ファミリーヒストリー「瀬古利彦~インド洋に向かった父 オリンピックの記憶~」父・勇さんは戦争中、米軍の潜水艦に…



出典:『ファミリーヒストリー「瀬古利彦~インド洋に向かった父 オリンピックの記憶~」』の番組情報(EPGから引用)


ファミリーヒストリー「瀬古利彦~インド洋に向かった父 オリンピックの記憶~」[解][字]


瀬古さんの父・勇さんは戦争中、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃にあった。今回、詳細な記録が見つかり、助かった経緯が明らかになる。瀬古さんは思わず、涙を流した。


詳細情報

番組内容

瀬古利彦さん63歳。現在、東京オリンピック・マラソン代表の選手強化のプロジェクトリーダーを務める。父・勇さんは、戦争中、海軍の一員として、インド洋・カーニコバル島に向かった。任務の途中、アメリカ軍の潜水艦による魚雷攻撃にあう。今回、詳細な記録が見つかり、父が助かった経緯が明らかになる。そして、瀬古さんの2度にわたるオリンピック出場。支えた家族の思いを知り、瀬古さんは、涙をこらえきれなかった。

出演者

【ゲスト】瀬古利彦,【司会】今田耕司,池田伸子,【語り】余貴美子



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ファミリーヒストリー「瀬古利彦~インド洋に向かった父 オリンピック
  1. 利彦
  2. 瀬古
  3. 昭和
  4. 智子
  5. 当時
  6. 昭彦
  7. 結婚
  8. 日本
  9. オリンピック
  10. カーニコバル島
  11. 実況
  12. 選手
  13. マラソン
  14. 家族
  15. 金メダル
  16. 瀬古家
  17. 中村
  18. 朝威丸
  19. 長男
  20. 海軍


『ファミリーヒストリー「瀬古利彦~インド洋に向かった父 オリンピックの記憶~」』の解析用ソース(見逃した方はネタバレ注意)


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(実況)「東京オリンピックへの第一歩」。

9月15日に開催された
マラソングランドチャンピオンシップ。

東京オリンピックの マラソン日本代表
2人を決めるこの一戦に

日本中の注目が集まりました。

(実況)「中村匠吾1着フィニッシュ。
オリンピック内定!」。

そして 日本のマラソン復活の
重責を担っているのが

瀬古利彦さん 63歳です。

こういう緊張感の中で
やれるっていうのは

ほんとにあの 選手にとっても
また指導者にとっても

ほんとに貴重な 僕は体験だと思います。

日本のマラソン界は
絶対に僕は強くなるなというふうに

僕は 今回で確信しました。

(実況)「今 瀬古がスパート!
瀬古がスパートしました!」。

瀬古さんは フルマラソンに15回出場し

10回も優勝した 伝説のランナーです。

首のあれが違う 傾き。

現在 マラソンや駅伝の解説の他
バラエティー番組にも出演。

その明るいキャラクターでも
おなじみです。

今回のゲストは
瀬古利彦さんです! どうぞ!

こんにちは~。
(拍手)

なんか 拍手で迎えてもらったんですけど。

そら そうですよ。
そんな何にも偉いことしてませんからね。

相当してらっしゃいます。

先日の代表選手レース。
これは盛り上がりましたねえ。 MGC。

そうです。
マラソングランドチャンピオンシップ。

メチャクチャいい試合でした。

一番最初に こう ブワーッ!
飛ばした選手が。       設楽選手。

設楽選手。
この選手も すごかったですね。

まあ 僕は そう「したら」って
言ったんですけどね。

今日は ちょっとあの…。
ほんとに言いました?

