英雄たちの選択「100年前の教育改革~大正新教育の挑戦と挫折~」与謝野晶子等の芸術家や教師たちが目指した教育…



出典:『英雄たちの選択「100年前の教育改革~大正新教育の挑戦と挫折~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「100年前の教育改革~大正新教育の挑戦と挫折~」[字]


目前に迫る2020年の教育改革。その先駆けともいえるのが100年前の大正新教育運動だ。与謝野晶子等の芸術家や教師たちが目指した教育の理想、現代への教訓を探る。


詳細情報

番組内容

目前に迫る2020年の教育改革。子供の自発的学習を促すアクティブ・ラーニング等が、教育現場を大きく変えようとしている。今から100年前、それを先取りするような改革があった。大正新教育運動だ。与謝野晶子など名だたる芸術家や教師たちが、草の根から子供中心の教育を掲げて活躍した。しかし、運動は20年ほどで下火に。大正新教育は、何を目指し、なぜ挫折したのか?現代にも通じる教訓を徹底討論で明らかにする。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】高橋源一郎,小針誠,山辺恵理子,【語り】松重豊



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英雄たちの選択「100年前の教育改革~大正新教育の挑戦と挫折~」
  1. 子供
  2. 教育
  3. 授業
  4. 学校
  5. 教師
  6. 晶子
  7. 当時
  8. 本当
  9. 及川
  10. 生徒
  11. 大正新教育
  12. 文化学院
  13. 芸術家
  14. 社会
  15. 時代
  16. 日本
  17. アクティブ
  18. ラーニング
  19. 新教育
  20. 意味


『英雄たちの選択「100年前の教育改革~大正新教育の挑戦と挫折~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

…と いつも始まるこの番組ですが

磯田さん!
私たちの前にあるのは…?

教室だ!
教室。 まさにですよね。

うん! 懐かしいですね~。

好奇心 強いんで
こうやって座ってですね…。

ああ~…。

で 「磯田くん!」とかって。
「はい!」とかいってね やってましたよ。

この窓の外に
前方後円墳があったりするような学校で。

「前方後円墳だ!」とかいってね。

「あの土の量は…」とか考え始めると
「磯田くん!」とか言われて

「はっ… はい!」みたいなね
やってましたよ。

今日は テレビの前の皆さんの中でも

とても気になっているという方が
多いのではないでしょうか?

テーマが…

目前に迫る…

「グローバル社会とAI時代を生き抜く
人材を」。

そんな掛け声の中
小学校から大学入試に至るまで

教育現場が大きく変わろうとしている。

改革の大きな柱が…

一方的な知識の伝達ではなく

体験や対話を通して 子供たちが
主体的に学ぶことを促す試みだ。

今から100年前 現代の改革を
先取りするような教育運動が

草の根から巻き起こった。

それが…

個人の自由と解放が叫ばれた大正時代

教師だけでなく 芸術家たちも加わり

子供中心の教育が目指された。

都市には
ユニークな私立学校が続々と誕生。

歌人の与謝野晶子が
創設に関わった学校は

「個性の教育」を掲げ
ひときわ異彩を放った。

…など 当時としては 型破りな試みに
世間は注目した。

さらに 公立学校には伝説の天才教師が。

今日は 皆さんに さつまいもを煮て
ごちそうする!

食べる気ばかりにならないで

芋を煮る順序としかたを
研究せねばならぬ。

…とも言うべき その驚くべき授業とは?

