先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 言葉の力でつくった教育改革 安倍能成」戦後の教育改革に貢献した哲学者で教育者…


出典:『先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 言葉の力でつくった教育改革 安倍能成」』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 言葉の力でつくった教育改革 安倍能成」[解][字]


日本の戦後復興に尽力した人々の行動と信条から、明日を生きる知恵を探る後編。混乱の時代に信念を貫き、戦後の教育改革に貢献した哲学者で教育者の安倍能成の知恵に迫る。


詳細情報

番組内容

安倍能成が第一高等学校の校長となった翌年、太平洋戦争が勃発。軍部の圧力から学生を守ろうとし、軍の監視対象にもなった安倍は、戦後、文部大臣に就任、教育改革と向き合う。マッカーサーは本国から教育使節団を呼び指導させた。安倍は使節団に、「深い反省の上に教育改革はなさねばならない。その反省に日本流、米国流の区別は無い」。日本語のローマ字化も計画していた使節団は粛然として改めた。安倍の言葉の力の神髄に迫る。

出演者

【出演】教育評論家…尾木直樹,江戸川学園取手中・高等学校教諭…青木一平,中井美穂,【司会】新井秀和



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先人たちの底力 知恵泉「戦後復興 言葉の力でつくった教育改革 安倍能成
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  2. 教育
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  10. 知恵
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  12. 教育者
  13. 生徒
  14. 今日
  15. 正直
  16. 本当
  17. 漱石
  18. 軍部
  19. 校長
  20. 使節団


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今宵は 戦後 焼け野原と化した日本の
教育改革に貢献した ある人物の話です。

今から およそ80年前。

日本は
アジアの広範囲に軍事侵攻を行い

激しい戦いを繰り広げていました。

やがて 戦局は悪化の一途をたどり

日本は 学生たちを戦地に送り出すほどに
追い詰められていきます。

そして ついに敗戦。

残されたのは 廃虚となった街

掛けがえのない家族や友人を失った
人々…。

しかし その後 僅か数十年で

日本は 奇跡とも称される復興を
遂げています。

この復興を可能にしたものとは
一体 何なのか。

その大きな要因の一つが 教育です。

大きく変わった戦前と戦後の教育。

よく議論の的にもなる戦後教育ですが

新しい日本をつくる幾多の人材が
輩出されました。

「先人たちの底力 知恵泉
戦後復興」。

2回目の今日 取り上げるのは

戦後の教育を形づくった
教育者 安倍能成です。

もともとは
哲学の研究者だった安倍は

戦中から戦後にかけて
旧制第一高等学校の校長

学習院大学の院長などを歴任。

…という信念のもと
その半生を教育にささげました。

この安倍
とにかく自分の考えを隠し立てせず

誰に対しても
本音をぶつける生き方を貫いています。

学生時代 師事した文豪 夏目漱石が
自慢の喉を披露した時には…

戦局の悪化をひた隠し

アメリカとの戦争に踏み切った政府には…

更に 戦後 校舎を接収しようとする
進駐軍に対しては…

保身や遠慮を一切せず
率直な言葉を投げかけ

人々の心を打った安倍は
戦後間もなく 文部大臣に就任。

教育改革に
大きな役割を果たしていったのです。

そんな安倍の言葉に秘められた
知恵を読み解くのは…

中学 高校 大学の教員として

40年以上にわたって 教育の現場で
生徒たちと向き合ってきました。

そんな尾木さんといえば…。

テストを作る立場…?
そうよ。

尾木ママの愛称の
ゆえんでもある

この独特の語り口。

実は これ 教師時代に

生徒を安心させる やわらかい言葉遣いを
心掛けているうちに

いつしか身についたものなんだとか。

戦前から戦後にかけて
激動の時代を生きた安倍の言葉の力を

尾木さんが
現代の教育者の視点から読み解きます。

今日ね ご本人
いらっしゃるっていうことですから

ちょっと いろいろ聞いてみましょうね。
そうですね。

こんばんは。
こんばんは。 お待ちしておりました。

こんばんは。
お邪魔します。

あ~ でも もう まんまですね~。
ねえ。 どうぞ どうぞ

お掛け下さい。            ごめんなさい。
さっき見ちゃったんですよ。

見ちゃった?     見ちゃったんです。
お若い時に 教壇に立たれてるお姿。

そう そう そう そう。
若く見えました?

