

長野県南部の下伊那地方。

この地域では 当時
青年団の活動が盛んで

最新の思想を学ぶ勉強会が
頻繁に行われていた。

地元の歴史研究所に

青年団の活動に関わった人々の肉声が
残されていた。

証言を残していた一人…

小学校の音楽教師を務めていた。

大正デモクラシーの時代に
自由教育を進めた人物として

地域で著名な存在だという。

♬~(ピアノ)

八十吉は音楽を通じて
自由の豊かさを伝えようとしていた。

日本主義者たちは こうした傾向を
危険視したのである。

日本主義者は 自らの思想を
どのように浸透させようとしたのか。

どうぞ。 中へ どうぞ。

昭和8年12月。

八十吉と同じ地域の大地主だった家から
日本新聞に関する資料が見つかった。

誰の… から来てるんだろう。
ナカヤ タケヨさんかな。

日本新聞の中谷武世という人物から届いた
手紙も残されていた。

これも中谷だ。
同じ人だね。

日本新聞って書いてありますね。
ああ 5月11日。

手紙に書かれていたのは

地方の有力者を取り込み 周辺に
その輪を拡大させるという構想だった。

中谷武世とは どのような人物なのか。

東京帝国大学の先輩である岸 信介と
親しかった中谷は

国の中枢に人脈を持つことになる
人物だった。

日本新聞創刊当時は 26歳。

気鋭の民族主義者として
社説などを執筆していた。

中谷は 紙面での主張だけでなく

各地の青年たちに日本主義を広める活動も
行っていたことが分かった。

中谷らが下伊那地方で開いた集会には

自由教育を進めていた小林八十吉も
参加していた。

昔は プラタナスの木があってね。

きっかけは みんなで歌を歌うので
手伝ってほしいと言われたことだった。

八十吉は この時 初めて
日本新聞の主張を知った。

しかし 自由主義的な考えを否定する
日本主義は

当初 人々にとって縁遠いものだった。

日本主義者たちが もう一つ
変革すべき対象として

激しく攻撃したのが議会政治だった。

日本に帝国議会が設置されたのは 1890年。

しかし 藩閥や元老など
一部の権力者による政治が長く続いた。

国民が求め続けた普通選挙制度が
導入されたのは 1925年。

広い支持を受けた政党が議論を戦わせ
国政を担う体制が実現したのである。

そして 国民の信託を受けた
政党政治家によって組織された内閣が

軍の要求を抑え込むことも可能だった。

戦後 総理大臣となる鳩山一郎は

当時の二大政党の一つ
立憲政友会の幹部だった。

鳩山が訴えていた自由に議論を戦わせる
政治を 多くの国民が支持していた。

1920年代後半 議会での大きな争点は

日本の
対アジア 対欧米政策についてだった。

積極外交か 協調外交か。

軍拡か 軍縮か。

議論を戦わせ 国の進路を決めていた。

当時 日本主義者の多くは 軍拡を主張し

積極外交を強硬に推し進めるべきだと
考えていた。

これは かなり偉くなってから。

今回 小川平吉の遺品から
アジアの巨大な地図が見つかった。

日本が傀儡国家を作ることになる
中国東北部が

ピンクで示してあった。

日本主義者は 欧米列強ではなく

日本こそが アジアの盟主になるべきと
考えていたのである。

新聞創刊から6年目を迎えた1930年。

日本新聞は
国防に関する外交政策を巡って

政権を非難し
戦前日本の転機を作っていく。

攻撃の対象としたのは
ロンドン海軍軍縮会議。

軍縮を掲げる浜口雄幸内閣が

海軍の一部の反対を押し切って
条約に調印したのである。

浜口が総裁を務める立憲民政党は

この年行われた総選挙で圧勝。

国民からの大きな支持を得ていた。

国民は軍縮を歓迎。

ロンドンの会議から帰国した政府代表を
熱狂的に出迎えた。

軍縮を支持する世論に対し 日本新聞は

「浜口内閣は憲法違反」という
キャンペーンを展開した。

問題視したのは

明治憲法に規定されている統帥権。

天皇が持つ
軍を指揮する権限についてだった。

日本新聞は
浜口内閣による軍縮条約の調印は

統帥権干犯 すなわち