しかし 大正新教育は20年余りで
挫折を余儀なくされる。

ぶつかったのは 現代にも通じる

教育と深く結びついた社会の
在り方だった。

現代と過去
2つの教育改革を交差させながら

気鋭の専門家が熱く語る。

それをやろうと思ったら…

アクティブ・ラーニングは
問題解決学習だと思うんですよね。

これね…

大正新教育…

教育とは 誰のため 何のためにあるのか。

大正新教育が残した宿題を
100年後の今 解き直す。

♬~

日本の近代教育は明治時代初め

新国家の建設に欠かせない
緊急課題として始まった。

全国の子供たちに
効率的に新しい知識を学ばせるため

学校の授業では
「一斉教授」という方法が導入された。

一人の教師が大勢の子供を前に
一方的に同じ知識を注入していく

詰め込み教育の始まりである。

それは 江戸時代の寺子屋とは
対照的だった。

寺子屋では 先生は
思い思いの場所に座る子供たちを

一人一人 個別に指導した。

しかし 明治の国家主導の教育では

子供の個性など
顧みられることもなかった。

例えば これは
当時 全国の高等小学校で使われていた

図画の教科書。

整然と記号のように描かれた手本が
いくつも掲載されている。

(佐久間)例えば ここには
急須とお盆がありますけれども

あたかも 文字をまねて
お手本に従って書くのと同じように

このとおりに描くということですね。

当時はしていたということですね。

子供が好きなものを描くのではなく

指定されたページの見本を
正確に写し取る技能が求められた。

作文の授業も同じ。

子供たちは暑中見舞い文など
大人が書いた例文を ただ書き写すだけ。

子供の個性や主体性を抑えつけ…

やがて 転機が訪れる。

(砲声)

