先人たちの底力 知恵泉 事を成す生き方とは?捨ててこそ 得られる~山岡鉄舟・西郷隆盛を説得し、江戸城無血開城へ…



出典:『先人たちの底力 知恵泉▽事を成す生き方とは?捨ててこそ 得られる~山岡鉄舟』の番組情報(EPGから引用)


先人たちの底力 知恵泉▽事を成す生き方とは?捨ててこそ 得られる~山岡鉄舟[解][字]


幕末、激動の時代に活躍した人物から、事を成すための知恵を2週にわたって探る。今回は、西郷隆盛を説得し、江戸城無血開城へ導いた陰の功労者、山岡鉄舟の生き方に迫る。


詳細情報

番組内容

江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の会談によってなされたとされているが、その会談のお膳立てをし、成功に導いた隠れた功労者として、近年注目されているのが幕臣・山岡鉄舟だ。江戸総攻撃を決意し迫り来る官軍。その敵陣を単身突破し、捨て身で敵将西郷のもとに飛びこみ、堂々と渡り合った山岡。後に西郷に「命も名も官位も金も要らぬ人にはかなわない」と言わしめた山岡。事を成すための極意、知恵を、その生き方から探る。

出演者

【出演】武道家…甲野善紀,藤本隆宏,東洋大学教授…岩下哲典,【司会】新井秀和




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先人たちの底力 知恵泉 事を成す生き方とは?捨ててこそ 得られる
  1. 山岡
  2. 自分
  3. 西郷
  4. 山岡鉄舟
  5. 天皇
  6. 慶喜
  7. 仕事
  8. 侍従
  9. 徳川家
  10. 鍛錬
  11. 鉄舟
  12. 甲野
  13. 今日
  14. 新政府軍
  15. 藤本
  16. 知恵
  17. 臨機応変
  18. キロ
  19. 交渉
  20. 攻撃


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すぐに結果を求められる時代。

でも コツコツやるのが
近道ってこと ありますよね。

大きな仕事 事を成すには
どうしたらよいのでしょうか?

現代にも通じる そのヒントが

偉業を達成した
先人たちの生き方にはあります。

そこで 幕末 維新の激動期に活躍した

山岡鉄舟と桂 小五郎
後の木戸孝允の人生に

2回にわたって迫ります。

今回は 山岡鉄舟。

西郷隆盛率いる新政府軍が

徳川慶喜追討のために
江戸総攻撃を始めようとしていました。

しかし 西郷と
旧幕府軍の勝 海舟との和平交渉を経て

攻撃されずに 江戸城が明け渡される

この…

これまで 西郷と勝の
2人にスポットライトが当てられ

広く知られてきましたが…。

しかし 実は 大きな役割を果たしたのは

旗本の山岡鉄舟だったとする解釈が
近年 注目されています。

主君 徳川慶喜を救うため
西郷を説得し

あらかじめ 攻撃しない約束を
取り付けたのが山岡でした。

その事前交渉によって
突破口を開いたからこそ

西郷と勝の会談が成立したのです。

山岡は 書と剣
そして 禅に打ち込み

鍛錬を重ねることで
不測の事態にも動じない

心をつくりました。

日々 自分を磨き 大仕事を成し遂げた
山岡鉄舟の知恵を読み解く

今回の仕事人は…。

はい!

武術の研究と指導を通して
効率的な体の使い方を提唱しています。

スポーツや楽器演奏 介護の分野にも応用。

無駄な力や動きを省き
疲れにくい方法など

独自の理論が関心を集めています。

甲野さんは 自然と共に生きたいと
大学で畜産を学びますが

効率を最優先する
現代的な畜産業に失望し 断念。

そして 人間と自然を探求するため

武術の道を究めようとしました。

それ以来 徹底的に武術の鍛錬を重ね

技と心を磨いています。

そんな甲野さんは
山岡鉄舟の本を読んで以来

その生き方に共鳴し 尊敬してきました。

甲野さんは 山岡の 事を成す知恵を
どう読み解くのでしょうか。

藤本さんは
何と言っても「大河ドラマ」で

山岡鉄舟を演じられていますから
思い入れも あるんじゃないですか?

そうですね 「西郷どん」という
「大河ドラマ」で

鉄舟を演じさせて頂いたんです。
でも 実は あんまり知らなくて…

それまで役を頂くまでは。
でも 演じることが決まったら

鉄舟ファンが とにかく たくさんいて

「あっ いいね」
そういうことを たくさん頂いて。

で 調べていくと やっぱり…

今ね 役者としての お話が出ましたが

何と言っても その前は
オリンピックにも出られていたという

水泳の選手でもいらっしゃった
わけですけれども どうですか?

