英雄たちの選択 渋沢栄一 知られざる顔~「論語と算盤(そろばん)」を読み解く・福祉事業家として、600もの事業を…



出典:『英雄たちの選択 渋沢栄一 知られざる顔~「論語と算盤(そろばん)」を読み解く』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択 渋沢栄一 知られざる顔~「論語と算盤(そろばん)」を読み解く[字]


新1万円札の顔に決まり、注目を集めている渋沢栄一。明治時代、500もの会社を設立し、「日本資本主義の父」と言われる渋沢のもうひとつの顔を紹介する。


詳細情報

番組内容

実業家渋沢栄一のもうひとつの顔は、生涯にわたる福祉事業家として、600もの事業を立ち上げたこと。「貧しい人を助けることは、日本の資本主義を豊かにするためにも、必要なこと」と主張する渋沢に対し、「税金で貧民を助けることは『惰民』を増やすだけだ」と、東京府議会は真っ向から攻撃し、論争になった。鹿鳴館で貴婦人たちによるチャリティーバザーを開くなど、日本の福祉事業への道を切り開いた渋沢の挑戦をたどる。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】鹿島茂,飯田泰之,中野信子,【語り】松重豊




『英雄たちの選択 渋沢栄一 知られざる顔~「論語と算盤(そろばん)」を読み解く』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

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一万円札の新たな顔に選ばれたのは…。

明治時代
日本初の銀行や

製造業 鉄道
ホテルなど

500もの
株式会社を設立。

…と呼ばれた人物である。

そんな渋沢が
近年 改めて脚光を浴びている。

渋沢にちなんだ本が続々と出版。

中でも注目を集めているのが

渋沢の談話を集めた

「論語と算盤」である。

今や「論語と算盤」の読書会が
開催されるまでに。

企業の中間管理職や専業主婦などが
集まり

熱心にディスカッションしている。

かぜをひいたのを
天候のせいにしたりとか そういうのは…。

バブルの時代とかは
私も経験してきましたけど

目先に走るんじゃなくて…

次々に会社を興した経済人
という印象が強い渋沢だが

実は 知られざる もう一つの顔がある事を
ご存じだろうか。

…という一面だ。

完成して間もない鹿鳴館で

日本で初めてチャリティーバザーを開催。

貧しい人々の救済に奔走した。

「貧民は経済発展の邪魔だ」という
批判の中

渋沢は悪戦苦闘する。

今回もさまざまな分野の専門家が
スタジオに集結。

渋沢栄一の知られざる一面を解き明かす。

…言ったところが すごく面白いんです。

本当を言えば。

100年の時を経てよみがえる
「論語と算盤」を読み解き

社会福祉事業家 渋沢栄一の

知られざる実像に迫る。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回の主人公は 明治から大正にかけ
500以上の企業の設立や経営に関わり

後に「日本資本主義の父」と呼ばれた
渋沢栄一です。

まず こちらをご覧ください。

はい。 これはですね

明治42年に描かれた
渋沢の風刺画なんです。

磯田さん これ…
絵は何を表しているんでしょう?

ねえ? 千手観音のように
手がありますけれど。

これは「渋沢千手観音菩薩の図」といって

まるで 千手観音のように
いろんなものに手を出して

日本の資本主義化していく中で
いろいろとやってたということですね。

油を差して円滑とか 円滑油になるとか

会社を分割する のこぎりだとか

ふるいで 誰がいいか
人選にかけて 配置するだとか…。

ええ。
まあね ありますよね。

みんな こう… 祈ってる
お願いするような感じですけど

それだけ能力があったってことですか。
そうですね。

「救のショーベル」というのが
ありますけど。

この「救い」というのは
つまり 誰を救うことなんでしょう…?

これは この番組でやっていこうと。

いわば福祉事業なんですね。
ああ…!