明治38年 日露戦争に勝利し

世界の一等国入りを果たした日本。

大正時代になると
個人の解放と自由に目覚めた人々が

「大正デモクラシー」と呼ばれる潮流を
生み出した。

近代教育を研究する橋本美保さんは

時代のうねりが
教育にも変革を迫ったという。

こうして広がりを見せたのが

大正新教育という
草の根の教育運動だった。

実は この運動の先陣を切ったのは

文学や音楽 絵画といった

大衆文化をリードした芸術家たちだった。

その中心の一人 作家の鈴木三重吉は

大正7年 日本初の…

すべての子供たちには
「純性」が備わっており

その秘めた力を伸ばすことが
新時代の芸術家の使命だと訴えた。

「赤い鳥」の理念に共鳴した
当時の人気作家たちは

現代にも読み継がれる童話や童謡を
次々と書き下ろし

大きな反響を呼んだ。

「赤い鳥」には 熱烈な読者がいた。

それが この時代 都市を中心に急増した

「新中間層」と呼ばれる裕福な人々だった。

今のサラリーマン家庭の原型ともなった
彼らは

愛する我が子に

学校で学ぶ以上の特別な教育を授けたいと
考えていた。

そんな親たちのニーズに応えようと
三重吉が企画したのが

「綴り方」という自由作文の募集。

例文をただ書き写すのではなく

あったこと 思ったことを
そのまま書くよう

子供たちに呼びかけ
投稿作品を次々と「赤い鳥」に掲載した。

「僕の家には うさぎが一匹います。

毎日 学校の帰りに草をとってきて
食べさせると

小さな口で おいしそうに食べます」。

「私は この間の晩

『いっぺんぐらい
飛行機に乗ってみたいなあ』と

独り言を言いながら寝ました。

すると 背中のほうから変なものが。

よくよく見ると 羽が生えたのでした」。

三重吉のもとに届いた
子供たちの作文や詩は

毎月2, 000通以上。

その影響は各地の学校に及び

熱心な教師たちによって 自由作文が
授業にも取り入れられていった。

さらに「赤い鳥」では自由画も奨励。

画一的だった学校の図画の授業も
変えていった。

そのことがうかがえる貴重な史料が

長野県の小学校に残されていた。

ここには「赤い鳥」の
自由画運動の影響を受けた子供の絵

およそ650点が保存されている。

友達と過ごした楽しい思い出を
色鮮やかに描いた絵。

教室を飛び出し

大好きなふるさとの景色を残そうとした
子供も。

ありません。

「赤い鳥」を舞台にした
芸術家たちの運動が

画一的な明治の教育を

子供中心の大正新教育へと転換させる
原動力となったのである。

というわけで
日本の教育を見直す大正新教育が

芸術家たちの運動とともに

どのように広まっていったのかを
ご覧いただきました。

小針さんは あの「赤い鳥」と
大正新教育の改革

どういう関係があると考えますか?
そうですね。

芸術家たち 大人たちが

子供にとって良きものって
一体 何なのかということを

ずっと
模索し続けて。

また それに
反応したのが

都市部で暮らしていた
新中間層と呼ばれている

親たちでもあったのかな
というふうにも…。

そして そこで授かる子供
というのも

少なく産んで 子供たちを良く育てる。
そういった…

…というふうに変わっていって。

愛する子供たちに やっぱり
良きものを与えたいというときに

やっぱり
「赤い鳥」の童謡や童話といったものに

たぶん ひかれていったんだろうと思うし。

新中間層の親たちも
「赤い鳥」の作者たちも…

…みたいなものを お互い共有していて

だからこそ うまいこと
ニーズがかみ合っていたのかな

というような気もします。

これね なぜ こういうことを
やり始めるのかと思うんですけど

一つは 時代感として
余裕が出来たんですね。

日露戦争にも勝って 一等国にもなったと。
達成感があったんだと。

一つ これは もうちょっと
ハイレベルなとこにいこうかというと

都市に 非常にハイレベルな
生活をしている人がいる。

あと 実は 江戸の復活だと
僕も思ってる面があって。

江戸の復活ですか?
はい。 夏目漱石だとか

鈴木三重吉だとか 正岡子規だとか
まあ 死んじゃってる人もいますけど

この辺りの…

それで 本来…
「いや そんなね 国家がね

そのまま言うたとおりに

おうむ返しにするなんて
駄目だよ」っていうのが

まだ 成人した人たちは
残ってるわけですね。

そういう機運が都市にある。
なるほど。 江戸の復活…。

高橋源一郎さんは
どのように考えますか?

