100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第3回「“純粋経験”と“実在”」音楽を聴くという体験は単なる物質過程では…



出典:『100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第3回「“純粋経験”と“実在”」』の番組情報(EPGから引用)


100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第3回「“純粋経験”と“実在”」[解][字]


音楽を聴くという体験は単なる物質過程ではない。主体も客体も分離される以前のあるがままの「純粋経験」が何にも先立って存在する。そこにたち現れる「実在」とは何か?


詳細情報

番組内容

音楽を聴くという体験は音源から伝わる空気の振動を感覚器官がとらえるという物質過程ではなく、主体も客体も分離される以前のあるがままの経験が何にも先立って存在する。これを「純粋経験」という。この立場から世界を見つめると、私たちが「実在」とみなしてきたものは、単なる抽象的な物体ではなく、世界の根底でうごめている「一なるもの」の「働き」としてとらえ直されるという。第3回は西田幾多郎の根本概念に迫る。

出演者

【講師】批評家・随筆家・東京工業大学教授…若松英輔,【司会】伊集院光,安部みちこ,【朗読】長塚圭史,【語り】小口貴子



『100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第3回「“純粋経験”と“実在”」』のテキストマイニング結果(ワードクラウド&キーワード出現数ベスト20)

100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第3回「“純粋経験”と“実在
  1. 純粋経験
  2. 西田
  3. 言葉
  4. 実在
  5. 経験
  6. 本当
  7. 今日
  8. 研究
  9. 自分
  10. 世界
  11. 出会
  12. 哲学
  13. 判断
  14. 意味
  15. 若松
  16. 大事
  17. お願い
  18. 眼鏡
  19. 思想
  20. 状態


『100分de名著 西田幾多郎“善の研究” 第3回「“純粋経験”と“実在”」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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生きることの意味を根本から問うた
「善の研究」。

西田は その中で
「真の実在とは何か」について

徹底して 思索しました。

そして 主観と客観の対立を
乗り越えようと

「純粋経験」という概念を考案したのです。

西田哲学の根本である
「純粋経験」と「実在」について

読み解いてゆきます。

♬~
(テーマ音楽)

♬~

「100分de名著」 司会の…

今月は 西田幾多郎の
「善の研究」を取り上げています。

日本一難しいとも言われる哲学書ですが
伊集院さん ここまで いかがですか?

まあ ここまで理解できたとは
まあ 言い難いんですけども

少なくとも 僕 携帯の待ち受けに

前回終わりから 「主客合一」っていう
言葉を入れてみました。    ハハハハ…!

何か これは大事だっていうことは

どうやら 自分には
すごく こう響いてるみたいで。    はい。

そのままのペースで。
いきましょう。

今日もお願いします。
指南役の先生 ご紹介します。

批評家の若松英輔さんです。
若松さん よろしくお願いします。

よろしくお願いします。
よろしくお願いいたします。

第3回のテーマは
こちらの 「純粋経験」と「実在」なんです。

そもそもですね 「善の研究」のタイトル
最初は これだった。

「純粋経験と実在」だったんですね
若松さん。

そうなんですね。
この本の主題は やっぱり

この 実在とは何かということの方が
本当は大事なんです。

それが やっぱり本を出版する時に
いろんな事情があって

あの「善の研究」になっていくんです。

ちょっと その重大さを

ちょっと 西田自身の言葉で
確かめてみたいと思うんですけど。

「善の研究」の序 序文ですね。

…というふうに西田は言うわけなんです。
はい。

ちょっと まず今のとこではですね
この「純粋経験」という言葉と

「実在」という言葉が
言葉上は違うんだけども

一つなんだっていうことだけ
ちょっと頭の片隅に

置いておいて頂けるといいんじゃないかな
というふうに思います。

では早速 西田の言う「実在」とは
どのようなものなのかから ご覧下さい。

実在とは
現実そのままのものでなければならない。

若い時から 西田は 「真の実在」とは

日常の直感的な経験にあるはずだと
感じていました。

そして 「実在」をとらえるには

世界を 「ありのまま」に
感じなければならないと

繰り返し 述べています。

しかし それは容易ではありません。

価値観や世界観など さまざまなものが
覆い隠しているからです。

そのため 西田は 「主観」と「客観」という
対立が立ち上がる以前の

直接的な意識
純粋経験に注目しました。

例えば ここにある1個のりんごは

どのりんごとも違う 固有のりんごです。

しかし ひとたび 「これは
赤いりんごである」と認識すると

たちまち一般化され 概念化された
ありふれた りんごになってしまいます。

そうではなく
人間が認識し 言葉で表す前の

「りんごそのもの」を感じること。

その純粋経験で とらえたものこそが
「実在」であり

物を
「有らしめている働き」のことなのです。

こんな難しいことを
学生時代に ふと 金沢で考えてたの?