天皇の権限を犯したと主張した。

海軍の一部と裏で手を結んでいた
日本新聞の関係者。

天皇政治に復れと
激しく攻撃したのである。

この統帥権の問題が
後に議会政治を揺るがすことになる。

野党 立憲政友会は
与党を攻撃するために

日本新聞の主張に飛びついた。

この時 鳩山は この統帥権の問題が

議会から自由な議論を奪うことを
知る由もなかった。

統帥権の問題を政局として報じた
大手新聞もまた

言論が狭められていくことを
知る由もなかった。

軍部は後に
自らの主張を押し通すために

統帥権を御旗にし

あらゆる異論を
退けるようになっていくのである。

政府が天皇の統帥権を犯したという主張を
世間に印象づけた日本主義者たちは

更に 急進化していく。

各地を回り
日本主義を広めようとしていた…

国家改造を主張し
青年将校に強い影響力を持つ

思想家 北 一輝とも気脈を通じていた。

軍縮条約と同じ1930年

日本は 昭和恐慌で
不況のどん底へと転落していく。

政府は打つ手がなく
人々の暮らしは窮乏。

農村部では 娘の身売りも続出した。

こうした現状に憤った一部の青年が
急進化した日本主義に共鳴していった。

職を転々としたあと
右翼団体に身を寄せていた佐郷屋留雄も

その一人だった。

軍縮条約批准の1か月後
佐郷屋は 東京駅構内で

総理大臣 浜口雄幸の腹に
銃弾を2発 撃ち込んだのである。

生前 一度だけ 父親から

狙撃した瞬間のことを
打ち明けられたという。

世論の圧倒的な支持を受けて
軍縮条約を結んだ浜口。

葬儀には多くの国民が駆けつけ
その死を悼んだ。

政党政治を崩壊に向かわせることになった
この事件について

日本新聞の中谷武世は
戦後 こう語っていた。

浜口雄幸狙撃から1年後

大正デモクラシーの余熱が残っていた
日本社会の空気が一変する。

きっかけは 1931年9月

関東軍が満州事変を引き起こし
中国東北部を占領したことだった。

長野県下伊那地方で
自由な音楽教育を進めていた…

そのころ 小学校は
困窮した欠食児童であふれていた。

恐慌のあおりで 地場産業の養蚕が
壊滅的な打撃を受けていた。

国民の多くは かつて支持していた
議会政治にも失望していた。

政党政治家による収賄事件や汚職事件が

多発していたのである。

少し前まで
軍縮を熱狂的に歓迎していた人々。

閉塞した社会状況の中で
今度は 満州への侵攻に熱狂していった。

このころ 日本新聞に書かれていたのは

満州事変を聖戦とたたえ
日本民族を礼賛する記事だった。

八十吉がつづっていた日記に
大きな変化が表れるのは このころだった。

どうして こうなっちゃったのか…。

う~ん。

八十吉は 自由は人々を救えないと
悲壮感を強めていた。

そして 国家改造を訴える
テロやクーデターが連鎖していく。

満州事変の翌年には

前の大蔵大臣 井上準之助らが
殺害される。

同じ年 海軍の青年将校らが

総理大臣の犬養 毅を殺害した

五・一五事件が起きる。

議会を重んじていた政治家が
次々とテロの標的となり

恐怖が言論を封殺していった。

日本新聞は 被告が軍法会議で述べた

祖国救済のための捨て石となる覚悟だった
とする主張を 連日 伝えていた。

そして 国民の多くは
彼らに同情を寄せるようになっていった。

検察官のもとには
減刑を求める手紙が全国から届けられ

中には
小学生から送られたものまであった。

「五・一五事件減刑祈願記念」と書かれた
写真。

9人の青年は 減刑を訴えるために
切断した小指を当局に送りつけたという。

五・一五事件を指揮した元海軍中尉が

日本新聞の中谷武世に語った音声が
残されていた。

長野県下伊那地方の小林八十吉は

音楽教師を辞め
政治活動に加わるようになっていた。

日本主義を掲げる政治団体を作り
機関誌の編集に没入していった。

八十吉の仲間 30人以上も行動を共にした。

大正デモクラシーの時代から僅か数年。

ようやく獲得した自由を
享受していたはずの人々。