「赤い鳥」で話をすると
また 長くなる…。

あれは一つの
文学運動なんですよ。

あんなに たくさん
作家が参加した

社会運動って
ないんですよ。

日本では唯一ですから。

いわゆる 社会運動はね 作家が

政治参加するっていうのはあるけれども…

僕は 一番大きいのは…

…っていうものが持ってる これね

作家とか いろんな人の手紙とか
日記とか読んでみると やっぱり

大逆事件の影響って ものすごく…

みんな 口を閉ざすっていう形に
なっちゃうんですけど。

言論の自由を
そう
閉ざされて…。
閉ざされて…。

彼らの思想の底流に流れているのは

大逆事件があるから
ああいうことはできないと。

別な形で
この社会を変えていくっていうのは

どこだっていうと 文学をやるか
教育をやるっていうことなんですよ。

みんな そこで通底するんですね。

だから 今 読み返すと これ 実は

どういうつもりで書いたんだろう
っていうものも結構あるんですね。

だから 子供に読ませつつ…

…のしかたが あったと思います。

「赤い鳥」っていうのも 結局は

当時の一流とされる
芸術家や

文学の人たちっていうのが
セレクトして

これが優秀な作品ですよって言って

発信してるんですよね。
やっぱり そこに

大人のフィルターが
かかってて

童心主義とか
子供の純性を大事にっていっても

そこには…

今 ビデオでは
綴方教育まで見ましたけど

そのしばらくあとに 当時の教師が…

…っていう発想で。

より 本当の
子供たちのリアルな生活を描かせる。

それが
本当の自由な作文だっていう形です。

とても 盛り上がって

展開していくことから見ても…

…っていうのは ちょっと
疑問に思ってしまうところがあります。

全くそのとおりです。

僕も「赤い鳥」… いろいろあったけど
好きで読んでたんですけど…

つまり 10歳でも作家と。
それがね 「赤い鳥」のポリシーなんで。

それは 教師から見たら
おかしいよっていう。

それが やっぱり
取り戻すっていうのは…。

いかがですか? 磯田さん。
このころの子供ってね 僕ね

リアルとロマンっていうのでね 考えると
ちょっと説明しやすいような気がしてて。

鈴木三重吉とか やっぱり
彼らが考えてる子供っていうのは

例えば ロマンなんですよ。

夢みたいなことを言って 純に…
実利は あんまり考えないんですよ。

例えば うさぎ見たときに

「このうさぎが 子供を産んだので
1匹3円で売れるから

いくら儲かると思います」という作文は
採用しないんですよ。

「このうさぎは小さな口で かわいく
花を食べます」って書いたらいいんですよ。

だから これはね
リアルとロマンなんですよ。

要するに…

そのリアルとロマンっていうのは 確かに
重要なポイントだなと僕も思っていて。

そういった中で…

また この 芸術運動だとか…

今にも通じる話ですよね 本当に。

さあ ここで
100年前の教育改革に関わった

もう一人の芸術家を
紹介したいと思うんですが

こちらの人物です。

ここに 歌人 与謝野晶子が挑んだ教育を
今に伝えるものが残されている。

西洋のコテージを思わせる
上品でモダンな建物。

晶子が創設に関わった学校の校舎を
復元したものである。

それは 大正10年
東京 神田に創設された文化学院。

校舎やインテリアを
設計したのは

晶子と共に
学院を起こした…

およそ1世紀にわたり

日本を代表する多くの文化人を
輩出してきた私立学校である。

文化学院は
今でいう中高一貫の女子校として

生徒数33人でスタート。

創立3年目には 中等教育では日本初の
男女共学まで実現した。

大正時代 それまでにない…

子供の自主性を重んじ
自学自習を促した成城学園。

学力だけでなく
人間性の向上を目指した玉川学園。

そして 家庭生活と学校教育の
融合を掲げた 自由学園。

国の統制が強い…

それを目指し 多くの教育者が
私立学校の創設に立ち上がったのだ。

中でも 晶子たちの文化学院は

教師経験のない芸術家たちが作った
学校として 異彩を放っていた。

文化学院のモットーは…

晶子たちは 画一的な制服を廃止し

生徒たちに思い思いの洋服で登校させた。

晶子はファッションを通して

生徒も自己表現しなければならないと
考えたのだ。

さらに 文化学院では
公立学校で必修だった体育を廃止。

代わって ダンスの授業を取り入れた。

磨くべきは競争心よりも表現力。

女性が肌を見せるのもはばかられた時代

少女たちが舞い踊る発表会は
世間をにぎわした。

生徒たちに個性を求める
晶子の信念は

教師たちの人選にも表れた。

招いたのは 各界を代表する

知識人や文化人たち。

晶子も含めて 教員免許を持たない

超一流の素人教師が次々と教壇に立った。

ところが
肝心の晶子の古典の授業はというと…。

作品世界に没頭するあまり
生徒たちのことを忘れ

一人で
古典を読みふけってしまうありさま。

そんな晶子の姿に
生徒たちは くぎづけとなった。

教育者としての晶子の素顔をうかがわせる
史料が残されていた。

晶子自身が添削した
生徒の短歌の原稿である。

「湖」や「山上」といったお題を生徒に与え

出来上がった短歌を赤字で添削。

それぞれの短歌の上に書かれた波印が
晶子流の採点方法だった。

4つの波は
歌人の晶子をうならせるほどの優秀作。

一方 波が1つ 2つの凡作には
容赦なく赤字を入れた。

添削に熱を入れ過ぎ
生徒の短歌をほとんど書き換え

全く別の歌にしてしまうことも。

西村伊作のひ孫で
文化学院の教師も務めた立花さんは

学校教育のレベルを超えた厳しい指導から
晶子の情熱が伝わってくるという。

晶子は 子供たちを
どう育てようとしていたのか

こんな言葉を残している。

当時にしては本当に先進的で
何か かっこいいなって思うんですけど

すごく大胆な挑戦をしていたんですね。

当時の学校教育 あるいは女子教育
ってことを考えたときに ありえない。

当時の女子教育といえば いわゆる
料理をやったり 調理をやったりだとか

裁縫をやったりだとか 要するに…

当時 文化学院のカリキュラムを
調べていったところですね

手芸科という科目が
唯一 1科目あってですね

しかも 適当な教員が見つかったときだけ。

あっ そうなんだ!
そうなんです。

あのころの女学校は裁縫学校に近いような
お行儀教室に近い感じだったんです。

だから 適当な教員が
見つかったときってことは

もしかしたら やってなかった可能性も
あるんじゃないかなというような…。

だからですね…

そういった教育を

文化学院は目指していたんだろうな
というふうに思いますね。

もう本当に型破りな学校なんですよね。

とにかく
本物の芸術を見せれば

子供たちは
育つんじゃないかっていう推測のもと

実験的に展開してみた学校。

本当に実験校ですし 日本で当時
一番高い学費だったにもかかわらず

それを払ってでも
この学院に入れてみようと思う保護者が

いたっていうのが 本当に
大正時代の特殊性を表してるのかな

というふうに思います。
本当 そうですよね。

当時 しかも毎日 服を着替えなきゃ…
制服がないなんて

ちょっと大変じゃないですか?
家庭的には。

自己表現だっていって
個性的な服装で来るわけですよね。

晶子自身も こんな帽子かぶったりして。

「一能一芸」って言ってましたけど
要するに 国家に奉仕できるような

標準タイプの人間を
育てるんじゃないんですよ。

それぞれ違う お前はお前の芸
お前はお前の芸で

それを伸ばしていくと いっぱいある…

だから
同じような一定度の人間を育てて

おかしくない人間にするっていうんじゃ
ないんですよね。

これが やっぱり 面白いとこですね。
うん…。

何か 文化学院の授業のやつ
いろいろ読むとね

結構 めちゃくちゃな人が多くてね。

小林秀雄とか来てますけど

大体 時刻どおり来ない。
ハハハ…!