今も若いからね。
また もう。

変わらない感じですよね。
うん。

それは あんまりですよ。
いやいやいやいや…。

でも 驚いたのが この独特の いわゆる
尾木ママといわれる この口調が

あえて やってたっていう…。
いや これは 僕ね

女子の訴えの
いろんな悩みなんか聞いていて

そして 僕が返事書くでしょ?
毎晩 書くんですよ。

そうするとね
息遣いまで分かってくるんですよ。

それで 何か 女子の感覚が
すごい分かるようになったんですよ。

それで 今…。
でもね 今日は そんな尾木さんと共にね

安倍能成の知恵を味わっていこうと
思うわけなんですけれども

ご存じでした?
全く知らなかったです。

この下のお名前も 何と
お読みするのかしらと思ったぐらいです。

僕は よく知ってます。

っていうのは
僕 法政の教員だったんですけど

この3月までね。
で 安倍先生っていうのは

法政大学で
哲学の教授をやってたことがあるんです。

尊敬もしてます もちろん。
なるほどね~。

でも どうなんですか?
その戦後の教育改革に

関わってるわけですけれども

戦後教育っていうのは
戦後の復興っていうものに

やはり大きな影響を与えたっていうこと?
いや これは大きかったですよね。

だって ものすごい衝撃的な
戦後の教育ですから…。

だって 今までの軍国主義から それが
民主主義っていうふうに言葉が使われて

「これは何だい?」っていうのはね…。

それから 憲法も
世界に冠たる平和憲法なんだって。

これをね 僕なんか 小学5年の時に
憲法について 社会科で習ったんですよ。

僕たちは それ担うんだって
本気で思っちゃった。

あ~。
ねえ。 でも そんな時代に

その安倍能成が どんなふうに
教育を改革していこうとしたのか。

その知恵を味わう上で
ご用意したメニューがあるんです。

こちらです。    うわ~ すごい。
どうぞ どうぞ。

野菜スティック?
そうなんです。

さっぱりと召し上がって頂こうと
思いましてね。

これ メニューの名前があるんですけども
こちらなんですね。

ほう~。
見て下さい。 まっすぐじゃないですか?

確かに すごい まっすぐ。
何から頂きますか?

あっ キュウリ。            私 キュウリ。
僕も キュウリにしようかな。

もう 是非。 マヨネーズとみそと
ご用意いたしましたのでね。

僕 マヨネーズが好きなの。
あっ そうですか。

これ ミックスしても おいしいです。

その安倍という男は
とにかく まっすぐだったと。

そんな生き方を貫いたということで…。

せっかくなので
是非 その野菜をかじりながらですね

安倍の生い立ちから見ていきましょうか。
はい。

安倍能成は 明治16年
愛媛県松山市に生を受けました。

祖父の代から 医師として
松山藩に仕える家系だった安倍家は

名医として知られ
あの正岡子規も患者だったとか。

そんな家庭で育った安倍は
幼い頃から 地域でも有名な秀才でした。

10歳の頃には 父の手ほどきで

「論語」や「孟子」などの
漢籍に親しんでいたといいます。

しかし そんな勉強よりも

安倍が 最も強烈な体験だったと振り返る
出来事があります。

尋常小学校のそろばんの授業の時。

安倍は
計算を間違えていたにもかかわらず…

しかし そろばんを見れば 一目瞭然。

安倍のうそを見破った教師は
こう たしなめました。

この一件以来 正直であることに

何よりも重きを置くようになった安倍。

松山の中学を卒業後 上京し
旧制第一高等学校を経て

22歳で
東京帝国大学 哲学科に入学します。

在学中 安倍は友人に誘われて
ある会合に頻繁に出席していました。

それは
夏目漱石が主催するサロン 木曜会です。

漱石は 執筆活動のかたわら みずみずしい
感性を持つ若者たちを自宅に呼び

文学や哲学について話したり

はたまた 若者同士の議論に
耳を傾けたりすることを

好んでいたのです。

集まる主なメンバーを挙げると…

その後 各分野で頭角を現す
そうそうたるメンツが集まっていました。

しかし 安倍は ここで
とあるきっかけから

漱石と大げんかをしてしまいます。

それは 漱石が若者たちの前で
趣味の謡を披露していた時のこと。

謡とは
能の声楽にあたる部分をいいますが

漱石のそれは まさに下手の横好き。

若者たちも 気をつかってヨイショします。

どうかな?
さすが先生! 一流ですなあ。

(拍手)
よっ 先生!

