アナザーストーリーズ「マンデラと“ゆるし”~アパルトヘイトとの闘い~」南アフリカの英雄…白人へのゆるしを説き…



出典:『アナザーストーリーズ「マンデラと“ゆるし”~アパルトヘイトとの闘い~」』の番組情報(EPGから引用)


アナザーストーリーズ「マンデラと“ゆるし”~アパルトヘイトとの闘い~」[字]


南アフリカの英雄、ネルソン・マンデラ。長い獄中生活を終えたマンデラは敵だったはずの白人へのゆるしを説き、人々を驚かす。その言葉を口にした理由とは何だったのか。


詳細情報

番組内容

1990年2月、反アパルトヘイト闘争で投獄されていた南アフリカのマンデラが27年ぶりに釈放された!この瞬間を待ち望んでいた黒人たちは歓喜に沸く。しかしマンデラの言葉が彼らを仰天させる!敵だったはずの白人へ“ゆるし”を説き、共に新しい国をつくろうと呼びかけたのだ。なぜ長い獄中生活を経てもそんな言葉を口にできたのか?元看守・囚人らが明かすマンデラの真実。ラグビーW杯での国歌披露に隠された感動秘話も!

出演者

【司会】松嶋菜々子,【語り】濱田岳




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アナザーストーリーズ「マンデラと“ゆるし”~アパルトヘイトとの闘い
  1. マンデラ
  2. 黒人
  3. 南アフリカ
  4. 白人
  5. ブランド
  6. ランガ
  7. 釈放
  8. 囚人
  9. 言葉
  10. メモ
  11. 自分
  12. 合唱団
  13. 投獄
  14. 二人
  15. リーダー
  16. 一緒
  17. 看守
  18. 自由
  19. 大統領
  20. アパルトヘイト


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アパルトヘイトからの夜明け。

それは ネルソン・マンデラの釈放から
始まった。

南アフリカ中の黒人たちは 歓喜に沸いた。

しかし その喜びは
この言葉で戸惑いに変わる。

どよめきが広がった。

なぜ マンデラは
あの日

「ゆるし」を
説いたのか?

♬~

肌の色が白いか そうでないか

それによって
運命が大きく変わりました。

人口の20%にあたる白人は優遇され

高い教育を受けることも
娯楽を楽しむこともできる。

一方 黒人は 住む場所も選べず

常に身分証の携帯を義務づけられ
選挙権もなかったのです。

この理不尽な政策に異を唱えたのが…。

後に南アフリカの大統領となる
この男性

ネルソン・マンデラ。

若い時から
反アパルトヘイト闘争に身を投じました。

しかし…。

その結果 逮捕 収監。

自由を奪われた生活を なんと
27年間も強いられることになるのです。

ファイティングポーズと
鋭いまなざし。

若い頃のマンデラは
闘志むき出しの存在だった。

なぜ 自分たちが自由を奪われ

不当な差別に
耐え続けなくてはならないのか?

