ETV特集「昭和天皇は何を語ったのか~初公開“拝謁記”に迫る~」初代宮内庁長官・田島道治に何を語ったのか…


出典:『ETV特集「昭和天皇は何を語ったのか~初公開“拝謁記”に迫る~」』の番組情報(EPGから引用)


ETV特集「昭和天皇は何を語ったのか~初公開“拝謁記”に迫る~」[字]


話題の昭和天皇「拝謁記」。89分拡大版。占領期の昭和天皇の発言を記録した一級資料が発見された。初代宮内庁長官・田島道治に何を語ったのか―象徴天皇の出発点に迫る。


詳細情報

番組内容

占領の時代、昭和天皇のそばにあった田島道治の新資料「拝謁記」が公開された。1949(昭和24)年から、昭和天皇の言葉が克明に記されていた。注目されるのが戦争責任と退位の可能性だ。敗戦の道義的責任を感じていた昭和天皇は、当初退位も考えていた。さらに1952年の独立記念式典の「おことば」で戦争への反省を述べようとする。しかし、最終的に戦争の経緯は削除された。なぜか―。天皇と長官の対話を忠実に再現する。

出演者

【出演】片岡孝太郎,橋爪功


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ETV特集「昭和天皇は何を語ったのか~初公開“拝謁記”に迫る~」
  1. 田島
  2. 昭和天皇
  3. 天皇
  4. 吉田
  5. 退位
  6. 拝謁記
  7. 戦争
  8. 国民
  9. 日本
  10. マッカーサー
  11. 田島道治
  12. 当時
  13. 反省
  14. 総理大臣
  15. 言葉
  16. 再軍備
  17. 木戸
  18. アメリカ
  19. 意向
  20. 時代