ところが
自身も謡をたしなんでいた安倍は

つい正直な感想を漏らしてしまいます。

ちょっと 安倍君!

先生!     先生…。     先生!
ちょっと落ち着いて。

本音を吐露する安倍も安倍ですが

顔を真っ赤にして怒りだす漱石も
大人気ありません。

これで 安倍は出入り禁止。

…とはなりませんでした。

この一件以来 うそをつかない
ばか正直な性格が信頼されて

安倍は 漱石から 最もひいきにされる
若者の一人になったのです。

安倍自身は 漱石に惹かれた理由を
このように記しています。

さまざまな恩師たちとの出会いを経て

安倍は 教育者としての道を
歩んでいくことになるのです。

若い時に
どんな人と出会うのかっていうのは

すごく重要なんですね やっぱり。
でも正直すぎますけどね。

もうちょっと言いようが…。 もうちょっと
オブラートにくるんで言えばよかった。

表現を もうちょっと幅広くすればね。

でも 尾木さん
やっぱり 正直っていうことは

教育者にとっては大切なこと…。
ものすごく大事ですね。

その~ 僕も中学の教員やってる頃は
昔 荒れてたんですよ。

だから
いろんなこと 悪さするんだけれども

自分がやっちゃったのに
「俺やってないですよ」とかね

うそも平気で言うんですよ。
そういった時に やっぱり…

同じようなこと 言ってましたね。

僕ら 教員の方も
正直でいこうっていうのを

一番大事にしたんです。 そうすると
先生の信頼感も形成されるんですね。

一方的な要求では駄目ですね。

はあ~ 正直な思い同士が
通じ合ったっていうことなんですね。

信頼っていう次の関係が生まれますね。

さあ このあと 安倍は 教育者として
生きていくわけなんですけれども

今日はですね
彼の知恵を深く味わうためにですね

大変詳しい方が そろそろ
いらっしゃると思うんですけど…。

こんばんは~。
こんばんは。

お待ちしておりました。
どうも どうも。 お待ちしてました。

真面目そうな方がいらした。
よろしくお願いします。

よろしくお願いします。
どうぞ どうぞ。

江戸川学園教諭の
青木一平先生でいらっしゃいます。

本物の高校の先生ですね。
そうです。

よろしくお願いします。
お願いいたします。

いらっしゃいませ。 あの~ 青木さんは
中学や高校で教壇に立ちながら

安倍能成の研究をしてらっしゃると。

最初に 安倍能成に興味を持たれた
きっかけっていうのは?

大学生の頃に
安倍の自叙伝を読んだんですけれども

その自叙伝の中に
松尾芭蕉の俳句を引用して…

ボタンの花にはボタンの花の
ナズナの花にはナズナの花の

存在価値がある。 だから 自分は
優秀な子も そうでない子も

特色ある子も ない子も みんな
同じように存在価値があるんだと思って

人を見てきたんだっていうふうに…。
深いね~。

この人のことを研究していったら

すごく豊かな人生が送れるんじゃないかな
と思って…。

それだけの安倍能成ですから
日本の教育史において

どんな存在とされてるんですかね?