封印してもらっていいですか?
ダメですか。

♬~

瀬古利彦のふるさと
三重県北部に位置する桑名市。

いや 田舎だな おい。

市内には 多くの瀬古姓の家があります。

たくさんいる。
そうなんです。

瀬古っていえば
この辺ですよ。

地元 桑名の郷土史家…

伊勢地方では 古くから
細い道のことを「セコ」と呼んでいました。

そうなんだ。
あ そういうことなんだ。

細い道沿いに暮らしていた人たちが

「せこ」姓になったと
考えられるといいます。

どうなんかねえ。

名前が。
うん 名前は。

わ~ 俺んちの前だ。
現在 瀬古家は 鉄工所を営んでいます。

利彦の10歳上の兄
昭彦さんです。

知らんなあ。

もともとは農家だった瀬古家に
大正10年に生まれたのが 勇。

利彦の父です。

勇は 幼い頃から成績抜群で

運動神経も良かったため

地域でも目立つ存在でした。

そうなんだ。

勇の息子で利彦の兄・次彦さんと

勇の妹 定子の娘・めぐみさんです。

(取材者)足が速い?
うん。

(池田)お父様 すごい。
あ お父さんの話ね。

あ 似てらっしゃる。

勇は 泳ぎも得意でした。
そうなんだ。

夏になると 近所の川で
いつも泳いでいたといいます。

俺も泳いでたけど ここで。
あ そうなんですか。

長男の昭彦さんは 父から
その話を よく聞かされました。

次男だった勇は ゆくゆくは家を出て
別の仕事をするつもりでした。

ところが 4歳上の兄
昇が病弱だったため

体力のいる農作業が
できませんでした。

同じ きょうだいでも。
違うんですね。

そのため勇が 小学校を卒業すると
実家の農家を継ぐことになったのです。

勇が 二十歳になった昭和16年

太平洋戦争が勃発。

その翌年 勇にも召集令状が届きます。

勇の兵籍簿が
厚生労働省に残されていました。

陸軍ではなく
数少ない海軍からの召集でした。

瀬古家の近所に住む…

当時 勇が海軍に召集されたことが
話題になったといいます。

戦史に詳しい 白石博司さんです。

勇が海軍から召集された理由を
こう推察します。

出征の日に撮られた 勇の写真です。

勇を見送るため 多くの人が
家の前に駆けつけました。

海軍に入った勇は 看護兵になります。

昭和17年9月
広島県大竹市にあった海兵団で

2か月の新兵教育を受けました。

すごいなあ。

すごいですね。

(取材者)カッター訓練?
はい。

勇の所属した班は
カッターの競争で見事優勝します。

お~ おやじだ。
優勝したんだ。 へえ~。

看護兵としても 勇は
基礎を徹底的に学びました。

行われた試験では 同期196人中8番という
優秀な成績を収めました。

成績抜群 運動神経も良かった勇は
異例の早さで昇進していきます。

そして 勇が配属されたのが

海軍陸戦隊…

120名ほどの部隊でした。

海軍陸戦隊とは 海軍の中でも
主に陸上で戦う部隊のこと。

大変だ こりゃ。 ねえ。

第51防空隊の記録が 東京・市ヶ谷の
防衛研究所に残されていました。

あるんだ。
ねえ 資料が。

すごいですねえ。

この「カールニコバル」
というとこに おられたということが

書いてありますね。

この後 第51防空隊が向かうのは

インド洋に浮かぶ カーニコバル島。

日本から およそ4, 000km離れた島で
連合軍との戦いの最前線でした。

出発前 勇は 千葉県館山で
大砲を扱うための砲術訓練を受けます。

そこで 同期の衛生兵 辻 雅淑と
親しくなります。

仲良かった この人と。
しょっちゅう家に来られてました。

東大阪市に住む…

ああ よく うちに遊びに来てた 彼。

祖父・雅淑さんの遺品が残されていました。

あれ おばあちゃんだ。

(雅浩)「瀬古君家族 母・姉・妹と」て
