英雄たちの選択「不可能への挑戦~河井継之助の北越戦争~」戊辰戦争で、新政府軍を大いに苦しめた越後・長岡藩の…



出典:『英雄たちの選択「不可能への挑戦~河井継之助の北越戦争~」』の番組情報(EPGから引用)


英雄たちの選択「不可能への挑戦~河井継之助の北越戦争~」[字]


戊辰戦争で、新政府軍を大いに苦しめた越後・長岡藩の河井継之助。最新鋭ガトリング砲の威力とは?新時代を見据えた理想の国家像とは?不可能に挑み続けた侍の選択に迫る。


詳細情報

番組内容

幕末、“越後の蒼龍”として恐れられた長岡藩の河井継之助。常に不可能に挑み続けた侍だった。大赤字の藩財政を、見事V字回復へ。戊辰戦争では、圧倒的武力の新政府軍に恭順を迫られても、独自の武装中立を模索。それが拒絶されると、劣勢の兵力ながら新政府軍と徹底抗戦へ。河井が自ら操った最新鋭ガトリング砲の威力とは?新時代を見据えた理想の国家像とは?幕末から維新へ。藩の、そして時代の命運を分けた河井の選択に迫る。

出演者

【司会】磯田道史,杉浦友紀,【出演】中野信子,萱野稔人,大石学,【語り】松重豊




『英雄たちの選択「不可能への挑戦~河井継之助の北越戦争~」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

英雄たちの選択「不可能への挑戦~河井継之助の北越戦争~」戊辰戦争で
  1. 河井
  2. 新政府軍
  3. 自分
  4. 中立
  5. 恭順
  6. 長岡藩
  7. 選択
  8. 新政府
  9. 長岡
  10. 領民
  11. 方谷
  12. 抗戦
  13. 武士
  14. 時間
  15. 時代
  16. 当時
  17. 日本
  18. 武装中立
  19. 萱野
  20. 人物


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時代は 幕末から明治へ。

慶応4年の戊辰戦争。

破竹の勢いで進軍する
新政府軍に

立ちはだかった男がいた。

越後長岡藩士…

最新兵器 ガトリング砲をはじめ

近代兵器を使って徹底抗戦し

新政府軍を大いに苦しめた。

(銃声)

だが 戦場となった長岡の町は
焼け野原と化した。

その後の河井家の苦難を
子孫は伝え聞いている。

間違っても…

…ってことを 子どもたちに
ずっと言い聞かせてたらしくて。

なぜ 河井は 郷土を荒廃させてまで
戦うことにこだわったのか。

河井の選択をさまざまな分野の専門家が

多角的に分析する。

…を貫くようなところがある。

すごい 「異色の武士」です。

「異形の人」といってもいいなと
思いますね。

ほかから見た…

…って 本当に微妙なんだなと思いますね。

…と恐れられた男。

河井は 新政府軍との戦いの先に
何を見ていたのか。

♬~

皆さん こんばんは。
こんばんは。

歴史のターニングポイントで
英雄たちに迫られた選択。

今回から 2週にわたって

「シリーズ幕末の先覚者」と題して
お送りします。

戊辰戦争の敗者 負け組でありながら

動乱の時代に 大きな足跡を残した
2人の人物を取り上げます。

第1回の今日は 長岡藩の河井継之助です。

長岡というのは越後ですから
現在の新潟県ですね。

磯田さん この河井って
どんな人物なんですか?

まあ ひと言でいうと…

…のような男ですね。
越後の富士山。

ただ みんな そびえてる富士山だと
認識してないところが怖かったんですよ。

普通の人だと思ってたら
すごい人だったんですよ。

それで この人…

なくてはならぬ人に
なんなきゃいけないと思ってる。

なおかつ あってはならぬ人にも
ならないといけないと思ってるんですよ。

うん…?
いいほうにいこうが悪いほうにいこうが

とにかく その人しかいないような人物を
目指している河井継之助なんですね。

長岡藩っていうのは 大きな港

今でいうと 国際空港にあたる新潟港を
持ってますので

要するに…

…が バッと そびえて
新政府軍を止めるわけですよ。

これを おさえていかないと
先へ進めないから

維新革命は 日本列島の半分

東側半分に進まないという状態が
起きていく。

明治新政府としては どうしても これは
潰しておかないといけない存在であると。

その中で 河井が
最新式の軍事力を備えてしまう。

厄介な富士山で
この山 越えられるかどうかと。

これを 何とかしないと
明治という新しい時代をつくることが

できないということになるわけですね。

その河井が備えた軍事力って

象徴的なのが こちらです。

出てまいりました。
ガトリング砲です。

これは 当時
日本に まだ

3台しかなかった最新兵器で

ハンドルで銃を回転させて

こうしてですね 1分間に200発以上も
弾を撃てたといわれていますが…。

当時 世界的にも珍しい機関銃ですよね。

そうですよね。 これ
1台3, 000両するのを…。   高いですね。

河井は 2台買ったとされていますが

3, 000両って どのぐらいの価値と
考えればいいんですか?