戦後の教育に大きな影響を与えた人物で
あることは間違いないとされていまして

文部大臣ですとか そのあとに

教育刷新委員会の委員長なんかを
していて

教育基本法なんかの制定にも 深く
関わっていったりなんかしています。

じゃあ 早速 安倍能成の知恵
味わっていきたいと思います。

いいお酒が入ってますからね。
すごいな~。

早速 最初の知恵を
味わってまいりましょうか。

なみなみと。 おいしそう。

現在は
東大の教養学部などが置かれる ここは

戦前 国家を支えるトップエリートを
養成する 旧制第一高等学校がありました。

安倍が この一高の校長に就任したのは
昭和15年9月。

太平洋戦争の始まる前年のことでした。

当時は 日中戦争の真っただ中です。

大陸に侵攻した日本軍は
強い抵抗を受けて

戦線は 泥沼の状況に陥っていました。

旧制高等学校の学生は 卒業までは
兵役を猶予されていたものの

いつ その方針が覆されるとも限りません。

不安な毎日を送る学生たちに対し

安倍は 新任の挨拶で
意外な言葉をかけています。

戦時体制が深まり 個人の考えよりも
全体の方針が優先される時代に

学生の自主性をうたった安倍は
大きな信奉を集めることになりました。

当時の学生の言葉が残っています。

しかし 戦争の影は
更に日本を包み込んでいきます。

昭和16年12月
太平洋戦争が始まったのです。

安倍は 大国アメリカとの開戦を
絶望的な気持ちで捉えていました。

戦線の拡大による しわ寄せは

必然的に 若者たちに及ぶことを
確信していたからです。

事実 昭和18年1月に

政府は 高等学校の修業年数を
3年から2年に短縮する法改正を

行っています。

学生を 早く兵士として召集する意図が
ありました。

この決定に 安倍は大きく反発しています。

政治家たちのもとを訪ね

若者から学問の機会を奪うべきではないと
説得に回りました。

ときの総理大臣 東條英機には
何度も門前払いを食らいながら

しつこく食い下がっていたといいます。

安倍は
当局から見れば 煙たい存在でした。

ついには
憲兵隊の監視対象とされてしまいます。

それでも 安倍は
ひるむことなく正論を語りかけ

学生たちを勇気づけました。

学生たちに
信念を貫くことの大切さを説く安倍。

時勢が どんなに戦争に傾こうとも

安倍は 決して
考えを曲げることはありませんでした。

しかし 戦局は 更に悪化していきます。

昭和18年10月
ついに 在学中の学生に対しても

徴兵の範囲が広げられます。

その中には
119人の一高生も含まれていました。

国家を支えるエリートまでも
動員せざるをえないほど

日本は追い込まれていたのです。

(玉音放送)

昭和20年8月。

日本は ポツダム宣言を受け入れ
無条件降伏。

長きにわたる戦争が ついに終わります。

その僅か9日後 安倍は
こんな文章を新聞に寄せています。

安倍は 戦後も
己の信念を貫こうとしました。

翌9月から授業を再開した一高。

そこに 進駐軍のジープがやって来ました。

将校は 銃をチラつかせながら迫ります。

戦時中 一高の校舎の一部が
陸軍の司令部として使われていました。

そのため 軍の施設と見なされ
接収の対象になったというのです。

震え上がる一高の教員や学生たち。
しかし 騒ぎに駆けつけた安倍は

臆面もなく
進駐軍に対して言い放ちました。

おびえるでも 懇願するでもなく

極めて理性的に教育の重要さを述べる
安倍に

進駐軍は 何の反論もできませんでした。

気勢をそがれた彼らは
しょう然と帰っていったといいます。

こうして学生たちのために戦い続けた
安倍の姿は

多くの学生や同僚たちから慕われました。

安倍に薫陶を受けた学生の中には

ノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊

「君たちは どう生きるか」で知られる
作家の吉野源三郎

日銀総裁の松下康雄など

戦後の日本をつくった
さまざまな人材がいます。

戦時下や戦後の混乱の時期にあっても

大切なものを譲らずに戦い続けた
安倍能成。

そこには 教育によって
新しい日本を支えていこうという

大きな目標があったのです。

やっぱり
自分の言葉がある人は強いですね。

自分の言葉を
きちんと相手に伝えることで

相手からも 理解を
ちゃんと引き出すことができる。

これが 多分 借り物の言葉だったり
ビクビクした態度だったりすると

やっぱり 値踏みされてしまうから。

でも青木さん 当時のご時世的にはね
何て言うんですか

誰でも あらがうわけには
いかなかったんじゃないんですか?