今日は
渋沢栄一の実業家としての面ではなくて

もう一つの福祉事業家としての面に
注目したいということなんですね。

それでは まず 渋沢の その

社会福祉事業の出発点を
見ていきましょう。

一隻の大型汽船が
日本からフランスへと向かっていた。

15代将軍・慶喜の弟 昭武を長とする

パリ万国博の使節団の一行である。

その中に 28歳の渋沢栄一の姿があった。

渋沢は 武蔵国の
豪農の出であったが

その才覚を認められ
幕臣として随行を許されたのだ。

到着したパリは

万博開催を契機に
大いなる経済発展を遂げていた。

日本など及びもつかない この繁栄は
どのようにして成し遂げられたのか。

渋沢は その源泉を
パリで出会った一人の銀行家から学ぶ。

フリュリ・エラールは
渋沢を 銀行や株式取引所に案内し

資本主義のシステムを教えた。

銀行や株式会社は

人々から集めた資金を事業に投資。

そこで得た儲けを人々に還元する。

この資本主義の仕組みを使えば
巨額な資金を調達できる。

これが フランスの文明発展の原動力と
なっていたのだ。

渋沢は パリでまげを切り こう決意する。

渋沢がパリにいた
慶応4年1月

日本では
「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。

これに勝利した薩長が中心となり…

帰国した渋沢は 明治6年

民間人の立場で
日本で初めての銀行を設立する。

「国立」とあるが
国の法律にのっとるという意味で

あくまで「民間」の銀行であった。

かくして 渋沢は

「日本資本主義の父」として
第一歩を歩み始める。

一方で 渋沢には
知られざる もう一つの顔があった。

東京都板橋区の一角に建てられた
巨大な銅像。

渋沢栄一の銅像である。

こここそ 社会福祉事業家 渋沢栄一の
原点であった。

渋沢が 終生関わった「東京養育院」という
福祉施設があった場所である。

明治5年。

日本で初めて 鉄道が開設。

東京は 文明開化を迎え

大きく変貌を遂げようとしていた。

しかし その一方で
東京には繁栄から取り残され

住む家を失った浮浪者が
町にあふれていた。

これは このころの東京の人口調査。

江戸幕府の瓦解により

「100万都市」と
うたわれた人口は

50万人に減少。

その6割以上が貧民とされ

日々の食事や
寝る所にも

困窮していた。

渋沢は
この現状を目の当たりにして…

…と 強い問題意識を抱いていた。

渋沢にとって好機が訪れる。

時の東京府知事
大久保一翁から

ある依頼を受ける。

七分積金の運用を
引き受けてくれないか?

「七分積金」とは

このときから
およそ90年前

松平定信の
寛政の改革に遡る。

その際に行われた
政策の一つだった。

江戸の町内会の積立金の七分に相当する

米やもみを徴収し 蓄えていた。

飢きんや災害が起こったとき
徴収した米を「お救い米」として放出。

江戸の人々のセーフティーネットとして
機能していた。

さらに 松平定信は

「人足寄場」という施設を
作っている。

浮浪人に 大工や わらじ作りなど
手に職をつけさせ

社会への復帰 更生を図ったのだ。

慶応4年 江戸幕府が瓦解すると

七分積金は
そのまま 東京府に引き継がれた。

このとき 七分積金の総額は…

今の金額にして
およそ170億円にも上っていたという。

この江戸幕府の遺産に目を付けたのが

財源がひっ迫していた明治新政府だった。

文明開化の時代

橋や道路の補修
煉瓦街建設に

一部流用したのだ。

元幕臣だった大久保東京府知事は…。

…と 渋沢に要請した。

渋沢は 早速 行動を起こす。

「七分積金を貧しい人の救済に使おう」。

彼は 東京養育院という
生活困窮者の救済施設を訪れた。

渋沢は がく然とした。

子どもも老人も病人も一緒に収容され

100畳ほどの部屋に
100人以上が詰め込まれていた。

…という
状態の中で これを…

養育院を通して…

渋沢は 七分積金を使い
積極的に養育院の改革に乗り出す。

病人や老人のために
近代的な診療設備を設置。

職業訓練所を設け
わらじ作りなどの技術を学ばせ

手に職を持たせ 社会復帰を支援。

子どもたちには
学問所を作り 知識を身につけさせた。

渋沢は 七分積金の生みの親 松平定信を
生涯 信奉していた。

松平が行なった更生システムに
あるべき社会の姿を見ていた。

渋沢の談話集「論語と算盤」。

渋沢は「論語」と「算盤」を結び付けて
理想の社会を説こうとした。

「『論語』というものと『算盤』は
甚だ不釣り合いで

大変に
かけ離れたものであるけれども

富をなす根源は何かといえば
「仁義道徳」。

『論語』と『算盤』という
かけ離れたものを

一致せしめることが

非常に重要だ」。

今回も
さまざまな分野の専門家の皆さんに

お越しいただいています。
よろしくお願いいたします。

まずは 磯田さん。

渋沢がフランスから帰国して活動し始めた
明治初期。

東京では人口の6割以上が 貧しい生活を
送っていたということでしたけど

一体 どういう状況だったんですか?