歩きながら。
すごい。 そこが まず すごいですね。

今の西田の哲学の原点というのはですね

やっぱり とても日常の生活に
根づいているわけなんですよね。

で そこを
私たちが言葉で語ろうとすると

途端に難しくなるっていう方が
本当かもしれないですね。

何となく 直感的に入った食堂が
めちゃくちゃ うまくて

それを ネットで調べると 評価サイトで
点数が何点と 説明が書いてあった時に

意外に低い時に 「あれ あんま
おいしくなかったんじゃねえか」って

よく分かんない知識 データ
何か 人の言うことと

何か そういうものに流されて
最初の 「うまっ!」が

もう どっか行くっていう現象
ちょっとありますよね。     そうですね。

…に似たことを少し言ってましたよね
その逆というか。

そのとおりです。
おっしゃるとおりだと思います。

ですんで その直感の方に行けって
西田は言うわけです。
はい。

私たちは どうしても
その数字で表された

量で表されたという方に
従っちゃうんですよね。
はい。

そうじゃない方を探ってみようというのが
西田の純粋経験であり

実在のありかだということになります。

じゃあ まず実在という言葉から
いっていきましょうか。

どういうものかといいますと…。

若松さん これ
もう少し詳しく 解説をお願いします。

ちょっと気をつけなきゃいけないのは
私たちは 現実って言っちゃうと

もう 自分が見たものというふうに
思ってしまいがちですけど

西田の言う現実っていうのは
そうじゃないんですね。

私たちの判断の入る前なんです。

ちょっと
りんごを例えにといいますか

りんごを前に ちょっと
お話ししてみたいと思います。

これは 何色?

「赤」って言っちゃうな。
「赤」ですよね。

でも りんごは赤っていう常識が
入ってんのかな。 まあ でも 赤。

赤色ですよね ええ。
そうですよね。

で 私たちは その 自分で口に出した
言葉の方に行っちゃうんです どうしても。

感じてる方ではなくて。

それは すごく分かるのは ラジオって
言わなきゃ存在しないわけですよ。

だから ここにあるもの
この りんごをね

「赤いりんごが ここにありましてね」って
言うんですけどね

言った途端に もう
この りんごのことじゃなくなるのは

すごく よく分かるんです。

あの似たようなものを みんなで
思い浮かべてるだけの話になったり。

やっぱり 言葉で説明すると
途端に難しくなる。
はい。

だけど 難しくないものは
とても素朴なものは 奥にあるんだと。

で 今 今日 もう1個
りんごを持ってきてみたんですけど。

これは何色だと?
ハッハッハッハ… これは難しいよ。

また 「赤」。
でも やっぱり「赤」ですよね。

そうなんですよね。
でも 明らかに違うわけなんですよね。

で 私たちは
この「赤」とかっていう時に

実はですね
この赤という色だけではなくて…

それは下手すれば 色ですらないというか。
もちろん そうなんです。

色っていうのは 今 便宜上
そう おっしゃってるだけで。

そうなんです そうなんです。

もっと何か 全てを感じてる。
そうなんです。

それが ここにある
「世界を有らしめている働き」と。

うわ~。
え~? 世界を…。

同じものと言っていいんですか?