白人による黒人支配に
あらがい

過激な武装闘争にも
身を投じた。

しかし 27年の投獄を経て
釈放された時

マンデラは
まるで別人のようになっていた。

この温和な表情を見てほしい。

そして こんなことまで口にした。

その原点は 長い投獄生活にあった。

運命の分岐点は 1990年2月11日

マンデラが釈放された日です。

この日 27年ぶりに自由の身となった
マンデラ。

妻のウィニーと共に
こぶしを高く突き上げ

観衆の前に現れました。

そして 間もなく
あの「ゆるし」のスピーチをします。

なぜ 彼は
27年もの間 自由を奪われながら

そのような言葉を
発することができたのでしょうか。

第1の視点は
獄中のマンデラを最も近くで見ていた…

白人の彼は
マンデラを監視し 労働させる

いわば 「対立」する立場にありましたが

次第に 二人の間には
不思議な交流が生まれます。

肌の色や立場を超えた見えない絆。

知られざる二人のアナザーストーリー。

その沖合12キロに

アパルトヘイト時代
多くの政治犯が送られた監獄島

ロベン島がある。

1978年から
この島でマンデラの看守を務めた…

初めてマンデラと対面した時は 19歳。

恐怖の気持ちしかなかったという。

上官は マンデラがどういう人物なのか
詳しくは教えてくれません。

塀の中で見た
囚人マンデラの素顔とは…。

かつて 多くの政治犯が収監された
黒人専用のロベン島刑務所。

マンデラが投獄されたのは
1964年 45歳の時。

国家反逆罪による
終身刑を言い渡されていた。

ここが…

僅か3畳ほどのスペースに 小さな机と
トイレ代わりのバケツがあるだけ。

ブランドの仕事は

マンデラたち囚人を監視し
過酷な労働に従事させることだった。

マンデラは それに耐え
ただ黙々と働いていました。

ブランドと共に
看守を務めた…

マンデラに対し
上官から

わざと きつくあたるよう
指示されたという。

私の仕事は 毎朝トラックで 彼らを
監獄から作業場まで運ぶことでした。

その際に上司から指示がありました。

デコボコの道をわざと走れ
囚人を楽に座らせるなと。

ブランドたち数人の看守の経験をもとに
製作された映画

「マンデラの名もなき看守」。

囚人たちに厳しくあたる
看守の姿が描かれている。

当時 マンデラと共に
政治犯として収監されていた…

全ての囚人が
服を脱がされることもありました。

所長が「3食抜き」と言ったら
1日 食事がなくなり

3日間ないこともありました。

ブランドには忘れられない思い出がある。

それは 深夜 寒さに震えながら
巡回していた時のことだった。

マンデラが腕立て伏せをしていたんです。

「こんな夜遅くに何をしているんだ?」
と聞くと 彼は…

自分の祖父と同じぐらいの年の男の
その姿を見て

ブランドは
居ても立ってもいられなくなった。

私は規則を破って 毛布を渡しました。

もし上官が来たら 毛布を
窓から外に投げるようにと言いました。

見つかれば マンデラも私も
処罰されてしまうからです。

同情してはならない相手に
つい感情を寄せてしまったブランド。

マンデラは
ブランドの行為をありがたく受け止め

二人だけの秘密にした。

囚人に怒鳴ったり 殴りつけたりね。

そして 二人の距離が一気に縮まる
出来事が起きる。

マンデラの妻 ウィニーが
生まれたばかりの孫を連れて

面会に来たのだ。

赤ん坊を連れてくるのは禁止でした。

しかし 彼女は
「夫に見せたい」と言い張るのです。

私は「ノー」としか言えませんでした。

囚人に子どもを見せるのは禁止。

それを破れば ブランドも罰せられる。

悩みに悩んだ末 彼はある行動に出た。

彼女に
「黒人の赤ん坊を抱いたことがないので

ダッコしてもいいですか?」と聞きました。

赤ん坊を受け取った私は
彼女を面会室に残し

マンデラのいる方へ こっそり行きました。

マンデラが赤ちゃんを抱いた瞬間
私は彼をじっと見ていました。

彼は赤ちゃんにアフリカの言葉で話しかけ
キスしたのです。

その時…

人種や立場の違いを超えて
心が通じ合った瞬間

二人には 言葉は必要なかった。

マンデラは 自伝に こう記している。

そしてマンデラは ある思いに至る。

マンデラたち囚人とブランドの関係は
更に深まっていく。

ある日 海辺で作業をしていると
囚人がアワビを見つけたのです。

私は とることを許可し
彼らと一緒に食べることにしました。

我々看守と囚人たちは 上官の車が
見回りに来るのを警戒していました。

上官が来たら 大急ぎで
料理に使った たき火を消しましたよ。

私は 囚人たちと一緒に
おいしいものを食べたかったんです。

塀の中で芽生え始めた
二人の不思議な信頼関係。

しかし 出会いから4年たった 1982年。

ブランドは
別の刑務所への異動を命じられる。

これで
マンデラとの関係も終わると思われた。

ところが…。

新たな任務地での初仕事として

囚人を港まで迎えに行くよう指示された
ブランド。

そこにいたのは 彼のよく知る人物だった。

船が入港し 囚人が降りてきました。

その中に マンデラがいたのです。

再会できたことに私は驚きました。

このころ 国外では 南アフリカの
アパルトヘイト政策への批判が高まり

マンデラの解放を願う
フリーマンデラ運動が

世界中に広がっていた。

そんな中行われたマンデラの移送。

世界の目を気にした政府が 釈放に備えて
準備したのだと ささやかれた。

18年もの間 ロベン島に収容されていた
マンデラが移送させられたということは

いよいよ釈放が近づいているのだろうと
私は直感的に思いました。

だから私はマンデラに言いました。

「私の経験上
あなたは もうすぐ釈放されるだろう」と。

ブランドの読みどおり

政府は間もなく マンデラに
条件付きの釈放を提案してきた。

その条件とは…

マンデラは この提案を拒否する。

政府関係者は
ブランドに盗聴器を仕掛けたうえで

マンデラの真意を確かめてくるよう
命じた。

その日の朝 私はマンデラに
服に盗聴器が仕掛けられていると

身振りで こっそり伝えました。

私は聞きました 「なぜ釈放を
受け入れなかったのですか?