3, 000両は 大体

1万石の藩の年収が
4, 000両ぐらいあるから ほぼ年収で

これ2台買ったっていったら
6, 000両ですから

小さい藩の年間税収すべてでは
買えない金額。

ものすごい高価ですよね。

では 後に そんな武器を手にする
越後の富士山 河井とは

どんな人物だったのか
まず ご覧いただきます。

江戸時代

越後長岡藩7万4, 000石の
城下町として栄えた

新潟県長岡市。

河井継之助は 代々 藩の勘定方を勤めた
中級藩士の家に生まれた。

河井は 若くして勉学に精進した。

これは 河井が みずから書き写した
中国の古典である。

藩校での
音読中心の学習に飽き足らず

感銘を受けた書物は
一文字 一文字 写して

体得することを心がけた。

中でも心酔したのは

明の学者 王陽明が興した
陽明学だった。

その思想は
学問を実際の行動に生かす「知行合一」。

当時 陽明学の実践者として
世に知られたのは

幕臣の…

貧民救済のために
反乱を起こしたのは

河井が11歳のときだった。

天保14年 17歳になった河井は
一つの誓いを立てた。

「国のために
力を尽くして働く」。

稲川明雄さんは
陽明学との出会いが

河井のその後を
決定づけたと考えている。

家臣ですから。

17歳の河井が誓いを立てた年

長岡藩を揺るがす事件が起きた。

藩が管理し 日本海海運の
一大拠点として栄えていた…

しかし 各地からの物資に隠れ
中国製品を扱う「密貿易」が発覚。

このため 長岡藩は 幕府に
新潟湊を没収されてしまったのである。

湊での商取引から税を取っていた藩は
重要な収入源を失った。

河井の誓いは 藩の行く末に対する
強い危機感からだった。

案の定 長岡藩は
6年後には23万両以上の赤字を抱え

財政危機に陥ってしまう。

藩の再建を 一途に考え続けた河井。

この後 時代の大きなうねりが
彼を表舞台へと押し出していく。

ペリーが黒船を率いて 浦賀沖に現れ

日本に開国を迫った。

このとき 長岡藩主 牧野忠雅は

譜代大名として幕府の老中を勤めていた。

牧野は 未曽有の国難への対応策を
若手藩士たちに求めた。

河井も 意見書を提出。

内容は 記録に残されていないが
これが藩主の目に留まり

初めて
藩で役職を与えられることになった。

藩の重役会議に列席し
意見を述べる機会を与えられた河井。

ところが 席上…。

これまで藩は 財政難を高利貸しからの
借金で しのいできたにすぎません!

財政を立て直す抜本的な施策を 何一つ
実行していないではありませんか!

面と向かって 重役たちを批判し
激怒させる。

さらに 藩主の跡継ぎに学問を教える
ご進講役に任じられると…。

私は 人に教えるために
学問をしてきたのではありません!

藩政改革を実現するためです!

ご進講なんぞ
講釈師にでも頼めばよいのです!

…と断ってしまう。

河井は 旧態依然とした長岡藩を離れ
遊学の旅に出ることを決心した。

西国に
どうしても会いたい人物がいたのだ。

天空の城 松山城で知られる 備中松山藩。

石高は 表向き 5万石だったが
実高は 2万石足らずの小さな藩。

慢性的な財政難に陥り
一時は 10万両もの借金に苦しんだ。

これを立て直したのが

松山藩の重役を勤めた…

河井は 方谷から
藩政改革の極意を学びたいと願った。

河井の旅日記…

方谷に面会したその日
こんな言葉を書き留めている。

「能力があっても
藩に使われなくては意味がない」。

方谷は 河井に まず
藩主としての心得を伝えたのである。

方谷が 藩政改革で力を注いだのは…

…など 特産品の生産を
領民に奨励することだった。

これらを 藩が買い上げ
領民たちの家計は潤った。

松山藩では この特産品を江戸に運び

商人を介さず 藩士が みずから販売して
大きな利益を生み出していた。

方谷は 生産性を上げ
武士が率先して経済活動を担うことで

藩全体が豊かになる仕組みを作り上げた。

こうして 松山藩は
見事に財政再建を果たしたのである。

河井が 方谷から受けた影響を
うかがわせるものが残っている。

こちらが 河井継之助が
みずからの信念を書いた 書になります。

…というふうに書いてあります。

「民衆は 国の基礎であり

役人たる武士はその雇われ人にすぎない」。

江戸時代の身分意識にとらわれない
画期的な考え方であった。

方谷から
財政立て直しの秘けつを学んだ河井。

安政7年 長岡に戻り いよいよ
藩政改革に腕を振るうことになる。

本日も
さまざまな分野の専門家の皆さんに

お越しいただいています。
まずは 脳科学者の中野さん

河井は 結構 反抗心旺盛な若者…。
そうですね。

やんちゃって感じがしますけど
いかがでしたか?