書いてますんで。

館山に慰問行かれた時の
写真じゃないかなと思うんですね。

勇の妹・定子の娘
めぐみさんは

館山に行った時のことを
聞かされています。

そして 昭和18年10月

勇たち第51防空隊は インド洋
カーニコバル島に向かいます。

そこには 過酷な戦場が
待ち受けていました。

いかがでしょうか。
う~ん。

おやじ 優秀だったんだねえ。
すごかったですね~。

196人中8番。
8番ですよ。

私は1番になったこと
ありますけどね マラソンではね。

マラソンではね。 でも違いますよ。
勉強ですから。

僕 勉強 いつもビリでしたから。
あ そうなんですか。     そうなんですよ。

3か月で
異例の出世ということですからね。

何で あんな優秀だったんだろう。
そんなこと ひと言も言わなかったですよ。

昭和18年11月 勇たち第51防空隊は

インド洋・カーニコバル島に上陸します。

当時 人口1万7, 000ほどの
島でした。

この1年前

日本軍が初めて
島に上陸した時の映像です。

(アナウンサー)「瞬く間に島内鑑定を終わり

墨痕鮮やかに 大日本帝国海軍占領の
標識は 打ち立てられた。

またも はためく
大軍艦旗に銃剣をささげて

祖国に仕える占領の感激は
東インド洋完全制圧の喜びでもあった」。

実は カーニコバル島は
日本軍が占領した 最も西側の地点。

東南アジアで採掘された石油を
確保するため

連合軍からの攻撃を
防ぐための最前線でした。

ここに行きはったんや。

勇と共に
カーニコバル島に向かった
辻さんの遺品に

当時の写真が残されていました。

一緒に行ったんだ。
うん。

日本軍は島の至る所に砲台を建設し
連合軍の攻撃に備えました。

勇たちが まず直面したのは

マラリアなどで苦しむ
数多くの兵士たちの手当てでした。

衛生兵だもんな。

戦時中のカーニコバル島について研究する…

医薬品は すぐに底をつきました。

うわ~…。

昭和19年3月 カーニコバル島は
連合軍による本格的な空爆を受けます。

島は 負傷兵で あふれ返ります。

施設も薬もないカーニコバル島で

重傷の負傷兵を治療するのは
不可能でした。

そのため 別の島にある病院に
負傷兵を移送する計画が立てられます。

しかし このころ既に 連合軍が
周辺の制海権を握っていました。

そこで目指すことになったのは
インドネシア東部。

北寄りのフィリピン方面に向かうより
危険が少ないと判断されたのです。

えぇ!? 病人を乗せて
あそこまで行くんですか?

目的地は インドネシア・ビアク島でした。

一か八か。

勇が 負傷兵の移送を命じられました。

え~!?

昭和19年4月 勇たちは出発。

途中 経由地である
ボルネオ島 バリクパパンに到着します。

そこで 新たな運搬船に乗り換えます。

船の名は 朝威丸。

この写真は
同じ会社が所有していた同型の船です。

もともとは小型タンカーで
軍の航空機用の燃料を運んでいました。

バリクパパンを出発して
12日目の5月11日 正午過ぎ。

一隻のアメリカ軍の潜水艦に
見つかってしまいます。

アメリカ軍の潜水艦に詳しい…

これあの~ クロノロジー・オブ・
U.S.ネイビー・イン・ワールドウォーツーという…

朝威丸を狙ったのは
アメリカ軍の潜水艦 ラッシャー。

艦長が詳細な記録を残していました。

なんとですね…

発見されて1時間半後の午後2時21分。

朝威丸は ラッシャーから
魚雷攻撃を受けます。

朝威丸は なんとか 魚雷をかわします。

うわ~ 怖~。

その後も数回
ラッシャーから攻撃を受けました。

朝威丸は 右に左にと蛇行して
逃げ続けました。

そして 10時間が経過…。

午後10時36分。
やられた?