そのころと今と まあ 通して
大きな仕事に臨む時に

心がけていることとかって
あるんですか?

オリンピックなんか特に4年に1回ですし
やっぱり 練習をして鍛錬をして

臨むっていうことが
一番なのかなと思ってます。

何か 今日の話に通じるところが
多くありそうですね。

そんな山岡鉄舟に お詳しいお客さんが
今日 実は横にいらっしゃってですね。

こちらの岩下哲典さんなんですけれども
東洋大学の教授で

幕末の研究をされていらっしゃって
鉄舟にも 非常にお詳しいということでね。

今日は よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

でも 江戸無血開城の功労者は
勝 海舟と西郷隆盛ではなくて

山岡鉄舟ってことなんですか?
そうなんですよ。

やっぱり その前の…

なぜ そうなってないのかがね

非常に不思議なところでは
あるんですけど 今日 そこの辺りをね

解明していったらいいかな
なんて思うんですけど。

そうですね。                楽しみです。
こんばんは。

あっ いらっしゃいました。
いらっしゃいませ お待ちしておりました。

甲野善紀さんです。

何か ちょっと空気がピリッとしますね。

どうぞ どうぞ お掛け下さい。
いらっしゃいませ。

はじめまして よろしくお願いいたします。
よろしく どうぞ。

甲野さんは 山岡鉄舟 かなり
お好きというふうに伺いましたけれども。

まあ 私が よく
中学とか高校の時 戦時中の…

この番組からオファーが来た時に
もう びっくりしましたね。

そう言って頂けると…。
(笑い声)

さあ そんな山岡鉄舟を
今日は見ていこうと思うんですけれども

今夜 用意しました
おすすめメニューが こちらでございます。

えっ 何ですか?

(笑い声)

笑って頂いて ありがとうございます。
鍛えたレバーなんですね。

そうなんです。 もうね
鍛錬っていうイメージでしたので

鍛えレバ レバニラ炒め。
やっぱり 鉄舟さん。

ええ 鉄舟ですから 鉄分多めで。
はい。

あっ 甲野さんも笑って頂いて
私は ちょっとホッとしました。

ということで 何を鍛えて
どう ひと味違うのか。

その山岡鉄舟 まずは こちらの知恵から
ご覧頂きましょう。

1836年 江戸で財務の管理を担う
旗本の家に生まれた山岡。

幼い頃の山岡は 物覚えがよくない
少年だったといいます。

「論語」をはじめとする四書五経を
声に出して覚えるのが習いだった当時。

山岡は ほかの子のように覚えられず

本をまるまる振り仮名付きで
書き写してから読んで 覚えていました。

納得するまで とことん努力する
少年だったのです。

その人格を形成したのは
父の勧めで始めた

書と剣 禅の修行。

そのすさまじい鍛錬は
周りの者と比較にならないほどの

打ち込みようでした。

まず 幼い頃に始めた書については

手本を書き写すことでは満足できず

文字の意味を心から理解して
表現するようになります。

生涯で書いた数は
100万点近くにも及ぶといわれます。

字と自分が一体となり
心を映したような書体です。

北辰一刀流を学んだ剣術は

道端で稽古の音を耳にする度
他流試合を申し込み

一日に 200試合をこなしたことも。

稽古では 相手を骨折させてしまい

いくつかの技が禁止されてしまうほどの
すさまじさ。

付いた あだ名は…

腕前を認められ 21歳の時には
幕府の武術学校の教師を任されます。

更に
毎日 深夜2時まで座禅を組む。

「武士たるものは
いつ死を迎えても

うろたえないように」というのが
父の教えでした。

明治16年に山岡が建てた寺 全生庵。

長年 山岡の研究をしてきた
住職の平井正修さんです。

平井さんは
山岡が積み重ねてきた鍛錬が

集中力を養うのに
役立ったのではないかと言います。

全てのものは 結局のところ…

(砲声)