そうですね 年の若さも
あるんだと思うんですけれども

人の基準に従いたくないタイプの人
っていうのがいるんですね。

日本では あまり いませんけれども。

…かもしれない。

まあ 分かったとしても…

…ことのほうが
ずっと大事だというふうに考えがちな

性格傾向を持っている…

もともと持っているタイプの人
なんだろうなというふうに思います。

河井が 藩の財政が
悪化してることに対して

非常に 強い文句を
言ってたじゃないですか。

あのエピソードが 彼の性格
ものすごく物語ってると思うんですよね。

無為無策を
ものすごく嫌う。

実行できるのにしない
っていうことに関して

もどかしさを感じるというところで
ものすごく 実行力もありますし…

それで 上役にも強く当たってしまう。

もう一つは 藩の財政が悪化することに
注目するっていうことは

そこに こう 藩の問題点とか矛盾が
凝縮されてるってことなんですよね。

ですので…

(萱野)目的合理的というかですね。
何か 大変な…

それと あと 追い詰められても
へこまないのは

彼が 先ほど 若様の講義をしろっていって
断りましたよね。

要するに…

でも それで忠義だと思ってるわけですね。

彼自身は 書状その他で
長岡は小さい藩だってことを言っていて

小藩だけれども
重要な役割を果たしているという意識は

非常に強く持っていますね。

先ほど ちょっと
「塵壺」という旅日記が出てたんですが

あそこでは 彼は ものすごく…。

西国を ずっと
九州まで回るんですけどもね

そこで 見たこと聞いたこと
四国も含めて ずっと書いていきまして

出会った人たちを どんどん
その人たちの意見を書いていくんですね。

誰とも仲よくなっていて。

そういう意味では…

その前に 東北も行って回ってますから
ある意味…

時に…

どちらかといえば…

…といってもいいなと思いますね。

陽明学に心酔できるっていう
社会的背景っていうのは

やっぱり どこかで 閉塞感があるとか

体制変革への渇望とか
危機感っていうものが

あったのかなという気もするんですけど
どうなんでしょうね?

はやっていたんですけども
基本的には やっぱり こう

教養主義ですしね やっぱり
体制イデオロギーになっていて。

それに対する…

…ということがいえると思います。

陽明学の影響を受けた人っていうので
ちょっと見てみると…。

やっぱり アクティブな人たちは 絶えず
陽明学っていうのを意識しながら

あるいは学びながら動いてますよね。

ですから この時代に広まったというのは
よく分かるところですよね。

安政7年3月。

河井が方谷のもとで
研さんを積んでいたころ

幕末の政局を 動乱の渦に巻き込む
大事件が起こった。

(銃声)