20年以上も刑務所で もう70歳ですよ」。

マンデラは
盗聴されていることを理解したうえで

ブランドの問いに こう答えた。

彼は 「あなたは正しい。
釈放を受け入れないなんて愚かだ。

でも 黒人の自由が保障されないなら

刑務所で死んだほうがマシだ」
と言ったのです。

盗聴内容を聞いた政府は その晩…

…と発表したのです。

しかし この決断は ますます
南アフリカ政府を追い詰めることになる。

1985年 アメリカが
南アフリカへの経済制裁を実施。

それにヨーロッパ各国も同調したのだ。

1988年 マンデラは

ヴィクター・フェルスター刑務所に
移送される。

マンデラに与えられたのは
刑務所とは名ばかりの広々とした一軒家。

政府関係者と交渉を重ねるために
用意された場所だった。

交渉相手は 時の大統領…

経済制裁が長引く中

もはや選択肢は一つしかなかった。

ついに その時がやって来た。

27年に及ぶ投獄生活からの解放。

マンデラは 71歳になっていた。

歓喜の渦は 南アフリカ全土に広がり
演説会場は 5万人の熱狂に包まれた。

釈放されたあと
マンデラから電話があってね。

「これまで いろいろと良くしてくれて
ありがとう。

あなたのことは忘れない。 これからも
連絡する」と言ってくれましたよ。

しかし誰もが ブランドのように
喜べたわけではなかった。

このあとのマンデラの演説に
どよめきが広がった。

黒人たちにとって その言葉は
「裏切り」とも受け取られた。

釈放後のマンデラを待ち受けていたのは
想像以上の混乱だった。

世界中が固唾をのんで見守った
マンデラの釈放。

しかし それはマンデラにとって
「おわり」ではなく

理想の社会をつくるための
「はじまり」にすぎませんでした。

第2の視点は…。

釈放のニュースを
一人ロンドンの自宅で知り

感動のあまり
泣き崩れてしまったという男。

南アフリカ出身の…

かつて アパルトヘイトとの闘いで
自身も投獄された彼は

その後
マンデラを支える存在になります。

そして マンデラの死後
彼が残したメモを託され

マンデラが書きかけていた自伝を
完成させました。

そこで見たのは
マンデラの知られざる苦悩と

それでも信念を貫き通す不屈の精神。

マンデラの全てを知ることになった男が
解き明かす

自由へのアナザーストーリー。

南アフリカ最大の都市…

この大学には マンデラに関する
貴重な資料が数多く保存されている。

マンデラの調査 研究のため
ここに足しげく通い続けた男がいる。

南アフリカを代表する…

マンデラが新しい国づくりに
まい進した日々の記録。

未完だったものを2年前に完成させた。

執筆にあたり
最も重要だと感じていたこと

それは 彼が残したメモを
一つ一つ読み解くことです。

そこには 私の知らない
マンデラの姿がありました。

作家は 国のリーダーとなった男の
知られざる胸の内を かいま見た。

1950年 アパルトヘイト体制下の
南アフリカで生まれたランガ。

黒人居住区に暮らし 小さい頃から
差別を目の当たりにしてきたランガが

白人たちを憎むようになったのは
当然のことだった。

20代から 反アパルトヘイト闘争に
身を投じ 投獄を経て 南アフリカを脱出。

しかし 亡命先で悲しい知らせを受ける。

南アフリカに残った兄 ベンが
命を落とした。

黒人の活動家を警察に密告したと疑われ

あろうことか
黒人の仲間に殺害されたのだ。

自分を苦しめ続ける
アパルトヘイトへの怒り。

ランガは 亡命先から南アフリカの
黒人たちが立ち上がる その日を待った。

私たちは アパルトヘイトのもとで

とても小さな世界に
閉じ込められていました。

亡命したのは 一人の兵士として