先生方の中には やっぱり
内心では 軍部に反発していながらも

軍部に引きずられてしまった方も
いらっしゃると思いますし

そういった方々なりの
思いとか苦しみとかが

あったとは思うんですけれども

ただ安倍は 自分の守るべきものに
関しては譲らずに

正論を唱え続けるっていうことを
行っていったので

学生たちも新鮮さを感じたり

尊敬をしたりとかっていうふうに
したんじゃないかなと。

リベラルアーツっていう言葉が
さっき出てきましたけど…。

古代ギリシャなんかで重視されている
考え方だったわけですけれども

安倍は哲学者として

ギリシャ哲学なんかも
研究しているので

そういう安倍だからこそ
言えた言葉なんじゃないかな。

ですよね。 これ 本当に驚きますね。

日本の大学教育の中でも

90年代初頭から
リベラルアーツっていうの

極端な表現すると 捨ててしまって
もう 1年生で 新入生の頃から

専門教育に入っていくっていう路線に
入ったんですけど

今になって やっぱり
リベラルアーツは大事だよと。

教養教育が やっぱり原点だというので

だんだん 今
回帰してる最中なんですよね。

だから 安倍さんなんか 全くブレないで

しかも 憲兵の監視の下に
置かれながらって

想像を絶しますよ これ。

安倍は 軍部の主張でも
受け入れられるものは受け入れて

でも 本当に守んなくちゃいけないものは
守るっていう

そういうスタンスをとっていたんですね。

その 譲ったところと
譲らなかったところって

具体的に何かあるんですかね?

第一高等学校では
生徒が寄宿寮に入るんですね。

その寄宿舎で寮委員というのを選出して

その委員による自治制度っていうのが
行われていたんですけれども

まあ 軍部の圧力によって
委員を生徒が選ぶんじゃなくて

校長が任命するようにっていう形に
変わっていくんですけれども

それは
安倍は自治の実質を生かすために

形式的には
校長が任命するんですけれども

生徒らが選んだ人を
そのまんま丸飲みするっていう形で

やっていくっていうのが
一つ ありますね。

そういう自由な雰囲気っていうのが

安倍の守りたかったものだと
思いますし

それを守るために 軍部の要求でも

受け入れられるものは受け入れて
っていうことを

していったんだと思います。

その判断をする上では やっぱり
自分の中で何が大切なのかっていう

一本 芯が通ってないとね なかなか…。
それが まさに 先ほどの知恵

大切なものを譲るな
というわけだったわけですけれども

これ 尾木さん 言うのは簡単ですけど…。

これは 本当に難しいと思いますよね。

特に教育界というのは 個人個人の
教師だけの判断ではいかないところが

昔も今も
ものすごくありますからね。

どうですか ご自身が教壇に立ってた頃

そういった葛藤とかって
なかったんですか?

僕が 一番葛藤したのは
相対評価なんですよ。

だから それに 僕 ものすごく悩みました。
それで もう 苦しくてね

「これが評価ですか!」って 僕
怒ったことあるの 職員室で。 生意気に。

それで 僕は どうしたかっていうと

それやらないと
違法になっちゃうんですね。

だから やるんです。
やるけれども 生徒には「ごめんね」って。

「これは 本当の評価じゃないんだ」と。
「先生は こういうふうに

本当は評価してます」って
別の評価カードっていうので

文字で全員に評価を渡しました。
へえ~。

でもね ちょっと時代が違いますから

安倍能成の頃は 場合によっては
身に危険が及びかねないような…。

命 懸けてですもん。
ねえ。

やっぱりね もう… 結構小さい
10歳ぐらいですか?

…の時に お父さんから

「孟子」とか「論語」とか
教えられているわけでしょ?

理想の生き方とか 社会的なモラルだとか
そういうものの価値っていうのを

もう熟知しておられるっていうか。
だから 命を賭してでもね

僕は それを貫かれる方だったんじゃ
ないかなと思います。

教育者というより
僕 哲学者だなというふうに思いますね。

実践的には教育者だけども 思想的には
哲学者っていうふうに思います。

どうですか 尾木さん自身は

教育者としての哲学みたいなものって
あるんですかね?