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終戦の翌年から

全国各地へ巡幸を
始めた昭和天皇。

人間宣言
を行い

新しい
憲法で

国民統合の象徴とされた。

巡幸する昭和天皇の後ろに
常に付き従う人物がいた。

初代 宮内庁長官 田島道治である。

占領の時代
象徴となった天皇を支え続けた。

その田島道治が残した
貴重な記録が見つかった。

5年近く 600回を超えた
昭和天皇への拝謁。

その記録から明らかになったのは

敗戦の道義上の責任を感じていた

昭和天皇の告白。

手帳6冊 ノート12冊に及ぶ 「拝謁記」。

4人の研究者が読み解いた。

すごい これだけの量 書いていることが。

びっしり。
そう びっしり。

御退位…。

御退位問題 あったって認識なんですね。
認識なんだね へえ~。

敗戦の責任を感じていた昭和天皇は
位を退くことも考えていた。

「拝謁記」には 田島とのやり取りが
対話形式で記されている。

番組では 一字一句 忠実に再現していく。

昭和天皇は
退位について

田島に
胸の内を明かしていた。

更に 天皇は 戦争への反省を
国民の前で述べようとする。

占領の時代が終わり
独立を祝う式典でのおことばである。

多くの犠牲者を出した太平洋戦争。

天皇は 反省に こだわり続けた。

ところが 総理大臣の吉田 茂は

戦争に言及した文言の
削除を求めてきた。

初公開 初代 宮内庁長官の「拝謁記」。

昭和天皇の どのような実像が
浮かび上がってきたのか。

戦後 象徴となった天皇
その出発点を見つめていく。

田島道治の遺族のもとで
極秘に保管されてきた「拝謁記」。

孫の田島圭介さん。

戦後間もない時期
祖父 道治と同じ家で過ごした。

これまでの研究で
田島道治の日記は明らかにされていた。

これとは別に 天皇への拝謁の詳細な
やり取りが記録されていたのである。

この「拝謁記」が 奇跡的に残された
いきさつがあるという。

叔父が亡くなり

時代も 昭和から平成
令和へと変わる中で

この資料を公開することにしたという。

田島道治が 宮内庁の前身
宮内府の長官に就任したのは

1948年6月。

終戦から3年。

占領下 宮中の改革が求められていた。

時の総理大臣 芦田 均が
白羽の矢を立てたのが

田島道治だった。

初めての 民間からの登用だった。

田島は 当時62歳。

戦前 金融恐慌後の
銀行の立て直しに尽力。

その再建の手腕を買われたのである。

当初 外部からの長官登用に
難色を示したといわれる昭和天皇。

しかし 「拝謁記」には

皇室と国民との関係を
よくしようと

理解を示していく姿が
記されている。

田島は 新憲法の理念に沿うよう
側近らの意識改革を図り

宮中の合理化を推し進めていった。

当時 田島が直面したのは
昭和天皇の戦争責任の問題だった。

大日本帝国憲法では

天皇は 軍を統帥し
統治権の全てを握っていた。

日本政府は 天皇は無答責

国内法上は 法的責任がなかったとした。

しかし 敗戦の道義的責任を問い

退位を求める声があった。

東大総長 南原 繁は 次のように述べた。

「陛下に 政治上
法律上の責任はないが

道徳的な責任がある」。

知識人に広がりつつある退位論。

天皇と田島は その動向を気にかけていた。

同じ頃 昭和天皇は
全国各地に巡幸を続けていた。

GHQも占領政策の一つとして支持。

天皇は復興に取り組む国民を激励した。

国民も熱狂的に迎えた。

「拝謁記」には 巡幸中の
特別列車での対話も記録されている。

田島は 退位について
これまでどう考えてきたのか

天皇に問いかけた。

終戦。

マッカーサーを最高司令官とする
GHQの占領の時代が始まる。

ポツダム宣言は 一切の戦争犯罪人に
厳重な処罰が加えられるとしていた。

マッカーサー進駐の前日…

昭和天皇は 内大臣 木戸幸一に

戦争責任について語った。

その言葉が 木戸の日記に
記されている。

退位の意向を漏らした昭和天皇。