開国に反対する攘夷派を弾圧した

大老 井伊直弼が暗殺されたのである。

これにより 幕府の権威は失墜。

以後 各地で
過激な攘夷派によるテロ事件が頻発した。

京都では 朝廷と結びついて
政治の実権を握ろうとする

薩摩藩や長州藩が暗躍。

時代は 大きく動こうとしていた。

一方 河井は 慶応元年
藩主に その行動力を買われ

藩の地方行政をつかさどる郡奉行に
抜てきされた。

いよいよ
藩政改革の重責を担うことになったのだ。

まず 目をつけたのが 領内を流れる…

流域で 水害が頻発し
耕作地に大きな被害が出ていた。

河井は 治水工事を敢行し
米の増産に成功する。

さらに 藩内の流通にも大胆な手を打った。

藩の重要な財源の一つだった

信濃川の通行税を廃止したのだ。

人や物の往来を促進することで
商業が発展するという考えだった。

これらに加え 髪結い 青物問屋など
同業組合が独占していた商売を開放し

藩への届け出だけで
新規参入できることとした。

生産性を上げ 流通を促進して
経済を活性化する。

方谷に学んだ 河井の改革によって

長岡藩は 僅か2年で
およそ10万両を蓄えるまでになった。

要するに
上から勘定するのではなくて…

山田方谷から
一番 教えられたことですよ。

…っていう考え方になるわけですね。

河井の藩政改革が 実り始めていたころ
中央の政局は 激動の時を迎えていた。

薩摩・長州が率いる倒幕派の
機先を制するため

将軍 徳川慶喜は
みずから 政権を朝廷に返上した。

これに対し 倒幕派は

王政復古の大号令で
幕府を廃し

天皇を中心とする
新政府の樹立を宣言。

新政府と旧幕府の対立は深まり
一触即発の事態となった。

内乱の危機を察した河井は
京都へ向かった。

長岡藩として
朝廷に意見書を提出するためだった。

河井直筆の草稿が残されている。

そこには
内乱を防ぎたいという強い思いが

したためられていた。

「世界に無比の太平の世を

変乱に巻き込むことには

天下の人心は
到底 納得するものではありません」。

「すべてを徳川氏に
ご委任なさる以外に

治安を維持するすべは
ないと存じます」。

譜代藩としての立場から
河井は 徳川の政権復帰を提案した。

しかし 朝廷は これを黙殺。 そして…。

近代兵器を豊富にそろえた
新政府軍の前に

旧幕府軍は歯が立たなかった。

急ぎ 江戸に戻った河井は

長岡藩邸にあった
美術品や茶器を売り払い

その金で 横浜の外国商人から
大量の近代兵器を購入した。

中でも アメリカ製のガトリング砲は

1台で歩兵100人分に匹敵するといわれた
最新鋭の機関銃だった。

河井は これを2台購入し 戦乱に備えた。

鳥羽・伏見で圧勝した
新政府軍は 3手に分かれ

錦の御旗で 諸藩を恭順させながら

東へ進軍。

江戸の旧幕府勢力を一掃し

会津はじめ 抵抗を続ける東北諸藩と
戦端を開こうとしていた。

その途中
北陸道を進む新政府軍は

長岡藩に恭順を命じた。

新政府軍に参加するか

軍資金3万両を供出せよ
というものだった。

長岡藩の重役たちの意見は割れた。

議論は紛糾し
新政府軍への回答は先延ばしにされた。

業を煮やした新政府軍は
長岡に向け 進軍を開始。

閏4月27日。

長岡藩領に隣接する
小千谷に進駐した。

長岡城まで僅か17kmである。

この日 河井は
家老上席 兼 軍事総督に任命され

名実ともに 長岡藩の全権を預かった。

そして 藩士たちに 恭順でも抗戦でもない
新たな考えを伝えた。

それは 新政府にも 旧幕府にもつかず

武装したまま中立を保つという
宣言だった。

河井は 新政府軍が迫ってくる中で
武装中立という立場を表明しましたが

どう考えればいいんでしょうか?

ちょうど こう オセロゲームみたいにね
黒と白があって

どんどん どんどん
ひっくり返っていって

官軍側が どんどん 旧幕府方を変えて

勢力を伸ばしてくるわけですよね。
だから ともすると 二分法になりがちで

そういう中で 中立を守る…

要するに
AかBかっていうんじゃなくて…

でも 中立とはいえ
武装をしてるっていう点が

また 特徴的かなと…。
(大石)江戸時代自体が

兵農分離で 武士が武装してますよね。

ですから これを
全体を一気に解除するっていうのは

ちょっと
現実としては不可能なことで…

現実的な課題だったと思いますね。

これね やっぱり 長岡藩って

徳川家を守るっていう意識の
家老たちも多いし

河井自身も やっぱり そうおいそれとは
朝廷側にはつけないわけですよ 気分的に。

河井について
友人が 後に 証言してるんですけど

ケンカを見かけると
ただ弱いだけで助けようとすると。

で 強いほうに もし道理があったとしても
いじめると。

本当に はっきり「いじめる」と書いてある。
だから 結構ね…

でも それ 言うこと聞かなかったら
朝敵になるから…

…っていうと 武装中立という考えに
なっていくんですが

この交渉は 非常に難航するだろう
ってことが 予想されるわけですね。

武装中立って そもそも

軍人の発想としては かなり
イレギュラーなのかなと思うんですよね。

そもそも
戦うということが命題の人たちなのに…。

文民なら まだ分かるけれども…

武力というものを 武として使わずに…

…のが面白いところで。

これは やっぱ ありえると思うんですよ。
というのも

私たち 人の話を聞くときに
誰の話を聞くかって考えたら

ひと言でいえば 成功した人間。
成功してる人間か 強い人間なんですよ。

当時は やはり 武家社会だから…

…を持っている。 そういった
最新式の武器を蓄えることによって

中立という立場を取って…

…というのは
十分 やっぱ 考えられると思いますよね。

ちなみに この武装中立を宣言した藩
っていうのは 当時 ほかにもあった…?

調べたんですけど ないですね。

(萱野)そこは やっぱり
河井の先覚性って あると思いますね。

当時 やっぱり
武家社会の論理が浸透してますから

中立って そもそも
ありえない選択だと思うんですよ。

どっちにつくんだと。

自分たちに つかないってことは
イコール 敵だっていうことですから

そういった論理が支配してる中で
中立を選ぶっていうのは もちろん

大衆的には理解されにくかったかも
しれませんけども

今は また 歴史も違ってきて
いろんな条件も変わってきましたから

武装中立ではない 非武装中立ってことも
考えられるかもしれませんけど

歴史の長いスパンで見れば
武装中立っていうのは

当然の 論理的な帰結なのかなと
思いますね。

しかし あの…
この「新政府軍」か「幕府側」か

どちらか一方の選択しか…
まあ 普通はない中

何で こんな ありえない発想が
できたんですかね?