ラッシャーから
6回目の魚雷攻撃を受けます。

そりゃ逃げらんないよな。

(爆発音)
やっぱし。

ついに 魚雷が朝威丸に命中。

積んでいた燃料に引火し
炎上した朝威丸は

瞬く間に沈没してしまいました。

勇たちは 海へ投げ出されます。

船の破片にしがみつき 助けを待ちました。

海軍では 船から海に投げ出された場合
その場に浮いてとどまり

救助を待てと教えられていました。

しかし 7時間後の午前6時。

夜が明けても
救助の船は現れませんでした。

その時 勇の前方に
島影が浮かび上がります。

沈没地点の東の方向にあった
ブル島でした。

長男の昭彦さんが
その時の話を聞いています。

幼い時から 泳ぎが得意だった勇。

ブル島まで2km 何とか無事に泳ぎ切り
一命を取り留めたのです。

その後 勇は 部隊に再び合流し
そのまま終戦を迎えました。

あの よく まあ僕が何歳か
覚えてませんけど

小学校の低学年ですけど
よく おやじと布団で寝てて

お父さんは 運よくね 助かって
という話は 僕は聞いたことあって

おやじって やっぱり その 運もいいし

とにかく7時間 8時間も泳げるって
すごいじゃないですか。

そうですね うん。

やっぱり なんか スタミナがあるのかなと
思って 持って生まれた。

そういうのが 僕のマラソンのそういうのに
こう遺伝してんのかなって。

心身ともに すごいですよね。
あの面を乗り切ったという。

精神の強さというか そういうものは
僕には そこまでは 多分ないと思うけど

いや もう あの おやじ
そういうことは あんまり言わないので。

そうでしょうね。
今 ほんとに なんかこう

おやじって
すごかったんだなと思いますね うん。

昭和21年6月
九死に一生を得て復員した 瀬古 勇。

4年ぶりに ふるさと・桑名に戻ります。

実家には 母 姉 妹の他に

兄・昇と その妻・智子

生後3か月の昭彦の
計6人が暮らしていました。

勇は 帰国して初めて

兄が結婚し
子供がいることも知ります。

しかし もともと体が弱かった 兄・昇は

結婚して僅か1年で
結核に倒れていたのです。

そんな家族の状況に
勇は 覚悟を決めます。

「俺が 家族を支える」。

昭和25年8月
兄・昇は 息を引き取ります。

33歳という若さでした。

妻・智子は この時 26歳。

長男・昭彦は まだ4歳でした。

すると 母・ひのが 勇に言います。

勇は 母の提案を受け入れました。

昇が亡くなって 1年後の昭和26年

30歳の勇は 智子と結婚します。

後に 利彦の母となる智子。

智子の半生も 波乱に富んでいました。

智子は 大正13年 愛知県名古屋市で
繊維工場を営む 神田家に生まれました。

智子の20歳下の
妹・日出子さんです。

実家の繊維工場は
名古屋駅の すぐ近くにありました。

60人以上の従業員を雇い

メリヤスと呼ばれる
伸縮性のある生地を生産していました。

メリヤスは 靴下や下着の他
軍服などにも使われ

工場の経営は 順調でした。

孫の由美子さんは 生前の智子から