山岡 33歳の時
薩摩藩を中心とした新政府軍は

天皇を擁し 旧幕府軍と京都の南で激突。

これが…

錦の御旗を掲げた西郷が主導する

新政府軍が勝利を収めます。

この時
旧幕府軍を率いていた徳川慶喜は

大坂から江戸へと逃げ戻りました。

しかし 新政府軍は
容赦なく それを追って進軍します。

将軍職を辞したとはいえ
慶喜を筆頭とする徳川

旧幕府勢力との決戦を期した新政府軍は

駿府 今の静岡市にまで到達。

それに対し 徳川家を守る
陸軍総裁 勝 海舟は

江戸の町じゅうを焼き
攻撃を中止させる

焦土作戦まで考えていたと
日記に記しています。

この緊急事態に
徳川慶喜は謹慎し 恭順。

すなわち 抵抗せず従うことを決意。

その意向を伝え
攻撃をやめさせるために

交渉役として推挙されたのが
山岡だったのです。

山岡は 臣下として
主君 慶喜の命と徳川家を

守り抜かなければなりません。

しかし
交渉は 決して簡単ではありません。

ですから まあ 言ってみれば…

万策尽きる中で
大役を任された山岡ですが

大仕事を成し遂げるには
どんな知恵があったのでしょう?

当時 徳川家の命運を背負うほどの
地位があるわけでもない

一人の旗本だった山岡。

新政府軍の参謀である西郷が

まともに 相手にしてくれるはずも
ありません。

そこで山岡は
陸軍総裁 勝 海舟のもとへ行き

慶喜の恭順が示され
山岡の紹介状を兼ねた

手紙を受け取ります。

その時 勝から こう尋ねられます。

すると山岡は…。

臨機応変に
対処するとした上で

斬るなり縛るなりされても

考えだけは伝えさてもらうと
口にしました。

その臨機応変という心構えに
勝は 感心したと言っています。

じゃなくて 頭に描いても それは所詮…

ですから ある意味…

こだわりを捨て
目の前の現実に集中する。

それが 臨機応変に
対応することなのです。

西郷のもとへ向かう道中
銃を持った敵陣に遭遇します。

そこで山岡がとった行動とは…。

なんと 「徳川慶喜の家来
山岡鉄舟 通る」と大声で断り

意表をつかれた敵陣を
突破します。

そんな状況でも
臨機応変に対応できたのは

日頃の鍛錬のたまものでした。

そして ついに
駿府にいる西郷のもとに たどりつき

面会を果たします。

対峙した2人は
やがて激論を交わします。

山岡が 慶喜が謹慎し
恭順に うそはないことを伝えると

西郷は 攻撃をしない条件を提示しました。

後に 山岡が記したところによると
その条件は 次の5つです。

それに対し 山岡は

武装解除を求める
条件については

すぐに承服します。

しかし 唯一 徳川慶喜を

備前 つまり岡山藩に預ける
という

最も重要な条件だけは
承服しません。

山岡ら臣下の使命は
主君の命を守ることであり

岡山藩へ預けることは
命の保証はないと判断したのです。

しかし 徳川家の存続を断ちたい
新政府軍の西郷は

天皇の命令だとして
聞き入れようとしません。

朝命でごわす。

承服いたしかねる。

朝命でごわす。

最後に山岡は こう言って詰め寄ります。

山岡の主君への忠義 武士の矜持が
西郷を変えました。

慶喜の命を保証する約束を
取り付けたのです。

この交渉によって
4日後の西郷と勝との会談が行われ…

息詰まる議論が終わると

西郷は 命を懸けて交渉にやって来た
山岡をねぎらい 酒を勧めました。

後に西郷は 勝に山岡のことを
こう語りました。

山岡の捨て身の交渉が
江戸を戦火から救ったのです。

その… 山岡が 西郷に信頼されたのは
なぜなんですか?

もともと
相手の懐に飛び込むっていうのは

西郷のお家芸なんですよ。

第一次長州戦争の時に
単身 岩国に乗り込んでいって

交渉をまとめる。 で 戦争は
それで なくなったわけですよね。

だから言ってみれば 逆に今度は西郷が
山岡に飛び込んでこられたんですよね。

そうすると「いや この男は
俺と おんなじだ」っていうですね

何か こう鏡を見るみたいに
自分と同じものを見たんですよ。

なるほど。

そうすると 敵味方よりも
こういう人に会いたかったっていうのが

お互い あったと思うんですよ。
はい だと思います。

でも どうなんですか? あの時
もし 慶喜が備前に預けられていたら

ねえ? どうなっちゃっていたんだろうと。

備前の殿様は 慶喜さんの弟なんですよ。
ほうほう…。

これ だから 新政府 ずるいんですよね。

要するに 弟に預けるなら いいじゃないか
ということですけど

実は これはね 罠です。
罠だったんですね。        ええ。

つまり 他藩ですから
ほかの藩っていうのは

もう 日本にいる在外公館
大使館とか領事館と一緒ですから

中に入ってしまえば
その藩の法律が全てなんですよね。

旧幕臣たち あるいは旗本たちの
その いくら慶喜さんを守ろうとしても

絶対に守れないです。
それを預けずに済んだというのは

大きなことだったわけですよね。
もう殺されても文句言えないですから。

そういうことなんですね。
ええ。

そして 知恵が「こだわりを捨てて
心を自由にせよ!」でしたけれども

甲野さんは 実際どうですか?