(中野)これは 普通じゃない人ですね
この人は 本当に。

面白いと思いますけど。

よく ライフハックでね
相手に約束を取りつけるときに

「Aの日程と Bの日程
どっちがいいですか?」って

聞くっていうの ありますよね。

「行きません」っていう選択肢を
そのとき しにくい。 普通の人は。

でも 河井は 「いや 行きません」って
言えちゃう人なんですね。

まれですし。 たぶん この人は

今 現代の学校のテストとか受けたら
すごい点数は低いと思う。

だけど 学校教育には
非常に適応的でないけれども

でも…

たぶん 成功しますよ。

だって 選択肢のほかに考えて
前提 疑うんですから。

当時の頭でいうと
これは 王命なんですよ。

要するに 天皇の命令なんですよ。

要するに 天皇が兵を出して
「賊軍を討て」って言ったら

「従う」か「軍資金を出す」かしか
選択肢はないんですよ。

でも この人 天皇の命令も何も…。

「僕たちだけは 武器を持っているので

特別扱いがしてもらえるんじゃないか」
という気分もあるわけです。

これも
歴史的にも すごく言えるんですけど…

ケンカをして… 例えば

武力を使って勝つっていうのは
もちろん 強いんですけど

さらに強いのは 何にもせずに勝てる。

それだけ やっぱり 権威も身につけてる
っていうことなんですよね。

状況が… 一気に それによって

自分たちがコントロールできない方向に
いってしまう可能性があるんですよ。

ですので 強い組織は
なかなか こう…

実際は 自分からは手出ししないという
傾向があって。

それは 最後まで
状況をコントロールしたいから。

となると あの… そのときに

力に ものを言わせて 結局は

力を使わずに物事を動かす
というようなことが出てくる…。

さあ その 武装中立を掲げた河井は

このあと 厳しい選択を
迫られることになります。

河井は 新政府軍と直接交渉するため

小千谷の慈眼寺を訪れた。

本堂には そのときに使われた部屋が
今も残されている。

新政府軍幹部と対峙した河井。

「自分が必ず 東北諸藩を説得する」と

時間の猶予を請い

新政府 首脳部に宛てた嘆願書を
差し出した。

そこには 河井の目指す
理想の国家像が記されていた。

「10万余りの領民が
安心して仕事に励み

藩全体が豊かになるよう
努めるのが

私の天職です。

長岡のような小さな藩でも
倹約に努め 産業を興せば

海軍を持てるようにも
なるでしょう。

それなのに
戦争によって領民を苦しめ

農業を妨げ
国を疲弊させるのは

悲しむべきことです。

今こそ 日本中で協力し

世界に恥じない強国を
つくるべきです」。

河井が訴えようとしたこと

それは 長岡藩の中立だけでなく

各藩が富国強兵に努めて

国全体を豊かにするという構想だった。

しかし 新政府側は

軍備を整えるための
時間稼ぎにすぎないと決めつけ

僅か30分で立ち去った。

河井の信念を込めた嘆願書は
受け取ることさえ拒否された。

窮地に立たされた河井。

その心の内に分け入ってみよう。

新政府に恭順し 会津討伐に加われば

我が長岡が戦場になることはない。

10万の領民の命を救うためには
恭順も致し方ない方策か。

しかし 武力をもって 中央集権体制を
打ち立てようとする新政府のやり方は

いかにも強引。

到底
この国の将来を見据えた考えとは思えぬ。

やはり ここは
戦いに打って出るしかないか。

ガトリング砲をはじめ
我が藩の最新兵器をもってすれば

数か月は持ちこたえることが
できるはずだ。

越後の冬の訪れは早い。

雪の季節まで持ちこたえれば

寒さに不慣れな新政府軍は劣勢となり

勝機が生まれる可能性もある。

我が藩の奮闘ぶりを見れば

いまだ 態度を明らかにしない諸藩も
味方につくかもしれない。

しかし それまでに長岡が戦場となって

多くの領民の命が
失われてしまうのは必定。

領民を犠牲にはできぬ。

ここは 初志を貫徹し

あくまでも
中立を訴えるべきではないのか。

日本全体の繁栄を願うのは
新政府とて同じ。

徳川譜代の長岡藩が

奥州の各藩との調停役を
買って出ることは

新政府にとっても
決して悪い話ではないはずだ。

これ以上
戦で民を殺し 国を疲弊させてはならぬ。

我が理想をしたためた嘆願書を

なんとか
新政府 首脳へ届ける手だてはないものか。

新政府に 恭順するのか 戦うのか

それとも 中立を目指すべきか

厳しい選択が河井に突きつけられた。

河井は 新政府への嘆願書に
自分の考えを記していましたが

大石さん
河井は この新国家に対して

どんなビジョンを持っていたと
考えますか?