いずれ故郷に戻って闘うためでした。

そんなランガに
待ちに待ったニュースが届いたのは

亡命して14年がたった 1990年の冬。

やっと自分たちの苦しみは
終わると思った。

しかし その後 マンデラが行った
「ゆるし」のスピーチは

数多くの黒人を落胆させた。

マンデラより一足早く
監獄から釈放されていたモーゼスも

その言葉に ぼう然とした。

マンデラの言葉を受け入れることが
できない黒人が たくさんいました。

家族や社会から切り離され

何年も投獄されたり
差別を受けてきた人たちにとって

白人は 簡単に許すことはできない
憎しみの対象だったからです。

マンデラの釈放後
南アフリカは大混乱に陥った。

報復を恐れた白人と黒人との溝は
深まるばかり。

一方 黒人たちの間でも 部族対立や

主張の異なる黒人同士の殺し合いが
頻発していた。

そんなさなか
国を揺るがす重大な事件が起きる。

マンデラの後継者として有力視されていた
若きリーダー クリス・ハーニが

1993年 白人によって
殺されたのだ。

クリス・ハーニが殺害された時
私はロンドンにいました。

急ぎ 南アフリカに帰国すると
すぐに不穏な空気を感じました。

(ランガ)国中が報復の激しい怒りで
燃え上がっていたのです。

その怒りは
特に若者を中心に広がっていました。

彼らは クリス・ハーニの殺害の恨みを
晴らすため

あちこちに火をつけ
街を破壊しようとしていました。

黒人たちの怒りは 頂点に達した。

ところが この時 マンデラが
人々に語りかけたのは

またもや 「ゆるしと和解」だった。

黒人たちは リーダーの言葉に
こぶしをおろすしかなかった。

あの時は釈然としなかったモーゼス。

今 マンデラは正しかったと感じている。

もし あの時
私たち黒人が許さなかったら…

アンゴラ コンゴ モザンビークなどが
たどったのと同じ道を歩かないことを

あの時 私たちは決心したんです。

翌年 南アフリカで 全人種が参加する
選挙が初めて実施され マンデラは…

その後も「ゆるしと和解」を説き続けた。

マンデラは「真実和解委員会」を立ち上げ

アパルトヘイト時代に起きた犯罪や
暴力を明らかにしようと試みた。

この時 国中を驚かせたのは

白人への懲罰や復讐を目的にしないと
明言したことだった。

ランガは 当時
新聞に こんなコメントを寄せている。

真実和解委員会は 黒人にとって
あまりにつらいものだと指摘した。

私は記事で
真実和解委員会の取り組みが

多くの国民に理解されていないと
批判しました。

それを読んだマンデラに呼び出されて
どうしたら委員会が良いものになるのか

多くの国民に訴えかけるには
どうすべきかを

話し合うことになったのです。

マンデラのもとを訪れたランガ。

しかし 意外な言葉をかけられる。

マンデラは 無実だった兄の死について
お悔やみの言葉をかけてくれました。

彼は この事件は 私たち黒人にとって

最も恥ずべきことだとまで
言ってくれたんです。

驚くべきことに マンデラは

アパルトヘイト時代に起きた
理不尽な事件を一つ一つ調べ

誰がどのような経緯で亡くなったのか
つぶさに把握していたのだ。

この一件以降 ランガはマンデラと
何度も会うようになり

国の将来に向けて
率直に意見を交換する仲になっていった。

2013年 生涯にわたって 「ゆるしと和解」を
説いたマンデラが亡くなった。

国中が 悲嘆に暮れる中

彼が書きかけていた自伝を
完成させてほしいとの依頼が

ランガに舞い込む。

こうして マンデラが残したメモを
読むことになったランガ。

マンデラが理想を説き続けた裏で 多くの
苦悩を抱えていたことを知ることとなる。

例えば 閣僚人事をどうするか?