同じものというよりも ここではですね

純粋経験を通じてのみ 実在を
認識できるんだという言い方の方が

正しいかもしれません。

下手すりゃ 実在は
俺が見ようが見まいが

存在を認めようが認めまいが
してるんですもんね。     そうなんです。

…してて
きっと あ 実在してるっていうことは

今 僕が純粋経験をした
ということですよね。   そうなんですね。

すごいところに入ってってるなぁ。
そうですね。

では もう一方の「純粋経験」について
詳しく読んでいきましょう。

いまだ判断が加わらず
主観と客観が合一している直接的な経験。

それが 純粋経験なのです。

ここで大事なのは やっぱり…

私たちは意外と 経験する時に

いろんなものを交えてる
ということですね。

いや~ ほんと そうです。
はい はい。

…ということに やっぱり気がつけ
ということなんですね。

これはもうね 本当に
もう いかんともし難いのは

例えば 日本語というのも
一つの眼鏡なんです 実は。

いい悪いではない 多分「言葉」というのも
もちろん眼鏡なわけですけども

あとは まあ自分の「価値観」 「人生観」
いろんな眼鏡があるんですよね。

ですんで 違う人が見れば
違うように見てるということを

私たちは もう一度
深く思い出していかないといけませんね。

だから 純粋経験 直接経験自体を

完全にとらえたり 止めたりすることは
無理だとしても

今の状態 そうではなくなっている
ということは分かるじゃないですか。

そうなんですよ。

で かなり近いとか
随分 遠ざかっちゃってるということは

こういうことの存在を知っていれば
できますよね。           そうなんです。

おととい 生まれて初めて
車いすラグビーの選手に会ったんですよ。

車いすラグビーの
僕は ルールが何にも分からない状態で

車いすと車いすが
ぶつかる音を聞かせてもらったんですよ。

その瞬間に 分かったことが
いっぱいあるんです。

ルールじゃなくて
それは今 言葉に出すと 怖いとか

とてつもない衝撃が起きてるとかのが
同時に あの音は分かるんですね。

これは 並大抵のスポーツじゃないとかが
一瞬で ど~んって理解できて

そのあと ルールを聞いて
ゲーム性は分かってくんですけど

多分 あの音の瞬間は…。
聞いた瞬間が。

かなり 純粋経験と直接経験に近くて

あの音そのものは
あの競技を かなり理解するんです。

もう本当に そのとおりだと思います。

いや その時 ほんとに
もう 意味なんか分かんない

これが どこで どう行われるか
分かんないが

この音に 俺は震えてるっていう
感じだけは分かったのかなという。

「それは 何だったんですか?」って
僕が お聞きした時点で

もう 言葉で返して下さいますよね。
はい。

そうなると
だんだん だんだん薄まっていく。
はい。

で 西田は
いや ちょっと それは違うかもねって。

説明しえるものに

出来事を小さくしてるんじゃないだろうか
っていうことなんです。

ああ~。      ああ~ 枠にはめる
入れるような感じですか?

そうなんですね。 言葉という枠なんです。
うん。

今 おっしゃって頂いた
ラグビーの バーンって音は

言葉になんか ならないですよね。 でも…

あるいは
科学の枠っていうのもありますね。

俺らは 映像の枠なのかもしれないし。

そういうことですよね。
そうなんです。

例えば 眼鏡を外していくっていうのは

最後まで
なかなか難しいわけなんですけども…

みんな いつもあるんです。
だけど そこをあまり意識しない。

自覚しないで
生きてるということなんですよね。

では こうした西田の哲学が

当時の社会に どんな影響を与えたのか
ご覧下さい。

「善の研究」が出版されたのは

明治から 大正へと
時代が移り変わろうとしていた頃。

急速な近代化は さまざまな ひずみを
生み出していました。

青年たちは 自己とは何か
いかに生きるべきかといった

哲学的苦悩に
さいなまれるようになります。

彼らのバイブルが
「善の研究」でした。

当時の流行作家 倉田百三は

この本との出会いを こう書いています。

「私は 何心なく 其の序文を読み始めた。

しばらくして 私の瞳は
活字の上に釘付けにされた。

見よ!」。

経験が個人に属するのでなく
経験があって個人というものが生まれる。

その経験とは 純粋経験と日常経験が
折り重なったものです。

そこに 「真の実在」を見いだした
西田の哲学は

西洋の人間中心の世界観を脱した哲学だと
新鮮に受け止められました。

そして 「不完全な個人」である私でも
経験次第で変化していけるのだと

当時の青年たちを
強く勇気づけるものとなったのです。

うわ~ 興味深いな。
何か その江戸時代が終わって

西洋から いろんな新しいものが
入ってくるのに

みんな ワクワクしたけど
あれ その独我論ですか。       はい。

あまり フィットしないぞっていう
悩みを持ってる人は

いっぱい いたわけですね。
そうなんですね。

やっぱり その 私が
どう生きるべきかっていうことでは

ちょっと 道が見えてこないっていう人は
いっぱい いたんだと思うんですよね。

倉田百三は 心に大変 大きな病を抱えて
その時に西田と出会って

今 お話があったような
経験をしていくわけなんですよね。

その時に やっぱり彼が考えてたのも
私は どう生きるべきかっていう問題

常に 「私が」というのが
問題だったわけですね。

そうじゃなくて 「経験」があって
お前が変わっていけるんだって

お前が どう変わるか
意思することが問題じゃなくて

もっと違う力が お前を変えていく

そういう人生の場面もあるんだよって
いうことですよね。

人生と真摯に向き合うが故にね

お前には 自分ってものがないのか
ということに悩んじゃう人は

今も いっぱい います。

本当に その自分というものが
単独で存在してるんであれば

それでも いいんですけど
そうじゃないですよね 私たち。

でも 独我論というのは
どこか そういうところがあるんですよね。

「私が」っていう
何か 孤立したような考え方がある。

そうじゃないところの広いところに
西田の言葉が

この 倉田百三っていう人物を
導いていった。

そこで やっぱり倉田百三が経験したのは
本当の意味での自由だと思うんですよ。

純粋経験をした時
人は 物そのものになり

真の意味で物を見
物を知ることができる。

そんな状態を
西田は 「知的直観」と名付けました。

それは
意識の極めて統一された状態のこと。

例えば 一生懸命に断崖をよじ登る時や

音楽家が 熟練した曲を演奏する時。

つまり 無心になっている時に
知的直観が働きます。

中でも 芸術は
「直観」への大きな入り口です。

♬~

モーツァルトは 曲を作る時
どれだけ長い曲であっても

立体的に その曲全体を頭の中に
イメージすることができたといいます。

このように 私と対象が一体となり
「実在」に触れる時

知的直観が開かれるのです。

民藝運動で知られる
思想家の 柳 宗悦は

西田の この哲学に
大きな影響を受けました。

本当に 「物」を見るためには
どうすべきか?