まず もう 戊辰戦争で
荒れてるわけですよ 東京がね。

それまでは 大名 旗本の屋敷に
勤めてた人たちは解雇。 職がない。

だから 一時は 100万を
超えたんじゃないかといわれてた江戸が

幕末にかけて
人口は減りつつあったんですが

一層 減っちゃってですね
50万人台の都市になってくる。

今でいうと 経済収縮ですよね。

そのころ 両替商をやってた
安田善次郎なんかの回想録によると

もう とにかく 夜中は
両替商をやってたら

ピストルを
おなかに持って寝るんだと。

それで 銃で
両替商 銀行を襲ってくるから

それで応戦するんだと 店員と一緒に。
西部劇なんですよ 要するに。

からっ風が ピュ~とか吹いて
それで そこへ銃を持って

「金出せ 金よこせ 御用金よこせ!」
とかいうようなのが両替商にやって来て

両替商は「出さねえ」っていって

銃で応戦するというようなことが
みられるほど…

そんな状況の東京で
渋沢は実業家としての活動に加え

社会福祉事業でも
行動を起こしていきます。

今日は この社会福祉家としての渋沢に
迫っていきたいと思うんですが

鹿島さんは どんなふうに考えていますか。

明治6年に銀行家になりまして

一私人としてですね
私の人間として

自分の事業を
やると同時に

ほぼその時代と
同じぐらいからね

この貧民救済事業
というものを

両輪として
やっていくんですね。

なぜ そうなるかというと

彼はね すごく合理的な人…

どう合理的かというと 要するに…

…という考え方。

必ず 富んだ人が出来ると
貧しい人も必ず出来るというのが

これが社会というもので。

その貧しい人を放置しておくと

それは社会全体としては
非常にうまくいかなくなるっていう

こういうことをね ほとんど

先見的に分かってた超経済人で
合理人ですね。

飯田さん いかがでしょうか。

これ アダム・スミスが その…

一番有名な
「国富論」の前に書いた

「道徳感情論」という本が

あるんですけれども その中で

経済活動 または
人間の活動の根本に

必要なもの
というのは シンパシー

共感というか
同感というか。

例えば 貧しい人がいたら
かわいそうだなと思う。

また治安について言うならば

自分が いきなり 夜中に
強盗に襲われたら嫌だなと思う。

だから そういうことを人にもしない。

そういった 自分がやられたことを

または自分が貧困に陥ったら嫌だなと思う
感情っていうのを共有していること

これって 結構 経済活動の根本で。

これが すべて失われてしまうとですね
まさに お店は全部 重武装して

いつ襲われても
応戦できるようにっていうのを

日本中というか 社会全体でやってたら

そこに もう まともな資本主義の
活動なんて ありえないわけですよね。

共感と相互信頼があって

もし貧しくなっても それなりの手が
伸びるようになってないと

実は経済は発展しない。

これは大変。 取り引きコスト…。

何か 感情と その経済って 一見すると
結び付かないのかなと思ったら

そういうものなんですね。

服一枚でも これが
ここの僕が着ることがてきるまでは

信頼の この連鎖でつながってるんですよ。

これを作るのにも
全部信用してないとできない…。

中野さん どう…
皆さんの話を受けて どうですか?