マンデラが残したメモには
こう記されていた。

メモには 試行錯誤して選び抜いた
多様な人物の名が連なっていた。

マンデラは 対立する政党や

かつて自分たちを弾圧した白人政党からも
大臣を起用した。

更に アパルトヘイト時代の大統領
デクラークを副大統領に指名したのだ。

マンデラは 内閣に 可能な限り

さまざまな背景を持つ人を
集めようとしました。

それが人々の敵意を取り除くための
彼の戦略でもありました。

白人に譲歩しすぎだと
黒人からの抵抗や反対もありました。

しかし 彼を信じない勢力こそ
内閣に取り込み

支えてもらった方がよいと考えたのです。
野党になって攻撃されるよりはね。

ランガには疑問があった。

あの…

ランガは それを
マンデラの筆跡から読み解いた。

ランガは 2つのメモに注目した。

一つは 投獄される前に書いた
裁判中のメモ。

もう一つは ロベン島の獄中で書いた
同志への手紙。

明らかに 筆跡が違う。

投獄前のメモは とても荒っぽく
殴り書きのように書かれていますよね。

でも こちらのメモを見て下さい。
別人のようでしょ。

じっくり考えながら書かれています。

収監される前の若いマンデラは
とても威勢がよくて短気だったそうです。

議論する時 相手の胸ぐらをつかむぐらい
感情的になることもありました。

しかし…

更にランガは マンデラが獄中で

たくさんの歴史書を読んでいた事実を
突き止める。

彼が獄中で数多くの他の国の歴史を
学んでいたことを知り 驚きました。

過去のリーダーたちが犯した間違いを

アパルトヘイト撤廃後の南アフリカが
繰り返さないよう

懸命に勉強していたのです。

また インドやフィリピンでの
支配の歴史

南アフリカを支配した人たちについても
勉強していました。

そこから…

それは私にとって
とても興味深いことでした。

長い獄中生活での学びが マンデラを

「ゆるしと和解」に導いたのではないかと
ランガは考えている。

マンデラと共に投獄されていたモーゼス。

大統領就任の翌年 他の囚人たちと共に
ロベン島でマンデラと再会を果たす。

その時 マンデラは 私たちに言いました。

残念ながら いまだに一部の人たちは
憎しみや恨みを克服できないでいます。

当時 南アフリカ中にあふれていた
暴力の連鎖を断ち切るため

彼は冷静に しかし熱く
国民に訴えかけていました。

その振る舞いは この新しい国を治める
リーダーとしてふさわしいものでしたよ。

今 世界を見渡しても 彼のように
あらゆる指導者と

分け隔てなく話ができるリーダーは
いませんよね。

南アフリカ初の黒人大統領となり

差別のない 平等な社会の実現に
その生涯をささげたマンデラ。

その生きざまは 多くの人に
勇気と希望を与えました。

第3の視点は そんなマンデラの
スピリットを受け継いだ兄弟…

アパルトヘイトが残っていた少年時代

白人だけの少年合唱団に
飛び込んでいった二人は

度々 マンデラの前で歌声を披露します。

そして 南アフリカを一つに結ぶ
感動の瞬間に立ち会うことになるのです。

マンデラが切り開いた未来を生きる
若き兄弟のアナザーストーリー。

♬~

南アフリカを代表する
国民的アーティスト。

…の兄弟。

少年時代 彼らは勇気づけられた。

世界中で歌われた
このマンデラ解放を願う曲に。

この歌を聴いた時 「何だ これは!
全てが ここに詰まっている」と

衝撃を受けたんだ。

まさに「ワオ!」って感じでね。

感動的だった。

あの曲は僕たちに
未来へ踏み出す力をくれたんだ。

そして マンデラの存在は
音楽を志す彼らを後押しした。

南アフリカの…

ウィーン少年合唱団と肩を並べる
世界的に有名なコーラスグループだ。

現在 さまざまな人種のメンバーがいる
この合唱団は

「虹の国の希望の歌声」と称されている。

しかし 1967年の設立以来
長らく白人のメンバーだけで構成され

アパルトヘイト体制下の白人文化を
象徴する存在でもあった。

もともと歌が大好きだったズワイは
自分が黒人であることを伏せ

オーディションへテープを送った。

すると一次審査に合格し
審査員が訪ねてきた。

そこで 審査員は初めて僕を見て
「あっ 黒人なんだ」と気付いたんだ。

肌の色は声には出ないし
履歴書もなかったから。

でも 当時の音楽監督が
僕の才能を見抜いて