当時 木戸は
天皇の最も信頼のあつい側近だった。

後年 証言している。

当時 連合国の中には 昭和天皇の
戦争責任を追及する声があった。

木戸は 退位によって
天皇が戦犯となる事態を恐れていた。

9月27日 昭和天皇とマッカーサーが会見。

天皇は平和の基礎の上に
新日本を建設することを伝え

マッカーサーは占領統治に
天皇の存在が重要であると考えていく。

同じ頃 日本の戦争指導者が
次々と逮捕された。

12月には木戸幸一も逮捕され
巣鴨プリズンに収監された。

木戸は自らの日記を
GHQの国際検察局に提出し

天皇の弁護につとめていく。

マッカーサーの意向で
昭和天皇は戦犯として訴追されなかった。

東條英機 木戸幸一をはじめとする
戦争指導者が

侵略戦争を
計画 実行したとして裁かれていく。

判決が近づくと

昭和天皇の退位を求める論説が
メディアに広がっていった。

国民は 天皇の退位について
どのように考えていたのか。

当時の新聞社の世論調査。

昭和天皇の退位について
どう思うかとの質問では

「在位された方がよい」が68.5%。

「退位されて皇太子に
ゆずられた方がよい」が18.4%。

退位を望む人が2割近くいた。

「拝謁記」には
国民の退位論を気にする天皇と

田島の姿が繰り返し記されている。

退位論が高まっていくことに
マッカーサーも焦りを募らせていた。

マッカーサーとGHQの高官が

昭和天皇の退位について
語った言葉が残されていた。

GHQの外交局長 シーボルトと
マッカーサーが

1948年10月28日に協議した。

その日 マッカーサーは
総理大臣の吉田 茂を呼び出す。

天皇を退位させないようにと指示した。

翌日 吉田 茂は天皇に拝謁。

田島の日記によれば 次のように伝えた。

昭和天皇は どのように こたえたのか。

アメリカのマッカーサー記念館に
その返答が残されている。

昭和天皇に代わって
田島道治がしたためた書簡である。

事実上 退位しない意向を伝えた書簡。

日付は 1948年11月12日。

まさにこの日 東京裁判の判決が下された。

A級戦犯25人に刑が言い渡されていった。

裁判はラジオで伝えられ
日本中の関心の的となった。

(通訳)極東国際軍事裁判所は
被告を絞首刑に処する。

東條英機ら7人に死刑判決が下された。

「拝謁記」の中で 田島は
次のように振り返っている。

天皇の退位問題は 田島のしたためた
マッカーサー宛ての書簡によって

区切りがついたと 従来
多くの研究では考えられてきた。

しかし 今回発見された「拝謁記」から

昭和天皇が その翌年も

退位の可能性を語っていたことが
明らかになった。

東宮 皇太子は
当時まだ 15歳。

早めに外国訪問
させたいと

昭和天皇は
自らの退位を

見据えて
考えていた。

「拝謁記」に 田島は
自らの思いも記している。

田島は 天皇の退位の意向を…

…と受け止めた。

この退位発言を

どのように捉えればよいのか。

この問題に詳しい 近現代史の研究者に
「拝謁記」を分析してもらった。

講和の時に 天皇が退位するという考え方。

それは 元内大臣の木戸幸一が

巣鴨プリズンに収監される直前
天皇に伝えたものだった。

木戸は 巣鴨プリズンからも
宮内庁幹部を通じて

天皇に考えを伝えようとした。

田島は 退位論について
天皇に次のように語った。

昭和天皇の
退位問題を
どうするか。

田島が相談したのは
総理大臣の 吉田 茂だった。

「拝謁記」には吉田の態度が
次のように記されている。

これに対し 田島は次のように こたえた。

「退位など考えられぬ」という
吉田の意向を受けて

昭和天皇と田島は話し合った。

1951年11月
巡幸の特別列車の中でのことである。

昭和天皇と田島は 退位せず
日本の再建にあたる道を選択した。

退位をめぐる
昭和天皇と田島の判断に

どのような背景があったのか。

4人の研究者が分析に取り組んだ。

田島の言い方だと…

昭和天皇なりに…
しかも これ 巡幸中かな? ですよね?