20分ぐらい遅刻して来るんです。
教壇に立つのにですか。

うん。 で 来たと思ったら
黙って しばらく

たばこを5分ぐらい吸ってる。
え~! 自由。

「何も質問ないの? じゃあ帰る」って
帰っちゃう。

これは つまり
生徒のほうが 聞かなきゃ駄目です。

「こういうこと やってくれ」って言ったら
やる。 これ すごくいい教育だと思う。

一種の芸術教育になるんですけど
これ 面白いですよ。

何でかっていうと…

そうです。

つまり 芸術って
教えられないものの典型なんです。

そうですよね。
でしょ?

要するに 芸術家っていうのは 技術よりも
感覚であったり センスであったり。

これは 教えられないんです。
でも 触れることはできるんです。

だから これ 学校ですけれども
サロンなんだよね。

そこに行けば すばらしいものがあると。

要するに 与謝野晶子を筆頭とする
その人たちの空間にいることが

たまらなくいいっていう
そういう場所を

ある意味 日本で初めて作ったんですね。

じゃあ さまざまな私立学校が 独自の
教育実践に挑戦した大正新教育ですが

公立の学校では
どんなことが行われていたのか。

当時 注目を集めた
一人の教師の取り組みをご覧ください。

ここに 大正時代
公立学校の新教育運動をリードした

伝説の教師がいた。

(一同)及川先生!

前身の明石女子師範学校附属小学校の

主任教師を務めた及川平治。

彼の名を全国に知らしめたのが その…

その名も「動的教育法」。

現代の…

例えば
尋常小学校5年 理科の「熱」という単元。

教科書に基づき
金属球やアルコールランプなど

特殊な実験器具を使って行っていた授業を
及川は 大胆にアレンジした。

今日は 皆さんに さつまいもを煮て
ごちそうする!

食べる気ばかりにならないで

芋を煮る順序としかたを
研究せねばならぬ。

なんと 及川は 実験器具を使わず

さつまいもで
この単元の授業をしようというのだ。

まずは 生徒たちに
かまどに火をおこさせ

部屋を暖めさせる。

部屋の戸を開けてごらん。
空気はどちらから流れてくる?

外から冷たい空気が
入ってきた!

及川は「内」と「外」の空気の温度差が
気流を生み 風を起こすのだと…

そして 芋が煮えてくると…。

子供たちに
かまどの口を塞がせ

火が消えるのを
確かめさせる。

燃焼には
空気が必要だと

体験を通して
学ばせた。

そして…。

うわっ! 熱い 熱い!

さあ そのお芋の熱は
一体 どこからきたのかな?

う~ん… お芋の熱は
お湯からきていて

でも そのお湯は
鍋で温められたもので…。

そうか! かまどの火から
熱は伝わってきたんだ!

そう! それが
熱の伝導というものなのだ!