是非来てくれと言ってくれたんだ。

もちろん 白人の親たちの中には

「うちの子どもを
黒人と一緒に歌わせるなんて

絶対に許さない」という人もいたよ。

1988年 白人だけの合唱団に
初めて入団したズワイ。

しかし 待ち受けていたのは
あからさまな差別だった。

黒人と白人が同じ場所にいること自体
誰も慣れていなかったから

膝を擦りむいて血がにじんでるのを見て…

合唱団で整列した時
誰も僕の横に並んでくれなくてさ。

みんな黒人の隣になんて
立ちたくなかったんだろうね。

でも…

ズワイが入団した2年後
弟のロイソも兄に続き入団。

その年 マンデラが釈放される。

そして 彼らとマンデラは
不思議な縁で結ばれていく。

最初の出会いは 大統領就任翌年の1995年。

合唱団の視察にマンデラが訪れた。

少年たちと一緒に軽快に踊る大統領。

♬~

マンデラは コンサートの
特別ゲストとして招待されていた。

終了後 彼は僕のところへ来て
握手をしてくれた。

そして 僕たちアフリカの言葉で
「こんにちは」と言ったんだ。

マンデラは 白人と黒人の少年たちが
一緒に歌うことに

大きな希望を感じていた。

あとになって マンデラの
ボディーガードが僕に話しかけてきた。

「知らないだろうけど
マンデラが視察に行ったのは

君たちに会うためだったんだ」ってね。

世界的に有名な合唱団へ初めて入った黒人
その僕らに会いに来てくれたんだ。

これは僕にとって光栄なことだった。

そして同じ年 合唱団は
大統領から重要な役割を任されることに。

1995年 南アフリカで
初めて開催されることになった

ラグビーワールドカップ。

当時 ラグビーは
白人を象徴するスポーツで

黒人の間では さほど人気がなかった。

しかし 黒人選手もいる代表チームが
勝ち進み

国民が みんなで応援すれば
南アフリカは一つになれる。

マンデラは 更にそこで
新生南アフリカを象徴する

新しい国歌を披露しようと考えた。

それまでの白人政権の国歌に

黒人たちのアパルトヘイト解放の歌を
融合したものだった。

その様子は
映画「インビクタス」でも描かれている。

黒人の歌が国歌に盛り込まれることに
最初は戸惑った選手たち。

しかし…。

そして迎えた ラグビーワールドカップ。

これが 実際の開幕戦の映像。

♬~

ロイソも合唱団の一員として
新しい国歌をスタジアムで歌った。

♬~

♬~(「神よ、アフリカに祝福を」)

何がすごいって この曲は昔
ひっそりとしか歌えなかったんだ。

1995年 僕は それをもう
こそこそ歌う必要はなかった。

巨大なスタジアムで歌って
テレビ中継で 世界中の人々が

僕たちの歌を聴いた。

しかも 黒人だけでなく
白人や 他の人種の人も一緒に歌った。

あの瞬間 確信したんだ…

その後 兄弟は
2006年に三男のフェロを加えて

プロのミュージシャンになる。

♬~

その初舞台にも 彼らのヒーロー
マンデラの姿が。

♬~

マンデラが会場に入ってきた時
誰もが自然に立ち上がったんだ。

あっ 大統領が入ってきた
という感じではなく

僕らのマンデラが現れた
っていう感じでね。

僕も マンデラとの特別な絆を意識したよ。

マンデラは いつも自分たちに
力と希望を与えてくれた。

争いが絶えず 世界でも そして日本でも

ヘイトや分断が まん延しています。

多様な人々と共存し
平和な社会を構築する

そんな当たり前のことを
私たちは 今も なしえていません。

マンデラの言葉が私たちに語りかけます。

マンデラが この世を去って6年。

南アフリカでは 今も
白人と黒人との間の格差が広がっている。

そんな中 人々が思い出すのは
陽気に踊るマンデラの姿。

彼の愛称 マディバにちなみ…

…と呼ばれている。

まるで背中に ねじのついた
ぜんまい仕掛けの人形みたいなんだよね。

マンデラは こんな感じで踊りだすんだよ。

ロベン島にいた時も
彼は こんな感じで踊っていたよ。

つらい時も 希望を捨てることなく
常に前を見続けたマンデラ。

♬~

現在 ズワイは
刑務所時代のマンデラをモチーフにした

新曲の制作にあたっている。

自分に語りかけているような
イメージなんだ。

歌ってみるよ。

♬~


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