当時のことを聞いていました。

聞いたことないな。
ハハハハ…。

昭和12年 智子は 地元の…

愛知県有数の女学校として知られ

当時は
裁縫とスポーツに 力を入れていました。

昭和11年の ベルリンオリンピック

女子水泳200m平泳ぎで
金メダルを獲得した

あの前畑秀子の出身校です。

こちらが 我が校に残っております
学籍簿です。

こちらが
神田智子さんの学籍簿になります。

あとは ふるってないね。
ハハハ…。

このころ 智子の美貌が
評判になっていました。

昭和16年 女学校を卒業した智子は

旧国鉄の貨物駅・白鳥駅で
事務職として働き始めます。

ここで 一人の男性に出会いました。

その男性が 桑名から通っていた
瀬古 昇でした。

やがて 2人は親しくなります。

恋愛なんだね。

しかし 昭和20年3月12日。

名古屋は 大空襲に見舞われ
神田家の工場は 焼失してしまいます。

終戦後 神田家は 繊維工場を畳みます。

多額の借金があったため 土地を売り払い
借家暮らしになりました。

食べるものにも困っていた 智子。

そんな時 交際していた瀬古 昇から
結婚を申し込まれます。

終戦から4か月後 2人は結婚。

昇28歳 智子21歳の時でした。

瀬古家に入った智子は
すぐに 近所で評判になります。

結婚の翌年 長男・昭彦が生まれます。

しかし 4年後。

夫の昇が 結核のため
亡くなってしまいます。

智子は 幼い昭彦を連れ
実家の神田家に戻るつもりでした。

ところが 姑の ひのから懇願されます。

「弟の勇と一緒になってくれないか。
嫌なら お願いがある」。

そうか。

智子は 苦しい決断を迫られます。

当時 何より心配だったのが
長男・昭彦の将来のことでした。

昇が亡くなって1年後の 昭和26年

智子は 勇と再婚します。

まだ4歳の昭彦と共に
新生活の始まりでした。

僕は 自分が結婚するまで

全く おふくろからも 再婚なんてこと
聞いたことなかったです。

何で黙ってたのかなぁと思ってて 僕に。
そうですね。

こんな いい話なのに 何で僕に
こう言えなかったのかと思って。

僕 何で知ったかというと
結婚する時に 戸籍。

戸籍。 はいはいはい。
その時に なんか まあ見て。

そこで初めて?
そう。 昇さんっていう方が亡くなってて。

お父様も お母様も
なんかほんと 家のためとか

家族のためとか 子供のためとか。
まあ 時代が そうですよ。

やっぱり 瀬古家を潰したくないというね。
そうですね。

でも お父さんも決断しましたけど

お母さんも
そこで残るって決断しなかったら

瀬古さん また いないですよ。
そうですね。

お母さん もう帰ってたら。
ほんとだ。

そう考えると もうね
人生 変わっちゃいますからね。

昭和26年に結婚した 勇と智子。

4歳の昭彦と 家族3人での
新生活が始まります。

勇は 妻・智子と約束します。

昭彦に 寂しい思いはさせたくない。

本当の父親が死んだことは
黙っていよう。

ああ やっぱ そうなの?
4歳って分かんないかな?