…っていうのが 一つありますよね。

ただ それは 自分だけが
守られればいいっていう話じゃなくて

それを… 260の各藩が
守られることによって

新しい国家が
出来ていくんじゃないかって。

そこは 構想していたのではないか
っていうふうに思いました。

要するに オセロ… 真っ白になるか
真っ黒になるかじゃなくて

今までのような いろんな…

そういう方法
というのを考えていて そのためには

白組と黒組の接点にいる
自分の役割っていうのは大きい

そういうふうに自認してたのかな
っていうふうには思いますね。

そのためには やはり…

それに ずっと
諸藩の間で戦をやってたら

どんどん どんどん
諸藩の体力っていうのが失われていって

本来だったら 経済発展に注ぐべき
リソースというものが使われて

無駄になっていってしまう。
だから 早く戦を終わらせて

国力を増強した国々が

いろんな国と争っていくという
こう 近代的な…

それこそ 国際関係の図式が
あったんだろうなと。

たぶん…

ところが もう この段階では

日本の本土に関しては
ほぼ 戦の大勢は決していて

江戸は落ちてるわけですし

新政府軍っていうのは
圧倒的な武力でもって

徳川の天領を
次々に回収していってる段階なんです。

新政府軍にしてみたら
早いとこ 長岡も

天皇方に加わってくれという話なんで

「何 言ってるんだろう? この人は」
ということだったと思いますよね。

さあ ここで もう一度
その嘆願書が受理されず

会談が決裂したときの河井の選択肢を
見ておきましょう。

まず 選択1は
「新政府の要求に従って恭順する」。

そして 選択2は「抗戦」。

最後は あくまでも「中立」という選択です。

皆さんが 河井の立場なら
どれを選ばれますか?

まずは 中野さん。

3の「中立」を選びます。
はい。

これ 私一人だったら
抗戦してもいいんですよ。

まあ もう死んでもいいし
まあ そもそもね…。

だけれども やっぱり
領民があることですから

これは 彼らを どうしても…

どうにかして 一番被害の少ない方法で

収まらないものかと考えると
思うんですね。

局所的な戦闘行為っていうのは

もしかしたら
起こるかもしれないけれども それを…

会津のことも…
会津にだって 領民がいるし

新政府軍だって人ですから

どうにかして それらを
なんとか 犠牲を少ない方法を

自分が交渉して何とかするから

会津も犠牲にならない方法を
考えると思います。

「中立」。
「中立」。

大石さんは どちらに…?
私は「中立」にしたいんですが

現実から もう無理な状況に
追い込まれているんですよね。

そう考えると 2の「抗戦」を一度して

そして 時間稼ぎでも あるいは
相手方の考えを変えるにしても

それによって 3の「中立」へ持ち込む
機会を考えたいというふうに思います。

一定程度 自分たちの存在を示したうえで
もう一回 今度は

会津側のグループと
それから 新政府側とを話し合わせる

そういう場を作っていく。

何となく 交渉も優位になるかな
という気もするので あえて…

さあ 意見 割れていますけれど
最後に 萱野さん いかがでしょうか?