それは やっぱり 武術で一番…

何て言うか
相矛盾しているようなところを

求めるようなもんですから
やっぱり そこは本当に難しいですけど

まあ 多少なりとも 割と最近は
前に比べれば できてきたかな

というところがあって。 もし よかったら
ちょっと やってみましょうか。

何をするんですか?
えっ? 藤本さんと?  私が…。

じゃ ちょっと じゃあ。   戦うんですか?
戦うんじゃないですよね?

例えば こう しっかり
私の手を持って頂いて。    ここですか?

ガッチリ。 私が こう下にやりますから
やらせないように。  上にですね 私がね。

甲野さんは 固定された腕を
下に動かそうとします。

でも 藤本さんに押さえつけられ
どうしても動きません。

ところが 不思議なことに
こだわりを捨てると…。

これで こう
持たれてるの 嫌じゃないですか。

そういうことを されてると
思ってないというか

その このこだわりを 持たれてる…

もう このまま ただ こうなるだけです。

あれ?
えっ 今 何が違うんですか? これ。

しっかりと押さえたはずなのに
意表をつかれた藤本さんは 思わず!?

藤本さん どうですか? 何か違います?
何でしょう…。 何か…

つまり これは手がかりが
こう あるんですよね。

だから 私は…。 押さえられる
っていうのは 先読みなんです。

どうぞ 本気で押さえて下さい。

つまり やろうとするのに
先回りしてるんです。

ところが 私が そういう…

ああやろう こうやろう 自分は
なんとか ここから抜け出そうとか。

ただ何気なく
このまま こういうふうに行けば

持ってられないです。
え~!

臨機応変に対応するには

まず こだわりを捨て
心を無にしなければならないといいます。

山岡鉄舟も その いざっていう時には
心を無にしてたっていう。

日本の剣術は 一刀流だけに限らず…

藤本さん ちょっと近いんじゃ
ないのかなって思うのは

水泳選手だった頃って
たくさん練習もされて

何て言うか ちょっと こうね 鍛錬をして。

実際 その大会の時には
どういう気持ちで臨むのかなっていう。

一度 日本記録を出した試合が
あったんですけれども

そういう時って やっぱり
何か不思議な感じというか。

ゾーンとかフローとかいう あれですよね。
そういうフローに入るっていう。

それは 自分で そうしようとかって
何か思いはあったんですか?

いや 全くなかったですね。 ちょうど
オリンピックの選考会があった次の週に

そのアジア選手権っていう試合が
あったんですけど

「もう選考会も終わったし
あとは リラックスして泳げばいいや」

と思って泳いだら
もう全然いい記録が出てしまった

ということですね。
不思議ですね 今考えても。

昔は そのようにゴールして
自分の脈拍が 200ぐらい上がるのが理想。

でも 今は水泳界も変わってきて
いかに 力を抜くかということで

疲れない泳ぎを目指して
選手たちは練習してるみたいですね。

要するに 力を入れてしまうと
自分の体が 50キロあったら

50キロで水に沈んでしまう。
でも 力を抜いて たくさん酸素を吸って

体を浮かせてあげれば それが 50キロが
20キロになったり 10キロになるから

ちょっとの力で
進むことができるってことで

できるだけ肩の力を抜いて
泳ぐっていうのが 今のスポーツの流れ

水泳の流れになってるみたいです。
その水泳の世界でも

ようやく そういうね
考えに たどりついたのが

昔は 山岡鉄舟が
もう それを普通にやってたっていう…。

鉄舟の場合は…

自分じゃない自分が現れてくるようなのを
出そうとしたんじゃないですか。

どんどん ダメな稽古を繰り返していたら
どんどん ダメになりますから。

さあ そんな山岡なんですけれども

徳川家を存続させる貢献を
したわけなんですが

その後も
試練が待っているわけなんですね。

江戸無血開城のあと 明治となり

新政府によって 徳川家は
静岡藩に移されることになりました。

そして 旗本知行地を含めると
650万石だった石高は

70万石に減らされ

9割もの人員削減を迫られたのです。

旧幕臣たちは
無収入で静岡に移住した者も多く

2, 800人余りが
先の見込みがないままだったのです。

山岡も徳川家の静岡藩に渡り

現在の副知事にあたる
行政官の幹部に任命されます。

藩の行政を管理する山岡の任務は

同じ徳川家の一員として
旧幕臣たちを見捨てず…

この空前のリストラ問題という
大変な仕事を前に

行政官として
山岡は どう向き合ったのでしょうか?