同じ年 新たに 子供が誕生します。

名前を 次彦としました。

兄・昭彦さんが 本当の父親が死んだと
知ったのは 15歳の時でした。

昭和31年 瀬古家に
3番目の子供が誕生します。

それが 利彦です。

3人の息子のためにも 勇は 農業以外の
収入を得ようと 必死でした。

力を入れたのは
「カマス」と呼ばれる わら袋作り。

工事の土のうや 石炭入れなどに
使われました。

当時 勇には 大きな目標がありました。

それは 3人の息子たち全員を
大学に行かせることでした。

家に縛られることなく 好きな道に
進んでほしいと願っていました。

昭和34年 伊勢湾台風が襲います。

土のうに使う 大量のカマスの
注文が入ると 期待していました。

ところが 注文が全く入りません。

アジアから輸入された安くて丈夫な麻袋が
カマスに代わって 使われたのです。

「このままでは やっていけない」。

勇は 新たな仕事を始める覚悟を決めます。

先祖代々受け継いできた田畑を売り払い
小さな鉄工所を建てたのです。

時代は 高度経済成長期。

金属でできた 水道管やバルブの出っ張り
バリを削る仕事を請け負います。

鉄工所の経営は 軌道に乗っていきました。

そんな瀬古家の中でも 三男の利彦は
明るく活発な少年に育ちます。

小学生になった利彦は
足の速さが 学年トップで

そのスピードは 周囲が驚くほどでした。

中学生になると 野球部に入部。

エースで4番として 大活躍します。

ところが 中学3年のある日。

陸上部の顧問から頼まれます。

天才現るじゃないですか。

その後 四日市工業高校に進学した
利彦は 陸上部に入部。

すると 1年の夏の高校総体
800mで いきなり3位になりました。

その後も 800m 1, 500mで
全国1位に輝きます。

長男・昭彦 次男・次彦は 既に大学に進学。

残るは 利彦だけでした。

高校総体で優勝を飾った利彦には

関東の強豪大学から
次々と勧誘の声がかかります。

その中の一つ 利彦が入学したいと
考えたのは 早稲田大学でした。

父・勇も 喜びました。

「利彦が 早稲田に行ける」。

入学試験に臨んだ 利彦。

大学から勧誘されたこともあり
合格すると信じていました。

ところが まさかの不合格でした。

他の大学からの勧誘は
全て断っていたため

この先 どうすればいいのか
利彦は 途方に暮れます。

ほんとですよ これ。

ほんと 泣くよね。

(取材者)みんなが 泣いてました?
泣いてました。

すると 知り合いから
1年間のアメリカ留学を勧められます。

トレーニングをしながら
浪人生活を送るというものでした。

そんな 無理だよね。

しかし 高額の留学費用は 自費。

その時 父・勇が言います。
「俺が 何とかする」。

出た! 出た 勇さん。

昭和50年 利彦は

南カリフォルニア大学で
トレーニングしながら

早稲田大学合格を目指して
浪人生活を送ります。

しかし…。

そのストレスのせいで
10キロ近く太ってしまいます。

瀬古さん…。
うん 太ったでしょ?

すごい。
そう。

当時 母・智子が
利彦に送った手紙が残されていました。

「今日まで
三回 夢を見ました。

衣類・食べ物に
困っているんではないか。

英語が分からなく
どうしているんだろうとか

毎日 そんな心配を
していました」。

「元気で頑張りなさいよ。 母より」。

そして翌年 利彦は

念願の早稲田大学に合格します。

入学直前の3月 千葉・館山で行われた
競走部の合宿に参加します。

ここで ある人物と出会いました。

昭和11年のベルリン・オリンピック
陸上 1, 500m代表で

競走部の監督に就任直前だった
中村 清でした。

う~ん! 瀬古さん。

あっ 思い出しましたか? いろいろ。
泣きましたね。

いやいや おふくろの手紙をね…。
ああ…。

ええ。 ちょっと出てこないや…
ハンカチが。

あの手紙…。
あんま泣かないんですけどね 僕も。

僕も いっぱい手紙 出しましたけど。
出しましたか。

もう おふくろの手紙 見るたんびに
アメリカで泣いてました。
うわ~。

もう諦めて 日本に戻るっていう選択は
なかったんですか?

だけど もう約束しちゃったんで
もう みんなと。

2月までは 試験までは
向こうで 英語 勉強しようと。
う~ん。

子供だから 誰がお金 出してるかって

あまり分かんないじゃないですか。
細かいことはね。

多分… ねえ 大学とか
みんなで こう OB会とか

集めてくれて出したんだろうな
みたいな感じだったんだけど。

お父さんが借金して…。
うん。 後で聞いたら やっぱり

借金してというのは聞いたことあります。
俺に任しとけよ。

あの アメリカのね 私立大学ってね
もう日本と違って

ほんとに3倍 4倍ぐらい
授業料が高いんです。

そうですよね。
なので 大変だったと思います。

昭和51年
早稲田大学に入学を果たした瀬古利彦。

この年から 競走部を
指導することになった中村 清は

利彦の走りを一目見て
その素質を見抜きました。

当時 競走部のマネージャーだった
村尾愼悦さんです。

中村は
利彦たち学生を自宅に住まわせ

徹底的に 練習漬けの日々を送らせます。

すごい 食事管理も。

多い日には 1日40km以上
走りこむこともありました。

1日40km。

13分30だと…

中村は 精神面を鍛えることにも
力を入れます。

目が怖いもんなあ。

中村の指導のもと 利彦は
みるみる力をつけていきました。

(実況)
「ついに瀬古が 先頭に躍り出ました」。

そして 昭和53年

利彦が 大学3年生の時に出場した
福岡国際マラソン。

(実況)「日本のマラソンランナーに
新しいエース誕生です」。

3回目のマラソンで
見事 初優勝を飾りました。

そして 昭和54年12月
モスクワ・オリンピックの代表選考レース。

モスクワ・オリンピック。
知ってますか?