私は 1の「恭順」ですね。
「恭順」を選択します。

やはり 新政府軍が
今 勢いがついてるわけですよね。

どう考えても この内戦 戦の帰趨は

新政府軍が勝つことになるだろう
ということでいえばですね…

恭順をして 政府軍に対しては
敵意は示さない。

その中で だからこそ

いろいろと動けるようになる条件を
整えていって

早く 会津藩を説得して
もう戦ってる場合じゃないんだと。

これで…

その後の そういった
大きな役割を担うことによって…

私からすると「恭順」一択だなと。

僕も やっぱり 「恭順」一択ですね。

慶喜は もう恭順してるわけですよね。

ただ 恭順すると 河井自身には
ちょっと申し訳ないけれども

過去の例を見ると

こんなに強い徳川方の藩の家老が…

自分は死んじゃうかもしれません。
ああ…。

ただ やっぱり 理不尽だと思ったから

「抗戦」っていうふうに
どうしても言いたい人もいるでしょう。

藩内事情もあったと思うんですね。
藩内事情がある…。

実際 彼も 自分は死ぬから
首を持って それでお金をつけて

官軍へ持ってけっていうふうに
こう 言うんですけど

周りが それを許さないんですね
やっぱりね。

やっぱり 彼の立場っていうのも
ありましたね。

藩内事情もあって…。
うん…。

では 大変難しい選択を迫られた河井に
いよいよ 決断の時が訪れます。

小千谷での交渉が決裂した翌日。

河井は 新政府軍本陣を訪れ
再交渉を願い出た。

中立を貫くことを選んだのだ。

しかし 河井の懇願が
取り次がれることはなかった。

諦めきれない河井は 新政府軍に加わった
いくつかの藩に仲介を頼んだが

結果は同じだった。

河井は 心を決めた。

もはや 新政府軍と戦うしかない。

しかし 長岡藩兵1, 300人に対し

新政府軍は およそ3倍の4, 000人。

兵力の差は歴然としていた。

河井は 新政府軍と対立する
東北諸藩と軍事同盟を結んだ。

両軍が衝突。

新政府軍は 信濃川の対岸から
大砲を撃ちかけ 強行突破。

長岡城下に突入する。

長岡城に陣取った河井は

みずから ガトリング砲を操り
これに応戦。

だが 翌日 河井の奮闘もむなしく
新政府軍によって長岡城は落城した。

最新兵器をもってしても

新政府軍の物量攻撃には
あらがいきれなかった。

しかし 河井は諦めず
地の利を生かしたゲリラ戦を展開。

領内各地で新政府軍を苦しめた。

落城から2か月余りたった
7月24日 深夜。

河井は
長岡城奪還を目指す奇襲攻撃を仕掛けた。

城の裏手に広がる沼地を
胸まで水につかりながら6時間も行軍し

早朝 攻撃を開始した。

不意をつかれた新政府軍は
大混乱に陥り 敗走。

このとき 城を守っていた
新政府軍の兵2, 500に対し

河井の兵は 僅か700だった。

河井は 兵力差をものともせず
長岡城の奪還に成功したのである。

しかし この戦いには大きな犠牲が伴った。

河井が 左足に銃撃を受けたのだ。

河井 重傷の知らせに
長岡藩兵の士気は一気に低下してしまう。

かたや 新政府軍は
時を置かず猛反撃を開始。

その軍勢は 各地から来た援軍を加え
およそ3万に膨れ上がっていた。

4日後 城は 再び
新政府軍の手に落ちた。

3か月に及んだ北越戦争で
長岡の町は 焼け野原と化した。

河井は 長岡藩兵の残党と共に
会津を目指した。

自力で歩けないため担架に乗せられ

「八十里越」と呼ばれる国境の険しい峠を
越えた。

道中 日に日に 傷が悪化した河井は

会津藩領 塩沢村に身を寄せた。

今も この地に

河井が最期を迎えた座敷が
大切に保存されている。

慶応4年8月16日。

この部屋で 河井は42年の生涯を閉じた。

塩沢村の人々は 河井の死を悼み
墓を建て 弔った。

しかし 墓石に「河井」の名はない。

追撃してくる新政府軍に
墓の存在を悟られないためだったという。

罪人として まだ…
そういう丁重な扱いはできない。

罪人の扱いしかできないわけですから。

見た感じをごまかしたと。

河井は
日本の未来を見据えた構想を抱きながら

賊軍の将として世を去った。

敗走中の峠で こんな句を詠んでいる。

河井は 再度 中立の道を探りましたが
結局は 抗戦に踏み切りました。

中野さん なぜ 河井は
戦うことを選んだんでしょうね?

そうですね ひと言でいうと この人は…

(中野)たぶんね。

…という特性があって。 例えば 銃ですね。

銃を 男性に持たせると

唾液中のテストステロン値が
増えるんですけれども

そうですね 測定… 場合によっては

100倍にも増えるっていうデータが
あったりして。

ふだん 自分を抑えることができる人でも
非常に攻撃性が高い…

スイッチを入れちゃうんですね。
物があると。

自分が大きくなったような
錯覚っていうのを

持ってしまうものなんですね 人間って。

それを
やっぱり コントロールできるように…

だけども それを つくることには

成功しなかったんだと思います。

一つ これ ひょっとすると… と思うのが
戦争中に河井が 部下に語った言葉。

「この戦は 勝っても負けても

武士というのは 大勢…
つまり 領民に負けてしまう」。

要するに 武士は滅ぶんだと。
戦争の以後 武士という身分がない。

頭いいから分かってるんですよ

武士身分自体がなくなると
この戦争のあと。

だから…

「だから 潔く戦おう」と。

勝つとか負けるとか
そういうことじゃなかったかもしれない。

萱野さんは どんなふうに感じましたか?