(瀬畑)つまり実際…

退位問題に区切りをつけた
昭和天皇と田島。

しかし 敗戦の道義的責任を

どう国民に説明するかという課題が
残されたままだった。

1951年9月。

翌年の発効で

7年近くに及んだ占領が終わり
日本は 独立を回復することになる。

独立にあたり国民に向けて
どのような おことばを表明するか。

おことばの検討は 田島に託された。

これ以後
1年余り試行錯誤が続くことになる。

田島が起草した 「おことば案」が
8つ残されていた。

最も古いものは…

5月3日の
おことば表明に向けて

何度も書き直しが続いた。

昭和天皇が
おことば案に

強く求めた
文言があった。

昭和天皇は田島に 戦争への反省を語った。

その回想は 日中戦争の時代から始まった。

日中戦争の
さなかに起きた南京事件。

日本軍は略奪 暴行を行い

一般住民や捕虜を殺害した。

事件は戦後 東京裁判で問題となった。

天皇の求めに応じて田島は
「反省」の文言を書き加えた。

反省したい「過去の推移」とは 何なのか。

「拝謁記」の中で昭和天皇は
太平洋戦争に至る道を

何度も田島に語っていた。

それは 張作霖
爆殺事件に遡る。

1928年 旧満州の軍閥 張作霖を

関東軍参謀 河本大作らが
列車ごと爆殺した。

事件を曖昧に処理しようとした
総理大臣の 田中義一を

昭和天皇は叱責したが
河本が停職となっただけで

真相は明らかにされなかった。

その3年後 関東軍は
石原莞爾参謀らの独断で

満州事変を引き起こし
政府も それを追認した。

昭和天皇は 軍の下克上ともいえる状態を
憂えていた。

陸軍の青年将校たちが
起こしたクーデター…

天皇は厳罰を指示し
反乱は鎮圧されたが

軍部の台頭が更に強まっていく。

北京郊外の盧溝橋で
日中両軍が衝突した。

近衛文麿内閣は当初
不拡大方針を示していたが

軍部の圧力に屈し
戦線を拡大する。

翌8月に
第二次上海事変が起こり

日中は全面戦争に
突き進んでいった。

天皇は 第二次上海事変を振り返っている。

中国大陸に進出する日本に
アメリカは全面撤退を要求。

1941年
近衛内閣の日米交渉は行き詰まった。

この時 内大臣の木戸は 東條英機を
総理大臣に推挙した。

開戦を主張する軍部を
東條が抑えることを期待していた。

1941年12月 東條内閣は
アメリカ・イギリスに宣戦を布告。

太平洋戦争が始まった。

…ってことが
うかがえることだと思います。

戦争の時代を振り返る 昭和天皇。

戦争指導者らの人物評も 度々 口にした。

1952年2月。

昭和天皇の反省の言葉を
受け止めた田島は

おことばの下書きを
天皇に説明した。

日本人だけで
310万人が犠牲となった戦争。

中でも 沖縄では
県民の4人に1人が亡くなった。

日本が独立を回復した後も
アメリカの統治下に置かれることになる。

当時 天皇は 沖縄について

どのように考えていたのだろうか。

「天皇メッセージ」と呼ばれる
資料がある。

1947年…

…が 天皇の側近から
聞いた話として

アメリカ国務省に送った文書である。

このメッセージの意図や
政治的・外交的影響については

論争が続いている。

一方 「拝謁記」によると

マッカーサーが 「沖縄と小笠原を
日本の領土としない」と言ったと聞き

昭和天皇は語った。

3月4日。

田島は 天皇の意向を受けてまとめた
おことば案を朗読した。

田島は 部下の宮内庁幹部に意見を求めた。

その結果 修正を求める声が上がった。

これを受けて 田島は 天皇に説明した。

ここで
問題となった

「事志と違ひ」
という文言。

太平洋戦争は
天皇の志と違って始まった

ということを意味していた。

昭和天皇は
「開戦の詔書」で表明していた。

「今や不幸にして
米英両国と

釁端を開くに至る」。

「豈朕が志ならんや」。

米英との戦争が
どうして 私の志といえようか。

昭和天皇は
戦争が自らの志と異なって始まり

東條英機に
平和が望みだと伝えていたと述懐する。

田島は たとえ平和を念じていても

実際には
天皇の名で開戦を裁可したのだから

「事志と違い」というのは
弁解に聞こえると述べた。

田島はなぜ 昭和天皇の信頼を得ながら

異なる考えを述べることができたのか。

田島をよく知る人を訪ねた。

はい どうも。

田島は 母校 東大の学生のために
私費で学生寮を設けていた。

寮長を務めた小林さん。

田島の言葉と行動に

教えられることが
多かったという。

田島は 大学時代

国際親善と平和を説いた
新渡戸稲造に学んだ。

田島は 敗戦の翌年
貴族院議員に選ばれ

新憲法の審議に加わっている。

戦争について
批判的な考えを抱いていた田島。

天皇の言葉を受け止めながらも
おことば案を修正していく。

「事志と違ひ」を削除し

「勢の赴くところ」
という表現に改めた。

戦争への反省をめぐって
対話を進める中

昭和天皇が 何度も口にした言葉があった。

陸軍を中心に
政治を左右した

「軍閥」への
不満や批判だ。

これをきっかけに
日本では再軍備に向けた動きが始まる。

予備隊が旧軍と同じ
「捧げ銃」を行っているのを見た天皇は

次のように述べた。

当時 アメリカは
日本に再軍備を強く求めていた。

しかし 吉田 茂は
アメリカの特使 ダレスに対し

消極的な姿勢を示した。

経済的な復興を 優先したからである。

吉田は証言している。

ダレスの要求に応じない吉田。

これに対して 公職追放を解除された
保守政治家たちは

改憲した上での再軍備を主張していく。

(拍手と歓声)