優勝候補の宗兄弟と
激しいデッドヒートを繰り広げました。

そう この時 もう
負けると思いました。

(実況)「今 瀬古がスパート!
瀬古がスパートしました!

あとゴールまでは 200メーターに変わりました。
2連覇を目指します 早稲田の瀬古!

瀬古が今 1着でゴールイン!
2時間10分35秒5」。

宗兄弟と共に
モスクワ・オリンピック代表に内定し

周囲は利彦に 金メダルを期待します。

宗 茂さんと 猛さんです。

うわ~。
兄弟。

かわいいね。

しかし 信じられない知らせが届きます。

オリンピック開催国のソ連が
アフガニスタンに侵攻。

日本を含め およそ60か国が
参加を ボイコットすることになったのです。

今だったら ありえないよ
こんなの。

この時 代表候補選手たちは
必死に出場を訴えました。

この映像 覚えてんですよ 俺。 このニュース。
みんな泣いてましたもんねえ。

当時 利彦は一切 声をあげませんでした。

今年6月 JOC会長に就任した
柔道の山下泰裕さんは

当時のことを覚えています。

もちろん忘れないでしょう。
うん。

金メダル確実といわれていた
利彦でしたが

4年後のロサンゼルスに
懸けるしかありませんでした。

ロサンゼルスは
猛暑が予想されていたため

利彦は 厳しい暑さの中
トレーニングを重ねていました。

ところが この調整法が裏目に出ます。

(取材者)利彦さんから?
うん。

その時 父・勇は
利彦に言い聞かせます。

「絶対に死ぬなよ」。

父・勇には あの円谷幸吉の悲劇が
脳裏をよぎっていました。

そして 迎えた
ロサンゼルス・オリンピック。

(実況)「瀬古がちょっと遅れましたか」。
(解説)「ちょっと遅れましたね」。

(実況)「瀬古が遅れ始めました。

意外な展開になりました。
どうした? 瀬古利彦」。

この時 宗兄弟の弟・猛は

何とかトップ集団に
食らいついていました。

しかし 兄・茂は
既に 後方に遅れていました。

日本人トップは 宗 猛の4位。

利彦は 14位に終わります。

オリンピックから3か月後
利彦は結婚します。

相手は 3歳下の美恵さんでした。

しかし その半年後

恩師・中村 清が
71歳で急死してしまいました。

利彦は 中村のためにも
前回の無念を晴らそうと

ソウル・オリンピックを目指しました。

出場した大会で
次々と優勝を飾ります。

おやじと
おふくろ。

そして 昭和63年

最後のマラソンと決めて臨んだ

ソウル・オリンピック。

利彦は 32歳になっていました。

結果は 9位。

それでも やりきった思いで
いっぱいでした。

1か月ぶりに帰国した利彦。

妻・美恵さんは
長男・昴くんと手作りした金メダルを

利彦の首にかけました。

「とっちゃん ごくろうさま!