柳は じかに見なくてはならないと
言います。

その時 思想や嗜好 習慣は
それを妨げようとします。

裸の眼で世界と向き合う時
初めて 「美」があらわれる。

柳の思想は 西田の説く
「知的直観」の哲学と 深く通じています。

柳 宗悦という人は あの「民藝」
という言葉をつくった人ですね。

その民藝というのは 柳 宗悦が
「民藝」って名前を付けるまでは

いわゆる ガラクタだったわけなんです。
はあ~。

民藝というのは
名無き人が作ったものなんですけども

名無き人が作ったものを
じかに見ることができれば

我々は
そこに本当の美を見いだすことができる。

でも 我々は実は 誰が作ったかとか
これは いくらであるとか

前に 誰が持ってたんだとか
そういうことを見ているんだって。

そうじゃない 「ものそのものを見ろ」
ということを やっぱり 柳は言うわけ。

で そうすると感じるはずなんでしょうね。

これは何だろう 「欲しい」なのか
「便利だ」なのか分かんないけど

これには愛情がある みたいなことを
恐らく わっと感じるんでしょうね。

ただ その じかに見ることを
妨げるものとして

3つ挙げていましたね 柳は。

まず思想 そして嗜好 習慣とありますが

若松さん どう考えればいいですか?

まあ 「思想」というのは
確かに私たちを ある角度から

とてもよく
世界を見せてくれるんですけど

全てを
見せてくれるわけではないんですよね。

使い方を間違えると
少し大変なことになる。

で 「嗜好」というのは
簡単な言葉で言いますと 好き嫌い。

そうですね。
はい。

ですんで 私たちの嫌いな人が とても
大事なことを言うことはありますよね。

ええ。
うん。

ですんで
好き嫌いで ものを見ちゃうと

とても 私たちは
大きなものを見失う可能性がある。

で 「習慣」というのは
どういうことかというと

「この本は 読んだことがあるから
いいよ」っていうことですね。

でも 昨日の私と今日の私は違うから
今日 読んだら

もう 天地がひっくり返るようなことが
あるかもしれないわけですよね。

ですんで 柳は 今日 出会うことと
明日 出会うこと

昨日 出会ったことと
今日 出会うことは全く違うのだと。

だから習慣的に そういう意味で
繰り返してるっていうふうに

単に思って 生きるのは

美から 本当の経験から
遠ざかることになるよって。

ですんで 柳は こういうものを外して

裸の眼で 世界と向き合ってみよう
ということを言うわけですよね。

じかに見るっていう。

もう いわゆる純粋経験ですね じかに。
そういうことですね 全く同じこと。

一方の西田もですね 純粋経験を
妨げるものとして 3つ挙げています。

「判断」というのは
また ちょっと違う言葉 出てきましたね。

そうですね。 これも実は似ていて
今まで純粋経験というのは

時間が入らないということを
ちょっと 私たち見てきましたね。

何か こう 言葉が入る前だと。

ですんで 判断というか
大体 我々

何か ちょっと時間がかかって
いろんなものを判断してるわけですね。

時間の入る隙間がないような経験に
基づかなきゃ駄目だよということが一つ。

あと もう一つは
私たちが判断する時には…

そうじゃないものによって
世界と向き合っていくのが

とても大事だよということを
西田は言うわけなんですね。

いや~ 何か難しいけど
これらが入りがちであるということは

気にかけられる。
そうなんです。

自分が
今 間違いないと思ってることや

何か 「見たんだ!」って
思い込んでることの中に

これは入ってやしませんかということは
いつも考えようっていうとこまでは

多分 もう今日からできるかな。
はい。

でも 今日
実在と純粋経験を見てきましたけど

どちらも ふだんから あるんだよって
言ってもらったような感じ しますね。

もう… というか
当たり前にあるんだけど …が故に

まあ 見つけづらい
見えにくいっていう感じですね。

あと やっぱり私たちが
いつからか 日常っていうものの価値を

低いとこに
置いたのかもしれないですね。

非日常の方が価値が高くて
日常の方が価値が低いっていうことに

いつの間にか なったかもしれないって。

西田は そこを
ひっくり返そうとしてるのは

間違いないと思いますね。

何か ふだんの生活
変わりそうですね。
ねえ。

若松さん
今回も ありがとうございました。

ありがとうございました。
ありがとうございました。


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