こうした情勢の中 昭和天皇は

田島に どのような考えを伝えていたのか。

天皇は 朝鮮戦争のさなか

共産勢力の進出を心配していた。

昭和天皇は 旧軍の復活には
警戒心を抱きながらも

再軍備について 考えを語っていた。

昭和天皇は再軍備について
何度も 田島に相談していた。

再軍備をめぐって異なる意見を持つ
天皇と 吉田 茂。

研究者は それを次のように読み解く。

しかし…

吉田 茂に
度々 意見を伝えようとする天皇。

田島は 次のように いさめた。

再軍備が必要と言う天皇に
田島は こうも答えている。

明治憲法から 新憲法へ。

戦後 象徴となっても

昭和天皇は 総理大臣に内奏を求め

政治や外交についての意見を
伝えようとしていた。

ですから…

3月4日 田島は
総理大臣 吉田 茂のもとを訪ね

おことば案を説明した。

吉田は このように述べた。

吉田の求めに応じ 次の言葉が追加された。

憲法尊重の文言が
加わった。

3月30日。

おことばの最終案が
出来上がった。

田島は 大磯の邸宅にいる吉田 茂に
最終案を郵送した。

おことば案を吟味する 吉田 茂。

田島のもとへ
吉田から思わぬ手紙が届いた。

赤鉛筆で記された

「吉田首相削除説」の文字。

そこは 天皇が戦争への悔恨を表した
重要な一節だった。

吉田が削除を求めた背景には

当時 再燃しようとしていた
天皇退位論があった。

国会で 中曽根康弘議員が
質問した。

田島は この吉田の懸念を天皇に伝えた。

吉田の一節削除は 何を反省するのかが
曖昧になる変更だった。

3日後 天皇は
なおも戦争への反省にこだわった。

田島は ふだんとは異なる
天皇の様子を記している。

吉田の削除に不満を隠さない昭和天皇。

この時 式典は 12日後に迫っていた。

田島は詳細なメモを作って準備した。

このメモをもとに
田島は天皇への最後の説得に臨んだ。

その要点は次のとおりだった。

元内大臣 木戸幸一は

終身禁錮刑で
この時も巣鴨プリズンにいた。

田島は
新しい憲法の下で象徴となった天皇は

内閣総理大臣の意見を
尊重するべきだと伝えた。

少なくとも…

日本は独立を回復した。

5月3日 皇居前広場で式典が開かれ

4万人が詰めかけた。

昭和天皇は
国民の前で「おことば」を述べた。

万歳! 万歳! 万歳!

新聞は退位説に終止符を打ち
決意を新たに独立を祝うと報じた。

巣鴨プリズンに収監されてから6年余り。

木戸幸一は おことばを
どのように受け止めたのか。

昭和天皇に退位についての考えを
伝え続けてきた 木戸。

日記に次のように記している。

おことばは

その後の
日本に

どのような
影響を

残したの
だろうか。

やっぱり その… 責任を認めて…

むしろ…

ですから これが やっぱり…

だから…

ですからね…

1953年。

田島は
宮内庁長官の職を退いた。

田島の宮内庁改革

それは 皇室を新憲法の理念に
近づけようとする試みだった。

その後 ソニー会長になった田島。

1960年
ご成婚直後の皇太子夫妻が

ソニーの工場を
訪れた。

迎える田島道治。

初めての民間出身の皇太子妃誕生。

その選定にも貢献があった。

戦後 象徴として
国民と歩みを共にしてきた昭和天皇。

1989年 87歳で生涯を閉じた。

昭和から平成 そして令和へ。

受け継がれてきた 「象徴天皇」。

その出発点を記録した…

田島は 次のように記している。

昭和天皇と田島道治の5年間の対話。

それは 象徴天皇とは何か

改めて私たちに問いかけている。

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「バリバラ」。 始まるよ!


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