すごく面白い。

本当に 今日の
根本のテーマだと思んですけれども。

金銭的な損得勘定を行う場所というのが

「DLPFC」という
前頭葉の外側の部分で行うんですけど

私たちの脳の。

一方で 良心とか信頼という機能は

内側にあるんですね 前頭葉の。

見えない所にあるんですけども…

損得勘定だけが動く人というのもいるし

良心が動いた結果

損得勘定を後回しにしちゃうということも
当然 ありうるんですね。

両方ともが
バランス良く機能する人というのは

意外と… まれかもしれません。

そういう意味では 要するに
「論語」と「算盤」ですよね。

良心の部分と 算盤の部分というのは

本当は 本来は 両輪なんだけれども

バランス良く どちらも大事にしましょう
ということを訴えた…

もしかしたら 渋沢というのは
日本の近代では

初めての人なのかもしれないなと
思います。 面白いと思います。

渋沢は なぜ 社会福祉活動に
熱心に取り組んだのか

それを知るヒントに
なるかもしれないものが

こちらなんです。

これは 渋沢が
養育院の自分の部屋に飾って

生涯大切にしたという書なんですけれど
磯田さん 説明していただけますか。

ここに書いてあるのは

寛政の改革を行った 老中 松平定信さんが
書いたものの写しと。

内容が非常に興味深い。

これ 松平越中守定信ですね。

「一命に懸けて お願いがあります」と
書いてあって。

「お金と穀物が行き渡り
世の中の立て直し」…。

まあ 「中興」ですね。

「勃興が成就しますよう お願いします」
というふうに書いてあると。

これ どうも やっぱり…

幕府の家来 徳川意識があって

松平定信の行った寛政の改革というのは
まあ いってみれば…

…の象徴なわけですよ。

だから この伝統的に徳川が持ってた

セーフティーネットを張るという意識を
持っており

この松平定信にならってですね
自分もこれをやろうと。

「富国強兵」とか言っているけれども
その基盤にあるのは…

…というのがあって

江戸の伝統を胸に

やってやろうじゃないかというふうに
思ってたから これ

自分の部屋に ずっと
これを置いてたんだと思うんですね。

そういう意味なんですね。
飯田さん どう思いますか。

そうですね。 この まあ…

渋沢自体が行った
社会福祉事業を見ていると

その寛政の改革を もっと

近代的に合理的にやりたいというふうな
考え方 思考を

非常に強く持っていたんじゃないかなと。
ですから

職業訓練所。 子どものための学問。
そして 貧しい病人のための施設 養育院。

この3つの思考に共通しているのは

防貧 貧しさを防ぐんだっていう
考え方なんですね。

救貧対策 つまり
本当に今 目の前で飢えている人に

施し米を出しましょうっていう政策

これは いろんな政権が
行っているわけなんですけれども

この防貧 その人たちに
手に職をつけさせて教育を与えて

その後 何らかの形で
自立可能なようにしていく。

このビジョンっていうのは
非常に新しいですし

まさに…

そうではなく…

さあ その渋沢の手腕が発揮された
養育院の事業ですが

このあと 大きな岐路に立たされ
渋沢は選択を迫られます。

明治6年の日本初の銀行設立を皮切りに

渋沢は 近代化に必要な
さまざま基幹産業を立ち上げ

「日本資本主義の父」として

華々しい活躍をしていく。

そのころ 渋沢の手腕を見込んで
ある人物からオファーが届く。

酒宴の席に招かれた渋沢栄一。

招待したのは
三菱の創業者…

当時 岩崎は 日本の流通の要である

海運業を独占しており

経済界の大立者として
権勢を振るっていた。

岩崎は 渋沢に こう切り出した。

渋沢は こう切り返した。

市場の独占を狙う岩崎弥太郎。

一方 渋沢は 多くの株式会社が
自由に市場に参入することが

資本主義の原則だと考えていた。

渋沢は 岩崎の申し出を断り 席を立った。

渋沢は 寝耳に水の知らせを受ける。

東京養育院の廃止案が
東京府議会に提案されたのだ。

明治12年から 養育院の運用は

七分積金ではなく
東京府の税金で賄われていた。

ジャーナリストの田口卯吉は
渋沢を名指しで こう批判した。

渋沢は 真っ向反対する。

「一国の首府で

このくらいの設備をもって
窮民を救助することは

絶対に必要である。

救わないのは無慈悲な暴政である」。

渋沢は
議会に廃止案の撤回を働きかけたが

多くの議員は廃止案を支持した。

このころ 明治政府は
「富国強兵」をスローガンに

産業の近代化を推し進めていた。

紡績や造船などの工業を発展させ

西欧列強に対抗できる国にしよう
というのだ。

富国強兵論者からすると
養育院の維持費はむだであるという。

それは今でいう
「弱者の切り捨て」につながる。

これは東京府議会の記録。

その中に 渋沢が 後に

東京府知事に提出した建議書が
残されていた。

渋沢にとって 養育院の廃止は
全くありえないことだった。

養育院の人々の命と生活を守り

この窮状から どう抜け出せばいいのか。

困窮者を「惰民」と決めつける議会と
真っ向対立する渋沢。

その脳内に分け入ってみよう。

社会福祉事業は
政府 自治体のバックアップが必要だ。

これを失うわけにはいかない。

幸い 府議会には懇意にしている議員が
大勢いる。

彼らに味方になってもらおう。

しかし 養育院の人たちを
「惰民」と呼ぶ富国強兵論者は

理解してくれるだろうか?