新聞創刊時には
主流ではなかった日本主義が

昭和恐慌で窮乏する人々の心に
浸透していった。

そして 1935年 言論の自由が失われ

議会政治が機能不全となっていく
決定的な事件が起きる。

10年間発行されていた
日本新聞の後期に頻出するようになる

機関説という言葉。

1935年に急速に増えていった。

機関説とは
大正デモクラシーを支えていた

当時主流の憲法解釈
天皇機関説のことである。

天皇機関説とは

天皇を 法人としての
国家の最高機関と位置づけることで

他の機関の役割を重視する考え方だった。

この憲法解釈によって
国民が選んだ政党政治家が

内閣を組織し 民主的に国政を行うことが
可能となっていたのである。

この学説を唱えたのは…

当時 日本の憲法学の最高権威だった。

日本新聞は 美濃部の学説は
「道理にそむき」「国の根本を乱す」として

執拗に非難した。

思想家 蓑田胸喜が
31回にわたって批判記事を執筆。

激しく攻撃したのである。

今日は よろしくお願いします。
お世話になります。

今回初めて 蓑田の遺族が取材に応じた。

家族のもとに残されていた遺品。

敵対する思想や人物を
徹底的に糾弾した蓑田は

家では口数の少ない父親だったという。

しかし 天皇に対する忠誠は徹底していた。

朝は必ず 親子で神棚の前に正座し

明治天皇の和歌を唱えるのを
日課にしていた。

蓑田にとって 天皇をいただく日本は
神聖なものだった。

しかし 天皇機関説の否定は

統帥権を盾にした
軍による独断専行を招きかねない

危険なものだった。

陸軍は 日本新聞での蓑田の機関説攻撃を
利用する。

陸軍大臣の林 銑十郎が

議会で天皇機関説を
明確に否定したのである。

そして 国民も 天皇機関説を
攻撃する運動に加担していく。

長野の農家で見つかった写真帳。

人々が軍服を着て上京し
機関説排撃のデモ行進を行っていた。

デモの記念に撮られた集合写真。

そこに 元小学校の音楽教師
小林八十吉の姿もあった。

排撃運動を受けて
政府は2度にわたり

機関説を否定する声明を発表する。

「天皇機関説は 厳に之を芟除」。

大正デモクラシーを支えた基盤は

完全に葬り去られた。

美濃部の著書は発禁処分となった。

そして 声明から4か月後

美濃部は暴漢に銃撃され
重傷を負うことになった。

この年 日本新聞は
10年の歴史に区切りをつけ

休刊を宣言した。

国民の思想を一変させたと自負した
日本新聞。

異論を排除していった その結末を
見ることなく

小川平吉は 1942年に この世を去った。

一度は得ていた自由を次々に手放した
日本人が歩んでいたのは

戦争への道だった。

アジアや太平洋で繰り広げられた
絶望的な戦い。

あまりにも多くの命が失われ
国土は焦土と化した。

日本新聞で天皇機関説を激しく攻撃した
蓑田胸喜。

敗戦から半年後に 自ら命を絶っていた。

お父さんの文章を
読まれたことっていうのは

これまで 結構 ありますか?

今のは理由ですけれども… もあって

全く見ることがありませんでした。

それは どういう思いからですか?

あんまり強い気持ちは
なかったんですけれども

やっぱり 一つは…

自ら命を絶ったということがですね

やっぱりあの…。

昭和 平成を経て
新たな時代を迎えた日本。

74年前。

長野県下伊那地方の小林八十吉は

大政翼賛会の一員として県内を回り

戦争への協力を呼びかけ続けた。

このあとって
日記 どうなってます?

戦後は 会社員として
6人の子どもを育てた八十吉は

戦時中に抱いていた思いを
家族に語ることはなかったという。

ここに終戦があったのか…。

家族のもとに残されていた 八十吉の日記。

1945年7月13日から終戦の日まで

その日記は 切り取られていた。

♬~

オタク戦隊 アニメンジャー。

ポーズがバラバラだ そろえろ そこは。


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