本当に心から
勇気と夢と愛をありがとう!」。

ありがとう。
ありがとう。

昭和63年 利彦は
フルマラソン 15戦10勝という記録を残し

32歳で引退しました。

いかがでしたか?
また泣きました。

人前で泣くのは
あんまないんですけどね。

あれは きますね でも。 あの金メダルは。
あれは すごいねえ。

僕 走ってないのに泣きそうですよ。
いや~ ほんとです。

もう頑張ってきて
よかったなと思いました。

いや~ 最高ですね あれは。
うん。

やっぱり家族はね 大事だね。
う~ん。

やっぱり おやじも家族 大事にしてた。
その おばあちゃんも大事にしてた。

おふくろも大事にしてた。
それが 僕に伝わってますよね。
う~ん。

でも ロスの時は
もう絶対に取ってやるっていう。

当時はね まだ力も衰えてなかったので
ほんとに取れる自信あったんです。

だけどね モスクワ 駄目だったので

8年間 日本に
オリンピックなかったわけですよ。

8年分のプレッシャー。 マスコミの
プレッシャーとか もう いろんな人…。

日本… まあ
日本国民の期待とか 8年間の。

それが もう「私だ! 山下だ!」って
もう一気に かかってきちゃった。

だから もう その
朝起きてから 夜寝るまで

「頑張れ~! 頑張れ! 金メダルだ!」。

これはね たまったもんじゃないですよ。
…もんじゃない。

今は そういう… 今 こうやって
声をあげて頂けるんで

今は ちょっと期待もしつつ

でも あんま プレッシャーになっちゃうよって
ちょっと世の中も なんか… ねえ。

ちょっと その気遣いありますけども
この当時は もう…。      なかった。

国を しょっちゃってる…。
そうなんです。

当時 まだ そんな時代でした。
なので 負けたらどうしようっていうね。

負けたらどうしよう というのが
ず~っと頭の中にあるの。
なるほど。

血尿 出た時っていうのは その…
その時に 「ああ~」ってなったんですか?

夜の7時ごろ練習してて
で 終わったあと ブワッと血が出てきて。

「うわぁ! これは終わったな」と
思いましたね。
はあ~。

この間もね 選手たちに
お前らな

にっちもさっちも行かなくなった時に…
ね? それ困るから

もう その前に 僕らに言ってこいと。 ね?

そんなに ため込んじゃいけない。

ため込んだら 絶対
俺みたいになっちゃうから。
なるほど。

現役引退後 瀬古さんは

所属していた実業団
エスビー食品の監督になります。

世界に通用するマラソン選手を
育てることを目指しました。

しかし 平成2年8月 悲劇が襲います。

8日間の合宿を終え

先に空港に向かう選手たちの車を
瀬古さんは見送ります。

すると 間もなく
宿に電話がかかってきました。

救急隊員からでした。

当時 合宿の世話役をしていた…

その日は雨。

選手たちが乗ったワゴン車がスリップし

対向車線を走っていたトラックと
正面衝突したのです。

選手3人と トレーナー そして
トラックの運転手が亡くなりました。

瀬古さんは 信じられない思いで
遺体と対面します。

亡くなった選手の一人
谷口伴之さんは 早稲田の後輩で

この年 アジア大会の
マラソン日本代表に選ばれた有望選手でした。

谷口さんは 結婚して1年半
生後4か月の子供がいました。

瀬古さんは責任を取って監督を辞任し
陸上界からも身を引く覚悟でした。

…いう意志の方が強かったですね。

そんな時 亡くなった谷口さんの父
清さんから言葉をかけられます。

「瀬古さん 辞めちゃいけない。
息子の分まで続けてほしい」。

その後 瀬古さんは 指導者として
日本の陸上界を けん引していきます。

瀬古さんの実家。

父・勇さんが
瀬古さんのトロフィーを飾るため

居間の壁に 自分で棚を作りました。

平成4年 父・勇さんは

71歳で亡くなります。

母・智子さんは 去年の12月

94歳で亡くなりました。

2人は 息子の活躍を見届けて
波乱の人生を閉じました。

現在 瀬古さんは

東京オリンピックの代表選手を強化する
プロジェクトリーダーを任されています。

金メダル。
ねっ。

責任が重い この大役を
瀬古さんは 快く引き受けました。

来年の東京オリンピックまで
全力で 代表選手を支える覚悟です。

いいこと言うね 山下は。

おはようございま~す!
どうも ありがとう。

元気。
雨降った。

瀬古利彦さんの「ファミリーヒストリー」。

苦難を乗り越え
目標に向かって生きた

家族の歳月がありました。

まあ いいことも
いっぱいありましたけども

やっぱり つらいことも
たくさんありました。

日本のマラソンを やっぱり強くしなきゃ
いけないと。
そうですね。


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