いや 僕もあります。

ロマン。
ロマンです。

愛は 何となく すぐピンと来ますけど
ロマンもあるんですね。

ロマン持たなければ…。     あ~ そっか。
教師自身が。

そういう教師を見ながら 子どもたちも

ビジョンの高いものを目指した
学級生活とか

あるいは 学校づくりっていう
大きな課題にも挑戦するんです。

すごいですね。
何が じゃあ 取捨選択

捨てられるのか 譲れるのか
っていうことを

自分の頭で考えるためには

小さい頃から いろんな人の考え方とかを
本で読んだり 何か学ばなければ

やっぱり 直感力とか
そういうことだけでは

やっぱり 行き詰まりますよね。

さあ 続いてはですね

戦後の安倍能成の知恵を
味わってまいりたいと思いますが

ちょっと グラスが
空いてしまいましたので…。  あらっ。

続いての知恵
味わって頂きましょうか。

第一高等学校の校長を務める
安倍のもとに

戦後発足した幣原内閣の文部大臣
前田多聞が訪れました。

私は 潔く退こうと思っているんです。

安倍さん
後を継いでもらえませんでしょうか。

戦時中 大政翼賛会の支部長を務めていた
前田には

公職追放の処分が下る見込みでした。

そこで前田は 後任の文部大臣を

教育界に名をはせる
安倍に任せようとしたのです。

安倍は 自分に政治家の才能があるとは
思えませんでした。

しかし 戦後日本の教育制度づくりに
自ら関わりたいという気持ちが

彼の背中を押します。

安倍は 一高の校長を辞任し

昭和21年1月13日

幣原改造内閣の文部大臣に就任します。

日本の占領政策をすすめる
連合国軍総司令部 いわゆるGHQ。

そのトップ ダグラス・マッカーサーが

日本を民主主義の国につくりかえるため
重要視したのは

教育の非軍国主義化でした。

「3月5日
マッカーサー元帥の招きにより

アメリカから
教育使節団が来朝しました」。

GHQは アメリカから
27人の教育の専門家を呼び寄せ

新しい教育制度づくりを依頼します。

しかし 文部大臣の安倍は
ある危惧を持っていました。

それは 使節団が
一方的に アメリカ流の教育を

押しつけてくるのではないかということ。

安倍は行動を起こします。

使節団を迎える歓迎の挨拶のために
登壇した安倍は

強いメッセージを
彼らに投げかけたのです。

先の戦争で日本が犯した失敗。

その一つが 朝鮮半島や台湾などで

現地の事情を踏まえず 皇民化教育を進め
人々の反発を招いたことだと

安倍は思っていました。

新しい教育を形づくるにあたって

日本人の文化や価値観を
ないがしろにすれば

再び その轍を踏みかねないと
安倍は警鐘を鳴らしたのです。

一方 安倍のスピーチを聞いた使節団は
心の内を見透かされた思いを抱きました。

実は 彼らは 学校で使う全ての…

難しい漢字を学ぶ手間を省き

教育の裾野を広げる意図が
そこにはありましたが

安倍の言葉を聞いた使節団は

その国の文化を尊重することも
教育の大事な役割だと 考えを改めます。

使節団は 当初の方針を撤回し

日本側の専門家の意見を大幅に取り入れ
改革案を作成していくことになります。

教育の機会均等を目指して
戦後 取り入れられた

小学校6年 中学校3年の義務教育も
実は提案したのは日本側。

戦後の教育制度は その多くが
日本人の手によって つくられています。

使節団を前に 誠心誠意 言葉を発した
安倍のスピーチが もしなかったら…。

戦後の教育は 全く違うものに
なっていたのかもしれませんね。

戦後教育に大きな足跡を残した
という感じですけれども

でもね 漢字や ひらがなをやめて
ローマ字にする計画があったなんて…。

いや~ 知らなかったです。
ねえ。

僕 高校時代 すごく覚えてますけども
僕の友人が それに感化されていて

それで ローマ字ばっかりで書くんですよ。

で 「尾木君 きみも これにあった方が
いいんだ」っていうことを

とうとうと言って 僕をね 誘うの。

だから 僕の時代でも
その まだ名残は残っていたんですね。

でも ローマ字になってたら大変ですよ。
そうですよね。

でも 青木先生 どうなんですか

教育使節団のスピーチが
ありましたけれどもね

ああいったスピーチに至る背景には
何があったんですかね?