養育院は 掛けがえのない場所だ。

経済界で築き上げたネットワークを
駆使し

民間企業から出資者を募るのは どうか?

500もの企業に携わってきた私だ。

必ず協力者がいるはずだ。

しかし 株式会社は営利が第一目的。

果たして 利益を生まない福祉事業に
協力してくれる経営者は いるだろうか?

渋沢栄一に 選択の時が迫っていた。

渋沢の養育院は
存続の危機に立たされたわけですが

その理由は「惰民を増やすから」という
主張からでした。

中野さん 「惰民」って
相当強烈な言葉だと思うんですけど。

そうですね あの…

「惰民」という言葉は
「自己責任」っていう言葉と

かなり
リンケージがあると思うんですけども

非常に貧しい考え方だなと思いますね。

…であることのほうが はるかに

原因としては
大きいはずなんですけれども。

それまで 江戸時代 ずっと「村請制」という
連帯責任で納めてたから

働かない人がいると
自分が払わされるというのがあるので。

日本は 働かない人だけじゃなくて
働けない人への否定感というのが

極めて強い国民性があると
僕は感じている。

日本人は
そういう傾向 非常に強いんです。

「自分は誠実に真面目にやって成功した。

だから 成功できない人は 誠実に真面目に
やってないからだ」というふうに

認知が なりやすいんですね。

想像力が ちょっと足りないといえば
それまでなんですけれども

自分は頑張ってきたという自負が
あるがゆえに 攻撃性も高くなるんです。

渋沢にとって 養育院の存続は
絶対に譲れないものでしたが

東京府議会で
廃止案が提出されてしまいます。

では どうやって 渋沢は
事業を継続させていくのか。

渋沢は選択を迫られます。

選択1は「養育院を税金で維持」。

選択2は「民間資金で運営継続」

という選択肢です。
皆さんが渋沢の立場だったら

どちらを選択するでしょうか。

まずは 中野さん いかがでしょうか。

難しいけども

私は 選択2の
「民間資金で運営継続」を選びます。

本来は
税金で維持すべきだと思うんですね。

やっぱり
セーフティーネットというのは

営利目的では なかなか
運営できにくいものでしょうから

本来は やっぱり
税金で維持すべきものだとは

思うんですけれども。 しかしながら
やっぱり ここは日本です。

非常に 批判が集まりやすい性格の
事業だと思うんですね こういうものは。

そうなると なかなか
口を ほかから出されたりとか

批判が集まりやすい。 それで
頓挫しやすいということを考えると

自己資金 あるいは 民間資金で
運営を軌道に乗せて

継続していくというのが 最も
現実的なやり方ではないかなと思います。

飯田さんは いかがでしょう。

私は
「養育院を税金で維持する」という方針。

これを
最後まで堅持すべきだと思います。

その理由として 一つは
こういった福祉事業というのが

営利的に運営するのは難しい。
それも非常に重要な理由ですが

もう一つ この
明治10年代半ばから明治30年にかけて

地方自治というものが日本において
始まる時期でもあります。

その中で やはり 東京府

または 後であれば 東京市の活動
というのは かなり象徴的であったり

または 一つの
プロトタイプを示すものなんですね。

つまり…

ですから ここで 東京府が税金で

そういった救貧 そして 防貧の施設を
維持するという姿勢を示すと「あれ?」と。

「東京府がやってるってことは

うちの県もやんなきゃ
いけないんじゃないのかな」と。

これは現代においてもなんですけれども

わりと自治体って
先例に弱いところがありまして

その先例になるのに 東京府ほどの適任は
ないんじゃないかなと思うんですよね。

鹿島さんは どちらを選択しますか。
僕は2ですね。

この時代ってね
朝令暮改の時代なんですよ。

明治5年から
明治15年ぐらいにかけてね。

渋沢は 自分の作った
今の 一橋大学ですね 東京商科大学。

あれもね 廃校になっちゃったんですよ。
なぜかというと

一種のね…

学校なんかをやっていると 全然 利益が
あがってないわけですよ 短期的に。

「そんなの やめちまえ」っていうね
こういう議論がね 激しくなって。

だから 朝令暮改でね
学校を やめたり 作ったり

やめたり 作ったりばっかりしてるんです。
この時代。

国家とか そういう税金とか そういうのは
先ほどね

府議会とか そういうので
突然 打ち切られるということを

何度も経験しているんですよ 渋沢はね。

だから 民間資金というものをね
かなり集めなきゃいけない。

そのためには
金持ちに出させるということをね

常に考えてた人なんです。

渋沢はね 相当な したたか者ですからね。

…というものを入れておかないと
どんなものでも長続きしない。

皆さんの意見も踏まえて
磯田さんは どちらを選択しますか。

僕 実は2にします。
おっ 2?