山岡の言葉に…

自分の意に沿わない

自分の力では
どうしようもないことも
受け入れ

そこからは自分次第
という意味です。

山岡は
さまざまな仕事を任されましたが

そのつど この哲学を実践しました。

山岡にまつわる品々を所蔵し 研究する

全生庵の住職 平井さんは こう話します。

よく まあ 我々の言葉で…

山岡は 無収入となった移住者たちを救う
という困難な役目を まずは受け入れ

仕事を生み出す 藩の事業をけん引します。

着目したのは 誰も見向きもしなかった…

およそ1, 500ヘクタールと
広大な この土地を生かして

事業を立ち上げられないものか。

山岡が出した答えは…

当時 アメリカを中心に
欧米で急激に人気となり

生糸に次ぐ輸出量があった茶の栽培を
事業化することに賭けたのです。

山岡は 古くから親交のあった
行政官仲間と協力し

近くを流れる大井川の水路調査で

牧之原台地まで踏査させました。

そして 荒れ地を開墾するため

職を失った240人余りの士族が入植します。

木を切り 草を刈り 土を耕し 種をまく。

士族にとっては 初めて経験するほどの
重労働だったことでしょう。

それでも地道に苦労を重ね

やがて牧之原は 日本屈指の茶の産地へと
発展していくのです。

山岡は 徳川家と家臣にとっての危機を
行政官として切り盛りし

脱出させました。

その2年後に廃藩置県が行われると

静岡での手腕を認められた山岡は
頼まれるままに 各地を駆け回ります。

ある時は 茨城県の参事に就任。

また ある時は 伊万里県の権令
今で言う 佐賀県知事を任されました。

ついには あの西郷隆盛から
意外な仕事を依頼されるのです。

なんと 21歳の明治天皇の侍従として

教育係を務めてほしい
というものでした。

西郷らが重要視したのは
若い明治天皇を

新国家の強いリーダーとして
育成すること。

そのために 武士道精神を
体現するかのような山岡に

白羽の矢が立ったのです。

山岡は この仕事も受け入れます。

山岡から伝え聞いた話をまとめた
「鉄舟居士の真面目」によると

若き明治天皇と山岡の関係を表した
こんなエピソードがあります。

それは 晩さんの席に
山岡ら侍従が仕えていた時のことです。

杯を手に 天皇が一人の侍従に

日本も これからは
法律で治めなければならないと言います。

日本も法治国家として近代化し

国際社会の仲間入りを果たそうとする
時代の中での発言です。

かしこまる侍従に 天皇が意見を求めると
侍従は

国家を治める大本は
道徳にあると答えます。

すると天皇は
それは昔のことだと言い放ちます。

そして いきなり 天皇が山岡に

相撲を一番取ろうと迫ります。

しかし 畏れ多いと拒む山岡は
びくともしません。

業を煮やした天皇は ついに
拳で目をつこうと飛びかかります。

それを山岡がかわすと
天皇は 前のめりに倒れてしまいます。

しばらくして 謝罪を求める侍従に
山岡は こう話します。

それまでも 酒と相撲を好む天皇が

侍従たちを投げることが
度々あったのです。

山岡は 侍従たちが
わざと負けるのは 武士道に反すると

苦々しく思っていました。

仕事を引き受けたからには
偽りの心で接することができない。

山岡の誠意は
若い天皇に伝わったのでしょうか。

まして その国家…。

その後 天皇は
自分が悪かったと山岡に伝えるよう

侍従に命じます。

更に これから先
相撲と酒はやめると決意を伝えると

それを聞いた山岡は 感激しました。

この出来事の責任を取って
山岡は 天皇のもとへ出仕せず

自ら謹慎します。

1か月後 天皇に促され出仕した山岡は
ぶどう酒を献上すると

天皇は
「もう飲んで良いのか?」と聞き

味わいました。

互いに許し
信頼で結ばれた瞬間だったのです。

その後 45歳の時
自らの流派 無刀流の剣術道場を開くと

山岡の剣道観や人格に共感した
入門者が集まり 栄えます。

人から期待され
任された仕事は まずは受け入れ

自分の活躍できる場をつくった 山岡。

しかし やがて病魔が襲います。

胃がんを患い 死を悟った山岡は
座禅を組んだまま永眠しました。

死ぬ時まで日々の行いを続け
自分のスタイルを貫いたのです。