及川は「芋を煮る」という体験を通して

風の流れや燃焼 熱伝導といった

科学の基本原理を学習できると
考えたのだ。

小学校の副校長として今も教鞭を執る
梅本さんは

及川の教育理念が
この授業によく表れているという。

そして また…

子供たちの生活に寄り添い

その興味や体験を大切にした及川。

彼は教育について こう語っている。

及川は 学力も家庭環境も違う
子供たちが通う公立学校にこそ

子供が主体的に学べる授業が
必要だと考えたのである。

大正10年

新教育運動を率いる8人の教育者による
大講演会。

全国から
2, 000人を超える教師たちが殺到し

及川の声に耳を傾けた。

「国の方針に縛られた公立学校でも

工夫ある授業を行うことで
新教育が実践できる」と

教師たちは奮い立った。

及川が目指した…

100年前の取り組みは
現代の教育現場にも

多くの示唆を与えている。

熱の伝わり方を勉強する理科の授業で
教科書じゃなくて

さつまいもを煮て
最後はみんなで食べようって

なんとも こう
子供の好奇心をくすぐる授業ですよね。

そう。 体験で得た知識っちゅうのは
応用が可能であったり

ただ この…

面白いのが 芋がね 煮えたと。

「芋にある熱は どこからきて
どこへ消えていくのか?」から

相当なこと 考えられますよね。

空気を遮断したら
火が止まるってことは

燃焼っていうのは 実は 空気中の酸素と
物事の結合であるとか

酸化が急速に起こってることだとか
そういうことを…

ただ 芋 煮ただけで

抽象化が行われなければね
ちゃんと ほかに使える知識に…。

それが難しいんですけど。

でも こういう授業やってみたいですね。
うん…!

山辺さん いかがですか?