「民間資金で運営継続」。

理由は… 最初 1でやってもいいかなと
思ったんですけど

鹿島さんがおっしゃるとおり
いつ打ち切られるか分からない。

それと もう一つ 鹿島さんと違う理由で
僕は2にしたほうがいいと思うのは

これ 民間から資金を集めた場合に

営利事業じゃないので 集めた資金を
自由に運営できるといいわけですよね。

例えば 鉄道に投資するだとか
電灯会社に投資するだとか。

電気会社ね 発電。

そういうことを 一番できる人が
同時に これ やってるわけですよ。

それで西洋から
モデルは持ってきてるから

ビジネスモデルは もうあって
それを日本に適用しさえすれば

ホテル業でも何でも
確実に儲かるわけですよ。

ということは…

利回り良くですね
伸びる可能性もあるので。

自由にできるので
2のほうがいいんじゃないかと。

それでは 渋沢は どんな決断をしたのか
ご覧いただきます。

渋沢栄一の懸命な訴えにもかかわらず

養育院は明治17年をもって
廃止と決定する。

そこで渋沢は こう啖呵を切る。

「府会が これほどに無情なら

今後は養育院を独立させて
私が経営する」。

渋沢は 養育院の所属は東京府のまま

自分が運営する「委任経営」を申し出る。

…を選択したのだ。

しかし
運営資金は どうやって捻出するのか。

ここから 渋沢の挑戦が始まった。

まず 渋沢が目を付けたのが

前年に完成したばかりの
鹿鳴館。

西洋流の社交の場として
舞踏会などが催されていた。

渋沢は
政府高官や財界の婦人たちに働きかけ

日本で初めての
チャリティーバザーを開く。

手袋や足袋 人形 絵画など

身の回りのもの およそ3, 000もの品々を
オークションに出品。

売り上げは3日間で7, 500円

現在のおよそ6, 800万円にも上ったという。

さらに渋沢は
財界の篤志家を一人一人訪ね

多くの経済人から寄付を仰いだ。

寄付者の名簿の最初には 渋沢の名が。

渋沢が率先して寄付している。

次に 三井財閥の幹部や

大倉財閥の設立者 大倉喜八郎などが続く。

こんなエピソードが残されている。

渋沢は寄付を集めるとき

必ず 大きなかばんを持ち歩き
これを差し出した。

実業界の大物 渋沢に促されると
誰も寄付を断れなかった。

人々は陰で このかばんを
「泥棒袋」と呼んだという。

中には 冗談交じりに
こうぼやく人もいた。

まず率先して みずからが
「金いくら出す。 渋沢栄一」という

奉加帳を最初に書いて

財界の人たちに回すと 自然と

渋沢さんが お金を出したんであれば

これは協力せざるをえないなということで
お金が集まると。

こうして 集めた寄付金を
公債や銀行預金に運用し

資金を増やしていった。

明治18年には

3万5, 031円だった
養育院の資金は

明治23年には
11万8, 104円にまで増える。

かくして
寄付の文化のなじみの少ない日本社会で

渋沢は 社会福祉事業の資金を
着実に確保していったのである。

その後 養育院は拡大。

収容者も増えていき
東洋一の福祉施設に生まれ変わる。

そして 渋沢は
福祉活動の対象を困窮者だけでなく

災害に遭って困っている人や
病気で苦しむ人たちにも広げ

医療や学術研究の施設の設立や運営に
協力していく。

さらに当時は ほとんどなかった
保育所の構想も練っていた。

ここには 一般の人々の日常生活も
福祉で支えようという思いがうかがえる。

70歳となった渋沢は
銀行を除いて経済界から引退する。

しかし…

アメリカのウォール街で始まった
世界大恐慌。

日本でも失業者が続出し

東北地方では
農村が深刻な飢きんに見舞われた。

国会では
貧困者を救う「救護法」が制定される。

しかし 法が制定されても

政府は予算がないことを理由に