私は 戦時… 戦っている状況ですよね

その状況における時間の大切さ
っていうものを痛感しますね。

いかに 時間を稼ぐか。

あとから見ると 負ける側っていうのは

時間を狭めるというか

時間をなくす選択肢を
どうしても しちゃってるんですよね。

例えば 追い詰められて
どうしようもないときに

自分から攻撃してしまって

それが 相手に対して
口実を与えることになって

むちゃくちゃ攻められてしまうとか。

最終的に武士の在り方のために
当たって砕けろっていうことであったら

それは 一つの
美しい生き方かもしれないけれども

政治ではないんですよ。

政治は最終的には 結果を残す
結果責任を問うっていうのが政治で。

道徳的には 信条的に美しければ
それでいいんですけども

やっぱり ここはね 戦ですからね。

政治的に結果を残すと。

…って少し思いますね。

大石さんは
「抗戦」とおっしゃってましたけれど

どうして 「抗戦」を
河井は実際 選んだんでしょう?

二度 河井は挫折してるんですね。
大政奉還のあと もう一回 徳川を中心に

新しい政治をやろうじゃないかっつって
無視されて。

それから 小千谷の会談のときにも
嘆願書を出して 無視されて。

ですから かなり やっぱり
挫折はしてるんだなと思うんですが

その中で 戦うっていうのを
出したっていうのは まだ…

まさに 日本を二分する中で

自分が
ちょうど 真ん中 結節点にいて

これから いろんな外交が
ひょっとすると できるかもしれない。

それで 力によって 萱野さんが言うように
時間が かかれば かかるほど

いろんな 自分が活躍できる余地が
あるかもしれない。

だから 八十里 越えてね 切腹もしないで
行こうとしたのかもしれないんですよね。

そういう意味では 意外と 最後まで
捨てない人かなっていう気がしますね。

そういう意味では 長岡城も やはり
捨てたくなかった…?

奪還しましたもんね。
東北で戦った諸藩の戦いぶりを見ても

城を 一回 落とされて
さらに ゲリラ戦 続けて

もう一回 奪還するなんて

どのぐらい でかい人物かってことは
これで分かるわけですよ。

だから
交渉の様子見て 無理だと思ったら

下手に…

…のに 死んじゃったわけですね。

この人は 本当に頭もいいし
先読みもできて

情報力も それなりにはあるんですよね。
決断力もあって。

自分の力… 自分の答えを出す力に
恵まれているんだけれども

だけども そうして見つけた答えが

枠組みを変えたら
不正解になっちゃうんだっていうことを

あんまり認識してないんですね。

…っていうことを
もっと経験してれば あるいは

老練な政治家になったときに
その力を発揮できたと思うんですけども

そうならないうちに
亡くなってしまったのが

とっても残念だなと思いますね。
うん…。

さあ 今日は
河井の選択を見てきましたけれど

現代を生きる私たちは その選択から
何をくみ取ることができるのか。

大石さんは どういうふうに考えますか?

そうですね… 新しく近代の
明治の国家が出来るんだけれども

何もしないで オセロがきれいに
変わっていくやり方と

そういうふうに 抵抗されながら
日本を統一していったあとの明治と

やっぱり 違うと思うんですよね。

新しい…

そんなことが言えるかなと思いますね。

萱野さん いかがでしょう?

あるいは 河井の人生でいえば…

…って思いますね。
それを 決定する一番大きな要因

戦っていうことでいうと やっぱり
武力を持った人が

その武力をどうコントロール
最終的にするのか。

これを実際の武力行使に使うのか。

あるいは それを蓄積することによって
何らかの影響力を行使するのか。

あるいは もっと別の使い方をするのか。

その力と どうつきあっていくのか。

それを自分が 生き延びて
最大の効果を発揮するために。

あるいは…

…っていうことを考えるのが
最終的には…

そこの判断の難しさと
生と死の分水嶺が

いかに 微妙なところに
成り立ってるのかっていうことを

この河井の事例からは
痛感させられますね。

磯田さん どうですか?
これ どうも やっぱり…

あれを見ると。

明治維新から
150年たって我々が考えると

薩長の中央集権国家というのは

軍事国家もつくり
そのあと 経済大国も出来たと。

だけど もう 一周回った状態ですよね。

我々が 一周回って
人間の幸せっていうのを考えたときに

河井が構想したような
そういう国家という道も

あったんじゃないかなとかいうことを
考えると

文化大国みたいなものをね

河井は きっと…
あれだけ 学問をした人ですから

考えられることも
あるかもしれませんよね。

だから 我々は 今 本当に

薩長がつくった
中央集権的なもの以外の国家というのを

やっぱり 河井のこの戦いぶりだとか
構想の中から

ようやく考えられる時代に
入ったんじゃないかなとも思いますね。

単純な白と黒ではないことなんですね。
そうですね。

本当に生き延びてほしかったなと
思うんですけどね 私は。

今日は 河井継之助について見てきました。
皆さん ありがとうございました。

色とりどりの高山植物が咲き乱れる
北アルプス 白馬岳。


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