なので 全く…

環境が恵まれない子たち それによって
能力を発揮できてない子たちに

目を向けながら その子たちの力を

ポテンシャルを伸ばしていこう
というふうに見ていた人なんですよね。

その中で 及川平治が言った
この「動的教育論」って

今の
「アクティブ・ラーニング」の

「アクティブ」って
言葉じゃなくて

この「動的」っていうのは
「ダイナミック」が当てはまる。

子供たちが
自然と学んでるときっていうのは

どういうプロセスで
どういうダイナミクスで

学んでいるんだろう。

外から見たら 静止してても

「あっ そこにバッタがいる。
捕まえたい」と思って

「どうやったら捕まえれるかな」って
考えてるときにも

ダイナミクスは起きている。

…していこうっていうのが
及川平治の動的教育論で。

すごい面白いし 難しいなと思ったのが
及川平治っていうのは

「これは鉄だ… 鉄で重いです。

重いから持ち上げにくいです
っていうふうに教える教師は

分かってない」って…。
そうじゃなくて

「これは鉄で 持ってみて。
持ち上げにくいね。

これを人間は『重い』って呼ぶんだよ」って。

そのプロセスを大事にして 教室の中でも
教えようっていうふうに言って。

で すごく
印象的な言葉で 及川平治が言ったのが…

…っていうふうに言ってて。

及川の児童本位の教育法というのは

まさに これから
日本の教育改革の中では

かなり重要な意味を
持っているんじゃないかな

という気がするんですよ。

じゃあ 及川の教育実践というかですね

それを じゃあ
やってみようかということなんですが

分団式教育っていうことで

到達度別に3つのグループに
分けるんですよ 及川は。

学習到達度が高いグループ

真ん中のグループ 低いグループ

みたいな形で 3つに分けて

必要と状況に応じて
先生が指導していくという

そういう授業のスタイルを
取っていくんですが。

授業案を見ていくとですね…

それ以外の到達度の高いグループの
児童って 何をしていたかというと

ほとんど「漢字の書き取りしてろ」とか
「応用問題 解け」とか

結構 そういう 何か 自習の時間に
なっちゃっていたのではないかと。

これ 僕の想像なんですけども

そんなことを思うわけですね。

しかも 今に落とし込んで考えると

先生たちって
やること たくさんあるじゃないですか。

部活動があったり…。
(小針)そうです そうです…。

大変です。 先生が。

もう もう… 可能なんですが

一人じゃ無理です。

つまり 今のような状態だったら…

教員の方々って 本当に

頑張って
いらっしゃると思うんですけれども…

いわゆる 事実を ただ教えるじゃない
教育でなければならないんだけども

それができるような体制
そういうベースが この社会にあるかと。

僕 このアクティブ・ラーニング
ダイナミック・ラーニングっていうのは

絶対必要な教育だと思うけれども…

「お前が先に変われ」っていう。

誰も言わない真実があるんですよ。

だから 本当は 家で
このアクティブ・ラーニングを

高度にやる家庭が 実は21世紀半ばに

適合した人材を生み出すようになることは
誰しもが分かっている。

やっぱり 今 貧困層の子供だとか
そういった子供たちが現に増えていて

家庭の中でね
どんな情報を与えられるかとか…

結構 そういう意味では…

おっしゃることも
すごい よく分かるんですけど…

…だと思うんですよね。

っていったときに やっぱり…

それが ちょっと前にも言った
生活綴方運動にもつながっていて。

自分の一人称で語るっていうことを
促していくと

たくさんの問題があらわになって

問いとか もやもやした気持ち
っていうのが出てきたときに

じゃあ それ どうする?
っていう思考になるんですよね。

だけど じゃあ すごく…

しかも 社会を変革させるような
大きな問いを出せるかっていうと…。

確かに 表面上の
アクティブ・ラーニングとかは

すごく やりやすいかもしれないけど…

あるかもしれない。

さあ 100年前の教育改革
その後 大正新教育は

どのような道をたどったんでしょうか。

新教育がピークを迎えつつあった
大正11年。

その風潮を皮肉った漫画が
教育研究誌に載った。

しかし…

そして 受験が終わるころには
詰め込み過ぎた子供の頭は爆発。

「子供の個性や自主性を
育てようとしながらも

受験に勝つためには
詰め込み教育もしかたがない」。

矛盾した教育観の背景には

大正時代に広がりを見せた
学歴社会という問題があった。

当時 帝国大学を頂点とする学歴は

その後の就職や給与に直結する

最強の立身出世の手段だった。

…に 受験教育を否定してきた
新教育の私立学校も

対応を余儀なくされていく。

中には 新教育の理念を捨て
受験予備校化する学校や

幼稚園から高等教育までの
一貫教育を整え

学歴へのニーズに
自前で応える学校も現れた。

そうした私立に 裕福な保護者が
幼い我が子を入学させようと殺到。

受験競争が低年齢化し
いわゆる「お受験」が始まった。

しかし そんな私立学校の動向に
庶民の視線は冷ややかだった。

その後の長期的な不況で
貧富の差は拡大し

教育の格差もあらわになっていた。

当時 ある私立一貫校の近くに住んでいた
公立小学校の教師は

こんな記録を残している。

高い授業料を取る私立の新教育は

次第に
社会と隔絶されたものとなっていった。

そして 時代は昭和へ。

満州事変以降 軍国主義が進む中で

国家による教育の統制は
日増しに強まっていった。

「赤い鳥」から広まった
学校の自由作文も弾圧の対象となり

全国で300人以上の教師が逮捕された。

生徒たちに 貧しい生活を綴らせたことが
社会主義的だと罰せられたのだ。

時代の荒波は
晶子たちの文化学院ものみ込んでいく。

太平洋戦争目前の昭和16年

学校が閉鎖されようとも

戦争に加担すべきでないと
常々 主張していた西村。

しかし 教師や生徒たちは

学校存続のために
国家に協力すべきだと反発。

校長の辞任を突きつけた。

当時 病床にあった晶子は
震える手で筆を執った。

「私たちは 初めから 職員も生徒も

一団の家族として歩んできたはずです。

一所に話し合えば
必ず分かり合えると信じています」。

翌年 晶子は63年の生涯を閉じた。

その後を追うように 文化学院は強制閉鎖。

教育思想を理由に
国家が閉鎖した唯一の学校となった。

一方 あの及川平治の公立小学校では

戦時体制の中でも
独自の授業が続けられていた。

これは
及川の薫陶を受けた若い教師が作った

スクラップブック。

算数の授業のために 郵便の料金表や
レストランのメニューなど

子供の生活に根ざした教材を集めていた。

あっ こんなの よく手に入ったな これ。

彦根から姫路までの列車の運行表。

縦軸が 駅名と その距離。

横軸が 時間。

赤い線は 特急列車を表している。

そんな言葉を残し 及川はこの世を去った。

太平洋戦争が始まる2年前のことだった。

時代が進んで
世の中に格差の問題が生まれ

戦時体制になると
教育の在り方そのものが変わりました。

そういう意味では
教育こそ 時代 社会 政治

そういった背景に ものすごく
影響を受けてしまうものなんですね。

ある意味 本当に…

これは 外からは
変なものが入ってこないように

ある意味 壁を作ってしまったと。

これね…

そのあと 一気に軍事化しますよね。

中学に 配属将校 やって来て
軍人 やって来て

「連帯責任だ!」って
ビンタ始めるわけですよ。

じゃあ 平和な時代になったら
アメリカに占領されて

「さあ 自由だ 民主主義だ」になったら…

なぜ 枯れたのかといえば

やっぱり 上澄みの人たちがやってた
ということと同時に

このあと 日本の急速な 本当の意味での
工業化と大衆化が始まるんですよ。

そうすると…

共通一次… 教育とか
センター試験とかで

人間を標準化していくってのは

GDPを増やすのにも
都合がいいんですよ。

でね ここで やっぱりね…

そこは ちょっと惜しい気がしますね。
う~ん…!