実施を延期する。

「このまま
貧困者の窮状を見過ごしていいのか」。

福祉活動家たちは
最後の頼みの綱として渋沢を訪ね

救護法実現への協力を仰いだ。

このとき 渋沢は91歳。

病気療養中の身であったが

活動家たちの話を聞くと こうつぶやいた。

そして 医師の制止を振り切り

羽織はかまに着替えると大蔵大臣に面会。
こう訴えかけた。

2年後 大蔵大臣は予算を工面して

ようやく 救護法の実施に踏み切り

24万人もの人々が救護された。

しかし 救護法実施を見ることなく

渋沢は前年の昭和6年

惜しまれつつ この世を去った。

享年92。

東京都板橋区の一角に建つ
あの渋沢栄一の銅像。

その隣にそびえ立つ巨大な医療施設…

ここは かつて 渋沢が終生関わった
東京養育院があった場所。

現在は お年寄りの医療やリハビリで
最先端の取り組みを行っている。

そうそう…! じゃあ あと1回!

渋沢が およそ60年の歳月をかけて
その発展に尽力した養育院は

今 日本有数の医療施設として
人生100年時代の人々の老後を支えている。

渋沢は晩年 各地で講演会を活発に行い

日本の資本主義の在り方を訴えた。

それを まとめたのが…

84歳のとき 講演会で語った
渋沢の肉声が今も残されている。

ということで 渋沢は
「民間資金で運営継続」を選択しました。

まずは みずから資金を集め
しかも みずから自分も資金を投じて

養育院を継続させた点を
振り返っていきたいと思うんですが。

もう 集金力がすごいですよね。
チャリティーバザーをやったり。

これ 渋沢は
ヨーロッパを視察してですね

まあ その税金とか
そういうので集めて 公的なもので

お金でいろんなことをやるということも
見たんですけれども。

その一方でですね
寄付 チャリティーですね

それで運営されている部分が非常に大きい
ということにも気付いたんですね。

例えば 福祉事業とか病院とかね。

これね 意外とね チャリティーで
運営されてる部分が大きいんですよ。

渋沢はね チャリティーというものの
本質も ちゃんと知ってるんですよ。

つまり…

金持ちのね。

それで 良いことをするには
したたかでなきゃいけないというですね

こういう すごい認識を持った人でね。

飯田さんは いかがでしょう。

そうですね 寄付文化というのは

いわゆる 宗教的なバックグラウンドが
ないところでは

なかなか難しいんですね。

伝統的な経済学の議論では…

どこからか人々の行動を見ている。
または見下ろしている人。

で その神様による行動の規律化が
できないならば 何が人を律するか。

例えば チャリティーに
お金持ちの奥様方が商品を出すとき

まあ ちょっとケチくさいものは
出せないですよね。

「あら まあ あの家は あんなものを
出してるわ」と言われたくないと。

そうやって高めのものを出させる。

ただ 日本には
そういう西洋的な寄付文化はないが…

「あの人は いくら出しましたよ」とかね。

あと 分相応の思想もあるんですよね。
「このぐらいの身代なら

このぐらい出さなきゃ恥ずかしい」
というのがあるので。

その辺を うまいこと
渋沢は突いてたんじゃないでしょうかね。

あのVTRを見ながら 中野さん 思わず
泥棒かばん… 泥棒袋が出てきたときに

「頭 いいな」っておっしゃってましたけど。
すごいですよ。

本当に ついつい お金を出させちゃうには
どうすればいいかということを

ものすごい計算して
遺漏なくやってますよね。

泥棒袋の大きさも そうです。

あの大きい袋を持って来られたら

「あなたのような すばらしい人に
そんな みみっちい額の寄付なんて

似合いませんよ」という
メッセージですよね。

それはすごいですね。
ねえ!