葬儀には 貴族や路上生活者など

交流のあった さまざまな人々
およそ5, 000人が詰めかけました。

中には 後を追おうとする
門人までいたというほど

その人柄が しのばれたのです。

とにかく 山岡鉄舟っていう人は

いろいろ 忖度して…

誰からも慕われていた方なんですね。
相手が どんな みすぼらしくても

ものすごい丁寧に挨拶したって
いいますからね。        そうですか。

ええ。 決して見た目で
差別したりしない人だったっていう。

葬儀の時は ものすごく そういう…

あれぐらい さまざまな階層の人たちが
来たことはないと。

やっぱり 優しい人ですからね。
自分を運んでて苦労してる

人力車の車夫が年老いていたら
いきなり その車夫を抱えて乗せて

自分で引いて 自分の屋敷まで来て
飯を食わせたとかいう

そういう話があるくらいで。

なかなか 今の教育では こういう人は
出ないなと 本当 思いますよね。

鉄舟は 何が違ったんですかね?

やっぱり 誰でも それは
納得する生き方をしたいとは

思ってると思うんですけどね
その納得が 金もうけだったり

あれだったりっていうのと
まあ 違うということなんでしょうけど。

でもね 先ほど ちょっと明治天皇のお話も
ありましたけれども

岩下さん どうですか? 相撲の誘いに
乗らなかったといいますか 何て言うか

あの時の 山岡の対応っていうのは
これ どうご覧になります?

君主は君主であるべきだし
臣下は臣下であるべきで

そこの一線は
越えてはいけないんだっていうのが

まあ 山岡の教えじゃないかなって
私は そこから ちょっと類推…。

山岡らしいですよね。
やったら 負けるはずはないですから。

負けるはずはない だからといって
勝つわけにもいかないし

だから 絶対やらなかったっていう。

で 知恵が「まずは受け入れ

自分の活躍する場をつくれ!」
っていうことでしたけれども

藤本さん どうですか?
今 俳優として いろんな役が

オファーがあると思うんですけれども。
そうですね いい役も悪い役も。

何て言うんですか
思いも寄らない役とか

ちょっと
「こんな役 来たか」とかっていうものも

あったりするのか ないのかって
ところなんですけど。

何か
全てプラスに捉えるじゃないですけど

いい役も悪い役も 何か やって
絶対 自分の経験になるので。

見てくれてる人は
やっぱり いるなとは感じますね。

それを見て オファー頂くことも
結構 多かったんで。

何でも嫌がらずに
ちゃんと やろうと思ってます。

そんなオリンピックまで
出られたような方で

ここまで本格的に俳優されてる方って
ほかに ちょっと

いらっしゃらないんじゃないですか?
ああ そうですかね? どうですかね。

でも 逆に…

メダルを目指して
ずっと やってきたんですけど。

半分 悔しさもあったりしたので

全部 それを捨てることができた
じゃないですけれども…。

どうでしょう 最後に 事を成す極意って
どうご覧になりますか?

いや もうまさに 本当に
臨機応変そのものじゃないですかね。

いろいろ心配性で ああだこうだって…

そういう訓練ができるかっていうことが
大事じゃないですかね。

自分を無にするっていうことをね
今日 いろいろ お聞きして

まあ 「江戸無血開城は山岡だ!」って
言うこと自体がね 実は 鉄舟さんから

「お前 そんなことばっかり言ってちゃ
ダメだよ」みたいな感じで

言われるような気もするんですけど
ただ やっぱり鉄舟先生がやったことを

一生懸命 こう伝えていきたいな
っていうふうに思っております。

確かに そうですよね。
ええ。

そこで 駿府で会ったっていうことで
もう8割方は あれで決まりですもんね。

そうですね。
一番槍は 鉄舟さんだというふうに

慶喜さんが言ってくれてますので
そこは もう声を大にして

言っていきたいかな
というふうに思います。

ええ そんな感じですかね。
今日は ご来店ありがとうございました。

(3人)ありがとうございました。
また お待ちしております。


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