ただ 新教育の理念というのは
聞けば すごく…

「そうなんだろうな!」っていうか
「私もやってみたいな」というふうに

僕も教師としては思うところも
あるんですけれども。

その辺の問題っていうのが
すごくデリケートな問題というか。

やっぱり 一つの学級って見てみても…

それは学力のみならず
それぞれ考えてることも

個性も それぞれ多様で。

そこが やっぱ 新教育の理念と
現実の難しさというか

そういったところもあるんじゃないかな
というようにも思います。

何か こう
大正新教育の課題の一つとして…

個人の中に学力があるっていうことが
前提とされて

効率性っていう考え方でいったら

個人個人で 同じテストを配って
解答させて

個人の学力を見てしまうほうが
ずっと楽なんですよね。

しかも
コストがかからないっていうのが

一番 紙のペーパーテストの
利点なんですよ。

だからこそ
個性とか子供の自主性というと

何か こう 子供が自分勝手に
育ってしまうのではないかみたいな

そういう誤解が
生まれてしまうんですけど…

大正新教育が大切にした…

…と思うんですよね。
なので こう 本当に これから

アクティブ・ラーニングっていうのを
進めて

授業を
組み直していこうとするのであれば…

結局は じゃあ
学校の中では 伸び伸び育ちましたけど

例えば
企業の採用試験は変わりませんとか

大学入試は変わりませんっていうのでは

結局 子供が すべてのしわ寄せを

食ってしまうっていうことに
なるのかなっていうふうに思います。

結局 教育は
社会がやるっていう側面があるんですよ。

さっき 磯田さん おっしゃったけど…

でも 今は
そういう教育を受けた人たちしか

いなくなっちゃった時代に…。

でも この人たちっていうか…

つまり 教育をすること

権利っていうか 力を

本当に 社会 あるいは僕らも含めてですね
持ってるかっていう疑問があってね。

僕 だから そういうことを
教育に携わる人は

疑問として思ってほしいと。

それが やっぱり つまりね…

これは ちょっと おかしいよとか。

つまり どっちみち
理想どおりいかないんだから。

ただ これを そのことを気が付くことが
もしかしたら この

アクティブ・ラーニングという改革の
始まりで。

あとは もう 運を天に任せるしかない…!
ハハハ…!

磯田さん 最後に いかがですか?
僕ね 高橋さんと同感なんです。

今 初めて言うんですけど
僕ね 新教育で始まる

社会科の教科書の監修者になって
やったんですよ。

でね やっぱり 悩むんですよ。

それでね 夢に出てきちゃって
うなされる。

どんな夢かっていうとね
いや もう 責任重大!

子供を任された だからね…

それでね 水場が 一か所で

例えば
西洋化とか軍事化とか経済大国化とか

はっきり
社会の行き先が決まってる場合は

馬が こうやろうが何しようが
無理やり連れてってもいいと。

ところがね
僕 思ったんですよ そのときに。

この場合 どうしよう? って。 ある程度…

つまり 子供の自主性ですよ。

それを伸ばしたり
「いや こういうほうが…。

僕の これまで歩いた経験だと
あっちかもね」とか言いながら

一緒に歩くしかないんじゃないかと。
水場が分からない状態で行く場合は

やっぱり…

大正新教育 ある程度
おかしなものもあったかもしれない。

だけど 学ぶべきものは結構多いなと。

そういう直感は思いましたね。

水場が分からない中で

しかも 一か所かどうか分からない。

いっぱい 方々
馬なりに みんな あるかもしれない。

(高橋)ないかもしれない。
ないかもしれない…!

それを歩かないといけない。 我々は。

できるだけ その人に合った水に
子供たちに合った水に

たどりついてほしいなと思いますよね。
大人が この気持ちでいたら

社会は狂わない。
さっきのとおりです。 本当に。

皆さん ありがとうございました。

♬~


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