で 晩年 渋沢はですね

貧困者を救護することを義務付ける
救護法の実施に力を注いでいきます。

救護法の実施を訴えたときに
渋沢は こんな話をしています。

…と
話しているんですけれど

この言葉 磯田さんは
どのように受け止めますか。

「俺たちが… 俺が産業を作って
税金を納めるもとを作ったんだ」と。

だから 産業を盛んにして…

…と脅したわけですよね 大蔵大臣を。

それは説得力があったと思いますよ。

渋沢さんが
この経済を作り上げてくるのに

いかに貢献していたかということは
分かるわけですから。

これ あの「救貧法」というのがね
最初に出来たのはイギリスなんですよ。

かなり早い段階 17世紀かな。

で イギリスっていうのはね
核家族の最も進んだ国 当時からね。

すでに もう その時代から
核家族なんですよ。

もっと前から核家族だという説も
あるんですけれども。

で 核家族になればなるほど

大家族が支えていたセーフティーネットが
なくなるわけですね。

だから 日本も この時代 昭和の初めに

都市部においては
核家族化が進んでるんですよね。

だから その分 貧民が増える

教育を受けられない人間が出てくるという
その ひずみというものは

救貧法 法律でもって 国家が救わなきゃ
いけないということですね。

だから そのことも
ちゃんと分かってたわけですね。

中野さんは 今日 この福祉事業家としての
渋沢の一面を見てきて

どのように感じましたか。
でも やっぱり 日本だから

生まれた人なんだなというふうに
思ったんですね 私は。

というのは…

この長期的な視座を持てる環境というのは
日本だったんだと思うんですね。

目先の得だけではない 先の…

それよりももっと先の
得を取ろうとしたら

長い関係が
築かれていかなければならないし

信頼関係が ずっと続くという
そのもとでしか得にならない。

それを 何だろうな… 忍耐強く
ちゃんと見据えて

その上に 国家とか組織を
構築することができた人というのが

渋沢だった思うんですけれども。

こういう長期的な視座を涵養する教育
というのも

今の日本に もしかしたら
必要なのかなというふうに思いましたね。

その渋沢の社会の在り方について

「論語と算盤」という著作を通して

みずからの考えを
広めようとしましたけれど

鹿島さん この「論語と算盤」の中で
気に入っているフレーズが…?

ここのとこですね。

つまり 富を求めるという心は

これはどうしようもないんだと。

で それを… 蔑んで

貧しければいいんだということは
論理的におかしいんだと。

それじゃ 全体が富まないじゃないかと。

だから…

それが だから
「論語」と「算盤」を同じようにですね

両方とも使うということなんですね。

そもそも 生き延びる生物の本質
ということから考えたら

富を求めるのは当然であって。

この「論語と算盤」の。

世界的にね 貧富の差 格差

資本主義に内在する貧富の差を拡大する
方向というものを

どうやって縮めるかという
本質的なことをやった人ですね。

さあ 磯田さん。
はい。 私は

渋沢さんが すごいと思ったのは

いってみれば
世間は金魚鉢のようなもので。

金魚は利益が欲しいから
餌 たくさん食べたいですよね。

だけど 餌 食べれば 糞も出るので。

餌だけ食べることを考えて

水をきれいにする装置やシステムを
つけていなければ 早晩 死にますよ。

この水槽の水をきれいにするシステムを…

餌は食えるようにならないんだと。

本当を言えば。

金魚が 餌を もう腹いっぱい食える状態を
作るってことが

実は 経済の大目標には合っているという。

我々は 渋沢の時代に似ているんですよ。

もう とてつもない格差社会だって

起きうる状態に
なっている。

このときにね

新しい
セーフティーネットワークの姿だとか

人類の経済段階変動前の第一波。

まあまあ もっと 何波もあったんですけど
その前の波のときの様子で

活躍した人の話を今日はできたというのが
うれしかったですね 私は。

新札のね 一万円札にもなりますし
その顔を見ながら

経済のことだけじゃなくて

また違う一面を見ることで
いろんなことが分かってきました。

皆さん ありがとうございました。


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