安倍は その… 自分自身も含めてですね
知識人たちや教育者っていうのが

軍部の暴走とか政府のやり方に
ブレーキをかけることができなかった。

そういう悔恨があるんですね。

なので 戦後 軍部以上の圧力を
かけてくるであろう

GHQなんかに対しても

やはり 同じように
引きずられてしまうんじゃなくて

言うべきことは言うし

そういう態度で臨みたいっていうふうに
思っていたところがあると思います。

でもね その言葉の力みたいなものは
やっぱり あるんだなっていうふうに

今日 思いましたけれども

尾木さんは 生徒に言葉を届けるために
心掛けていたようなこととかって…。

僕は 言葉を届けるというよりも

カウンセリングマインドって
いいますけども 彼らの心を知ろうと。

まず知らないと
届けようもないものですよね。

だから 僕は いつも心掛けていたのは
どんなことでも 必ず「どうしたの」と。

「どうしたの」っていう言葉をかけると。

だから トイレで
たばこ吸ってる子を見た時も

「あら どうしたの?」。
「コラ!」じゃないんですね。

「コラ!」じゃない。 「コラ!」のあとには
もう対立しかないんですよ。

「何で たばこ吸っちゃったんだろう」
とか

「何で モップで 廊下の窓ガラスを
割ったんだ」というのも

「どうしたの?」って
こういうふうに聞くと

「いや~ 今朝 おふくろと
けんかしちゃってね

遅刻したと思って 慌てて学校に来たら
生活指導の何やら先生が校門に立ってて

また そこで どやされて
頭に来て 割っちゃいました」と

こう言うわけですよ。 そうすると
「あら それは大変だったね」って

相づちを打つの。
そうすると 子どもの方が

「あっ 先生が聞いてくれた。
分かってくれた」と思うんですね。

子どもたちの心にですね 何て言うのかな
パワーが出てくるんです。

元気が出てくるんですね。 それで

「本当に もう絶対 卒業まで
俺 吸わないです」とか言うんです。

そういうね 何て言うのかな…

そういう感じで
僕は そういう子どもたち一人一人と

向き合ってきたなと思うんです。

「どうしたの」って はやらせましょうか。
そう。 はやらせた方がいいですよ。

でも あらゆるシーンに使えますよね。

まず聞く姿勢を こっちから出す
っていうのは すごく重要ですね。

そうすると 心 開いてくれます。
で 勝手に伸びてくれるんですね。

なるほど。 よかったですね 今日来て。
そうですね。 参考になります。

先生も ちょっと 明日から もう
「どうしたの?」って。

そうですね。 使っていきたいと思います。

いや~ ということで 今日はね

安倍能成の知恵
味わってまいりましたけど…。

すごく 今 自分が生きていく上で

とても重要なことを学んだな
っていう気がします。

あと やっぱり 自分が素養を持つ。

小さい頃から いろんな人の考え方を
知ることっていうのが

本当に 大人になっていく段階で
抜けているので

もう どんどん幼くなっていってるなって
自分のこと思います。

昔の人の方が
やっぱり ずっと小さな頃から

自分に足りないものを知ってたので
今からでも遅くないから

少しずつ勉強していこうと思いましたね
今日は。

さあ あの 尾木さんに
最後 伺いたいんですけれどもね

こうやって 安倍能成たちの奮闘によって
形づくられた

戦後の教育なわけですけれども

尾木さんが考える未来の教育の在り方って
何ですかね?

やっぱり 安倍先生の
この思想っていうかね

これを受け継いで
更に発展させるとすれば

僕は インクルーシブな教育だ
というふうに思います。

社会全体も インクルージョンな社会に

なっていくべきじゃないかなと
思うんですね。

そのために教育っていうのは
今の序列主義の相対評価ではなくて

絶対評価の方がいいし
更に もう一つ 欲を言えば

クラスのサイズも
小さくしなきゃいけない。

だから 国家としても 教育には
たくさんのお金を投入すると。

今 我が国は OECDの中で下から2番目の
教育投資しか してないんですよね。

未来の日本のためだけではなくて
今いる一人一人の子どもを

尊重するっていうことのためにも
是非 大転換して

で 先生方が伸び伸びとやれるように
管理的な面も もう少し緩めば

理想かなと思いますね。

どうですか?
この尾木さんの言葉を聞いて

ふだん 教壇に立ってらっしゃる
青木先生も

いろいろ悩みとかあると思うので
せっかくだったら ちょっと…。

替わりましょうか 席。
相談して頂いたりとかしてね

ちょっと 「どうしたの?」って
聞いて頂いてもいいですし…。

どうしたの?          お聞きしたいこと
いろいろあるんですけれど

私なんかは 生徒に注意するのが苦手…。

自分の好きな恋人なんかには
ピタッと かみ合った言葉を言って

ねえ うまくいったこと
何回もあるでしょ?

そんなにないですけども。
(笑い声)

(あんをかける音)

昨日は 余ったごはんで
アッツアツのおこげ料理。


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